雲一つない、夜の空。
 何かの予兆だろうか?
 聖者の声も、神のお告げも聞こえないというのに。
 漠然としない予感が、ゆっくりと現れる。
 気にしていても仕方ないか。暗くなり始めた空を視界の端に捉えながら、アッシュは滑走路の向こうにある第一格納庫に向かった。シャッターの隙間から、光源が漏れている。整備士たちが作業をしていることを証明しているのだ。
 シャッターを通り抜けて、第一格納庫の中へ。アッシュの予想どおり、左右に展開した整備士たちが、機体の点検と清掃作業を分担して行っていた。明滅を繰り返している蛍光灯の下にリゲルはいた。グングニルの主翼に乗り、ウエスでキャノピィを拭いている。靴はきちんと床に揃えられていた。マナーを知っていて良かったな。土足のまま主翼に乗っていたら、容赦なく殴っていただろう。
「整備、終わったのか?」
 天井に向かってアッシュは声を飛ばした。主翼の上のリゲルが振り向いた。
「ウッス。とっくの昔に終わってるぜ」
 主翼からダイブしたリゲルは、猫のような身のこなしで地面に着地した。床の上に整列した靴に彼の足が滑り込み、軍手を嵌めた左右の手が、靴紐を器用に結んでいく。綺麗な蝶々結びだ。靴紐を結び終えたリゲルが顔を上げた。
「これからフライトか?」
「ああ」
「大変だな。暗くなってきたから、気をつけろよ」
「うるせぇよ。ガキじゃあるまいし」
 ヴァルキリーの専属メカニックチームが牽引車に乗り、グングニルを漆黒の世界に連れ出していく。機体を追いかけて、アッシュも外へ出た。最新鋭の機体であるF35Aライトニングは、一途に夜空を見上げていた。
 滑走路を歩いてグングニルの傍らへ。主翼の上に飛び乗り、キャノピィの腕の中に身を委ねる。スクリーンパネルをタッチ。燃料もマナもフルだ。機体の胃袋は満たされている。操縦桿とスロットルレバー、フットペダルの動きも滑らかだ。素晴らしいフライトになりそうな予感がする。
「アッシュ」
 いつの間にか、リゲルがコクピット越しにアッシュを覗き込んでいた。靴を脱いだ足で主翼の上に乗っている。両手に脱いだ靴を携えている姿は、買い物帰りの主婦みたいだ。
「何だよ」
「ちゃんと、帰って来いよ。滑走路に誘導灯、点灯しとくからな」
「分かった。ありがとな」
 紺碧の宇宙のような色の目が丸くなり、瞬きを繰り返した。不意打ちを食らったような顔だ。暗闇でいきなり殴られたら、こんな間抜けな顔になるのだろう。
「すっげー間抜け面だな」
「うっせぇ。お前があまりにも素直で驚いたんだ。口の悪いアッシュ君らしくない」
「ファック。悪かったな、星野郎」
「それでこそ、アッシュだ」
 一つ年上の整備士は一度だけ笑うと、再び地面にダイブした。
 キャノピィの開閉スイッチを作動。キャノピィが閉じていく。
 レトルト食品のパウチみたいにコクピットが密閉され、誰にも邪魔されない空間が完成した。
 お姫様を抱き上げるように、スロットルをゆっくりと上げる。
 単発のエンジンが唸り声を上げた。
 ランディング。
 テイク・オフ。
 空へ。
 主翼が風を切って空を飛ぶ。
 上空に出ると、月と星が浮かんでいた。
 地上より距離が近い。
 コクピットの中から見る星は綺麗だ。
 貸し切りのプラネタリウム。なんて贅沢な。
 でも、たまにはいいじゃないか。
 たまにあることだから、大袈裟に感動することができる。
 たまにという言葉が、何もかも素晴らしく装飾してくれる。
 そう、
 何もかも――。
 死すらも。


 ミッドナイトブルーの翼をたなびかせ、グングニルは夜空の彼方に消えていった。
 アッシュが戻って来るまで数時間。その間に片づけをして、次に空腹状態の胃袋の御機嫌を取り、最後に部屋に戻ってシャワーを浴びてこよう。同僚たちは既に引き払っていた。街に繰り出して、バーで一杯飲みに行ったのだろう。可愛い女の子より、戦闘機のほうが好きだから興味はないが。
「仕事、終わったの?」
 ボーイソプラノの声が聞こえた。シャッターから格納庫を覗き込んでいるのは、焦げ茶色のミリタリージャケットを羽織った少年だった。ヴァルキリーのメンバーの一人、アレックスだ。もう一人連れがいる。幼さの残る顔が可愛らしい、金色の髪の少女。ソエルだ。彼女は丁寧にお辞儀した。
「今晩は」
「ウッス。随分珍しい組み合わせだな。アッシュが見たら怒るんじゃないか?」
「そうかもね」
 ソエルにはリゲルの言葉の意味が伝わっていないようで、彼女はしきりに首を傾げていた。そのたびに、頭の左上で結っているポニーテールが揺れている。アッシュをからかうのはよそう。気づかれたら何をされるか分からない。しかしなぜ、ソエルとアレックスというペアができあがったのか。リゲルは興味を抱いた。
「お二人さんは、何をしてるんだ? デート……じゃないよな?」
「ちっ――違います! オフィスに報告書を届けに行くんです!」
 ソエルは真っ赤になって否定した。全力投球で否定しているところがますます怪しい。証拠を示すように、彼女は手に持っていた封筒を掲げて見せた。サインペンで書かれた報告書の文字がマーキングされている。
「こんな時間に?」掛け時計の文字盤は、午後十時を差していた。「遅すぎやしないか?」
「その……昨日、徹夜で仕上げたものですから半分寝惚けてて、誤字と脱字のオンパレードだったんです。今日中に提出しろって言われていたから、アレックスさんに修正を手伝ってもらったんです。本当にありがとうございます。助かりました」
「困った時はお互い様だからね。気にしないで」
「あの……アッシュ君は?」
 ソエルが格納庫を見回した。成程。二人が格納庫に立ち寄った理由が分かった。アッシュが無事に飛び立ったかを知るために、二人はやって来たのだ。教えてあげよう。吉報は共有するものだ。
「アッシュなら、無事に飛び立ったぜ。安心しな」
「そうですか。――よかった」
 ソエルが胸を撫で下ろし、アレックスは安堵の微笑みを形作った。自分はこんなにも心配されている。そのことを知ったら、あの口の悪い人嫌いのエースパイロットは、どんな顔をするのだろう。一度見てみたいものだ。
「報告書を届けたらよ、部屋でトランプしようぜ」
「お。いいね、それ。ソエルもやろうよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「報告書を届けたら、俺の部屋に集合。各自、飲み物とお菓子を持って来るように!」
「了解!」
「了解です」
 ノワリーの真似をしたリゲルがミッションを発令した直後、耳をつんざくような轟音が格納庫に響き渡った。リゲルは耳を澄ませ、音の正体を探った。あれは、プロペラが回転する音だ。ユグドラシル基地にはトラクタ式とプッシャ式の戦闘機は配備されていないし、今はジェット機の全盛期だ。唐突に、嫌な予感が顔を出した。
 外に出て上空を仰ぐと、ヘリの機影が基地の上空を飛行していた。来ないでほしいと願ったが、ヘリコプターは滑走路に降り立ってしまった。搭乗口が開き、黒い影が地面に降りる。ライトの逆光が眩しくて顔が見えない。
 ヘリのライトが消えた。女が一人と黒いスーツを着た二人の男が近づいて来た。盛り上がった筋肉がスーツの下に隠れている。女のSPか。先頭を歩く女性が、三人の前で立ち止まった。
「今晩は。エリオット大尉に会いたいんだけど、彼はどこにいるのかしら?」
 シルクのように艶やかな声が発せられた。随分派手な女だ。一目見てリゲルはそう思った。胸元が大きく開いた漆黒のスーツは、胸の谷間が丸見えだ。スカートは短く、白い太腿が剥き出しになっている。スーツの上に、科学者が着る白衣を羽織っていた。変わった着こなし方だ。金色の髪に、真っ赤なルージュとピンヒールが眩しい。さり気ない動きでアレックスがソエルを背中に庇う。それを横目で確認すると、リゲルは女性の前に立ちはだかった。
「アンタ、何者なんだ? すっげぇ怪しすぎるんだけど。ここはキャバクラじゃないぜ」
 リゲルは腕組みをして、目の前の女性を牽制した。彼女の脇に控えているスーツの男たちが、一斉に拳を鳴らした。ゴリラが胸を叩いて敵を威嚇しているみたいだ。伸びた腕が男たちを制止させた。
「これは失礼。私は、オペラ・ド・グランツ。クルタナ空軍に所属する科学者よ。緊急の用があって、エリオット大尉に会いに来ました。居場所を教えてもらえると助かるわ」
 オペラと名乗った女性は、白衣のポケットから身分証を出して掲げた。四角い写真と彼女を比較する。写真と顔が同じだ。どうやら本人らしい。偽者だったらリサイクルショップに売り飛ばしてやるのに。
「さあ。隊長は指揮官だから、基地のどこかにいると思うぜ」
「出かけていることが多いし、留守かもしれませんよ」
「私は配属されたばかりなので……」
 三人は子供にでも見破られそうな簡単で薄っぺらい嘘をついた。サングラスを外したオペラのロイヤルブルーの瞳がリゲルたちを映す。真紅のルージュを塗った唇が溜息を吐き出した。場所を訊き出すのを諦めたのだろうか。肩越しに振り返ったオペラは、後ろに控えるSPたちに視線を送った。
「……そう、分かったわ。自分の足で捜せと言うことね」
 護衛の男たちを引率したオペラは、第一格納庫から出て行った。ピンヒールの音が木霊して、宵闇に吸い込まれていった。怪しい人物はいなくなった。ひとまず安心だ。
 不審者を発見したら、報告をしないといけない。壁に備え付けられてある電話を手に取り、リゲルはオフィスのナンバーをプッシュした。コール音が四回。受話器が取られた音がした。
『エリオットだ。どうした?』声には微かにだるさが残っていた。寝ていたのかもしれない。
「フォーマルハウトです。ついさっき、空軍の関係者だと名乗る奴らが来ました」
『何だって?』マイクの向こうから聞こえる声に、驚きが混じった。『どこへ向かったんだ?』
「多分、オフィスだと思います。隊長を捜していました」
『分かった。そこにいるのはお前だけか?』
「いえ。ソエルとアレックスもいます」
『お前たちは、すぐに宿舎に戻るんだ。奴らは私が追い払う。いいな?』
「了解っス」
 受話器と電話機を結合させ、リゲルはソエルとアレックスにノワリーからの指示を伝えた。二人の表情が瞬く間に曇る。コンテナの上に封筒を置いたソエルが、決意したように顔を上げた。
「私、オフィスに行きます!」
「駄目だよ! 俺が行く! ソエルは部屋に戻るんだ!」
 ソエルが宣言した直後、間髪入れずにアレックスが制止を求めた。戻らない。戻るんだ。言葉の押し問答が繰り返される。大地震が起きようとも、世界が海の底に沈んでも、宇宙人が襲来しようとも、ソエルは自分の決心を曲げないだろう。空色と緑色の視線が互いを睨み合う。根負けしたアレックスが肩を落とした。
「……分かった。一緒に行こう。でも、無茶はしないでくれよ」
「我儘を言って、ごめんなさい。でも、隊長が心配なんです」
「いいんだ。謝らないで。リゲル、お前はどうするんだ?」
「俺も、おとなしく部屋に戻る気はないぜ。ここに残って、アッシュと連絡を取ってみる。気をつけろよ」
「お前こそ」
 それぞれの旅路の無事と健闘を祈って頷き合う。
 三人は与えられた使命を果たすために、行動を開始した。


 オフィスのソファに横になったノワリーは、浅い眠りの海を漂っていた。ここ数日、睡眠薬に頼っていたから、薬の恩恵無しに眠れたのは奇跡だ。それでも五年前の悪夢は貪欲な牙を剥き出しにして、容赦なく襲いかかってくるのだ。
 オフィスに鳴り響いた電話のベルが、ノワリーを眠りの海から引き揚げた。倦怠感の残る身体を起こして、四回目のコールで電話を黙らせる。突然の電話の相手は、第一格納庫にいるリゲルだった。
「エリオットだ。どうした?」
『フォーマルハウトです。ついさっき、空軍の関係者だと名乗る奴らが来ました』
 リゲルの声は切迫していた。嵐の如く声を荒げそうになったが、上司である自分が慌ててはいけない。彼を不安にさせるだけだ。できるだけ冷静な声になるように努力した。それが本当だとすると、奴らが目指すのはただ一つ。ユグドラシル基地の指揮官であるノワリーがいるオフィスだろう。
 第一格納庫には、ソエルとアレックスもいるようだ。危険から遠ざけなければ。宿舎に戻るように指示を出し、ノワリーは電話を切った。
 廊下に靴音が響く。聞いたことのある高慢な音だ。それも複数。三、四人か。椅子の背もたれにかけてあったジャケットに腕を通し、嫌な予感を和らげてくれることを期待して電気を点ける。靴音はドアの前で止まった。
 ゆっくりとドアノブが回る。真紅のピンヒール、脚、胴体の順番で、白衣を着た女性が入って来た。彼女はノブを握っていた手を離した。ドアが完全に閉じる寸前、隙間から廊下に控える黒スーツの男たちを、ノワリーは認識した。
「久し振りね、ノワリー。五年ぶりかしら?」
「……そうですね、グランツさん」
 声にスパイスの効いた嫌悪の響きを含ませてみたが、オペラは気にしていないようだ。近づいて来たオペラは、ショーウインドウを覗き込むような仕草で、ノワリーの全身を眺め回した。妖艶な笑みが浮かぶ。脳味噌の少ない男たちが、黄色い声を上げそうな魔性の微笑みだ。
「しばらく会わないうちに、随分といい男になったじゃない。思わず見惚れちゃったわ。しがないパイロットから大尉に出世したなんて、驚いたわ。ねえ、どう? 今夜、私と楽しんでみない?」
 オペラがノワリーに接近する。真紅のマニキュアに、星屑のようなラメを散りばめた手が伸びてきた。その手はノワリーの腕を滑り、左胸の勲章を撫で、白いシャツの隙間に潜り込もうとした。一歩後退して離脱。オペラは不満げな表情だ。男が欲しいのなら余所へ行け。五年前と何も変わっていない。変化したのは、濃くなったメイクと衣装だけだった。
「あら、つれないわね。シルヴィのことを、まだ引き摺ってるのかしら?」
「貴女には関係のないことだ。そんなくだらないことを言うために、私に会いに来たのではないのでしょう?」
「本題に入りましょうか。クルタナ空軍は、興味深い情報を手に入れたの。それは、ある男からの情報よ。簡潔に言うわ。ジェネシスを渡しなさい」
「……ジェネシス? 何のことか分かりませんが」
 ノワリーはポーカーフェイスを演じていた表情が僅かに崩れるのを感じた。冷静さを維持しようと神経を集中する。彼の表情が崩れたのを、オペラは見逃さなかった。獲物を見つけた猛禽類のような獰猛さが青い目に宿る。
「とぼけても無駄よ。貴方が指揮するチームヴァルキリーに、ジェネシスがいることは既に調査済みなの。それと、ジェネシスの血を引く者がいることもね。ジェネシスの名前は知っているわよ。確か――アッシュ・ブルー君だったかしら?」
 オペラの言葉に、ノワリーは頭を殴られたような衝撃を受けた。ジェネシスの血を引く者のことは、ノワリーと本人、その関係者しか知らないはずだ。ジェネシスがチームにいるという事実は、数日前の夜に格納庫でソエルに話したが、彼女は口の軽い者ではないということは充分に理解している。臆病なほど、慎重に情報を管理してきたのだ。外部に漏れることはあり得なかった。起こるはずがない。
「仮に、ヴァルキリーにその様な者がいたとしても、部下を引き渡すような真似はしない」
「そう言うと思っていたわ。貴方は昔から頑固だったもの。さあ、入ってちょうだい!」
 オペラが指を鳴らすと、廊下に控えていた男たちが一斉になだれ込んできた。彼らは我が物顔で、オフィスを物色し始めた。神経質に整頓された本棚の本を次々と抜き出しては、引き千切るようにページを捲り、デスクの引き出しの中身を容赦なくぶちまける。遠慮や配慮を、母親の胎内に置き忘れてきたような探し方だった。
 だが、ノワリーは、簡単に見つかるような証拠を残す愚か者ではない。証拠は全てノワリーの脳の中にある。拷問を受けようが、自白剤を飲まされようが、そんなものには屈しない。業を煮やしたオペラが爪を噛んだ。
「……随分と、焦らしてくれるわね。そういうのは、好きじゃないのよ」
 オペラは白衣のポケットから無線機を取り出すと、電源を入れてアンテナを伸ばした。周波数を調整した彼女は、マイクに向かってミュージカルの主役のように叫んだ。
「待機中の全部隊に告ぐ! 全部隊は第一格納庫に集合し、占拠せよ! ジェネシス――アッシュ・ブルーが帰還次第、捕獲しなさい! 抵抗も考えられる! 多少傷つけても構わないわ! ただし、生きたまま捕獲すること!」
「グランツ!」
 愚かで馬鹿げた命令を阻止せねば。ノワリーが彼女に詰め寄ろうと踏み出した瞬間、オペラがもう一つのポケットから取り出した物体を構えた。銀色の銃身がノワリーの左胸の心臓の真上に着地して、そこを起点に皺が寄った。オペラの指は引き金に触れている。ジャンクフードの袋に手を突っ込むように、いつでも好きな時にノワリーを撃ち殺すことが可能ということだ。
「動かないほうが賢明よ。心臓に大きな風穴が開くことになるわ」
 冷たく冴え渡ったオペラの面が、脅迫めいた台詞を口にする。昔からオペラは野心に溢れていた。軍での地位をより強固なものにするならば、彼女は躊躇いなく邪魔者を排除するだろう。
 抵抗することもできたが、今ここで自分が殺されれば、ヴァルキリーを守ることができなくなるのだ。ここは大人しく従ったほうがいい。悔しさにノワリーは歯噛みした。
「貴女という人は……どこまで愚かなんだ」
「怒った顔も素敵よ、ノワリー」
 背伸びをしたオペラが、ノワリーの耳元で囁いた。妖艶な微笑みを維持したまま、彼女は背後のドアに目をやった。刹那、ロイヤルブルーの双眸が鋭く変化する。
「貴方と二人きりで楽しみたいと思ってたんだけど……どうやら、招待状を受け取っていないお客様がいるようね」


 第一格納庫でリゲルと別れたソエルとアレックスは、道草も食わずに飛行隊隊舎に駆け込んだ。
 灰色の隊舎の中は、無人島のように静かだった。見張りの一人も設置していないなんて無防備すぎる。暗闇に身を溶け込ませ、二人を狙っているのかもしれない。見えない捕食者に警戒しながら、ソエルとアレックスはできるだけ静かに足音を消し、階段を駆け上がった。エレベーターのほうが便利で早いが、彼は少々騒がしい。
 敵に発見されることもなく、二人は三階に到着した。アレックスが陰から廊下を覗き込む。彼の肩越しにソエルも戦場を確認したが、敵の姿は視認できなかった。ひとまず安全ということか。それでも油断は禁物だ。災厄は二人の警戒心が薄れるのを心待ちにしているのだ。慎重に廊下を前進していくと、オフィスのドアが見えた。黒スーツの男が三人。ドアの脇に控えている。二人は彼らの死角に身を隠した。
 途切れ途切れの会話が聞こえてきた。男と女の声だ。ノワリーとオペラと名乗った女性だろう。耳を澄ませ、聴覚を限界まで研ぎ澄まし、ソエルとアレックスは声に集中した。クルタナ空軍。ジェネシス。ジェネシスの血を引く者。アッシュ・ブルー。何の接点も持たない単語の切れ端が耳に届く。
「嘘だろ……」ソエルの隣にいるアレックスが、震える声を絞り出した。「何で――あいつらが知っているんだ?」
 アレックスの顔は、酷く青ざめていた。こんなにも青白くなれるのかと思うほどだ。突然、ドアの脇を占拠していた男たちが、オフィスに突撃していった。物を引っ掻き回す荒々しい音。何をしているんだ。更に近くへ進んだ。
 半開きのドアの隙間から様子を窺うと、白衣の女性と対峙するノワリーと、オフィスを荒らし回る男たちが見えた。やはり、ヘリで滑走路に降り立った女性だ。宝探しは失敗に終わった。目的の物は見つからなかったようだ。苛立ちを露わにしたオペラが、ポケットから無線機を取り出した。刹那、彼女が叫んだ台詞は信じられないモノだった。
「待機中の全部隊に告ぐ! 全部隊は第一格納庫に集合し、占拠せよ! ジェネシス――アッシュ・ブルーが帰還次第、捕獲しなさい! 抵抗も考えられる! 多少傷つけても構わないわ! ただし、生きたまま捕獲すること!」
 アッシュを捕獲しろだって? 甲高い悲鳴がソエルの喉を突き破ろうとしている。駄目だ。慌てて密告者を飲み込んだ。オペラを制止しようと踏み出したノワリーに、何か恐ろしい物体が突きつけられた。ソエルたちがいる場所からでは見えない。アレックスがソエルの腕を掴んだ。
 ソエルが見上げた彼は、一段階進行した蒼白な顔だった。ソエルを道連れにして倒れる気か。アレックスに引き摺られるように、ソエルは身を潜めていた場所まで移動を強制された。
「格納庫に戻ろう」
「えっ? でも、隊長が――!」
「アッシュを優先しろ。きっと、隊長はそう言うと思う。それに、格納庫にはリゲルがいるんだ。彼も危ないよ」
 このままでは、アッシュが捕えられてしまう。でも、ノワリーを狼の群れの中に置いて行くなんてできない。どちらかを選べば片方を失ってしまう。まさに史上最悪の二択問題だ。IQ187の天才でも、正しい答えは選べないだろう。
「安心しなさい。二人共、殺しはしないから」
 艶やかな声が響き渡った。オフィスのドアが内側から開かれ、銀色の銃を携えたオペラが姿を現したのだ。銃口は薄暗い電灯の下を彷徨いながら、ソエルたちを捜している。
「いるのは分かってるわ。おとなしく出て来なさい。早く出て来ないと、貴女たちの大好きな隊長の胸に、綺麗な穴が空いちゃうわよ」
 気づかれていたのか。努力が水の泡になってしまった。大人の余裕とでも言うのだろうか、魔女のような妖艶な微笑を浮かべたオペラが指を鳴らした。男に拘束されたノワリーが、オフィスから引き摺り出された。オペラの右手が握る拳銃が、壁に押しつけられたノワリーの左胸に食い込んだ。あの下には、生きるために必要不可欠なパーツが埋め込まれているのだ。
 彼を人質に取られ、抵抗なんてできるはずがない。観念したソエルとアレックスは、隠れ家から這い出した。降伏したソエルたちは、オフィスに監禁されてしまった。携帯電話を奪われた挙句、オフィスの電話線も切断された。外部と連絡を取る手段を、完全に断たれてしまったのだ。
「隊長……ごめんなさい! 私たちのせいで――」
「お前たちのせいじゃない。謝るのは後にしろ。まずは、ここから脱出せねば――」
 不安が心を押し潰そうと、重力と結託して重さを増していく。
 祈るように、ソエルは両手を胸の前で握り締めた。
(お願い……無事でいて、アッシュ君……!)


 ソエルとアレックスは、第一格納庫を飛び出していった。ティーンエイジャーのくせに、随分と勇ましいじゃないか。自分も同じティーンエイジャーだということを思い出し、リゲルは苦笑した。機体に施した細工は終了した。後は、上空にいるアッシュと連絡を取るだけだ。アッシュに危険が迫っている。リゲルの直感が叫んでいた。
 パイロットと連絡を取るには、管制塔に行かないといけないのだが、基地中に空軍の関係者がうろついていて、銃で武装した兵士たちが基地内を徘徊しているのだ。見つかれば確実に捕まる。下手をすれば、撃たれてしまうだろう。管制塔に行く以外にアッシュと連絡を取る方法を必死で考えた。そうだ。あれがあるじゃないか。
 リゲルは愛用しているツールボックスをひっくり返した。中身が床に散乱する。次々と中身を素早く仕分けして、お目当ての物を見つけた。携帯電話によく似た機械。仕事の合間に作っていた新型無線の試作品だ。完成予想図は、これよりも小型で独特の周波数を持ち、何者にも傍受されないようにしたいのだが、今の自分の技術では無理だった。試作品とはいえ、充分に機能するはずだ。
「アッシュ! 聞こえるか!? アッシュ!」
 耳障りなノイズが流れる。駄目かと思った時、ノイズが消えて声が聞こえた。
『誰だ?』
「俺だ! リゲルだ! 聞こえてるんだな!?」
『うるせぇよ、星野郎。女みたいに喚くな。ちゃんと聞こえてるよ』
「今どこだよ!」
『はぁ? 基地に帰還するところだ。あと……四十分くらいで着く』
「戻って来るな! すぐに逃げろ! 空軍の奴らがいるンだ! お前を捕まえようとしてるんだよ!」
 声が止む。舌打ち。ファックと吐き捨てる声。頼むから、逃げないなんて言わないでくれよ。リゲルは返事を待った。
『……分かった。オレは、彼女の所に行く。場所はアレックスが知ってるから、あいつに訊け』
「燃料とマナは持ちそうか!?」
『ああ。大丈――』
 不快なノイズが戻ってきた。砂漠に穿たれた蟻地獄のような音だ。こんな時に! リゲルは微かな期待を込めて無線機を乱暴に叩いてみたが、アッシュの声は二度と聞こえてこなかった。
「動くな」
 リゲルの背後で、野太い声が命令した。正体不明の物体が背中に押しつけられる。冷たくて重い物体を知っている。リゲルの両親を惨殺した、憎むべき凶器だ。
「立ち上がって、こっちを向け。抵抗はするなよ」
 天界から下界を見下ろしているような高圧的な命令に従い、リゲルは振り返った。闇に溶け込む色の迷彩服を着た男が立っていた。身長は同じくらいか。体重は男のほうが重いだろう。兵士一人だけならドッグファイトに持ち込めるのだが、彼の後ろには仲間らしき兵士が控えていた。
「小僧。お前が、アッシュ・ブルーか?」どうやら兵士はアッシュの顔を知らないらしい。上手く誤魔化せばアッシュが逃げる時間を稼げるぞ。
「ちょっと待て」仲間の一人がこっちへ来た。「違うかもしれないぞ。身分証を探そう」
 余計なこと言うんじゃねぇよ。気を利かせろ馬鹿野郎。兵士の手がポケットを隅々まで荒らし回る。頑丈な手袋を嵌めた手が、身分証を掴み上げた。
「あったぞ。……成程、お前はヴァルキリーのメカニックか。小僧、質問だ。ジェネシスはどこへ行った?」
「俺が、簡単に言うと思ってんのか?」
「我々は、戦闘のプロであると同時に拷問のプロだ。口を割らせる方法はいくらでもある。おい! 連れてこい!」
 待機していた残りの兵士が、二人の人間を引っ張って来た。蛍光灯が二人の姿を暴き出す。
 兵士が連行して来たのは、メアリィとイリアだった。青いネズミの縫いぐるみを抱き締めたイリアは酷く怯えている。潤んだ鳶色の瞳は、リゲルに助けを求めているのだ。か弱い婦女子を人質に取るなんて、犯罪者みたいに卑怯な奴だ。
「……テメェ! 卑怯だぞ!」
「任務を遂行するためならば手段を選ばない。それが兵士だ。さあ、ジェネシスの居場所を言うんだ」
 鞭で打たれても、真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされても、アイアンメイデンに押し込まれようとも、リゲルはアッシュの居場所は吐かないつもりだった。でも、メアリィとイリアを拉致されている以上、それは難しくなってしまった。
 リゲルが決断を迫られたその時、メアリィが動いた。悲鳴が上がる。足の甲を踏みつけられた兵士が叫んだのだ。全体重を掛けた見事な一撃に、兵士に隙が生まれる。メアリィがイリアを背中に庇った。兵士を睨みつけたメアリィは、毅然と叫んだ。
「女だからって、甘く見ないで!」
「――このアマ!」
 激痛は、時に人間の理性を奪い去る。黒光りするライフル銃が振り上げられ、メアリィを標的に定めた。リゲルに向けられていた注意が逸れる。チャンスだ。今しかない。メアリィとイリアを救い出せ。リゲルは床に転がっていたレンチを掴み、男の頭部目がけて投げつけた。
 命中だ。鈍い音が響き渡る。脳震盪を起こした兵士が床に崩れ落ちた。あと二人。二人目が銃を構える前に、リゲルは得意技の回し蹴りで昏倒させた。あと一人だ。
 銃声がした。
 火薬の匂い。
 薬莢の落ちる音が、やけに響いた。
 脇腹に痛みが。焼けるようだ。
 生温かい液体が流れている。
 リゲルは手を伸ばし、液体の正体を確かめた。
 赤い。
 真紅の。
 真っ赤な――血だ。
「調子に乗りやがって――!」
 兵士が持つ銃から、煙が出ていた。
 身体が痙攣してきた。
 目眩がする。
 意識がどんどん遠くなって。
 嘘だろ。
 俺――撃たれたのか。
 冷たい床が、倒れゆくリゲルの身体を受けとめてくれた。


 灰色の雲海の上に広がる星空は、筆舌に尽くしがたい美しさだった。空気が澄み切っていると、こんなに綺麗に映るのか。地上の空気が汚れきっていることを思い知らされる。星座とのデートを楽しんでいると、無粋な輩が割り込んできた。砂が流れ落ちるようなノイズを奏で、無線が喋ろうとしていた。基地の周波数じゃない。盗聴マニアか?
『――シュ! 聞こえるか!? アッシュ!』
「誰だ?」
『俺だ! リゲルだ! 聞こえてるんだな!?』
 酷く取り乱した声に些か不安を感じ、何があったんだと問い質してみると、リゲルは基地に戻って来るなと言ってきた。国外追放かよ。ふざけんな。まだ続きがあった。空軍の奴らが基地に来ている。アッシュを捕まえようとしている。理由は一つしかない。ジェネシスであることが知られてしまったのだ。
 ファック。舌打ちと共にアッシュは吐き捨てた。ユグドラシル基地には戻れない。どうする? 悔しいけれど、敵前逃亡するしかない。一つだけ、行くあてはある。人間の欲望で濁った研究施設からアッシュを助け出し、ヒトとして生きる道を与えてくれた、彼女の所だ。場所はアレックスが知っている。リゲルにそう伝えた。
『燃料とマナは持ちそうか?』
「ああ。大丈夫だ。そっちは――」
 追い出されていたノイズが土足で踏み込んできて、通信を遮断してしまった。妨害か。それともジャミングか。いずれにせよ、しばらくは通信できないだろう。窮屈なコクピットに警告音が鳴り響く。レーダーに二機目の機影が浮かび上がった。敵だ。アッシュは直感した。後ろを見せ続けるのは好きじゃない。旋回して追手と対峙。漆黒の夜空に敵の戦闘機が浮かび上がった。
 アッシュは我が目を疑った。距離を縮めて来るのは、純白の機体だった。そう。ソエルの機体、アルヴィトと同じ色だった。色だけじゃない、形が微妙に異なるが、アルヴィトと同じボディだ。ソエルが追いかけて来たのだろうか。
 違う。アッシュは瞬時に気づいた。
 機体にマーキングされた名前は、アルヴィトではなかった。
 ヴァルハラ。神々が住まう世界の名前だ。
 敵が機関砲のサプライズ攻撃。
 急旋回して、放たれた弾を避ける。
 ファック。いきなりかよ。今晩は、の代わりか。
 オレを、エインヘリヤルにする気か?
 それとも、天国に連れて行ってくれるのか?
 だけどよ、そう簡単には墜とされねぇぞ!
 フル・スロットル。
 速度をつけて。
 エレベータ・アップ。
 弧を描くループ。
 上昇気流に乗ったコンドルのように舞い上がる。
 ヴァルハラが後を追いかけて来る。
 ブレイクの応酬。
 シザーズで華麗なワルツを踊る。
 速度はグングニルが上。旋回速度はヴァルハラに分が上がるようだ。
 二機はロールを混ぜながら夜空を飛び回った。
 しつこい蠅にお仕置きを。
 スロットルを絞る。
 90度に近いバンクで旋回。
 右のフットペダルを踏み込んだ。
 重力を利用した、急激な下方へのスリップ。
 グングニルは急降下していく。
 背後を飛行しているヴァルハラの照準線から離脱。
 ヴァルハラは速度を落とし、旋回に入ろうとしている。
 どうやらグングニルの急激な降下機動に惑わされ、アッシュを見失ったようだ。
 木の葉落とし(デッドリーフ)。東洋の島国の戦闘機、零戦が得意としていた機動だ。90度近いバンクから、下側への大きなラダー操作による重力を利用した急激な横滑り(スリップ)を行い、背後にいる敵機の照準線から離脱すると共に急降下するテクニックである。
 体勢を立て直す。
 エレベータ・アップ。
 降下速度を活かして上昇反転。
 ヴァルハラの右後方に占位。
 操縦士は、目の前から突如として消え去った敵が、いつの間にか瞬間移動して後方から接近して来るという、俄かに信じ難い光景だと思っているだろう。
 ヴァルハラは体勢を整えようと、旋回の体勢に。
 遅い。
 アッシュのほうが僅かに速かった。
 ファイア。
 白い主翼を粉砕した。
 白い機体は雲の下へ。
 機首を上げて離脱。
 背面になって戦況を確認。
 随分と、呆気ない。
 本当に、墜ちたのか?
 あまりにも――弱すぎる。
 その時だった。
 雲の下に墜ちたはずのヴァルハラが、真下から襲いかかってきたのだ。
 間に合わない。油断していた。
 グングニルの胴体が貫かれた。
 爆発。
 失速。
 高度が下がる。
 エレベータも、エルロンもラダーも駄目だ。
 墜ちていくグングニルの上空で、ヴァルハラが旋回していた。
 罪人の死を見届ける死刑執行人のように。
「……ファック。オレを墜とすなんて、大した野郎だぜ」
 真っ逆さまに。
 地上に吸い込まれていく。
 今まで墜としてきたパイロットたちも、こんな景色を目にしながら墜ちていったのだろうか。
 ふと、そんな考えが頭をよぎった。
 天使になり損ね、地上に落とされた人間のようだった。
 天使は火から創られ、ヒトは土から創られた、という神話を思い出す。
 なら、天使でもヒトでもないオレは、何から創られた?
 腐った泥か?
 青い灰か?
 枯れ木みたいな屍か?
 急に可笑しさが込み上げて、アッシュは笑った。
 罵りの言葉はなかった。
 神に救いを請う、祈りの言葉もなかった。
 キャノピィが透明でよかった。
 空を仰いだまま、死ねるから。


 招待状を送った覚えのない招かれざる客がユグドラシル基地に押し寄せてから、どれくらいの時間が経過したのだろう。アッシュ、リゲル、メアリィは無事に隠れているのだろうか。誰も一言も発しない。希望を振り撒く台詞が思い浮かばないのだ。ソエルの隣に座っているアレックスは、死刑が執行される寸前の囚人みたいに青ざめていた。
 不意に、ソエルの向かいに黙って座っていたノワリーが立ち上がり、滑走路に面している窓を全開にした。空気の入れ替えをしても、オフィスに沈殿する鬱屈した空気は浄化できないのに。次にノワリーは、カーテンを外し始めた。一体、何をするつもりなんだろう。模様替えをするには、あまりにも緊迫した状況だ。
「隊長? 何をしているんですか?」
 肩越しに振り向いたノワリーはソエルを一瞥すると、すぐに作業に戻った。
「決まっている。ここから脱出するんだ」
「脱出って――オフィスは三階ですよ!? 飛び降りる気ですか!?」
 どうかしてるといった表情でアレックスが叫ぶが、ノワリーは至って大真面目な顔だ。黙々とカーテンを外す作業を続けている。両足の骨を犠牲にして、飛び降りる気か。オフィスを飾っている全てのカーテンを外し終えたノワリーは、今度はそれを繋ぎ始めた。そうか。そういうことか。ノワリーが実行しようとしていることを理解したソエルとアレックスは、彼の地道な作業を手伝った。
 単調な作業が終わると同時に、真っ白なカーテンは一本の長いロープに変身した。ロープを柱に巻き付け、全身全霊の力を込めて幾重にも結び付ける。窓から垂れ下がったカーテンは、地面に辿り着いた。カーテンを引っ張り、強度を確認したノワリーが振り向いた。
「アルジャーノン。先に降りて、ステュアートを支えてやってくれ。私は――」
「おい! お前たち、何をしているんだ!?」
 オフィスのドアが弾き飛ばされ、見張り役の男が飛び込んできた。タイミングが悪すぎるぞ。男の手がスーツのポケットに消えた。オペラと連絡が取れる無線機を取り出そうとしているのだ。ノワリーが駆け出す。距離が縮まる。気合いの声と共に、しなやかな長い脚が弧を描き、男の側頭部に潜り込んだ。口から泡を吹いて白目を剥いた男は、あっけなく床に崩れ落ちた。
「軍の犬め。吐き気がする」
 気づかれるのも時間の問題だ。早く行け。ノワリーがアレックスを促した。窓から身を乗り出したアレックスはカーテンを握り締めると、ロッククライマーのような身のこなしで地上に降り立った。アレックスが合図を送る。次はソエルの番だ。
 ソエルは全体重を細いカーテンに預け、千切れないでと祈りながら地上を目指した。アレックスがソエルの腰を掴み、地上に降りる手助けをしてくれた。最後尾のノワリーも無事に着地した。第一格納庫へ急いだ。
 ソエルたちが第一格納庫に辿り着いた時だった。人間が作った機械仕掛けの悪魔が吠えた。音の発生源は格納庫の胃袋だ。中に突撃すると、我が目を疑いたくなるような光景が三人の前に広がった。リゲルがうつ伏せに倒れていたのだ。その身体の下には、巨大な血溜まりが広がっている。彼の側には、呆然と座り込んだメアリィと、縫いぐるみを抱き締めて泣きじゃくるイリアがいた。
「リゲル!」
 ソエルとノワリーを押し退けたアレックスがリゲルの側に膝をつき、血塗れのリゲルを抱き起こした。ブラウンのミリタリージャケットが、赤黒く変色する。脇腹に銃創があった。弾は貫通しているのか。それとも、皮膚と肉の隙間でストライキしているのか。
「ローレンツ。何があったんだ?」
 ノワリーがメアリィの傍らに屈みこみ、落ち着いた声で質問した。蒼白な顔のメアリィはノワリーを見上げ、救いを求めるように彼の腕を掴んだ。
「……分からないわ。ただ、いきなり銃で武装した兵士が部屋に入って来て、格納庫に連れて行かれて、私は抵抗したの。私とイリアちゃんを助けようとした、リゲルが――」
 撃たれた。掠れた声が補足した。苦しげな呻き声が、リゲルの唇の隙間から洩れた。固く閉じていた瞼が動く。濃度の高い青い瞳が、緩慢な動きで瞬きをして、ソエルたちを認識した。
「リゲル! 大丈夫か!?」
「……まぁな。ったくよ、一般市民を撃つなんて、どうか、してるぜ……」
 咳きこんだリゲルの口から真紅の液体が吐き出された。脇腹に穴が空いているんだぞ。クレームは元気になってからでいいじゃないか。
「喋っちゃ駄目です! 早く病院に連れていかないと――」
「そうはさせないわ」
 ヒールの音が高らかに響き渡り、どこからともなく現れたオペラと兵士たちが、格納庫の入口を遮るように立ちはだかった。右手には銃が握られている。物騒なアクセサリィだ。冷静な大人の女性を演じているが、激しく憤っているのが分かる。オペラが片手を上げた。散開した兵士たちが、ソエルたちを包囲した。
「餌を撒いておいて正解ね。整備士の坊やも役に立つじゃない」
「――餌、だって!?」
 リゲルを侮辱するような発言に、アレックスが反応した。緑色の双眸が燃えている。彼の怒りを燃料にしているのだ。
「ふざけるな! どうしてこんなことをするんだよ!」
「決まっているじゃない。ジェネシスと、ジェネシスとヒトの遺伝子を持つ者を捕えるためよ。私は、ただジェネシスに興味があるだけ。マナを遺伝子に組み込んだ神秘的な存在。世界樹を感じ取れる唯一の存在。でも、お偉い様は私とは違う。彼らは世界樹を手に入れて、世界を支配する権利が欲しいだけよ」
「アッシュが――俺たちが何をしたっていうんだよ!」
「俺たち?」今度はオペラがアレックスの発言に反応した。「俺たちって、どういうことかしら? 坊やには関係ないはずよ」
「ジェネシスの遺伝子を持つ者は俺だ! お前らは、俺を捜していたんだろ!? だったら、俺を連れて行けよ!」
「よせ! アルジャーノン!」
 オペラの顔は驚愕で歪んでいき、驚きは微笑みに変わっていった。勝利を確信した者の微笑みだ。突如として暴露された情報に、ソエルとメアリィは驚きを隠せないでいた。ノワリーだけが冷静だ。彼は知っていたのか。
「……どこかで見た顔だと思ったら、貴方はアルジャーノン家の坊やね? 世界樹とマナを発見した一族の子がジェネシスの血を引いているなんて、面白いじゃない。いいわ。望みどおり、『アーク』に連れて行ってあげる」
 アレックスに近づこうとしたオペラの歩みが止まり、彼女の表情が険しくなった。細められた青い目の先にいたのは、ソエルたちを庇うように立ちはだかったノワリーだった。覚悟を決めた琥珀色の双眸と、稲妻のような苛烈な視線がオペラを射抜く。綺麗に整えられたオペラの眉が数ミリ動いた。
「……何の真似かしら? エリオット大尉」
「彼らには、指一本触れさせない」
「上層部に反抗する気? こんなちっぽけな基地、いつでも捻り潰せるのよ」
「ユグドラシル基地の指揮官は私だ。部外者の貴女に命令する権利はない。お引き取り願おう」
 怒りで顔を真っ赤にしたオペラが右手を振り上げ、握っていた銃でノワリーの顔面を殴打した。鈍い音が響く。ノワリーの鼻から一筋の血が流れ出た。鼻血を拭ったノワリーは、臆さずにオペラを睨みつけた。一触即発の雰囲気だ。オペラが二回目の攻撃態勢に入る。今度は銃を構え、正面のノワリーに狙いを定めている。弾丸が放たれようとした刹那、彼方から響いてきた靴音が、張り詰めた空気を中和した。
「グランツ博士。乱暴は止めたまえ」
 敬礼をした兵士たちが左右に分かれ、その間を一人の男性が歩いて来た。四十代後半の男性。博物館の学芸員のような雰囲気で、白衣を着ている。オペラと同じ科学者か。男性を視認したアレックスは、地上を歩く死者を目撃したみたいに強張っていた。男性はオペラの隣に立つと、彼女が構えていた銃を優しく下ろさせた。
「乱暴ではありません。大尉は上層部に反抗したんです。動物は躾をしないと言うことを聞きませんわ」
「動物は酷過ぎるなぁ」ソエルの怒りを男性が代弁した。「確かにエリオット大尉は色んなものを混ぜた動物だけど、私の美しい作品でもあるんだ。言葉には気をつけてくれたまえ」
「……申し訳ありません」
「ジェネシスを捕獲するのは、またの機会にしよう。構わないね?」
「はい。異存はありません」
 男性の指示に素直に従ったオペラは白衣の裾を翻し、兵士たちを引き連れて出て行った。ヘリのプロペラが回る音が、格納庫の外で響く。滑走路に待機していたヘリコプターはホバリングをして方向を変え、漆黒の空の彼方に飛び去った。
 風と共に現れた男性は、風のように消えた。アレックスの表情が解きほぐされ、険しさが溶けていった。一時的にだが、災厄の嵐は過ぎ去った。あとは、アッシュの無事を確認するだけだ。
「隊長……アッシュは、彼女の所に逃げるって言ってました……アレックスなら、場所が分かるって……」
 コンテナに背中を預け、穴の空いた脇腹を押さえながら、今にも意識を手放しそうなリゲルが重要な情報を伝えた。全員の視線がアレックスに集まる。スターになったアレックスが、顎に手を添えて考え込んだ。
「もしかして――母さんの所か?」
「場所は分かるのか?」
「はい。国境から――東に50キロほど行った所です」
「まずは、フォーマルハウトを病院に連れて行く。アルジャーノンは救急車を呼んでくれ。ステュアートとローレンツ。君たちはイリアを部屋まで送るように。ブルーを追いかけるのはそれからだ。いいな?」
 ノワリーの指示が発動した。アレックスは壁に埋め込まれた電話へ走り、メアリィは未だに泣き続けているイリアの側へ向かった。指揮官の命令に従わなければいけないことは分かっている。でも、一秒でも早くアッシュの無事な姿を確認したい。湧き上がってきた衝動に背中を蹴飛ばされたソエルは、気がつくとアルヴィトを目指して駆け出していた。
 眠り姫のように静かに佇む純白のファイティングファルコン。キャノピィは口を開けたままだ。主翼に飛び乗って、ソエルはコクピットに身体を滑り込ませた。フル・スロットル。エンジンが呼吸を開始する。アルヴィトが動き出した。許可も得ずに飛び立とうとしているソエルに気づいたノワリーが駆け寄って来た。
「ステュアート! 何をしているんだ! 降りてこい!」
「――ごめんなさい!」
 動き出したアルヴィトは止まらないし、止めるつもりもなかった。
 誘導灯に染められた灰色の滑走路へ。
 ノワリーの制止を振り切り、ソエルを乗せたアルヴィトは、夜の空に舞い上がった。
 滑走路に立ち尽くすノワリーのシルエットが豆粒のように小さくなり、やがて見えなくなった。
 見えない糸に導かれるように、ソエルは機首を空の彼方に向けた。
 この広大な空のどこかで、アッシュは旅人のように彷徨っているのだ。


 身体の表と裏に衝撃が響き、機体が激しく揺さぶられた。
 翼を失った戦闘機なんて、ただの重い金属の塊だ。
 少しずつ、グングニルが沈んでいく。
 生命の海に還るのも、悪くはないと思った。
 空と同じ色をしているからだ。
 キャノピィ越しに、アッシュは空を見上げた。
 薄いヴァイオレットの空。
 光に照らされて頬を染める雲たち。
 月は沈み、太陽が顔を出しかけていた。
 波のリズムが子守唄となり、優しくアッシュに囁きかける。
 眠れ良い子と。
 違う、オレは、良い子なんかじゃない。
 今まで、何人墜としてきた?
 何人、この牙で引き裂いた?
 何人、殺して――。
 もう、どうでもよかった。
 心も身体も疲れ切っていた。
 とても、眠い。
 眠ってしまおう。
 この、機械仕掛けのノアの方舟で、新しい世界が生まれるのを待とう。
 白い鳩が、新世界に連れて行ってくれる。
 眠るように死ねる奇跡を、オレは信じていない。


 百年の眠りから目覚めるように、暗かった空が黄金色に染まっていく。
 目を凝らし、瞬きを忘れ、ソエルは必死で広大な空の中にグングニルを捜した。
 上ばかり見ていては駄目だ。
 半ロール。
 背面。
 遥か下に広がる海に注意を向けた。
 黄金色に染まり始めた大海原の真ん中に機体が浮いていた。
 黎明が機体を照らし出す。
 ミッドナイトブルーの戦闘機。
 間違いない。アッシュの機体グングニルだ。
 海の底に沈もうとしている。早く救出活動を開始しないと。
 エレベータ・ダウン。
 ダイブ。
 空を滑空したアルヴィトは、沈みゆくグングニルの側に着水した。着水の衝撃で波が起こり、グングニルの沈没を手助けする。墜落の衝撃が原因なのか、キャノピィは開いていた。開閉スイッチが故障したのかもしれない。ソエルにとっては幸運だ。操縦席に座っているアッシュを見つけた。名前を呼ぶが、反応はない。頭から出血している。危険な量だ。それに、意識を失っているようだ。
 グングニルの先端が完全に沈没して、胴体、主翼、尾翼が後を追いかけるように、海水に飲まれていった。コクピットにはアッシュが囚われたままだ。アルヴィトのコクピットから這い出したソエルは、主翼から跳躍して海に飛び込んだ。全身を切り裂かれるような冷たさが体温を奪っていく。限界まで息を吸い込み、ソエルは海に潜った。
 重い金属の塊は、真っ逆さまに海の底に沈んでいく。水を蹴って速度を上げ、ソエルはグングニルを追いかける。胴体に辿り着いた。主翼に張り付いて救出を試みるが、アッシュの身体に食い込んだシートベルトが邪魔をした。水中では思うように力が出ない。苦戦しつつも、何とかベルトの拘束からアッシュを解放した。後は地上に連れて行くだけだ。息は持つだろうか。いや、持たせてみせる。
 その時、機体の沈む速度が一気に上昇し、ソエルの側頭部に尾翼が襲いかかった。衝撃。頭の中のパーツが揺さぶられる。肺腑に貯め込んでいた空気が漏れていき、無数の気泡が海上を目指していく。新鮮な空気を吸いこめ。ソエルの意思とは無関係に、脳が電気信号を送ってきた。何を誤解しているんだ。いくら呼吸をしても、酸素は補給できないんだぞ。
 意識が飛んでいく。
 青い海に溶けていく。
 パイロットが海の中で死ぬなんて、安っぽいコメディ映画よりも酷い。
 刹那、ソエルの唇に、柔らかい感触が触れた。
 頬に添えられているのは、白くて細い手だ。
 繋がった唇から、空気が注がれた。
 誰?
 そんなことをしたら、貴方が死んでしまう。
 空っぽの肺に空気が溜まる。
 少しずつ、苦しみが遠ざかった。
 ソエルは目を開けた。
 濃紺の髪が、海月のように漂っている。
 紫色の目に、ソエルが映っていた。
 アッシュ君――?
 唇が離れた。
 ファック。
 この大馬鹿野郎。
 オレを助けるために、自分が犠牲になる気かよ。
 そんなことはさせねぇぞ。
 あの時、言ったじゃないか。
 空で死ぬのは、オレだけで充分だって。
 アッシュのテレパシィが伝わった。
 アッシュが笑う。
 繋がっていた手が分離する。
 そして、彼の身体は、完全に力を失った。
 ソエルは深海の暗闇に絡め取られたアッシュの腕を掴んだ。
 海中を上昇。
 海の上に帰還した。
「アッシュ君! アッシュ君! お願い! 目を開けて!」
 血の気を失い、蒼白なアッシュの頬をソエルは叩いたが、刺激を与えているというのに、彼は瞼を動かさない。冷凍庫みたいに冷えきった水の中に居続ければ、低体温症になってしまう。アルヴィトの主翼の上まで這い上がろうと思ったが、アッシュを放置するわけにはいかない。かといって、このまま海水に身体を浸していたら、二人ともども墓場の住人になってしまう。
 ソエルの頭上で轟音が響く。上を仰ぐと、一機の戦闘機がこちらに向かって来るではないか。敵かと思った。しかし、あの色は、見覚えがある色だ。ジェイドグリーンの戦闘機が、アルヴィトの近くに着水した。キャノピィが口を開け、マロンペーストの髪の少年が姿を見せた。
「ソエル! 大丈夫か!?」
 ストライクイーグルの操縦士はアレックスだった。助けに来てくれたんだ。安堵感がソエルの涙腺の強度を低下させる。今は泣いている場合じゃない。
「私は大丈夫です! でも、アッシュ君が――!」
「今、そっちに行くよ!」
 ミリタリージャケットを脱いだアレックスが、海にダイブした。滑らかなクロールでソエルの側に到達した彼は腕を伸ばし、沈みかけているソエルとアッシュの身体を支えてくれた。
「アッシュを上に引き揚げよう。俺が支えているから、君は先に上がって、引っ張ってくれ」
「はい!」
 アルヴィトの主翼に這い上がったソエルは、身を乗り出して手を伸ばし、アッシュの腕を掴んで引っ張り上げた。無事にアッシュを引き揚げることに成功した。アレックスの援助のお陰だ。アレックスも主翼の上へ這い上がった。ミリタリージャケットの恩恵を受けていない彼は震えていた。
「どうして――場所が分かったんですか?」
「リゲルがアルヴィトに発信機を付けておいたんだ。電波を辿って追いかけて来たんだよ。隊長とメアリィさんも、ボートで向かってる。もう大丈夫だよ」
 アルヴィトのコクピットに向かったアレックスは、無線のスイッチをONにした。
「こちらアルジャーノン。エリオット隊長、聞こえますか?」
『エリオットだ。二人は見つかったのか?』
「はい。ソエルは無事ですが――」アレックスが肩越しに振り向いて、アッシュの容体を確認した。「アッシュの意識がありません。それに、頭に怪我を負っています」
『分かった。あと数十分でそちらに着く。何かあれば連絡しろ』
「了解」
 救難信号は妨害されることもなく受理された。身も心も疲れ切ったソエルは、糸の切れたマリオネットのように、その場に座りこんだ。身体が震え始めた。怖い。恐ろしい。もしも、このままアッシュが目を覚まさなかったら――。
「大丈夫だよ」柔らかい声を引き連れ、大きな手がソエルの肩を叩いた。「アッシュは、絶対に戻って来る」
 ソエルの隣に座ったアレックスが微笑んだ。硬い笑みだった。彼も不安で堪らないのだ。ソエルを励ますために平気な振りをして、気さくで快活なアレックス・フォン・アルジャーノンを演じようとしているのだ。海を見つめるアレックスの横顔に水滴が伝った。
「ソエル。アッシュは――空で死にたいって言ってただろ?」
「はい」
「俺たちジェネシスは、遺伝子にマナを組み込まれて生み出されたんだ。マナは高く、空に還っていく性質を持つ物質だから、遺伝子に埋め込まれたマナが、空の中に還ろうとしている。だからアイツは、空に焦がれて……苦しんでいるんだ」
「アレックスさんも……ジェネシスの血を引いているんですよね。貴方も苦しいんですか? 空に焦がれているんですか?」
 ソエルの問いかけにアレックスは黙り込み、沈黙と静寂の中で考え込んだ。自分の身体の内側を、遺伝子の奥深くを探っているような表情だった。
「……うん。空に焦がれて、苦しいと思う時がたまにあるよ。でも、純粋なジェネシスはアイツだけなんだ。アッシュは俺の何倍……いや、何百倍も苦しんでる。それでも、アイツは生きようとしている。地上で生きようとしている。だから、アイツは必ずここに帰って来る。俺たちが――ソエルがいる場所に帰って来るよ」
 ソエルの脳裏に、アッシュの顔が蘇った。
 空に焦がれ、
 焦がれすぎて、
 苦しんでいるあの顔。
 息を止めれば、空の一部になれると思っているあの顔。
 それはソエルの心に焼きついて、片時も消えることはなかった。
(アッシュ君……私、何も知らなかった……)


 東の空を照らす夜明けと共に、気温が上昇していく。それでも、吐き出される息が瞬く間に白く染まる極寒の世界だ。海水で濡れた身体と冷えきった空気が化学反応を起こし、体内に残された僅かな熱を奪っていく。アッシュが生きていることを確認しながら、ソエルとアレックスは肩を寄せ合い、ひたすら救助が来るのを待ち続けた。
 水平線の彼方からエンジンの音が近づいてきて、黎明の光を纏ったボートが走って来た。海面を滑るように走って来たボートは、アルヴィトのすぐ近くで停止した。操縦席から長身の青年が急いで出て来た。ノワリーだ。オペラに殴られた跡が青紫色に変色している。甲板にはメアリィもいた。
「ステュアート! アルジャーノン! 無事か!?」
 ボートは慎重に主翼の端に接岸し、ノワリーが翼の上に足を乗せて二人との距離を縮めた。横たわったまま動かないアッシュを、琥珀色の目が認識した。ノワリーの顔に緊張が走る。それでも、彼は冷静さを失わなかった。
「ブルーをボートまで運ぶ。手伝ってくれ。ボートに運び終えたら、ローレンツと協力して応急処置をするんだ。アルヴィトとメイデンリーフは後で回収する」
 三人は協力してアッシュをボートまで運んだ。ノワリーは操縦席へ。ソエルとアレックスはメアリィと一緒に応急処置を。ボートが始動した。フル・スロットル。エンジンを限界まで酷使しているのだ。
 一分でも、一秒でも早く基地に着いてほしい。
 皆が不安に押し潰される前に。
 アッシュは、必ず帰って来る。
 ソエルたちのいる地上に。
 ヒトは、信じてもいない神に都合のいい時だけ祈り、救いを請う。
 それでも、ヒトは、何かに縋りたくなるのだ。
 不安に襲われ、絶望感に苛まれた時、その暗闇から抜け出したいからだ。
 ソエルも必死に祈り続けた。
 いるのか分からない、神様に。