生まれた時、夜空を流星群が走った。だから、星の名前を付けたんだよと、両親は笑いながら教えてくれた。それが本当かどうか分からなかったけれど、半分そうなんだろうと思った。僕も兄も、宇宙で輝く星のような、銀色の髪を持って生まれたのだから。それは日の光に当たると、青みがかった色に染まるのだ。きっと、宇宙で爆発した星の欠片が母さんの胎内に落ち、僕たちが生まれたんだ。
兄シェダルと弟リゲル。どちらも同じ星の名前を冠しているけれど、光と影、太陽と月のように、性格が正反対だった。兄シェダルは、どちらかといえば家で読書をしたり、小説を書いたりするのが好きな文学少年だった。反対に僕は、友達と外で遊ぶのが大好きな子供だった。泥だらけの服で帰って来ては、母親に叱られたものだ。そんな正反対の二人にも、共通の趣味があった。
僕も兄も、機械いじりが大好きだった。家中の電化製品を解体しては、両親を困らせていた。父と母は僕たちを叱りはしたものの、機械いじりを止めなさいとは言わなかった。それどころか、他人に迷惑がかからない範疇でやりなさいと教えてくれた。
両親は飛行機を整備する整備士の仕事に就き、生計を立てていたから、息子たちの姿を自分たちに重ねたのかもしれない。僕たちが同じ道を歩むのだろうと確信していたに違いない。
さほど裕福ではないが、満ち足りて、希望と幸福に溢れた日々。
この幸せな毎日が、ずっと続くと思っていた。
でも、無慈悲で慈愛の欠片もない悪魔が、突然やって来て、希望と幸福を奪い去っていったんだ。
まるで、不吉な黒い風のように。
両親とおやすみのハグを交わし、僕は自分の部屋に戻った。星座が印刷された紺色の壁紙。天井から吊り下げられた、飛行機とスペースシャトルの模型。父親から貰った飛行機の設計図が、至る所に貼られている部屋は、十一歳の子供らしからぬ部屋だと思う。ベッドの上に陣取っている子供用の工具を払いのけ、僕は安らかな眠りを司る場所を取り戻した。
毛布にくるまり、明日は何をして遊ぼうか考えながらまどろんでいた。深い眠りに引き込まれかけたその時、階下から響いてきた音が、眠りの神を追い払った。僕は目を開け、耳を澄ませた。玄関のドアを激しく叩く音。それが、音の正体だった。二つの足音が廊下を駆けて行く。ドアが開く音。次いで、激しく言い争う声が聞こえた。あれは――父さんの声だ。複数の見知らぬ声が叫んでいた。
刹那、数秒の間を置き、乾いた音が立て続けに響いた。テレビドラマや映画でしか聞いたことのない、悪夢のような音だ。誰かが床に倒れた。何かを引き摺るような音と、ドアが閉まる音が止むと、騒がしかった空間は、急に静かになった。
しばらくの間、僕は毛布の中で震えていた。時間が経つにつれ、恐怖心は薄まり、様子を見に行こうという小さな勇気が湧いてきた。ベッドから下り、部屋のドアに近づいた。触ってもいないのに、ドアノブが勝手に回る。心臓が口から飛び出しそうになった。悲鳴を飲み込み、僕は壁に立てかけてあるバットを握り締めた。何もしないで殺されるのはごめんだ。死ぬ前に、お前の脳天に渾身の一撃をお見舞いしてやる。
「リゲル? 僕だ。シェダルだよ」
開いたドアの隙間から、シェダルが顔を覗かせた。兄に化けた悪霊かもしれない。僕はバットの柄を、手が白くなるまで握り締めた。銀製のバットを買ってもらえばよかった。銀は悪霊や悪魔を追い払ってくれるからだ。
「ほ……本当に、兄ちゃんなの?」身体も声も、情けないくらい震えていた。
「ああ。本物だよ。安心して。入っていいか?」
頷き、僕はドアを開けた。シェダルが部屋に入って来た。震える僕の手に触れた手は温かった。氷みたいに冷たくない。生きている人間だ。やっと安心できた。兄の肩を掴み、僕は問いかけた。
「何があったの!? 父さんと母さんは!?」
「落ち着けよ! 僕が様子を見にいくから、お前は、ここでおとなしく待っているんだぞ。いいな?」
掠れた声で、分かったと返事をした。兄の右手を見た僕は驚いた。シェダルはバットの代わりに銃を握っていた。背中を向けたシェダルが部屋を出る。遠ざかる足音。軋む音。階段を下りている。木霊していた音が消え、静寂が押し寄せた。
しばらくの間、指示されたとおりにおとなしく待っていたけれど、恐怖と心細さに負けてしまった僕は、部屋を抜け出して階段を下りた。軋んだ音が僕の居場所を知らせている。お願いだから、静かにしててよ。懇願しながら一階へ下りた。階段を下りると、すぐ目の前に玄関がある。絨毯を踏み締めたシェダルがいた。
「兄ちゃ――」
玄関に広がる真紅の水溜まりを、僕はシェダルの肩越しに見てしまった。真っ赤な鮮血はフローリングの床と絨毯に染み込んでいて、巨大な地図を描いていた。錆びた鉄の匂いが、僕の嗅覚を刺激する。小刻みに身体が震え始めた。叫べ。叫んでしまえ。もう一人の自分が囁いた。刹那、溜まっていた恐怖心が爆発した。
「うわあああああぁぁっ!」
「リゲル!?」
「血っ……血がっ……! 何で!? 何で!? 父さんと母さんはどこ!? 銃の音が聞こえたんだ! 銃の音が……! 何があったの!? ねえ! ねえっ……! わああああぁっ!」
悲鳴が止まらなかった。コップから溢れ出す水のように、叫び声は僕の喉の奥から溢れ続ける。半狂乱に陥った僕を、シェダルが抱き締めた。怖い夢を見て眠れなかった夜、こんなふうに父さんが抱き締めてくれた。少年と大人の境界線をなぞる手が、僕の背中を撫でた。母さんに甘えた時、こんなふうに背中を撫でてくれた。父さんと母さんとは違う匂いと温もり。大好きな兄の匂いと温もりだ。
「落ち着いて、ゆっくり深呼吸するんだ」深呼吸をして、僕は恐怖を息と共に吐き出した。「よーし、いい子だ。落ち着いたか?」
兄の胸に顔を埋めたまま、僕は頷いた。シェダルが僕を離し、距離が生まれた。冷静と理性を兼ね備えた灰色の目が僕を優しく見つめている。曇り空のような色なのに、見つめていても憂鬱にならない不思議な色。怯えていた自分は、波のように引いていった。
僕たちの背後で物音がした。僕たち以外、誰もいないはずだ。振り向いた。キッチンの暗がりから男が出て来た。ダークグリーンの軍服。アンティオキアの軍人だ。暗い色の布地に、血痕が飛び散っている。右手には銃。悪夢のような音で吠える、機械仕掛けの人殺しの道具だ。
「ガキ? そうか……あいつらの子供だな?」息が酒臭い。僕は思わず顔を顰めた。キッチンの酒を失敬したのか。なんて奴だ。
「父さんと母さんを、どこへやったんだ?」
シェダルの問いかけに、男は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。お前は何も知らない愚か者だというふうに。推理小説の犯人を教えたがる奴が浮かべそうな笑みだった。
「何だ、なーんにも知らないのか。冥土の土産に教えてやるよ。お前らのパパとママは、軍に連行されたんだよ。明朝に処刑されるぜ。公衆の面前で、絞首刑さ。へへっ、鶏の首を捻るように、簡単に死ぬぜ」
軍に連行? 処刑? 嘘だ。嘘だ。嘘に決まってる。処刑は犯罪者に執行されるものだ。父さんと母さんは、犯罪者じゃない。善良な整備士だ。目の前の男が放った言葉が信じられなかった。動揺する僕を尻目に、男は言葉を続ける。
「二人は軍に反抗するレジスタンスの一員だ。多分、今頃は、レジスタンスのアジトを吐かせるために拷問されてるんじゃないか? ま、銃で撃たれてるからな。そう長くは持たないだろう。話は終わりだ。悪いけど、お前らにも死んでもらうぜ」
薄ら笑いを浮かべた男が銃を構えた。黒い銃口は、真っ直ぐに僕と兄を捉えている。男の指が引き金にかかる。それよりも早くシェダルが動いた。稲妻のような素早さで、彼は銃を撃った。螺旋状に回転した弾は空気を切り裂き、男の脇腹を貫通した。驚愕した表情を張り付けたまま、男は仰向けに倒れた。男は何度か痙攣したのち、ゆっくりと力を失った。
シェダルがゆっくりと振り向いた。玄関のドアに嵌め込まれているステンドグラスから差し込んだ月光が、彼の髪を照らした。青色を微かに含んだ銀色の髪は、僕と同じ色をしているのに、なぜかとても、神々しく見えた。一瞬、悪霊を追い払ってくれた聖者だと錯覚した。
「リゲル。今すぐ荷物をまとめるんだ。必要な物だけだぞ」
「え? ど……どうして……?」
「いいから早く! もう、この家にはいられないんだ」
有無を言わさない強い口調と、シェダルの険しい表情が、質問に答えている時間はないと物語っていた。飛ぶように階段を駆け上がり、僕は部屋に駆け込んで、リュックにいろいろと詰め込んだ。旅行に行く時のように、荷物を吟味している暇はない。
着替え。愛読している本。リュックはすぐに膨らんだ。そうだ。あれも持って行かないと。机の引き出しに大事にしまっているゴーグル。十歳の誕生日に、父さんがプレゼントしてくれた宝物だ。もう入らないよ。満腹になったリュックが抗議する。入らないなら着けていこう。ゴーグルを頭に巻き、僕はリュックを背負った。一階で待っているシェダルのところに戻った。
「忘れ物はないな? 二度と、ここには戻れないぞ」
「う……うん。大丈夫」
「よし。行こう」
主を失った空っぽの家を飛び出し、僕たちは走った。途中でサイレンを鳴らして走るパトカーと遭遇した。僕たちはゴミ置き場の陰に身を潜め、上手くやり過ごした。銃声を聞いた近所の住民が、通報したのだ。見つかってはいけないし、捕まってもいけない。アンティオキアの警察は、軍に懐柔された腐りきった組織だ。捕まれば、軍に拘束されている両親の自白を引き出す餌にされるに違いない。
街を抜け、郊外の森に入った。ひたすら走り続けた。ひたすら。一心不乱に。視界が開ける。遠くまで走る有刺鉄線のフェンスと、監視塔が見えた。看板に赤い文字で書かれた国境という文字。アンティオキアと隣国クルタナを結ぶ国境だ。どうしてこんな物騒な場所に来たんだろう。答えが聞きたかった僕は、シェダルに視線を送った。
「兄ちゃん。ここ、国境だよね? 何でここに来たの?」
「クルタナに逃げるんだ。向こうは安全だから」
「パスポートも持ってないのに、どうやって行くの?」
「強行突破しかない」シェダルが僕の右手を握った。「絶対に、手を離すんじゃないぞ」
僕はシェダルが質の悪い冗談を言っているのかと思った。思いたかった。けれど、兄の横顔は真剣そのものだった。行こう。シェダルが小声で指示を出した。後戻りはできない。覚悟を決め、僕は頷いた。
兄に連れられ、フェンス沿いを歩く。目立たない場所に、人一人がやっと通れそうな穴が開いていた。シェダルが先にフェンスの穴をくぐり、僕は後に続いた。
身を隠す場所が一つもない野原が、一面に広がっていた。蜂のように飛び交うサーチライトが脱走者を捜している。監視塔には銃で武装した兵士たちが、アルゴスのように周囲を監視していた。永遠に来ない王子様を待ち続けるラプンツェルみたいだ。遥か先に流れる川を越えれば、クルタナに亡命できるらしい。果てしない道程だ。それでも、行くしかない。
呼吸を整え、タイミングを計る。サーチライトが僕たちの頭上を掠め、離れていった。繋いだ手が引かれる。シェダルの合図だ。僕たちは飛び出し、一直線に川を目指して走った。穏やかに流れる川が近付いて来る。
足下で水が跳ね、スニーカーとジーンズの裾が濡れた。水飛沫の音がうるさい。見張りの兵士には聞こえていないはずだ。兵士の耳が遠いことを祈ろう。生きた心地がしないまま、僕たちは無事に向こう岸に着いた。
足を止めて休んでいる暇はない。黒い森の中を、僕たちは走り続けた。木立の向こうに、まばらに散った明かりが見えた。きっと街の明かりだ。森を抜けた僕たちは、一つの明かりの所に向かった。月明かりに照らされて浮かぶ尖塔。十字架が月を隠している。神に捧げられた教会だ。
門を開け、教会の敷地へ入る。シェダルが木製の扉を叩いた。内側で人の気配が動く。ゆっくりと、静かに扉が開かれ、一人のシスターが出て来た。彼女は僕たちを見ると、驚きに目を見開いた。
「……シェダル君?」
「お久し振りです。シスター・マリアンヌ」
「ここに来たということは……ご両親は――」
肩を落としたシェダルは、無言で首を振った。何てこと。呟いたシスターは、片手で口を押さえた。胸に提げていたロザリオを手に握り締めた彼女は、十字を切って祈りの言葉を唱えた。
「さあ、早く中にお入りなさい」
シスターが扉を開けた。揺らめく蝋燭の火が見える。僕は踏み出したけれど、シェダルは俯いたまま動かなかった。
「兄ちゃん? 早く中に入ろうよ」
「……僕は戻ります。シスター、弟をお願いします」
「嫌だ! 一人にしないでよ!」
僕は兄に掴みかかった。兄の両手が僕の肩を掴んだ。不思議な色の灰色の目が覗きこんできた。濁りのない、純粋な色の奥に、強く、揺るぎない決意が宿っているのを見てしまった。
「ごめんな、リゲル。僕には、やらなきゃいけないことがあるんだ。お前は強い子だ。僕がいなくても、生きていけるよな?」
無理だよと言いたかった。駄々をこねれば、兄を思い留まらせることができるのだろうか。無駄な足掻きだと思った。兄を引き止めることは不可能だ。逆に困らせてしまう。最後は聞きわけのいい素直な弟でいよう。涙を堪えながら僕は頷き、もう会えなくなるシェダルにしがみついた。
六つ年上の、優しくておとなしい兄。目の色は違うけれど、同じ髪の色の兄。この世でたった一人の血が繋がった家族。シェダルが僕の髪を掻き分け、額にキスをした。祝福と、惜しみない愛情がこもった口づけだった。兄が離れる。僕の掌に、彼の体温だけが残った。
「愛してるよ、リゲル。元気でな。強く生きるんだぞ」
深く一礼すると、シェダルは苦労して逃げて来た道を、引き返して行った。
兄の背中が見えなくなる。
視界から消えていく。
もう、我慢できない。僕の目に、涙の雨が降り注いだ。聞きわけのいい素直な弟という虚勢は、簡単に崩れ去った。やっぱり、シェダルがいないと無理だ。
「嫌だ! 嫌だよ! 兄ちゃん! 戻って来てよ! 一人にしないでよ! 兄ちゃん! うわああああぁんっ!」
手を伸ばし、僕は必死に叫んだ。
もう届かないとは分かっていても、
聞こえないとは分かっていても、
何か行動したかった。
でも、無駄だった。
手は空を切り、声は虚空に吸い込まれただけだった。
兄は、二度と帰って来なかった。
二度と――。
「こら――! またお前たちかっ!」
大勢の買い物客で賑わう商店街に、大音量の怒号が響き渡った。一軒の店が乱暴に開き、数人の少年が飛び出した。店主の追跡を振り切った少年たちは、路地裏に滑り込んだ。少年たちが、服の中に隠していた戦利品を地面に落とす。ジャムパン、クリームパン、クロワッサン、様々な種類のパンの山が瞬く間に完成した。
「お前ら、何個パクった?」
リーダー格の少年、ヨアキンが言った。くすんだ金髪と雀斑が特徴だ。二個、三個と少年たちが誇らしげに報告していく。
「リゲルは?」
俺は無言でシャツを捲った。軽く十個は超えるパンが地面に落ちた。ヨアキンたちは目を丸くして、俺とパンの山を交互に見つめる。あっちを見たりこっちを見たり、忙しい両目だ。
「すげぇな! 俺たちのグループに入って、何日目だっけ?」
「三日だよ」今日の俺は機嫌が悪い。素っ気なく答えた。
「次は明後日。トム爺さんの雑貨屋を強襲するぞ。爺さんは耳が遠いから楽勝だぜ」
集合場所を書いたメモ用紙を受け取り、俺はヨアキンたちと別れた。裏路地から大通りへ。通りを外れ、煉瓦で舗装された道を歩く。道は教会に続いている。正直言うと、教会には戻りたくなかったけれど、帰る場所がないから仕方がなかった。
兄と別れて一年。俺は教会をたびたび抜け出しては、街にたむろしている不良グループとつるむようになっていた。店の商品を失敬したり、壁に落書きしたり、子供じみた悪行を繰り返す日々。彼らは偉業を成し遂げたような顔をしているけれど、俺にとってはくだらない子供の遊びだ。そんなことで満足できるなんて羨ましいと思う。
鬱屈した感情を、どうやって発散したらいいのか分からなくて、苛々が足取りに表れた。小麦畑が左右に広がる道を、乱暴な歩調で歩く。夕焼けに染まった小麦たちが風に揺れ、黄金の波を作っている。綺麗な風景だとは思うけれど、絶景を愛でる心を俺は持ち合わせていなかった。
道の脇に子供が立っていた。小さな影が煉瓦の上に伸びている。また、あのガキかよ。俺の苛々は更に増大した。舌打ちをした。無視して通り過ぎよう。小さな手が俺の服を掴んだ。俺は仕方なく足を止めた。
「……何だよ」
無言で少女が俺を見上げた。シスターが心配してる。どうでもいいテレパシィが伝わった。心配させるつもりで教会を抜け出しているのだ。こんなチビに、とやかく言われたくない。裾を握り締める手を振り払い、俺は突き進んだ。俺の後を、風に吹き飛ばされそうな足音がついてくる。
「ついてくんなよ。鬱陶しい」
蹴飛ばしたい衝動が込み上げる。五歳のガキを蹴り飛ばすのはさすがに気が引け、俺は代わりに睨みつけた。効果はあった。足を止めた少女が怯えた表情を浮かべた。それでもめげずに後をついてくる。足止めするのは諦めたほうがいい。こいつを空気だと思うことにしよう。
煉瓦の道の先に教会が見えてきた。神に祈りを捧げる場所なのに、孤児院というもう一つの顔を持っている場所だ。白く塗られた壁は所々剥げていて、青い屋根は継ぎはぎだらけだ。
清く貧しくを絵に描いたような外観。今までよく生きてこられたものだ。尖塔の十字架が地面に影を作っている。開いた門の前に一人の女性が立っていた。教会の主、シスター・マリアンヌだろう。会いたくなかったのに、最悪だ。
「リゲル! 帰りが遅いから心配したのですよ!? 午後の礼拝にも出ずに、どこへ行っていたのですか!?」
「……別に。友達と遊んでたんだ」
「……また、あの子たちといたのですか? 彼らは悪い子供たちです。二度と会いに行かないと、約束しなさい」
「うるせぇよ! 母親面しやがって!」
稲妻に打たれたように、シスターの顔が強張った。血の気を失って真っ青に染まっている。立ち尽くす彼女の脇をすり抜け、俺は教会に飛び込んだ。軋む階段を駆け上がり、部屋に戻った。埃臭くて狭苦しいベッドに寝転ぶ。真っ黒な天井を仰いでいると、後悔が鎌首をもたげ始めた。
あの時、兄と一緒に行けばよかった。
なぜ、人は、過ぎ去ってしまってから後悔するのだろう。
ヨアキンたちと、トム爺さんの雑貨屋を強襲する日がやってきた。こっそりと事務室を覗き、シスターたちが仕事をしているのを確認する。窓の鍵を開け、黒塗りの窓枠に足をかけた。中庭にダイブしようとしたその時、勢いよく服が引っ張られた。邪魔しやがって。俺は肩越しに振り向いた。顔を顰めた少女が立っていた。
「……放せよ」
「だめ。また、悪い人たちのところに行くんでしょ?」
「ガキが偉そうに言うなよ。チクりたきゃチクれよ。俺は行くぜ」
掴んでいた手が離れる。非難の視線が背中に突き刺さるのを感じながら、俺は教会を抜け出した。朝と午後の礼拝なんて、鬱陶しくてだるいだけだ。祈りや賛美歌を捧げても、神様は助けてくれない。もしも、真心をこめて歌を歌えば、両親と兄を返してくれるのか?
しかし、本当に、あいつは鬱陶しい存在だ。死神のように、俺の側に纏わりついて離れないのだ。確か、名前はイリアだったか。数ヶ月前に勃発した、クルタナとアンティオキアの大戦で、クルタナ空軍に所属していたパイロットの父親を亡くしたらしい。
その後、母親も心労でこの世を去り、身寄りのない憐れな子供の一人として、ここに引き取られたのだ。同じように家族を失った俺に、シンパシィを感じたのかもしれない。何で、あのガキのことを考えているんだ。苛々を抱えながら、俺は集合場所に向かった。
「な? 楽勝だったろ?」
興奮で頬を紅潮させたヨアキンが言った。仲間の少年たちも、息を切らして同意する。いつもの裏路地。地上には戦利品の山。彼らは、思い思いに戦利品をポケットに突っ込んでいた。リゲルも取れよという声に曖昧に答え、俺はヨアキンたちと別れた。酒と煙草の匂いが俺を追いかけてきた。
教会に戻る気になれない俺は、あてもなく街を散策していた。気紛れな両足は、自然と大通りに向かっていた。耳障りな雑音が聞こえてきた。音の発生源を辿る。老人が一人、道端に積まれた樽の上に腰掛け、ラジオをいじっていた。雑音の発信源は、あのラジオのようだ。
「さっきからうるさいと思ったら……あんたのラジオの仕業かよ」
「おや、すまんの。不快じゃったか。こいつが言うことを聞かんのじゃ」
老人が顔を上げた。オイルか何かで汚れたツナギ。白く長い顎髭は、季節を間違えたサンタクロースみたいだ。マメだらけの手がツマミを回している。
「俺が直してやるよ。貸してみな」
ラジオを受け取り、俺は老人の隣に座った。彼から工具を借り、ラジオを解体した。どうやら、バッテリィと周辺の部品を結ぶ回路の接触が悪いようだ。ドライバーとペンチを駆使して、ひねくれた反抗期の機器を直した。蓋を閉め、スイッチをONにする。反抗期を乗り越えたラジオは、携帯電話を題材にした歌を歌い始めた。
「ほらよ。直ったぜ」
「なかなか器用じゃの。ほれ、お礼じゃ」
老人がツナギのポケットを漁った。金でもくれるのかと思ったけれど、差し出されたのは小さな飴玉だった。それも一つだけだ。せめて、三つぐらいくれてもいいんじゃないか。たかが飴玉。数が少ないぞと抗議するのも意地汚い。素直に受け取り、俺は老人と別れた。ラジオが歌うメロディを聞きながら、飴玉を口に放り込む。不思議なことに、オレンジの飴玉が、荒れていた俺の心を少しだけ癒してくれた。
理由は分からないけれど、老人のことが気になって仕方がなかった俺は、次の日も彼がいた場所に足を運んだ。もういないだろうと思っていたけれど、同じ樽の上に老人は腰掛けていた。俺に気づいた皺だらけの顔が嬉しそうに崩れた。久し振りに孫と会う祖父みたいな顔だ。
彼の手には、文字盤が飛び出た目覚まし時計が握られていた。俺に直せということか。俺は工具を受け取り、身体の一部が飛び出した目覚まし時計を修理した。ありがとうと彼が相好を崩す。昨日と同じ数の飴玉を受け取り、俺は老人は別れた。
次の日も、そのまた次の日も、俺は老人の所に行った。彼は俺にリモコンにDVDプレーヤー、ドライヤーなどの修理を依頼してきた。別に、煩わしいとは思わなかった。いつものように、俺は難なく機械の患者たちを治療した。全員無事に完治した。名医の俺が手術したんだから当然の結果だ。
「いつ見ても素晴らしいのぉ! 坊主、お前はいいメカニックになれるぞ」
メカニック――。
不意に、両親とシェダルの顔が蘇った。
記憶の中の彼らは笑っていた。
彼らは誇り高く、立派に自分の意志を貫いて生きたというのに、俺は何をやっているんだろう。
犯罪者みたいな行為を繰り返し、自分を育ててくれた人に暴言を吐いた。
強く生きるんだぞ。
シェダルが言った、強く生きろという意味は、こんな意味じゃないのに――。
ごめん。父さん、母さん。
ごめんな、兄貴。
俺――馬鹿だ。
本当に、大馬鹿野郎だ。
青い目から、大粒の涙が零れた。他人の前で泣くのは嫌だった。今まで築いていた虚勢という壁が崩れ、堪えていた感情の全てが爆発した。隣の老人が見ているのが分かる。泣き顔を見られたくなくて、俺は顔を伏せた。マメと皺だらけの手が頭を撫でた。長い歴史を生きた目が、俺を優しく見つめていた。
深い優しさを湛えた瞳。もう、堪え切れなかった。俺は思い切り泣いてしまった。そして、赤の他人である彼に、全てを告白した。堰を切って溢れ出す言葉と一緒に、心の奥底に沈殿していたものが流れ出す。俺は、心の叫びを誰かに聞いてほしかったんだ。
「……そうか。ご両親はアンティオキアの軍に連行されたのか――。さぞかし、腕の立つメカニックだったんじゃな」
「腕が立つだなんて、どうして分かるんだよ」
「お前を見ていれば分かるよ。ご両親の血が、脈々と受け継がれてるんじゃからな」
可哀想にとか、辛かっただろうとか、そんな類いの言葉は出なかった。下手な慰めや、偽善者のような同情はいらない。この男は信頼できそうだ。湿った空気を乾かすように、老人が話題を変えた。
「ワシはヴァルカン。ヴァルキリーという、飛行チームの整備士じゃった」
ヴァルキリーだって? 俺は驚いた。クルタナ空軍が世界に誇る、精鋭中の精鋭チームじゃないか。精鋭チームのメカニックを務めていたとは、凄腕の整備士だったのだろう。人は見かけによらないとはこのことか。
「だったって……過去形じゃん。辞めたのか?」
「ウム、まあ……いろいろあっての、引き止められたが、引退を決意したんじゃ。ワシみたいな老いぼれが居続ければ、若い者の活躍する場が減るじゃろうて」
ヴァルカンは悲しそうに、そして寂しそうに語った。知り合ったばかりだ。彼の過去を詮索する気はない。
「爺さんなら、まだまだ現役でやってけると思うけどな。なぁ、俺に整備の技術を教えてくれないか? 俺……親父や母さんと、同じ道を歩みたいんだ」
俺の中に、両親と同じメカニックになりたいという夢が芽生え始めていた。
今まで将来の夢を思い描くことはなかった。
自分と向き合おうとしなかった。
でも、俺は、俺と向き合って気づいたんだ。
両親の背中を追いかけたいんだ。
「フム……ワシの指導は厳しいぞ?」白い髭に埋もれた口が、嬉しそうに笑った。
「構わねぇよ! 上等じゃねぇか!」
「よかろう。じゃあ、明日――そうじゃな、昼の十二時半に、ここに来なさい」
ヴァルカンはツナギのポケットからメモ用紙とペンを取り出し、地図を描いて渡してきた。ありがとう。俺は久し振りに感謝の言葉を言った。彼と別れ、俺は教会に戻った。
オルガンの音色と、子供たちの歌声が、風に乗って聞こえてくる。中庭を回り、俺は窓越しに礼拝堂を覗き込んだ。どうやら午後の礼拝の最中のようだ。
貧しいにも関わらず、シスターと子供たちの顔は幸福に満ちていた。
歌は、もう、終わろうとしている。
俺は彼らから見えない位置に移動し、初めて賛美歌を口ずさんだ。
一夜明けた次の日。シスター・マリアンヌに行き先を告げるために、俺は彼女がいる事務室に向かった。もしかしたら、事務の仕事をしている最中かもしれないので、俺は静かにドアを開けた。おかしいな。シスター・マリアンヌの姿が見えない。入れ違いになったのか。俺は廊下に出た。しかし、姿は見えない。廊下の反対側から、洗濯籠を抱えたシスターが歩いて来た。彼女に訊いてみよう。
「シスター」
「あら。どうしたの? リゲル君」
「シスター・マリアンヌは? さっきから捜してるんだけど、どこにもいないんだ」
「マリアンヌ様なら、応接室にいらっしゃるわよ。お客様が来ているの」
「分かった。ありがとう」
俺にありがとうと言われた彼女は驚いていた。シスターと別れて応接室へ。来客なんて珍しい。清く貧しい教会に何の用なんだろう。応接室の前に到着した。ドアの隙間から、話し声が漏れている。来客は一人のようだ。少しだけ覗いてみよう。細心の注意を払いながら、俺はドアを半分だけ開けた。
焦げ茶色のテーブルに繊細なカップが置かれている。ソファには見慣れない若い男が座り、彼の正面にシスターが座っている。見慣れない男はかなり若い。二十代に入ったばかりだろう。横顔しか見えないけれど、男の容姿は嫌味なくらい端正だ。
会話の内容が耳に届く。どうやら、青年が孤児の子供を引き取りたいと言っているようだ。神妙な面持ちのシスター・マリアンヌ。入りづらい雰囲気だ。誰かに伝言を頼むか。俺は応接室を後にした。
教会を出た俺は、貰った地図を頼りに、彼がいる場所に向かった。曲がりくねった路地を抜けた先に、倉庫のような建物があった。「ヴァルカン・ファクトリー。何でも修理します」と書かれた看板が、高い壁の上に付けられている。ラジオすら直せないのに、大丈夫なのかよ。俺は呆れながらシャッターをくぐり、中に入った。
昼間なのに陰気で薄暗い。車の残骸やテレビ、いろんな機械や家電製品が所狭しと積まれている。客なんかいないだろうと思っていたけれど、何人かとすれ違った。客たちは一様に満足そうな顔をしている。結構繁盛してるんじゃないか。奥のカウンターに、ヴァルカンがいた。俺に気づいた目が、嬉しそうに細められた。
「ウッス。来てやったぜ、爺さん」
「ほっほっ。待っておったぞ。早速仕事じゃ。ほれ、あの車を直してみなさい」
ヴァルカンが指差した先には、廃車寸前の車が置かれていた。ボディは錆だらけで、バンパーも瀕死の状態だ。ボンネットは閉まらないのか、開きっぱなしになっている。
「うっわ。ひっでー。ボロボロじゃん」
「何じゃ? 怖気づいたか?」
「誰が! 見てろよ、新品みたいにしてやる!」
数時間の格闘の後、俺は見事に車を修理した。錆だらけだったボディとバンパーは、鮮やかな色を取り戻し、誇らしげに輝いている。シンデレラと魔法使いも真っ青だ。黒く汚れた顔で笑い、俺はヴァルカンに向けて親指を立てて見せた。
「おお、新品同然じゃの。ご苦労さん」
ヴァルカンはカウンターの奥にある冷蔵庫からコーラのボトルを出した。古ぼけた戸棚からグラスを手に取り、カウンターの上に置く。澄んだ音を立て、グラスに氷が投下。炭酸の泡に包まれた焦げ茶色の液体が注がれた。グラスを受け取った俺は、コーラを喉に流し込んだ。炭酸が口の中で花火のように弾けて消えていく。俺は空になったグラスを返した。
「もう直す物はないのか?」
「今日はここまでじゃ。無理をしてはいかん」
「また、来てもいいよな?」
「もちろんじゃとも。明日、また同じ時間に来なされ」
「ああ!」
それから俺は、毎日のようにヴァルカンの工場に通うようになった。自然とヨアキンたちとつるむことは減っていた。晴れない霧のように鬱屈していた感情や、行き場のない怒りは、嘘のように消え去っていた。これが、充実というものなのだ。ヴァルカンの厳しい指導の甲斐もあり、俺の腕は上達していった。
今日のノルマの修理を終え、仕事終わりのコーラを飲む。グラスに注がれたコーラを一気に飲み干し、口の中で弾けては消えていく炭酸の味を楽しんだ。
「リゲルや。お前にお客さんが来ているようじゃぞ」ヴァルカンが入口を指し示した。
「俺に?」
俺は首を捻り、入口を見た。青いネズミの縫いぐるみを抱き締めた少女が、室内の様子を窺っている。鳶色の髪と大きな瞳。イリアじゃないか。俺を追いかけて来たのか。
「イリアか? 入って来いよ!」
床に散乱している工具やガラクタの山を避けながら、イリアがこちらに歩いて来た。怯えて強張った顔を浮かべている。ずっと冷たくしていたから、無理もない。俺は慣れない微笑みを浮かべてみた。イリアの強張った顔が、少しだけ解れた。
「どうしたんだ? 何かあったのかよ」
「シスターがしんぱいしてる」
「またかよ。行き先は伝えたはずだぜ」
どれだけ心配性で過保護なんだ。呆れると同時に嬉しかった。心配されている証拠だから。
「今日は帰りなさい。心配をかけさせてはいかん」
俺はもう少し修理を続けていたかったけれど、ヴァルカンの言葉に素直に従うことにした。また明日来ればいい。イリアの手を引き、俺は帰り道を歩く。道の反対側から、少年たちが歩いて来た。くすんだ色の金髪の少年が、胸を張って先頭を歩いている。ヨアキンが率いる不良グループだ。面倒な奴らと遭遇してしまった。俺に気づいたヨアキンたちが近づいて来る。イリアを後ろに庇い、俺は立ち止まった。
「よぉ。久し振りだな、リゲル。最近、顔見せないじゃん? ガキ連れて、どこに行ってたんだよ」
「……お前らには関係ないだろ。そこ、通してくれないか?」
「今度さ、深夜のコンビニ行って、金でも奪おうぜ。実力もついたし、やれるぜ」
あまりにも幼稚な発想に、俺は呆れ果てた。もう、こいつらとは縁を切るつもりだった。いや、切らないといけない。
「俺、抜けるわ。お前らだけでやってくれよ」
ヨアキンの顔が引き攣った。すり抜けようとした俺たちの前に、少年たちが立ちはだかる。何の真似だ。俺は凄みを利かせて睨みつけた。一瞬、ヨアキンたちが後ずさる。だが、彼らは、尻尾を巻いて逃げなかった。安っぽい中古品のようなプライドがそうさせたのだろう。
「可愛い子、連れてんじゃねぇか。あ? 俺らにちょっと貸してくれよ」
ヨアキンがイリアを眺め回した。嫌らしい汚れた視線だ。縫いぐるみを抱き締めたイリアが震えた。
「へへっ。一回、ガキ相手にヤってみたか――」
駆け出した俺は一気に距離を詰めた。竜巻のように身体を捻り、強烈な回し蹴りをヨアキンの顔面に叩きこむ。電光石火の蹴りが、雀斑の浮かんだ間抜け面を粉砕した。フィギュアスケート選手顔負けのトリプルアクセルをしながら、ヨアキンの身体が宙を舞う。そのままゴミ置き場に突っ込んだ彼は、腐臭を撒き散らすゴミ山の中で失神した。
「うわあっ! ボス――!」
「てめぇ!」
「よくもボスを!」
ヨアキンの取り巻き――金魚の糞の少年たちが、一斉に飛びかかってきた。数分後、彼らは呆気なくヨアキンと同じ空を飛び、同じ軌跡を描き、同じゴミ置き場に不時着した。小刻みに痙攣を繰り返す奴らを、俺は冷酷に見下ろした。
「いいか!? クソ野郎ども! 金輪際、俺とイリアに近づくんじゃねぇぞ! こいつに手を出したら――ブッ殺してやるからな!」
はい、はい。蚊の鳴くような声の返事が返ってきた。こいつらは、本当に救いようのないクソ野郎だ。こんな奴らとつるんでいたと思うと吐き気がした。
一体、俺は、どこで道を間違えたんだろう。
両親と兄が作ってくれた道なのに――。
イリアの小さな手が、俺の手を引いた。
イリアの温もりが沁み渡る。
それは、暗闇の奥で揺らめく蝋燭の炎のように、心の奥を温めてくれた。
これから正しい道を歩けばいい。今からでも間に合うさ。
「かえろ。みんな待ってるよ」
天使のように無垢で無邪気な笑顔が俺を見上げていた。この世の汚れとは無縁の、真っ白な笑顔だ。俺はつられて微笑んだ。そして、誓った。この真っ白な笑顔を守ると。俺は小さくて軽い身体を肩車した。人形の丸い尻尾が、俺の背中に当たる。小さな悲鳴が上がった。
「イリア飛行士! 基地に帰還するでありますか?」
「きかんするであります!」
「了解!」
俺はイリアを肩車したまま、教会まで走った。
両腕を広げたイリアの翼が空を飛ぶ。
どこまでも広がる夕焼け空と、小麦畑の黄金色の雲が綺麗だった。
「爺さんもケチだよな。そろそろ新型のエンジンを作らせてくれてもいいのによ」
自転車を漕ぎながら、俺は愚痴を零していた。俺を運んでいる自転車は、メンテナンスをして綺麗になった物を、仕事の報酬として譲り受けた物だ。自転車で軽快に走っていると、一台の黒いBMWとすれ違った。この街には似合わない高級車だ。さほど気にも留めずに、俺は教会に到着した。
俺は教会の門を開けた。真っ先に出迎えてくれるイリアの姿が見当たらない。首を傾げつつ、礼拝堂や食堂、部屋中を見て回った。神隠しに遭ったみたいに、イリアはいなくなっていた。何だろう。嫌な予感が広がった。一周して礼拝堂に戻ると、シスターが立っていた。彼女は真っ直ぐに、聖者が磔になった十字架を見つめていた。
「シスター、イリアがいないんだ。どこに行ったんだ?」
シスター・マリアンヌが、ゆっくりと振り向いた。深い悲しみと寂しさを湛えた目が俺を捉えた。
「……あの子は、ここを出て行きました。引き取り手が見つかったのですよ」
「え……?」イリアは身寄りがなかったはずだ。「嘘だ。あいつには、身寄りがないって聞いた」
「イリアのお父様のご友人のかたが、彼女を引き取って育ててくれると仰ったのです。数週間前から、たびたびここを訪ねてくださって、話を進めていました。もちろん、あの子にも話しました。最初は戸惑っていましたけれど、快く承諾してくれました」
「……どんな奴なんだよ。そいつは」沸々と、怒りが込み上げてきた。
「ユグドラシル基地の指揮官のかたで、チームヴァルキリーの隊長です。まだ年若い青年ですが、誠実で信頼できる人ですよ。安心しなさい」
「安心できるかよ! 結局、大人の都合であいつを引き渡したんだろ!?」
「リゲル!」
俺は教会を飛び出し、門の前に停めていた自転車に飛び乗った。チームヴァルキリー。確か、ヴァルカンは、ヴァルキリーの専属メカニックをしていたと言っていた。俺は死に物狂いでペダルを漕ぎ、ヴァルカン・ファクトリーに戻った。乱暴に自転車を乗り捨て、俺はシャッターをくぐり抜けた。
「爺さん!」
首が折れた扇風機を直していたヴァルカンが振り向いた。つい今しがた帰ったばかりの俺が、再び現れたことに驚いているようだ。
「おや。忘れ物かね?」
「違うよ! あんたに、頼みがあるんだ!」
ガラクタの山を掻き分け、俺はヴァルカンに掴みかかった。
「爺さんは、ヴァルキリーにいたんだよな!? なら、コネがあるだろ!? 頼む! 俺を、ヴァルキリーに入れてくれるように頼んでくれ! このとおりだ!」
俺は汚れた床に手をつき、土下座した。灰色の床を見つめたまま、ヴァルカンの言葉を待った。ヴァルカンが目の前に屈みこむ気配がした。マメと皺が刻まれた手が肩に触れる。顔を上げなさい。静謐な声に従い、俺は顔を上げた。
「……何があったんじゃ? まず、訳を話しなさい」
「……イリアが、引き取られちまったんだ。引き取りに来た奴は、イリアの死んだ親父の友人で、ヴァルキリーの隊長だって聞いた」
白と灰色が混じった色の眉が微かに動いた。それに気づかずに、俺は話を続ける。
「だから、ヴァルキリーに入りたいんだ! イリアを独りぼっちにさせたくねぇんだよ! 頼むよ、爺さん! 隊長と知り合いなんだろ!? 頼むよ……」
ヴァルカンは石像のように動かず、重苦しい本のページのように黙っていた。冷蔵庫が唸る音だけが聞こえていた。
「……ヴァルキリーは、精鋭中の精鋭チームじゃ。かなりの高度な技術がないと、専属のメカニックチームには入れんぞ。何ヶ月、何年、下手をすれば、何十年もかかるかもしれん。生半可な覚悟では勤まらん。お前に、その覚悟があるのか?」
「……ああ。何だってやる。どんなことでも覚える。絶対に投げ出さない」
俺の紺碧の宇宙のような青い瞳の中に、強い意志を感じ取ったヴァルカンは、諦めたように肩をすくめた。やれやれと呟くと、彼は複雑な顔で微笑んだ。
「まずは、基礎中の基礎からじゃぞ? 飛行機を整備するのはそれからじゃ」
「了解!」
親父。母さん。兄貴。
俺は、もう、大丈夫だ。
もう、迷わない。
旅人を導く、道標の火を見つけたから。
『皆様、長旅お疲れ様でした。まもなくユグドラシル空港に到着いたします』
車内に流れたアナウンスで、俺は目を覚ました。カーテンの隙間から、太陽の光が差し込んでいる。座席の下に放り込んだ靴を履き、荷物を整理する。ブレーキ。急停止。バスが止まった。荷物を持って順番にバスを降りる。乗客全員を降ろすと、任務を終えた夜行バスは走って行った。
座席に座りっぱなしで硬直した身体を伸ばした。ストレッチを済まして鞄を肩に提げ、俺はタクシーを捕まえた。人が良さそうな中年の運転手に、ユグドラシル基地までと頼むと、快い返事が返ってきた。エンジンの音が車内に響く。いいエンジンですねと伝えると、バックミラーに映る運転手は、誇らしげに微笑んだ。
あれから半年。努力に努力を重ねた俺は、ヴァルキリーの専属メカニックチームの一員に選ばれた。史上最年少の快挙だと試験官に言われたけれど、正直言って、そんなものはどうだってよかった。
ただ、機械を整備するのが好きなだけだ。
妹のように大切な存在の、彼女に会いたいだけだ。
(イリア、きっと、驚くだろうな――)
愛らしい顔の驚く様が目に浮かぶ。
自然と微笑みが広がった。
道を照らしてくれる火は、誰だって持っている。
それを見つけるのが、難しいだけなんだ。
ゴーグルのレンズに、爽快な青空が広がった。