少女の操縦する戦闘機が、透明な青空を縦横無尽に駆け回る。
 戦闘機とは言っても、それは本物ではなく、伯母に頼み込んで買ってきてもらった、プラモデルの戦闘機だ。たかがプラモデルと思うなかれ。ディテールは目が痛くなるくらい繊細で、細部まで忠実に再現されている秀逸物だ。
「えーいっ! インメルマン・ターン!」
 上昇。反転。ロール旋回で離脱。オモチャの戦闘機は、見事なインメルマン・ターンを披露した。病院の消灯時間の後、懐中電灯の明かりを頼りに戦闘機の本を熟読した結果だ。この腕前ならば、今すぐにでもエースパイロットになれそうだ。
「それは、ファイティングファルコンか?」
 金属が擦れる音が消えると同時に、凜とした声が響いた。振り向いた彼女の目に声の主が映る。輝く笑顔が少女の顔に浮かび、戦闘機のプラモデルを投げ出しそうな勢いで彼女は走った。発展途上の両腕を広げ、少女は彼に抱きついた。彼は背が高い。必死で背伸びをしても、彼女の頭は彼の肩に届かないだろう。しなやかな筋肉が波打つ。笑っているのだろうか。
 遥か頭上にいる彼を見上げると、予想は見事に的中した。端正な顔を柔らかく綻ばせ、彼は笑っていた。とても綺麗な笑顔だ。どうしたら、そんなに綺麗な笑顔を作ることができるのだろう。彼は戦闘機に乗り、大空を駆けているから、地上に沈殿している濁ったものに触れることが少ない。だから、綺麗な笑顔が作れるんだと思う。
「元気そうだな。それにしても、君はいつもここにいるのか? 俺が来るたびに、君がいるような気がするんだけど」
 鋭い洞察力に、彼女の心臓は飛び跳ねた。彼女が毎日のように屋上に来る理由はただ一つ。彼に会いたいからで、毎日決まった時間に彼が屋上に来ることを知っているからだ。彼は空を駆けるパイロットだけれど、今は怪我を負って空から離れているらしい。少しでも空と触れ合いたくて、屋上に来ているのだろう。
 彼と出会ったのは数日前のことで、病院の屋上から飛び降り自殺しようとしていた彼を、彼女が助けたのだ。刺激的な出会いだったと思う。短い会話を交わし、一緒に星を見て、彼女が憧れていたパイロットが、彼だということを知った。そして、新しい感情が、彼女の内側に芽生えたのだった。
「F16ファイティングファルコン」
「え?」
「君が持っている戦闘機の名前だ」彼がプラモデルを指し示す。「でも、真っ白なファルコンは珍しいな」
「買った時の色は灰色だったの。でもね、地味過ぎるなって思って、私の好きな色に塗ったのよ」
「器用なんだな。真っ白なファルコンも綺麗だよ。雲の中に溶け込みそうだ。それ、貸してくれないか?」
 彼の手が伸び、彼女の手に触れた。胃の辺りが締めつけられ、胸の奥がざわめく。頬が赤く染まるのを意識しながら、彼女はプラモデルのファイティングファルコンを彼に手渡した。ありがとう。彼が微笑む。心が蕩けそうな笑顔を簡単に浮かべるなんて、ずるいと思う。
 プラモデルを装備した左手が、大空に向けて掲げられ、回転したファルコンが螺旋状の軌跡を描く。戦闘機の本を読んだだけの彼女には、真似できない動きだ。さすがは英雄と謳われたパイロット。憧れの気持ちがますます大きくなった。
「これは、スパイラルダイブ。俺の得意機動なんだ」
「凄い! 私にも教えて!」
「もちろん。でも、その前に……敵に奪われた戦闘機を取り戻さないといけないぞ」
 純白の戦闘機を更に高く掲げた彼が笑う。子供の彼女は届かないと、明らかに知っている。
「もう! 意地悪!」
 逃げ回る彼を追いかけ、苦戦しながらも彼女は白い戦闘機を取り返した。いろいろな機動を教わり、日が暮れるまで、二人は屋上の海辺で遊んだ。空想の砂の城を作って幻の水を掛け合い、貝殻を集めて砂浜に文字を書き、宇宙に信号を送ってみたりもした。メーデー、メーデー、二人はここにいます。もちろん、返事は返ってこなかったけれど。遊び疲れた彼女と彼は、給水タンクのある高台に上り、地平線の彼方に沈みゆく太陽を眺めた。
「君の夢は、パイロットだったよな?」
「うん。そうだよ」
「どの戦闘機に、乗りたいんだ?」
「真っ白なファイティングファルコン。お兄ちゃんは、どれに乗ってたの?」
「俺は――」一瞬、彼の表情が曇る。「F/A18スーパーホーネットだ。今は壊れている」
「ねえ」
「ん?」
「明日も遊ぼうね。ここで待ってるから」
「明日……か」
 言葉を濁し、彼は黙り込んだ。夕日が染める横顔は暗く、長い睫毛の上に、憂いが降り積もっている。
「お兄ちゃん……どうしたの?」
「いや、何でもないよ。そうだな――また、会えるといいな」
 明日も会おうと彼は言わなかった。何とも曖昧な表現に、少女は首を傾げた。
「もう戻ったほうがいい。お母さんが心配するぞ」
「うん」
「さよなら」
「……さよなら。また、明日ね」
「ああ」
 さよならを告げる言葉が痛かった。さよならだけで終わらせたら、永遠に会えないような気がして、彼女は咄嗟に一言付け加えた。高台に佇む彼の背中を網膜に焼き付ける。名残惜しさを感じながら、彼女は病室に戻った。
 次の日、彼女はいつもどおりに屋上に行った。空を見上げながら彼の足音を待ち、彼が来るのを待った。でも、彼は来なかった。さよならが現実になってしまったのだ。泣いて、泣いて、泣き叫んで、彼はもう来ないと自分に言い聞かせ、彼女は部屋に戻った。
 彼は退院したと、担当の看護師から聞いた。それが彼がいなくなった理由だった。呆れるくらい、滑稽で、簡単な理由だった。病院に入院している患者全員に訪れることじゃないか。彼との出会いは夢だったんだ。気紛れな神様が創りだした、儚い夢だったんだ。
 白いファイティングファルコンに残された彼の温もりが、切ない感情を呼び覚ます。
 今、思えば、
 それは、最初で最後の、初恋だったのかもしれない。


「やだ! あと十分しかない〜!」
 昨日、徹夜で仕上げたレポートの束を脇に抱え、ソエルは死に物狂いで廊下を走っていた。クリップで留めていないレポートの束は落ち着きがなく、自分たちを拘束している腕から、逃れようと必死でもがいている。
 「廊下は走らない!」と堂々と大きく書かれた張り紙が目に入るが、悠長に守っている余裕はない。このレポートを講義中に提出しないと、卒業に必要な単位が取得できないのだ。おまけに、その大事な講義に遅刻しそうだ。いつの間にかうたた寝していた自分を叱ってやりたい。
 腕時計の文字盤に視線を落とし、現在の時刻を確認。このままのペースでいけば、講義に間に合いそうだ。でも、順調であればあるほど、どこかで狂いが生じるものだ。文字盤から視線を上げた時、ソエルは廊下の曲がり角から歩いて来た男性に気づいた。急ブレーキをかけるが、間に合いそうにない。ソエルは、勢いよく男性と正面衝突してしまった。腕から解放されたレポートが宙を踊り、雪のように降り注いだ。
「いたたぁ……。だ……大丈夫ですか!?」
 衝突した男性は、片手で頭を押さえていた。衝撃が頭蓋骨に響いたのだろう。大丈夫だ。彼が手で合図を送る。悪いことをしてしまったと思いつつ、ソエルは急いで散らばったレポートを集めた。衝撃から立ち直った男性も手伝ってくれた。何て心の広い人なんだと思った。愚痴の一つも零さずに、黙々と集めてくれている。
「これで全部だと思うが……確認してくれ」
 彼から手渡されたレポートは、見事にページ順に揃っていた。機械のような正確さだ。全部揃っていると伝えると、彼は頷いた。
「本当にすみませんでした! お怪我はありませんか!?」
「問題ない。大丈夫だ」
 近くで見ると、若い男性だと分かった。二十代前半だろう。長身痩躯で、コートの下に黒いスーツという服装だった。前髪の長い緑色の髪に、琥珀色の切れ長の目。そして、溜息が出るほどの、端正な顔立ち。雑誌のモデル? 航空学校にモデルとは、不釣り合いだと思った。雑誌の撮影でもあるのだろうか。それにしても、かなりの美青年だ。ソエルは思わず見惚れてしまった。
「……私の顔に、何かついているのか?」青年が眉を顰める。不快そうな表情だ。
「いっ――いえ! 何でもないです!」
「講義に遅れるぞ。急いだほうがいい。それと、廊下は走らないほうが賢明だ」
 青年が言うと同時に、講義開始を告げるベルが鳴った。講義が始まる時間を知っていたのか。それとも、未来予知でもしたのだろうか。詮索している暇はない。もう一度、お詫びとお礼の気持ちを伝え、ソエルは青年と別れた。コンパスのように真っ直ぐに伸ばされた背中は、廊下の向こうに消えていった。
 講義にも間に合い、レポートも無事に提出した。無事に単位を取得できることを祈ろう。退屈な講義を終えたソエルは、友人のミリーと学生食堂に向かった。学生たちで一杯の食堂は、サラリーマンで混雑している通勤ラッシュの駅みたいだ。運よく空席を見つけ、急いで席を確保する。ランチを購入し、空っぽの胃袋に栄養を補給した。
「ねぇねぇソエル。今朝、すんごいイケメンを見つけたのよ!」
「へぇ〜。どんな人?」
「学校の関係者じゃないと思うの。見たことがないもん。背が高くて、緑色の髪。細身のスーツがすっごく似合ってた! あれは、神クラスの美青年よ!」
 薔薇色に頬を染めたミリーが、身体をくねらせた。頭の左右で揺れている亜麻色のツインテールが、海中に漂う海藻に見える。ミリーは見目麗しい男性に目がなく、おまけに移り気で、山の天気のように好みのタイプが変わるのだ。
「え!? ミリーも見たの!?」
 トレイを抱えた女子生徒が話しかけてきた。セミロングの砂色の髪。ソエルの友人の一人、サラだ。
「サラも!?」
「うん。私、写真撮っちゃったもんね〜」
「うっそ! マジで!? 見せて!」
 サラが携帯電話を取り出した。今や生活の一部となっているスマートフォンだ。サラが画面を操作して写真画像を再生する。画面を覗き込んだミリーが嬌声を上げた。
「やっぱり超カッコいい〜! ねぇ、後でメールで送ってよ」
「ちょっと! 本人に無断で写真を撮るのって、いけないんじゃないの?」
 ミリーとサラの視線がソエルに突き刺さる。正しいことを言っているのに、非難がましい目で見るのは止めてほしい。
「堅いこと言わないの! ほら、あんたも美青年を拝んどきなさい!」
 ソエルの目の前に携帯電話が突きつけられた。仕方がない。二人に逆らうと後が怖い。ソエルは渋々画面を覗き込んだ。フラットの画面に映し出されたのは、あの時、廊下でぶつかった青年だった。
「この人……今朝、廊下でぶつかった人だ」
 ミリーとサラの天使のような顔が豹変し、醜く嫉妬する女の顔に変貌した。ミリーはプラスティックのスプーンで、ソエルの頬をつついてきた。そのスプーンでデザートを食べるのか。衛生的にどうかと思うのだが。
「な〜に〜よ〜! 廊下でぶつかったぁ!? 少女漫画みたいな出会い方じゃない! 恋に落ちたら、あたしたちが撃墜してやるからね!」
「落ちません!」
 腑に落ちない表情で、ミリーはデザートのプリンを食べ始めた。大体、あんな美青年と恋に落ちるわけがないじゃないか。高嶺の花だ。テレビドラマじゃあるまいし。恋に落ちたら奇跡だ。
「ソエル。次の授業は何?」
「え? えーっと……」鞄を漁り、ソエルは時間割を見た。「うわ。実技訓練だ。おまけに、複座型飛行機」
 複座型飛行機とは、座席が前後に並んだ機体のことを指す。簡単に言うと、二人乗りの航空機のことだ。教官が後ろに座り、ソエルの操縦技術を細かくチェックするのだろう。まだ訓練が始まっていないというのに緊張してしまい、栄養を補給したばかりの胃が軋んだ。昼休み終了のベルが鳴った。運命の時だ。
「頑張ってね」
「……うん」
 異なる授業を取っているミリーとサラと別れ、ソエルはハンガー内の救命装備室に走った。支給されているフライトスーツに着替え、教官の待つ滑走路に向かう。滑走路には、既に訓練用の機体が引き出されていた。白いボディの上面を深い赤色で塗装したT4――通称レッドスパロウだ。
 T4は、T33Aの後継機として開発された純国産の中等練習機で、国産のF3−IHI−30ターボファンエンジンを二基装備している双発機である。優等生のように素直な操縦特性と、良好な運動性能を有するほか、リングレーザージャイロ方式の姿勢方位基準装置や機上酸素発生装置など、開発当時としては、最新の装備を搭載しているのだ。
 機体の側に教官がいた。数人の整備士と会話をしている。教官がソエルに気づく。振り向いた彼は、ゆっくりと歩いて来た。ソエルは首を傾げた。見たことがない教官だ。ヘルメットとバイザーで顔が隠れているが、鼻筋の通った顔は若そうだ。
「クラスと名前を」
「はっ……はい! C4A、ソエル・ステュアートです! よろしくお願いします!」
「君を担当する、ファブレだ。準備は?」
「大丈夫です!」
「分かった。機体に乗り込んでくれ」
 機体は複座型には珍しい、座席が並列配置されているサイド・バイ・サイドだった。隣に教官が座るのかと思うと、ソエルの胃はまた軋んだ。操縦席に座り、ハーネスとベルトを締める。ファブレ教官も反対側から乗り込んできた。背が高いから窮屈そうだ。
 戦闘機の胴体内は、スペースが極限まで削られていて、コクピットといえども快適な空間が割り当てられているわけではない。狭い空間に必要な機器が効率的に配置され、そこに押し込められた飛行士は、黙々と作業をこなす。簡単な金属製のシート幅は、40から50センチ程度しかなく、パラシュート袋を座面に敷いたり、あるいは背負ったりして座るのだ。
「高度2000メートルを飛行して、シャンデル、ループ、スプリットSを実施。50キロ飛んだ時点で旋回。ここに帰還だ。いいな?」
「了解です!」
「機器の確認を」
「はい!」
 メデューサに睨まれた人間のように緊張しながら、ソエルはコンソールに嵌め込まれている計器類をチェックした。操縦桿。スロットルレバー。フットペダルも正常に動いている。パラシュート袋も座席の下にちゃんとある。燃料とマナも満タンだ。
「オールグリーンです」
「了解。離陸開始」
 スロットルレバーを押し上げる。
 エンジンが始動。
 車輪が回り、レッドスパロウが滑走路を走り出す。
 滑走路を走っていた機体が浮揚した。
 重力が手を伸ばし、T4を連れ戻そうと必死になっている。
 さようなら。
 レッドスパロウは翼を広げ、空に飛び立った。


 本日は晴天だ。フライトも順調で、目立ったトラブルも見られない。反抗期を乗り越えたのだろう。キャノピィの四方を、青い空と白い雲が優雅に流れていく。まるで、プラネタリウムを鑑賞しているような気分だ。ここは大空の上。誰にも邪魔はできない。
「綺麗……」ソエルは無意識に呟いた。すると、隣に座るファブレが顔を向けた。
「確かに、綺麗だな。君は空が好きなのか?」
「えっ!?」まさか話しかけられるとは想定していなかった。「はい。大好きです」
「パイロットを目指す理由を訊きたいのだが……支障がなければ教えてくれ」
「えっと……子供の頃に、テレビで見たパイロットに憧れて、それでパイロットになりたいって思ったんです。ありふれた動機ですみません」
「いや。分かりやすくていい。憧れたというのは、どんなパイロットだった?」
「五年前の大戦で活躍した「光の槍」です。画面一杯に映し出された銀色の機体がとてもカッコよくて……しばらく頭から離れませんでした」
「……そうか。だが、あまり美化しないほうがいい。理想と現実は、違うものだ。真実は時として残酷だ」
「……ファブレ教官?」
 ファブレの声は微かに震えていた。聴力が優れている者にしか分からない微細な震えだ。彼は左手で右腕を掴んでいた。強い力が込められているのだろう、頑丈なフライトスーツにきつい皺が寄っている。皮膚が破れ、血が流れてしまうぞ。
「……すまない、気にしないでくれ」
「はっ――はい。シャンデル、実施します。ナウ」
 シャンデルとは、機体を左右に45度前後に横転させてから操縦桿を引き、回転を半分行ったところで、機体を水平に戻す動作だ。この動作を行うことで、進路を180度転換することができるのである。次はループだ。水平飛行状態から操縦桿を引き、背面になるまで機首を上げ続ける。頂点に到達。再び水平飛行へ。最後はスプリットS。機体を180度横転させ、背面飛行になってから操縦桿を引き、進路を180度方向変換させた。
「もうすぐ50キロ地点だ。旋回の準備を」
「はい」
 高度を調整。エルロンとラダーを操作。機体を傾ける。その時、突然機体が失速した。そのまま徐々に旋転し始めた。エルロンも効かない。操縦桿を手放してみたが、旋転は続いている。
「えっ!? うそ、やだ! どうしよう!」
 遭遇したことのない事態に、ソエルは激しく動揺した。対処法が分からないのだ。
「落ち着くんだ。これはスピンと呼ばれる現象だ。まず、揚力を発生させなければならない。ゆっくりと速度をつけるんだ」
 北風のように凜とした声がソエルの心を静め、冷静さを与えてくれた。冷たさと厳しさの中に、優しさが混在している。頷き、ソエルはスロットルレバーを上げた。レッドスパロウの速度が増す。
「よし、それでいい。次は、旋転方向と逆のラダーを動かすんだ」
 機体は右に回っている。ソエルは左のフットペダルを踏み込んだ。回転速度が遅くなる。しばらくすると、回転が止まった。分厚いフライトスーツに包まれた背中を冷や汗が伝う。ソエルは安堵の息をついた。
「止まったようだな」
「はい。ありがとうございます。教官の指示のお陰です」
「いや、君が冷静に指示に従ってくれたお陰だ。訓練生の多くはパニックを起こすことが多い」
 軽く微笑むと、ファブレは視線を前方に向けた。彼に倣い、ソエルも視線を前方に集中する。ファブレがいてくれてよかった。自分一人だったら、確実にパニックになっていただろう。レッドスパロウを旋回させる。二人を乗せた機体は、無事に学校の滑走路に帰還した。
 窮屈なヘルメットを外し、新鮮な空気を吸っていると、ファブレが近づいて来た。彼は完璧な動きで敬礼をした。無駄のない動きに舌を巻き、慌ててソエルも敬礼を返す。
「ご苦労だった。怪我はないか?」
「はい! ありがとうございました!」
「君は、いいパイロットになれる」
「え?」
「君の活躍を、期待している」
 意味深な言葉を残し、ファブレは立ち去っていった。
 真っ直ぐに伸ばされた背筋。
 ジャイロコンパスのように、正確で狂いがない。
 遠くで、彼がヘルメットを取ったのが見えた。
 緑色の髪が、見えたような気がした。


 スピンという予想外のトラブルに見舞われたものの、実技訓練は何とか無事に終了した。次の授業まで、少し時間が余っていた。自販機でミルクティーを購入したソエルは、フライトで疲労した身体と神経を休ませるために、生徒たちの憩いの場である中庭に向かった。
 中庭の観光名物は、用務員の人が精魂込めて手入れした草花と中央の噴水で、陽光に照らされる水飛沫が、七色のプリズムを作り出している。まるで、宇宙で輝く星のようだ。色が変わるたびに、宇宙のどこかで新しい星が生まれているのかもしれない。
「あの人――」
 ソエルが廊下で衝突した青年が、中庭の一角にあるベンチに座っていた。彼はソエルに気づいておらず、信者が祈りを捧げるように俯いている。親しげに話しかけるか、それとも回れ右をして校舎に戻るか。迷いに迷った結果、ソエルは勇気を奮い立たせ、話しかけることにした。ゆっくりと距離を縮める。他人を寄せつけない空気を感じた。大丈夫だろうか。
「こんにちは。あの、今朝はすみませんでした」
 青年が顔を上げた。切れ長の琥珀色の目が動き、ソエルを認識しようと瞬きをする。ソエルを覚えていないかもしれない。最悪な出会い方をしたのだ。脳が記憶を消し去ってしまっているだろう。
「あぁ……君は、今朝の――」奇跡的に彼は覚えていた。「謝罪は必要ないと思うが」
「でも、謝らないと気がすみません」
「そうか……なら、謝罪の気持ちを受け取っておこう」
「ありがとうございます。隣、いいですか?」
 拒絶されるだろうと覚悟していたが、青年は頷いてくれた。彼は饒舌なタイプではない。静かな沈黙が流れる。まろやかな味のミルクティーを飲みながら、ソエルは横目で青年の様子をスパイした。青年は神のお告げを聞くように空を仰いでいた。彼が動く。お告げが聞こえたのだろうか。ソエルは慌てて眼を逸らした。
「実技訓練はどうだった?」
「え?」どうして知っているんだろう。本当に超能力者なのか。詮索は後だ。青年はソエルの返答を待っている。「あ、はい。何とか無事に終わりました。でも、飛行中にスピンして慌てました。ファブレ教官が指示を出してくれて、助かりました」
「スピンは失速が原因で起きる現象だ。機体に不備でも?」
「はい。後で聞いた話なんですけど、エンジンの最終チェックを、整備士さんが忘れていたそうです」
「整備士は、機体とパイロットの命を預かる立場だ。気を引き締めないといけない」
「誰にでもミスはありますよ。生きて帰れたんです。それだけでいいです。整備士の人たちがいるから、私たちは空を飛べるんです」
 何気なく言ったソエルの言葉に、青年は酷く驚いたようだった。何かを探るように、確かめるように、青年がソエルを見つめた。魂の奥まで見透かすような視線だった。彼は稀に見る端正な顔立ちだから、見つめられたソエルは動揺した。切れ長の両目を縁取る睫毛は、とても長い。何でそんなに綺麗なんだろう。嫉妬してしまいそうだ。
「そうか……そういう考え方もあるんだな。ありがとう。お陰で大事な決断ができそうだ」
「え? いえ、私は何も――」
「すまないが、教官室の場所を教えてくれないか?」
「教官室ですか? 西校舎の四階に上がって、廊下を真っ直ぐ行って、一番奥の部屋です」
「ありがとう」
 足下に置いていた鞄を肩に提げると、青年は木立の向こうに歩いて行った。
 教官室に何の用だろう。
 そもそも、彼は何者なんだろう。疑問だらけだ。
 考えていても仕方がないか。そろそろ授業が始まる時間だ。
 空になったアルミ缶をゴミ箱に投げ入れ、ソエルは教室に向かった。


『C4Aクラスのソエル・ステュアート。至急、教官室まで来なさい。繰り返す――』
 教室中に鳴り響く放送に驚いたソエルは、飲んでいたレモンティーを吹き出してしまった。彼女の向かいに座っていたミリーは、電光石火の素早さで椅子から飛び退き、噴射されたレモンティーを回避した。
「呼び出しじゃない。ソエル、一体、何を仕出かしたの?」
「……わかんない」
 呼び出された理由など思い当たらなかったけれど、真実を知るには教官室に行くしかないだろう。嫌々ながら立ち上がったソエルを見上げたミリーは、胸の前で十字を切ると、他人事のような笑顔を浮かべた。
「お疲れ様。あたし、先に寮に戻ってるね」
「……行って来ます」
 世界中の重力が結託してのしかかったように、ソエルの足取りは重く、廊下を踏み抜いてしまわないのが不思議だ。目線の先に、教官室と書かれたプレートが見えてきた。絞首台に続く階段を上るような気分だ。覚悟を決め、ソエルはドアをノックした。入室を許可する声を確認したソエルは、失礼しますと断り、教官室に入った。
「わざわざすまんね。座ってくれ」
「は……はい」
 促され、ソエルは革張りのソファに腰掛けた。呼び出されそうな理由を思い出してみようと、記憶の中を引っ掻き回した。もしかしたら、朝の講義に提出したレポートのことかもしれない。眠気と格闘しながら仕上げたんだ。酷い内容だったと自分でも思う。まさか、単位を貰えない? 留年決定だ。
「ステュアート君。君に、大事な話がある」
「……はい」もうどうにでもなれ。半ばやけくそ気味に、ソエルは返事をした。
「君は、ヴァルキリーという飛行チームを知っているかね?」
「え? は……はい。クルタナ空軍が誇る、精鋭中の精鋭チームですよね?」
「うむ。実は、ヴァルキリーを統率するエリオット大尉が、君をチームの一員に迎えたいと言ってきた」
「え?」
 教官の言葉を理解するのに、ソエルは数分の時間を消費した。凍結していた思考が動き出すと、事の重大さが分かり始めた。あのヴァルキリーの一員――卓越した腕を持つパイロットたちが集まるチームのメンバーになれる? 衝撃と興奮。相反する感情が襲いかかった。
「あ……あの……一体どういうことですか? どうして……私なんですか?」
「今日、エリオット大尉がここを訪れていてね。偶然、君の実技訓練を見ていたんだよ。パイロットとしての技術はまだ未熟だが、磨けばいいパイロットになれると言っていた。それを見越し、君をチームに迎えたいと、直々に言ってきたのだよ。詳しい話は後日改めて、ということになるが――構わないかね?」
「はっ……はい!」
「話は以上だ。ご苦労」
「分かりました。失礼します!」
 逸る気持ちを抑え、敬礼したソエルは、教官室を退出した。両足がスキップをしたいと訴えかける。それは駄目だ。廊下は学校を終えて帰宅していく生徒で賑わっている。今ここで踊ったら、変な目で見られてしまうのは確実だ。頭の回路がショートした、C4Aクラスのソエル・ステュアート。そんな通り名がつくのは嫌だ。寮に戻るまで、踊るのは止めておこう。
 階段の踊り場まで来たソエルは、階段を下りる途中で蹲っている人を見つけた。急病人かもしれないのに、通り過ぎる人々は無関心だ。誰かが助けてくれるだろう。そんな心理が働いているのだ。
「あの、大丈夫ですか?」
 ソエルの呼びかけに反応して顔を上げたのは、あの青年だった。青白い顔だ。激しい痛みを我慢しているように見える。
「君は――ああ、大丈夫だ」
 白い瞼が重く閉ざされ、唇が真一文字に結ばれた。どこが大丈夫なんだ。死にそうじゃないか。彼は右脚を押さえていた。もしかしたら、脚に大怪我を負っているのかもしれない。怪我を負った脚で階段を下りるなんて、無謀な人だ。
「私が支えますから、ゆっくりと下りてください。鞄も持ちますから」
「君の手を煩わせる気はない。大丈夫だ」
「駄目です!」ソエルは叫んだ。彼の切れ長の目が丸くなる。「人の厚意は、素直に受け取ってください!」
「……そうだな。すまないが、手を貸してもらっても構わないか?」
「はい!」
 書類の束が見え隠れする鞄を受け取ったソエルは、それを肩に提げた。立ち上がった青年の身体に腕を回し、彼を支えながらゆっくりと階段を下りた。最後の一段をクリア。二人は無事に地上に降り立った。
「ありがとう。君のお陰で助かった。今度から、人の厚意はできるだけ受け取るようにしよう」
「そうです。それがいいですよ」
 理由はなかったが、笑いたくなったソエルは笑った。ソエルの笑顔に釣られたのか、青年の端正な顔もほんの僅か微笑んだ。その顔で微笑みかけられたら、どんな女性も、女神の身も心も蕩けてしまうだろう。彼は自覚していないのだ。罪深いアポロンだ。
「何か、嬉しいことでもあったのか?」
「はい。私、チームヴァルキリーのエリオット大尉にスカウトされたんです! ヴァルキリーの一員になることが、子供の頃からの夢だったんです!」
「そうか。おめでとう。君には――白いファイティングファルコンが相応しいな」
「えっ?」
 皮膚の下の心臓が飛び跳ねる。確かにソエルは、数ある戦闘機の中でも、ファイティングファルコンが好きだ。ファイティングファルコンが好きだという人は星の数ほどいるだろう。だが、青年は「白い」と付け加えたのだ。子供の頃、パイロットになった時は、白いファイティングファルコンに乗りたいと教えた人がいる。どうして、彼が知っているのだろうか。
「君は、いいパイロットになれる。君の活躍を期待している」
 ソエルの脇をすり抜けた青年は、生徒の波に紛れていった。
 どこかで聞いた台詞。
 そう、訓練でファブレ教官が言った言葉だ。
 まさか――あの青年が、ファブレ教官?
 そして――あの時のお兄ちゃん?
 ドラマの脚本のように、でき過ぎた演出だ。
 偶然に決まっている。
 でも――。 
 彼とはまた会える。
 もしかしたら、同じ空を一緒に飛ぶことがあるのかもしれない。
 そんな気がした。
 廊下の滑走路をランディング。
 夢に向かって、ソエルは羽ばたいた。