永い人生を共にする運命の相手と出会った時、稲妻に打たれたような感覚が全身を駆け巡ると誰かから聞いたことがある。それはお伽話で、可愛い嘘だと思っていた。あまりにも非現実的すぎるからだ。でも、ミッドナイトブルーの戦闘機から姿を見せたパイロットと対面した時、嘘だと信じていた稲妻に打たれたような感覚が、ソエルの全身を駆け巡ったのだ。しばらくの間、帯電したようにソエルの身体は痺れていた。
 主翼から地面に飛び降りたパイロットは、微妙な距離を置いてソエルとアレックスの前に立っていた。初対面のソエルに警戒しているのだろうか。地上の重力はパイロットを押し潰していない。なぜだろう。磁石と磁石が惹かれ合うような、言葉では上手く説明できない不思議な感覚を、ソエルは感じていた。
「お帰り、アッシュ。無事で何よりだよ」
 にこやかな微笑みを浮かべたアレックスが歩み寄った。目にかかる前髪を鬱陶しそうに払い除けると、アッシュと呼ばれた少年は、険悪な視線を彼に向けた。一瞬、アッシュの目がソエルを見たような気がしたが、それは気のせいだったようで、彼は一度も目を合わせようともしなかった。
 それにしても、小柄で華奢な少年だ。アレックスやノワリーよりも、30センチは低いだろう。うなじで跳ねた髪は、機体と同じミッドナイトブルーで、深い紫の目は星の見えない夜空のようだ。眼光は鋭く、全く隙を見せない。軍隊が身に着ける認識票、ドッグタグのようなペンダントを着けている。
 白い半袖のシャツに、ダークグリーンのカーゴパンツという服装だ。一目見ただけでは男性とは分からない。声が高ければ、誰もがアッシュという少年を、いたいけな女の子と間違えてしまうだろう。
「ファック。お前にだけは、心配されたくねぇな」
 アレックスを一瞥したアッシュが、冷たい返事を返した。心配してくれているというのに、彼の厚意を踏み潰すような返しかただった。アレックスが苦笑する。彼の毒舌が日常茶飯事だというふうに。
「そんなこと言うなって。で、どうだった?」
「一機墜とした。ダークグレイに塗られたF4ファントム2だったから……アンティオキアの野郎だろうよ」
「アンティオキアか。奴ら、まだ世界樹を諦めていないのかな。それとも――」
「オレが知るかよ。オイ! そこの女!」
 アッシュの怒声が直撃して、ソエルは飛び上がりそうになった。苛立った表情のアッシュがソエルを睨んでいる。無視されていたと思っていたのに、ちゃんと認識してるんじゃないか。わざと気づかない振りをしていたのだ。
「何だ? テメェは。ここはガキの来る所じゃねぇんだよ。さっさと家に帰りな」
「ガッ……ガキじゃありません! ソエルっていう名前がちゃんとあります! それに、見た目が小学生の貴方に、ガキ呼ばわりされたくありませんね!」
 石化したようにアッシュの表情が強張った。どうやらソエルは、彼が一番気にしていることを言ってしまったようだ。紫色の双眸が凄みのある酷薄な色に変わり始め、遂には殺意を抱き始めた者の目に変貌した。先に侮辱の台詞を吐き出したのはアッシュのほうだ。だから謝る気なんてない。
「……何だと? 誰が小学生だって? テメェ、オレに喧嘩売ってるのかよ」
「チームのエースだか何だか知りませんけど、少しいい気になってるんじゃないですか?」
「……ここで死にてぇようだな。面白いじゃねぇか! 今すぐ墜としてやるよ!」
 空色と紫の視線が宙で混じり合い、空中戦を開始した。見えない火花が飛び散る。空気が張り詰めていく。まさに一触即発の雰囲気だ。二人の戦争を止めるべく、アレックスが慌てて仲裁に入った。
「まぁまぁ……喧嘩はよくないよ。ね? ソエル、こいつがアッシュ・ブルー。さっきも話したとおり、ヴァルキリーのエースパイロットさ。アッシュ、彼女はソエル・ステュアート。今日配属された新人パイロットで、俺たちと同じチームだよ」
 睨み合うソエルとアッシュを交互に見ながら、アレックスが懸命に仲裁した。彼の言うとおりかもしれない。同じチームに所属するのだ。これから幾度もなく顔を合わせることになるだろう。大人にならないと。そう自分に言い聞かせ、ソエルは怒りを静めた。ソエルとは反対に、アッシュの怒りは消えていなかった。盛大な舌打ちが響く。両手をポケットに突っ込んだアッシュが、蛇のように執念深くソエルを睨んでいた。
「ファック! こんなガキがパイロットだと!? ハッ! ヴァルキリーも地に落ちたモンだな! アレックス! 星野郎にちゃんと機体を整備しろって言っとけよ!」
 お世辞にも上品とは言えない台詞を吐き捨てたアッシュは、激しい嫌悪感を剥き出しにして歩き去った。小柄なアッシュの姿が消え去ると同時に、押し込めていたソエルの不満が爆発した。
 精鋭チームのエースパイロットだから、上品で紳士のような人柄だと期待していたのに、全然違うじゃないか。スラム街の不良みたいな少年が、エースパイロットだなんてとても信じられないし、信じたくなかった。
「ごめん。アイツも悪い奴じゃないんだ。俺からも謝るよ。だから、許してやってくれないかな」
 犯してもいない罪を認めるように、アレックスが謝った。甘く整った顔は、見ていて痛々しいほど落ち込んでいる。ソエルの怒りと不満を察知したのだ。彼に文句を言っても仕方がない。肩を落として息を吐く。ソエルの内側で張り詰めていた緊張の糸が緩み、長旅で溜まっていた疲れが一気に押し寄せてきた。
 目の覚めるような青空は、いつの間にか憂いを帯びたオレンジ色の夕焼けに染まりかけていた。
 彼――アッシュと上手く付き合っていけるのだろうか。
 不安と共に、役目を終えた太陽が、名残惜しそうに沈んでいった。


 目覚まし時計のベルが、ソエルの耳元で鳴り響く。その音色は、殺人鬼と遭遇した女性の悲鳴に似ていた。唸りながら手を伸ばし、甲高いソプラノの悲鳴を上げる口を塞いだ。夢の名残がさよならを告げ、さよならを返してソエルは目を開けた。眠気の残る、霞みがかった視界に、時計の文字盤が映る。時刻は八時二十分。時刻を確認した瞬間、海月のように漂っていたソエルの眠気は、一気に吹き飛んだ。
「うそぉ! もうこんな時間!? やだ! どうしよう!」
 昨日、アレックスに「明日は八時半にオフィスに集合だよ」と言われていたのだ。十分しか猶予が残されていないじゃないか。ベッドから飛び出したソエルは、慌てて準備を始めた。パジャマを脱ぎ捨て、ハンガーに掛けてある、下ろしたての制服に着替える。
 パジャマは丸めたまま放置だ。畳んでいる余裕はない。寝癖で縺れた髪を櫛で梳き、頭の左上で結い上げる。いつもと同じヘアスタイルだ。五分で身支度は完了した。人間死ぬ気になれば何でもできるのだ。
 部屋を飛び出して階段を駆け下りる。ここがマンションなら、隣人に文句を言われそうだ。一階の談話室にアレックスがいた。ソエルに気づいた彼は、読んでいた新聞を綺麗に折り畳み、マガジンラックに戻した。片手を上げたアレックスが微笑んだ。
「おはよう、ソエル」
「アレックスさん!? 急がないと遅刻ですよ!?」
「俺も、今起きたところなんだ。同じ遅刻仲間がいて安心したよ。じゃあ、行こうか」
 恐らくアレックスは、ソエルが寝坊をするだろうと予測して待っていてくれたのだろう。彼の優しさは嬉しかったが、同時に罪悪感も感じた。配属されたばかりの新人とはいえ、迷惑をかけ続けるのはばつが悪い。自然と溜息が洩れる。精鋭チームの一員なのだから、もっとしっかりしないといけない。
 オフィスの前に到着すると、ドアの内側から話し声が聞こえてきた。既にブリーフィングが始まっているようだ。縦の皺を眉間に刻んだ、厳しい顔のノワリーがソエルの目に浮かぶ。恐る恐るドアを叩き、二人はオフィスに足を踏み入れた。
 デスクの正面にあるソファにメアリィとリゲルが座り、部屋の隅に腕組みをしたアッシュが壁にもたれて立っていた。紫の目がソエルを一瞥して、目が合う前に彼は目を逸らした。デスクには難しい顔をしたノワリーが座っていて、分厚く束ねられた書類に目を通している。早く謝らないと。時間が経てば経つほど謝りにくくなる。
「寝坊して、申し訳ありませんでした! でも、アレックスさんは悪くありません! 私を待っていてくれたんです!」
 さあ、来るなら来い。お叱りの言葉を覚悟して、ソエルは金色の頭を下げた。返ってきたのは静寂で、いつまで経ってもノワリーの厳しい声は聞こえてこなかった。
「あ……あれ?」
「隊長。ソエルとアレックスが来たわよ」
 微笑んだメアリィがノワリーに伝えた。彼女の隣に座っているリゲルは笑いを堪えているようで、小刻みに肩が震えている。アッシュは知ったことかという表情だ。書類を読んでいたノワリーが顔を上げ、いつもと同じ冷静な目が、ソエルとアレックスを捉えた。
「時間通りだな。全員、揃ったようだな。では、今日のミッションの詳細を説明する」
「まっ……待って下さい! 私、十分も遅れたんですけど――」
「十分も? いや、そんなはずはない。ローレンツ、今は何時だ?」
「八時四十分……三十五秒よ」腕時計を覗き込んだメアリィが答えた。
 ノワリーはデスクの上にある置時計を手に取った。時間を確かめるように何度も覗きこむと、彼は溜息をついた。そして時計の裏に付いているツマミを回し、時刻を調整した。
「すまないな、二人共。どうやら、私の時計が遅れていたようだ。時間は遅れたが、予定通り始めよう」
 ソエルとアレックスは、メアリィとリゲルの向かい側に座った。デスクから立ち上がったノワリーは、隅にあったホワイトボードを引っ張って来て、ユグドラシル基地周辺が詳細に描かれた地図を貼り付けて振り返った。タクト代わりのペンが、地図の一点を指し示す。
「アンティオキアの戦闘機が、クルタナの領空を侵略していると情報が入った。ステュアート、ブルー、お前たちに偵察飛行を命ずる。もし、敵機に遭遇した場合はまず警告しろ。相手が警告を聞き入れない場合は追い払え。撃墜は最後の手段だ。ブルー、彼女のサポートを頼んだぞ」
 アッシュが不満げに舌打ちした。眉を顰めたノワリーがアッシュを見つめる。
「この女と飛ぶのはごめんだね。オレは下りる」
「それはできない。ステュアートと飛ぶんだ」
「それは命令か?」
「そうだ」
 気にいらねぇ。嫌悪の言葉を吐き捨てたアッシュは、ノワリーを睨み付けると、気まずい空気を置き土産にしてオフィスを出て行った。気を取り直したノワリーが、ソエルたちを見回した。
「正午に滑走路に集合だ。アルジャーノン、フォーマルハウト。ステュアートを彼女の機体まで案内してやってくれ。以上だ。ミーティングを終了する」
 敬礼をしたアレックスとメアリィとリゲルはオフィスを出て行った。留まっているのはソエルだけだった。いつまで経っても退出しないソエルに気づいたノワリーが、椅子に座ろうとして宙に浮かせていた腰を伸ばし、訝しげな視線を送ってきた。
「どうした? 分からないことでもあったのか?」
「いえ、その……私、ブルーさんのパートナーになって大丈夫でしょうか」
「ブルーのことなら気にしなくていい。彼はいつもあんな調子だ。誰に対しても冷たい態度を取るんだ。心配するな」
「はい。それと……時間のことなんですが」
 椅子に座ったノワリーは、背もたれに身体を預けて思い出したように頷いた。
「気にするな。私の時計が遅れていた。それだけだ」
「はい。ありがとうございます」
「礼ならアルジャーノンに言うといい。長旅で疲れたお前を、休ませてやってほしいと言ってきた。ただし、今回だけだ。お前は名のあるチームの一員だ。次からは気を引き締めるように」
「はっ……はいっ!」
 山のように積み上げられた書類の一枚を手に取ったノワリーは、白い用紙を埋め尽くしている文字に目を通し始めた。仕事の邪魔をしてはいけない。敬礼をしたソエルはオフィスから退出して、一階のロビィで待機しているアレックスとリゲルと合流した。
 目的地は第一格納庫。顔も知らない戦闘機が、ソエルを待っているのだ。


「そう言えば、リゲルさんってメカニックですよね。どうして、ブリーフィングに参加していたんですか?」
「メカニックチームの中で、一番優秀だからな。代表で参加してるンだよ」
 自慢するようにリゲルが胸を張る。彼の隣でアレックスが笑いながら首を振った。
「違うよ。リゲルは酷い悪戯小僧だから、監視してるんだと思うよ」
「監視? 何でだよ」
「ほら。三年前の苺ジャム事件。あれからお前は、ブリーフィングに参加するように言われたんじゃなかったっけ」
「あぁ〜あれか。言われてみれば、そうかもな」
「苺ジャム事件?」深刻そうではない名前に興味が湧いた。
「三年前ね、俺とリゲルで、隊長の靴に苺ジャムを入れたんだよ。その時の隊長の顔は、見物だった」
「そうそう。ちょっと半泣きだったんだぜ」
 常に冷静なノワリーの半泣き顔を想像して、堪え切れずにソエルは吹き出してしまった。あの不気味な感触のジャムを踏んでしまったら、誰だって半泣きになるに違いない。もしもソエルがその場にいたならば、どんな顔をしていただろうか。
「仲良いんですね」
「そうかな。結構喧嘩とかしてたよ」
「あのチビが俺よりデカくなりやがって。ショックだぜ」
「牛乳飲めよ。背が伸びるよ」
「それ、アッシュに言ってみろよ。機関砲で撃たれるぜ」
 並んで歩きながら笑顔を分かち合うアレックスとリゲルを見て、ファッションも性格もアシンメトリーだなとソエルは思った。
 アレックスは焦げ茶色のミリタリージャケットと、デニムジーンズのありふれた服装だが、貴族の子息のような上品さが彼の内側から溢れている。そのまま社交界に行っても通用しそうだ。快活で気さくな彼は、誰からも愛されるタイプだろう。
 一方オイルや煤で黒く汚れたツナギ姿のリゲルは、一見お洒落に関して無頓着に見えるが、実際にはそうではないと言える。黒い革製のチョーカー。左耳にピアス。右手にシルバーのブレスレットと輝くアクセサリィが目立っているが、嫌味だと思わない丁度いい個数だ。見た目が派手で、少し近寄りがたい印象を覚えるが、話してみると面白い。アレックスが貴族の子息なら、リゲルは町の不良といったところか。
 青い空を流れる雲を道標にして、三人の旅人は第一格納庫に到着した。相変わらず薄暗い。鯨の胃袋の中に迷い込んだ気分だ。第一格納庫はヴァルキリー、第二、第三格納庫は二つのチームが使用しているらしい。機体の整備をしたり、機械のメンテナンスをしているメカニックたちが、ソエルに挨拶をしてくれた。数年ぶりに配属された新人が珍しいんだろう。
「昨日は悪かったな。メンテは終わったし、今日はヴァルキリーの機体を見せられるぜ」
「本当ですか?」
「うん。まずは、俺の機体を見せるよ」
 アレックスに案内されて、ソエルは機体の所へ向かった。
 F15ストライクイーグルと呼ばれる機種だ。二十数年前に開発された機体は、全長19メートルを超す機体にも関わらず、航続距離、速度、機動性に優れている。胴体側面に大きく膨らんだ燃料タンクに、LANTIRN(ランターン)システムと呼ばれる赤外線監視装置、地形追随レーダーを搭載しているのだ。ボディは鮮やかなジェイドグリーンに塗られていた。
「名前はメイデンリーフ。出会って三年かな」
「んで、隣にあるのがメアリィさんの機体、ブリュンヒルドだ」
 感嘆する暇もなく、ソエルは隣の機体に目を向けた。ブリュンヒルドは、英雄に恋をした悲劇の戦乙女の名前だ。
 機種は五年前に退役したF14トムキャット。全長はメイデンリーフと同じぐらいだろう。可変後退翼の採用により、高度での高速性能と低高度での機動性、短距離離着陸性能を両立させた機体だ。ボディは淡いオレンジ色で、霧の向こうに沈む夕日を思わせた。
「最後に、期待の新人さんの機体を紹介するぜ」
 ソエルはブルーシートで覆われた機体の前に案内された。リゲルがブルーシートを捲った。真っ白な機体が視界に入った。
「これが、アンタの機体だ」
 F16ファイティングファルコン。全長は15メートル弱だろう。高性能の代償として高価格になったF15を補完する、軽量戦闘機計画で開発された戦闘機だ。胴体と主翼を滑らかに繋ぐ、ブレンデッド・ウイング・ボディ。大きくて視界良好なキャノピィ。フライ・バイ・ワイヤを採用し、操縦桿が右コンソールに配置されている珍しい機体だ。機体の重量は、F15の半分ほどしかない。
 フライ・バイ・ワイヤとは、操縦装置と舵の間をコンピュータが仲介するシステムを指す。操縦装置を操作すると、その動きは電気信号に変換されて、コンピュータに入力される。コンピュータは各種センサーで、その時の機体の姿勢や速度、気圧と気流の状態を計算し、最適な角度で舵を動かすのである。
 目の前に現れた機体の美しさに、声が出てこなかった。相応しい言葉で褒めたいというのに、言葉が声にならないのだ。翼を広げた白鳥のように優雅で繊細な形。今にも大空の彼方へ飛び立ちそうだ。見惚れるソエルの隣で、リゲルが得意そうに胸を張った。
「凄いだろ? 最新のエンジンで、少ない燃料とマナで長時間の飛行が可能になってるんだ。スピードはアッシュのグングニルに劣るけど、安定感と旋回能力は、こっちのほうが上だぜ。で、名前はどうする?」
「え? 名前……ですか?」
「自分の戦闘機には、好きな名前が付けられるんだよ」後ろに立つアレックスが助言してくれた。
「じゃあ……アルヴィト!」
「アルヴィト?」二人が同時に名前の由来を訊いてきた。
「はい。古い言葉で、純白っていう意味なんです」
「へぇ〜。いい名前じゃん。お前より、ネーミングセンスあるな」
「うっさいな。ほっといてくれよ」
 二人の掛け合いに笑いながら、ソエルはアルヴィトと名付けた機体に近づいて、そっと白いボディに触れた。
「よろしくね、アルヴィト」
 共に大空を駆けることとなる相棒と対面できて嬉しいはずなのに、ソエルの胸中は複雑な思いで占められていた。胸中で渦巻く暗い思いは、目に見える形となり、ソエルの横顔に表れた。柔らかな体温を宿した大きな手が肩に触れる。肩越しに振り向くと、瞳を曇らせたアレックスが、彼女を見つめていた。
「ソエル? 気分でも悪いのかい?」
「いえ、大丈夫です。ただ、ちょっと――悲しくなっちゃって。戦場の空を飛んで、戦闘機を墜とすんじゃなくて、空を愛して空を守るのが、私たちパイロットに与えられた使命だと思うんです。それなのに、いつから戦わなくちゃいけなくなったんだろうって思ったんです」
 空を駆ける者たちは、自由を求めて地上の束縛を嫌った者たちだ。彼らに善悪の関係はなく、地上の価値観さえも興味がないのだ。ただ、あの広大な青の懐に抱かれたいだけなのだ。いったい、いつから戦闘機を撃墜する必要性が生まれてしまったのだろうか。
 言葉を終えたソエルを見つめていたのは、両目を大きく見開いているアレックスとリゲルだった。
「……偉そうなこと言っちゃいましたね。ごめんなさい」
 急に恥ずかしくなったソエルは、二人に向けて謝罪した。配属されたばかりの新人が生意気な発言をしたのだ。両目を見開いて憤るのも当然だろう。頬を紅潮させたアレックスが首を振る。その表情は、大統領の演説に感動した民衆のような顔だった。
「そんなことないって! 俺、凄く感動したよ!」
「……オレも。すっげぇ勉強になった」
 まさか、何気なく言った言葉でこれほど感動されるとは、夢にも思わなかった。もう少しアルヴィトを眺めていたい。そのためには、格納庫を管理する銀髪の整備士の許可が必要だろう。ソエルは未だに感動して青い目を輝かせているリゲルを見上げた。
「あの、もう少しアルヴィトを見ていてもいいですか?」
「ああ、いいぜ。俺とアレクは宿舎にいるから。何かあったら呼んでくれ」
「はい。ありがとうございます」
 格納庫を出て行く二人を見送ったソエルは、もう一度アルヴィトを見上げた。ボディには傷も汚れもなかった。ヴァルキリーの専属メカニックチームが、新しいパイロットのために丹精込めて整備してくれたのだろうと思うと嬉しかった。ソエルは機体の周りを一周し、ありとあらゆる角度から楽しんだ。早く一緒に飛びたい。気持ちが逸る。
「あれは――」
 アルヴィトの向かい側に、もう一つの機体があった。自機に夢中になり過ぎて、今まで気づかなかったようだ。一度だけ見たことがある、ミッドナイトブルーの戦闘機。あのエースパイロットの機体だ。導かれるように、ソエルは側に行った。機体を見上げ、ソエルは驚いた。
 F35Aライトニング。究極のマルチロールファイター。最後の有人戦闘機。様々な言葉で形容される現在開発中の戦闘機ではないか。部隊配備されるのは数年先だと聞いているが、エースパイロットである彼だけに、特別に支給されたのだろう。空軍型、海軍型、垂直離着陸ができるタイプがあるが、目の前にあるライトニングは空軍型だ。
 アッシュの機体は、ただ速く飛ぶことだけを考えて設計されたような形で、余計な物を全て削ぎ落としたその機体は、いかにも簡単に撃墜されそうに見えた。目立った傷も、被弾した跡もボディにはない。彼の腕が卓越している証拠だ。アルヴィトと対になる色が綺麗だった。触れてみたい。ソエルは手を伸ばした。
「オイ。グングニルに触るんじゃねぇよ」
 刺々しい声が背後から響く。振り向くと、格納庫の入り口にアッシュが立っていて、嫌悪を露わにした顔でソエルを睨んでいた。いつからいたのだろう。三人が立ち去るのをずっと待っていたのだろうか。それがそうならば、辛抱強い少年だ。
「あ……ごめんなさい」
「ファック。邪魔だ」
 アッシュは早足でソエルの脇をすり抜け、ミッドナイトブルーの機体――グングニルを見上げた。異常な点がないかチェックしているのだろう。彼は近くに置いてあった梯子を胴体に立て掛け、梯子を上ってコクピットに乗り込んだ。いったい何をするんだろう。気になったソエルも梯子を上った。
「あの……」両手を頭の下で組み、目を閉じようとしていたアッシュと目が合った。
「……何だよ」
「何をするんですか? 掃除なら、お手伝いしますよ」
「ちげーよ、馬鹿女。フライトまで寝るんだ」
「えっ? 寝るんですか?」
 フライトの前は、神経が昂ってなかなか寝つけないものなのだが。さすがは精鋭チームのエースパイロットだと感心してしまった。眠たそうにアッシュが欠伸をする。鋭い牙のような八重歯が見えた。
「……あんまり気張るなよ。オレたちが飛ぶ範囲は、敵機と遭遇することは滅多にねぇよ。ただの偵察飛行だと思え。ま、オレにとっちゃただのクソ面白くない偵察飛行だけどな」
 思いがけないアッシュのアドバイスにソエルは驚いた。ソエルを心配して言ってくれたのだろうか。いや、足を引っ張られたくないから、仕方なくアドバイスしたのかもしれない。心配してくれているのだと思っておこう。最悪の出会いかたをしたのに。少しだけ見直した。
「は……はい! 時間がきたら、起こしますね」
「はぁ? んな必要ねーよ。コクピット閉めるからよ。……手、挟むぞ、どけろ」
 頷いて梯子を下りたソエルの頭上で音が唸る。前を支点にして動くワンピースキャノピィが閉まっていく音だ。ソエルはもう一度だけアルヴィトを眺め、格納庫を出た。立ち去る前に一度だけ振り返り、ソエルはグングニルを見つめた。
 透明な繭の中で、アッシュは戦いの時がくるまで眠っているのだろう。
 光り輝く聖剣に選ばれた王のように。
 口の悪いエースパイロット、アッシュ・ブルー。
 思ったより、悪い人じゃないのかもしれない。


 待ち望んでいた大空を飛べる時が遂にやってきた。救命装備室に入ったソエルは、自分のIDナンバが書かれたプレートが嵌め込まれたロッカーをこじ開け、モスグリーンのパイロットスーツを引っ張り出した。パイロットスーツは上下が一体になったツナギタイプで、夏は非常に暑苦しい。材質は火災になっても火傷を負わないよう、耐火性のあるノーメックスだ。
 サバイバルベストと救命胴衣、耐Gスーツも身に着ける。耐Gスーツは、下肢の血管を圧迫するようにできている。血液が下半身に下がるブラックアウトを防ぐためである。
 久し振りに身に纏った飛行服は、些か窮屈だった。ソエルは成長期の真っ只中だ。背が伸びたのか、それとも、身体に蓄えられている脂肪が増えたのか。スーツに文句を言ってはいけない。押し寄せるGからパイロットを守ってくれるのだから。
 時刻は十一時四十分。ミッション開始の二十分前に滑走路に到着した。すでにアルヴィトとグングニルが引き出されていた。機体の最終チェックをしている整備士の中に、アレックスとメアリィとリゲルが混じっている。無意識のうちに、ソエルはアッシュの姿を捜していた。結局彼を見つけることはできず、首の筋肉を浪費しただけだった。
「緊張しているようだな」
 真冬の空気のような声が、ソエルの背中にぶつかった。全身を捻ったソエルが振り向くと同時に、ノワリーが彼女の隣で足を止めた。指摘されて初めて自分が緊張しているのに気づいた。本当に精鋭チームの一員なのか疑いたくなる。
「そう緊張しなくても大丈夫だ。お前たちの飛ぶ範囲は、クルタナの領空だ。敵に遭遇することはない。肩の力を抜いて、実技訓練だと思えばいい」
「はっ……はい! ブルーさんからも、同じことを言われました」
「そうか。そういえば、ブルーはどこに行った?」
「ここにいるよ」
 遥かな高みから、気だるそうな声が降ってきた。顔を上げてみると、グングニルのコクピットからアッシュが地上を見下ろしていた。白い両手を外に垂らし、やる気の欠片も感じられない。どうやら整備士たちは、アッシュがコクピットに乗り込んでいることに気づかないまま、グングニルを滑走路に引き出したようだ。
 彼は身体を伸ばすと、盛大に欠伸をした。緊張している様子など微塵も感じられない。ソエルと同い年だというのに。経験の差を思い知った。
「準備OKです!」メカニックが合図を送る。合図を受け取ったノワリーが頷いた。
「必ず、無事に帰還するんだ。健闘を祈る」
 白い手袋を嵌めた右手がソエルの肩に置かれ、神父の祝福の言葉よりも力強い言葉が贈られた。ソエルを拘束していた緊張の鎖は一気に引き千切れた。
「はい! 行ってきます!」
 ソエルが気合の敬礼を捧げると、ノワリーも敬礼を返してくれた。冷たい視線が背中に突き刺さった。視線の送り主は分かる。ソエルは再び頭上を見上げた。コクピットに座るアッシュと目が合った。アッシュは酷く冷めた目でソエルを見下ろしていた。小学校に初登校するガキか。きっと、そう悪態をついているに違いない。
 視線を外したアッシュがコクピットに沈みこみ、ワンピースキャノピィが彼を覆い隠した。ソエルを置き去りにして、今にも飛び立ちそうだ。アッシュの性格ならやりかねない。
 航空機の運動で特徴的なのは、地上で走行する自動車とは異なり、前後左右以外に上下左右も加えた三次元の機動が行えることだ。戦闘機の操縦は他の航空機とはほとんど変わらず、三種類の「舵」を動かすことによって行う。
 まず、左右主翼の後縁に取り付けられた補助翼(エルロン)は機体左右の傾き(ロール軸)をコントロールする。右に傾きたい場合は左のエルロンを下げて、左主翼の揚力を下げて右主翼の揚力を増し、右のエルロンを上げて左主翼の揚力を減らす。これによって左右の揚力バランスが崩れて、機体は右に傾き始める。左に傾きたい場合は、これとは逆の操作を行えばいいのだ。
 機体上下の迎え角(ピッチ角)をコントロールするには昇降舵(エレベータ)を使用する。エレベータを下げると水平尾翼の揚力が増して、機体の揚力中心が後ろに集中して機首が下がる。逆にエレベータを上げると、機首は上向きになる。
 左右水平方向(ヨー軸)の制御は、垂直尾翼に取り付けられた方向舵(ラダー)によって操作する。ラダーを右に切ると、機種が右に振られるのだ。ラダーは基本的に単独で使うことはほとんどなく、横滑りを補正するために使用することが多い。
 これらの舵はコクピットの操縦装置で操作する。例えば右にロールしたい場合は操縦桿(コントロールスティック)を右に倒すと、それに反応してエルロンが動く。ピッチ角を取りたい場合は操縦桿を手前に引けば、機首は上向きになる。ラダーを操作する場合は、左右のフットペダルを任意の方向に踏み込めばいいのだ。
 操縦桿とペダルによって機体の姿勢を制御する他に、パイロットはもう一つの操縦装置であるエンジンのスロットルレバーも操作する。スロットルレバーは前方に押し上げることで推力を増し、一定以上押し上げるとアフターバーナーが点火する。逆に手前に完全に引くと、アイドル状態になる。右手で操縦桿を操り、左手でスロットルレバーを握るのが普通だ。
 しかし操縦桿の位置は、機種によって異なる場合がある。大多数の戦闘機は両脚の間にあるものの、最新のデジタル式フライ・バイ・ワイヤを備えた戦闘機では、右サイドコンソール上に設置されたものがあり、これらは「サイドスティック」と呼ばれているのだ。
 ソエルはアルヴィトのコクピットへ潜り込み、ヘルメットを装備してバイザーを下ろした。酸素マスクとレギュレーターも繋ぐ。エンジン点火。スロットルを開放。計器システムオールグリーン。背後を見ながらフットペダルを左右交互に踏み、方向舵の動きを確認。操縦桿の動きに連動するエレベータも、エルロンも異常なしだ。
 スロットルを絞る。
 急発進を防ぐために、操縦桿を引き寄せる。
 整備士が車輪止めを外すと、機体はゆっくりと、滑るように動き始めた。
 操縦桿を倒して左に180度旋回。機首が風上を向いた。
 フル・スロットル。
 風が機体を突き上げる。
 速度が増すにつれ、反発は激しくなっていく。
 次に操縦桿を軽く倒して機首を下に向ける。つまり、尾翼が持ち上がるのだ。機体は主翼下の前輪と機尾の尾橇の三点で地上に接している。三点のうちまずは尾翼を持ち上げて、二個の前輪だけで滑走速度を高めるのだ。
 エンジンの唸りと共に、ソエルの心臓の鼓動も高鳴っていく。
 さあ、大空へ舞い上がろう。
 自由が待っている。


 基本隊形――コンバットスプレッドを組んで空を駆ける。二機の高度差は8メートル。グングニルが先頭を飛び、斜め後方30度の位置をアルヴィトが占位する。次に、HUD(ヘッド・アップ・ディスプレイ)のベロシティ・ベクターを確認しながら、ソエルはファルコンの機首を北西の針路に定めた。
 戦闘機の正面計器盤の上部には、HUD(ヘッド・アップ・ディスプレイ)が装備されている。これは自機の姿勢や速度、進路、高度などに加え、目標の情報や照準など各種の情報を、パイロットが前方の視界越しに表示することが可能な機器だ。飛行や戦闘に必要な情報を、下方の計器盤に視線を落とさずに確認できるようになっている。
 HUDは正面に配置された専用のガラス面に、様々な情報が光学的に投影される構造で、外界を見ながら情報の判読が可能なように、焦点は無限遠に設定されている。HUDのルーツは、機関砲の射撃に使用する照準環などが表示される光学照準器で、のちに飛行諸元や自機の姿勢なども統合され、分かりやすく表示される現代の形に進化したのだ。
 配属されたばかりの新人パイロットであるソエルが前を飛ぶのは危険だ。だから、経験者であるアッシュが先頭を飛んでくれている。彼は、ソエルとパートナーを組むことを不服に思っていた。アッシュは今何を思い、何を考えているのだろう。
『オイ。テメェ、飛んだことはあんのかよ』
 無線からアッシュの声が流れてきた。相変わらず不機嫌の代名詞のような声だ。
「あっ……ありますよ! って言っても、実技訓練だけですけど……。何度も訓練しましたから大丈夫です!」
『チッ。ド素人かよ。無線のスイッチは入れておけよ』
「分かりました」
 アルヴィトとグングニルのフライトは、ハネムーンのように順風満帆のまま過ぎ去っていった。アッシュとノワリーの言うとおり、ここまで敵機と遭遇していない。ソエルはバイザー越しに、黒いディスプレイの時計に目を向けた。基地に帰還する時間だ。静かに佇んでいた無線が目を覚ました。
『そろそろ時間だ。戻るぞ。……ステュアート』
 無愛想の塊のような声が、ソエルの名前を呼んだ。驚いた拍子に飛び上がったソエルは、嫌というほどキャノピィに頭を打ちつけてしまった。人嫌いで有名なアッシュがソエルの名前を呼んだ。少しだけ認めてくれたと思いたい。
「了解です! ブルーさん!」
『はぁ? 何だよ、その呼びかたは――』
 突如、アルヴィトのコクピットにけたたましい警告音が鳴り響き、アッシュの声を掻き消した。レーダーに三機目の機影が映る。ソエルは肩越しに後ろを確認して戦慄した。ダークグレイに塗り潰された戦闘機が、後方を飛行していたのだ。胴体側面にマーキングされた獅子。アンティオキアの国章だ。
 全長17メートルのMIG29。MIG29は、前線に近い場所で活躍する局地戦闘機として開発された機体だ。そのためか、航続距離は他の戦闘機と比べて短い。
 反面、簡単な施設で整備が可能で、舗装が行き届いていない滑走路での離着陸ができるのだ。同時期に開発された、Su27フランカーの性能があまりにも優れすぎていて評価は高いとは言えないが、MIGのスペックは優れている。
『ファック! テメェ、アブレスト・フォーメーションの防御機動はできるか!?』
「えっ!? はっ――はいっ!」
 アブレストとは、二機による編隊(エレメント)による相互連携を、更に強化するために生み出された戦術のことだ。従来のエシュロン(台形)をベースにした隊形では、僚機が後落した位置にいるため、後方から接近して来る敵機に狙われやすい傾向があった。
 しかし、互いがほぼ真横に並ぶアブレストでは、こうした不安が払拭されるほか、1〜1.5マイル(6000〜9000フィート)の間隔を維持することにより、旋回機動中でも常に互いを視認しあいながら、隊形の維持や周囲の警戒ができるのだ。
『すぐにアブレストに入れ! オレの合図で、左にインプレイス・ターンしろ!』
 コンバット・スプレットを分解し、ソエルはグングニルの真横に並んだ。
『今だ! 旋回しろ!』
 アッシュの号令が大空に響いた。
 二機は同時に左へ旋回した。
 MIGはグングニルの追尾に入る。
 アルヴィトを追尾すれば、グングニルに後方を取られてしまうからだ。
 グングニルとMIGは、横転旋回を繰り返している。
 120度旋回。アルヴィトは直線飛行に入った。
 距離と速度を稼いで。
 敵機の後方に狙いを定めて反転。
 グングニルがMIGの注意を惹きつけてくれている。
 アルヴィトは絶好のポジションに占位した。
 電流のように、緊張が全身を駆け巡る。
 操縦桿を握る手が震えていた。
 実戦は初めてだ。
 戦闘機を、
 人を墜とすのも。
 でも、
 そうしなければ、
 墜とされる。
『さっさと撃てよ! 馬鹿野郎!』
 アッシュの叫び声が、ソエルの鼓膜に響いた。
 敵のエリアに侵入したものの、アルヴィトは馬鹿みたいに突っ立っていたのだ。
 無防備なアルヴィトに、旋回した敵機が迫る。
 グングニルが敵を挑発するように、主翼を振った。
 アルヴィトからグングニルへMIGのターゲットが変わった。
 グングニルのほうが手強いと判断したのだ。
 グングニルがスロットルを上げる。
 エレベータ・アップ。
 白い筋をたなびかせたグングニルが上昇していく。
 MIGも追跡を開始する。
 高度2500メートル。グングニルが動いた。
 ループ。
 反転。
 エレベータ・ダウン。
 青い空間を切り裂き、一気に急降下。
 MIGもダイブに入るが、グングニルほどの速度は出ていない。機体の空中分解を恐れているのだ。
 コクピットの中の気圧がマナで一定に保たれているとはいえ、2500メートルの高度から急降下すれば、計り知れないGが押し寄せるはずだ。
 脳の血流が下に偏ったことにより、視界が暗闇に包まれるブラックアウトが生じ、逆に脳の血流が上に集中すれば、視界が真っ赤に染まるレッドアウトが発生してしまう。アッシュの華奢な身体で耐えられるのだろうか。
 グングニルとMIGが、ダイブから水平飛行へ移る。
 グングニルが、敵の進行方向に鋭く旋回した。
 敵機はグングニルを追い越してしまった。
 オーバーシュート。
 ブレイク成功だ。
 グングニルがロール旋回。
 無防備な後ろに回り込む。
 戦闘機にとって、致命的なエリアになるリーサルコーンに入り込んだ。
 入れるものかとMIGの速度が上がる。
 グングニルの追跡を振り切ったMIGが、アルヴィトに向かって突っ込んで来た。
 両翼の機関砲が、アルヴィトを捉えた。
 縮まる距離。
 300メートル。
 機関砲の収束点に、アルヴィトが入る。
 それは、敵も同じだ。
 二機は互いに収束点に入った。
 先に撃った者が勝つ。
 生き残る権利を勝ち取れる。
 ソエルはトリガに指を伸ばした。
 指は動かない。指だけが別の生き物になったみたいに。
 墜とされる。
 覚悟した瞬間、目の前のMIGが爆発した。
 火を吹いた主翼に埋め込まれた燃料タンクが爆発して胴体に引火した。
 上昇するグングニルが視界に入った。アッシュが撃墜したのだ。
 爆発した機体が墜ちていく。
 パイロットは?
 パラシュートは見えない。
 コクピットに囚われたまま、炎上して灰になったのだろうか。
 呆気なく、
 いとも簡単に、
 目の前で、命が散っていった。
 これが戦い。
 戦争なんだ。
 アッシュがいなかったら、
 炎上して、散ったのは、自分だ――。


 手に汗握るドッグファイトは終幕した。アンコールの拍手を聞かないまま、アルヴィトとグングニルはユグドラシル基地の滑走路に着陸した。フラップ・ダウン。機首を持ち上げて速度を下げ、機体が止まるのを待つ。滑走路を擦っていた車輪が回転を止めた。機体が完全に停止したのだ。
 アルヴィトから降りたソエルは、首から上を圧迫しているヘルメットを脱ぎ、汗で湿った髪の気持ち悪い感触を感じていた。ぼんやりと髪の毛を引き剥がしていると、空気のように軽く、体重を感じさせない足音が近づいてきた。怖くて顔を上げることができない。次の刹那、細い腕がフライトスーツの襟元を掴み上げた。激しい憤りで暗くなった紫の双眸がソエルを睨んでいた。
「このファッキン野郎! 何やってやがる! テメェはパイロットだろうが! 敵を墜とすのが、オレたち戦闘機乗りの仕事なんだよ! オレがいなかったら、テメェは今頃棺桶の中だぞ!? やる気あんのかよ! あぁ!?」
「……ごめんなさい」
 痙攣に近い震えを伴ったソエルの顔は、頭上に頂く青空よりも蒼白だった。
 迫る敵機。
 その身を炎に焼かれながら、失速して墜落していく敵機の残像が、瞼の裏に焼きついて消えてくれない。
「……クソ野郎が」
 忌々しげな舌打ちを奏でたアッシュはソエルの襟元から手を離し、冷えきった目で彼女を一瞥すると、背中を向けて歩き出した。一歩、また一歩と、距離が遠ざかっていく。
「まっ……待って!」
 行かないで。置いていかれたくない。ソエルはアッシュの細い腕を掴んだ。アッシュが振り向く。氷河のように冷たい目がソエルの身体を貫き、心の奥深くまで突き刺さった。
「どこへ行くんですか?」
「オフィスだ。報告に行く」
「私も――」
 アッシュが腕を振り上げ、ソエルの手を弾き飛ばした。アッシュの視線に鳥肌が立った。ソエルの存在を完全に否定しているような目だった。
「墓場から這い出て来た死人みたいな顔しやがって。来るな。迷惑なんだよ。死人のほうがまだマシだ。テメェは部屋に戻って、荷物でも纏めてろ」
「……ごめんなさい」
「……空で死ぬのは、オレだけでいいんだよ」
「……え?」
「……ファック」
 顔を背けると、アッシュは飛行隊隊舎の中に入って行った。
 群れからはぐれた渡り鳥のように、広大な滑走路にソエルは、ただ一人、惨めに取り残された。
 忘れることができなかった。
 アッシュが呟いた言葉と、
 紫の瞳に宿ったあの表情。
 それは、まるで、
 空に、
 死に、
 焦がれているようだった。