神経質に時間を刻む音が鳴り響いている。誰にも止めることのできない無敵の音だ。マーブル模様の大理石でコーティングされた時計は嫌味なくらい正確で、迫りくる審判の時を確実に伝えている。ソエルを載せる革張りのソファの感触は冷たい。高級な物は全部冷たいのか。ソエルが抱える不安は更に増大した。
「……これ以上、私の服に皺を増やさないでくれるか?」
ソエルの隣に座っているノワリーが、溜息混じりに言葉を落とした。ソエルは手元を見下ろし、納得した。ソエルの右手が、糊の効いた漆黒の軍服の端を握り締め、そこを起点にして蜘蛛の巣みたいな皺が広がっていたのだ。操縦桿を握る時よりも力が込められていそうだ。
「でも、凄いですね。この花瓶、軽く数十万はしますよ。これって、税金で買ったんですか?」
「恐らく、そうだろうな。私腹を肥やすことしか頭にないのだろう。呆れた連中だ」
ソエルの向かいに座るアレックスは、緊張した様子を微塵も見せずに、マントルピースの上に並べられている調度品をしげしげと眺めている。長い腕と脚を組んだノワリーも、王者のように堂々としていた。ウサギのように怯えているのはソエルだけのようだ。鋼のように頑丈な神経が羨ましい。
「どうしてそんなにいつもどおりなんですか? 私たち、査問会にかけられるんですよ?」
「恐怖に怯えていては、彼らの嗜虐心を刺激するだけだ。落ち着いて、いつもどおり振る舞えばいい」
「……無理ですよぉ」
我ながら情けないと思うような声を奏で、ソエルはノワリーを見上げた。そんな顔で見ないでくれ。貴族のように洗練された端正な顔が、困ったように顰められる。ソエルの視線から逃れたノワリーは、正面に座るアレックスに救難信号を発信した。頷いたアレックスが信号を受信した。
「人っていう字を掌に書いて飲み込むと、気分が落ち着くよ」
「本当ですか? 人、人、人……」
これでもかというくらい掌に文字を書き殴り、ソエルは空想の文字を飲み込んだ。ソエルの奮闘を眺めていたノワリーが、呆れ果てた息を吐いた。
「真に受ける奴がいるか。迷信だ」
「隊長〜。硬いことばっかり言っているから、眉間の皺が増えるんですよ」
アレックスの言葉にノワリーは即座に反応した。切れ長の双眸に、稲妻の如く鋭い怒りが走る。
「……ここで査問会を開いてもいいんだぞ? アルジャーノン飛行士」
「じっ……冗談ですよ! やだなぁ!」
上ずった声を奏で、顔を引き攣らせながら許しを請うアレックスが可笑しく、悪いと思いつつもソエルは吹き出してしまった。そしてアレックスも笑う。二人の笑い声が混じり合い、応接室に漂っていた緊張を解きほぐしていった。恐らくノワリーは、ソエルの緊張を溶かすために、得意でもない冗談を言ってくれたのだろう。軽い音が響く。ノックの音だ。ドアが開き、知的な雰囲気の女性が入って来た。細いフレームの眼鏡がよく似合っている。
「エリオット大尉と部下のかたですね? 準備が整いましたので、会議室にご案内します」
女性の後に続き、ソエルたちは応接室を出た。陽光に彩られた長い廊下に足音が木霊する。会議室に近づくにつれ、息を潜めていた緊張が活力を取り戻し始めた。
あの夜の事件で重傷を負ったアッシュとリゲルが入院してから数日後、ソエルとアレックスとノワリーの三人に、空軍本部まで来るようにという内容の招待状が届いた。そう、三人は、恐ろしい査問会にかけられることになったのだ。
何も悪いことはしていないのにと、理不尽さに憤ったことを覚えている。上層部からの指示とはいえ、オペラたちは土足で他人の家に踏み込んで来たのだ。おまけにリゲルを銃で撃ち抜き、アッシュを海の底に沈めようとした。まずは、オペラが査問会にかけられるべきだと思う。
「……やっぱり、俺も怖いよ。飛べなくなるのかな」
「考えたくありませんけど……そうなるかもしれませんね」
「何も心配するな。私が必ず守る。大丈夫だ」
ソエルとアレックスの前を歩くノワリーが静かに答えた。一ミリの狂いもなく伸ばされた背中には、迷いも恐れも滲んでいない。目の前の現実に挑むように、歩みを進めているだけだった。
ついに審判の扉の前に辿り着いた。案内人の女性は一礼すると、来た道を引き返して行った。ノワリーがドアを叩き、返事が返ってきたのを確認してドアを開けた。息を吸い込んで勇気を奮い立たせ、ソエルたちは室内に足を踏み入れた。
豪奢な窓から差し込む陽光が床に影を落とし、焦げ茶色の机が楔型に整列している部屋の正面の壁には、クルタナ空軍の巨大なエンブレムが堂々と飾られていた。恐らく複製品だろう。エンブレムを背中に背負った軍の幹部たちが、思い思いの恰好で椅子に座っている。
彼らの制服の胸には、数えるのも面倒な量の勲章が着けられていて、誇示するように陽光に煌めいていた。幹部の一人が咳払いをした。
「では、これより査問会を開く。ノワリー・エリオット大尉。ソエル・ステュアート飛行士。アレックス・フォン・アルジャーノン飛行士。グランツ博士の報告書によると君たち三人は、彼女たちの任務遂行を妨害したと書かれていたが……事実かね?」
「否定はしません。しかし、妨害という表現は腑に落ちませんね。それに、私はともかく、ステュアート飛行士とアルジャーノン飛行士は、軍の規律に反するような行動はしていません。なぜ、二人を査問会に招集したのですか?」
「彼ら二人は特に反抗したからだと。博士に危害を加えようとしたと聞いている」
なんという出まかせだ。ソエルもアレックスも反抗した覚えはないし、オペラに暴力を振るった覚えはない。むしろ逆に、彼女が率いる兵士たちが暴力を振るったのだ。情報の信憑性を調査してから査問会を開いてほしい。抗議しようと口を開きかけたソエルを、ノワリーが止めろと目で制止した。言葉と悔しさを飲み込んで、ソエルは石像のように押し黙った。
「全ては私の指示による行動です。二人に罪はありません。処分は私だけで充分です」
椅子の向きを変え、顔を突き合わせた幹部たちが、秘密の談合を始めた。幽霊のような囁き声だけが聞こえている。
(エリオット大尉を解雇すれば、国民の支持率低下は免れないぞ。何せ、奴は英雄だからな)
(だが、ジェネシスを引き渡す気は毛頭ないだろう。いっそ、基地を潰してしまえば……)
(基地を潰せば国境の守りが手薄になるぞ! それに、ヴァルキリーにどれだけの予算を継ぎ込んだと思う!?)
(ユグドラシル基地を監視下に置いておこうじゃないか。エリオット大尉には、空軍の広告塔としての価値がある。解雇はできん)
(しかし……奴は頭が切れる。いずれ、我々に牙を剥くかもしれんぞ)
(輝かしい功績を持ち、容姿も申し分ない。国民から絶大な人気もある素晴らしい広告塔だ。手放すには惜しい存在だと思わないかね?)
「談合は、高級レストランでやってもらいたいものだな」
ブラックコーヒーのようなバリトンの声が響き渡った。皮肉と揶揄の響きが込められている。沈黙を守っていた幹部の一人が初めて声を出したのだ。男性は立ち上がると、真っ直ぐにノワリーを見つめた。ソエルとアレックスの存在など、全く眼中にないといった感じだ。
ノワリーよりも長身で、彼と同じ濃い緑色の髪。漆黒の軍服の下に、逞しい身体が息づいているのが分かる。甘さを削ぎ落した、鋭く精悍な顔立ちだ。
「エリオット大尉。報告書には、ジェネシスのことしか記載されていなかったが、事実か? 私は、ジェネシスとヒトの血を引く者がいると博士から聞いたのだが――」
男性の視線が動き、ソエルの隣に立つアレックスを捉えた。緊張のせいか、それとも真実が暴露されてしまうという恐怖のせいか、彼の肩が震えた。幹部たちがざわめく。この情報は知らなかったようだ。返答すべく、落ち着きはらったノワリーが、ゆっくりと口を開いた。
「彼女の空想上の話だと思いますが。聡明で知られる大佐が、お伽話を信じておられるとは驚きです」
「空想上の話ではないと私は思っている」
また幹部の男が咳払いをした。自分たちを無視しているのが気に食わないといった顔だ。にこやかな笑顔を浮かべているが、あれは作り笑いだろう。
「エリオット大佐。息子との会話は家庭でしてもらえるかね? ここは我々に任せてもらいたいのだが」
エリオット大佐が見下したような、蔑んだような笑みを浮かべた。
「任せる? 大尉を利用して甘い汁を吸っている、腐りきった貴様らに何を任せるというのだ?」
「大方、私を解雇せずにクルタナ空軍の広告塔として利用するつもりでしょう」
「ほほぅ……成程。よく分かったな」
「勲章を着けていれば、権力を手にしたと思い込んでいる腐った俗物の連中です。考えていることはお見通しですよ」
「ははは! 違いない!」
痛烈すぎる辛辣な言葉の応酬に、会議室の空気が一気に凍りついた。大佐の豪快な笑い声だけが木霊する。侮辱された幹部たちの顔が、みるみる真っ赤に染まっていく。とても際どい会話だ。恐れを知らない二人に感心し、同時に呆れてしまった。
「処分の内容は後日通達する。帰りなさい」
大佐の一言で、査問会は張り詰めた空気のまま終了した。三人は敬礼すると退出した。会議室の空気は汚く濁っていた。上澄みだけが偽物のように綺麗で、積み重なった欺瞞や傲慢さと負の感情が、泥よりも重く沈殿しているのだ。
「……俺の名前、出ませんでしたね」
ソエルの隣を歩くアレックスが、疑問の言葉を口にした。確かに、アレックスがジェネシスの遺伝子を持つ事実はオペラに知られてしまった。それなのに、オペラが提出した報告書には、ジェネシスとソエルたちの妨害工作のことしか書かれていなかったらしい。記載し忘れたということはあり得ないだろう。
「何か意図があるのかもしれない。気をつけろ」
閉めたはずのドアが開く音と共に、硬い足音が三人を追いかけてきた。足を止めて振り向くと、エリオット大佐が歩いて来るところだった。大佐は数歩離れた距離で歩みを止めた。自身に満ち溢れていて恐れを知らない、王者のように堂々とした雰囲気に圧倒されそうだ。
「査問会は終わったはずです。まだ、何か?」
「仕事の話ではない。五年振りに、親子の会話をしたいと思ってな」
「貴方の顔は見たくないと、あの時言ったはずですが」
「冷たいな」大佐は一度だけソエルとアレックスを見た。そして、ノワリーに視線を戻す。「しかし、壊滅したヴァルキリーを立て直すとは見事な手腕だ」
「貴方たち空軍が彼らを殺した。私はそれを忘れません」
これ以上、言葉を交わしたくない。ノワリーの表情がそう語っていた。普通の親子の会話らしくない会話だった。同じ型の遺伝子を持つ親子なのに、似ているようで似ていない、どこか歪な感じをソエルは覚えた。
「母さんが会いたがっている。なぜ、帰ってこない?」
「……帰る必要がないからです。では、失礼。行くぞ」
ノワリーに促され、ソエルとアレックスはその場を立ち去った。重い足音も、バリトンの声も追いかけてこなかった。空軍本部のビルから出た三人は、駐車場に停めてある車の所へ向かった。
「あの、隊長、エリオット大佐って……」
ソエルは運転席のドアを開けて乗り込もうとしたノワリーに質問した。肩越しに振り向いたノワリーは、複雑な表情を浮かべていた。
「クラッド・エリオット。……私の父親だ」
「五年も家に帰ってないんですか?」
「そうなるな。正確に言えば……十年は帰っていない。家出同然に飛び出したんだ。戻る気はない。さあ、基地に帰るぞ」
色々と訊きたかったが、ノワリーは詮索されるのを拒むように、素早く運転席に乗り込んだ。それに、訊ける雰囲気ではなかった。エンジンが叫び、タイヤが回る。三人を乗せた車は、ユグドラシル基地に向かって走り出した。
人間には、他人が深く足を踏み入れてはいけない領域があるのだ。
ソエルにも、アレックスにも、ノワリーにも。
誰にだって。
数日後、査問会の結果を書き記した封書がユグドラシル基地に届いた。ノワリーは戒告処分。ソエルとアレックスは二週間の間、パイロットの資格を剥奪されることになった。パイロットから翼をもぎ取るなんて、罪深い人間たちだ。
処分の内容に消沈していた時、光り輝く朗報が届いた。病院に入院しているアッシュの容体が、安定したと連絡がきたのだ。面会も許可された。思ったよりも早い回復にソエルは安心した。早速お見舞いにいかなければ。
「できたわ。うん、凄く可愛い」
櫛を握ったメアリィが、自らの仕事ぶりに満足して微笑んだ。マスカラやアイシャドウ、様々な化粧道具がデスクの上に整列している。メアリィに促され、ソエルは鏡の前に立った。鏡の世界に映し出された自分の姿に、ソエルは心底驚いた。
淡いピンクのチークでコーティングされた白い頬。頭の左上に結い上げていたポニーテールは、下ろしてヘアアイロンで緩いウエーブをかけてもらった。ナチュラルピンクのルージュを塗った唇は、リップグロスで愛らしく潤っている。生まれて初めてのメイクに戸惑っていたが、まさかここまで変身できるとは。メアリィの仕事ぶりは、シンデレラに登場する魔法使いよりも評価されるだろう。
「これ……本当に私ですか?」いつもと違う自分に胸が鳴る。「塗り過ぎじゃ……」
「これでも薄いくらいよ。いつもの髪型もいいけど、下ろしても可愛いわね。アッシュに会いに行くんだから、お洒落しないと駄目。これ、私からのお見舞い。手作りのアップルパイよ」
メアリィがリボンで結んだ箱をソエルに渡した。香ばしい香りが鼻をくすぐる。
「貴女たちがいない間、私がヴァルキリーを守るから安心して。それに、他のチームから応援が来てくれるって」
そうだった。ソエルとアッシュとアレックスがいないヴァルキリーでは、メアリィだけが唯一飛べる存在なのだ。彼女にかかる負担は大きくなるだろう。申し訳ない気持ちで一杯になった。
「……すみません」
「いいのよ、気にしないで。アッシュによろしくね」
「はい。行って来ます」
メアリィと別れて宿舎のロビィへ降りる。ロビィにはアレックスがいた。シンデレラのようなソエルの変身ぶりに、彼は驚きを隠せないでいた。
「あれ? ソエル?」
「はい。ソエルです」
「へぇ……雰囲気が全然違うなぁ。可愛いよ」
可愛いという言葉を躊躇いもなく口にするなんて、凄いなと感心した。同性に言われるのと、異性に言われる可愛いという台詞で感じる恥ずかしさはかなり違った。アレックスは旅行鞄を肩に提げていた。ジャケットのポケットから、乗り物のチケットが顔を出している。
「ご旅行ですか?」
「うん。一週間休暇を貰って、実家に帰ろうと思ってね。母さんとも会ってないし、心配してるだろうから。アッシュとリゲルに、よろしく言っておいてくれないかな」
「分かりました。お気をつけて」
「お土産、楽しみにしててよ」
ユグドラシル基地を一緒に出て、バス停でソエルはアレックスと別れた。彼を乗せたバスが地平線の彼方に走り去り、病院行きのバスが到着する。小刻みに振動するバスに揺られていると、アッシュに渡すお見舞いの品を買っていないことに気づいた。ソエルは慌ててボタンを押し、バスを降りた。
何度か訪れたことのある街を歩き回り、ソエルは交差点の向こうに一件の花屋を見つけた。レトロな雰囲気の小さな店だ。平日だから客は少ない。見覚えのある後ろ姿を見つけた。コートの下にスーツを着て、焦げ茶の鞄を肩に提げた、緑色の髪の長身の青年だ。花屋にいるとは珍しい。そっと側に行き、見上げた。ソエルに気づいていないノワリーは、白百合を眺めていた。
「こんにちは」
一声かけると、琥珀色の目がソエルを認識して瞬いた。一瞬、ノワリーの表情が強張った。
「……シルヴィ?」
聞き覚えのない名前を呼ばれ、ソエルは戸惑った。数秒後、人違いだとノワリーが気づく。
「いや、すまない。人違いだ。失礼だが、君は誰だ? 見覚えがないのだが……」
「私です。ソエルですよ」
不意打ちを食らったように、ノワリーの目が丸くなった。常に冷静沈着なノワリーがこんな顔をするなんて。カメラを持っていたら撮影したい。
「……ステュアート、か?」
「そうです。あの、私……そんなに変ですか?」唇を尖らせ、ソエルは拗ねた表情を作ってみた。
「そうじゃない。その……何だ……似合っていると言おうとしたんだ」
ソエルから目を逸らしたノワリーの頬は、ほんの僅かな赤色に染まっていた。ノワリーが照れている。ソエルはまたまた驚いた。冷静で完璧な隊長がこんな顔をするなんて。可愛いですよとからかったら怒られそうだ。
「病院からブルーの容体が安定したと連絡が入ったはずだ。なぜ、花屋に?」
「お見舞いの品を買い忘れちゃって、慌てて買いにきたんです。隊長こそ、お買物ですか?」
「ああ。病院に行くのなら、送っていくが――」
「え?」
「私では不服か?」
「いいえ! そんなことありません! お言葉に甘えます! じゃあ、早く選ばないと……」
「慌てなくていい。外で待っている」
白百合の束を手に取ったノワリーは、レジで代金を払うと外に出て行った。慌てなくていいと言ってくれたが、なるべく早く決めよう。長考に長考の末、ブルースターという花に決めた。花弁が五つに分かれた花で、空の色を写し取ったような水色が綺麗だ。花言葉は信じ合う心だと店員が教えてくれた。アッシュに相応しい花だと思った。
花屋を出て、ソエルはノワリーの姿を捜した。ノワリーはベンチに座っていてコーヒーを飲んでいた。丁度飲み終わったようで、空になったコップをゴミ箱に投げ入れると、ノワリーはソエルの側まで歩いて来た。通り過ぎて行く女性たちが、灼熱の視線を彼に注いでいる。携帯で写真を撮る者。見惚れる者。友達と歓声を上げる者。反応は様々だ。
「隊長って、凄いですね」
「凄い? なぜだ?」
「女の人たちが隊長を見てますよ。カッコいいって言ってます」
「馬鹿なことを言うな。私にそんな価値はない。行くぞ」
時折、嫉妬に似た刺々しい視線がソエルに突き刺さる。ソエルとノワリーがデートをしていると勘違いしてるのだ。難癖をつけられる前に離脱しよう。ソエルはノワリーに付いて行き、駐車スペースに停めてある黒のBMWに乗り込んだ。シートベルトを締めたのを確認したノワリーが車を発進させた。
華麗にターン。
車は道路をランディング。目的地は病院だ。
漆黒の機体はサイド・バイ・サイド。
地上のフライトが始まった。
「隊長も、病院にお見舞いですか?」
「いや。私用で街に用がある」
「私たちのせいで迷惑をかけて……申し訳ありませんでした」
「謝る必要はない。上層部に逆らったんだ。……覚悟はしていた」
一瞬、ノワリーの言葉が途切れた。それを聞いたソエルは、罪悪感が増大していくのを感じた。アッシュとアレックス、そしてヴァルキリーを守るために、ノワリーは上層部に反抗したのだ。彼がいなかったら、二人はどうなっていたのだろう。恐らく、軍の研究施設に連れていかれ、モルモットにされていただろう。
「ある程度だが、私は国民から支持されている。私を解雇すれば、軍の支持率が下がることを奴らは知っているようだな。下らないことに知恵が回るようだ。軍の飾りとして一生を過ごす気はないが……無駄な足掻きなのかもしれない。栄光など、脆く儚いものだ。私は翼をもがれ、片手と片足を失ったウサギだ。かつての英雄『光の槍』は、お偉い様に祀り上げられて、利用されているだけなんだ。……情けないな、本当に」
弱音に近い言葉がノワリーの口から発せられた。そんな台詞は耳にしたくなかった。青から黄色、黄色から赤へ。車は赤信号で一時停止する。歩行者が横断歩道を渡っていく。
シートベルトで固定されている身体を動かしたソエルは、ハンドルを握っていないノワリーの手に触れた。ピアノの鍵盤を優雅に弾いているのが似合う、繊細でしなやかな手だった。僅かに眉を上げたノワリーが横を向き、ソエルを見つめた。
「情けないなんて、言わないでください。隊長は英雄『光の槍』です。憧れているパイロットはたくさんいます。もちろん、私だってその一人です。辞めるなんて言いませんよね? ユグドラシル基地とヴァルキリーには、エリオット隊長が必要なんです」
信号が赤から青へ変わる。重なっていた手がそっと除けられ、ノワリーが前方に視線を戻した。
「隊長……」
「……辞めるつもりはない。安心しろ。ヴァルキリーは、私の大切なチームだ」
「……はい」
フロントガラスの向こうを見据えるノワリーの口元は、僅かに微笑んでいた。発信する車。見えてきたのは白い塗装の建物で、目的地の病院だ。正門をくぐり、敷地内にある駐車場へ。空いているスペースにBMWは滑り込んだ。ソエルとノワリーは車から降り、病院の中に入った。
ロビィは見舞客や患者たちで混雑していた。まるで、鍋で煮こまれているシチューの具材になった気分だ。ノワリーは待機。スクランブルが発令するまで動かないぞ。ソエルは受付に向かい、受付の事務員にアッシュの部屋番号を尋ねた。
彼女はパソコンのデータベースを開くと、笑顔で512号室だと教えてくれた。柱に背中を預け、ソエルを待っているノワリーの所へ戻る。街中と同じように彼は人目を惹いていたが、ノワリーは平然としていた。崇拝に近い視線など気にもしていない。きっと、慣れているんだろう。
「512号室が、アッシュ君の病室です」
「512か……五階だな。まだ時間がある。私も付き合おう」
「ありがとうございます。アッシュ君、喜びますよ」
「どうかな? 驚くと思うぞ」
長方形の鋼鉄の箱に乗って五階へ上昇。一定の感覚で並んでいるナンバプレートを確かめながら歩き、512号室を見つけた。どこかで聞いたことのある声が、ドアと壁の隙間から洩れている。静かにドアを開けて中の様子を窺うと、病室に銀髪の少年がいた。脇腹を撃たれたリゲルだった。アッシュとベッドの上に胡坐を掻き、彼とトランプをしている。悲鳴を上げたリゲルが髪を掻き毟り、トランプを空中にばら撒いた。
「くっそぉ〜! 何でババばっかり引いちまうんだよ〜!」
「それは、ババに愛されてるんだよ」
「うっし! もう一回だ!」
リゲルとゲームを興じているアッシュの表情は輝いていて、以前の彼には見られない笑顔が、溢れんばかりに零れていた。
「……二人は、重傷ではなかったのか?」
眉間に皺を寄せたノワリーが、苦々しく呟いた。苦味の裏に、元気な姿の二人を見て安心した響きが込められている。視線を動かしたアッシュが、ソエルとノワリーに気づいた。悪戯が見つかった子供のような表情を浮かべたアッシュは、手に持っていたトランプを投げ捨て、素早くベッドに潜り込んだ。背中を向けているリゲルはまだ気づいておらず、訝しげな表情で狸寝入りをするアッシュを睨んだ。
「何してるんだよ。勝ち逃げなんて、卑怯だぞ!」
「ファック! 馬鹿! 後ろを見ろ!」
「はぁ? 後ろ――?」
振り向いたリゲルの表情は一瞬にして変貌した。幸福の頂点から、絶望のどん底に突き落とされたような顔だ。厳しく睨む四つの目を見てしまったリゲルは、誤魔化すように引き攣った笑みを浮かべた。もう遅い。笑ったって無駄だ。覚悟しろ。
「……ソエルに……エリオット隊長……」
「元気そうで、何よりだ」
「あんなに心配したのに! 心配して損しましたよ!」
「コレには、深〜い訳があるんっスよ」
リゲルが言い訳をしようとしたその時、病室のドアが勢いよく開け放たれた。物凄い速度で、今にも地面と摩擦を起こしそうだ。ふくよかな体型の看護師が部屋に入って来て、室内を見回した。
鷹のように細められた鋭い視線は、リゲルの上で停止した。彼女は一歩踏み出すと、力強い足取りでベッドに突進して行った。戦車のような勢い。踏み潰されては大変だ。ソエルとノワリーは、慌てて彼女の進路から退避した。
「見つけたよ! フォーマルハウト君! まったく……すぐに病室を抜け出すんだから! 油断も隙もありゃしないよ!」
「いててて! オバちゃん! 耳が千切れちまうよ! 隊長! ソエル! 助けてくれよ!」
耳を掴まれたリゲルはベッドの上から引き摺り下ろされ、情けない声で助けを求めてきた。シーツから出て来たアッシュは、看護師の怒りの矛先が向かないようにおとなしくしている。お灸を据えてもらういい機会だ。ソエルとノワリーは、リゲルが発信した救難信号を無視することにした。
リゲルを捕獲した看護師は、目的を達成して出て行った。遠ざかる悲鳴。やがて悲鳴は溶けていった。ソエルとアッシュは笑いを共有し、ノワリーは呆れ顔だ。アッシュの笑顔が皮膚の下に消え、真剣な表情になった彼がソエルを見つめた。
「……ソエル。悪いけどよ、隊長と話がしたいんだ。少しでいい。二人きりにしてくれねぇか?」
余程、大事な話があるんだろう。分かりましたと承諾をすると、ありがとうの返事が戻ってきた。ノワリーを残したソエルは病室を出た。ソエルには聞かれたくない、聞かせたくない重要な話。きっと、アッシュの人生を左右する話なんだろう。
それならば、聞かないでおこう。
他人の人生に口出しする権利を持っているのは、人類を創造した神様だけだから。
ソエルが出て行き、ノワリーだけが白い部屋に留まった。アッシュの望みどおりのシチュエーションが完成したのだ。アッシュもノワリーも、テレビ番組の司会者みたいに饒舌じゃないから、しばらくの間沈黙が続いた。ノワリーはアッシュが話し出すのを待っているようだ。話があると言い出したのは自分なのに。どう切り出せばいいのか困り果てた。
「具合はどうだ?」ノワリーが沈黙を破った。鬱陶しい沈黙に痺れを切らしたのだ。
「あ? あぁ……もう平気だ。何ともねぇよ」
「そうか。安心した。皆、お前のことを心配していたぞ」
「隊長」
「何だ?」
「しばらく、ヴァルキリーを離れたい。許可をくれ」
「そう簡単に、許可は出せない。理由を訊きたい」
僅かに顔の角度を傾け、アッシュは真っ白なシーツに視線を落とした。ノワリーは待っている。催促する気はなさそうだ。彼ならば、世界が終わるまで待ち続けるだろう。言葉を綺麗に整理していたはずなのに、上手く出てこなかった。それでも伝えないと。抱えた思いは分かってもらえない。
「……今は、何とか地上に留まってはいるけど、このままじゃ、いつか……いや、必ず空で死のうとする。オレは……生きたい。ヴァルキリーのメンバーと、ソエルと空を飛びたい。だから、空から離れて、自分を見つめ直したいんだ」
白いシーツから離脱。視線を上昇。アッシュはノワリーの端正な顔を見つめた。この男は苦手だが、分かってくれると確信していた。腕組みをしているノワリーは黙っていた。感情の起伏が少ない彼は、何を考えているのだろう。
「お前は、ヴァルキリーのエースパイロットだ。正直言って、痛い話だな。だが、私は、お前の意思を尊重する。上に話しておこう。ただし、完全に回復してからだ。いいな?」
「……ああ。ありがとう」
やっぱり分かってくれた。理解してくれた。絡み合った腕を解いたノワリーが側に来て、白い手袋を嵌めた手が、アッシュの頭を優しく叩いた。アッシュは驚き、そして瞬きをした。見上げたノワリーは、優しい顔をしていた。こんな一面を隠していたなんて驚きだ。腕時計を一瞥したノワリーは、ドアに近づいた。ドアを開け、去り際に振り向いた彼は、綺麗な笑顔を浮かべた。
「私たちはお前を待っている。それだけは忘れるな」
軽く片手を上げると、ノワリーは出て行った。
短い言葉だったが、彼の優しさを感じ取れた。
見えなくなった背中に敬礼を。
決心が、より強くなった。
後は――彼女に伝えるだけだ。
きっと、泣くだろうな。
ソエルは、泣き虫だから。
廊下で待機していると、病室のドアがスライドして、アッシュとの会話を終えたノワリーが出て来た。ソエルの側までやって来た彼は、少しだけ名残惜しそうな顔をしていた。
「すまないが、私はこれで失礼する」
「付き合ってくださって、ありがとうございました。用事ですか?」
「ああ。婚約者の墓参りだ」
ノワリーの顔に、暗い影が浮かんだ。訊いてはいけなかったのかもしれない。
「……すみません。余計なことを訊きました」
「謝る必要はない。また、基地で会おう」
「はい」
ソエルの肩を叩いたノワリーは、エレベーターの中に姿を消した。ノワリーの背中を見送って512号室へ戻る。窓際のベッドにアッシュはいた。窓の外を眺めていた横顔が動き、静かな表情が微笑みを形作った。心が洗われるような気がして、ソエルも綺麗な微笑みを返した。
「……よぉ」
「お久し振りです」
「立ち話もなんだ。座れよ」
アッシュが顎で椅子を指し示した。ソエルは頷き、ベッドの側に椅子を引き寄せて座った。近くで見るアッシュの顔は、聖者のように穏やかだった。白い肌がより白い。少し痩せたんじゃないか。ソエルは鞄からラッピングされた箱を取り出した。メアリィからのお見舞いだ。少しでもいい。元気な顔を見せてほしかった。
「これ、メアリィさんからです。手作りのアップルパイです」
「へぇ……器用だな」箱を開けたアッシュは、感心したようにパイを眺めている。
「これは、基地の皆さんから」
四角い色紙には、面積一杯のメッセージが書かれていた。アッシュのために、基地にいるパイロットや整備士たちに頼んで書いてもらった物だ。中でも面白いのが、怪獣みたいに火を吹くアッシュの似顔絵だった。
「ファック。何だよ、この似顔絵。ちっとも似てねぇじゃねぇか」
不満を零しつつも、アッシュは嬉しそうに笑っていた。一番最後にとっておきのプレゼントを。ソエルは青い花束を渡した。
「私からです」
花束を受け取ったアッシュは目を細め、空の色を映した花を見つめていた。
「……綺麗な花だな。何て言うんだ?」
「ブルースターです。アッシュ君、青色好きかなって思って」
「大好きな色だ。そう言えば、アレックスは来てるのか?」
「アレックスさんは、実家に帰ってます。アッシュ君によろしくって」
査問会のことと、ソエルたちの処分のことは言わなかった。これ以上、アッシュに心配をかけさせたくなかった。
「……皆に、迷惑をかけちまったな」
「迷惑だなんて……そんなことないです」
会話が途切れ、沈黙が子守唄を歌う。カーテンが風にはためいて陽光の海を泳ぎ、白い波を描く。アッシュが正面からソエルを見つめた。紫色の瞳の奥に、強い決意の光が揺れている。
「……ソエル、オレは、しばらくチームから抜けようと思う。空から離れて、自分を見つめ直したいんだ」
彼の言葉にソエルは驚かなかった。アッシュがそう告げることを予感していたからだ。
「……はい」
「オレの中に眠るマナをよく知ってから、戻ろうと思う」
「……はい」
「今までのオレは、空に焦がれすぎて……苦しかった。自暴自棄になってたんだ」
「……はい」
「お前、何にも言わねぇのかよ。はいばっかりじゃねぇか」
「アッシュ君がそう言うの、分かってましたから」
「何だよ、それ」
「待ってます。アッシュ君が戻って来るまで、ずっと……」
ソエルは何も言えなかった。
涙で言葉が詰まり、出てこなかった。
何を話そうかずっと考えていたのに、人魚姫が泡になった時のように言葉が散っていく。溶けていく。三百年経たないと、散った言葉は帰ってこないのだろうか。
「……ファック」
アッシュが手を伸ばし、ソエルを引き寄せた。
華奢な身体が精一杯ソエルを抱き締める。
濃紺の髪が頬に触れ、
心臓の鼓動が伝わり、
溶け合い、
一つの音楽になった。
ゆるやかなアンダンテ。
空を飛んでいる時の風を切る音が蘇る。
「もう、空で死にたいなんて言わねぇから。待ってろよ」
「……うん」
耳元で優しくアッシュが囁く。
ソエルの背中を撫でる手は、雲のように柔らかい。
ソエルはゆっくりと目を閉じた。
閉じた目の中に、
大好きな、
澄み切った青空が広がった。
遥か頭上に広がるのは、スカイブルーの空。
その空を貫くように、一筋の飛行機雲が走っている。
アッシュは眩しそうに目を細め、蒼穹の空を見上げた。
「オレは必ず戻る。だから、それまで墜とされんじゃねぇぞ、ソエル」
アッシュは静かに呟いた。
その言葉が、今も空を駆けるソエルに届くと信じて。
呟きは風に乗り、空の向こうに飛んでいった。