広大な滑走路にソエルを置き去りにしたアッシュは、一度も振り返ることもなく、ノワリーが待つ飛行隊隊舎に入って行った。置いて行かないでくれと心は叫んでいるのに、ソエルの両足は地面に張り付いたまま動いてくれなかった。
 まるで笑いを堪えているように、ソエルの膝が震え始めた。膝が崩れ、重力に負けたソエルは、滑走路に座りこんだ。目眩と吐き気がソエルを襲う。頭上の空が青い輪になり、優雅なワルツを踊っている。
 ナイフのようなアッシュの視線が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
 目を閉じるのが怖い。でも、目を開けているのも怖かった。
 誰でもいいから、針と糸で瞼を縫いつけてほしかった。
 そうすれば、少しは楽になれるだろう。
 蹲ったソエルは、酷くなった吐き気に耐えきれず、胃の中の内容物を滑走路に撒き散らしてしまった。苦味と酸味が味覚を焼き焦がす。パイロットにとって神聖な滑走路を、邪悪な液体で汚してしまった。ソエルは必死で許しを請うた。誰に対して許しを求めているのか、錯乱した思考では分からなかった。アッシュか? それとも、空の上の神様か?
「ソエル?」
 伏せている頭上から声が降り注いだ。茨のように刺々しくない声だから、ソエルが恐れているアッシュではないだろう。恐る恐る顔を上げると、ヴァルキリーの専属メカニックのリゲルが身体を折り、ソエルを見下ろしていた。青みがかった銀髪が陽光を反射して、虹色のスペクトルを作っている。
「どうしたんだよ。顔色悪いぜ」
 ソエルから滑走路に移動した青い目が、灰色の地面に飛び散った嘔吐物を捉えた。マジかよ。リゲルが呟く。険しい顔だ。リゲルと整備士たちの仕事を増やしてしまったから、憤りを感じているのだろう。リゲルが屈み、ソエルに背中を向けた。意図が分からない。苛立った顔をしたリゲルが振り向いた。
「部屋まで送るから、背中に乗れよ」
「でも――」
「でもじゃねぇよ!」
 踏み出せないまま躊躇していると、業を煮やしたリゲルに無理矢理引き寄せられて、ソエルは彼の背中に乗せられた。大きな荷物を背負ったリゲルが宿舎の方向に歩き出す。搭乗員宿舎の談話室に到着した。誰もいないソファの上に、ソエルは下ろされた。待ってろよ。短い伝言を残し、リゲルは階段を上がって行った。
 天井から話し声が落ちてきた。数分後、二階に行っていたリゲルが戻って来て、彼の後に続くように急いでいる様子の足音が下りてきた。アレックスが姿を見せた。カッターシャツとジーンズ。ベストとジャケットは身に着けていない。
 多分、部屋で寛いでいたんだろう。リラックスタイムを台無しにしてしまったのだ。彼に事情を話したリゲルは帰っていった。アレックスがソエルの隣に座った。ソファが潰れたマシュマロみたいに形を変える。
「吐いたってリゲルから聞いたよ。何があったんだ? アッシュは?」
「……ブルーさんは、オフィスです。隊長に報告しに行きました」
「部屋で休んだほうがいい。飲み物を買ってくるよ」
 横からソエルを覗きこんだアレックスが微笑んだ。逃げて帰って来た臆病者を心配してくれるなんて、優しい人だ。優しさは人を安心させてくれるものだが、今はその優しさが酷く辛い。萌える緑の視線から逃げたかったソエルは顔を伏せた。彼に甘え、全てを吐露してしまえば、楽になれるだろうか。
「オイ。役立たずに甘い顔すんじゃねぇよ」
 冴え渡った月のように冷たく、研ぎ澄まされたナイフのように鋭い声が飛んできた。談話室の入り口に、報告を終えて戻って来たアッシュが、腕組みをして立っていた。紫の目はソエルを睨みつけている。苦虫を噛み潰したような顔だ。
 目と目が合うのが恐ろしくて、ソエルは顔を伏せたままでいた。隣で人が動く気配がした。眉を顰めたアレックスが立ち上がったのだ。
「……何だよ、役立たずって」
「その女はイキがってたくせに、たった一機の戦闘機さえ墜とすことができなかったんだぜ。ハッ! 呆れるぜ。何のためにパイロットになったんだ!? 空を飛びたいからか!? それなら部屋に籠って空想でもして、模型の飛行機と遊んでろ! さっさと辞めちまえ! ファック!」
 アッシュの辛辣な言葉は機関砲の弾となり、空気を切り裂いてソエルの心に被弾した。ターンもロールも繰り出せなかった。ここは空じゃない。引力の鎖で縛られた地上だ。それに、翼がないから飛んで逃げることもできない。
 アレックスの表情が一瞬で変化した。アッシュの正面に立ったアレックスは、怒りを滲ませた目で彼を見下ろした。
「……言い過ぎじゃないのか? 彼女は新人なんだ。いきなり敵を墜とせなんて無理だよ。お前はパートーナーだ。ソエルを補佐するのが役目だろ?」
「ファック! こんなクズに構ってられるか! 墜ちればよかったんだよ!」
「お前!」
 怒りが頂点に達したアレックスがアッシュに掴みかかった。談話室の壁に、アッシュの華奢な背中が衝突する。紫と緑の視線が睨み合い、アレックスの右手が振り上げられた。凪いだ海面のように穏やかで、滅多に怒りを表現することがないのに、アレックスの表情は燃え盛る激情に支配されていた。
 駄目だ。殴らせてはいけない。二人の間に亀裂が生じてしまう。ソエルはアレックスの背中にしがみ付いた。お願いだから思い留まって。ソエルは彼の背中を包むシャツを握り締めた。止まる拳。窒息してしまいそうな沈黙が流れた。
「止めてください! 全部……私が悪いんです! 私が――」
「……ああ、そうだ。全部、テメェのせいだ。オレの前から消えろ」
 泣いて許しを請えば何でも許される世界ではないのは分かっている。けれど、ソエルの涙腺は今にも千切れそうで、目尻を突き破った涙が溢れ始めていた。
 アレックスの背中から離脱したソエルは階段を駆け上がり、自室に飛び込んだ。
 ベッドのシーツに顔を押し付け、情けない泣き顔と泣き声を覆い隠した。
 アッシュの言うとおり、墜ちればよかった。
 そうすれば、空で散れた。
 臆病者にならずに済んだんだ。


 アレックスの背中に張り付いたソエルの体温が、一瞬ではあったが激情に支配されていた思考に冷静さを取り戻させた。アッシュを殴ろうとしていた拳がおとなしくなる。消える体温。階段を駆け上がる音。談話室からソエルの存在が消えた。残されたのは、アレックスとアッシュに、張り詰めた静寂だった。
 アレックスはアッシュのシャツを掴んでいた手に戻って来いと命令して、アッシュを解放した。彼に対する怒りは収まってはいなかったが、アッシュを殴っても何も解決しない。後味の悪さが残るだけだ。
 アッシュの毒舌は前から知っていたが、あれは酷いと思った。心の底からソエルを憎んでいるような口調だった。いくら人嫌いとはいえ、限度というものがあるだろう。
「何だよ。殴らねぇのか?」
「……そんなことしたくない。暴力は嫌いだ」
「いい子ぶりやがって。戦闘機を墜としたことがあるくせによ」
「……それは」
「空を愛し、空を守るのがオレたちの使命? 笑わせるんじゃねぇよ。時には戦闘機と人間を墜とさなきゃいけねぇんだ。そうしないと空は守れない。アイツは……優しすぎる。戦闘機乗りには向いてねぇ。チッ……反吐が出るぜ。さっさと家に帰ればいいんだよ。……そのほうがいい」
「アッシュ、お前――」
 ファック。口癖の言葉を吐き捨てたアッシュは、アレックスの脇をすり抜けて、階段の暗がりに消えて行った。軽い足音が天井に木霊して、静寂の帳に吸い込まれていった。憂いという名の翳りで暗く染まった紫の目が、アレックスの脳裏に焼きついていた。あんな目をしたアッシュは、見たことがなかった。


 炎上する車から噴き出る真紅の炎が、夜空に強い残像を刻みつけている。
 頑丈な手袋を嵌めた手が、幼い子供を燃え盛る車内から助け出した。パパとママを助けて。子供は一心不乱に泣き叫んでいた。子供を助けた消防員は、無残に折れ曲がった車に取り残された夫婦が絶命していることを確信していた。
 慟哭する子供は真実を知らない。
 悲劇の裏に隠された真実を。
「いやああっ!」
 過去の記憶を媒体にした悪夢に襲われ、ソエルは飛び起きた。浅くて速い呼吸。汗で湿ったシャツが、身体に張り付いている。梅雨の空気のように気持ち悪い感触だ。幼い頃からソエルを拷問にかけてきた悪夢は、いつの間にか幻のように消え去っていたはずだ。
 なぜ、何で、悪夢は再び牙を剥いたのだろう。
 両親が永遠にいなくなった日の夢なんて、二度と見たくなかったのに――。
「ソエル? いるの?」ドアがノックされた。透明な声はメアリィだ。「メアリィよ。大丈夫?」
 水を吸って重くなった紙のような倦怠感が残る身体を引き摺り、ソエルはドアの前に行った。扉を開けて、彼女を招き入れる気はなかった。こんな姿を見られたくない。大丈夫ですと小さな嘘をついた。元気な声に聞こえるといいが。
「でも……悲鳴が聞こえたわ。中に入っていい?」
「だっ……駄目!」思わずソエルは怒鳴ってしまった。ドアの向こうのメアリィが息を呑んだ。「大丈夫ですから。ごめんなさい。しばらく、独りになりたいんです」
「……そう。分かったわ。何かあったら呼んで。ゆっくり休んでね」
 僅かに落胆した声を残し、メアリィの足音は遠ざかっていった。女神の善意を拒んでしまった。ごめんなさい。ソエルは姿の見えないメアリィに謝罪した。
 初めてのミッションから、はや数週間が経過していた。あれからソエルにミッションは与えられず、飛ぶこともできない鬱屈とした日々が続いていた。食事も喉を通らず、部屋に籠る毎日。心配したアレックスとメアリィとリゲルが何度も部屋を訪ねてきたが、その都度大丈夫だからと嘘を言い、ソエルは彼らに会おうともしなかった。
 部屋の中は、ソエルの心の中を映したように荒れ果てていた。床には脱ぎ捨てられた衣類が畳まれることもなく散らばっていて、カーテンを閉めきった部屋は、まさに暗黒に包まれた混沌の世界だった。
 悪夢の名残を浄化して、嫌な汗を洗い落としたい。ソエルは静かに部屋を出て、廊下の端にあるシャワールームに向かった。脱いだ服は丸めたまま放置。シャワーヘッドの穴からお湯が降り注ぐ。熱くもなく、冷たくもない、丁度良い温度だ。お湯の雨に打たれても、苦々しい記憶は流れてくれなかった。
 身体を拭き、ドライヤーで頭を乾かした。洗面台の上に置いてあった剃刀に、ソエルの視線は吸い寄せられた。剃刀を手に取ってカバーを外すと、灰色の刃が顔を出した。罪人を待つギロチンのように、血を吸いたがっている。
 薄い刃が蛍光灯を反射する。
 アッシュの凍りついた視線のようだ。
 恐怖が顔を出す。
 ソエルは思い出してしまった。
 墜とされる恐怖。
 アッシュの鋭い言葉が心を抉る。
 もう、駄目かもしれない。
 もう、駄目だ。
 空で散れないなら、
 いっそ、地上で――。
 貪欲な刃先を左手首に当て、ソエルは軽く力を込めた。
 細い線が手首に刻まれ、真紅の珠が浮かんだ。
 もっと、力を込めなければいけない。
 でも、生と死の境界線を越えることができなかった。
 死ぬ前に、アルヴィトに会いたい。
 不意にそう思った。
 血で濡れた剃刀を置き、ソエルはシャワールームを出た。誰にも会いませんように。臆病な祈りを捧げながら階段を下りる。ソエルの祈りを聞いた神様は、お腹を抱えて笑っているだろう。幸い談話室には誰もいない。ソエルは胸を撫で下ろし、宿舎の外へ出た。
 紫と紺色が混じった優美な夜空は、滅多に見られない色だった。神様からの最後のプレゼントだろうか。夜の影を落とした滑走路を横断して第一格納庫へ。営業時間は終わっていると思っていたのに、シャッターは開きっぱなしになっていた。不法侵入じゃないぞ。誰にも聞こえない言い訳をして、ソエルは第一格納庫に入った。
 シャッターの脇に電気のスイッチを発見。手探りで電源をONにする。錆びた音を立て、格納庫に明かりが灯された。スポットライトに照らされた灰色のステージを歩く。格納庫の隅で、純白の戦闘機が佇んでいた。神に捧げられた子羊のように、静かに鎮座している。
 ソエルは側に行き、汚れのない色に染められたファイティングファルコンを見上げた。傷一つない新品のボディ。空を飛べる日をずっと待っていてくれたのに。そんな素晴らしい日を、あんな形で台無しにしてしまった。
 汚れのない白い色は、ソエルの罪を許してくれるだろうか。
 荒れ果てていた心に、清廉な風が吹き抜ける。
 アルヴィトが、ソエルの懺悔を受けとめてくれたのだ。
「……ごめんねっ……ごめんねっ……アルヴィト……! 情けないパイロットでごめんねっ……!」
 真っ白なボディに縋りつき、ソエルは泣いた。泣き叫んだ。空っぽの格納庫に泣き声が反響する。
 やっぱり、死にたくない。
 生きていたい。
 アルヴィトと一緒に、空を飛びたい。
 ヴァルキリーの一員でいたい。
「誰かいるのか?」
 ソエルの背後――つまり、入口の方向から人の声が飛んできた。涙を滲ませたまま、ソエルは首を捻った。月の光に縁取られたノワリーが立っていた。足下に伸びる細長い影が、彼が現世の人間であることを証明している。アルヴィトにしがみついているソエルを認識したノワリーが、ダークブラウンの革靴を響かせて格納庫に入って来た。
「こんな時間に、何をしている?」
 厳しい顔と冷たい声を纏ったノワリーが、ソエルを見下ろした。アッシュの報告を聞き、期待していた新人の不甲斐なさに呆れ果てているのかもしれない。きっと、ソエルは、名門チームの名前に泥を塗ってしまったのだ。弁明しても惨めなだけだ。俯いたソエルは、貝のように口を閉ざした。
 視線を動かしたノワリーの顔色が、僅かに変化した。琥珀色の双眸は、ソエルの左腕の上で停止している。素早く伸びた手が、ソエルの手首を掴んで持ち上げた。白い袖に滲んでいる赤い血――剃刀で切った傷だ。
 しまった。迂闊だった。絆創膏で隠しておくべきだった。後悔してももう遅い。ノワリーが袖を捲る。直線に走る赤い傷が現れ、ノワリーの端正な顔に眉間の皺が刻まれた。尋問が始まる合図だ。
「……この傷は、何だ?」
 答えるのが怖い。恐ろしい。ソエルは頑なに口を閉じた。
「質問に答えるんだ」ノワリーの声に怒りが滲み始める。「これは命令だ。私の質問に答えろ」
「……剃刀で切りました」
「理由は?」
「この前のミッションで、私はチームに迷惑をかけました。ブルーさんにもそう言われました。戦うことのできない臆病者の私は、生きていても仕方がないって思って、それで――」
 白い残像が視界を横切り、空気を薙いだ平手打ちが、ソエルの頬を直撃した。叩かれた頬が赤く腫れあがる。ソエルは呆然と叩かれた頬を押さえていた。言葉は出なかった。痛みが押し寄せる。叩かれた頬ではなく心が痛かった。険しい形相のノワリーが正面にいた。怒りを抑えている。帯電した稲妻を追い出そうとしているのだ。
 唇を噛み締めたノワリーは踵を返すと、早足で格納庫から出て行った。見放され、見捨てられたのだ。全身から力が抜け、ソエルは冷えきった床に座りこんだ。ソエルを待っているのは、冷たい解雇通知だろう。数週間で解雇されたなんて、笑い話にもならない。
 立ち去ったはずの靴音が戻ってきた。不思議に思ったソエルは顔を上げた。薬箱を手に持ったノワリーがそこにいた。彼は無言でソエルの向かい側に膝を立てて座った。傷薬、ガーゼ、包帯。次々と中身が取り出され、床の上に並べられた。
「腕を出せ」
 大人しく指示に従ったソエルは左手を差し出した。傷薬のキャップが開けられた。濃厚な液体がガーゼに染み渡る。ソエルの手首を握ると、ノワリーは薬を染み込ませたガーゼで傷口の消毒を始めた。薬の匂いが傷口と鼻の奥を刺激した。黙々と医療行為が続けられる。清潔なガーゼが傷口を覆い、テープで固定され、白い包帯がきつめに巻かれた。
 震える息を吐き、後ろのコンテナに背中を預けたノワリーは、立てた膝の中に顔を埋めた。片手が緑色の髪を握り締める。小刻みに上下する肩は、ヨーイングよりも繊細な揺れだ。鼻を啜る音が聞こえた。まさか、泣いているのだろうか。ソエルの胸の奥が軋んだ。
 そっと距離を縮めたソエルが声をかける前に、ノワリーが面を上げた。切れ長の琥珀色の双眸は、赤く充血していたが、涙の跡は見事に消し去られていた。でも、泣いていたんだと思う。私のせいだ。罪悪感が込み上げた。
「……私が、お前を叩いた理由が分かるか?」
 ノワリーが絞り出した声は震えていて、深い悲しみと苦痛に染まっていた。彼を衝撃の底に突き落とした理由は分かっていた。けれど、答えることはできなかった。
「お前は、チームメンバーの思いを裏切ろうとした。それがどんなことか分かっているのか?」
 一言一言がソエルの胸に突き刺さり、心を抉り取る。馬鹿なことをしてしまった。遅すぎる後悔がソエルを責めた。
「……私は、戦うこともできない臆病者です。皆に迷惑をかけて……」
「我々はチームだ。迷惑をかけるのは当然だろう? 失敗を恐れるな。人は傷つくたびに強くなれる。それを忘れるな。皆がお前を心配している。もちろん、私もだ」
 ノワリーの手が上昇し、叩かれて赤く腫れたソエルの頬を優しくなぞった。片方の手と合流した手が、握り締めていたソエルの手を包み込んだ。温かい体温が、優しさに変化する。
 慈悲と慈愛が胸の奥に沁み渡り、永久凍土と化していたソエルの心を溶かしていった。雪解け水と共に、濁りきった感情が流れ出す。涙腺が激しく揺さぶられた。今まで張り詰めていた糸が切れ、堪えていた感情が全て爆発した。
「うっ……うわあああぁぁんっ!」
 もう駄目だ。我慢できない。涙を引き摺ったソエルは、体当たりするようにノワリーにしがみつき、彼の胸に顔を埋めて泣き叫んだ。止まらない嗚咽。慟哭は鳴り止まない。しなやかな腕がソエルの背中に回され、彼女が抱える痛みと共に包み込んだ。
 白い手袋を嵌めた手が背中を滑る。金色の髪を撫でる。まるで、悪夢に怯える子供を慰める母親のように。心の奥深くに押し込んでいた感情を全部吐き出すまで、ノワリーはソエルを抱き締めてくれた。
 私は、こんなに心配されている。
 優しくされるまで、そのことに気づかないなんて。
 まだまだ子供だ。
 情けないくらい。


 心の中で暴れていた嵐は遥か彼方に消え去り、沈殿していた濁った感情も綺麗に浄化された。心地良い温もりから離脱したソエルは、服の袖で涙と鼻水で潰れた顔を拭いた。ソエルの目の前に、綺麗に折り畳まれたハンカチが出現した。ハンカチを支えているのはノワリーの手だ。受け取れと言っているのだ。
 糊の効いたハンカチを、皺くちゃにしてしまってもいいのだろうか。数秒躊躇ったが、厚意は素直に受け取ろう。ソエルはハンカチを受け取って、遠慮がちに涙を拭いた。さすがに鼻はかめなかったが。
「落ち着いたか?」
「はい。すみません。洗って返します」
「いや、気にするな」
「本当に……申し訳ありませんでした。私、自分が不甲斐ないです」
「謝るのは私のほうだ。ブルーから報告を聞いた。お前が新人だということを考慮しなかった私の判断ミスだ。本当に、すまなかった」
「そんな! 私が悪いんです! 隊長が謝らないでください!」
「いや、私の責任だ。……お前とブルーを死なせてしまうところだった。ブルーの報告によると、お前たちは国境から100キロの地点で敵機と遭遇したそうだな。その範囲はクルタナの領空のはずだが……」
「はい。ブルーさんもそう言っていました。どうなっているんでしょうか」
「私にも分からない。ここ数年、アンティオキアはたびたびクルタナの領空に侵入している。まさか――」
 不安の色が一瞬、琥珀の奥に宿った。何に気づいたのだろうか。
「……あれに気づいたのか?」
 視線を宙に彷徨わせたノワリーが、独り言のように呟いた。アンティオキアは、世界樹ユグドラシルともう一つの何かを探している。ソエルは滑走路でアレックスが言っていたことを思い出した。ノワリーはそれを知っているようだった。
「隊長、教えてください。アンティオキアは、何に気づいたんですか?」
 宙を彷徨っていた視線がソエルを捉えた。彼はいつもと同じように、冷静で感情を抑えている表情に戻っていたが、その裏で迷いが生じていた。話すべきか否か、激しく葛藤しているようだ。決断したノワリーが立ち上がる。それに続いてソエルも立ち上がった。
「……今から話すことは、私とごく一部の限られた人間しか知らない機密事項だ。他言はしないと約束してくれるか?」
「……はい。約束します」
「アンティオキアが捜しているのは、ジェネシスと呼ばれる人間だ」
「ジェネシス?」
「ジェネシスは、遺伝子にマナを組み込まれて生み出された人種だ。人間を遥かに凌駕するスペックの持ち主で、優れた視力と卓越した平衡感覚。速度感覚も申し分なく、Gに強い耐性を持っている」
「ジェネシスは、何のために生み出されたんですか?」
「恐らく、世界樹を見つけるためだろう。戦闘機のコクピット内の気圧とGは、マナによって一定に保たれていることを知っているな? Gに耐性を持つということは、コクピット内のマナをある程度減らしても問題ないということだ。余ったマナは燃料に回すことができる。その分、長時間の飛行を続けることができるということだ」
 世界樹ユグドラシルが存在すると推測されている大陸ワールドエンドは、一年中濃い霧に覆われている。クルタナとアンティオキアの両国は、何度も偵察部隊を派遣したが、霧の向こうに飛んで行った部隊は誰一人として帰って来ることはなかった。霧に惑わされて方向感覚を失い、燃料とマナが尽きて墜ちた。神の怒りに触れた。様々な憶測が飛び交ったが、恐らく前者が正しいのだろう。
「それに――」ノワリーが言葉を濁す。「ジェネシスは、世界樹を感じることができると聞いた。もし、それが本当だとすれば、あの霧の中を正しい方角に向かって飛ぶことができるのかもしれない」
「だから、アンティオキアは、ジェネシスを手に入れようとしているんですね?」
「ああ。だが、ジェネシスには欠点がある。彼らは思春期を過ぎたあたりから、ほとんど成長しない。しかし身体の中身の老化が異様に早く、病原菌に対する免疫も低い。簡単に言えば……見た目は若いが、中身は老人ということだ」
「ジェネシスは、今どこにいるんですか?」
 ソエルの質問に、ノワリーは口を閉ざした。彼の端正な顔に再び迷いが生まれる。踏み込み過ぎた質問だったか。
「すみません。さすがに、それは話せませんよね」
「いや。全てを話すと誓った。ジェネシスは――ブルーだ」
「えっ――?」
 アンティオキアが血眼になって捜しているジェネシスがすぐ近くにいたなんて。衝撃の真実にソエルは言葉を紡ぐのを忘れてしまった。年齢の割に見た目が幼かったのは、そのせいだったのか。しかし、アンティオキアに狙われているのならば、強固な隠れ家が他にもあるはずだ。なぜ、アッシュは、チームヴァルキリーに身を隠しているのだろうか。
「どうして、ブルーさんはヴァルキリーに?」
「五年前だ。ブルーを研究施設から助け出した人に頼まれた。彼女は、パイロットになりたいという彼の夢を叶えるために、私にブルーを託してくれた。私なら、信頼できると判断したんだろう」
「夢を、叶えるため――」
「……どうやら、ブルーの情報が外部に漏れつつあるようだな。何とかしないと――」
 ノワリーが無意識に右脚をさすっていたことにソエルは気づいた。注意して見ないと分からない、とても微細な仕草だ。そういえば、航空学校で出会った時も、ノワリーは右脚を庇うように階段を下りようとしていた。
「隊長……脚にお怪我でも?」
 ノワリーは右脚を見下ろして顔を上げると、一瞬躊躇ったのち、軍服のジャケットのボタンを外し始めた。ジャケットを脱いだノワリーは、右手に嵌めていた白い手袋を外し、シャツの袖を二の腕まで捲り上げた。最後にノワリーは、右脚を包んでいるスラックスを膝上まで捲り上げた。
 衣服の下から現れたのは、滑らかな素肌ではなかった。ノワリーの右腕と右脚は、肘から下と膝から下が見当たらず、失った手足を補うように、鈍く光る金属製の手足が着けられていた。一般的な義手と義足とは違う、アンドロイドのような機械の手脚だ。絶句したソエルは空色の目を見開き、食い入るように銀色の手脚を見つめていた。
「……そんな」
「五年前に瀕死の怪我を負って、右の手脚を切断した。それ以来、義手と義足を着けている。それだけだ。これは、一般には普及されていない最新の義手と義足だ。機械の回路と神経、筋肉を直接繋いでいるから、着け外しはできないようになっている」
 これが普通であることのように淡々とした口調だったが、ノワリーの表情は暗い影を帯びていた。
「もう飛べないし、飛ぶこともないだろう。だが、命が助かったんだ。神に感謝している」
 ノワリーの唇は微笑みの形を作ろうとしたが、それは針金を曲げて作ったような、無理矢理笑おうとしている形だった。ピエロのように悲しみを覆い隠そうとしているのだ。皮肉と自分を責める響きが、微かに声の中に混じっていた。訊かなければよかった。ソエルは今更ながら後悔した。
「……すみません。余計なことを訊いて……」
「気にするな。お前に見せたい物がある。こっちだ」
 ノワリーに連れられたソエルは、格納庫の奥に置かれているブルーシートで覆われた機体の前に案内された。ノワリーの手が青いシートを取り払った。隠されていた機体が露わになる。蛍光灯が機体を照らし出した。
 高潔な騎士が掲げる槍のように輝く銀色の戦闘機。F/A18スーパーホーネットだ。ホーネットを全面的に改修した結果、全長は1.3メートル伸び、主翼の面積は25パーセントも大きくなった。その特徴は大型ディスプレイを多用したコクピットで、たった一人で空中戦から地上攻撃まで任務をこなせるように、操作の単純化が図られているのだ。ボディの所々に、修復された跡があった。優雅な外見に似合わない、痛々しい傷跡だった。
「これは?」
「ブリューナク。私の乗っていた戦闘機だ。五年前の大戦で大破したのを、整備士たちが直してくれた。上の命令で、処分することなくここに保管している。価値のある素晴らしい機体だというが、私にとっては忌まわしい機体だ」
 ブリューナクを見上げる琥珀色の双眸は、悔恨と苦痛に満ちていた。光の槍と謳われた彼をここまで苦しめるとは。五年前に何があったのだろうか。
「……その大戦で、私はヴァルキリーを率いて飛び立った。大戦には勝利したが、ヴァルキリーは全滅した。私だけが生き残ってしまったんだ。お前と同じく私も死のうとした。だが、できなかった。空で散った彼らの思いを、裏切ってしまうと思ったからだ。私は誓った。もう誰も殺さない、死なせないと」
「……エリオット隊長」
 ソエルは絶句した。栄光の裏に、こんな悲しい真実が隠されていたなんて。自分の悲しみがちっぽけで、くだらないものに思えた。宇宙の片隅で悲劇のヒロインを演じ、役に陶酔しきって周りが見えていなかったのだ。
「……だから、もう、あんな馬鹿な真似はしないと約束してくれるか?」
「……はい。すみませんでした」
「分かってくれれば、それでいい」
 ノワリーが微笑んだ。ぎこちない微笑みだったが、針金を捻じ曲げて作ったような笑みではない、本物の微笑みだった。
「ブルーに会いに行くといい。気まずいままでは、何かと都合が悪いだろう。宿舎の屋上にいるはずだ。外は冷えるから、気をつけるように」
「はっ……はい! 失礼します!」
 敬礼をして、ソエルはノワリーと別れた。
 自分で傷つけた手首も、
 叩かれた頬も、
 心の奥も、
 もう、痛みを訴えることはなかった。
 一秒でも早く、アッシュに会わないといけない。
 生まれてしまった、深い裂け目を埋めるために。


 誰にも話すこともなく、悠久の時間封印して来た忌まわしい記憶をノワリーは呼び覚まし、記憶を言葉に変えて話した。五年も経つというのに、鮮やかな映像が脳裏に描かれた。思い出すたびに、肺腑を抉るような痛みが心を切り刻んでいたのに、なぜだろう、ソエルに話した時だけ鋭い痛みが和らいだ。
 彼女が心を守ってくれたのかもしれない。不思議な少女だ。航空学校で出会う前に、どこかで会った気がするのだ。物思いに耽る時間は終わりだ。侵入者をおびき出そう。
「立ち聞きはよくないぞ、アルジャーノン」
 ノワリーの声が無人の格納庫に反響する。天井と壁面にぶつかった声は、空気に溶けていった。数秒の静寂。壁際に整列していた機体の陰から、驚いた表情のアレックスが姿を見せた。苦笑いを浮かべながら、アレックスが距離を詰める。発見されない自信があったのだろう。
「気づいていたんですか?」
 頷いたノワリーは、アレックスの正面に立った。生まれたばかりの瑞々しい若葉を連想させる、萌える緑色の目が真っ直ぐ見つめてくる。彼が隠れていた理由は簡単に推理できた。
「ステュアートを心配して、追いかけて来たんだな? 彼女にブルーとジェネシスのことを話した」
「……そうですか。ソエルは元気になったみたいですね。安心しました」
「ステュアートは強い子だ。きっと、乗り越える。真実を話した私を責めないのか?」
「責めるだなんて……隊長は、俺とアイツの恩人ですから。貴方には感謝しています。敵国の人間である俺と、ジェネシスであるアッシュを受け入れてくれて、守ってくれました。本来なら、俺は――」
「そのことは言うな。お前の胸の中にしまっておけ」
「はい。あの、これが……隊長の戦闘機ですか?」
「ああ。そうだ」
 アレックスがブリューナクを見上げた。感嘆と畏敬が彼の表情に浮かぶ。触れてもいいかと訊かれ、ノワリーは構わないと返事を返した。美術品に触れるような手つきで、アレックスが銀色のボディをなぞっていく。
 穏やかな表情だ。ブリューナクを権力の道具としか見ていない俗物の幹部たちとはまるで違う。命を預け、共に空を駆ける戦闘機に、敬意を表している。
「素晴らしい機体ですね。隊長と空を飛べて嬉しかった。そう言ってますよ」
「――そうか」戦闘機が喋るはずがないと思ったが、敢えて口に出さずにいた。「もう休め。身体に支障をきたすぞ」
「はい。あと一つだけ、いいですか?」
「何だ?」
「俺は、チームヴァルキリーが大好きです。失礼します」
 背筋を伸ばしたアレックスが敬礼した。敬礼を解いた彼は一礼すると、格納庫から立ち去った。
 アレックスの背中を見送ったノワリーは、背後で静かに佇むブリューナクを見上げた。
 銀色の機体と空を駆けることは、もうできないだろう。
 それでもブリューナクは、ノワリーを信じて待ち続けるつもりなのだろうか。
 壁にもたれて目を閉じると、孤独の暗闇が押し寄せてくるのを感じた。
 瞼の奥の暗幕に、空で散った彼らの姿が浮かぶ。
 守ってくれた。アレックスの言葉が、鼓膜に虚しく響いた。
「守ってくれた、か。……イージスさん、シルヴィ……貴方たちを死なせた私に、そんな言葉は相応しくないというのに――」
 言葉と共に、未だ忘れることのできない過去が鮮明に蘇る。
 死なせてしまった人々を思い出しながら、冷たい壁に身を預け、ノワリーはその場に佇んでいた。
 二度と飛べない空の色を、思い浮かべながら。


 外界の空気は一段と冷えきっていた。ノワリーの助言は見事に的中した。
 ソエルは一度部屋に戻り、床の上で丸まっていたダウンジャケットを羽織り、再び部屋を出て屋上に続く階段を上ってドアを開けた。冷たい風が、ソエルの脇を走り抜ける。四方を転落防止用のフェンスで囲まれた場所は、小さな箱庭みたいだ。見上げれば星が瞬く。アッシュの姿はなかった。夜空を漂う白い煙に気づいた。給水タンクが設置されてある高台から発生している。
 梯子に足を引っ掛けて上昇すると、頂上に捜し人を見つけた。背中を向けたアッシュが座っていた。地平線の果ての果てを見つけようとしている。夜空に溶け込みそうなミッドナイトブルーの髪を揺らしたアッシュが首を捻った。視線が出合う。数秒後に逸らされた視線は、再び空に向けられた。
「あの……」側に行って、ソエルは声をかけた。彼は空を仰いだままだ。
「……何だよ」
「その……私……謝りたくて……」
「何で」
「何でって……ミッションで迷惑をかけて……」
「謝んな。テメェは誰にも迷惑かけてねぇ。あれはオレのミスだ」
「でも……」
「でももクソもねぇ。いいな?」
「……はい」
 炭酸が含まれていないコーラみたいに素っ気ない口調だったが、アッシュが彼なりにソエルを励ましてくれているのが分かった。不器用な優しさが、冷たい棘が刺さったままのソエルの心を温かくする。
 アッシュは煙草に似た物を吸っていた。先端から白い煙が細い筋となって舞い上がり、夜空に軌跡を描いている。清涼感のあるミントのような香りが鼻に届いた。
「それ、何ですか?」
「スモークっていうクソ苦い薬だ。これを吸わないと、身体の調子が保てねぇんだ。……聞いたんだろ? オレがジェネシスだってことを」
「それは……」
「隠すな」
「……はい。エリオット隊長から聞きました」
 アッシュは短くなったスモークを携帯用灰皿で潰し、ズボンのポケットから新しいスモークを取り出した。口に銜えて慣れた動作でライターで火を点ける。乾いた音と共に、ライターの火がアッシュの白い顔を一瞬だけ照らした。
「……そうさ。ジェネシスは、世界樹を見つけるためだけに創られた。テメェら人間は、世界樹を見つけて何がしたいんだ? 神様にでもなるつもりか? ハッ、笑わせるぜ。ファック。機械仕掛けの翼しか持たないヒトは、神様にも、天使にもなれねぇんだよ……」
 返す言葉も思いつかず、ソエルはただ黙っていた。アッシュの横顔は、孤独と憂いの海に沈んでいた。誰も彼をその海から引き揚げることはできないのだろうか。そんなの悲しすぎる。せめて少しでも、人の温もりを伝えてあげられたら、どんなにいいだろう。
「あの……ブルーさん」
「そのブルーさんって呼ぶの、止めてくれ。鳥肌が立つ」
「何て呼べばいいんですか?」
「さんづけと、呼び捨ては禁止だ」
「えっと……じゃあ……アッシュ君……」
 華奢な肩が落ちる。呆れた顔のアッシュが重い溜息を吐いた。
「ファック。何だよ、その呼びかた。力が抜けるぜ。まぁ……それで勘弁してやるよ」
「ありがとうございます。私のことも、ソエルって呼んでください」
「分かったよ。……ソエル」
 照れくさそうにアッシュが呟いた。ほんの少しだけ、彼との距離が縮まったような気がした。それでもソエルには見えた。アッシュが引いた、ジェネシスと人を隔てる境界線が。越えても大丈夫だろうか。ソエルは見えない線を跨いだ。
 言葉の弾は飛来しない。アッシュの隣に座ると、彼はソエルを一瞥しただけで、文句を言ってこなかった。夜の冷気を吸い取ったコンクリートの感触が沁み渡った。
「……本当に、すみませんでした。私のせいで迷惑をかけて――」
「もういいって。迷惑をかけたくないなら謝るな」
「……ごめんなさい」
 謝るなと言われた矢先にまた謝ってしまった。ファック。呆れ顔のアッシュが横目でソエルを見る。
「お前のこと、聞かせろよ」
 口から解放したスモークを指に挟んだアッシュが唐突に言った。
「え? 私のこと……ですか?」
「たりめーだろ。お前以外誰がいるってんだよ。オレと仲良くなりたくねぇのかよ」
 子供みたいな物言いに、思わず微笑みが零れてしまう。馬鹿にしてるのかと難癖をつけられそうだ。
 確かに、アッシュの言うとおりだと思う。他人との距離を縮めるには、自分のことも話さなければいけない。そうしないと、いつまで経っても距離は遠ざかったままだろう。
「分かりました。何でも訊いてください」
「両親はいるのか?」
「両親は……私が子供の頃に、自動車事故で亡くなりました。伯母夫婦が私を引き取ってくれて、育ててくれたんです」
「……悪いこと訊いちまったな」
 アッシュの口から、冷気で白く染まった溜息が零れ落ちた。気にしないでくださいと、ソエルは返事を返す。後悔の色は、しばらくの間、アッシュの白い横顔に留まっていた。彼が落ち込むことはないのに。何でも訊いてほしいと言ったのは、自分なのだから。
「――オレは、よく夢を見る」
 アッシュが語り始めた。目線は濃紺と黒が混じり合った夜空に向けられている。
「夢……ですか?」
「深い闇が押し潰そうとする夢さ。水圧が身体を潰していくんだ。頭蓋骨が砕けて、骨が折れて、肺が圧迫される。夢の初めを思い出すと、オレは一つの小さな細胞だった。ヒトがその細胞に、血と肉と骨と知恵を与えた。人為的に生み出されたそれが初めに見たものは、身体に絡みつくチューブと、試験管の向こうから覗く、無数の人間の顔だった。オレは必死に叫ぶんだ。見るな。あっちへ行け。怖い。怖い。怖いよ――ってな」
 アッシュは言葉を続ける。孤独の海に身を任せながら。
「オリジナルのジェネシスは、オレだけだ。地上には、オレと同じ存在の奴なんかいやしねぇ。空は誰に対しても平等だ。一般市民も、貴族も、政治家も、孤独なオレも、皆同じだ。全て受けとめてくれる。包み込んでくれる。だから、オレは飛び上がるんだ。世界樹? マナ? そんなの知るかってんだよ。空で生きて、空で死ぬ。オレが望んでいるのは、それだけさ」
 アッシュの死生観は、達観していた。彼の言葉を聞くと、大地にしがみついて生きていることが馬鹿馬鹿しくなる。やっぱり、自分は馬鹿だ。救いようのない愚か者だ。観客がいないステージの上で、悲しみと手を繋いで踊り、同情の拍手が送られるのを待っていたのだ。
 辛いのは、苦しいのは、ソエルだけではない。アッシュもノワリーも、世界中で生きている誰もが、痛みを抱えて今を生きている。痛みの中に幸せを見出そうと生きているのだ。
「お前さ、人を墜とすのが怖いのか?」
「えっ……?」
 正直に答えていいものかソエルは迷った。鋭く冷たい言葉が飛んでくるのかと思うと、言葉に詰まってしまう。早く言え。無言のアッシュが催促する。傷つくたびに強くなれるとノワリーが教えてくれた。少し傷ついた。だから、少しだけ強くなれたと思う。
「……はい。怖いです。できることなら、誰も傷つけたくありません。駄目ですよね、私みたいな弱虫が、ヴァルキリーのパイロットだなんて」
「……誰かを傷つけたくないって言っていても、人間は気がつかないうちに、他人を傷つけながら生きているものさ。それでも生きなくちゃいけねぇ。人を墜とさないといけない時もあるんだ。それが、オレたち戦闘機パイロットの生き方だ」
「そう……ですよね。やっぱり、私、戦闘機乗りに向いてないんですね」
「そんなことねぇよ。……空の上には、お前みたいに優しい奴が必要なんだ」
「アッシュ君……」
 深い言葉に心が軋む。アッシュは真剣に空と向き合っている。世界中の誰よりも。一陣の風が踊る。半袖姿のアッシュが腕をさすった。
「宿舎に戻りませんか? 風邪ひきますよ」
「先に戻ってろ。これを吸い終わったら、行くからよ」
「はい。あの、これ、着てください」
 ソエルはダウンジャケットを脱いでアッシュに渡した。彼が風邪をひかないように配慮したつもりだ。紫の目はジャケットを凝視している。拒否されそうな雰囲気だ。やっぱり、余計なお世話だったかもしれない。
 白い手がジャケットを掴んだ。アッシュはスモークを銜えたまま、器用にジャケットを羽織った。火が燃え移ったらどうするんだと心配したが、赤い熱源はスモークの先端でおとなしくしていた。人嫌いのアッシュが素直に受け取るなんて。驚くと同時に嬉しかった。
「……ありがとな。さっさと帰れ。お前こそ風邪ひくぞ」
「はい」
「ソエル」
 呼び止められて振り向いた。境界線を越えたアッシュが、ソエルを真っ直ぐに見つめていた。
「……お前に酷いことを言ったよな。ゴメン」
「……いえ、いいんです。私にも、落ち度がありましたから」
 愚かな行為をしたことは言わないで、胸の奥深くに沈めておこう。
 言えばアッシュを傷つけてしまい、彼を罪悪感の底に突き落としてしまう。
 会話の幕は静かに下りた。ソエルはジャケットにくるまったアッシュと別れ、梯子を下りた。宿舎に戻る前に、ソエルは一度だけ高台を見上げた。白煙の筋が、そこにアッシュがいることを証明していた。
 ここにいるよ。
 だから、見つけてほしいんだ。
 白い煙は、
 宇宙に、
 世界に送る救難信号みたいだった。


 ドアが閉まる音。
 階段を下りる足音が遠ざかる。
 アッシュは空を見上げた。
 瞬く星は、手を伸ばせば届きそうだ。
「……オレは……何で生まれたんだ?」
 白い煙と苦い言葉を吐き出す。
 ひっそりと、
 誰にも知られることなく、
 煙と言葉は空を飛び、
 無限の宇宙に昇って行った。