世界樹の意思に導かれるがままに、血管のように複雑に絡み合った迷宮を抜けたソエルたちは、遂にユグドラシルの頂上に辿り着いた。頂上は円形の広間のような構造で天井は吹き抜けになっており、瑞々しい若葉たちが屋根の役割を担っている。
 葉の隙間から零れるのは群青の空だ。世界が危機に瀕していることを知らない雲たちが、優雅に泳いで行く。古の戦士たちが誇りと命を懸け、熾烈な戦いを繰り広げたコロッセオに類似していた。血生臭い戦いを観賞する観客はいない。物言わぬ木の根たちが、壁と床と天井全体に絡み合っている。感情や心臓を持っているのはソエルたちだけだ。いや、もう一人、歪んだ魂を持つ者がここにいる。
 広間の中心には、複雑さと緻密さを増した木の根が絡み合って構築された柱が建っていた。神の御許まで届きそうな高さだ。純粋な静寂に包まれた空間に、鈍い音が響き渡った。生き物たちが奏でる心臓の鼓動によく似ている。柱の前にパスカルは佇んでいた。柱を見上げる横顔は、静かな興奮に満ちている。警戒しながら、ソエルたちは距離を詰めた。
「アルジャーノン博士」
 ソエルたちを代表して、ノワリーが白衣に包まれた背中に呼びかけた。栗色の髪が揺れ、パスカルがゆっくりと振り向く。曇り空の色を写し取った双眸が嬉しそうに細められ、待ち合わせの場所に到着した恋人を出迎えるような、優しい笑顔が浮かんだ。
「やあ、ヴァルキリーの諸君。来てくれると思っていたよ。やはり、世界樹ユグドラシルは美しい聖域だ。我々人類の新しい楽園に相応しい場所だと思わないかね?」
「おとなししく、私たちと一緒に来てもらいたい」
「ん? なぜだい?」
 パスカルが首を傾げた。子供のような無邪気な仕草が、彼が持つ異質さを強調している。
「貴方は無意味な戦争を引き起こした張本人だ。軍法会議にかけられるべきです」
「それは、困るなぁ。まだ、プロジェクト・エデンが完成していないんだよ」
「プロジェクト・エデン……?」
 ソエルたちの戸惑いの声が重なった。パスカルは再び柱を見上げた。知的興奮に浸っているのか。凡人を遥かに凌駕した頭脳を持つ、この男の考えていることが分からない。次から次へと理解できない言葉が飛び出してくるのだ。いや、理解できる者など、本人を除いてこの世界にはいないのかもしれない。
「君たちも、知っているだろう? 人類の始祖であるアダムとイヴが、エデンの園を追い出された話を。愚かな行為だと嘆く者も多いが、私は大いに感謝している。原罪を背負った代わりに、人類は「知恵」というものを得た。世界中に存在する生物の中で、優れた頭脳を持つ者は人間だからね。私の目的は、永遠に枯れない世界樹を生み出すことだよ」
 この男は何を言っているんだ。誰もがそう思っていた。永遠に枯れない世界樹を創り出すなんて、雲を掴むような話――つまり限りなく不可能に近い試みだ。その不可能を覆そうと、世界中の科学者が自慢の頭脳を駆使して研究に研究を重ねたが、彼らはその壁を乗り越えることができずに挫折していった。
 男の子がヒーローに憧れるように、女の子が王女様に憧れるように、枯れない世界樹は科学者たちの憧れであり、永遠の夢だ。そんなものは夢物語にすぎない。狂気に飲み込まれて錯乱してしまったのか。
「わけが分からないことを言って、誤魔化すつもりですか!? 永遠に枯れない世界樹なんて、創れるわけないわ!」
「ソエルの意見に賛成するぜ。ガキみたいな夢物語を語ってんじゃねぇよ!」
 ソエルとアッシュは口を揃え、パスカルの理論を真っ向から否定した。ソエルとアッシュの言ったことは正しい。目の前にいる科学者が放った言葉は、絵空事にすぎないのだ。二人の反論に怒り狂うこともなく、パスカルはただ穏やかに微笑んでいた。
「ところが、創れるんだよ。長い年月を重ねて、私はやっとその方法を編み出した。この――ニドホグを使ってね」
 白衣のポケットから、パスカルが作り出した細菌が現れた。注射器の狭い容器の中で、太陽の光のように透明な色ではない、闇のように暗く濁った色が漣のように揺れている。生まれ落ちたばかりの我が子を愛でる親のように、パスカルは液体を眺めていた。
「私は、この子にマナを食い荒らす性質を植え付けた。世界樹にニドホグを与えたら、どうなると思う? 生命力の源でもあるマナを食われた世界樹は、当然のように死に瀕する。世界樹は生きようと、生き残ろうと必死になるよ。そして、新しい種へ『進化』する。我々人類のようにね。何億年分の進化を、一気にしようとするだろう。そのためには、生命力に溢れた養分が必要なんだ。ジェネシスに、ジェネシスの血を引く者。そして、キメラ。素晴らしい養分たちが揃った」
 ニドホグから離れた灰色の視線が動いた。ソエルたちに向けられたその目は、もはや人間の目ではなかった。パスカルは、アッシュとアレックス、ノワリーの三人を、新世界を創造するために、世界樹の生贄として捧げようとしているのだ。アレックスが同じ血を引く息子だというのに、一ミリの躊躇いも持っていない。親子の情愛さえも抱いていない。やはりこの男は悪魔だ。人間の部分を全て捨て去ったのだ。
「見たまえ。この根の柱こそが世界樹の中枢――いわば心臓の役割を果たしているのだよ。君たちにも聞こえるだろう? 世界樹の心臓が、鼓動する音が」
 パスカルの手が注射器に移り、細い針を覆っていたシリコンのカバーを外した。指が慣れた手つきで先端を弾く。濁った緑色の液体が滲み出た。糸のように細い針が、絡み合う根の柱に向けられた。止めてくれと言わんばかりに、世界樹が悲鳴を上げる。
「さあ、楽園が復活する時だ。君たちは、人間を遥かに凌駕するスペックの持ち主だ。素晴らしい養分になることを期待しているよ。君たちを取り込んだ世界樹は生まれ変わる。進化する。そして、永久にマナを生み出し続けるだろう。新しい世界の創造に貢献できることを、光栄に思いたまえ」
「そんなことはさせんぞ。パスカル」
 殺伐とした空気を、バリトンの声が切り裂いた。ソエルたちは振り向いた。世界樹の迷宮を踏破したクラッド・エリオット大佐が、堂々とした足取りで歩いて来るではないか。この世の全ての恐怖を蹴散らし、四人の脇をすり抜けたクラッドは、注射器を構える科学者の前で立ち止まった。拳銃が収められたホルスターがベルトに付けられていて、瞬時に引き抜けるように、右手が添えられている。
「これはこれは……エリオット大佐ではありませんか。こんな辺境の地においでになるとは、いったいどうやって?」
「答える義理はないが、質問に答えるのが礼儀だろう。パラシュートで降下した。それだけだ」
「ほう、勇気があるお方だ。で、ご用件は何ですかな?」
「決まっている」クラッドがホルスターから銃を抜いた。銃口を白衣の胸に突きつける。「息子を取り戻しに来た。世界樹の餌にはさせん」
 ノワリーが驚きを露わにする。微笑とも、冷笑ともとれる微笑みが、パスカルの薄い唇に浮かんだ。
「おや。大佐はノワリー君を毛嫌いしていたはず。どういう風の吹き回しですか?」
「……貴様には関係ない。私が間違っていた。それだけだ」
「親の愛に目覚めたというわけですか。そんな物騒な物を突きつけても無駄ですよ。古典的な脅しには屈しませんからね」
 自らを見据える銃口に怯えることもなく、パスカルは一歩ずつ後退していった。パスカルを追いかけ、クラッドも距離を詰める。どちらも全く隙を見せない。いや、見せてはいけない。隙を見せたほうが、確実に命を落とすのだ。
「私を殺したら、誰がニドホグを止めるんですか? この子の扱い方は、私しか知らないんですよ」
「その時はその時だ。今は貴様を止めるのが先決だ」
「――愚かな人だ」
 刹那、一瞬の間隙をついたパスカルが、世界樹の中枢である根の柱に注射器を突き刺した。濁った色の液体が押し出され、ニドホグが世界樹の体内に侵入していった。パスカルが哄笑を上げた。邪神を崇拝する狂信者のような笑い声が、広間に反響しては消えていく。
「はははは! これで世界樹は生まれ変わる! 楽園が生まれるのだ!」
「パスカル! 貴様!」
 クラッドの指が引き金にかかる。しかし、銃口から弾丸が発射されることはなかった。突如、足下の地面が大きく揺れたのだ。大地の下で巨大な何かが蠢いている。ひび割れた地面を突き破り、世界樹の根が飛び出した。
 数十本の根は、指揮者のいない楽団のように、好き勝手に暴れ回っている。ニドホグがマナを食い荒らしているのだ。身体の内側を食い荒らされている世界樹が苦しんでいる。叫び、暴れる地面に弾き飛ばされたソエルたちは、散り散りになってしまった。
「覚悟しろ! パスカル!」
「きゃあっ!」
 クラッドとソエルの叫び声が重なり合った。崩れたバランスを取り戻し、体勢を整え、銃を構えたクラッドが凍りつく。クラッドが構えた銃の前には、木の根に絡め取られて宙に浮くソエルがいた。ソエルの死角から無数の根が襲いかかり、逃げる暇も与えられず、堅い木の根に全身を縛り上げられてしまい、パスカルの脇に吊るし上げられてしまったのだ。銃弾から身を守るための盾にするつもりだ。引き金にかかったクラッドの指が固まった。
「テメェ! ソエルを放しやがれ!」
「父さん! 馬鹿な真似は止めてくれ!」
 怒りを剥き出しにしたアッシュと、悲痛な表情のアレックスが叫び、地面を蹴って駆け出そうと動いた。二人の動きに合わせるかのように再び大地が揺れ動き、硬い地面を突き破った木の棘が、アッシュとアレックスを牽制した。ノワリーも根に囲まれていた。威嚇する蛇のように、陽炎の如く揺れている。一ミリでも動けば、容赦なく突き刺すつもりだ。
「どうします? 人質は四人の若者。そのなかの一人は貴方の息子さんだ。まあ、『本物』ではありませんが」
「大佐! 私に構わないでください! 早く撃ってください!」
 木の根が喉を締めつけるなか、ソエルは必死に叫んだ。クラッドの目に迷いが生まれる。どうして迷うんだ。引き金を引くだけで、世界樹を救って世界を守り、ヒーローになれるんだぞ。銃を掲げていた腕が、重力に負けて下ろされた。世界樹の命よりも、ソエルたちの命を優先したのだ。それでいい。パスカルが笑った。
「賢明な判断だ。私は、神になるんですからね」
 パスカルが指を鳴らした。空気が唸り、何かが飛んできた。
「ぐあっ!」
 指の音に引き寄せられるように飛来した木の根がクラッドの右肩を貫き、穴から流れ出た鮮血が地面を湿らせた。落ちた拳銃に根が絡み付く。木の根は器用に銃を拾い上げると、パスカルの掌の中に銃を落とした。飼い主が投げたボールを拾いに行く、忠実な犬のような動作だった。
「よしよし、良い子だね。驚いたでしょう? 世界樹は私の意のままなんですよ」
「世界樹が……? どういうこと?」
「論より証拠だ。見たまえ」
 パスカルが白衣の袖を捲った。現れた光景にソエルたちは息を呑んだ。パスカルの腕は、人間の皮膚とは思えない姿に変貌していた。ヘドロのような濁った緑色と、硬い質感に変わっていたのだ。皮膚の内側で何かが蠢いている。それが動くたびに皮膚が盛り上がり、血管が脈を打ったりしていた。おぞましい。その一言に尽きた。
「私の身体の中に、ニドホグを注射した。私の中のニドホグと、世界樹の中のニドホグは繋がっているんだよ。簡単に言うと、私が見えない糸で世界樹を操っている、と言うことかな」
 パスカルがクラッドから奪った銃を構える。銃口は寸分の狂いもなく彼を捉えていた。黒い穴がクラッドの心臓の上で止まった。そして、人間の皮を被った悪魔が不気味に笑う。
「死んでもらいますよ、エリオット大佐。貴方が生きていると、いろいろと厄介だしね」
「私を殺す気か? 私は、エリオット家の当主だぞ? クルタナ空軍の幹部だぞ? 私を殺せば、どうなるか――」
「知らないなぁ。そんなもの、死んでしまえばただのゴミですよ」
 銃口がクラッドに狙いを定めた。
 撃鉄が動く。
 指が引き金にかかる。
 機械仕掛けの悪魔が吠えた。
 人影のような残像が駆け抜け、
 ソエルたちの視界に鮮血が飛び散った。
 血管を流れる赤い血だ。
 同じ赤い血でも、
 それは、クラッドの血ではなかった。
 一瞬、時間が凍りついたように止まった。
 現実が時間を溶かし、止まっていた時が動き出した。


「隊長――?」
「……ノワリー?」
 恐ろしい現実を突きつけられたソエルたちとクラッドは、使い古しのブラシのような掠れた声を絞り出した。
 クラッドの正面に、ノワリーが立っていたのだ。
 両腕を広げ、神の啓示を受けた聖者のように。
 クラッドの胸に穿たれるはずだった穴が、彼の左胸に開いていた。
 ゆっくりと、ノワリーが振り向いた。
「無事……ですか……?」
 左胸に開いた穴から鮮血が流れ出て、白いシャツが赤く染まっていく。現実と異世界が交差する、真っ赤に色づいた夕焼け空のように。
「な……なぜ、私を庇った? 私は、お前に残酷な言葉を……酷い仕打ちを――」
 ノワリーが首を振る。そして、彼は微笑んだ。とても綺麗な笑顔だった。地上で生きる人間には作れない笑顔だ。
「……貴方は、俺の父親だ。死なせは……しない……」
 微笑みが消え、ノワリーが血を吐いた。瞼が落ち、琥珀色の瞳が隠れ、膝が折れる。支える力を失った身体をクラッドが抱き留めた。いくら身体を揺すっても、名前を連呼しても、ノワリーは目を覚まそうとする意思を見せなかった。赤い血がクラッドの軍服と混じり合い、目に突き刺さりそうな、鮮やかすぎる色を生み出した。
「おや。死んでしまったか。最高傑作だったのに、残念だ。まあ、いいか。DNAさえあれば、キメラはいくらでも造れるからね。それに、死んでも養分であることに変わりはない」
 刹那、木の根に足止めを食らっていたアレックスが覚悟を決め、茶色の地面を蹴って駆け出した。威嚇するように揺れていた木の根が一斉に吠えた。先端を槍のように鋭く変化させた根の群れが、アレックスに牙を剥いた。流星群の如く降り注ぐ根が、彼の全身に痛みと傷を刻んでいく。それでもアレックスは走り続けた。
 蠢く根の壁を突破したアレックスが、無防備なパスカルに戦いを挑んだ。若さが誇る体力には敵わない。激しい揉み合いの末、アレックスは父親を地面に押し倒した。パスカルと世界樹を繋いでいた糸が切れ、宙に吊るし上げられていたソエルは解放された。
 父親の手から銃をもぎ取ったアレックスが立ち上がり、肩で息をしながら銃を構えた。
 光と闇。均衡と混沌。善と悪に分かたれたアルジャーノン親子が対峙した。
「私を撃つつもりか? 止めなさい。お前にはできない」
「――できるさ」
 アレックスの指が、黒い引き金を引いた。
 銃声。
 甘い火薬の匂い。
 空の薬莢が地面に落ちる。
 パスカルの太腿に穴が開いた。
 苦悶の声を上げたパスカルが、地面に座り込んだ。
 弾が補充される。
 銃口が動く。
 吸い寄せられるように、パスカルの頭の奥に眠る脳髄に向けられた。
「――今度は外さない」
 瞬きを忘れた緑色の双眸がパスカルを貫く。北の果ての大陸に鎮座する、氷河のように凍りついた声だ。太陽のように明るく、気さくで快活なアレックスの面影は、どこに旅立ってしまったんだ。早く撃て。弾丸を頭蓋に撃ち込んで、美しい血を見せてくれ。悪魔の囁き声が聞こえた。
「ファック! 止めろ! アレックス!」
 アレックスの後を追いかけて来たアッシュが叫ぶ。しかし、アッシュの制止する声は届かない。見えない玻璃の壁に掻き消されてしまうのだ。ならば、直接触れるまでだ。アッシュがアレックスの腕を掴んだ。萌える若葉色の目に、確かな理性が戻った。
「離せよ! 終わりにするんだ!」
「こんなクソ野郎、殺す価値もねぇ! お前の手が汚れるだけだ! カルマが重くなるだけだ! お前がそんなことする必要ねぇよ!」
 アレックスの右手から逃れた銃が、重い音を立てて地面に落ちた。その後を追いかけるように、アレックスも両膝を地面に突いて崩れ落ちる。萌える緑色の目に、涙が溜まっていった。
「アッ……シュ……俺……俺っ……」
「……ファック。泣くんじゃねぇよ」
「――息子の言うとおりだ。終わりにしようじゃないか」
 太腿の穴から血を滴らせながら、パスカルが立ち上がった。慈悲、慈愛、優しさ。人間に必要な感情を捨て去った目が、爬虫類のように光っている。ニドホグと同化した左腕が高く掲げられ、切れていた糸が再び繋がり、散らばっていた木の根たちがパスカルの周囲に集まった。まるで、パスカルの背中から蜘蛛の足が生えたみたいだ。思いどおりに動かないソエルたちに痺れを切らしたのか、科学者の顔は醜く歪んでいた。
「私は神になる! 新世界の創造主になるのだ! おとなしく生け贄になるがいい!」
「違う! 貴方は神なんかじゃない! 人の命を弄んで、戦争を引き起こしてたくさんの人を傷つけた! 何が神よ! 貴方はただの人間じゃない! 狂った哀れな人間よ!」
「そうだよ! ソエルの言うとおりだ! もう止めてくれ! 父さん!」
「違わない! 私は神だ! 世界樹は私の物だ! マナも! 世界も! 運命も! 全て私の物――」
 哄笑を奏でていたパスカルの顔が、何かに怯えたように引き攣った。そして笑い声が鳴り止む。現実を把握しきれていない灰色の目が、ゆっくりと腹部に向けられた。パスカルの腹部から、無数の木の根が突き出ていたのだ。皮膚を破り、肉を食らい、骨を砕いた木の根は花のように咲き誇っていた。半開きになった口から、大量の血が溢れ出た。
「――飲み込んだんだ」アッシュが呟いた。「ニドホグを飲み込んだんだ。世界樹は、もう、あの野郎のものじゃねぇ。自我を取り戻したんだ」
「ばっ――馬鹿な……! ニドホグを飲み込んだというのか……!? こんなところで……死ぬわけには――!」
 瞠目したパスカルが、苦悶の声を振り絞った。従えていたと思いこんでいた世界樹が、ニドホグの支配から逃れたのだ。計り知れない衝撃を受けているのだろう。串刺しの身体が持ち上げられる。滴り落ちる鮮血が、彼に死が迫っていることを予期していた。
 弱った獲物に止めを刺すように、更に無数の根がパスカルを貫いた。身体の外側と内側を食い破り、木の根が飛び出した。生命の灯火を吹き消された手が垂れ下がった。
 パスカルの目はもはや光を映しておらず、白濁した灰色の目は、死という永遠の夢を見ていた。闇に堕ちた聖者の狂気は終わったのだ。無残な姿を晒した父親の死体から、アレックスが目を逸らした。抑えきれずに零れ落ちた嗚咽が聞こえた。
 活動を再開した大地が悲鳴を上げている。振動の周期は短くなっていた。天井から剥離した岩盤と土埃が落ちてくる。ニドホグを飲み込みはしたものの、世界樹は限界を迎えているのだ。瓦礫に押し潰される前に、海の底に沈む前に、一刻も早くユグドラシルから離脱しないといけない。振動に紛れ、クラッドの必死な声がソエルの耳に届いた。死の淵を彷徨うノワリーに懸命に呼びかけている。ソエルは彼の側に駆け寄った。
「大佐! 隊長は――」
 クラッドが、ノワリーの血塗れの胸に耳を当てた。心臓の鼓動を探しているのだ。赤い胸から耳を離した彼は、今度はノワリーの首筋に指を添えた。両目を閉じ、指先に全神経を集中している。脈の有無を確認したクラッドが目を開けた。
「微かに息がある。一刻も早く、病院に運ばねば」
「ソエル!」
 出口を探していたアッシュが、手を振ってソエルを呼んだ。クラッドがノワリーを背中に背負うのを手伝って、アッシュの所に向かう。ここに辿り着いた時と同じように、根に覆われた壁が分裂し、進むべき道程を指し示していた。世界樹がソエルたちを出口まで導いてくれているのだ。薄暗いトンネル状の通路を歩いていると、不意に先頭を歩くアッシュが立ち止まった。
「アッシュ君?」
「アレックスはどこだ?」
「――えっ?」
「後ろにいるのではないのか?」
 ソエルとクラッドは後ろを振り向き、そして硬直した。白ウサギに導かれたアリスのように、アレックスがいなくなっていたのだ。何の疑問も抱かずに、アレックスは最後尾を歩いていると思い込んでいた。まさか、頂上の広間に留まっているというのか。もし、そうだとすれば危険だ。世界樹は瀕死の状態だ。いつ崩落してもおかしくない。
「ファック! あの馬鹿野郎! オレが連れ戻しに行く! ソエルと大佐は先に行け!」
「でも――!」
「グズグズするな! 絶対に追いつくからよ!」
 ソエルの返事を待たずに、アッシュは来た道を引き返して行った。遠ざかる足音。華奢な背中は、口を開けて広がる暗闇の中に消えていった。彼の後を追いかけたかった。でも、今はアッシュを信じて先に進もう。ソエルはクラッドと頷き合い、光を求めて進み続けた。
 暗闇に慣れた目が、前方から差し込む光を激しく拒む。駄々をこねる目を宥めすかして、澄んだ空気が流れてくる方向へ急いだ。出口が近いのだ。垂れ下がった根を掻き分ける。堅い大地を踏み締めて、二人は世界樹の中から脱出した。
 戦闘機乗りが焦がれてやまない青空が、頭上に広がっている。ソエルは後ろを振り向いたが、アッシュとアレックスの姿は見えない。死にゆく世界樹に押し潰されていないことを痛切に希った。
(アッシュ君、アレックスさん。お願い、無事に戻って来て――!)


 アッシュが走る空間が揺れるたびに、世界樹の命は弱まっていくような気がする。
 頭上に広がる岩盤は少女のように繊細で脆く、悲鳴を上げて落ちてくるのは時間の問題だ。腕を広げ、優しく受け留めるのは、不可能に近いし自信がない。落ちないでくれよと祈りつつ、アッシュは走る速度を上げた。
 幸い岩盤に押し潰されることもなく、アッシュは頂上の広間に舞い戻った。世界樹の中枢である柱の前に、アレックスは佇んでいた。地面に膝を突いたまま、微動だにしない。あの馬鹿野郎が。アッシュは悪態をつきそうになるのを堪え、周囲に散乱している障害物を避けながら、アレックスの所に走った。
「アレックス!」
 苛立ちを滲ませた声で名前を呼び、アッシュはアレックスの肩を掴んで存在を知らせた。大地を見つめていた顔が上昇し、肩を震わせたアレックスが振り向いた。墓場から這い出て来た死人と勘違いしそうな、脱色したような白い顔だ。身体中に流れる血管を全て引き剥がされたら、こんな色になるのだろうか。
「……アッシュ?」
 虚ろな目がアッシュを見上げた。生きる者の目ではない、灰色の死に囚われた者の目だ。アレックスの右手に握られている銃に気づく。父親を撃ち抜いた銃だ。自分の頭を撃ち抜かないことを祈ろう。
「何やってんだよ。行くぞ!」
「――駄目だ。行けないよ」
「は?」
 銃を握ったままのアレックスが立ち上がった。一回、緑の目が後ろを向く。彼の背後には、神父の祈りの言葉も捧げられずに、埋葬もされていないパスカルの死体がある。今までずっと、死者と交信していたのか。
「……アルジャーノンの血は呪われてる。いずれ、俺も、父さんみたいに狂ってしまうかもしれない。だから、決めたんだ。呪われた遺伝子を消し去らないといけない。――ここで、終わりにしないといけないんだ」
 鉛色の銃が上昇する。持ち上がった銃口が、アレックスの心臓の真上に吸い付いた。頭蓋の代わりに心臓を撃ち抜くつもりか。頭を撃ち抜くなと祈っていたが、無残にも裏切られそうだ。裏切られる前に、凶行に走る前に、彼を止めないといけない。アッシュは、彼を苦しめて呪縛しているものを知っていた。
 一歩、また一歩。アッシュはアレックスに近づいた。来るな。来るんじゃない。お願いだ。旋回して離脱してくれ。彼の瞳が語っている。アッシュは銃身を掴んだ。手が震える。指は引き金を引いていない。引き寄せた銃身を、アッシュは自分の胸に押し当てた。銃身は心臓の真上だ。狙いは正確で確実。奇跡でも起きないかぎり、弾は外れない。
「オレを撃て」
「なっ……何を言ってるんだよ! お前を撃てるわけないだろ!」
「お前を苦しめているのは、世界樹だ。マナだ。ジェネシスだ。そして――オレだ。オレを撃って、本当のお前を取り戻せ」
 アレックスの喉が動く。
 吸い寄せられるように、指が引き金にかかった。
 アッシュの紫の目に、火薬の煙が映る。
 薬莢が床に落ちる幻聴。
 現実に這い出ようとしている。
 そうだ。
 撃て。
 撃つんだ。
 撃って離脱しろ。
 この手でお前を取り戻せ。
「――できるかよ!」
 冷たい金属の感触が溶け、銃が奪われた。略奪された銃は、乾いた地面の上に投げ捨てられた。銃口はアッシュを捉えていない。銃弾が放たれることはないだろう。撃ってくれる主人がいないのだから。
「俺は――絶対にお前を撃たない! 死ぬまで全部背負って生きていく! 俺のままで生きるよ!」
 アレックスの両目に涙が溜まり始める。泣き出すなと確信した瞬間、アレックスが泣いた。溢れる涙と止まらない嗚咽。さっきも泣いたくせに、何回泣けば気が済むんだろうか。忘れていた泣き方を思い出したから、嬉しくて泣いているのだ。止まない雨はない。止まらない涙もない。だから泣き止んでほしい。背伸びをして、アッシュはアレックスの頭を叩いた。
「覚えてるか? 一年前にオレが言ったこと。オレに縛られるな。お前のままで生きろ。お前の人生だ。確か、そう言ったよな」
「……うん」
 あの日の情景が鮮明に描かれる。二人でバイクに乗って66号線を駆け抜け、海を見てアッシュが空から離れるとアレックスに伝えた日だ。ずっと支える。追い風になるとアレックスは約束した。あの時の空の青さと海の色は、今でも覚えている。
「お前はオレの追い風だろうが。オレを支えてくれよ。皆と一緒に、空を駆けようぜ」
「……ああ。俺はお前の追い風だもんな。俺も、アッシュや皆と空を飛びたいよ」
 触れ合っていた身体を離した。
 身体は離れたけれど、心は繋がったままだ。
 いつまでも。
 離れることはない。
 強い絆で繋がっているのだから。
「帰ろうぜ。オレたちの世界に」


 黄土色の大地に亀裂が走り、網目状に地面を侵食していく。ソエルとクラッドと戦闘機たちを支えている大地は限界を迎え始めていた。世界を支える役目から解放されたいと願っているかのようだ。アッシュとアレックスは必ず戻って来る。それだけを信じ、ソエルは不安定な足場の上でひたすら待った。瀕死のノワリーを、ブリューナクのコクピットに押し込んだクラッドが駆け寄って来た。
「これ以上は待てん! 早く戦闘機に乗りなさい!」
「二人を置いて行くなんて、できません!」
 絶対に追いつく。アッシュは約束したのだ。だから、背中を向けて逃げることなんてできない。例え海の底に沈み、冷たい骸に成り果てようとも、ソエルは二人を待ち続ける覚悟だった。
「君は、スーパーホーネットを操縦できるか?」
「え?」
「私が、二人を基地まで送り届けよう。君はブリューナクで先に戻ってくれ。ノワリーを――息子を死なせたくない。頼む」
 クラッドの表情が痛みを帯びた。子供を思う親の顔で、愛情に目覚めたのだ。彼がもっと早く息子への愛に目覚めていれば、ノワリーの心は傷つかずに済み、心臓が撃ち抜かれることもなかった。痛みを感じないと、人間は愛を知ることができないのだろうか。それが事実だとすれば、あまりにも悲しすぎる。
「ソエル! 大佐!」
 待ち焦がれていた声が響き、世界樹の幹に開いた穴からアッシュが這い出して来た。数分遅れ、長身の少年が出て来る。アレックスだ。
「アッシュ君! アレックスさん! 無事でよかった!」
「心配をかけて、ごめん」
「喜ぶのは後だ。行くぞ!」
 見上げれば簡単に望むことのできる青空は、時間の経過とともに少しずつ色を失い、白く濁り始めていた。ワールドエンドを取り巻いていた霧が、復活しようとしているのだ。このままでは、ソエルたちは霧の牢獄に骨を埋めることになるだろう。それぞれの機体の側に走る。幸い、ランディングできる面積はかろうじて保たれていた。
「大佐! 貴方はどうするんですか!?」
 メイデンリーフの主翼に上がったアレックスが叫んだ。そうだ。ワールドエンドに放置されている戦闘機は四機しかないのだ。パスカルが乗っていた寄生型戦闘機は、運んでくれる機体がないから使い物にならない。それに、ヴァルキリーの機体は全て単座型だった。神よ、クラッド大佐を置き去りにしろと仰るのか?
「大丈夫だ。ブリューナクを借りる。二人なら、何とか乗れるはずだ」
 クラッドがブリューナクに乗り込んだ。ノワリーもクラッドも、180センチを超える長身だ。コクピットに収まるのかどうか不安に思ったが、キャノピィが閉じていったので、何とか無事に乗り込めたようだ。
 ひび割れた大地をランディング。四機はワールドエンドを飛び立った。
 メイデンリーフが先頭、グングニルが最後尾を飛び、その間をアルヴィトとブリューナクが飛ぶ。
 濃い霧が、ワールドエンドと世界樹ユグドラシルを包んでいく。
 眠り姫を守る茨のように。
 ラプンツェルを覆い隠す塔のように。
 世界樹は、二度と姿を見せないのかもしれない。


 先頭を駆けるメイデンリーフが、ジェイドグリーンの主翼を振って合図を送ってきた。眼下に広がる大海原に何か見つけたようだ。ノイズを押し退けて、無線が喋り出した。
『十時の方向、数キロ先に巨大な空母が走ってる。……アンティオキアかな』
『いや、あれは――クルタナの空母エインヘリヤルだ』
 距離が縮まるにつれ、空母エインヘリヤルの全貌が見えてきた。全長は300メートルをゆうに超えているだろう。速力は30ノットぐらいか。戦闘機を八十機は搭載できそうだ。
 フライトデッキが明滅を繰り返していた。上空を飛ぶソエルたちに合図を送っているのだ。あのパターンは「高度を下げろ」だった。デッキに着陸しろと伝えているのだ。
『本当に、味方なんだろうな。敵に乗っ取られてるんじゃねぇのか? クルタナのお偉い様は、アンティオキアと仲が良いからな』
 無線の向こう側のアッシュが言う。クラッドに対する皮肉だろう。矛先を向けられたクラッドは無言だ。彼の皮肉を真摯に受けとめ、噛み締めているのかもしれない。確かに、アッシュの言うことは一理ある。信じられる証拠はどこにもないのだ。
「……その可能性はあると思います。でも、罠でも構いません。捕虜になっても悔やみません。今は、隊長を助けることが先決です」
『そう……だな。アレックスの後に続け。オレは最後に行く』
「はい」
 メイデンリーフが無事に着艦したのを確認。
 着艦の態勢に。
 アルヴィトは空母上空を旋回しながら一周した。
 右舷後方から接近。
 アレスティングフックを下ろす。
 一度エインヘリヤルを通過。
 左へターン。
 脚を下ろして減速。
 左舷を通過。
 180度ターン。
 機首を着艦エリアに向ける。
 グライドスロープ――着艦誘導電波を捉えた。
 着陸信号士官の指示が、無線を通じて伝えられる。
 デッキ上に張られたアレスティングワイヤーを、ワイヤーキャッチが捉えた。
 激しい衝撃。
 アルヴィトは無事に着艦した。
「ソエル! アッシュ! アレックス!」
 メアリィ、リゲル、オペラの三人が、灰色のデッキを走って来た。お互いの無事を確認し、再会の喜びを分かち合う。空を埋め尽くしていたアンティオキアの軍勢は、朝日に怯えた幽霊みたいに消えていて、群青色を取り戻した青空が広がっていた。ソエルの双子の兄、ノエルの姿が見当たらない。まさか撃墜されてしまい、海の藻屑になってしまったのか。
「グランツさん! アンティオキアはどうなったんですか!? ノエルはどこですか!?」
「貴女たちと、第二、第三チームの活躍でほぼ壊滅状態よ。ノエル君は奴らの残党を退治しているわ。安心しなさい。アンティオキアは負けを認めて撤退し始めています。我々クルタナの勝利ね」
「アンティオキアの国内でも、レジスタンスに触発された国民たちが暴動を起こしてる。兄貴がやってくれたんだ」
 俄かにデッキが騒がしくなる。ブリューナクのコクピットから、血塗れのノワリーが運び出された。真っ赤な血を目撃した三人の表情が凍結した。動かすのは危険だと、駆けつけた衛生兵が判断を下した。オレンジ色のマットが甲板に敷かれ、その上にノワリーは寝かされた。
 応急処置が開始された。外されるネクタイ。白いシャツが開かれて、穴の開いた胸が露わになった。消毒。止血。素早い処置が施されていく。衛生兵の表情は重い。助かりますと言ってほしかった。でも、望んでいる言葉は聞けそうにない。
「ノワリーさん!」
 メアリィが悲痛に叫んだ。ノワリーの傍らに屈みこんだ彼女は、動かないノワリーの手を握り締めた。凄惨な医療現場が翡翠色の目に映る。必死にメアリィは叫び続けた。光の国に旅立とうとしているノワリーに届くと信じて。
「死んじゃ駄目よ! 姉さんは、貴方が側に来ることを望んでないわ! 生きて! お願いだから、生き抜いて!」
 繊細な肩が震え、透明な雫が彼女の目から溢れ出した。陸に焦がれる人魚姫のように、脆く儚い姿に胸が痛くなる。アレックスがメアリィの側に行った。大きな手が彼女の肩に触れると、メアリィが顔を上げた。
「メアリィさん。部屋で休んだほうがいいよ。……今は、彼らに任せるしかないと思うんだ」
「……そうね。私が泣いても、隊長は目を覚まさないもの」
「きついことを言って……ごめんなさい」
「いいの、気にしないで。ありがとう、アレックス」
 支え合い、寄り添いながら、アレックスとメアリィはデッキ内に下りて行った。
「かなり危険な状態です」衛生兵がクラッドを見上げた。「一刻も早く、病院に運ばないと――」
「無線は使えるのか? ドクターヘリを手配せねば」
「もちろん使えます。こちらです」
 クラッドと衛生兵も、デッキ内に下りて行った。
 永かった戦争が終わろうとしているのに、ソエルたちは勝利の喜びを実感することができなかった。
 地平線の彼方に沈む太陽のように、ヴァルキリーを守り抜いた光が消えようとしている。
 ノワリーは、命を懸けてソエルたちを守ってくれたのだ。
 水平線の向こうに街並みが映った。仕事帰りのサラリーマンや、買い物袋を提げた主婦が歩道を歩き、学校帰りのランドセルを背負った子供たちが駆けて行く街は平和そのものだ。
 一人の青年が死に瀕しているというのに、彼らは何も知らずに平穏な日常を終え、明日を迎える準備を整えている。呼吸をするたびに、世界のどこかで誰かが死んでいることに気づいていないのだ。
「大丈夫だ」
 ソエルの隣に立ったアッシュが言った。ソエルに、自分自身に言い聞かせているようだった。
「隊長は死なねぇよ。『光の槍』は、折れたりしない。絶対にな」
「……うん」
 手と手が自然に繋がる。
 指が絡み合い、励ますように力が込められた。
 二人の祈りを抱えたエインヘリヤルは、大海を切り裂くように走って行った。
 その先に、救いがあると信じて。