乾燥して干からびた白い陶器のカップに、琥珀色の液体が注がれる。恵みの雨に歓喜した白い湯気が宇宙に向かおうと上昇していったけれど、天井に阻まれていとも簡単に墜落した。華奢な取っ手を指に引っ掛け、琥珀色の液体を口に運ぶ。
 その辺の店で、適当に選んで買ってきた物なのに、淹れる人の腕で味が左右されるから不思議だ。俺の知るかぎりでは、彼女に敵う者はいないと思う。一気に飲むのはもったいないな。一口飲み、カップをコースターの上に置いた。
 向かいに座る彼女と目が合った。そして、彼女が微笑む。穏やかで理知的な笑顔は昔と同じだったけれど、笑うたびに目尻に深い皺が現れるようになっていた。年を取ったんだなと思った。それは仕方がないことだ。進み続ける時間を巻き戻すことは誰にもできないのだから。
「やっぱり、母さんの淹れる紅茶は、世界で一番美味しいよ」
「あら。いつからお世辞が上手くなったのかしら」
「本当だよ」
 俺は皿の上のクッキーを手に取り齧った。三日月のような痕跡が刻まれる。卵とバターをたっぷり使った、母さんお手製のクッキーだ。
「アッシュは元気? ……怪我をして、入院したって聞いたわ」
 エレノアの表情が曇り、湿った溜息が吐き出された。憂いを含んだ溜息は重く、宇宙にいくこともなく地上に留まった。彼女が心配するのも無理もない。息子同然に育てて来た大切な存在だから。
 俺は、アッシュに嫉妬していない。母さんは平等に愛を注いでくれたからだ。今は亡き祖父母も俺たちを慈しみ、愛してくれた。彼らがいてくれたからこそ、今の俺がここにいるのだ。
「元気だってソエルが言ってた。俺も、会いに行くつもりだよ。心配しないで」
「ごめんなさいね……あの子のことばかり心配して。体調はどう? おかしなところはない? 頭が痛いって言ってたわね」
 ソファから立ち上がった彼女が、こちら側に回って来た。白い手が俺の髪を掻き上げ、優しい温もりが額に触れた。熱の有無を確認するために、エレノアが額を合わせる。頭蓋骨の硬質な感触が伝わり、少し遅れて彼女の体温が伝わった。
「大丈夫。頭が痛いのは、昨日の夜更かしが原因」
「心配なのよ。貴方は――」途中まで言いかけたエレノアは口をつぐんだ。「大切な家族だから」
 言葉の綴りを変えたエレノアは微笑んだ。彼女が言おうとしたことは分かっていた。他の人とは違う。エレノアは、そう言おうとしたのだ。
 確かに俺は、他の人間とは違う。半分だけジェネシスの血を引いているのだ。大して意識したことはない。ただ、たまに、鳩が持つ帰巣本能みたいに、空に還りたくなるだけだ。遺伝子にプログラムされたマナがそうさせるとエレノアから聞いた。辛くはないといえば嘘になるけれど、オリジナルのアッシュはもっと苦しんでいるのだ。彼の痛みを思えば何ともない。
「明日、ユグドラシル基地に帰るのね?」
「うん。病院に寄ってから、基地に帰るよ」
「じゃあ、今夜はアレックスの大好物の料理を作るわ。覚悟しなさい。うんと太らせてあげるからね」
「楽しみにしてる」
 エレノアは微笑みリビングを出て行った。足音と鼻歌が廊下を遠ざかっていく。大きく息を吐き、俺はソファの背もたれに身体を預け、天井に描かれた名画の複製を視界に入れた。莫大な金を継ぎ込んで設計されたリビングは豪奢そのものだ。首を動かすと、壁に飾られた絵の中の人物と目が合った。
 象牙の杖に身体を預けた老人。鋭い眼光は隙を見せようとしない。世界樹を発見し、マナをエネルギーとして使う技術を編み出した男、ヴィンセント・フォン・アルジャーノン。言わずとも知れた、アルジャーノン家の創始者である。この男の多大な功績のお蔭で、アルジャーノン家は世界屈指の大富豪にのし上がったのだ。
「……確かに、貴方は凄い人だ。でも、貴方は世界中に争いを起こした。パンドラの箱を開けたんだ。俺は、アルジャーノンの名前には縛られないよ」
 俺に兄弟はいない。だから、長男である俺は、生まれた時にアルジャーノン家の跡取りという、息が詰まりそうな宿命を与えられたのだった。でも、跡を継ぐ気は毛頭なかった。世界樹を巡る愚かな争いをもたらした名前が疎ましかった。憎かった。地位と財産を兼ね備えた誰もが羨む名前なんて、今すぐにでもゴミ箱に捨てて、焼却炉で灰にしたい。
 絵の中のヴィンセントが、威嚇するように俺を睨んだような気がした。負けじと睨み返してやる。結果は俺の勝利。相手は額に閉じ込められた絵だから当然の結果だ。相手にするのも馬鹿馬鹿しい。豪華な額縁と一生仲良くしてればいい。いずれ、廃品回収に出してやるからな。
「アレックス」
 突然名前を呼ばれた俺は、驚いて振り返った。ソファの背もたれ越しに、エレノアが立っていた。チェック・シックスを怠っていた。戦闘機乗りは、常に六時の方向を警戒しなければいけないのだ。エレノアはソファの側面に回り込むと、優雅な動作で俺の隣に腰を下ろした。
「母さん。どうしたの? もしかして、料理に失敗したとか?」
 俺の軽口に、エレノアは否定するように首を振り、真摯な眼差しで俺を見つめてきた。
「悩みごとがあるのなら、隠さずに話してちょうだい」
「悩みごと?」俺の心拍数は一気に跳ね上がる。ポリグラフがなくてよかった。「悩みごとなんてないよ」
「本当に? 嘘は駄目よ。母さんには、全部分かるんだから」
 俺はフェイクの笑顔を浮かべ、エレノアを安心させようと努力した。彼女は諦めたように息を吐くと、ソファから離脱した。
「一人で抱え込むのは辛いことよ。話したくなったら、いつでも私に話してね」
 身体を折ったエレノアは、俺の頬にキスをしてリビングを出て行った。よかった。何とか上手く誤魔化せたようだ。顔を合わせただけで、息子が悩みごとを抱えていることに気づくとは。これが、親子の絆というものなのだろうか。
 大空は、特別な世界だ。
 自由を求める者だけが、空を飛ぶことを許される。
 地上のしがらみに縛られていては、俺たちは――パイロットは空を飛べない。
 今の俺は、重すぎる鎖に縛られている。
 あいつに対して抱いている、罪悪感という鎖。
 だから、今は、幻想の空を飛ぶことしかできないんだ。


「身体に気をつけて。これは私から。アッシュと基地の皆さんと、エリオット大尉によろしくね」
「うん。母さんも。じゃあ、行って来ます」
 お土産の詰まったヘビィ級の紙袋を受け取り、俺は母さんと別れのハグを交わした。長い廊下に並ぶ使用人とメイドたちは、俺とすれ違うたびに、「行ってらっしゃいませ。お坊ちゃま」と律儀に挨拶をした。その呼び方をされると未だに落ち着かない。大貴族の跡取りなんだから仕方がない。我慢しよう。
 屋敷を出て少し歩き、バス停へ向かう。丁度、病院行きのバスが到着するところだった。陽炎のように揺れながら、バスは道路を走る。戦闘機とは一味違う乗り心地が面白い。戦闘機とは違い、撃墜される心配がないから安心だ。
 アナウンスが次のバス停の名前を告げる。目的地の名前だ。俺は降車ボタンを押して止まったバスを降り、病院までの距離を歩いた。真っ白な病院が見えてきた。どうして、病院は白いんだろう。清潔さをアピールしているのか。疑問に思いながら、俺は院内に入った。
 受付でアッシュの病室の場所を訊き、エレベーターホールに向かう。エレベーターを待っていると、背後からいきなり肩を叩かれた。些か乱暴なスキンシップだ。正体を確かめるために振り向いた。
 俺の斜め後ろに、リゲルが立っていた。ツナギの代わりにパジャマを着た彼の姿は新鮮だった。重傷だと聞いていたけれど、元気そうじゃないか。自然と笑顔が浮かんだ。
「久し振りじゃん。元気だったか?」
「お前こそ。もう退院?」
「残念でした。退院は明日さ。アッシュに会いに来たんだろ?」
「うん。あ、そうそう。これ、母さんから」紙袋を漁り、俺は母さん手作りのクッキーが詰まっている箱を渡した。
「サンキュ」リゲルは慌てた様子で周りを見回している。チェック・シックスを守るパイロットみたいだった。「悪い! 俺、戻るわ。じゃあ、基地で!」
 片手を上げ、リゲルは素早く人混みに姿を消した。彼が立ち去るとほぼ同時に、恰幅のいい看護師の女性が現れた。Su27フランカー並みに逞しいボディだ。彼女は地面をしっかりと踏み締めた足取りで、俺の横を通って行った。頭から立ち昇る怒りの蒸気が見えたような気がした。
「まったく! フォーマルハウト君は、また病室を抜け出したのね!? 頑丈な鎖で縛っておかないといけないわね!」
 通り過ぎる際に聞こえた激怒の呟きを聞いた俺は、リゲルが何度も病室を脱獄している常習犯だと知り、悪戯小僧の彼らしいと笑った。音が鳴ってランプが点灯した。到着したエレベーターに乗り込み、五階で降りる。廊下を彷徨った末に512号室を見つけ、ノックをして中に入った。
 白い室内は小さな個室で、窓際のベッドにアッシュはいた。紫の双眸が俺に気づく。険しさが薄れた視線は、どことなく柔らかい。薄い唇に、ほんの少しの笑みが浮かんだ。
「……よぉ」
「見舞いに来たよ。怪我の具合はどう?」俺は荷物を置き、ベッドの側の椅子に座った。
「まあまあだな。一週間後には、退院できるってよ」
 サイドテーブルの上に、果物が盛られた器と、花瓶に飾られた花を見つけた。淡い水色の花だ。空の色を花弁に焼きつけたような色が綺麗だった。果物の山の中から林檎を手に取った。
 器の脇にナイフを発見した俺は服の袖を捲り、ナイフを握って林檎の皮を剥き始めた。雪の上を歩くような軽快な音が奏でられる。林檎の赤い皮が、スパイラルダイブのような螺旋を描いていく。
「お前、器用だな」アッシュは、少し感心しているようだった。「いい嫁になれるぜ」
「あのなぁ……それは、女の子に言うことだろ。その花、綺麗だな。誰かに貰ったの?」
「あぁ……まぁな……」
「ソエルだな?」紫色の目が二、三回瞬きした。図星のようだ。照れるアッシュが可愛い。「お前もやるなぁ〜」
「ファック! 勘違いすんなよ! たっ……隊長も一緒だった!」
「慌てちゃって、可愛いな」
 俺は中学生が友人と戯れるようにからかってやった。俺が皮を剥いている林檎みたいに、アッシュの顔が真っ赤に染まった。
「……退院したら、殺してやる」
「楽しみにしてるよ」
 皮を剥くと、薄い黄色の果肉がこんにちはと姿を見せた。林檎を半分に切り、ナイフで細工を施す。余った皮を耳に見立てた、愛らしいウサギの形をした林檎ができあがった。
「はい。ウサギさんの完成」
 ウサギに変身した林檎を皿に乗せ、フォークを添えてアッシュに渡した。アッシュは林檎をしばらく見つめていた。可愛いなとか、上手いじゃねぇかとか、褒められると思っていたけれど、彼はフォークを容赦なく突き刺し、林檎を口の中に放り込んだ。
 苦心して完成させた俺の処女作品は、ものの数秒でアッシュの身体を構築する、数十億個の細胞の栄養源になってしまった。芸術は爆発だと言うけれど、爆発する前に消失してしまっては意味がない。
「不味い。安物の林檎だ」
 言葉とは裏腹に、目は笑っている。素直じゃないな。俺は腕時計に視線を落とした。デジタルの文字盤を確認し、帰りのバスが来る時間と照らし合わせる。名残惜しいけれど、旅立ちの時が迫っていた。
「バスに乗り遅れるから、そろそろ行くよ。これ、母さんから。お前のこと、心配してたぞ」
「……エレノアさんは、元気か?」
「元気すぎて困ってるよ。じゃあ、基地で待ってるからな」
「ああ」
 お土産を渡し、俺は病室を後にした。
 アッシュは変わった。それは、きっと、ソエルと出会ったからだと思う。
 他人を拒絶する刺々しい雰囲気は、以前より薄れつつある。いつだったか。アッシュが基地のパイロットたちと、楽しそうに言葉を交わす場面を見かけたことがあった。
 俺以外の人間に心を開くことはなかったのに、あいつは笑っていた。
 いつの間に、あんな顔をして、綺麗に笑えるようになったんだろう。
 驚き、安心した。
 それと同時に、寂しくもあった。
 アッシュのことは、理解しているつもりだった。
 俺の知らないアッシュが――そこにいた。


 自ら宣言したとおり、一週間後にアッシュはユグドラシル基地に戻ってきた。
 俺たちは総出で彼を出迎え、食堂でサプライズの歓迎パーティーを開いた。大袈裟な接待に戸惑いながらも、アッシュは喜んで満足してくれた。少し痩せたみたいだったけれど、元気そうで安心した。
 ソエルと話しているアッシュを冷やかすと、思い切り脛を蹴飛ばされた。やっと、あいつが帰ってきた。そう思うと、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
 今日は非番の日だった。空に嫉妬している地上のご機嫌を取る日だ。前日から立てていた計画を実行するチャンスだ。朝食を終え、部屋に戻る。ノックをしてドアを開けた。ルームメイトのアッシュの背中が見えた。デスクを引っ掻き回し、中身を整理している。
「今、暇?」
「見たら分かる」
 忙しいに決まってんだろ。お前の目はクソが詰まった穴か。嫌なテレパシィが伝わった。
「ちょっと、出かけないか?」
「人の話、聞けよ。お前とか? まぁ……いいけどよ」
「サンキュ。格納庫に用があるから、基地の入り口で待っててよ」
 アッシュと別れ、俺は第一格納庫に行った。中を覗き込むと、整備士たちが忙しそうに動き回っていた。俺は背伸びをして、リゲルの姿を捜した。薄暗い格納庫で、彼の銀色の髪は、灯台の明かりみたいによく目立つ。すぐに、無造作に跳ねた銀色の頭を見つけることができた。
「リゲル!」呼びかけるとリゲルが振り向いた。「あれ、借りていいか?」
 片手を上げたリゲルは真っ直ぐに親指を立て、OKのサインを送ってくれた。俺は手を振り返し、外に出て、格納庫から少し離れた所にある倉庫に向かった。役に立つ物から立たない物が押し込まれている、魔法の建物だ。お目当ての物を見つけて引っ張り出す。それを引き摺り、アッシュの待つ入口ゲートに向かう。ズボンのポケットに両手を突っ込み、アッシュは待っていた。
「お待たせ」
「何だ、それ。もしかして――それで行くのか?」
「そうだよ」
 俺が倉庫から引っ張り出してきたのは、大型の二輪バイクだ。収集癖のある整備士が、ゴミ置き場から失敬してきたのを、リゲルが暇潰しにメンテナンスした物だ。何回か乗ったことはある。新品のバイクに劣らない走りだった。
「どこに行くんだよ」
「66号線を通って、海に行く予定」
 俺はバイクに跨り、アッシュに後ろに乗るよう促した。嫌な顔をしたアッシュは、野郎に抱きつく趣味はねぇよと言いつつ、渋々俺の後ろに跨った。フルフェイスのヘルメットを手渡したけれど、アッシュはいらないと突っぱねた。
「ノーヘル? 捕まるぞ」
「隊長が圧力をかけて、揉み消してくれるだろうよ。国の平和を守ってやってるんだ。ちょっとぐらい違反したっていいじゃねぇか」
「じゃあ、俺もいらないや。ああ、そうだ」
 俺は、愛用のミリタリージャケットを脱ぎ、後ろのアッシュに渡した。
「何の真似だよ」
「バイクに乗ってると、意外に寒いんだよ。お前が身体を壊したら、俺が隊長に怒られる」
「……ぶかぶか」
 ジャケットを着たアッシュが呟いた。袖がかなり余っていて、まさに男性用のカッターシャツを着た女の子だ。思わず笑いそうになり、アッシュに睨まれた。
「よし、行くよ! しっかり掴まってろ!」
 俺の背中にアッシュがしがみ付く。細く、日焼けしていない腕が、俺の腰に巻き付いた。
 エンジンを開くと、ゴミ置き場から拾われてきたバイクは、生意気にも軽快なエンジン音を響かせた。 警備員に挨拶をして、開けられたゲートを抜ける。
 籠から放たれた鳥のように、バイクは飛び立った。


 66号線の上空に広がる蒼穹の世界に浮かぶ真っ白な雲。
 彼らは時が止まったかのように動かないように見えるけれど、息を止めて凝視すれば、風の流れに乗り、ちゃんと動いていることが分かる。空ばかり見ていては危ないな。戦闘機に乗っていれば別だけれど、俺は今、バイクに乗っている。空とは違い、道路は障害物が多い。車と歩行者に、飛び出してくる動物たち。標識にも注意を向けないといけない。それに、俺の後ろにはアッシュがいるのだ。
 灰色の堤防の向こうに、果てしなく広がる海が見えてきた。バイクを路肩に寄せて停車。スタンドを立て、盗まれないようにキーでロックした。先に降りたアッシュは堤防の上に立ち、空と海を眺めている。俺も堤防に上がり、アッシュの隣に立ち、彼と同じ景色を共有した。
 堤防の下は黄土色の砂浜だった。隅のほうにテトラポッドが設置されている。静かに打ち寄せる漣。生命が生まれる予兆だろうか、海は宇宙の深淵のような深い青色に染まっていた。寄せては返す波の力で抉られた砂が、何かの暗号に見える。誰かが宇宙に信号を送るつもりで描いたのかもしれない。
「綺麗だな」
「ああ」
「アッシュ、その、チームを抜けるんだって? 隊長から聞いたよ」
「ああ。いろいろ考えたんだ。オレは……少し空から離れたほうがいい。エレノアさんに会いに行って、それから一人で旅をするつもりさ」
「……そっか。いつ行くの?」
「明日」
「随分急だな。ソエルに言ったのか?」
「言った。あいつ、泣きやがった」
 困ったような、それでいて心配しているような顔だ。溜息をついた彼は、濃紺の頭を掻いた。以前のアッシュならば、猛毒を含んだ侮辱の言葉を平気で言っていただろう。やっぱり、彼は大きく変わったのだ。
「……なぁ、アッシュ」
「何だよ」
「ごめんな」俺は唐突に謝った。眉を上げたアッシュが、俺に視線を向ける。
「は?」
「……俺ばっかり大きくなってさ。背も伸びたし、身体も重くなった。声も少し低くなった。お前より先に、成長しちゃったな」
 ジェネシスは、思春期を過ぎたあたりから、成長が止まるとエレノアが言っていた。彼女が投与してくれた薬のお陰で、俺は順調に成長していったけれど、反対にアッシュはほとんど成長しなかった。まるで時間に嫌われたみたいに。アッシュもそれなりに背が伸びた。声変りもした。でも、彼は四年前とあまり変わっていないのだ。偽善者でも、エゴと思われてもいい。とにかく俺は謝りたかった。
「ジェネシスは短命だ。ヒトの血が濃いお前は大丈夫だろうが、オレは――あまり、長くは生きられないと思う。そんなくだらないことで、いちいち謝るんじゃねぇよ。お前、オレが死んだらどうするんだよ。長生きしてごめんって、オレの墓の前で泣いて謝んのかよ。馬鹿じゃねぇの?」
「……でも」
「オレがいなくなっても、お前は、お前のままで生きろ。オレに縛られんな。お前の人生だ」
「そんなこと……言うなよ。寂しいじゃん……」
 座り込んだ俺は俯き、両目に涙を滲ませた。滲んだ涙は重力に魅了され、足元の灰色のコンクリートの上に落ちていった。幾何学的な染みが、浮かんでは消える。鼻を啜る俺の頭を、華奢な手が掻き回した。俺は顔を上げた。太陽の光と、俺を見下ろすアッシュの顔が視界に入った。困惑と心配が黄金比で混じった表情だった。
「……悪い。言い過ぎたな」
 泣くのは卑怯だと思った。アッシュを困らせたくないのに、思いとは正反対のことをしてしまう。
「ううん。俺こそ……ごめん」
 お互いに謝り、会話が途切れ、気まずくない心地良い沈黙が流れる。せっかく海に来たんだ。景色を楽しもう。海は底が見えるほど透明で、色とりどりの珊瑚と楽しく戯れる魚が泳いでいた。目を凝らせば人魚を見つけられそうだ。
 スカイブルーの空とエメラルドグリーンの海は、人間の手では作り出せない世界の遺伝子が生み出した素晴らしい景色だった。人類が足を踏み入れてはいけない聖域なのかもしれない。日が暮れ始める。気温も下がってきた。そろそろ基地に戻ったほうがいいだろう。
「さてと、そろそろ帰ろうか」
「大丈夫かよ」
「うん、平気」嘘をついた。これ以上、アッシュを困らせたくない。
 立ち上がった俺は身体を伸ばし、堤防から下りてバイクに跨った。エンジンを掛けると、待ちくたびれていたバイクは、拗ねた音を吐き出した。海を見たかったのか? ごめんな、またの機会にしよう。今度は二人きりで楽しもうか。
 帰りの風は、行きよりも冷たかった。日が少し傾いたせいだろう。昨日より気温が高い日とはいえ、さすがにジャケットなしでは寒かった。でも、構わないし気にならない。アッシュに風邪をひかせたくないから。
「おい!」風に負けないように、後ろのアッシュが大声で叫んだ。
「何!?」俺は肩越しに振り向き、すぐに視線を前方に戻した。
「オレに運転させろよ!」
「駄目だよ! 危ないって!」
 アッシュの申し出を、俺は一秒で却下した。事故を起こしたら大変だ。彼はヴァルキリーのエースパイロットなんだ。アッシュの代役は、誰にも務まらない。
「ファック! もっとスピード出ねぇのかよ!」
 後ろから身を乗り出したアッシュの手が、俺の脇の下から伸びてきた。慌ててその手を遮ると、悔しそうに舌打ちする音が、エンジン音に紛れて耳に届いた。バックミラーに唇を尖らせたアッシュが映った。
「アッシュ!」
「あぁ?」
「お前は、風みたいだよ。自由で、縛られなくて、いつでも空に近い場所にいる。俺は、お前の追い風になるよ。ずっと支えるよ! 俺は、ずっと、お前の親友だからな!」
 俺とアッシュは不思議な絆で繋がっている。それを言葉で説明するのは難しい。敢えて言葉にするならば、親友という表現が相応しいと思った。後ろのアッシュが顔を伏せた。
「……馬鹿。スーパーファッキン馬鹿」
「馬鹿だよ。人は、皆馬鹿さ」
「アレックス」
「ん?」
「……何でもねぇ」
 それっきり、アッシュは無言になった。
 ありがとう。呟きが聞こえたような気がした。
 空耳でも、幻聴でもいいさ。
 微笑んだ俺は、リクエストに答えてスピードを上げる。
 合図も目印もなしに、俺たちは出会った。
 必然でも、偶然でも構わない。
 見失ったら、また出会えばいい。不思議な絆があるのだから。
 風が合図を送り、目印になってくれる。
 バイクは風になり、66号線を駆け抜けて行く。
 少しだけ、心が軽くなったような気がした。
 今なら、自由に飛べそうな気がする。