空から離れて、自分を見つめ直したいんだ。
 青空のように清廉な微笑みを浮かべた、彼の決意の言葉が忘れられなかった。
 チームヴァルキリーのエースパイロット――アッシュ・ブルーがユグドラシル基地から旅立ってから、一年の歳月が流れた。空を守るために基地を飛び立ち、そして基地に帰還するという日々を、ソエルたちは繰り返していた。
 アンティオキアの戦闘機と遭遇する確率は、大幅に低下していた。少しずつではあるが、世界の情勢が安定してきている証拠だと思いたい。しかし、世界の利権を手中に収めようとしている軍事国家が、世界樹ユグドラシルを諦めたとは俄かに信じ難い。平和の陰で身を顰め、虎視眈眈と機会を狙っているのだ。ノワリーの庇護の下を離れたアッシュが無事でありますように。流れゆく雲を見上げ、ソエルは群青色に希った。
 杞憂の海に沈んでいたソエルを引き揚げたのは、アッシュから届いたメールだった。携帯電話を操作しているアッシュを見かけたことは、覚えているかぎりでは一度もないというのに、いつの間に人類の英知の結晶である機械を使いこなすようになったんだろう。
 オレは元気だ。お前は元気にやっているか? 友たち同士がやり取りしているような、ありふれた短い言葉の文面たち。週に二、三回程度の文通だが、彼が元気に旅をしていることが伝わってきた。青空や夕焼け空に、プラネタリウムが嫉妬してしまいそうな、美しい星空の写真が添付されていることもあった。絵文字やハートマークの代わりというわけか。アッシュが絵文字を使いこなす姿なんて、想像もできなかった。
 一日でも早く、帰って来てほしい。
 話したいことが積み重なりすぎて、雪崩を起こしそうだった。
 日に日に募っていく想いを抱き締めながら、
 ソエルは戦闘機と人を墜とす必要のない、平和な世界を生きていた。


『そろそろ時間だね。基地に戻ろう』
 ノイズと手を繋いだアレックスの声が、ソエルに帰還を提案した。無線はいつも駄々をこねている。いつになったら反抗期を卒業して、雑音無しで喋れるようになるのだろうか。メカニックチームに修理と点検を依頼しなければいけない。ソエルはディスプレイの時計に目を向けた。丁度、基地に帰還する時間に到達するところだった。燃料もマナも充分ある。もう食べられません。タンクのお腹は一杯だ。
「了解です」
『コンバットスプレッドを維持してくれ。俺が前を飛ぶよ』
 高度差8メートル。斜め後方30度を維持。鮮やかなジェイドグリーンの戦闘機が、翼を翻して飛んで行く。F15ストライクイーグル。アレックスの愛機メイデンリーフだ。エレベータ、ラダー、スロットルを調整して、ソエルは彼の軌跡を追いかけた。
 眼下に広がる純白の雲海の切れ間を覗くと、豆粒のような建物が見えてきた。ユグドラシル基地。ソエルたちが帰るべき場所だ。地上から見上げると巨大な管制塔も、空の上から見下ろすと、小人のように小さかった。
 一直線に走る滑走路の位置を確認。高度と速度を下げ、着陸の態勢に入る。車輪を出し、コンクリートの滑走路に着陸。減速。ランディング。機体が完全に止まったのを確認して、キャノピィのロックを解除する。ソエルはコクピットから這い出した。滑走路で待機していた整備士たちが、白と緑の戦闘機を手際良く運んでいった。
「ソエルの腕も上がったよね。俺より上手いんじゃないかな」
「えっ? そんな……まだまだ未熟者ですよ」
「謙虚だなぁ、ソエルは」
 思いもがけず操縦技術を褒められたソエルは、驚くと同時に喜んだ。ソエルがアッシュのような性格ならば、当たり前だ馬鹿野郎とアレックスを蹴飛ばしていただろう。
 確かにアレックスの言うとおりだと思う。微々たるものではあるが、ソエルは操縦技術が上がっていると自負している。それでも、アレックスやメアリィ、アッシュの足下にも及ばない。彼らのように滑らかに飛行するには、永い時間を有する必要があるだろう。
 アッシュがチームを離脱してからは、アレックスがソエルのパートーナーに指名された。彼と数回のミッションをクリアするうちに、ソエルはアッシュとアレックスの飛び方の違いに気がついた。
 アッシュの飛行は鋭角的で、パイロットが乗っていないような、いつ墜落してもおかしくない、見る者を不安にさせる飛び方だった。それに対し、アレックスの動きは滑らかで安定感があり、安心して前後の守りを任せられる飛び方だ。人間が一人ずつ違うように、空を飛ぶ軌跡もパイロットによって違うのかもしれない。
 さあ、放浪中のエースパイロットに愛の台詞を送ろうか。ソエルはフライトバッグから携帯電話を引っ張り出して電源を入れ、眠っていた携帯を叩き起こした。メールの入力画面を開き、日課となったアッシュとの文通を開始した。鬱陶しいと思われない長さの文章を打ち込み、送信キーを押す。ここ数日返事が返ってこないのは、いろいろと忙しいからだろう。送信完了の文字がディスプレイに表示された。
「二人とも、ご苦労さん」
 機体を格納庫に収納したリゲルが手を振った。相変わらずツナギは真っ黒だ。
「お前さ〜。たまには服洗えよ。女の子にモテないぞ」
「ほっとけ。そうそう、ソエルにお客様だぜ」
「え? 私にですか?」
「ああ。オフィスにいるはずだぜ。会いにいけよ」
「まさか――あいつか?」
「さあ? 誰でしょうねぇ〜」
「その顔、すっげぇムカつくんですけど!」
 長い脚を振り上げたアレックスが、チェシャ猫のように笑うリゲルの背中に蹴りをプレゼントした。小気味のいい音が響き渡る。中身がちゃんと詰まっている証拠だ。もしかしたら――。ソエルの頭脳を、直感という名の稲妻が走り抜けた。催促するアレックスとリゲルに背中を押され、ソエルは飛行隊隊舎に飛び込んだ。
 鋼鉄のボーイフレンドは、辛抱強くソエルを待っていてくれた。エレベーターに乗り込んで三階に上昇。フライトスーツのままだという事実に気づいたが、査問会に招集されたわけじゃないんだ。笑って許してくれることを期待しよう。逸る気持ちと乱れた呼吸を落ち着かせ、オフィスの前に向かう。距離が縮まっていくにつれ、話し声が聞こえてきた。
『随分、迷惑をかけちまったな』
『謝る必要はない。もう大丈夫なのか?』
『まぁ……何とか折り合いはついた。だから、戻って来たんだ』
『そうか、安心した。お前がいないと、ヴァルキリーは成り立たないからな』
『グングニルは……やっぱ沈んだままだよな』
『すまない。回収できなかった。上に掛け合って、新しい機体を支給してもらった。グングニルと同じF35Aライトニングだ。エンジンが最新式になっただけだ。安心しろ』
『よく予算を回してもらえたな。さすがは英雄、と言ったところか』
『辞めると言えば、奴らは慌ててご機嫌を取りたがる。利用するだけ利用してやるつもりだ』
『悪魔かよ。恐ろしい男だな』
 控え目な笑い声は空気中に溶けていき、再び静寂が訪れた。タイミングを見計らい、ソエルはドアをノックした。入室が許可される。ドアノブを回転させる手は震えていた。開いたドアをくぐり、ソエルはオフィスの床に足を乗せた。
 デスクに座っているノワリーと、「彼」がソエルのほうを向く。到着して間もないのだろう。ソファの上には小振りの鞄が置いてあった。長旅に疲れた鞄は、神への信仰心を失ったようにくたびれていた。
「――よぉ」
 はにかむように、「彼」――アッシュ・ブルーが白い笑顔を浮かべた。船舶を固定する碇のように跳ねた濃紺の髪。小柄で華奢な姿は、一年前とほとんど変化していない。紫の双眸を覆い尽くしていた鋭い光は影を潜め、優しい光がソエルを見つめていた。
「お久し……振りです……」
 瞼が痙攣し、喉の奥が痛い。涙腺が引き千切れそうだ。睫毛が濡れている。遂にソエルは泣いてしまった。空色の瞳から零れ落ちる涙に驚いたアッシュが、慌てた表情を浮かべて側に来た。笑顔で出迎えようと決心していたのに、意地悪な涙だ。
「……泣くことはねぇだろ」
「ごめんなさいっ……凄く、嬉しくて……ずっと、アッシュ君が戻って来るのを、待ってたんです」
「ファック。……必ず戻るって言っただろ。相変わらず、ソエルは泣き虫だな」
 操縦桿よりも脆く、機関砲のトリガも付いていないアッシュの手がソエルの金色の髪に触れ、慰めるように梳いていく。早く泣きやんでくれという、アッシュの祈りが込められているようであった。二人の様子を見守っていたノワリーが立ち上がり、アッシュの正面に立った。教会で洗礼を受ける子供のように、アッシュは静かだ。
「ブルー。これを返す時がきたようだ」
 ノワリーの手が軍服の胸ポケットに消え、次に現れた時には、掌の上に黄金色のエンブレムを乗せていた。アッシュの右手の上に、エンブレムが手渡される。
 この時を、この瞬間を待ち望んでいたかのように、エンブレムが眩い煌めきを放った。チームヴァルキリーの名前の由来である、戦乙女の横顔が彫られたエンブレムをアッシュは握り締めた。
「お帰りなさい。アッシュ君」
「よく戻って来てくれた。我々は、お前を歓迎する」
 アメジストのような瞳が揺れて滲み、目尻に透明な涙が浮かんだ。
 アッシュはそれを拭おうとせず、涙の好きなようにさせていた。
「――ただいま」


 飛行隊隊舎を後にしたソエルはアッシュと並んで歩きながら、一年間積もりに積もった出来事を話していた。ユグドラシル基地のこと。ヴァルキリーのこと。フライトのこと。世界情勢のこと。話題は次から次へと溢れ出て、それを足場にすれば、スペースシャトルなしで宇宙に行けるのではないかと思った。
 ふとソエルは、アッシュの作り出す表情が豊かになったことに気づいた。一年前はいつも不機嫌そうに顔を顰めて悪態を吐き、言葉の端々に棘があった。それに、世界の終焉を望んでいるような雰囲気を纏っていた。今の彼は会話に相槌を打ち、まだぎこちないが微笑みを浮かべている。変わりつつある自分に戸惑っているようだが、変化を受け入れようと努力しているようだ。
 アッシュの横顔を観察してみると、少し大人っぽくなったような気がした。蛹から羽化して蝶に変身するように、少しだけ成長したのかもしれない。ソエルの視線を察知した彼が振り向く。目を合わせたら照れてしまいそうな気がしたので、ソエルは慌てて明後日の方向を向いた。
「何だよ。オレの顔に、ゴミでもついてんのか?」
「何でもないです! 気にしないでください」
「まあ、いいけどよ。なあ、格納庫に行ってもいいか? 新しいグングニルを見たいんだ」
「もちろんですよ。行きましょう。アレックスさんたちがいるかもしれませんしね」
「そうだな。元気にしてんのかな、あの野郎は」
 第一格納庫の前では、アレックスとリゲルが会話を繰り広げていた。アッシュを連れたソエルが、格納庫に来るのを待っていたのかもしれない。アレックスが手を振っている。視野が広いのだ。アレックスが駆け寄って来た。色んな感情を絵の具にして混ぜ、顔というキャンバスに塗りたくったような表情をしていた。
「……馬鹿野郎。一年も待たせやがって。ずっと、心配してたんだぞ」
「相変わらず、図体だけは立派だな」
 太陽に祝福された笑顔を浮かべたアレックスが身を屈め、アッシュの髪を掻き回した。回転式洗濯機みたいな勢いだ。アッシュも彼に負けないくらいの笑顔を浮かべ、アレックスの脛を思い切り蹴飛ばした。痛みを抱えながらも、アレックスは笑顔を絶やさない。泣いているのか笑っているのか分からない混沌状態だ。そこにリゲルもやって来て片手を軽く上げ、存在をアピールした。
「ウッス。久し振りじゃん」淡白な挨拶でも、短い台詞の中に喜びが織り込まれている。
「そうだな。テメェも相変わらずじゃねぇか、星野郎」
「……あのなぁ。いい加減、俺の名前覚えろよ。てゆうか、星野郎って酷過ぎね?」
「はいはい。リゲル、オレの機体は元気ですか」
 宇宙の色に染まった紺碧の瞳が、数回瞬いた。どうやらリゲルは、アッシュが素直に名前を呼んでくれるとは想定していなかったようだ。面食らった表情を消したリゲルは、夏の青空のような爽やかな笑顔を浮かべた。口元から零れる白い歯が眩しい。
「天才メカニックのリゲル様が整備してるんだ。元気に決まってンだろ! 何なら、これからテスト飛行してみるか?」 
「それは駄目ですよ! 隊長に許可を貰わないと――」
 ユグドラシル基地を支配する、指揮官ノワリーの許可も得ずに飛行するなんて、まさに神をも恐れぬ行為だ。ソエルは慌てて否定したが、銀髪の整備士は諦めてはいない様子だ。
「大丈夫だって。いざとなったら、隊長の靴に苺ジャムをブッ込んでやるからよ」
「そっか。その手があったな。今度はマーマレードにしようよ」
「蜜柑の皮たっぷりのヤツがいいな。今度はソエルも隊長の泣き顔が見れるぜ」
「エリオット隊長の泣き顔か……いいな、それ。スカしたあの野郎の泣き面、オレも見てみたいぜ」
 真面目くさった表情で繰り広げられる、アレックスとリゲルの絶妙すぎる掛け合いは、冗談なのか本気なのか全然分からないのに、聞いているこっちまで笑いそうになる。アッシュも参加した掛け合いは、ヘリウムガスを詰め込んだ風船のように膨らんでいった。
「――そうか。やはり、あれはアルジャーノンとフォーマルハウトの仕業だったのか」
 真冬の北風を彷彿とさせる、凜とした声がソエルの背後から響いた。ここにいるはずのない青年の声だ。二人の悪戯小僧が浮かべていた微笑みは瞬く間に崩れ去り、その顔は幽霊と遭遇した子供のような青白い色に染まった。
 二人を震え上がらせた悪霊は、どんな姿をしているのだろう。ソエルが振り向くと、封筒を小脇に抱えたノワリーが、すぐ後ろに立っていた。一見怒っているように見えるが、形のいい唇は微かに笑っていた。
「隊長? どうしたんですか?」
「書類を渡すのを忘れていた。ブルー、許可は出す。テスト飛行しても構わないぞ」
「……え? マジでいいのか?」
「もちろんだ。お前はヴァルキリーを支えるエースパイロットだ。その腕が錆びついていては困るからな」
 歓喜の微笑みが、アッシュの面を覆い尽くした。お目当てのオモチャを見つけ、親を急かす子供みたいにリゲルの袖を引っ張ったアッシュは、自称天才メカニックと一緒に格納庫に姿を消した。
 ミッドナイトブルーにペインティングされた、真新しいボディのF35Aライトニングが引き出される。キャノピィに包まれたアッシュは、空だけを見つめていると思っていたのに、ソエルと目が合うと彼は笑ってくれた。
 単発のエンジンが咆哮する。
 滑走路を走り抜けたグングニルは、大空に還っていった。
 アッシュは地上に戻って来る。
 一年前のアッシュとは違うんだ。
 だから、帰って来る。
 猛禽類のような鋭いダイブ。
 グングニルが減速しながら滑走路に戻って来た。
 機体下部から伸びた車輪が、コンクリートの滑走路に触れた。
 エレベータ・アップ。
 スロットル・ダウン。
 着陸すると思った刹那、速度を上げたグングニルが滑走路を駆け抜け、再び離陸していった。
 着陸してから間髪入れずに離陸する、タッチ&ゴーだ。
 一直線に舞い上がるライトニング。
 濃紺の衣装を身に纏った踊り子は、大空の舞台でワルツを踊り始めた。
 エレベータ・アップ。
 宙返りの体勢に。
 180度のロール。
 背面で頂点に到達。
 その直後に鋭いスナップ・ロール。
 一回転して再び背面へ。
 アップ。
 ダウン。
 水平飛行。
 上昇。
 キューバンエイトか。
 いや、違う。
 二回のインメルマン・ターンとスプリット・Sが、縦に数字の8を描いた。
 エレベータ・ダウン。
 水平飛行に戻った。
 反転。
 旋回。
 離脱。
 インメルマン・ターン。
 左右にロールを繰り返し、同じ角度とタイミングで主翼を止めている。
 ダイブと上昇のエンドレス。そして、幾何学的な軌跡。
 まるで、青空のキャンバスに絵を描いているみたいだ。
 戦闘機と、空と一つになっていなければ、
 あんな飛び方はできないだろう。
 彼は――アッシュは自由なのだ。
 だから、綺麗に飛べる。
 空の中に溶けることができるのだ。
 やっぱり、アッシュは空を飛ぶために生まれてきたんだ。
 神様に青空で生きることを許された鳥のように。
「――羨ましいな」
 ソエルの隣に立ち、空を仰いでいるノワリーが、静かに呟いた。琥珀色の双眸は迷子になることもなく、グングニルの描く軌跡に吸い付いている。あの銀色の戦闘機――ブリューナクで、空を駆ける幻想のヴィジョンを見ているのだろうか。
「……時々、自由に飛べるお前たちが羨ましいと思う。私は地上に縛られて、もう――飛べないからな。光の槍と呼ばれたあの頃が懐かしい」
 ノワリーの端正な顔を走り抜けた、未練という色をソエルは目撃してしまった。未来永劫飛べないと分かっていても、空を飛びたい。そんな切実な思いが声に現れ、彼の横顔を染めあげていた。空を飛ぶという自由を知ってしまった者は――地上では生きていけないのかもしれない。
「……隊長」
「――すまない。くだらないことを言ったな。私はオフィスに戻る。この書類をブルーに渡してくれ。頼んだぞ」
 書類の入った封筒をソエルに預けると、ノワリーは踵を返して飛行隊隊舎に戻って行った。
 空を飛べない悔しさを噛み締めながら、窮屈な仕事と格闘するのだろうか。
 迷いのない足取りだ。誰の手も取らずに生きてきた背中だと思った。
 ノワリーの姿が隊舎の中に消えるまで、ソエルはずっと見続けていた。


 早起きの目覚まし時計とのチキンレースが始まった。結果はソエルの勝利。目覚まし時計が抗議する前に、時計のアラームをOFFにした。大きく伸びをしてベッドから離脱する。カーテンを開放すると、無色透明の陽光が差し込んできた。
 今日から数日間、フライトの予定は入っていない。二度寝も悪くはないが、せっかくの貴重な休みだ。何をして過ごそうか迷ってしまう。まずは朝食を食べることにしよう。パジャマを脱いで私服に着替え、階段を下りて一階へ。ソエルはピロティの向こうにある食堂に向かった。
 非番のパイロットたちを詰め込んだ食堂は、破裂する一歩手前の状態だった。朝食を食べたり、談笑したりしているが、皆暇を持て余していて、平和な世界を一秒でも長く満喫しようとしているのだ。窓際の席に座っているアッシュとアレックスを発見した。アッシュが食堂にいるなんて珍しい。そう思いながら、ソエルは二人の側に行った。
「おはようございます」
「……ウッス」
「おはよう」
 相席してもいいかと尋ねると、二人は快く承諾してくれた。椅子を引き、ソエルはアッシュの向かい側に座る。正面に陣取るアッシュの顔は、半分死んでいた。人目を気にせずに、アッシュは盛大な欠伸をした。アレックスの話によると、アッシュは朝に弱いらしい。
 朝食を取りにカウンターへ向かう。メニューを吟味したソエルは、ロイヤルミルクティーとバタートースト、目玉焼きとサラダを頼んだ。ソエルの後ろで笑い声が上がる。肩越しに振り向くと、アッシュと数人のパイロットが楽しそうに話していた。一年前のアッシュには見られない光景だった。
 完成した朝食を戦利品に席に戻る。湯気を纏った生まれたての朝食は、会話が弾んでいくとともに減っていった。電子音で合成されたメロディが鳴り響く。独特の世界観で有名なアーティストの曲だ。発生源はアレックスのズボンのポケットだった。ごめんねと断るとアレックスは携帯を引き摺り出し、会話をしながら廊下に歩いて行った。窓越しに見えるアレックスの横顔は、どことなく嬉しそうだった。
「アッシュ!」通話を中断したアレックスが、窓越しに叫んだ。「母さんから電話! お前に代われってさ!」
「んだよ。面倒くせぇな」
 席を立ったアッシュは、不良少年みたいにポケットに両手を突っ込み、不満を零しながら廊下に歩いて行った。アッシュの姿が廊下に消えると、入れ替わるようにアレックスが戻って来た。その手に携帯電話は握られていない。どうやらアッシュにプレゼントしたようだ。
「アッシュ君のお母さんですか?」
「ううん、違うよ。俺の母さん。いろいろあってね、俺の母さんが、アッシュの親代わりなんだ。母さんの淹れる紅茶は、世界一美味しいんだよ。手作りのクッキーもね」
「一度、ご馳走になってみたいですね」
 会話を終えたアッシュが戻って来た。アレックスに携帯電話を突き返したアッシュは、ポケットからスモークの箱を取り出し、上下に振って顔を出した一本を口に銜えた。目的地は喫煙コーナーだ。彼が旅立つ前に、アレックスがアッシュを呼び止めた。
「母さん、何て言ってた?」
「あ? 元気でやってるかとか、身体の調子はどうだとか、そんなんだ。またスモークを送ってくれるって言ってたぜ」
「俺のことは?」
「馬鹿で情けない息子だけど、よろしく頼むってよ」
「ちょいちょい! 母さんはそんなこと言わないよ!」
「どうだか」
 口を尖らせて必死に抗議するアレックスを横目で笑ったアッシュは、一時的に食堂から離脱して、喫煙コーナーに歩いて行った。ロイヤルミルクティーを堪能しながら、ソエルは窓の外に視線を向けた。気持ちの良い青空が広がっている。
 今日は天気に恵まれているみたいだ。こういう素晴らしい日は、どこか遠くへ出かけたくなる。一人旅もいいが、やっぱり人数が多いほうが楽しいだろう。まずはアレックスに提案してみようか。
「お二人とも、今日は非番ですよね。街にでも行きませんか?」
「いいね、それ。アイツが戻って来たら、訊いてみようか」
 パイロットの海を泳いで、喫煙コーナーの楽園からアッシュが戻って来た。椅子を引いて座ったアッシュに、ピクニックの招待状を手渡す。招待状を受け取ったアッシュは、参加する意思を示したものの、どことなく憮然とした表情だった。
「何だよ、その顔。嫌そうじゃん」
「嫌じゃねぇよ。行くって言ってんだろうが」
「あ〜分かった」アッシュの機嫌を悪くさせている理由に気づいたアレックスが、意地の悪い微笑を口元に浮かべた。「お前、ソエルと二人きりで――」
「ファック! 馬鹿! こっちに来い!」
 電光石火の如き素早さでアレックスの腕を掴んだアッシュは、そのままソエルから離れた場所に移動して、何やら怪しい談合を始めた。会話が交互に繰り広げられているようだが、残念ながら内容は聞き取れない。アレックスがアッシュに囁いたその直後、アッシュのハイキックが彼の臀部に炸裂した。
 海老のように長身を反らせ、泣き喚くアレックスを置き去りにして帰還したアッシュは、とても晴れ晴れとした表情で、行こうぜとソエルに出発を促した。顔を引き攣らせて半泣き状態のアレックスも付いて来る。ソエルは笑いを堪えるのに苦労して、腹筋が崩壊しそうだった。


 戦闘機と違い、バスはよく揺れる。地上を走る乗り物は皆そうだ。大地に生きる者の宿命なのかもしれない。道路や線路に縛られて不自由な乗り物だと思う。でも、生きるには必要不可欠な物だから我慢しよう。指揮官のノワリーに外出許可を貰おうと思ったのだが、生憎、彼は外出中だった。事務の女性に連絡を取ってもらうと、外出許可は簡単に下りた。これで一安心だ。思う存分豪遊できるぞ。
 今日は日曜日。七日間で世界を創り終えた神様の休日だ。親子連れや恋人で賑わう街を散策しながら、本屋を覗いて最新刊を立ち読みしたり、流行の服をチェックしたりした。いくらかお金は持って来たものの、帰りのバス代を残して財布は空になった。そろそろ帰ったほうがいいだろう。これ以上留まっていたら誘惑に負けてしまい、バス代を犠牲にして買い物してしまいそうだ。
「そろそろ帰りましょうか」
「んだよ。まだいいじゃねぇか。もっと遊ぼうぜ」
「駄目だって。ヒッチハイクして帰る羽目になるよ」
「ヒッチハイク? 上等じゃねぇか。運転手に化けた殺人鬼に首を切断されるかもよ。楽しみだな」
「もっ……もうっ! 怖いこと言わないでください!」
「あの、すみません」
 背後から声を掛けられ、三人は振り向いた。談笑に夢中になりすぎて、往来の邪魔になっていたのかもしれない。後ろにいたのは一組の男女だった。亜麻色の髪の男性と、綺麗な金髪の女性だ。黒一色でコーディネイトされた服装で、二人とも困った顔をしている。
「共同墓地に行きたいのですが――場所をご存知ですか?」
 共同墓地の場所なら知っている。困った時はお互い様だ。ソエルたちは男女を案内することにした。墓地に向かう道中、互いに簡単な自己紹介を交わした。二人は夫婦で、デイヴィットとリリィと名乗った。若くして命を落とした娘の墓参りに来たまではよかったものの、共同墓地の場所を忘れてしまったと、苦笑しながら話してくれた。死者が眠る墓地を守る門が見えてきた。悪魔や悪霊を追い払うと言われている銀製の門だ。
「迷惑でなければ、君たちも娘のために祈ってもらえないだろうか」
「え? 私たちがですか? でも――」
「多くの人に祈ってほしい。光の国にいる娘も喜ぶよ」
 辞退する理由はなかったが、残念なことにソエルたちは十字架を身に着けていない。この世界では、死者を悼む時に、十字架のアクセサリーやモチーフを身に着けることを習わしとしている。着けていないと、悪魔や悪霊を呼びこんでしまうのだ。
「……すみません。俺たち、十字架を持っていないんです」
 アレックスが申し訳なさそうに謝ると、リリィは優しく微笑んだ。誰かに似ている微笑みだった。
「大丈夫よ。墓地に入る前に、十字を切ってくれたらいいわ」
 胸の前で十字を切り、ソエルたちは夫妻の後に続いた。静謐な静寂に包まれた墓地は、まるで世界中から音が盗まれたみたいだ。ライトグリーンの草の上に、死者を守る白い墓石が綺麗に整列している。先客がいた。一つの墓石の前で静かに祈りを捧げている。
 先客は、黒いスーツを着た白百合を携えた長身の青年だった。濃い緑色の髪が風と遊ぶようになびく。誰かはすぐに分かった。ノワリーだ。屈みこんだノワリーは、白百合を石の前に置いた。眠れる死者を起こさないように足音を忍ばせながら、ソエルたちは近づいた。
「エリオット……君?」
 デイヴィットが、ノワリーのファミリーネームを口にした。名前を呼ばれたノワリーは立ち上がって振り返り、驚愕した顔で彼を見つめた。
「……お久し振りです」
「本当に、久し振りね。六年ぶりになるのかしら?」
「ええ、六年振りです。すみません、貴方たちが来るとは――すぐに帰ります」
 一秒でも早くこの場を立ち去りたい。否、立ち去らないといけない。ソエルたちには、ノワリーが焦燥に駆られているように見えた。ノワリーと夫妻の間に何があったのだろう。亡くなった夫妻の娘が関係しているのかもしれない。一礼したノワリーが、デイヴィットとリリィの脇をすり抜けた。
「待ちなさい」
 深海のように深く、蜂蜜のように温かいバリトンの声が、ノワリーの歩みを引き止めた。立ち止まったノワリーが、ゆっくりと振り向く。親に叱られる寸前の子供のように、彼の顔に緊張が走った。
「君に話したいことがある。聞いてくれるかね?」
「……はい」
「――すまなかった」
 不意に、唐突に、デイヴィットとリリィが頭を下げて謝罪した。切れ長の琥珀色の双眸が、夜に浮かぶ月のように丸くなった。状況を把握できていないのだ。
「どうして謝るんですか!? 頭を上げてください!」
「私たちは、君に酷い仕打ちをしてしまった。全てを失った君に、残酷な言葉を投げかけてしまった。愛する者を失った痛みを分かち合うべきだった。君に全ての責任を押しつけて……本当にすまなかった」
「貴方は娘を愛してくれたのに、私たちは理不尽な怒りをぶつけてしまったわ……ごめんなさい」
 冷たい風が吹く。沈黙が流れ、木の枝から離れた木の葉が宙を舞った。沈黙が相応しいと思った。だから、ソエルたちは黙っていた。ノワリーは喋らない。言葉の切れ端を拾い集めているのだろうか。ノワリーが口を開く。言葉を繋ぎ合わせたのだ。
「……頭を上げてください。お二人が謝る必要なんてありません。あれは――今でも私の責任です。私の力量が足りなかったばかりに、シルヴィを死なせてしまいました。申し訳ありませんでした」
 ノワリーが長身を折り曲げ、深く頭を下げた。ソエルは一年前にノワリーが話してくれたことを思い出した。六年前にクルタナとアンティオキアとの間で勃発した大戦。その最中、ノワリーは自らが統率するチームヴァルキリーを全滅させてしまった。
 生き残ってしまったノワリーは、忘れてはいけない記憶と罪を背負ってきたのだ。
 群青色の深海で生きる魚のように、たった独りで――。
「エリオット君。頭を上げなさい」
「……はい」
「私たちは――以前のような関係に戻ることはできないのかね?」
 頭を上げたノワリーが息を呑んだ。森の奥深くに佇む湖畔のような、静けさと優しさを湛えた四つの瞳が彼を見つめている。夫婦は許しを請い、遠回しに絶たれた交流を再びしたいと言っているのだ。裂け目を修復しようとしているのだ。
「しかし、私は――」
「逃げんなよ」
 不機嫌さを滲ませたアッシュの声が割り込んだ。傍観者という立場を止め、乱入しようというのか。ポケットに両手を隠したままのアッシュが、ノワリーを睨みつけている。交差する紫と琥珀の視線。ソエルとアレックスが制止する声は、アッシュには届かなかった。
「……あんたと二人の間に何があったのかは知らないけどよ、目の前の現実から逃げるなんて、あんたらしくないんだよ。『天空を貫く光の槍』だろうが。壁なんて、ブチ壊しちまえばいいじゃねぇか」
 ファック。口癖の言葉で終幕したアッシュの言葉が止んだ。彼の言葉を受け止め、胸の奥で噛み締めているように、ノワリーは長い睫毛で縁取られた瞼を伏せた。数秒。ノワリーが瞼を開く。そして、答えを待つ夫妻と向き合った。
「――本当に、私なんかでよろしいのですか?」
「もちろんだよ。義理の息子になる予定だったんだ。酒でも酌み交わして、シルヴィを語り合おうじゃないか。メアリィも喜ぶよ」
 ソエルは我が耳を疑った。デイヴィットが言った名前に聞き覚えがあったからだ。真実を知るには尋ねてみるしかないだろう。
「あの……お二人は、メアリィ・ローレンツさんと、お知り合いなんですか?」
「あら。メアリィを知っているの? ええ、そうよ。メアリィは私たちの娘なの」
「じゃあ、シルヴィさんって――」
 白百合。アッシュを見舞いに行った際に、病院でノワリーが言っていた婚約者の墓参り。六年前の戦いで全滅したヴァルキリー。散らばっていたピースが重なり合い、一つのパズルが完成した。
「……シルヴィ・ローレンツ、メアリィの姉だ。私が愛した女性で、婚約していた。六年前の大戦で命を落としてしまったが――今でも愛している。右手と右脚を失っても、彼女を助けることができなかった。チームを守ることができなかった。彼らの人生を奪った罪は重い。一生を懸けて償うつもりだ」
 ノワリーはしなやかな指を伸ばし、墓石に刻まれた愛しい女性の名前をなぞった。慰めの言葉なんて言えるわけがない。ソエルたちは、彼が背負う十字架の重さを知らないのだ。
 それでも、少しでもいいから、重荷を分かち合いたかった。助け合うのがチームだ。あの時、ノワリーは、折れそうになったソエルの心を助けてくれた。今度は、ソエルたちが彼を支える番だ。
「エリオット君」穏やかな表情のデイヴィットがノワリーに話しかける。「君は私たちに出会わないように考慮して、娘の命日の次の日に墓参りをしてくれていたんだね? だが、もうその必要はないよ。来年は四人で祈ろうじゃないか」
「――ありがとうございます」
 その時、上空で轟音が鳴り響き、墓地の上空をかなりの低空飛行で巨大な戦闘機が通過して行った。クルタナが所有する戦闘機かと思ったが、交差する剣のエンブレムはどこにもマーキングされていなかった。戦闘機を仰いでいたアッシュが目を細めた。
「あれは――クルタナの戦闘機じゃねぇぞ」
「……アンティオキアの爆撃機、ギガンテスだ。六年前に見た奴と同じだ。間違いない」
「アンティオキアの爆撃機が、どうしてクルタナの上空を飛んでいるんですか?」
「それは――分からない」
 ノワリーが首を振る。その直後、彼のスーツのポケットが振動した。ノワリーがポケットから携帯電話を取り出し、シルバーのボディをスライドさせる。ソエルたちに背中を向けた彼は、通話を始めた。会話を終了して振り向いたノワリーの顔は、一段と厳しくなっていた。
「ローレンツから連絡があった。たった今、アンティオキアがクルタナに宣戦布告したそうだ。六年前の復讐と言っているらしいが、詳細は分からない。ユグドラシル基地に戻るぞ」
「私たちは、シェルターに避難する準備をしておこう。くれぐれも気をつけてな」
「お二人も気をつけてください。クルタナの空は、我々が必ず守ります」
 ローレンツ夫妻と別れたソエルたちは、バスの代わりにノワリーが操縦する車に乗り、ユグドラシル基地に続く道路をひたすら走った。車窓の外を流れる景色はレーザービームみたいだ。制限速度をオーバーしているのだろうが、スクランブルが発令したから許してほしい。カーラジオから流れるニュースが、緊迫感を煽っているような気がした。
『先程、アンティオキアがクルタナに二度目の宣戦布告をしました! 六年前の大戦の復讐だと激しく主張している模様です! 繰り返します――』
 発狂する一歩手前のアナウンサーが、早口で内容をまくし立てている。ラジオ越しに唾が飛んできそうな勢いだ。これ以上聞きたくない。ソエルの心中を察した助手席のアレックスがラジオを黙らせると、車内は日曜のミサのように静かになった。
 また、戦いが始まろうとしている。
 誰も墜としたくないと思えば思うほど、世界は強引に機関砲のトリガを握らせようとするのだ。