『昨日の緊急速報でお伝えしましたとおり、アンティオキアがクルタナに宣戦布告をしました。六年前の大戦の復讐だと言っており、ワールドエンドの領有権は我々にあると主張しています。アンティオキアの戦闘機や爆撃機が、クルタナの領空を飛行している姿も確認されています。尚、政府は――』
 古びたラジオが、黴の生えたパンみたいな陰気臭いニュースを吐き出している。眉を顰め、辟易しながら、アレックスはラジオのスイッチを切った。まったく、もう少し明るい話題はないのだろうか。昨日からずっと、テレビもラジオもドラマの再放送みたいに、延々と同じ内容ばかり喋っているのだ。溜息が自然に漏れる。空気に嫌われた溜息は、しばらくの間、地面でおとなしくしていた。
「辛気臭いツラしやがって。空を飛べるんだぞ? もっと喜べよ」
 第一格納庫の脇に積まれているコンテナの上に座っているアッシュが、スモークの煙を吐き出し、ラジオと睨み合いをしているアレックスを見下ろした。宙を漂流している白い煙は、ドーナツみたいな形に姿を変えた。
「……素直に喜べないよ。こんな世界情勢なのに、偵察飛行なんて危険だと思わないか? 下手に刺激しないほうがいいと思うんだ」
 口に出してからノワリーの判断を否定してしまったことに気づき、アレックスは反省した。ノワリーの下した判断はいつも正しく、間違ったことは一度もない。彼がいてくれるからこそ、ヴァルキリーのメンバーは安心して空を飛べるのだ。
「こんな状況だからだ。隊長の判断は正しいぜ。アンティオキアが怖いんなら、部屋に籠って震えてな」
 毛布を被り、小刻みに震えている自分の姿を想像してしまい、アレックスは思わず吹き出した。
「お前と一緒に飛べるんだ。怖くなんかないよ」
「ファック。気持ち悪いこと言うんじゃねぇよ」
 煙と一緒に吐き捨てた言葉とは裏腹に、アッシュの口元は綻んでいた。格納庫の奥深くから鳴り響いている音が止み、シャッターの下からリゲルが這い出て来た。リゲルの姿を見るのは、随分久し振りのような気がする。そういえば、数日前から格納庫に立て籠っていたのを思い出した。
 頑丈な溶接用マスクを脱ぎ捨てたリゲルが、笑いながらこっちに歩いて来た。彼は再会の挨拶もなしに、軍手を嵌めた手を突き出した。手相でも見てほしいのか。いや、違う。掌の真ん中に、消しゴムと同じぐらいの大きさの端末が載っていた。
「超小型高性能無線機、名付けてタラリアさ。独特の周波数を持っていて、誰にも傍受されないから、互いに秘密の会話ができるんだぜ。お前らのために作ったんだ。ありがた〜く受け取れよ」
「数日間も姿を見せないと思っていたら……これを作ってたんだ。機体の整備は大丈夫なのか?」
「大丈夫だって。天才メカニック、リゲル様を信じろよ」
 一瞬、本当なのかと疑ったが、最終的にはリゲルを信じることにした。長年の付き合いだし、リゲルは自らの仕事を誇りに思っていることは把握している。手抜きなんて絶対にしない。アッシュとアレックスは、神々の伝令役が履いているサンダルの名前の無線機を受け取った。シルバーのボディに羽の生えたサンダルが刻まれている。リゲルに使い方を伝授してもらっていると、一人の少女が滑走路を横断してくるのが見えた。太陽に愛された金色の髪。ソエル・ステュアートだ。
「おはようございます」ソエルは礼儀正しく丁寧な挨拶をした。
「おはよう」
「ウッス」
「それ、何ですか? 消しゴムですか?」
 タラリアに気づいたソエルが、アレックスの肩越しに背伸びをした。隠せ。リゲルがジェスチャーを送る。必死の形相と、懸命なジェスチャーだ。きっと、エリオット隊長に気づかれてはいけない代物なんだろう。
 ソエルとノワリーは、恋人みたいに仲が良いとパイロットたちが噂しているのを聞いたことがある。だから、リゲルはソエルがノワリーに密告するのを恐れているのだ。まさにアッシュには聞き捨てならない噂である。リゲルが怒られるのも可哀想だ。二人は指示に従い、タラリアをポケットに押し込んだ。
「お前は非番なんだろ? 何しにきたんだよ」
 アッシュは無愛想だ。本当は嬉しいくせにとアレックスが小声でからかうと、殺意のこもった剃刀のように鋭い左フックが飛んできた。右にロール。アレックスは紙一重で避けることに成功した。
「お二人が無事に飛び立つのを見に来たんです。アンティオキアが宣戦布告したのに、偵察飛行なんて危険すぎます。心配になって――」
 第一格納庫から整備士たちが出て来て、戦闘機を引き出すから場所を移動してくれと注意された。これから、麗しい戦闘機がお披露目されるのだ。四人は場所を移動した。シャッターが全開になる。さあ、ファッションショーの始まりだ。
 F35Aライトニングと、F15ストライクイーグルのモデルが登場した。ジェイドグリーンとミッドナイトブルーの衣装を身に纏い、尾翼を振りながらモデル歩きで進んでいく。名前はグングニルとメイデンリーフ。アッシュとアレックスの愛機だ。
「心配しすぎだ。誰かさんみたいに、眉間の皺が増えちまうぜ」
 ソエルの頭を優しく叩いたアッシュは、滑走路で待機しているグングニルのところに歩いて行った。ソエルの表情は曇ったままだった。降水確率70パーセントといったところか。雨が降る一歩手前といった感じだ。雨を阻止しないといけない。ソエルの側へ行くと、彼女はアレックスを見上げた。
「ソエル。俺たちは大丈夫だからさ。そんな顔しないでよ」
「……でも、凄く嫌な予感がするんです」
「嫌な予感なんて、滅多に当たらないよ」
「今日が、滅多に当たる日かもしれません」
「アッシュが心配なんだね?」
「……はい」
「俺がアッシュを守るよ。約束する。だから、安心してくれ」
 彼女の不安が晴れますようにと祈りを込め、アレックスは華奢なソエルの肩を叩いた。気紛れな神様は、アレックスの優しい祈りを聞いてくれた。ソエルの顔が太陽の輝きを纏う。紫外線を含まない無害な光で、純粋で無邪気な笑顔と、無垢な光が眩しかった。
 アッシュとアレックスはコクピットに乗り込んだ。機器を視認。オールグリーン、異常なし。燃料とマナもフルだ。さすがは精鋭チーム専属のメカニックチーム。完璧すぎて言葉が出ない。
 フル・スロットル。
 上昇していく速度に合わせ、エレベータ・アップ。
 機体が重力の楔を引き千切る。
 車輪を格納。
 ソエルとリゲル、整備士たちに見送られ、グングニルとメイデンリーフは大空に舞い上がった。


 いつ、どこで敵機と遭遇しても瞬時に対応できるように、グングニルとメイデンリーフはコンバットスプレッドを形成した。グングニルが前を飛び、メイデンリーフが斜め後ろを平行に飛ぶ。二人の間に言葉はいらない。呼吸よりも自然に、互いが取る位置を感じ取れるからだ。
 ノワリーから指示された任務は、クルタナの領空を巡回することだった。いつもと同じコース。これで何回目だろうか。しかし油断は禁物だ。アッシュとアレックスは、全神経を視覚に集中し、周囲の警戒を続けた。
『アンティオキアの野郎、いったい何を考えてやがるんだ? ワケわかんねぇぜ』
「だよな。両国は休戦協定を結んだはずなのに」
 突然、不快なノイズが二人の密談に乱入してきた。故障ではないと思う。第三者が無線を傍受し、強引に割り込もうとしているのだ。ノイズが消える。敵か味方か。招かれざる客の声を待った。
『君たち――クルタナ空軍の、チームヴァルキリーのパイロットだね?』
 乱入してきたのは、年若い少年の声だった。抑揚のない淡々とした口調だ。答えたほうがいいだろうか。質問には答えるのが最低限のマナーだ。アレックスは返事を返しておくことにした。
「そうだ。君は――誰だ?」
『アンティオキア空軍のパイロット』
『はぁ? テメェ、どうやってオレたちの無線の周波数を知りやがったんだ? それに、ここはクルタナの領空だぞ? ファック! さっさとお家に帰りなクソ野郎!』
 アッシュの毒舌が青空に炸裂した。大抵の人間ならば、震えながら回れ右をして逃げるのに、少年は一ミリも恐れていないようで、次に聞こえてきた少年の声は、卵の白身のように淡白だった。
『アンティオキアが世界樹を手に入れるためには、ジェネシスと――ジェネシスの血を引く君たちの協力が必要不可欠なんだ。僕と一緒に来てもらうよ』
 少年の言葉を耳にした瞬間、アレックスの背筋は凍りついた。アッシュがジェネシスであり、アレックスがジェネシスとヒトの遺伝子を持っていることは、本人とエレノアと、ごく一部の人間しか知らない機密情報のはずだ。
 それなのにどうして、見ず知らずの少年が国家機密に近い情報を知っているのだろうか。聖者を売り渡したユダのように、銀貨に目が眩んだ何者かが漏洩したのか。詮索は後にしよう。彼の招待状を断るのが先だ。
「従う気はないよ。おとなしく、自国に帰るんだ」
『それとも、クルタナの捕虜になるか?』
『――そう、残念だな』無線の声が僅かにくぐもる。溜息を吐いたのだろう。『じゃあ、力ずくでいくよ』
 レーダーが悲鳴を上げた。三機目のシルエットが画面に浮かび上がる。グングニルとメイデンリーフの背後に、恐らく敵機と思われる戦闘機が浮遊していたのだ。不意を突いたような現れ方だった。雲の中に潜んでいたのか。真っ白なF16ファイティングファルコン。ソエルの愛機であるアルヴィトと瓜二つだった。
 オレンジ色の火花を散らし、機関砲が飛来した。
 左右に分かれてロール。
 回避成功。
 問答無用というわけか。
『アレックス。フォーメーション・ロザリオだ。Gはアップ、Mはダウン。いいな?』
「了解」
 こちらの無線は敵に傍受されていると判断したアッシュが、秘密の暗号で指示してきた。フォーメーション・ロザリオとは、クロス・ターンのことだ。Mはメイデンリーフ、Gはグングニルを指している。
 クロス・ターンとは、後方から敵機が接近して来た場合に用いられる機動で、二機が同時に方向転換する。交差部分で接触しないように、互いに高度を調整しなければいけないのだ。
 エレベータ・ダウン。
 メイデンリーフは高度を下げる。
 エレベータ・アップ。
 先陣を飛ぶグングニルも高度を上げた。
『行くぜ!』
「ああ!」
 アッシュの合図で、グングニルとメイデンリーフは同時に方向転換した。
 メイデンリーフは右へ、グングニルは左に鋭くターンする。
 これなら互いの死角をカバーできるのだ。
 ファルコンは二機の突然のクロスターンに気づかず、オーバーシュートした。
 ヴァルネラビリティコーンが丸出しだ。
 速度を上げ、メイデンリーフは敵のリーサルコーンに突っ込んだ。
 ファイア。
 メイデンリーフの20mm機関砲が、敵機の尾翼を粉砕した。
 手加減してあげたんだ。感謝しなよ。
 それにしても、おかしい。
 まるで、わざと落とし穴に引っ掛かったような感じだった。
 少年は本気を出していない。
 まさか、俺たちと接触するのが目的だったのか?
『なかなかやるじゃないか』無線が再び傍受された。彼の声は僅かに昂っていた。『感心したよ』
「これ以上攻撃をしたくない。アンティオキアに戻るんだ」
『戻らない。言ったよね? 君たちの協力が必要なんだ』
『しねぇって言ってんだろうが! ストーカー野郎!』
『……我儘な人たちだね。仕方がないか』
 ファルコンが右の翼を振った。
 閃光が地上を走り、天に向かって伸びてきた。
 狙いはグングニルだ。
 ソエルと交わした約束が、アレックスの両手を動かした。
 フル・スロットル。
 上昇。
 メイデンリーフは、グングニルの前へ躍り出た。
 被弾。
 閃光がメイデンリーフの主翼を貫いた。
 主翼に埋め込まれた燃料タンクが爆発した。
 傾く機体。失速。
 メイデンリーフは眼下に広がる森に墜落し、一回転したのち、横倒しになった。
 左の主翼が真っ二つに折れ、キャノピィが粉々に砕け散る。
『アレックス! テメェ! 何しやがった!』
『地上からの対空砲火だよ。無数の砲身が君を狙っているし、墜ちた彼は僕たちの手中にある。さあ、おとなしく来てもらうよ』
『ファック! アレックス! 返事をしろ!』
 頃合いを見計らったかのように、破損したメイデンリーフの側に、暗い色合いの軍用車が停車した。ドアが開き、軍用車と同じ色に染まった迷彩服を着た兵士たちが次々と出て来た。まるで、お菓子を見つけた蟻みたいだ。兵士たちがメイデンリーフに群がった。混濁した意識の中、アレックスは自分がコクピットから引き摺り出されるのを認識した。
 アッシュの慟哭が、耳の奥に残響する。
 耳が痛くなるようなハウリングだ。
 引き裂かれるような痛みとともに、アレックスの意識は沈んでいった。


 グングニルとメイデンリーフは、青空の遥か彼方に吸い込まれていった。
 空の眩しさに両目を細めながら、ソエルはいつまでも上空を仰いでいた。心配で胸が張り裂けそうだ。二人が帰還するまで待ち続けていたかったが、整備士たちの邪魔になるかもしれないし、何らかのトラブルに巻き込まれた飛行機が緊急着陸してくるかもしれない。未練を残しながら、ソエルは滑走路から退散した。
 無限の宇宙を周回する人工衛星のように、ソエルはユグドラシル基地を歩き回った。傍から見れば、不審者に間違われるだろう。メインゲート越しに、基地を覗き込んでいる人影を見つけた。本物の不審者だろうか。それとも、ダイナマイトを身体に巻き付けたテロリストだろうか。ソエルは身を守る武器を持っていない。どうするか迷ったが、ノワリーに報告しに行くのがベストな選択だろう。
「すみません」踵を返そうとしたソエルの背中に声がぶつかった。不審者に発見されたのだ。「尋ねたいことがあるんですけど――」
 声を掛けられたからには、受付嬢みたいに愛想のいい笑顔を浮かべ、親切丁寧に応対するしかない。猜疑心と警戒心を笑顔で誤魔化し、ソエルはゲートの前に向かった。メッシュキャップを目深に被り、サングラスで両目を隠した男性がソエルを待っていた。爆弾の起爆スイッチを持っていないことを祈ろう。
「どんなご用件ですか?」
「大した用じゃないんだけど……ユグドラシル基地に、フォーマルハウトっていう名前の整備士がいるって聞いたんだ。知ってるかな」
「リゲルさんのことだと思いますけど――」珍しい名字だから覚えている。思い当たる人物は一人しかいない。リゲルの名前に男性が反応した。「お知り合いですか?」
「まぁ……そんなところ。彼に会うことはできるかい? 自分で言うのもなんだけど、僕は不審者でもテロリストでもないよ」
 恐ろしい凶器を持っていないことを証明するように、男性が両手を上げた。柔らかな口調に、穏やかな物腰だ。信じても大丈夫だろう。念には念を。ソエルは守衛にボディチェックを依頼した。チェックはスムーズに終わった。銃も爆弾も、ロケットランチャーも持っていないようだ。
 入場記録に名前を書いた男性が、メインゲートを通って入って来た。サングラスの内側の視線は、基地の敷地を彷徨っている。リゲルを捜しているのだろう。不審者じゃないと証明されたのだ。丁寧に応対しないといけない。
「よかったら、一緒に捜しますよ」
「いいのか? 見たところ、君は飛行士さんみたいだけど……」
「今日は、非番で暇なんです」
「じゃあ、お願いしようかな」
 ソエルの厚意を受け取り、サングラスを外した男性が微笑んだ。レンズの下から灰色の双眸が現れた。曇り空のような色なのに、見ていても気分が沈まない魔法の色だ。整った顔に残る火傷の跡が痛々しい。二十代前半で、ノワリーと同い年か、一つか二つ年下だと思う。背中にナンバーがプリントされた黒のジャケットに白いシャツ、インディゴブルーのジーンズという服装だ。
 リゲル・フォーマルハウトは整備士だ。整備士が好む場所といえば、格納庫しか思いつかない。第一格納庫の前へ向かう。シャッターは開いている。青年を外で待たせ、ソエルは中を覗き込んだ。ミッション発動。青年を若きメカニックの所に案内せよ。なんだかスパイになった気分だ。
 天窓から差し込む陽光の下に、メアリィが佇んでいた。有名な画家が描いた絵画のように綺麗な姿で、額縁から逃げ出してきたんじゃないかと錯覚してしまった。リゲルを発見した。台車の上で大の字に伸びていて、一ミリも動かない。死んではいないだろう。恐らく寝ているのだと思う。
「あら、ソエルじゃない」メアリィがソエルに気づいた。「どうしたの? アッシュたちなら、まだ帰って来てないわよ」
「リゲルさんにお客様なんですけど――起きてます?」
 メアリィがリゲルの側に行き、プリンを器に盛りつけるような優しい力加減で、彼の肩を揺すった。数分後、豪快に欠伸をしたリゲルが起き上がる。気だるそうに銀髪を掻きながら、リゲルが振り向いた。寝癖なのか、それとも元からそんな髪質なのか、リゲルの銀色の髪の毛は、静電気に襲われた時のように飛び跳ねていた。
「……俺様の眠りを邪魔するなんて、いい度胸してるじゃねぇか。どこの馬鹿野郎だ?」
 ソエルは手招きをして、格納庫の外で出番を待っている青年を呼んだ。心の準備を終えた青年が、格納庫に足を踏み入れる。彼の右手が上昇し、目深に被っていたメッシュキャップが頭から離脱した。
 リゲルと同じ色の髪が、空気に触れて揺らめいた。リゲルの面に残留していた眠気が一気に蒸発し、代わりに驚愕の色が表に出た。リゲルの顔は真っ青だ。現世に蘇った死者と遭遇したように。
「あ……兄……貴……?」
「――そうだ。僕だ、シェダルだ。元気だったか?」
 神聖な教会の回廊を歩くような足取りで、シェダルと名乗った青年が、一歩ずつリゲルに近づいて行き、リゲルの正面に到着した。リゲルは顔を伏せていた。リゲルが顔を上げた。感動の再会には相応しくない、燃え盛る炎のような激情に満ちた顔だった。
「……元気? じゃねぇよ! 大馬鹿野郎!」
 リゲルが大きく前に踏み込んだ。刹那、真っ直ぐに伸びた右ストレートが、シェダルの頬を直撃した。シェダルの身体が傾く。コンテナと衝突する寸前、彼は両足を叱咤して、地面の上に留まった。唇に裂傷が刻まれ、そこから赤い血が滲んでいる。
 間髪入れずにリゲルの拳が振り上げられた。振り上げられた拳は虚空を切り、切れたゴムみたいに垂れ下がった。小刻みに拳が震えている。感情が揺れているのだ。
「……生きてたんならよ、どうして会いに来てくれなかったんだよ……! ずっと……ずっと……待ってたんだぞ!」
 絞り出された声は、時計の振子のように揺れ動き、胸が締めつけられるような嗚咽が混じっていた。血を滲ませたままのシェダルが距離を縮め、手を伸ばした。リゲルの頭の上に着地した手が、銀色の髪を慈しむように撫でていく。嗚咽が更に酷くなった。ボリュームのツマミが故障してしまったのだ。
「……ごめんな。本当に――ごめんな」
 星の名前を冠した銀髪の兄弟は、互いに涙を流しながら、六年振りの再会を喜んだ。リゲルが落ち着きを取り戻すと、シェダルは自らの過去を話し始めた。アンティオキアで軍事活動に反対するレジスタンスを率いていること。顔の火傷の跡は軍隊と抗争した時に負ったこと。リゲルがユグドラシル基地にいることを知り、人目を忍んで弟に会いに来たこと。映画の題材にできそうなほど、波乱万丈な人生だった。
 会話のバトンがリゲルに手渡された。二人の邪魔をしてはいけない。ソエルとメアリィは語り合う兄弟を残し、静かに格納庫の外に出た。他愛もないお喋りを楽しんでいると、薔薇色の再会を終えた兄弟が出て来た。重荷を全て捨て去ったような清々しい表情だった。
 突如、濁ったエンジン音が聞こえてきたので空を仰ぐと、一機のセスナが上空を飛んで来た。尾翼から黒い煙が尾を引いている。尋常じゃない雰囲気だ。ソエルたちの目の前で、セスナ機が滑走路に激突するように不時着した。
 白と赤にマーキングされたボディが、激しく炎上する。異変に気づいた数人の整備士たちが、格納庫から飛び出して来て、手に持った消火器で素早く火を消していった。
 黒焦げになった機体からパイロットが助け出された。輝く金髪と真紅のピンヒール。針のように細いピンヒールでフットペダルを操っていたなんて、大した腕だ。胸元が大きく開いた漆黒のスーツに、科学者の証である白衣。一度だけ会ったことがある女性だ。兵士を率いてアッシュを捕えに来た科学者――オペラ・ド・グランツだった。
「グランツ――さん?」ロイヤルブルーの目が、ソエルたちに気づいた。
「貴女たちがいるということは……ここは……ユグドラシル基地ね? よかった……エリオット大尉はどこ? 大事な話があるの……すぐに伝えてちょうだい……奴らが動き出したわ……あの二人を……狙って……る……」
 意味深な言葉を残すと、オペラは滑走路の上に倒れてしまった。懸命に保っていた意識が途切れたのだ。このまま放置しておけば、離着陸する戦闘機に轢かれてしまう。整備士たちにセスナの残骸の後片付けを依頼して、ソエルたちは傷だらけのオペラを医務室に運んだ。


 オペラが負った怪我の大半は、軽い火傷と打撲と擦り傷だった。この程度の怪我で済んだなんて、まさに奇跡の生還だ。下手をすればセスナ機と心中していたかもしれないのだ。ノワリーと連絡を取りに行ったメアリィが戻って来ると同時に、オペラが覚醒した。早く彼と会わせて。ロイヤルブルーの目は、期待と焦燥に駆られていた。
「ごめんなさい。隊長は幹部のパーティーに呼ばれていて、今は留守なの。隊長に伝えておいたわ。すぐに戻るって言ってたけど……簡単には抜け出せないと思うから、帰りは――夜になると思います」
「……そう。ありがとう」
 肩を落としたオペラが微笑んだ。隠しきれない落胆の色が面に浮かんでいる。幸い命に関わるような怪我は負っていないものの、彼女の体調は万全ではない。そんなことは分かっているが、ソエルはオペラが途中で断念した言葉の続きが聞きたかった。ソエルが質問を投げかける前に、オペラが口を開いた。ソエルの催促が伝わったようだ。
「アンティオキアが、クルタナに宣戦布告したことは知っているわね? それからしばらくして、私は奴らの無線を傍受したの。アンティオキアが、アッシュ・ブルーとアルジャーノンの坊やを捕えたという内容の無線をね」
 ソエルは窓枠に閉じ込められた青空を見上げた。二人が飛び立ったのはいつだった? 掛け時計を見て思い出す。二時間は経っている。帰還してもいい時間だ。それなのに機影は視認できないし、エンジンの音も聞こえなかった。オペラが質の悪い冗談を言っていると思った。思いたかった。しかし彼女の目は真剣だ。嘘をつくためにセスナを墜落させるとは思えない。
「アンティオキアが――アッシュ君とアレックスさんを捕まえたって、本当ですか?」
「事実よ。帰って来ないところを見ると……多分、二人はアークという研究施設に連れていかれたと思うわ」
「何で、あんたはここに来たんだよ。俺たちとは仲が悪いんじゃなかったのか?」
 頭の後ろで両手を組んだリゲルが、棘のある声で質問した。敵意を剥き出しにしているのが、誰から見ても分かる。銃で脇腹を撃たれ、一時は生死の境を彷徨ったのだ。無理もない。
「……そうね。あの時の無礼な行為は謝るわ。私は彼らの計画が恐ろしくなったの。その計画には、アンティオキアとクルタナの政府の人間が関係しているわ。軍の人間は誰も信用できない。エリオット大尉なら信用できると思った私は、計画書を盗んで飛び立った。でも、基地まであと少しというところで被弾してしまって……あの有り様よ」
「計画書は、機体と一緒に燃えてしまったんだな?」シェダルが冷静に言った。
「そういうことになるわ。……ごめんなさい、自分が不甲斐ないわね」
「アークって、何ですか?」
「非人道的な実験を繰り返す研究施設のことだよ。クルタナとアンティオキアの両政府が資金援助しているという噂だ。ジェネシスが生み出された場所でもあるんだ」
 オペラからシェダルへ、全員の視線が彼に集中した。なかでもオペラの視線は険しかった。
「……一般人である貴方が、どうしてジェネシスとアークのことを知っているの? これは、国家機密に近い情報よ」
「貴女には言っていなかったな。僕は、アンティオキアで反政府活動をしている、レジスタンスのリーダーなんだ。アークを爆破しようとして失敗したし、アークからジェネシスの子供を連れた女性の逃亡を手伝ったことがある。だから、二つの情報を知っているんだ」
 オペラは何も反論しなかった。どうやら納得して、シェダルを信じてみることにしたようだ。彼が言ったジェネシスの子供とは、恐らくアッシュのことだろう。突然大きな音が鳴り響く。目の色を変えたリゲルが、椅子から立ち上がる音だった。
「今すぐ二人を助けに行こうぜ! 兄貴! アークの場所は分かるんだろ!?」
「場所は知っている。でも――」鉄砲玉のように飛び出して行きそうなリゲルをシェダルが遮る。「アークは危険すぎる場所だ。エリオット大尉が戻るまで、待ったほうが賢明だ」
「でもよ――!」
「でもじゃない。頼むから、僕の言うことを聞いてくれ。お前を危険な目に遭わせたくないんだ。やっと会えた大切な弟を――失いたくないんだよ」
 壁から背中を離したシェダルが、真っ直ぐにリゲルを見つめた。灰色のガラス玉が揺れている。涙で滲む一歩手前だ。リゲルが踏み留まった。シェダルの懇願に近い言葉が、彼の足を掴んで放さないのだ。シェダルはリゲルの前へ移動して手を伸ばすと、弟の肩を優しく叩いた。思い留まってくれたことに対する感謝だろう。
「……もう、行かないと。絶対に、アークに行くんじゃないぞ。それと、お前の携帯電話の番号とアドレスを教えてくれ」
 リゲルと電話番号とアドレスを交換したシェダルはもう一度弟の肩を叩き、また会いに来るよと言葉を残して立ち去った。リゲルの焦燥は分かる。ソエルもメアリィも、一秒でも早くアッシュとアレックスを助けに行きたかった。
 しかしアークの場所を知らず、何の力を持たない自分たちには何もできないのだ。シェダルの言うとおり、ノワリーに頼るしか方法がない。歯痒い気持ちを抱えたまま、時間だけが虚しく過ぎていく。
 湿った沈黙は、まるで泥の底に沈んでいるみたいだった。


 死者が眠る神聖な墓地のように静まり返ったユグドラシル基地で、ソエルは獲物を狙うライオンのように息を殺し、物陰に身を潜めていた。我が物顔で基地を闊歩する暗闇に目を凝らし、彼がやって来るのを待つ。果たして、彼は現れるだろうか。彼の性格を考慮すれば、現れる可能性は100パーセントに近いだろう。
 暗闇と仲良くなったソエルの目が、忍び足で歩いて来る人影を捉えた。未確認生物ではない。れっきとした、ホモ・サピエンスだ。警戒するように周囲を見回しながら、黒い塊はメインゲートの前で立ち止まった。ソエルの予想は的中した。この時間帯は機器の点検のために、警備システムはシャットダウンされているのだ。人影がメインゲートに足を掛ける。乗り越える気だ。そうはさせないぞ。
「どこへ行くんですか?」
 身を潜めていた物陰から躍り出て、腕組みの構えに入ったソエルは、ゲートにしがみ付いた人影の背中に向かって呼びかけた。影が震え、ロッククライマーのようにゲートをよじ登ろうとしていた動きが停止した。
 気紛れな月が顔を出す。煤やオイルで黒く汚れた灰色のツナギ。無造作に跳ねた銀髪が、金属質な輝きを放ち、いつも身に着けているゴーグルが月光を反射した。地面に下りるように促すと、渋々といった様子で、リゲルは身軽に飛び降りた。
「ソ……ソエル……奇遇だなぁ。アンタも、真夜中の散歩か?」
 リゲルは引き攣った笑顔を浮かべ、苦し紛れの言い訳を吐き出した。そうなんですと同調する気はないし、捕獲した獲物をむざむざ逃がす気もない。両手を腰に当て、ソエルは逃亡を企てた若きメカニックを見据えた。
「はぐらかさないでください! アークに行くつもりなんですよね?」
「……ああ、そうだよ! 隊長が戻って来るまで待てって言うんだろ!? そんな悠長に待ってられるかよ! グズグズしてたら、アイツらが殺されるかもしれねぇんだぞ!」
 溜まっていた負の感情を爆発させたリゲルが叫び、その声は暗転した基地に反響した。数秒後、頭を冷やしたリゲルが、悪いと謝った。
「……俺は行くぜ。止めたって無駄だからな」
「止める気はありません。私も一緒に行きます」
「……マジで言ってンのか?」
「はい。マジです」
 ソエルが草木も眠る真夜中に身を潜めていた理由はただ一つ。基地を抜け出し、アークに向かうためだ。きっと、リゲルも同じ野望を抱いていると確信していた。だから彼を待っていたのだ。同志は一人でも多いほうが心強いからだ。
 見開かれた群青の目が、ソエルを見返す。真面目な学級委員が、煙草を吸っている所を目撃したような表情だ。そして、濃淡の異なる青い目が交差する。リゲルが頷く。ソエルの意思がリゲルに浸透したのだ。
「分かったよ。一緒に行こうぜ」
「止めなさい。戻れなくなるわよ」
 艶やかな第三者の声が響き渡った。暗闇の一部が動く。現れたのは、白衣を纏った女性だ。傷だらけの身体を引き摺り、彼女は二人の正面に立った。ロイヤルブルーの目。輝く金色の髪は闇に染まっている。オペラ・ド・グランツだ。医務室を抜け出してきたのか。
「馬鹿な真似は止めなさい。アークは武装した兵士で守られているし、当然、監視カメラも設置されているわ。生きて帰られる保証はどこにもないのよ。こんなことは言いたくないけれど、二人が生きているとはかぎらないわ」
 厳しい現実が突きつけられる。それでも、アッシュとアレックスを助けに行くという決意は揺らがなかった。
「そんなの関係ないね。俺は行くぜ。あいつらは、大切な仲間なんだ。見殺しにはできねぇよ」
「私も同じです。仲間を見捨てるような真似なんてできませんから」
 何を言っても無駄だと悟ったのだろう。オペラが溜息を吐き、白衣のポケットから薄い紙状の物を取り出した。僅かな光源を反射して輝いたそれは、一枚のカードだった。
「これは……?」
「盗み出した物の中で、唯一無事な物。アークの入り口のロックを解除できるカードよ。66号線を北上して、国境を越えなさい。国境を越えたら、北西に広がる森に入って。詳しい場所は分からないけれど、その森のどこかにアークがあるわ。……私も行くわ。子供だけじゃ危険よ」
 助力を申し出る気持ちは嬉しかったが、危険な道程になるのは確実だ。言い方は悪いが、怪我人であるオペラは足手まといになる可能性が高い。オブラートに包んで優しく伝えよう。二人の結論を察知したオペラが口を開いた。
「……こんな身体じゃ、足手まといになるのがオチね。基地に残ったほうが賢明かしら。エリオット大尉が戻ったら、貴女たちがアークに向かったと伝えるわ。だから、大尉と合流するまで無茶はしないでちょうだい。……気をつけて」
 オペラの思いを受け取った二人は、メインゲートを乗り越え、ユグドラシル基地を脱走した。そう言えば、どの手段でアークに行くのだろうか。戦闘機は目立ち過ぎるし、徒歩じゃ時間を浪費し過ぎる。バスなんて、とっくの昔に営業終了だ。
 ソエルを待たせたリゲルは近くの草むらに近づき、茂みの中に消えた。数秒後、彼は大型のバイクを引っ張り出してきた。準備万端というわけか。ゴーグルを装着したリゲルが操縦席へ跨り、ソエルは後部座席へ座った。作動するエンジン。回るタイヤ。二人を乗せたバイクは、舗装された道路を目指して走り出した。


 白銀の月明かりが照らす道路と、寡黙に佇む灰色の堤防。二つの建造物を見ながら66号線を北上する。生命の宝庫である海は死んだように静かだ。たまにすれ違う車のカーラジオがうるさかった。耳元で唸る風が、速く走れと急かしているような気がした。風に催促されたバイクが速度を上げる。スピードを出し過ぎ、宙を舞った挙句に海に転落しないことを祈ろう。
「なぁ、ソエル」不意に、操縦席のリゲルが話しかけてきた。重要な話があるのか。
「何ですか?」
「意外に、胸大きいんだな。小さいかと思ってた」
 ソエルは自分の胸がリゲルの背中に密着していることを思い出した。緊張感の欠片もない台詞に驚き呆れ、恥ずかしさにソエルの顔は真っ赤に染まった。彼の腰に巻き付けていた手を離し、胸を覆い隠したが、途端にバランスを崩して慌てた。
 捕まってろよ。前のリゲルが笑う。バイクから転げ落ちるのはごめんだ。ソエルは仕方なく、前のリゲルにしがみ付いた。両手が自由に使えるのなら、今すぐにでも銀色の頭を小突いてやりたい。
「リッ――リゲルさんの馬鹿! 変なこと言わないでください!」
「悪い悪い。湿っぽい雰囲気は苦手でさ」
 リゲルは快活に笑った。刹那、ゴーグルのレンズに包まれた青い目が真剣な色を帯びた。
「国境が見えてきたぜ」
 果てしなく続く有刺鉄線のフェンスが、地平線の向こうに見えてきた。侵入者を監視する監視塔が、宵闇に浮かび上がった。バイクで突撃するのは無謀すぎるので、二人は離れた場所でバイクを降りた。バイクを目立たない草むらに押し込み、一緒に身を潜めて国境の様子をスパイする。銃で武装した兵士たちが彷徨っていた。
「工具を使って、俺がフェンスに穴を開ける。ソエルは見張っててくれ」
「分かりました」
 単純な発想だが、それしか方法がない。それぞれの役割を果たそう。立ち上がった二人を、ライトの明かりが照らし出した。足音が草を踏み締めながらこっちにくる。兵士に見つかったのか。ソエルを背中に庇ったリゲルが身構える。
 大柄な男が暗闇から姿を見せた。顔面を覆う黒い髭と、縦にも横にも大きい体躯の、冬眠中の熊のような男性だ。無言で男性が手招きした。来いと言っているようだ。果たして信用してもいいのだろうか。
「――行こう」
「えっ? でも、敵かもしれないんですよ?」
「あの野郎は、俺たちの味方だ。頼む。俺を信じてくれ」
 ソエルは無謀な発言をしたリゲルを見上げた。真剣な表情と真摯な目の色だ。信じる価値はあるだろう。二人は男性の後を追いかけた。彼は黒い穴の前で待っていた。岩盤が月光の光で青白く染まっている。どうやら洞窟のようだ。何も喋らないまま、男性は洞窟の中に入って行った。
 後に続き、ソエルとリゲルは洞窟の中へ入った。彼が手に持つ懐中電灯の明かりを頼りに奥へ進む。光が見えた。出口があることを示しているのだ。外へ出ると、国境のフェンスが城塞のように背後にそびえていた。兵士に咎められることもなく、撃ち殺されることもなく、ソエルとリゲルは無事に国境を越えられたのだ。
「この道を真っ直ぐ行けば、森に着く。アークはそこにある」
 今まで沈黙の奴隷だった男性が口を開いた。堅いブラシで喉の奥を強く擦ったみたいに、酷く掠れた声だった。男性と別れ、教えられた道を進んだ。森のシルエットが影絵のように浮かび上がる。突然リゲルがソエルの腕を掴み、乾燥した草むらに引っ張り込んだ。
「リッ……リゲルさん?」
「静かに! 見てみな!」
 リゲルが前方の道を指差した。二人の進路を阻むように、銃を携帯した兵士たちが巡回しているではないか。ダークグリーンの軍服を身に着けている。間違いない。アンティオキアの兵士だ。危なかった。リゲルが兵士たちに気づかなかったら、今頃捕虜になっていたかもしれない。
 無事に国境を越えたというのに、また難関が立ちはだかった。兵士たちが立ち去るのを待つか。それとも強行突破するか。冷静かつ忠実に監視を続けている兵士たちの動きが、俄かに慌ただしくなる。無線で連絡を取る声が耳に届いた。
「こちら国境監視第三部隊。……何だって? レジスタンスの奴らが暴れている? 増援が必要か? ……ああ。了解。すぐに増援を率いて急行する。おい! 行くぞ!」
 兵士たちが隊列を組み、指揮官らしき男性が彼らを率いて走り去った。兵士の数が減った今がチャンスだ。茂みから飛び出し、一気に駆け抜ける。安全な場所に到着して、乱れた呼吸を整えていると、リゲルのポケットが音を鳴らした。慌てたリゲルがポケットに手を突っ込んだ。軍手を嵌めた手が携帯電話を引っ張り出した。メール受信を知らせるランプが点灯している。
「……兄貴からだ。俺たちがアークに行くだろうって思ってたらしい」
「じゃあ……レジスタンスが暴れているのも、シェダルさんが?」
「らしいな。ん? 何か画像が添付されてる――って、これ、アークの場所じゃねぇか!?」
「え?」
 ソエルは縦長のディスプレイを覗き込んだ。地図らしき画像が表示されている。地図の一点に赤いバツ印が刻まれていた。恐らく、アークがある場所だろう。二人がいる所からそう遠くはない。
「行きましょう」
「ああ」
 一歩踏み出そうとしたその時、すぐ側にある茂みが乾いた音を立てた。猛獣か? それとも、猛獣より厄介な人間か? リゲルが前に進み出る。臨戦態勢だ。意外な人物が姿を現した。闇と同じ色の軍服を着た長身の青年と、緩く波打った金色の髪の女性だった。
「隊長……?」
「メアリィさん?」
 茂みの中から出て来たのは、猛獣でも厄介な人間でもなかった。外出中のノワリーと、基地にいるはずのメアリィだった。二人とも厳しい表情をしている。雷雲が渦巻いていて、今にも雷が落ちそうだ。避雷針はない。雷の標的はソエルとリゲルだ。
「どうして……ここに?」
「テレポートしたのかよ。超能力者だったとか?」
「違います!」メアリィが叫ぶ。落雷の時がきたのだ。「グランツさんから二人がアークに行ったって聞いて、後を追いかけて来たんです! その途中で、隊長と合流してここまで来たの! どうして私に言わなかったの!? 何で相談してくれなかったの!? 私たちは同じチームでしょう!?」
 秋風のような涼やかな声は震えていた。唇を噛み締めたメアリィは、必死で涙を堪えている。馬鹿と呟くと、彼女は背中を向けた。
「ローレンツの言うとおりだ。なぜ、私が戻るまで待たなかった?」
 ノワリーが静かに言った。彼はメアリィのように怒鳴りはしなかったものの、琥珀色の切れ長の目には、激しく弾ける稲妻のような怒りが渦巻いていた。腕組みをして二人を見据える姿は、神々の王ゼウスが地上に降臨したようであった。
「……ごめんなさい」
「……すんません」
 不安と焦燥に駆られ、無謀な行動をとってしまった。非はこっちにあるのだ。誠意ある謝罪を贈ると、二人を覆っていた怒りの雷雲が薄れた。
「……分かってくれればいいの。怒鳴ってごめんなさい。でも、本当に心配したのよ」
 涙を拭ったメアリィが微笑んだ。涙の跡が残る笑顔に胸が痛む。ノワリーが息を吐き、組んでいた腕を解いた。しかし眉間の皺は残ったままだった。
「基地に戻れ、と言っても聞かないだろう。アークの場所は分かっているのか?」
「はい。兄貴から地図が送られてきました」
 リゲルが携帯をノワリーに渡した。発光するディスプレイの照明が、画面を見るノワリーの顔を白く照らす。地図を脳に刻み込んだノワリーが携帯電話を返した。彼は周囲を見回して夜空を見上げ、正しい方角を確認した。
「地図によると……アークはこっちのようだ。私から離れるな。行くぞ」
 先頭をノワリーが歩き、ソエルの隣にはメアリィ、最後尾にリゲルという陣形を組み、暗い森の奥に進んだ。真夜中の森は不気味な静けさに包まれていた。木陰から幽霊が現れてもおかしくない。開けた場所に着いた。
 夜の森に白い建物の影が浮かび上がる。金網と鉄格子で囲まれた建物で、規則正しく整列した窓が嵌め込まれている。病院のように真っ白な外観は、異質な雰囲気を漂わせている。四人は木の陰に隠れ、様子を窺うことにした。
「あれ……アッシュたちの機体じゃない?」
 メアリィがフェンスの向こうを指差した。金網の向こう側に二機の戦闘機が置かれていた。一機は酷く破損している。ミッドナイトブルーと緑色の機体に、マーキングされたアッシュとアレックスの名前が微かに見える。グングニルとメイデンリーフだ。
「ああ、間違いない。ブルーとアルジャーノンの機体だ。やはり、アークに監禁されているようだな」
「問題はどうやって助け出すか、ですよね」
 その時だった。周囲の木立から無数の兵士が現れたのだ。おまけに赤いレーザーの照準がソエルたちを捉えている。いつの間にか、狼の群れの中に飛び込んでしまったのだ。ノワリーが素早く三人を背中に庇った。
「お前たち……クルタナ空軍のヴァルキリーだな?」無骨な輪郭の顔がノワリーを睨む。「お前の顔は知っているぞ。六年前に我らの同胞を殺したパイロットだ」
「殺したとは聞き捨てならないな。力で国民を黙らせるような国の奴に言われたくないと思うが」
「――若造が生意気な口を!」
 鉛色の銃口が、ノワリーの眉間に突きつけられた。誰もが震えあがる戦慄の場面だというのに、ノワリーは平然としている。
「待て! 生きたまま連れて来いと博士に言われただろう。銃を下ろせ」
 兵士の中で年長らしき男が言った。彼らを率いるリーダーのようだ。激昂していた兵士が、渋々銃を下ろす。忌々しげに舌打ちをすると、男は隊列の中に戻った。
 兵士たちに連行されたソエルたちは、アークの施設内に連れていかれた。ガラス窓の向こうで動き回る研究員たちがいた。エレベーターに押し込められて地下深くへ。降りた先に、厳重にロックされた扉があった。カードキーが端末にスライドされ、数ケタの暗証番号が打ち込まれた。
 ソエルたちは、照明が点けられていない薄暗い部屋に辿り着いた。深海のような青一色だ。パソコンの画面と巨大なモニターだけが光っていて、太く長い容器が至る所に縦列駐車していた。液体の向こうに小さな影が見える。動物か。それとも――。一斉にライトが点灯した。それでもまだ薄暗い。まるで太陽から逃げているようだ。一人の男性が、優雅に椅子に腰かけていた。
「君たちが来るのを、首を長くして待っていたよ。君たちは運がいいな。見たまえ」
 男がデスクの上のリモコンを手に取り、モニターを操作した。凡人には分からない数式や数字と化学記号が消え、海面に浮かぶ大陸に交代した。竜巻のように渦巻く霧が、次第に晴れていく様子が映し出されている。
「ご覧。ワールドエンドの霧が晴れていくよ。滅多に見れない光景だ。偶然かな? それとも運命かな? どちらにせよ、素晴らしい」
 歌うように軽やかな口調で男が言った。彼は椅子を回転させると立ち上がった。対面した男性は、ソエルたちと一度だけ顔を合わせたことがあった。そう、一年前にアッシュを捕えにユグドラシル基地を襲撃した男性だ。
「初めまして、ヴァルキリーの諸君。私はパスカル・フォン・アルジャーノンだ。ようこそ、ノアの方舟――アークへ。君たちは、神に選ばれたんだよ」
 ワールドエンドを覆う霧が晴れる時、世界は滅びに向かうと言われている。
 目の前で、霧は晴れてしまった。
 世界は終わるのだろうか――。