果てしない青色に澄み渡る上空に飛翔したチームヴァルキリーを出迎えたのは、無限に匹敵する数に近いアンティオキアの軍勢だった。F4ファントム2。MIG29。そして、最大30トンの兵装を搭載可能な爆撃機、B52ストラトフォートレス。ノワリーがギガンテスと呼んでいた機体だ。
 全ての機体はダークグレイに塗り潰され、その濁った色は、青く澄んだ透明な空の中でよく目立っている。垂直尾翼にマーキングされた獅子の群れが、ソエルたちに牙を突き立てようと吠えていた。
 狂気に魂を捧げた科学者パスカル・フォン・アルジャーノンは、すでにワールドエンドに向かっているだろう。考えたくはないが、彼はとっくの昔に到着して、世界樹ユグドラシルに自らの名前を刻みつけ、領有権を主張しているかもしれない。目の前に広がる戦闘機の群れを撃破しなければ、永遠にワールドエンドには辿り着けないだろう。
 ソエルは敵の数を目視で確認した。少なくとも数十機は飛んでいるだろう。対するヴァルキリーは僅か五機。圧倒的に数で負けている。今まで経験したことのない、激しい空戦になるのは確実だ。操縦桿を握るソエルの右手が震えた。
 怖くて震えているのか、それとも武者震いなのか。旋回して逃げることもできるよ。右手が囁いた。嫌だ。そんな真似はしたくない。ソエルは臆病な右手に言い返した。邪悪な野望から世界樹を守るために、ヴァルキリーは空の上にいるのだ。
『ソエル、大丈夫か?』
 無線と無線が繋がり、グングニルに搭乗しているアッシュの声が聞こえた。ソエルを気遣っている響きだ。
「はい。何とか……。でも、震えが止まらなくて――」
『恐怖を感じることは、情けないことじゃねぇよ。勇気と臆病は光と影のようなものだ。勇気がないと臆病は育たない、臆病がないと勇気は育たない。どんな奴だって臆病者なんだよ。心配すんな。オレがいる。アレックスとメアリィもいる。あの『光の槍』が側にいるじゃねぇか。だから、大丈夫だ』
「勇気と臆病――ですか。アッシュ君らしくない台詞ですね」
『ファック。悪かったな。アレックスのお袋さんから教えてもらったんだよ』
「素敵な言葉ですね」澄んだ川を流れる清流の如く、ソエルの恐怖は静かに引いていった。「もう……大丈夫です」
『それでこそ、ヴァルキリーのパイロットだぜ』
『全員、準備はいいか?』
 アッシュに続き、ノワリーの声が無線から流れてきた。真冬の空気のように凜とした声が、ソエルたちに理性と冷静を与えてくれた。
「アルヴィト、大丈夫です!」
『グングニル、いつでも行けるぜ』
『メイデンリーフ、準備OKです』
『ブリュンヒルド、問題ないわ』
『チェック・シックス。各自、常に六時の方向を警戒せよ。フォーメーション・デルタ。隊列を維持。散開しても、互いの位置を見失うな』
 戦闘機乗りの合言葉――チェック・シックス。簡単に言うと、敵に背後を取られるなということだ。
 落雷の予兆とされる、積乱雲を彷彿とさせる黒い戦闘機の塊が、次々と分裂して編隊を組み始めた。両手と両足の指を駆使しても数え切れない。奴らは数で押し潰す気だ。
 勝てるだろうか。生きて帰れるだろうか。一瞬、暗い不安がソエルの脳裏を掠める。ソエルの抱いた不安を察したように、再びノワリーの声が聞こえた。
『大丈夫だ。俺が、お前たちを守り抜く。『光の槍』を信じてくれ』
 暗闇を貫く光の如く、ノワリーの言葉が一筋の光明となり、ソエルたちを飲み込もうとしていた恐怖や不安を追い払った。身体の奥深くに浸透した強い光が、ソエルたちの魂に、決して消えることのない勇気の火を灯した。
 そうだ。ヴァルキリーには、素晴らしいパイロットがいるじゃないか。
 卓越した腕を持つアレックスとメアリィ。
 精鋭チームを支えるアッシュ。
 そして、輝きを取り戻した英雄がいるじゃないか。
 皆が一緒に飛んでくれる。
 彼らとともに、戦い抜こう。
 もう、右手は震えていなかった。
 高度差8メートル。先行機から斜め後方30度。基本隊形を維持してフォーメーションを組む。先頭をブリューナクが飛ぶ。アルヴィトの斜め前右にグングニル、右横にブリュンヒルドが並び、ブリューナクの右後方をメイデンリーフが占位する。
『行くぞ!』
 ノワリーの号令が高らかに響いた。
 ブリューナクのエンジンノズルが唸りを上げ、一気に加速した。
 そして、銀色の閃光が駆けて行く。
 空を貫いた閃光を合図に、ヴァルキリーは散開した。
 それぞれの戦いが始まった。
 輝く勝利を信じて。


 先手必勝。
 ブリュンヒルドは瞬く間に二機を撃墜した。
 白鳥の湖を踊るプリマドンナのように、美しく優雅な軌跡だ。 
 ブリュンヒルドの背後に、漆黒に塗り潰された機体が迫る。
 追跡を振り切らなければ。
 ロール旋回。
 ブレイク。
 敵もブレイク。シザーズが繰り広げられる。
 シザーズになった場合、運動性能が高いほうが勝利する。
 二機はほとんど同じスペックだ。
 ブリュンヒルドの背後に、敵機が追いついて来た。
 このままでは――。
 刹那、緑色の閃光が駆け抜け、黒い機体を機銃の弾が貫いた。
 爆発。
 パイロットがコクピットから脱出した。
 アレックスの新たな機体である、F15サイレントイーグル――メイデンリーフがブリュンヒルドの横に並んだ。
『メアリィさん! 大丈夫ですか!?』
『ええ。ありがとう。さあ! どんどんいくわよ!』
『了解!』
 オレンジと緑の機体は、踊るように、滑るように、敵の間を駆け抜けていった。


 バディを組んだメイデンリーフとブリュンヒルドが、次々と撃墜数を重ねていくなか、二機から離れた上空では、グングニルとブリューナクが一騎当千の活躍をしていた。歴史に名前を刻んでもおかしくない活躍ぶりだ。
 アンティオキアはグングニルとブリューナクを集中攻撃している。アッシュとノワリーを撃墜すれば、ヴァルキリーの戦力が大幅に低下すると睨んでいるのだ。精鋭チームのエースパイロットと、英雄と謳われたパイロットが相手なのに、機銃を撃つ手を止めようとしないのは、奇跡が起きるのを信じているのだろう。
 五機のファントムが、一直線に突進して来た。どうやら、アッシュ一人に狙いを定めたようだ。英雄には勝てないと判断したのだろう。浅はかな判断だ。少し自慢してみるか。エースの乗る機体は、最新鋭のF35Aライトニングだぞ。アッシュは翼を振ってアピールをした。敵の速度が上昇したように見える。挑発されたと勘違いしているのだ。
 頭に血を昇らせたままじゃ、オレには勝てないぜ。
 機関砲の雨が降り注ぐ。
 左ロール。
 スロットルを絞り、背面でダイブ。
 しつこく機関砲が駆け抜ける。
 二機が追跡を開始。
 先に墜ちたいのはどっちだ?
 同じ機体でも、僅かに速度の差が出るはずだ。
 一機が近づいて来た。
 先に墜ちたいのはお前か。望みを叶えてやるよ。
 弾が飛ぶ。
 エルロン・ロール。
 エレベータ・アップ。
 半ロールで背面に。
 状況を確認。
 二機のうち、一機が上昇に入ろうとしている。
 もう一機はどこだ?
 見つけた。雲の真下だ。
 蠅のように右往左往している。助けを呼ぶ声を待っているのだ。
 右斜めから、敵が上昇して来た。
 僅かに機首が上がっている。
 狙いは、ハイGヨーヨーか。
 そうはさせない。
 フットペダルを右へ踏み込む。
 反対方向へロール。
 反動で速度が落ちる。
 敵が真下を通過。
 追う者と、追われる者が入れ替わった。
 ファイア。
 尾翼を粉砕。
 二発撃つ。二発目は胴体を貫通した。
 脱出したパイロットに翼を振った。
 次は下で待っている奴か。
 エレベータ・ダウン。
 機体を捻りながら急降下。
 敵が気づいて距離を取る。逃がしはしない。
 ダイブで速度が上がっている。
 追い越してしまいそうだ。
 アップ。
 上昇。
 速度を落として。
 反転。
 ダイブ。
 エリアが見えた。
 撃墜。
 二つ目のパラシュート。
 離脱。
 戦場を確認。
 残るは三機。どこにいる?
 前方に見つけた。
『ブルー、聞こえるか?』
「ああ」
『手が足りないようなら、手を貸してやるが』
「いらねぇよって言いたいところだけど、借りてやるぜ。感謝しな」
『四時の方向を見ろ。ブリューナクが見えるか?』
 アッシュは肩越しに後ろを確認した。銀色のF/A18スーパーホーネット――ブリューナクが飛んでいた。取り巻きの連中は引き連れていない。引き離したか、撃墜したんだろう。
「あんたが見えるよ」
『スプリットで攻めるぞ。俺が引きつける。お前はローGヨーヨーで、うるさい蠅どもを墜としてやれ』
 スプリットという機動は、一機が加速して敵の目を引きつけている間に、僚機が降下して敵の視界から離脱し、もう一機が緩やかに降下することで速度がつく、ローGヨーヨーで敵の背後を取るのだ。
「わーったよ」
 三機の機体が迫る。
 グングニルの真下から、ブリューナクが上昇した。
 加速したブリューナクに、敵機の注意が一気に向く。
 チャンスだ。
 エレベータ・ダウン。
 グングニルを降下。速度をつける。
 ローGヨーヨーは、深く降下してはいけない。
 接近した時に敵との相対角度が大きすぎると、射程内に捉えることができないからだ。
 速度は充分だ。
 エレベータ・アップ。
 ブリューナクは敵の攻撃を避けている。
 華麗なスナップ・ロールだ。
 敵機の無防備なリーサルコーンが見えた。
 グングニルの25mm機関砲が牙を剥く。
 ファイア。
 一瞬にして、三機のファントムは灰塵と化した。
「隊長。大丈夫か?」
『問題ない。それにしても、お前に心配されるとはな。明日は大雨が降るんじゃないか?』
「何だよ、それ。冗談のつもりかよ」
『そうだ』
 お世辞にも上手いとは言い難い冗談に、アッシュは笑みを零した。警告が鳴り響いた。レーダーに反応有り。気を引き締め、ディスプレイに目を向けると、巨大な機影が映っていた。B52ストラトフォートレス――通称ギガンテスだ。
『ブルー。お前は、ステュアートたちの援護に向かえ。奴は――俺が墜とす』
「分かった。墜とされんじゃねぇぞ」
 左に傾いたブリューナクが、グングニルの側から離れていった。因縁の相手と決着をつけにいったのだ。フットペダルを踏みこんで機首を操作し、アッシュはソエルたちの機体を捜した。アッシュはすぐに、アルヴィトを発見した。安定した軌道で敵機を撃墜している。ソエルの側に行こう。フル・スロットル。その直後、狭いコクピットにボーイソプラノの声が響き渡った。
『――シュ! 聞こえるか!? アッシュ!』
 ボーイソプラノは無線とは違う場所から聞こえている。発生源は、アッシュが穿いているカーゴパンツのポケットだった。アッシュはポケットに手を突っ込み、小さな無線機を引っ張り出した。羽の生えたサンダルが刻まれた銀色の端末。超小型高性能無線機タラリアだ。リゲルから贈呈されたのを、すっかり忘れていた。
『聞こえてるのか!? 返事しろよ!』
「うるせぇよ。聞こえてるっつーの。何なんだよ。迷子になったのか?」
『違う。俺は――ワールドエンドに行くよ』
「は? 何言ってんだよ! 隊列を離れるなって言われたじゃねぇか!」
 優等生のアレックスらしくない発言に驚いたアッシュは怒鳴った。アレックスが黙りこむ。諦めたのだろうか。いや、それはない。穏やかな外見に反し、彼は頑固だということを知っている。そう簡単には引き下がらないだろう。
『……行かなきゃいけないんだ。父さんを止められるのは、俺だけだ。それに――全部終わらせたいんだよ』
「……お前、責任感じてんのか」
『……ああ』
「ファック! ジェネシスを造ったのも、キメラを造ったのもお前の親父じゃねぇか! お前は関係ないだろうが! いちいち気に病むんじゃねぇよ!」
『でもさ、俺も、アルジャーノンの人間なんだ。だから……関係ないとは言えないよ。お前が何と言おうと、俺は行くからな』
 行きたければ一人で行け大馬鹿野郎。一年前のアッシュなら、間違いなく宇宙の彼方まで突き放していただろう。もう、過去の自分とは違う。離脱したのだ。抜け殻はゴミ箱に捨てた。あいつを一人で行かせるな。アッシュの直感が命令した。
「馬鹿野郎。お前を一人で行かせられるかよ。オレも行ってやる。全部終わらせようぜ」
『アッシュ――』
 無線の向こうから流れてくる、アレックスのボーイソプラノは震えていた。泣き出す一歩手前の状態なのだ。九時の方向から飛んで来たメイデンリーフと合流した直後、二回目の警告が鳴り響いた。二機のMIG29が飛来してくる。一人でも余裕で相手ができる数だが、一人で味わうにはもったいない御馳走だ。
「一緒に戦うか?」
『うん――』酷い鼻声の返事が返ってくる。やっぱり泣いていたのか。『そうだな』
「サンドイッチだ。どっちが囮になる?」
 一機がブレイクして囮になっている間に、僚機が減速して敵の後方に付く機動。それがサンドイッチである。ペア機動の基本中の基本だ。
『お前が囮。俺がやるよ』
「チッ。いいトコどりかよ。ま、いいけどよ。丁重にお出迎えしてやろうぜ!」
『了解!』
 アッシュはスロットルレバーを押し上げ、一気に加速する。
 同時に、メイデンリーフが僅かに速度を落とした。
 ブレイク。
 敵の機体はグングニルの後を追いかけて来た。ウサギが罠にかかったぞ。
 減速したメイデンリーフが、敵の背後に現れた。
 絶妙のタイミング。
 素晴らしい阿吽の呼吸。
 絆の強さを思い知る。
 敵がターンする前に、メイデンリーフの20mm機関砲が黒い胴体を撃ち抜いた。
 相変わらずいい腕してやがる。アッシュは感心した。
 コンバットスプレッドを形成し、アッシュはメイデンリーフに先頭を譲った。
 ソエルたちが遠ざかっていく。
 墜とされないだろうか。
 無惨に墜ちていくメンバーは見たくない。
 でも、大丈夫だ。
 「天空を貫く光の槍」が、守ってくれる。


 小さな黒点だったギガンテスの機影が大きくなっていく。
 距離が縮まるにつれ、激しい感情がノワリーの魂の奥で渦巻いた。
 チーム。イージス。そして、シルヴィ。
 大切な、それでいてかけがえのない人たちを奪った忌まわしい獣が目の前にいる。
 飲み込まれるな。冷静と情熱の間で、意識を保ち続けるんだ。
 刹那、ブリューナクのHUDが赤く染まった。ギガンテスがミサイルを発射したのだ。
 灰色の尻尾を引き摺ったミサイルが飛んでくる。
 フル・スロットル。
 最高速度へ。
 それでもミサイルはついてくる。
 熱感知ホーミングミサイルか。厄介なアクセサリィだな。
 フレア発射。
 マグネシウムと火薬などを材料にしたフレアは機体から発射されると、数秒間激しく燃焼する。それが大きな偽の熱源となり、スケープゴートになってくれるのだ。
 予想どおり、ミサイルはフレアに引き寄せられている。
 ターン。
 アフターバーナー。
 更に速度を上昇。
 ミサイルが機関砲に変身した。
 ブレイク・ターンは間に合わない。
 敵機は後方900m。
 機軸線は、ブリューナクの進行方向と重なっている。
 リード角も増加。
 機関砲射撃の照準操作――ガン・トラッキングに入ったのだ。
 アップとダウンの繰り返し。
 ランダムにロールで回り続ける。
 バンク角を水平に。
 アップ。
 バンクを深めてダウン。
 スロットルを調節。
 半径の異なる旋回。
 弾丸の流星群が降り注ぐ。
 しかし弾丸はブリューナクに命中することもなく、青空に散っていった。
 ブリューナクの激しい姿勢変化により、照準が困難となって、射撃のタイミングを誤ったのだ。
 エレベータ・アップ。
 ノワリーは左のフットペダルを蹴りつけた。
 スリップが発生。
 右翼が失速状態になった。
 左右で大きな揚力差が生じ、鋭い右ロール。
 ミサイルが雲を貫いた。
 エレベータ・ダウン。
 風を纏ってダイブ。
「Dein minus der Zahl, Sohn (お前の負けだ、坊や) 」
 さあ、お別れの時間だ。
 ロック・オン。
 ファイア。
 胴体を貫かれたギガンテスは、炎上しながら雲の底に墜ちていった。
「皆……イージスさん……シルヴィ。――終わったよ」
 ノワリーは目を閉じ、天国の彼らに囁いた。
 記憶に残っている彼らは笑っていた。
 目を開けて。
 過去との決着はついた。
 でも、現在との戦いが待っている。
 泣くのは後にしよう。
 ターン。
 戦いを続ける戦士たちの下へ行こう。
 今度こそ、ヴァルキリーを守ってみせる。
 天空を貫く光の槍は、錆ついてはいない。


 ソエルの目の前には、純白のF16ファイティングファルコンが飛んでいた。アルヴィトと双子のように瓜二つで、まるで鏡を覗き込んでいるような錯覚を覚えた。機体と垂直尾翼にマーキングされた機体名とパイロットネームが、アルヴィトとは異なることを証明している。
 機体の名前はヴァルハラで、パイロットネームはノエル・ステュアートだ。数日前に再会した、今まで存在を知らなかった、ソエルの双子の兄の名前だった。
『ソエル。今なら、まだ間に合う。基地に引き返すんだ。僕は、君とは戦いたくない』
「ノエル……どうしてなの? 私たちは、兄妹じゃない!」
『兄妹でも、相容れぬ時があるんだ。僕は、世界樹を枯らすためなら何だってすると約束した。お願いだから、離脱してくれ』
「……できない。私は、世界樹を守るわ」
 無線の向こうのノエルが沈黙する。溜息。次に聞こえたノエルの声は、全てを捨て去っていた。
『……残念だよ。君なら、僕の思いを分かってくれると思っていたのに。君が引かないなら、僕は全力でソエルを墜とす。――行くよ』
 無慈悲な言葉が突き刺さる。何を言っても無駄だと悟った。ソエルの言葉はノエルに届かない。ならば、戦うしかない。思いを全てぶつけるんだ。
 二機は同時に速度を上げた。
 交差して、すれ違う。
 ドッグファイトでは、相手よりも先に後ろを取らなければいけない。
 ターン。
 間に合わなかった。ヴァルハラが後ろについている。
 振り切らなければ。
 アップ。
 ダウン。
 緩やかな上昇降下と、360度の横転。
 頂点で背面。
 半円を描くように飛行。
 水平線を通過。
 ダウン。
 ロールを継続。
 ロールは270度。
 最大の降下ピッチ角を得た。
 アップ。
 水平姿勢になった。
 コクピットの外を確認しながら、360度の回転。
 螺旋状に飛行するバレルロール。
 ヴァルハラも、アルヴィトと同じ軌道で追いかけて来る。
 ノエルのほうが僅かに速度が速い。このままでは追いつかれる。
 ヴァルハラが背後に迫った。
 ソエルは一か八かの賭けに出た。
 エレベータ・アップ。
 インメルマン・ターンで上昇。
 頂点でスロットルを絞る。
 左に機体を捻りこんで。
 一瞬、揚力を失う。
 失速。
 通常より小さい回転半径で旋回。
 置いてけぼりのヴァルハラが、アルヴィトの射程内に入った。
 異国のパイロットが得意としていた技、左捻り込み。敵に背後を取られ、宙返りをする回避機動の最中に、わざと失速状態を作り出すという、荒技中の荒技だ。異国の戦闘機――零戦でしか繰り出せない機動で、エンジンも構造も異なるファルコンで再現できたのは、まさに奇跡としか言いようがない。
 機体の位置を整える。
 アルヴィトはヴァルハラのリーサルコーンに入り込むことに成功した。
 ソエルは機関砲のトリガーに指をかけた。
 撃て、撃ち墜とせ。ソエルの右手が囁きかける。
 半身を撃ち墜とすなんて、できるわけがない。
『どうして撃たないんだ? 早く墜とすんだ』
 生きるか死ぬかの瀬戸際なのに、ノエルの声は恐ろしいほど淡々としていて、それはまるで、死期を悟った人間のようであった。
「できない! ノエルは……やっと会えたお兄ちゃんなんだもん! そんなことできない!」
 後ろを見せていたヴァルハラが旋回した。アルヴィトとヴァルハラは、互いに機関砲の射程距離に入った。
『優しさは、時に自分を危険に晒すものになる』
「ノエル! 目を覚まして! 貴方が憎むべき相手は世界樹じゃない! パスカルなの! 彼が私たちの両親を殺したのよ! 世界樹を枯らしたって、父さんと母さんは戻ってこないの! こんなことをしたって、二人は喜ばないわ! 兄妹で争っているって知ったら――二人は泣いちゃうよ!」
 ノエルは答えない。もしも彼が、ヴァルハラの機関砲を撃ってきたとしても、ソエルには応戦する気はなかった。兄を撃墜するくらいなら、墜とされたほうがいいと思っていたからだ。
「ノエル……」
 何を言っても無駄なのか。ソエルが諦めかけたその時、ヴァルハラが速度を上げて突っ込んで来た。突然のことに回避できない。ヴァルハラが脇を駆け抜け、背後で爆発音が響いた。いつの間にか、アルヴィトの背後に迫っていた敵機を、ヴァルハラが撃墜したのだ。優雅に旋回したヴァルハラが、アルヴィトの隣に並んだ。
「えっ――?」
『――ソエルの言うとおりだ。僕は間違っていたよ。一緒に戦おう』
「ノエル……! ありがとう!」
『まずは、ヴァルキリーの皆と合流しよう――』
「ノエル? どうしたの?」
『エリオット大尉の戦闘機が、敵に囲まれているんだ』
「そんな!」
 キャノピィに額を押し付けるようにして、ソエルは青と白の世界を見回した。空色の瞳が銀色の戦闘機を視界に捉え、窮地に陥っていることをソエルに教えてくれた。ノエルが冗談を言っていると思っていた。違う。彼は、真実を言っただけだったのだ。ブリューナクは、大量の敵に包囲されていた。
 ノワリーが墜ちてしまう。邪悪な敵の手で墜とされてしまう。急いで援護に行かなければ。フル・スロットル。焦る二人を嘲笑うかのように、無数の敵機が進路を阻んだ。墜としても墜としても終わりが見えない。蟻の群れよりも遥かに厄介な連中だ。
「隊長! 隊長! 応答してください!」
 生きている証拠が聞きたい。無線の周波数を変え、ソエルは必死に呼びかけた。ノイズ。無線が繋がった。
『ステュアートか?』
「隊長! 早く離脱してください! 一人では相手にできませんよ!」
『大丈夫だ』
「でも――!」
『俺を誰だと思っている? 心配するな。すぐに蹴散らしてやる』
 敵を引き連れたまま、螺旋状に旋回したブリューナクが、高速で降下していった。
 銀色の閃光が、空を貫きながら墜ちていく。
 まさに、天空を貫く光の槍だ。
 敵も同じ軌跡でブリューナクの後を追いかける。
 ほんの僅か、ブリューナクがスロットルを絞った。
 減速に気づかない敵たちが、順番にオーバーシュートした。
 ブリューナクが敵の間を駆け抜ける。
 稲妻のような鋭い動き。
 いや、まさに稲妻そのものだ。
 雷に撃たれた敵が墜ちていった。
 あの技は、螺旋軌道で降下するスパイラルダイブという、非常に高度な機動だ。エアショーでよく見る機動だが、実戦で使うにはリスクが大きい。それに、パイロットと機体に大きなストレスがかかる機動でもあるのだ。そんな難しい機動をいとも簡単に繰り出すとは。英雄と謳われたノワリーの腕に、ソエルは舌を巻いた。六年のブランクがあるというのに、彼の腕は衰えていない。それどころか冴え渡っている。
『エリオットだ。ステュアート、無事か?』
「はい! 隊長こそ、お怪我はありませんか!?」
『問題ない。ところで――お前の側を飛ぶ機体は?』
『ソエルの兄、ノエル・ステュアートです。アークでお会いしましたよね?』
『ああ。……彼女を人質に取っているのなら、すぐに解放したほうが賢明だ』
 旋回したブリューナクが、ヴァルハラを射程距離に捉えた。ノワリーの腕ならば、ノエルが撃つ前に撃ち墜とせるだろう。空の上に張り詰めた空気が漂い始める。ブリューナクとヴァルハラのドッグファイトが始まる前に、誤解を解かないといけない。
「待ってください! 兄は――ノエルは敵じゃありません! 私たちと一緒に戦ってくれると言ってくれたんです! お願いします! 信じてください!」
 数分間の沈黙が続いた。ノワリーは思案の海に沈んでいるのだ。聡明な彼ならば、ソエルが期待している采配を下してくれる。
『……分かった。ノエル、君を信じよう。俺たちと一緒に、世界樹を守ってくれ』
『ありがとうございます』
『こちらローレンツ!』突如メアリィの声が乱入した。滑空して来たブリュンヒルドが、ソエルたちと合流した。『十二時の方向を見て!』
 メアリィの指示に従い、ソエルたちは十二時の方向を見た。ファントムとMIGが連続して墜ちている。黒い機体を撃墜しているのは、グングニルとメイデンリーフだ。世界の果てを目指しているかのように、二機はソエルたちから離れていく。
『こちらエリオット! ブルー! アルジャーノン! 何をしているんだ! 隊列に戻れ! 応答せよ! ……駄目だ、応答しない。どうやら、無線を切っているようだ』
 地平線の向こうに見えるのは巨大な大樹だ。どうやら二機は、世界樹に向かって飛んでいるようだ。
「もしかして――二人は、ワールドエンドに向かっているんじゃないですか?」
『何だって? たった二人で、世界樹に乗り込もうとしているのか?』
『だとしたら、すぐに追いかけないと! 二人だけじゃ危険だわ!』
『ローレンツ。君は、ノエルと一緒にユグドラシル基地に戻ってくれ。俺とステュアートで、二人の後を追いかける』
『何を言ってるの!? 駄目よ! 私とノエル君も行くわ!』
『頼む。敵の増援が来る前に、我々の戦力を増強しておきたいんだ。本部に応援を要請してくれ。大丈夫だ。ステュアートも、ブルーとアルジャーノンも、俺が必ず守る。行ってくれ』
『そんなこと――!』
『ローレンツさん、でしたよね? ここで僕たち全員が墜とされてしまっては、元も子もありません。敵の数が増える前に、応援を要請したほうが安全です。大尉の判断に従いましょう』
 どんな時でも落ち着きはらったノエルの声が響く。メアリィは何も言わない。気丈に言い返すのだろうか。それとも、萎れた花のように従うのだろうか。
『……分かったわ。隊長の判断に従う。でも、約束してちょうだい。必ず、無事に戻ってきて』
『約束する』
『行きましょう、ノエル君』
『はい』
 ブリュンヒルドとヴァルハラは旋回し、ユグドラシル基地の方角に向けて飛び去った。
『ステュアート。俺の側から離れるな。いいな?』
「了解です!」
 アルヴィトとブリューナクはコンバットスプレッドを形成し、纏わりつくアンティオキアの軍勢を撃破しながら、広大な空を駆けた。目的地はワールドエンドただ一点のみ。先頭を駆けるブリューナクの軌道は苛烈そのもので、立ちはだかる敵を容赦なく撃墜していった。
 怒涛の攻撃に恐れをなしたのか、黒い波が逃げるように分裂した。割れた包囲網を駆け抜ける。世界樹が近づいてくる。それでも依然として、グングニルとメイデンリーフの機影は確認できなかった。
『ステュアート! 降下しろ!』
 ノワリーの鋭い指示が飛ぶ。エレベータ・ダウン。彼の指示に忠実に従って、ソエルはアルヴィトを降下させた。近づく雲。旋回したブリューナクが、アルヴィトの脇をすり抜けた。
 爆発。刹那、キャノピィにオレンジの色彩が投影された。ソエルは肩越しに後ろを見やった。黒い煙で着飾ったギガンテスが墜落していくのが見えた。数十機のギガンテスが、アルヴィトとブリューナクの背後を飛行していたのだ。
『俺が食い止める。お前は先に行け』
 命知らずな発言に、ソエルは我が耳を疑った。いくらノワリーが英雄といえども、一人であの数を相手にするなんて無謀すぎる。
「駄目です! 私も戦います!」
『ここで、二人とも死ぬわけにはいかない。必ず追いかける。信じてくれ』
 アルヴィトのディスプレイが真紅に染まり、警告音が鳴り響いた。雨粒みたいな点がレーダーに降り注ぐ。ギガンテスが発射したミサイルだ。多い。なんて数だ。
 ブリューナクが躍り出て、フレアでミサイルを引き寄せる。罠にかかったミサイルを、機関砲が貫いた。規模の大きい爆発が青空を覆い尽くす。爆炎を突き破ったブリューナクが、巨人の群れに戦いを挑んだ。
「隊長――!」
『行け!』
 永い人生の中では、時には苦渋の決断を迫られる時がある。今がその時なのだ。後ろ髪を引かれる思いを噛み締めながら速度を上げ、ソエルはワールドエンドに突っ込んだ。ユグドラシルが眼前に迫る。
 スロットルを絞り、エレベータ・ダウン。ラダーで機首を下げ、格納していた車輪を出した。着陸の時だ。車輪が大地に触れて唄を歌い、岩場が衝撃を伝える。硬い大地をランディング。太い幹にぶつかる寸前で、アルヴィトは止まった。
 キャノピィのロックを解除してコクピットから迅速に這い出し、ソエルは上空を仰いだ。視線を青空に彷徨わせ、銀色の機影を捜した。雲の彼方で爆発が連鎖している。炎上した戦闘機が墜ちていく。ブリューナクはたった一機で、爆撃機の集団と激しい戦いを繰り広げていた。
 その光景は、まるで、神々と巨人たちの戦いのようであった。


 先に行くように指示を出したのに、案の定ソエルはそれを頑なに拒んだ。
 駄々をこねている場合じゃないんだ。拒み続ける彼女に、ノワリーは行けと叫んだ。背中合わせだったアルヴィトが離れていく。肩越しに振り向き、純白の機体がワールドエンドに着陸するのを見届けた。乱暴だった命令を許してくれ。空色の双眸に涙を滲ませたソエルの姿が容易に想像できた。
 なぜ、胸が締めつけられ、切ない感情が湧き上がるんだ?
 まさか、俺は、彼女を――?
 今は戦いに集中しなければいけない。動揺する自分を頭の片隅に押し込み、ノワリーは前方に視線を戻した。爆撃機の集団が、群青色の高空に浮かんでいる。心地良い緊張感が全身を駆け巡り、脳髄に染み渡っていく。こんな緊張感は久し振りだ。警告システムが叫ぶ。猛々しい戦場の呼び声だ。
 さあ! 俺を楽しませてくれ!
 空気を切り裂き、ブリューナクを目指し、二十四基の熱感知ホーミングミサイルが飛来した。
 エレベータ・ダウン。
 身体中に伝播する機速を感じる。
 HUDの高度計と速度計に視線を走らせ、海面に激突する寸前を見極めた。
 急降下している機体と同調しているように、キャノピィが振動していた。
 藍色の海面を捉え、素早く後方を振り返る。
 ブリューナクの真後ろを、無数のミサイルが追従してきていた。
 追跡者を確認すると同時にエレベータを引く。
 エンジンの唸りを残し、ブリューナクの機首が持ち上がる。
 海面を蹴り飛ばすかの如く、銀色の機体が凄まじい速度で超低空を横滑りしていく。
 ブリューナクが横滑りすると同時に、キャノピィの外から轟音が鳴り響いた。
 空域を震わせる着弾音が、後方で立て続けに発生した。
 数にすると十八基のミサイルが、ブリューナクの動きについていくことができずに、海原に激突した音であった。
 しかし、安心するのはまだ早い。
 墜落を免れた残り六基のミサイルが、中空に緩やかな曲線を描き、ブリューナクの尾部に迫ろうとしていたのだ。
 自機よりもミサイルのほうが速い。
 もう一度上昇してから同じ機動をやろうとするならば、その過程で確実に追いつかれるだろう。
 水平距離で――およそ700メートル。
 航行するギガンテスを琥珀色の視界に捉え、機首をそちらに向けて上げた。
 スロットル・レバーを最大に押し上げ、アフター・バーナーを発動させる。
 燃料とマナの消費量が一気に跳ね上がった。
 あのギガンテスの占位する高度まで上昇するために、必要な揚力を獲得する必要があるのだ。
 ブリューナクが機首を上げたその時、ギガンテスの群れが再びミサイルを発射した。
 上昇するブリューナクの四方で爆炎の花が咲き誇る。
 六基のミサイルを背後に従えたまま、ブリューナクは噴煙の中を一直線に駆け抜けた。
 視界前方のギガンテスの姿が巨大になるにつれ、嵐のような砲火は激しさを増していった。
 キャノピィの外は爆煙に包まれ、視界はかなり悪い。
 ノワリーは機体を機敏に滑らせ、砲主の見越し射撃を外しながら、エレベータを引き続けた。
 ギガンテスもノワリーの狙いに気づき、必死に射撃を続けていた。
 ブリューナクの後方で、二基のミサイルが炎を噴き上げて爆発した。
 ブリューナクからミサイルに狙いを変えたギガンテスは、狂ったように銃弾の雨を降らせている。
 これは、戦いだ。
 覚悟はしていたはずだ。
 でも――。
「――許してくれ」
 ノワリーは短く謝り、ギガンテスの脇をすり抜け、インメルマン・ターンで上昇した。
 その後に続いた二基のミサイルは、不意を突いたブリューナクの急上昇についていけず、爆撃機の胴体に次々と着弾した。
 重い爆発音が大空に響き渡り、蒼穹に輝く空域の一帯が、激しく噴き上がった炎の色に染まった。
 巨大な胴体の中心をへし折られたギガンテスが、燃え盛る被弾個所から搭乗員の命を撒き散らしつつ、冷たい海の底に広がる闇へと墜ちていった。
 呆気にとられるほど不条理な、命が終幕する瞬間であった。
 散りゆく一つ一つの命に、家族や友人、恋人たちへの思いが溢れているであろうに、ただ一瞬の転換点を境にして、それらの全てが失われてしまうのだ。
 尊い命に、敵も味方も関係ない。
 彼らの魂に安息をもたらすために、愚かな戦争を終わらせるのだ。
 ノワリーは操縦桿を倒し、ブリューナクの銀翼を翻した。


 蒼穹の高みに爆炎の花が咲き乱れ、ブリューナクはその中に飲み込まれてしまった。
 食い入るように目を見開いたソエルは、銀色の戦闘機が空の中に戻ってくるのを待ったが、いつまで経っても姿を現さなかった。まさか、方向感覚を失って――。
 不安と恐怖がソエルの胸を覆い始めたその時、銀色の閃光が爆炎を貫き、ブリューナクが黒煙の胎から飛び出した。激しい戦いの末、ブリューナクは全てのギガンテスを撃墜した。
 ワールドエンドに機首を向けたブリューナクが、銀色の翼を振って着陸の合図を送っている。ソエルはアルヴィトから離れた場所に走った。ブリューナクが着陸する。キャノピィが開き、コクピットから長身の青年が出てきた。この目で無事を確かめたい。ブリューナクの傍らに駆け寄り、ソエルはコクピットを見上げた。
「隊長! お怪我はありませんか!?」
 ノワリーが華麗に飛び降り、地面に着地した。変化といえば、汗で湿った髪が額に張り付いているぐらいで、目立った傷は負っていないようだ。
「ああ、大丈夫だ。お前は?」
「大丈夫です!」
「そうか。安心した」
 肩の力を抜いたノワリーが相好を崩した。彼の肩越しに見えるスーパーホーネットは、右翼に僅かな裂傷を負っていた。ブリューナク陽光を反射する。相棒を守るのは当然だと、誇らしげに言っているようであった。
「これが――世界樹ユグドラシル……」
 世界樹を見上げたソエルは、人類がいかにちっぽけな存在だということを、改めて思い知らされた。間近で見る伝説の樹に、二人は圧倒された。空を飲み込む木の葉が大陸に影を落とし、風に揺れるたびに乾いた音を奏でている。見上げても見上げても、頂点が見えてこない。神々の住むアスガルドまで伸びているように見えた。
 乳白色の霧が晴れた大陸から見渡せる空には、黒い機影の群れが浮かんでいた。時折、爆発による煙が発生している。ユグドラシル基地を飛び立った、第二、第三部隊が交戦しているのだ。メアリィとノエルが無事に基地に帰還し、援軍を寄越してくれたのだ。
 喜んでいる場合ではなかった。残された時間は少ない。アッシュとアレックスと合流して、尚且つパスカルを止めないといけないのだ。ソエルはアルヴィトとブリューナクとは違う車輪の痕跡に気付いた。目で痕跡を辿っていくと、戦闘機の主翼が太い幹の陰からはみ出しているではないか。その主翼は、夕闇から夜の闇に染まり始める色に染まっていた。
「隊長! あれを見てください!」
「あの色は――グングニルか? 行ってみよう」
 ソエルとノワリーはユグドラシルの反対側に回りこみ、無造作に放置された二つの戦闘機を発見した。ミッドナイトブルーとジェイドグリーンの戦闘機――グングニルとメイデンリーフだ。パイロットの手助けなしでは戦闘機は飛べない。アッシュとアレックスはここにいる。しかし、肝心の二人がどこにもいなかった。
 二人の代わりに、ノワリーが新しい機体を発見した。全長5メートル弱の小さな機体で、寄生型戦闘機と呼ばれる物だった。恐らく、ギガンテスに搭載されていたのだろう。ボディにはアンティオキアの国章がマーキングされ、禍々しい気配がコクピットに残留していた。
「これは……アルジャーノン博士が乗ってきた機体じゃないでしょうか」
「恐らくそうだろう。二人が危険だ。手分けして捜そう」
「はい!」
 左右に展開したソエルとノワリーは、失踪者を捜し始めた。ワールドエンドは荒廃した大地で、人間が身を潜められそうな場所はどこにも存在しなかった。それならば、アッシュとアレックスはどこに消えたのだろう。誤って海に転落し、プランクトンの一部になってしまったのか。
 不意にソエルは、全身の細胞が凍りつくような、おぞましい寒気を感じた。ソエルの背後に何かがいる。人間じゃない未知の何かだ。ノワリーの所に駆け込むか。その前に正体を突き止めようと、恐る恐る振り向いたソエルの視界に、現実離れした光景が飛び込んできた。
 ソエルの網膜に刻まれたのは、虫のように蠢く木の根だった。木の根は生き物のような明確な意思を持ち、逃げようとしたソエルに一斉に絡み付いてきた。
「きゃあああっ!」
 鋼鉄の如く硬い根が、ソエルの全身を締めあげる。身体中の骨と細胞が、軋んだ悲鳴を上げ始めた。このまま絞め殺され、熟したトマトみたいに破裂してしまうのか。巻き付いた木の根が、ソエルを引き摺り始めた。どこかに連れ込もうとしているようだ。奴らの根城か。ソエルというご馳走を巣に持ち帰り、ゆっくりと味わおうというのか。ソエルは必死に抵抗を続けたが、人間離れした力には抗えなかった。
「ステュアート!」
 声とともに、颯爽とヒーローが現れた。ソエルの悲鳴に気付いたノワリーが、駆け寄って来たのだ。ソエルはかろうじて動く手を伸ばした。救いを求めて伸ばされた手を掴んだノワリーは、ソエルを引き寄せると、彼女に絡み付いている木の根を少しずつ引き剥がしていった。
 木の根は二人が離脱する前に新しい刺客を繰り出し、助けに入ったノワリーを拘束した。ミイラ取りがミイラになってしまったのだ。世界樹の幹が上下左右に蠢き、虚ろな空洞を形成した。根に絡め取られた二人は、漆黒の穴の中に放り込まれ、そのまま意識を失った。


 地下特有の湿気と冷気が混在した空気が、ソエルの肌を刺激した。空気とは別の刺激も感じる。まるで、誰かに頬を叩かれているような感覚だった。それに、赤く腫れないように加減されている。誰かが懸命にソエルの名前を呼んでいた。
 重い瞼を開けると、白く霞んだ視界に人影が映りこんだ。緑色の髪と琥珀色の目をした、端正な顔立ちの青年――翼と誇りを取り戻したパイロット、ノワリーだ。
「ステュアート! しっかりしろ!」
「隊……長……?」
 ソエルは冷たい地面に横たわっていた身体を起こした。鈍い痛みを伴う頭痛が唸っているが、しばらく我慢すれば、おとなしくなってくれるだろう。
「怪我はないか?」
「はい、大丈夫です。あの、ここは……?」
「恐らく、世界樹の中だろう。私たちは、飲み込まれたんだ」
 ノワリーの言葉が俄かに信じられず、ソエルは周囲を確認した。前後を黒色に塗り潰されたトンネルのような場所で、複雑に絡み合った木の根が、天井や内壁を覆い尽くしている。縦横無尽に駆け回る木の根が広がっている光景は、身体の内側で脈打っている血管を彷彿とさせた。
「もしかしたら、ブルーとアルジャーノンも飲み込まれたのかもしれない。捜しに行こう。立てるか?」
「はい」
 差し出されたノワリーの手に掴まり、ソエルは両足を地面に密着させた。彼に手を引かれ、薄暗い通路を進んで行く。ソエルとノワリーは、延々と続く真っ直ぐな一本道をひたすら歩き続けた。果たして、正しい道順なのか。ここは前人未到の謎に包まれた聖域だ。それは誰にも分からないだろう。ソエルを導いていたノワリーが、歩みを止めた。
「隊長――?」
「……静かにしろ。声が聞こえるんだ」
 ノワリーの指示に従い、ソエルは声を封印した。耳を澄ますと、前方から足音が聞こえてきた。立ち位置をずらしたノワリーが、素早くソエルを背中に庇う。近づいてくるのは、足音だけではなかった。
「オイ。道に迷ったんじゃねぇのか? さっきの分かれ道を、右に行けばよかったんだよ」
「お前が左に行くって仰ったから、こうなったんだと思うんですけど?」
「ファック! オレのせいにするんじゃねぇよ! だいたい、世界樹に行きたいって言いやがったのはお前だぞ!」
「文句言うなら一緒に行くって言うなよ!」
「うっせぇよ! 図体だけデカい野郎が!」
「何だよ! チビアッシュ!」
 子供じみた口論が聞こえてきたかと思うと、前方の暗がりからアッシュとアレックスが歩いて来た。ノワリーの推測通り、二人もユグドラシルに飲み込まれていたのだ。息継ぎをするために言葉を止めたアッシュとアレックスが、ようやくソエルとノワリーの存在に気づいた。
「ソエルに……隊長……? どうしてここに?」
「二人とも無事だったんですね!? よかった――」
「アッシュ! アレックス!」
 ノワリーの怒号が通路を駆け巡り、暗闇に吸い込まれていった。常に冷静な彼が叫ぶなんて。ソエルたちは驚愕した。
「馬鹿者が! 勝手に隊列を離れるなと言っただろう! 俺たちが――俺が、どれだけ心配したと思っているんだ! まったく……無事でよかった――」
 ノワリーの切れ長の目の端に、透明な液体が滲んでいた。人間の感情を表現する際に用いられる、涙という物質だ。涙を目撃したソエルたちは息を呑んだ。目尻を湿らせる涙に気づいたノワリーがそれを拭い、すまないと短く謝った。自分たちの非を認めたアッシュとアレックスも、素直に謝罪した。
「アルジャーノン。博士はここにいるのか?」
 冷静な顔に戻ったノワリーが、アレックスに質問した。
「はい。ここにいます。来る途中に、ワールドエンドに着陸する機体を見ました。でも、世界樹のどこにいるのかは……見当がつきませんよ」
 何せクソ広いからな。アッシュが補足した。確かにアッシュの言うとおりだ。巨大な世界樹の中は、不思議の国のように入り組んでいて、パスカルがどこにいるのかは誰も見当がつかないのだ。その場に座り込んで、会議を開いている時間はない。
 ノワリーの判断で、アッシュたちが歩いて来た道筋を辿ることになった。奥に進むにつれ、空気が重くなっていく。高濃度のマナが充満しているせいだとアッシュが教えてくれた。
「……行き止まりか」
 先頭を歩くノワリーが足を止め、重い息と言葉を吐き出した。木の根が絡み合った壁が、ソエルたちの進路を塞いでいたのだ。共同作業で根っこを引き剥がしてみたが、焦げ茶色の壁が広がっているだけだった。道を間違えたということはあり得ない。分かれ道も何もない、味気のない一本道を進んで来たのだ。
「ファック! どんだけ広いんだよ!」
 アッシュが乱暴に壁を蹴った。明らかに苛立っている。焦っているのは皆同じだ。
「落ち着け、ブルー。引き返して、別の道を探すしかないな」
「たっ――隊長!」
 最後尾にいるアレックスが悲鳴に近い声を上げ、ノワリーを呼んだ。ソエルたちが振り向くと、驚愕の表情を張りつけたアレックスは、壁の一点を凝視していた。彼の側に集まった三人も、同様に目を見開いて驚愕した。
 何と、壁に絡み付く木の根が、生き物のように蠢いているではないか。互いに絡み合っていた木の根は分離し、四人が見ている前で新しい道を作り出した。まるで姿の見えない何者かが、ソエルたちを導いているようだ。
「隊長……どうしましょう……」
 進むべきか、それとも引き返すべきか。ソエルたちはノワリーに判断を委ねた。
「私は――戻るべきだと思う。ここは、誰も足を踏み入れたことのない世界樹の中だ。進むには危険すぎる」
「待ってくれ。オレは、この道を行ったほうがいいと思う」
 アッシュがノワリーの導き出した結論に真っ向から反対した。琥珀色の切れ長の目が、静かにアッシュを捉えた。
「どうして、そう思う? 理由を訊きたい」
「……うまくは言えねぇけど、この先にあのクソ野郎がいる。世界樹が……そう言ってる気がするんだ」
「俺も、アッシュと同じ意見です。確証はありません。でも……この先に父さんがいます。隊長、お願いします」
 アレックスが頭を下げ、ノワリーに懇願した。ノワリーの顔が厳しくなった。考えを巡らせているのだ。アッシュとアレックスは、遺伝子にマナを組み込まれている。その二人が同じ意見を口に出した。世界樹とマナが共鳴したのかもしれない。いずれにせよ、信じてみる価値はあると思う。
「隊長。私も、行くべきだと思います。お願いします」
 ソエルたちはノワリーの答えを待った。彼の頭の中では、様々な戦術が浮かんでは消え、難解な方程式を解いているに違いない。判断を誤れば、三人の命を危険に晒してしまうのだ。眉間にきつく寄っていた皺が和らぐ。どうやら答えが出たようだ。厳しい顔だった。望んでいる答えではなくとも、彼の判断に従うつもりだ。
「……分かった。お前たちを信じてみよう。ただし、絶対に私の側から離れるな」
 ノワリーの采配にソエルたちは感謝をした。ノワリーを先頭に、世界樹が作り出した道を進んで行く。平坦だった道が上り坂に変化した。遥かな高みに向かっているのだ。前方に針のように細い光が見えた。光を目指して上り続ける。光が近づき、そして大きくなり、ソエルたちは開けた空間に辿り着いた。
 アッシュとアレックスは正しかった。
 ついに見つけたのだ。
 狂気に囚われた科学者――パスカル・フォン・アルジャーノンを。