頭が割れるように痛い。まるで、頭蓋骨の内側で呪われた悪魔たちが哄笑しているようだ。悪魔たちは笑いながら、テンポの激しいロックミュージックを演奏しているに違いない。アッシュの華奢な身体は、生温かいシーツが敷かれたベッドの上に転がっていた。倦怠感が残る四肢を動かして身体を起こし、アッシュは部屋の構造を把握することにした。
 壁の色は濃い灰色で、罪人が収容される独房に似た部屋だ。頬杖をついて考えごとに耽る机も、知的探究心を満たしてくれる本棚もなく、頑丈な鉄格子で閉ざされた窓が、高い位置にあるだけだった。部屋全体に染みついた薬品の匂いが、アッシュの皮膚から体内に入り込み、奥底に封印していた記憶を呼び覚ました。
 ここがどこかは、分かっている。
 苦労して逃げ出した呪われた鳥籠の中に、翼を引き千切られたアッシュは、再び戻って来てしまったのだ。
 我が身を嘆くのを後にしたアッシュは、我が身に降りかかった災いの一部始終を思い出す努力した。アンティオキアがクルタナに宣戦布告した翌日、アッシュとアレックスは偵察飛行に飛び立った。飛び立ってしばらくは平穏だった。
 しかしその平穏も束の間、二人はクルタナの領空に堂々と侵入して来たアンティオキアの戦闘機と遭遇し、空中戦を繰り広げた。敵機は被弾。戦況はアッシュたちが有利だった。しかしその直後、対空砲火が牙を剥き、アッシュを庇ったアレックスを撃墜したのだ。そうだ――アレックスはどこだ?
「アッシュ?」
 アッシュがアレックスの存在を思い出すと同時に、ボーイソプラノの声が狭苦しい独房に反響した。部屋の片隅で黒い塊が動き、蛍光灯の青白いスポットライトの下にアレックスが現れた。頬に絆創膏が貼り付けられ、捲れた袖から白い包帯が見えている。墜落した際に負った怪我だろう。歩くことができるということは、命に関わるような怪我は負っていないということだ。
「よかった。目が覚めたんだな? 怪我はないか?」
「オレは平気だ。お前こそ大丈夫なのか?」
「このとおり、元気だよ」
「ここは……アークか?」
「ああ。間違いないよ」
 アッシュが感じていた嫌な予感は、見事に的中してしまったのだ。ベッドから下りたアッシュは、入口を塞いでいるドアに喧嘩を売ってみたが、ドアは彼の挑発に応じなかった。どうやら、ロックという魔法に守られているようだ。硬い足音が壁の向こう側から聞こえてきた。
 足音はドアの前で止まり、短い電子音が鳴った。ドアを封印していた魔法が解除されたのだ。軋んだ音を立て、重いドアが開く。穏やかな微笑みを張りつけた男が部屋に入って来た。銀縁眼鏡の細いフレームが明かりを反射して、七色のスペクトルを生み出した。
 淡い栗色の髪に、薄い灰色の目。白衣の下に地味な色のシャツと茶色のチノパンという服装だ。どこにでもいそうな中年の男だが、穏やかな外見の奥深くに、恐ろしい狂気を秘めていることを知っている。奴の狂気は他人をも飲み込むことも知っている。
 アッシュを――ジェネシスを創り出した科学者、パスカル・フォン・アルジャーノン。
 アルジャーノン家の現当主で、アレックスの父親だ。
「おはよう。アレックス、ゼロ君。いや、違ったな。今は……アッシュ・ブルー君だったかな? 手荒な真似をして悪かったね。気分はどうだい?」
「ファック! 最悪に決まってんだろうが!」
「口の利き方が成っていない子だ。君をそんなふうに造った覚えはないのだがね」
「ハッ! 造ってくれって頼んだ覚えはねぇよ!」
 ブラックの革靴が歌った。パスカルが距離を縮めた合図だ。アッシュを庇うように進み出たアレックスの背中が、紫色の視界を遮った。怪我人のくせに、おとなしくしていろと進言したくなった。第一、男に守られるのは好きじゃない。童話に出てくるお姫様じゃあるまいし。
 白衣のポケットに隠れていたパスカルの手が姿を見せた。凶器の類いは持っていない。パスカルの手は、警戒心を露わにするアレックスの頭の上に着陸して髪を撫で回し、彼を激しく動揺させた。
「五、六年ぶりかな? 大きくなったな、アレックス。エレノアの面影がよく出ているよ」
 思いもよらない行動に、アッシュとアレックスは驚いた。神をも恐れぬマッドサイエンティストが、人間らしい一面を見せたのだ。父親らしい態度を見せ、油断させる作戦かもしれない。アレックスの表情は複雑だ。長い間隔離されていた父親と再会したせいだろう。
「父さん……どうして、俺とアッシュをアークに連れてきたんだ?」
 息子と触れ合っていた手が離脱して、その手は眼鏡の弦を押し上げた。天才科学者がよくやりそうな仕草だ。一般人より頭脳が進化していることを見せつけるような、傲慢な動作だった。
「君たちは、彼女たちをおびき出すための餌なんだよ」
 ドアが叩かれた。その必要はないと判断したのか、それとも、首の筋肉を痛めたくなかったからか、パスカルは振り向かずに返事をした。海の底に潜っているようなくぐもった声が、分厚い金属の向こうから聞こえた。
「アルジャーノン博士。奴らを連れてきました」
「全員、生きているかね?」
「はい。ご命令どおり、生きたまま連行しました」
「ご苦労様。すぐに行きますよ」
 廊下を叩きながら、足音は遠ざかっていった。餌にされたアッシュとアレックス。生きたまま連行された奴ら。パスカルの嬉しそうな表情から推測すると、連れて来られた奴らとは、彼が言っていた彼女たちのことだろう。アッシュの中で言葉のピースが繋がり、真相のパズルが完成した。
「……テメェ、オレたちを餌にして、ソエルたちを捕まえたのか」
「そんな……! 嘘だろ?」
「正解だ。残念だけど、ご褒美はないよ。そういうことだ。あとで迎えを寄越すから、それまでおとなしくしていてくれたまえ」
 ダンスを終えた貴族のように、優雅に一礼したパスカルは部屋を出て行った。二回目の電子音が鳴り響く。再び魔法が掛けられたのだ。
 これは、映画のワンシーンじゃない。残酷な現実だ。
 だから、勇敢ヒーローも、高潔な妖精の騎士も助けにこない。
 実験器具に怯えるマウスのように、鍵の掛けられた檻の中で縮こまっていることしかできないのだ。


 ワールドエンドを覆い隠していた、濃い乳白色の霧が目の前で晴れていく。
 霧のドレスを脱いだ大陸に現れたのは、アルジャーノン一族が発見した、世界樹ユグドラシルだった。遥か彼方にあるというのに、モニター越しからでもユグドラシルが放つ圧倒的な力を感じる。世界中の科学者が血眼になって探していた生命の樹は、いとも簡単にその姿を現した。アルジャーノン家の血を引く男パスカルは、恋人に愛を囁く時のような表情で、平面のモニターを眺めていた。
「美しい。そして、素晴らしい。今まで本の挿絵でしか見たことがなかったからね。どんなに有名な作品も、この子には敵わないな」
 パスカルがリモコンのボタンを押した。画面が切り替わり、再びわけの分からない数式や化学記号が表示された。凡人には理解できない数字たちが踊り出す。パスカルが椅子から立ち上がり、両手を上に伸ばして大きく伸びをした。我が家のリビングで寛いでいる感じだ。銃で武装した兵士たちがいることを気にも留めていない。当たり前だ。兵士たちは彼を護衛しているのだから。
「さてと、いろいろ話したいことがあるんだがね。紅茶とお菓子を出せないのが残念だよ。君、彼らをお呼びしてくれたまえ」
 パスカルに指名された兵士は、踵を合わせて敬礼すると、部屋を出て行った。数分後、複数の足音が響いてきた。そしてドアが静かに開き、五人の人間が室内に通された。そのうちの三人はアッシュとアレックスと、査問会で出会ったクラッド・エリオット大佐だ。
 あとの二人は初対面だった。四十代後半の口髭を蓄えた太った男性と金色の髪の少年で、少年はダークグリーンのフライトスーツを着ている。恐らく、アンティオキア空軍のパイロットだろう。
「アッシュ君! アレックスさん!」
「ステュアート! 下がるんだ!」
 飛び出そうとしたソエルは、ノワリーに腕を掴まれて引き戻され、無数の銃口に狙われていることを思い出した。金属の凶器は、いつでも好きな時にソエルたちを蜂の巣にできるのだ。エリオット親子も互いの存在に気づいていたが、一度視線が交差しただけで、薔薇色の再会を喜び合うような会話はなかった。仰々しくお辞儀をすると、パスカルは白衣に包まれた腕を左右に展開した。
「では、紹介しよう。まずは――クラッド・エリオット大佐。言わずとも知れた、クルタナ空軍のエリート幹部だ。そこにいる、ノワリー君のお父上でもある。まあ、君たちも知っていると思うけどね。次はオズワルド准将。彼もクルタナ空軍の幹部だ。メタボリックシンドロームに悩んでおられるが、それなりに偉いお方だ。敬意を表したほうがいいよ」
 オズワルド准将が、怒ったように咳払いした。半ば中傷された紹介に憤慨しているようだ。
「博士」少年が口を開き、パスカルが視線を向けた。
「どうしたね?」
「自分で自己紹介してもいいですか?」
「もちろん構わないよ。君にとっても、彼女にとっても大事なことだからね」
「ありがとうございます」
 少年が身体の向きを変え、ソエルだけを視界に入れた。金色の柔らかい髪と、空色の冷たい目も、ソエルと同じ色で、それに顔立ちも似ている。異なるのは声と身長に、性別と体重ぐらいだろう。
「やっと会えたね、ソエル。僕はノエル・ステュアート。君の双子の兄妹だよ」
 鈍器で頭を殴られたような衝撃が、ソエルに襲いかかった。衝撃は頭蓋の奥に響き渡り、脳味噌を揺さぶった。少年の言った言葉の意味を理解するのに時間がかかった。何を言っているんだ。頭がおかしいんじゃないか。否定する言葉が次々と浮かぶ。でも、同じ空色の目は、真剣そのものだった。
「な……何を言ってるのか分からないわ! 私に兄はいないはずよ!?」
 冷静さを演じたつもりだったが、ソエルの声は震えていた。不気味な速さで心臓が脈を打ち始める。
「知らないのも無理はない。僕たちは幼い頃に引き離された。君は、両親が自動車事故で死んだって聞いているよね? それは違う。二人は……彼に殺されたんだ」
 ノエルが視線を動かした。彼の視線の先にいたのはパスカルだった。全員の視線が科学者に集まった。パスカルは薄い微笑みの仮面を被っている。注目されているのを喜んでいるような微笑みだ。
「殺したとは心外だなぁ。彼らは国家プロジェクトに参加するのを拒み、あろうことか機密情報を盗んでクルタナに亡命しようとしたんだよ? 反逆者は処刑しないといけない法律になっているんだから、仕方ないじゃないか。私も心苦しかったよ。ご両親は優秀な科学者だったからね」
「嘘……嘘よっ!」
「嘘じゃない」即座にノエルが否定した。「これが真実なんだ。僕と君は、同じ遺伝子を持つ兄妹なんだよ」
「嘘じゃないなら、どうして貴方はアンティオキアにいるの!? どうして、両親を殺した男と一緒にいるの!?」
「僕は――世界樹が憎い」
 静けさに満ちていたノエルの表情が、僅かに変化した。凪いでいた海面がざわめくように。険しい光が目の奥に宿った。
「……世界樹さえなければ、父さんと母さんは殺されずにすんだ。僕とソエルも別れることはなかった。暖かい食卓を家族で囲み、幸せな日々を過ごすことができたんだ。アルジャーノン博士は、世界樹を枯らしてくれると言った。彼が両親を殺したのは確かだと思う。けれど、全ての元凶はユグドラシルだ。だから、僕は彼に協力しているんだ」
 淡々とした口調で、ノエルは語り終えた。ソエルと彼の目が合うことはなかった。空色の目はグレイの床の一点を見つめていたからだ。乾いた拍手が鳴り響く。拍手の主はパスカルだ。わざとらしく目尻を拭っている。
「感動の再会をありがとう。涙腺が緩みそうになったよ」
 風船玉のように丸い身体を軍服に包んだオズワルドが、二回目の咳払いをした。
「おや、どうしました? オズワルド准将。喉が痛いのなら、喉飴をお持ちしますが」
「どういうことだ? ワシは、世界樹を枯らすということを聞いたことがないのだがね」
「言った覚えはありませんよ。私は、この子を使って世界樹を枯らすつもりです」
 パスカルは白衣のポケットに手を入れ、宝探しを始めた。彼が引っ張り出したのは、掌に収まる大きさのアンプルだった。透明なガラスのボディの内側で、濁った緑色の液体が揺れている。
「コレは『ニドホグ』と言いましてね。遠い昔にご先祖様が回収した、世界樹のDNAを操作して作り出した細菌です。マナを食い荒らすようにプログラムしたから、この子を世界樹に送り込んだらどうなりますかな? ユグドシルは、自らの生み出すマナで生命を維持している。きっと、彼らのように死ぬでしょうね」
 パスカルが部屋の隅にある試験管の列を指し示した。細い指の先にあったのは、兵士に連行された時に見た物だ。明かりが点いた今、ガラスの向こう側に浮いているものを認識できた。その瞬間、全身に鳥肌が走り、凍りつくような恐怖が駆け抜けた。
 液体の中に浮かんでいたのは、小さな子供たちだった。痩せ細った小さな身体に、プラスティックのチューブが絡み付いている。生命活動を表示している機械のモニターには、何の反応もなかった。そう、子供たちは――死んでいるのだ。
「子供? まさか、彼らは――」冷静なノワリーの面にも、驚愕の色が僅かに表れていた。「ジェネシス……?」
「正解だ。オリジナルのゼロ――いや、アッシュ・ブルー君が脱走した後に造ってみたんだがね、どれもこれも完全な個体にならなかった。廃棄するのももったいないし、せっかくだから、ニドホグの実験サンプルになってもらったんだよ。予想どおり、マナと遺伝子を食い荒らされた彼らは死んだ。ニドホグは哺乳類にも効くことが証明されましたよ」
「テメェ! 人の命を何だと思ってやがる!」
 子供たちと同じジェネシスであるアッシュが叫ぶ。しかしパスカルは、アッシュを一瞥しただけだった。
「彼らはヒトじゃない。失敗作だ。人間は思い通りに造れないが、ジェネシスは簡単に造れる。失敗したら、また造ればいい」
 人間の命を軽々しく思っている発言に、ソエルたちは絶句した。誰もが狂気の科学者パスカルに恐れを抱き始めていた。この男は人間じゃない。邪悪な悪魔に魂を売り渡したのだ。
「ふざけるな! ユグドラシルを枯らすことは許さんぞ! 我々は手を組んだ。ワシが橋渡しになったんだぞ!?」
「手を組んだ? 寝言は寝てから言ってください。アンティオキアはクルタナと手を組んだ覚えはありませんよ。だって、ほら、ニュースでも言っていたでしょう? 宣戦布告したと」
 リモコンを掲げたパスカルが、モニターに向けて電波を発信した。電波を受信したモニターが素直に切り替わり、アンティオキアの空軍基地が映し出された。
 F4ファントム2。MIG29。B52ストラトフォートレス。対空砲火とミサイルも画面に映し出された。オズワルドの顔が真っ青に染まる。胡桃割り人形のように、彼の丸い身体は震え始めた。
「どっ……どういうことだ!? パスカル、貴様は世界樹を手に入れるためには、クルタナの協力が必要だと言ったはずだ! だから、ワシたちは、何年も前から貴様らに協力して――」
「……何年も前から、敵国と癒着していたのか? オズワルド殿」
 クラッドの厳しい声に恐れをなしたのか、振り子のように首を上下させたオズワルドは、床に座りこんだ。脂汗が丸い顔を伝っていく。長年覇権を争ってきた敵国と裏で取引をしていたのだ。このことが公になれば、オズワルドは確実に現在の地位から失脚するだろう。パスカルが軽やかに笑う。今にもお気に入りの歌を歌い出しそうだ。人の不幸は蜜の味というわけか。
「それは、馬鹿な君たちを利用するための嘘ですよ。残念だったね」
「博士」兵士の一人が発言した。「そろそろお時間です」
「分かった。名残惜しいが、私もいろいろとと忙しいのでね。ジェネシスと愛しい息子、そして――キメラに会えて嬉しかったよ」
 見ているだけで憂鬱になりそうな灰色の目が動き、アッシュとアレックスとノワリーを順番に見つめた。ノワリーで視線を止めたパスカルは、満足そうに微笑んだ。彼は肩越しにクラッドに目を向けた。
「貴方にお礼を言っていませんでしたね。息子さんを『提供』していただいて感謝していますよ」
「……提供? おかしなことを言わないでもらいたい」
「おやおや――。大佐、大尉に本当のことを話していないのですか?」
 彫像のようにクラッドは喋らない。まるで、言葉を口にするのを恐れているようだ。呆れたようにパスカルが肩をすくめた。
「無口なお方だ。こういう大事なことは、自分の口から言ったほうがいいと思うのだがね。ああ、君。もう少し待ってくれるように言ってくれないかな。それと、オスプレイを手配するように言ってくれたまえ」
 頷いた兵士はドアを閉め、出て行った。デスクに積まれていた要塞のような書類を隅に押しやると、パスカルは空いたスペースに座った。優雅に脚を組み、膝の上で頬杖を突いたパスカルは、子供にお伽話を読み聞かせる母親のような口調で語り始めた。
「死んだパイロットを回収し、壊れた部分を修復して再び飛べるようにした存在。また壊れたら、それをベースに新しい肉体に作り変える。人間が追い求める、永久機関に似たようなものかな。それが、永遠に戦い続ける兵器『キメラ』だ。ノワリー君。君が、そのオリジナルなんだよ」
 残酷なお伽話は進んでいく。誰もが固唾を飲み、その物語に聞きいっていた。
「六年前の大戦を覚えているだろう? 瀕死の重傷を負った君は、死の淵を彷徨っていた。エリオット大佐は大切な息子を――というよりかは、跡継ぎを失うことを酷く恐れていてね、大佐は当時キメラを研究していた私に救いを求めた。丁度いい機会だと思った。私にも彼にも、利益があることだからね。そこで我々は、ノワリー君と同じチームに所属していたパイロットを部品として使用することにした。そして、君は再び飛べるようになったというわけだ」
「まさか、そのパイロットの名前は――ジェラルド・イージス……?」
「そのとおり。彼も幸せなんじゃないかな。友人の一部になれたんだからね」
 ノワリーの顔面から血の気が引いた。真っ青になっても、ノワリーは冷静さを維持し続けていた。
「……違う。私は、キメラではない」
「いいや、君はキメラだよ。君はとても素晴らしい優秀な作品だ。それで、君の精子を宿したサンプルが欲しいんだよ。実験は新しい段階に入っていてね。今度は、君の亡き婚約者のレプリカでも創ってみようかと思っているんだ。そうすれば、君も喜んでセックスしてくれるだろう?」
「姉さんの……!? そんな――!」
 青ざめたメアリィが口を覆い隠し、慟哭を飲み込んだ。ノワリーの表情が、遂に激情に支配された。
「ふざけるな! 彼女を侮辱することは許さないぞ!」
 切れ長の双眸がパスカルを激しく見据え、琥珀の中で稲妻が弾ける。轟く雷にパスカルはものともしない。おもちゃで遊ぶ子供のように、純粋に笑っているだけだ。
「そう、その目だよ。我々人間とは、違う目だ」
 ノワリーに視線が集まり、全員の顔に驚きの色が浮かんだ。ノワリーの琥珀色の目に刻まれた瞳孔は、滑らかな円形ではなく、爬虫類のように縦に細く長く伸びていたのだ。まさに人間ではない証。誰もが彼がキメラであるということを、確信してしまった瞬間だった。
「いい加減にしろ、パスカル」沈黙の誓いを破ったクラッドが口を開いた。
「これは失礼。貴方のご子息を、侮辱してしまいましたね」
「息子だと? あれは息子ではない。『ノワリー』の姿をした、おぞましい化け物だ。吐き気がする。造るべきではなかったのだ」
 クラッドが拒絶の言葉を口にする。ノワリーの顔が、更に蒼白になった。
「――酷い! 隊長に謝って!」
 怒りに我を忘れたソエルは、クラッドに掴みかかった。相手が大人の男性で、自分の倍はある身長と体重の持ち主だということを忘れていた。鷹のように鋭い視線がソエルを見下ろす。射抜かれただけで怯んでしまいそうだ。
「小娘が! 立場を弁えろ!」
 クラッドが腕を振り上げた。ソエルは殴られる痛みを覚悟したが、硬い拳も熱い平手打ちも飛んでこなかった。ソエルを守るように、広い背中が前に立っている。ノワリーの右手がクラッドの腕を掴み、彼を睨みつけていた。
「私の部下に、手を上げるな!」
「キメラごときが生意気な口を利くな! 呪われた化け物め!」
 クラッドの言葉が鋭利なナイフと化し、ノワリーの心を深く抉り取った。嫌悪。憎悪。恐怖。人間が抱える負の感情が、クラッドの顔を暗く染めあげている。心を傷つけられてもノワリーは怯まない。ここが空の上ならば、即座にドッグファイトが始まっていただろう。パスカルが仲裁に入った。騒ぎを起こした元凶のくせに、ヒーローを気取っているのだ。
「まあまあ。親子喧嘩はクルタナでやってください。おっと、失礼。親子ではなかったか。まあ、遺伝子学的には親子だと思いますがね。そろそろパーティーはお開きにしましょう。君たち、彼女たちをクルタナまでお送りして差しあげろ。くれぐれも殺しちゃ駄目だよ。では、私は失礼するよ」
 ソエルたちの脇をパスカルが悠々とすり抜け、従者のようにノエルが彼の後に続く。生き別れになった双子の妹がすぐ近くにいるというのに、彼は一度もソエルのほうを向こうとはしなかった。
「ノエル……」
 ノエルの歩みが止まった。車で待ってるよと言い残し、パスカルは出て行った。二度と出合うことがないと思っていた視線が、再び出合った。同じ空色の目が、互いの姿を映し出す。
「今度会う時は、僕たちは敵同士だよ」
 郷愁なんて感じていない氷の声が、ソエルの心に突き刺さる。もっと違う形で再会していれば、感動を分かち合うことができたのに。一歩、ノエルがドアに近づいた。兄を引き止める効果のある言葉が出てこない。涙を堪えるので精一杯だった。
「オイ、ノエル」
 アッシュがノエルを呼び止めた。呼びかけに応じたノエルが振り向く。ノエルとアッシュ、二人のパイロットの視線が交わった。
「あの時、オレを墜としたのはテメェか?」
「そうだよ」
「いい腕してるぜ。敵同士なのが残念だ」
「僕も、そう思う」
 短い会話は終わり、背中を向けたノエルは出て行った。甘いクリームで飾られていないケーキのように、とても淡白で味気ない会話だった。兵士たちに銃で威嚇されながら、ソエルたちは屋上に連れていかれた。
 ヘリポートで待機していたのは、MV22Bオスプレイと呼ばれている機体だった。プロップ・ローターと呼ばれる回転翼の傾きを自由に調整することにより、ヘリコプターのように垂直離着陸が可能になり、戦闘機のように燃費が良く高速飛行ができるのだ。
 ソエルたちを胃袋に押し込めたオスプレイが舞い上がる。
 マーキングされた獅子が、勝ち誇ったように吠えていた。
 沈黙がソエルたちを押し潰していく。
 誰も何も言わなかった。
 重すぎる真実に圧倒されて喉を潰され、何も言えなかった。


『明朝、我々アンティオキアは、クルタナに攻撃を開始する! これは聖戦だ! 我々には慈悲も慈愛もない! 容赦はしない! 六年前に殺された同胞たちの恨みを思い知るのだ!』
 食堂の小さなテレビの画面一杯に、アンティオキアの大統領が映し出されていた。拳を振り上げ、自身の言葉に陶酔している声を張り上げ、集まった民衆に演説している。自分たちが正しいと思いこんでいる顔だ。戦争に正しい者など存在しないというのに。
 食堂に集まっていたパイロットの全員が、画面を食い入るように見ていた。画面がスタジオに切り替わり、博識の評論家たちが議論を始める。彼らは議論をするだけでいい。戦うのは兵士たちだ。もっともらしい理論を言っていればいいのだから。言葉だけでは戦争は終結しないことを、彼らは知っているのだろうか。
 ソエルたちが帰還したユグドラシル基地は緊迫していて、帯電したような空気が張り詰めていた。明日の朝、戦いが始まるのだ。六年前の大戦よりも、遥かに規模が大きくなるだろうと、パイロットや整備士たちが噂していた。
「緊急事態だってのに、エリオット大尉は何をしてるんだ?」
 食事を摂っていたパイロットが、不満げに言葉を零した。彼の友人である男が、パスタの絡まったフォークをタクトのように振り、ミートソースが宙に舞った。
「さあな。怖気づいたんじゃないのか? エリートは、挫折に弱いって言うじゃん。飛べない元英雄様は、弱虫野郎だったってことさ」
 賛同の声が四方八方から上がった。明らかにノワリーを侮辱している。テーブルに就いているソエルたちの顔は、怒りで険しくなっていった。今は姿が見えないが、この場にアッシュがいれば、間違いなく暴力行為に走っているだろう。
 ソエルたちの怒りを知らないパイロットは、更に侮辱の台詞を喋り始めた。もう我慢できない。両手でテーブルを叩き、ソエルは立ち上がった。勢いよく立ち上がった拍子に、椅子が大きな音を立て、床の上に横倒しになる。ステージに上がったアーティストのように、ソエルに視線が集まった。
「違う! 隊長はそんな人じゃない! 何も知らないくせに、知ったようなこと言わないでよ!」
 呆然とする顔の群れの中に、ノワリーを侮辱した二人を見つけたソエルは、思い切り睨みつけた。効果は抜群だ。鮟鱇(あんこう)のように口を開けた二人は、石のように固まった。
「私、隊長に会ってきます」
 背後で音量を増すざわめき声を聞きながら、ソエルは食堂の入口に向かった。ポルターガイストのような荒々しい足音が追いかけてきた。ソエルの肩を乱暴に手が掴む。ソエルは振り向いた。石のように固まっていたパイロットが立っていた。
「ちょっと待てよ。お前、いい気になってんじゃないのか?」
「そうだな。エリオット大尉に可愛がられてるからって、調子に乗ってんじゃねぇよ。夜のほうも可愛がられてるんだろ? よぉ、どんな声を出して喘ぐんだ? 教えてくれよ」
 一瞬にして、ソエルの頬は熱くなった。この二人は、ソエルとノワリーが身体を重ねていると思いこんでいるのだ。汚れた音色の口笛と指笛が飛び交う。いかがわしい想像をしているのだ。もはや揶揄じゃない。これは侮辱だ。どこまで愚かなんだ。ソエルの内側で渦巻いている怒りが、ますます激しくなった。
「そんなことしてない! 調子に乗ってるのは貴方たちのほうじゃないの!? 馬鹿にしないで!」
「何だと!?」
「ソエルの言うとおりだよ。何も知らないくせに、偉そうに言わないでほしいな」
 雲の隙間から差し込む陽光のように、柔らかいボーイソプラノが喧騒を破った。落ち着いた声の奥底で、静かな怒りの炎が揺らめいている。席から離脱したアレックスが、二人のパイロットの背後に立った。少し遅れてリゲルもやって来た。アレックスとは対照的に、怒りを剥き出しにしている。軍手を嵌めた手が重なり合い、骨を鳴らした。
「男の嫉妬は見苦しいぜ。お前ら、あっちの趣味があったのかよ。大発見だな。ま、確かに隊長はイケメンだからな。惚れちまうのも無理ないか」
 パイロットたちの顔が、鮮やかな真紅に染まる。敵対心を露わにした四人が距離を詰めた。二対二の戦いが始まろうとしていた。喧嘩を止めようとする者は誰もおらず、むしろ煽っている。席を立ったパイロットたちが野次馬となり、人の輪を作った。
 早くやれと野次が飛ぶ。いつ爆発するか分からない、激情が気化した危険な空気だ。慌ただしい靴音が廊下を駆けてきて、血相を変えた整備士が飛び込んで来た。
「たっ――大変だ! ブルーとエリオット大尉が、滑走路で喧嘩してるぞ!」
 食堂にいた全員が、衝撃的な情報を伝えにきた整備士に視線を向け、我が耳を疑った。もしもそれが本当ならば、止めに行かなければいけない。ここはひとまず一時休戦だ。ソエルたちは宿舎を飛び出し、大急ぎで滑走路に向かった。


 時折、強風が吹き荒ぶ中、滑走路の真ん中でアッシュとノワリーが対峙していた。いったい何が原因で、このような事態が勃発したのだろうか。ソエルたちが動向を見守る中、アッシュが口を開いた。白い顔は無表情で、感情の動きは確認できない。
「テメェは、空から逃げてる」
「違う。私は――逃げてなどいない」
「違わねぇ。それなら、どうして戦闘機に乗らねぇんだ?」
「……私は、飛ぶ翼を持たない化け物だ。だから――」
「だから何だってんだよ。テメェが化け物なら、オレもそうじゃねぇか。でも、オレはテメェとは違う」
 次の刹那、かろうじて冷静さを保っていたノワリーの顔が豹変した。彼には似つかわしくない、怒りに支配された顔だった。
「お前に何が分かる! 信じていた全てが偽物だったんだ! どうしたらいいのか分からないんだ! 何を信じればいいのか分からないんだ! 私は生きていてはいけない存在だ! 今、ここで、死ぬべきなんだよ!」
 唇を噛み締めたノワリーは泣いていた。もう、悲しみを抑えきれないのだ。とめどなく流れる涙が、コンクリートの地面に染みを作っていく。苦悩と悲しみに満ちた嗚咽が、凍てついた宵闇に響き、吸い込まれていった。
「テメェは、空で散った奴らの思いを裏切る気か!? オレたちの思いを裏切るのか!? オレたちには、ヴァルキリーには――隊長が必要なんだよ!」
「……私には、何もできない。キメラの私には、何もできはしないんだ」
 暗い絶望を滲ませたノワリーの声が地面に落ちた。常に冷静で思慮深く、ヴァルキリーを導いてきたノワリーの面影は、どこにも存在しなかった。ソエルたちの目の前にいるのは、何も教えられないまま世界に生み落とされた、哀れな一人の青年だった。死に取り憑かれた目が空を仰ぐ。天国の門を、光の国の入り口を探しているのだ。
「――この馬鹿野郎がっ!」
 静かに会話を交わしていたアッシュの表情が変わった。疾風の如く駆け出したアッシュが距離を詰め、ノワリーに掴みかかった。その反動でノワリーを地面に引き摺り倒し、馬乗りになったアッシュが彼の襟元を握り締める。激しい感情が渦巻く紫の目が、真下に横たわるノワリーを睨みつけた。
「ファック! できるとか、できないとかの話じゃねぇんだよ! やるしかねぇんだ! 何が飛べないだ! 何がキメラだ! ヒトもキメラも関係ないだろうが! 動物だって空を飛んでるんだ! 誰だって飛べるんだ! テメェは、それを口実に逃げてるんだよ! 空から逃げてるんだよ!」
 襟元を握り締める手に、更に力が込められる。殴ってもおかしくない状況なのに、アッシュの拳は大人しい。静寂と沈黙が、世界から音を奪う。アッシュがノワリーの上から離脱した。温もりなど一切持ち合わせていない、絶対零度に凍りついた目が、ノワリーを見下ろした。
「……そんなに死にてぇんなら、オレが墜としてやる。今すぐオレと勝負しろ。テメェみたいな弱虫野郎は、ヴァルキリーにはいらねぇよ。オイ! グングニルとブリューナクを持ってこい!」
 アッシュに睨まれた専属メカニックチームを統率するチーフは、困り果てた表情を浮かべた。指揮官に指示を仰がないといけないからだ。チーフは滑走路に座りこんだノワリーに視線を投げかけた。
「――構わない」静かにノワリーが立ち上がった。決意した双眸が彼を見る。「許可する。グングニルとブリューナクを引き出してくれ」
 敬礼したチーフがリゲルと整備士たちを引き連れ、第一格納庫に走って行った。数十分後、二つの戦闘機が滑走路に引き出された。暁光に照らされた、ミッドナイトブルーとシルバーのボディが神々しく輝く。背後に戦闘機を従えた両者は、黙ったまま視線を交差させていた。
「ルールは簡単だ。相手のケツに付いた奴の勝利だ」
「……分かった」
 傷ついた心を引き摺ったノワリーが、ブリューナクの主翼に上った。翼を持たない、生きる意味を見失った英雄は飛べるのだろうか。誰もがそう思っていた。
「オイ」アッシュが呼びかける。ノワリーが振り向いた。
「賭けろよ。誇りを、命を、テメェの全てを。翼は、誰の背中にも生えてる。飾りが重すぎて飛べないのなら、そんなもん捨てちまえ」
 一瞬、ノワリーの目の奥で揺れていた迷いがなくなった。背中合わせになったアッシュとノワリーは、ヘルメットを装着し、コクピットに乗り込んだ。
 キャノピィが閉じていく。
 二機のエンジンは、ほぼ同時に目を覚ました。
 槍の名前を冠した二つの戦闘機が、滑走路をランディングして飛び立って行った。
 暁に染まる空の上で、二人のエースパイロットの戦いが始まろうとしている。
 互いの誇りを賭けて。


 黄金色と水色が混じり合った空を、グングニルとブリューナクが飛んでいる。
 戦いの始まりを告げる合図も狼煙もない。
 互いに感じ取るだけだ。それだけでいい。
 アッシュはスロットル・レバーを一気に押し上げ、ミリタリー・パワーで前進した。
 それと同時に、正面から速度を上げたブリューナクが突っ込んで来る。
 交差する刹那、両者は操縦桿を倒し、円を描くように旋回した。
 相手の背後に占位しようと増速すれば、回転半径は大きくなり、接近を許すことになる。しかし、速度を落とし、小半径で旋回しようとすれば、これがチャンスだと言わんばかりに、速度を上げた敵に背後を取られてしまうのだ。
 凄まじい遠心力がアッシュに牙を剥き、彼の身体を回転の外側へ押しつける。
 全身の筋肉と細胞が、悲鳴を上げているのが分かった。
 だが、ノワリーも苦痛に耐えているはずだ。
 操縦桿を保持しながら、アッシュはノワリーの動向を探った。
 ブリューナクが離脱した。背中を向けて飛び去ろうとしている。
 スロットル・アップで追いかける。
 少し速度を上げ過ぎたようだ。オーバーシュートしてしまうぞ。
 エレベータ・アップ。
 最大可能Gで一気に引き起こす。
 急上昇で速度エネルギーを殺しながら、ラグ追跡の軌道へ。
 まだ速度は高い。
 上空でロールを打ち、更に速度を落とす。
 背後に付こうとしたその時、ブリューナクがブレイクした。
 ブレイクしたブリューナクは右にロールを打ち、急減速した。
 アッシュは咄嗟にエレベータを引き、上昇して難を逃れた。
 ハイGバレルロール。敵機が背後から高速で迫って来た時の回避機動で、ブレイクした後に反対方向へロールを繰り出すことで急減速し、相手を前方に押し出すのだ。成功すれば立場を逆転できるのだが、敵に回避機動を察知されると逆に標的となってしまうという、非常に難しい機動である。
 今度はアッシュが追われる側になってしまった。
 上昇に入っているせいで速度は落ち、ノワリーとの差は縮まる一方だ。
 アッシュは操縦桿を倒し、ロールとピッチアップを繰り返しながら、螺旋状に回転飛行した。
 全く同じ軌跡で、ブリューナクは追跡してくる。
 エレベータ・アップ。
 上昇旋回で速度を高度に変換。
 獲得した高度を速度に変え、降下旋回でブリューナクの背後を狙う。
 刹那、アッシュの視界から、ブリューナクが消えた。
 しかし、アッシュの思考は冷静であった。
 目線を真下に転ずると、急激な横滑りで急降下していくブリューナクが見えた。
 木の葉落とし(デッドリーフ)だ。降下後は獲得した速度エネルギーを活かし、上昇反転で反撃に転ずるか、そのまま離脱するかを選ぶことになる。
 ノワリーは、ここで一気に勝負をつける気だ。
 でも、オレはそんなに甘くはないぜ!
 アッシュはスロットルを絞り、速度を落とした。
 90度バンクの旋回へ。
 右側のフットペダルを思い切り蹴った。
 空気を切り裂くような鋭いスリップ。
 アッシュが操るグングニルは、風に舞う木の葉のように墜ちていく。
 機首を上げて上昇反転。
 グングニルはブリューナクの斜め後方に占位した。
 まさか、木の葉落としをそっくりそのまま返されるとは、夢にも思ってもいなかっただろう。
 焦燥に駆られたノワリーの端正な顔が見られないのが残念だ。
 ノワリーがシザーズを仕掛けてきた。
 アッシュはスロットルを調整し、オーバーシュートしないように細心の注意を払った。
 絡み合うようにシザーズが繰り広げられる。
 コインの表と裏のように、目まぐるしく位置が変わる。
 ロール。
 二機の速度が下がる。有利なポジションを掴もうとしているのだ。
 どちらも有利な位置に辿り着けない。
 三回目のロール。
 シザーズの迷路から離脱する。
 ブリューナクが、螺旋軌道を維持したまま急降下に転じた。
 遠心力が加わり、通常よりもより速く降下できるのだ。
 アッシュも螺旋降下で追従する。
 同じ降下速度と同じ軌跡を描きながら、槍が天から墜ちてくる。
 地面が迫るというのに、どちらもエレベータを引こうとしない。
(ファック! あの野郎、激突する気かよ!)
 巻き添えで死ぬのはごめんだ。
 根負けしたアッシュは、エレベータを引いた。


 コクピットの中のノワリーは、両目の瞼を閉ざしていた。
 このまま墜ちれば、あの時からずっと焦がれていた、美しい天国の門をくぐることができる。
 右手が操縦桿を引くのを躊躇っている。
 さあ、選ぶんだ。
 右手が語りかける。
 果てしなく続く茨の道を歩いて行くか。
 それとも、何もかも捨て去って、光の国に飛び立つか。
 死神の甘い囁き声が、背骨を這い上がる。
 恋人のように甘い、欲情にも近い感覚が這い上がる。
 瞼の奥に、一人の少女が描かれた。
 死んじゃ駄目。空でそんなことをしちゃ駄目だよ。少女が言う。
 光が弾け、
 稲光が轟く。
 魂の奥深くに眠っていたもう一人の自分が目覚め、
 肉体という檻を突き破り、抑圧されていた精神から解き放たれた。
 逃げてはいけない。そう決めたじゃないか。
 ノワリーは両目を開き、世界を受け入れた。
 賭けよう。
 誇りを。
 命を。
 俺の全てを。
 名誉も、栄光もいらない。
 翼さえあれば、それでいい。
 俺に、少しだけ勇気をくれ!
 ノワリーの右手が操縦桿を引いた。
 

 ブリューナクは右手上空から螺旋軌道で急降下し、低高度でアプローチしてきた。
 二基のエンジンの稼働率はフルで、響くような低音が空気を震わせている。
 上昇するグングニルとは反対に、ブリューナクは降下を止めようとしない。
 滑走路に激突して炎上するブリューナクのヴィジョンが、ソエルたちの脳裏に描かれた。
 滑走路上に進入した刹那、ブリューナクが動いた。
 半ロール。
 主翼を垂直に立て、機首を僅かに持ち上げた。
 横倒しになった姿勢を保ったまま、フル・スロットルでブリューナクが突っ込んで来る。
 あれは、ナイフエッジだ。主翼が垂直に立っているので、機体の重量を支えているのは、胴体の揚力だけである。
 ソエルたちの目の前を、轟音とともに、銀色の閃光が駆け抜けていった。
 ブリューナクはナイフエッジのまま、少しずつ高度を上げながら、左手へと飛んでいった。
 高度が充分にある位置ならば、比較的簡単にできるだろうが、この低空で、しかも左右にぶれることなく飛べるのは、限られたパイロットだけだ。
「凄い……」
「ナイフエッジで上昇するなんて……俺にはできないよ」
 圧倒的な技術を見せつけられ、ソエルたちは感嘆と畏怖の呟きを漏らしていた。いつの間にか、パイロットや整備士たちが周りに集まっていた。遥か上空を仰ぎ、二人のドッグファイトを観戦している。
 エンジンノズルが青く燃え上がる。アフターバーナーだ。
 限界まで速度を上げたブリューナクが、一気に上昇した。
 凄まじい速さで、未だ上昇中のグングニルに迫る。
 このままでは、グングニルはエリアに入られてしまう。
(やるじゃねぇか! でもよ、そう簡単にはいかせないぜ!)
 アッシュはエレベータを引き続け、機体が背面になるのを待った。
 垂直上昇からロール旋回によって方向転換する機動――インメルマン・ターン。
 航空機が方向転換するには広大な空間を必要とするが、この機動は垂直上昇の頂点で機体を反転させ、任意の方向に抜け出すことで、水平方向の空間をほとんど使わずに、素早い方向転換が可能となるのだ。
 予想どおり、ブリューナクもインメルマンに入ろうとしている。
 だが、速度が上がっているぶん、速度による旋回軌道の影響を大きく受けるだろう。速度が上がれば上がるほど、大きく旋回してしまうのだ。
 上昇の頂点に到達。
 スロットルを絞る。
 反転。離脱。旋回。
 アッシュはブリューナクの無防備な後ろ姿を捜した。
 見つからない。なぜだ?
 グングニルとは違うエンジンの音が、背後から聞こえた。
 アッシュは肩越しにキャノピィの後ろを振り返り、己が目を見開いた。
 ブリューナクが、張り付くように飛んでいたのだ。
(なっ――! どういうことだ!?)
 アッシュの目が、ブリューナクの胴体上面で作動しているスピードブレーキを捉えた。
 スピードブレーキを開き、機体速度を急激に低下させ、グングニルよりも更に小さく旋回したのだ。
 高速であればあるほど、スピードブレーキの効きはよくなる。しかし、大きなスピードブレーキが作動するとその風圧は大きく、構造上の速度制限やスピードブレーキ後流で、尾翼周りの流れが乱されたことによって生じる振動などが発生するというのに、ブリューナクは見事に安定していた。
(……ファック。なんて野郎だ)
 ブリューナクがリーサルコーンエリアに入ったのを確認したアッシュは手を伸ばし、無線のスイッチを入れた。
「――オレの負けだ」
『違う。私の負けだ』
「は? 何言ってんだよ」
『お前が私に飛ぶ勇気を与えてくれた。……ありがとう』
「テメェが自分で掴み取ったんだ。……礼なんかいらねぇよ」


 ブリューナクはグングニルの横に並び、翼を振った。
 コクピット越しにノワリーは片手を上げ、アッシュに敬礼を送った。
 アッシュが敬礼を返した。
 グングニルのキャノピィに反射した太陽の光が、彼の姿を隠した。きっと、照れ隠しだ。
「空から逃げている……か」
 アッシュの言葉に、ノワリー苦笑した。
 確かに、そのとおりだと思う。
 地上に閉じ籠り、ずっと空から逃げていた。
 見つからないように息を潜め、
 目立たないように、翼を折り畳んで隠れ続けていた。
 飛ぼうと思えば、いつでも飛べた。
 ブリューナクは、ずっと待っていてくれた。
 今からでも、間に合うだろうか?
 それとも、俺の翼は、蝋のように溶けてしまっただろうか?
 ノワリーは、肌身離さず持っている指輪を、胸ポケットから取り出した。
 空で散った婚約者、シルヴィに捧げたエンゲージリングだ。
「俺にも……できるだろうか」
 指輪の滑らかなラインをなぞり、ノワリーは目を閉じた。
 幻のイージスとシルヴィが現れ、
 大丈夫と言って笑い、
 肩を叩いてくれた。
 そして、手を振りながら、二人は消えた。
 閃光とともに、
 稲妻が駆け抜ける。
 目を開けた。
「……行って来るよ。イージスさん、シルヴィ」
 指輪に口づけを。
 もう、大丈夫。
 俺は――飛べる。


 白く輝く太陽を背中に背負ったグングニルとブリューナクが、青空を旋回して滑走路に着陸した。キャノピィが開き、アッシュとノワリーがコクピットから地上に降り立つ。ヘルメットを脱いだ二人の顔は、深い裂け目を埋め、わだかまりを乗り越えた者同士のように、清廉で晴れ渡っていた。
「テメェ、飛べるんじゃねぇかよ」
 アッシュの拳がノワリーの胸を突いた。そして、アッシュが笑う。琥珀色の目が瞬き、ノワリーが清々しい笑顔を浮かべて頷いた。
「――ああ。そうだな」
 次の瞬間、二人は拳を突き合わせ、眩しい笑顔を共有した。戦いをとおして分かり合えたのだ。美しい空が、二人の絆を強くしてくれたのだ。琥珀色の真っ直ぐな眼差しが、ソエルたちを捉えた。もう、虚ろな目ではない。気高く強靭な光が、瞳の奥に宿っていた。生きる意味を見出した証だ。
「……迷惑をかけたな。すまない」
「馬鹿!」
 朝焼けにソエルの叫び声が響き渡った。迷宮のように絡み合い、張り詰めていた糸が、一斉に切れたのだ。形の定まらない涙が溢れ出す。涙で滲んだ視界の向こうに、目を丸くして立ち尽くすアッシュとノワリーがいた。
「私たち……死ぬほど心配したんですよ!? あんな無茶なことして――! アッシュ君も隊長も、大馬鹿者ですっ!」
 顔を伏せ、ソエルは泣いた。情けない泣き顔を隠したくて、両手で顔を覆って更に泣いた。アレックスたちも涙を堪えている。白くて華奢な手が、嗚咽を堪えるソエルの肩に着地した。操縦桿よりも脆い手の持ち主はアッシュだった。
「……お前も辛かったんだろ? やっと会えた兄貴から敵同士だなんて言われてよ。人のことを心配するよりも、まずは自分のことを心配しろ。優しすぎるんだよ、ソエルは……。思い切り泣いちまえ。思う存分泣き叫んで、心を綺麗にしろ」
「……アッシュ君……私っ……私っ……!」
 華奢な手がソエルの肩を滑るように撫で、優しく彼女を引き寄せた。密着した心臓が、互いの鼓動で音楽を奏でている。その音色は、大空を思い出させてくれた。自由の象徴である青空が、瞼の裏側に広がる。涙が零れ続ける。抱き合う二人の側でノワリーが息を呑み、沈痛な面持ちで目を伏せた。
 ソエルは心に沈殿していた濁ったものを全てを吐き出した。吐き出したそれは、透明な涙で濾過され、雫となって地面に落ちていく。涙が涸れ、嗚咽も止まり、ソエルの心は綺麗になった。しばらくの間、ソエルはアッシュと体温を共有した。もう一度、ノエルに会いたい。会わないといけない。そう決心し、ソエルはアッシュから離れた。
「……ごめんなさい。もう、大丈夫です」
「気にすんな。謝るのはオレのほうだ。悪かった」
「私にも非がある。すまなかった」
 アッシュとノワリーが、同時に頭を下げた。二人は大罪など犯していない。ただ、自由に空を飛んだだけなのだ。涙を拭き、ソエルはノワリーを見上げた。視線が交わる。全てを乗り越えたノワリーは、力強い微笑みを浮かべ、この場にいる全員を見回した。
「私は――もう、二度と、空から逃げない。お前たちとともに、空を駆けることを誓う」
 歓喜の声が爆発し、ユグドラシル基地を覆い尽くした。誰もがノワリーの復帰を喜び、祝福した。仲間とハイタッチをして喜ぶ者。号泣して喜びを表現する者。なかにはノワリーに抱き付く者もいた。やっぱり、彼は誇りを失っていなかった。光の槍が、再び輝く時がきたのだ。
「勝手な真似は、許さんぞ!」
 壊れたラジオのような怒号が、祝福の場を見事に台無しにした。いつの間に来たのか、ゲートの方角からオズワルド准将とエリオット大佐が歩いて来た。怒り狂う准将とは正反対に、大佐は人形のように無表情だ。
 群衆を掻き分けたオズワルドが、ノワリーの正面に立った。クラッドは数歩後ろで待機している。詐欺師のような狡猾な笑みが、オズワルドの顔中に蔓延した。
「ノワリー・エリオット大尉。君を、ユグドラシル基地の指揮官から解任すると、上層部から通達があった。後任はワシに決まったから、安心してくれたまえ」
「私は、何も聞いていませんが」冷静な表情のまま、ノワリーが静かに答える。
「当然だ。たった今、ついさっき決まったことだからね。長い間ご苦労だった。荷物を纏めて、さっさと出て行きたまえ」
「従う気はありません。貴方の独断でお決めになったことでしょう? 出て行くのは貴方のほうです。オズワルド准将」
 薄笑いのメイクに亀裂が走った。ノワリーが大人しく従うと思いこんでいたようだが、その企みはいとも簡単に失敗し、あろうことか逆に帰れと言われたのだ。二度目の怒りがオズワルドの丸い顔を覆い尽くした。太い指がノワリーのネクタイを掴んで締めあげる。激高した顔がノワリーを睨みつけた。ノワリーは臆していない。表現するならば、蛇に睨まれた鷲ということか。
「キメラごときが人間様に逆らうのか!? 死に損ないの化け物め! 貴様の身体も容姿も偽物だ! 貰い物の部品で作られたにすぎんのだよ! 友人を犠牲にして生き延びた気分はどうだ!?」
 聞き捨てならない罵詈雑言が、ソエルの怒りを誘発させた。憤りがソエルの全身を駆け巡る。クビになったって構うものか。あの薄汚い顔面に制裁を与えてやる。拳を握り締め、ソエルは走った。オズワルドに突進して、拳に力を込めた。
 渾身の力と全身全霊の力を拳に込めたソエルの右手が、オズワルドの顔面を殴った。見事なロールを描いた丸い身体が吹き飛んだ。オズワルドが滑走路に転がる。誰も彼を助け起こそうとはしない。クラッドさえも。起き上がったオズワルドがソエルを睨みつけた。低い鼻から鼻血が溢れている。赤い血のメイクがお似合いだ。
「隊長は、化け物なんかじゃない! 誰もが憧れる英雄『光の槍』よ! ユグドラシル基地と、チームヴァルキリーを支えてくれる人よ! 権力や地位に囚われた貴方のほうが化け物よ! でき損ないだわ!」
「ステュアート! 止めるんだ!」
「この――小娘が! ワシを殴った罪は重いぞ! 相応の代償を支払ってもらおうではないか! 鞭打ちがいいか!? 爪を一枚ずつ剥いでやろうか!? それとも――」
 軍靴を響かせたオズワルドがソエルに近づいた。血塗れの顔面に、サディズムな笑みが広がる。アッシュとノワリーがソエルを背中に庇った。素晴らしい作戦を思いついたように、オズワルドが笑った。学生に演説する教授になりきったオズワルドが、群衆を見回した。
「諸君! よく聞きたまえ! ここにいる男は、人間ではない化け物だ! 彼は、死んだパイロットの肉体を再利用して生まれた、キメラと呼ばれる永遠に戦い続ける兵器だ! 君たちが尊敬し、崇拝する英雄殿は、人間の衣を纏った化け物なのだ!」
 蜂の巣を刺激したように、喧騒が大きくなっていく。両手を掲げたオズワルドは、勝利の味に酔いしれている。なんて卑怯な奴なんだ。こんな男が空軍の准将なんて、明らかに空を冒涜している。
「……確かに、俺は、キメラと呼ばれる化け物だ」
「おや。自ら認めるとは。潔い男だな」
「その化け物に媚びていたのは誰だ?」
「……何だと?」
「化け物の俺に媚びて、へつらって、甘い汁を吸ってきた、あんたたちのほうが醜い化け物だ。腐りきった俗物め。この勲章が欲しいんだろう!? こんなもの、欲しければくれてやるよ!」
 漆黒の軍服のジャケットを脱いだノワリーは、ジャケットを投げ捨てた。華々しい栄光を物語る勲章が地面に叩きつけられ、硬質的な音が奏でられる。白いシャツの上で輝くヴァルキリーのエンブレムだけがその場に留まった。戦乙女の横顔は、気高い光芒を纏っていた。
「このエンブレムには、空を駆ける人々の誇りが詰まっている! あんたには、背負いきれない重さの誇りだ!」
 英雄が高らかに吠え、歓声が爆発した。誰もノワリーを罵らなかった。滑走路にいる誰もが、ノワリーの下で飛びたいと思っている。同じ空を駆けたいと願っている。四面楚歌の状況に陥ったオズワルドが、蒼白な顔でソエルたちを見回した。
「この男は『キメラ』だぞ! 化け物なんだぞ! どうして言うことを聞くんだ!?」
「うるせぇ! 風船玉!」
 リゲルが一歩前に踏み出た。彼の周りには、レンチやバーナーを装備したメカニックたちが待機している。つまり、いつでも袋叩きにできる状態だ。
「キメラだろうが、兵器だろうが、そんなのどうでもいいンだよ! 俺たちは――ユグドラシル基地の人間だ! エリオット隊長の命令しか聞かねぇし、従わねぇ! よーく覚えときな! クソ野郎!」
「しっ……下っ端が偉そうな口を利くな! ワシは准将だ! こんな小さな基地などいつでも潰せるんだぞ!」
「やれるものならやってみなさい!」メアリィが透明な声を張り上げた。「その時は、あんたの頭を機関砲でブチ抜いてやるわ!」
「ゴミどもが生意気な! 全員クビにしてやる!」
「もう止めたらどうだ? オズワルド殿」
 状況を傍観していたクラッドが、その口を開いた。反論しようとしたオズワルドは、金魚のように口を上下させたが、肝心の言葉は出てこなかった。
「指揮官の座に就くことは、諦めたほうが賢明だ。おとなしく身を引くことだな」
「クラッド! 貴様――!」
「消え失せろ! 蛆虫が!」
 クラッドの恫喝がオズワルドを貫いた。激しい稲妻に撃たれた哀れな小心者の准将は、情けない悲鳴を上げながら逃げて行った。ノワリーとクラッド。互いの視線が交差した。
「……大佐」
「……勘違いするな。お前を庇ったわけではない」
「分かっています。私は――俺は、『ノワリー』として生きていきます。ここにいる彼らは、キメラの俺を必要としてくれている。一緒に空を飛びたいと思ってくれている。それだけで、俺は生きていける。『ノワリー』として生きていける。貴方が俺を息子として見ていなくても、俺は――貴方を父親だと思っています」
 クラッドの表情が、一瞬だけ真夏の陽炎のように揺れた。敬礼をしたノワリーは彼から視線を外すと、ソエルたちを見回した。
「各自機体を点検しろ! 点検が終わり次第、基地を飛び立つ! まずは、俺たちヴァルキリーが先陣を切る! 他のチームは俺からの指示があるまで待機だ。いいな!?」
 機体の点検に向かったパイロットと整備士たちが散開していった。先陣を切る役目を担った、アルヴィト、メイデンリーフ、ブリュンヒルドが滑走路に引き出され、グングニルとブリューナクと合流した。ついに、ヴァルキリーの戦闘機が全て揃ったのだ。
 どの機体も飛び立つのを待っている。
 大空に軌跡を描くのを待っている。
 ノワリーがソエルたちを見回した。
 目が合い、強い意思が伝わる。
 勇敢で気高い稲妻が、一人一人の魂の奥で轟いた。
「チームヴァルキリー、出撃する!」