白衣を着た集団が、病院の廊下を疾走していく。まるで医療ドラマのような光景だが、ドラマよりもリアリティに満ちている。併走する看護師の女性が、ストレッチャーに横たわるノワリーの意識を呼び覚まそうと必死に呼びかけているが、当然返事は返ってこない。血の気を失ったノワリーの蒼白な顔は、大地の底で眠る死者のようだった。
「心肺停止! AEDと緊急オペの準備を!」
 警報を発した医師がストレッチャーに飛び乗り、ノワリーの上に跨った。露わになった彼の胸に手を置いた医師は、全身の力を込めてバネのように身体をしならせ、心臓マッサージを開始した。看護師がAEDを手渡す。装置が素早く展開され、コードと繋がったパッドが、ノワリーの胸に貼り付けられた。
 電源ON。電流が流れ、ノワリーの身体が跳ねる。心電図のモニターに、小さな波線が現れた。マッサージを施していた医師の顔が、僅かに和らいだ。開け放たれた手術室のドアが彼らを飲み込み、その口を閉ざした。
 神に選ばれた勇者ではないソエルたちは、頑固に口を閉じたドアの前で待つしかなかった。慌ただしく駆け回る足音と、機材を設置する音に、指示を出す執刀医の声がドアの向こうから聞こえてくる。そして、赤いランプが点灯した。これから世紀のマジックショーが開催されるのだ。
 ソエルの身体は小刻みに震えた。望んでもいないのに、最悪のエンディングが脳裏に描かれ、そんなラストは嫌だと頭を振って追い払う。冷たいようで温かい、不思議な温度の手がソエルの肩に触れた。ヴァイオレットのスニーカーが、ソエルの靴の隣に並んでいる。ソエルの隣にアッシュが立っていた。沈痛な面持ちだ。それでも、彼は希望を失っていない。
「さっきも言っただろ? 隊長は……絶対に死なないってよ」
「……アッシュ君」
 ソエルの肩を滑った手は彼女の手と絡まり、力強く握り締めた。アッシュの声は、嫌味なくらい落ち着いていて、慈愛と冷酷の間を彷徨っているような声だった。ノワリーは必ず戻って来る。ただそれだけをひたすら信じているから、こんな音が出せるのだ。
 階段がある方角から、男性が走って来た。空軍本部に報告に行っていた、クラッド・エリオット大佐だ。着替える暇がなかったのか、真っ赤な血で染まった軍服のままだった。報告なんて後でいいじゃないか。融通の利かない幹部たちに腹が立つ。息を切らした大佐が、ソエルたちの前に立った。
「ノワリーの容体は!?」
「心肺停止で……手術中です……」
 何てことだ。クラッドが呆然と呟いた。敬虔な信者ならば、胸の前で十字を切り、神に祈りを捧げそうな悲痛な表情だ。鈍い音が廊下に響く。アレックスが壁に拳を打ちつけている音だった。何度も繰り返して同じ場所を殴り続けている拳は皮膚が裂け、血が滲んでいる。
「アレックス! 止めなさい!」
「血が出てるじゃねぇか! 止めろって!」
 メアリィの華奢な手が、アレックスの自虐行為を止めさせた。リゲルは彼の肩を掴み、理性を思い出させようとしている。多少の効果はあったようで、アレックスは拳を打ちつける動作を中断した。
「俺のせいだ……! 俺が勝手な行動を取ったから、隊列を離れたから、隊長は――!」
 冷たい壁に額を押し付け、顔を伏せたアレックスの口から、胸を締めつけるような嗚咽が零れ落ちた。ファック。ソエルの隣にいるアッシュが、紫色の視線を床に落とす。彼も責任を感じているのだ。
 重苦しい空気を切り裂くように、手術室のドアが開け放たれた。赤いランプは点灯したままだ。血塗れの手術着と手袋を装備した看護師が出て来た。
「出血が酷い状態で、輸血が必要です。エリオットさんの血液型は分かりますか!?」
 ノワリーの個人情報なんて、ソエルたちは知らなかった。ゴシップ記者みたいに詮索しなかったからだ。クラッドが進み出た。彼はダヴィテ像のように落ち着いていた。触れてみれば、大理石のように冷たいのだろうか。
「A型だ。私は彼の父親だ。私の血を使ってくれ」
「私もA型です! 私の血も使ってください!」
「分かりました。こちらへ」
 アッシュたちを廊下に残したソエルとクラッドは、別室に案内された。白いカーテンで区切られた部屋で、双子のベッドの真ん中に、輸血用の機械が設置されている。看護師に促され、二人はベッドに座った。左腕に針が刺さり、プラスティックのチューブが埋没する。機械の電源が入れられ、モーターが回るような音を立て始めた。血液がプラスティックのチューブを逆流していく。この赤い液体が、ノワリーの命の源になるのだ。また来ますと断った看護師は、足早に出て行った。
「……あれは……助かるだろうか」
 隣のベッドに腰掛けているクラッドが、雨粒のように呟いた。息子をあれ呼ばわりするなんて。ノワリーという素晴らしい名前があるんだぞ。彼に怒りをぶつけても、ノワリーを連れ去ろうと笑っている死神は追い払えない。ソエルは怒りを堪えたが、少しでも怒りを表現したかったので、強い眼差しでクラッドを見据えた。
「必ず助かります。隊長は強い人です。大佐、貴方は――隊長を息子として見ていないはずです。何で、世界樹に来たんですか? どうして、輸血を申し出たんですか?」
 呪われた化け物。アークでクラッドが放った残酷すぎる言葉を思い出したソエルの語気は、自然と強くなった。鋭い光を失った目が動く。まるで、切れ味の鈍ったナイフのようだ。表情と感情を隠すように、クラッドは片手で口元を覆い隠した。
「……ステュアート嬢。私は、ユグドラシル基地で聞いたノワリーの言葉が忘れられなかった。息子でなくとも、私を父親だと思っていると。私は、彼を愛することが怖かったのだ。だが、今は違う。ノワリーは私の息子だ。キメラでも、私の血と遺伝子を分けた息子だ。もっと早く気づくべきだった。もっと、早く――」
「……その言葉を、隊長に伝えてあげてください。きっと――待っています」
「……ノワリー」
 その言葉を最後に、クラッドは声を封印した。静かすぎる室内。回る機械だけが元気だ。輸血が終わり、ソエルとクラッドは、アッシュたちが待つ廊下に戻った。永遠に匹敵する時間が過ぎていく。点灯していた赤ランプがおとなしくなった。オペが終了した合図だ。
 手術室の封印が解かれ、静かにドアが開いた。ブルーグリーンの手術着を纏った医師が出て来てマスクを外し、予言者のように重苦しい表情を披露した。
「手術は無事に成功しましたが……依然、危険な状態で、恐らく今夜が峠でしょう。集中治療室に運んで様子を見るしかありません。何かあれば連絡しますので、連絡先を教えてください」
 差し出されたメモ帳に、メアリィがユグドラシル基地の電話番号を書き、クラッドは自分の携帯電話番号を書いた。ノワリーを乗せたベッドが運び出された。
 ノワリーの目は閉じられたままだった。雲のように真っ白な顔。はだけられた胸には、死と格闘した跡が刻まれていた。口を覆った酸素マスクが、生きるために必要な空気を肺に送り続けている。とても穏やかな顔だ。このまま起きないんじゃないかと、一瞬そう思ってしまった。
「先生! 隊長は……助かりますか!? 助かりますよね!?」
 医師が振り向く。彼は明言を避けるような表情で首を振った。
「それは――何とも言えません。私たち医師には、人の生死を決める権利はないんですよ。生きることを選ぶか、それとも死を選ぶかは、エリオットさん自身が決めなければいけないんです」
 到着したエレベーターに乗り、医師たちは集中治療室のある階に昇っていった。
 もしかしたら医師たちは、人間に化けた天使で、ノワリーを天国の門に連れて行こうとしているのではないか。
 あの白衣は、純白の翼を隠すためのフェイクなのかもしれない。
 そうだとしたら、その翼をもぎ取って、ノワリーの魂を奪い返してやる。
 飛んで逃げても無駄だ。
 ヒトにだって翼はある。
 機械仕掛けの翼に乗って、機関砲で撃ち墜としてやる。
 神様が見ているのなら、こう言ってやりたい。
 誰にでも生きる権利がある。
 私たちは、貴方の玩具ではないと。


 閉じていた瞼を、太陽の光が容赦なく貫いた。
 紫外線を含んだ光は、しばらく瞼の奥の暗闇に残光として留まっていて、あまりにも眩しいから仕方なく目を開けた。青と白が黄金比で混じった空は、人の手には負えない素晴らしい色だ。頭上にそびえる樹の上で、小鳥が軽やかに歌っていた。
(ここは……? 確か、私は……世界樹で撃たれたはず――)
 ノワリーは、横たわっていた身体を起こした。焼けつくような痛みは消えていた。ネクタイを緩め、シャツを開いてみると、左胸にあるはずの醜く抉れた銃創がなかった。見知らぬ場所にいる。傷もない。不可解なことばかりだ。
 ノワリーは遥か遠くに建つ門に気づいた。父と子と聖霊の似姿が精巧に彫られた門で、その色は一点の曇りのない純白だった。そう、ソエルの機体――アルヴィトのような雲に溶け込む色だ。しかし、門が守るはずの建物の姿がなく、門だけがそこに佇んでいるのだ。
 あの門をくぐりたい。抑えきれない衝動と興味が湧いた。見るかぎりり、呼び鈴のような物はないし、取っ手も付いていなかった。どうやら、自然に開くのを待つしかないようだ。きっと、聖者が内側から開けてくれるだろう。
 ソエルたちの安否が気になったが、今は扉が開くのを待ちたかった。時間の感覚はないに等しい。ノワリーは樹の幹に背を預け、小鳥の囀りに耳を傾けながら、門が開放する瞬間を待ち続けた。
「何をしているんだ? 坊や」
 不意に、斜め後ろから声が響いた。肩越しに振り向いたその瞬間、ノワリーの心臓は凍りついた。彼の斜め後ろに立っていたのは、六年前に空で散り、天に召された青年だった。病院で最後の別れを交わし、彼は星に還っていったはずだ。驚きを隠せないノワリーの様子を楽しんでいるのか、青年は快活な笑みを浮かべている。
「イージスさん……?」
「久し振りだな、坊や。しばらく会わないうちに、大きくなったじゃないか」
 ノワリーは立ち上がり、青年――ジェラルド・イージスを見つめた。焦げ茶色の髪と、精悍な顔を覆う無精髭。クルタナ空軍のパイロットスーツを着たその姿は、当然ながら六年前と同じだった。イージスは白い門に視線を向け、鳶色の視線をノワリーに戻した。
「あの門が開くのを、待っているのか?」
 喉が震えて声が出ず、ノワリーは頷くことしかできなかった。快活な笑顔は皮膚の下に埋もれ、生徒の悪戯を咎める教師のような、厳しい顔が浮かび上がった。
「駄目だ。あれは天国に続く門だ。向こう側に行ったら、お前のいる世界に戻れなくなるぞ」
 天国の門。だから、地上には存在しない崇高な美しさを感じたのか。魂が惹かれたのか。それならば、早く門をくぐりたい。向こう側にはシルヴィが待っている。優しく微笑んで、ノワリーを抱き締めてくれるだろう。
「……俺は、向こう側に行きたい」
「おいおい。馬鹿なこと言うなって。戻れなくなってもいいのか?」
「俺は、キメラと呼ばれる生き物――自然の摂理を無視した化け物なんです。生きていてはいけない存在なんです。それに……もういいんだ。ずっと、この時を待っていたのかもしれない。俺はあの時、皆と一緒に、空で死ぬべきだった。これで、やっと、皆の所に逝ける」
 大切なチームを残し、天国に旅立つことに罪悪感を感じたが、天国の門をくぐって神の懐に抱かれたいという思いが打ち勝った。あの時、空で失った、魂を分け合った恋人が待っているのだ。だから、旅立つことを許してほしかった。
「駄目だって言ってるだろうが!」イージスが、烈火の如く声を荒げた。鳶色の目の中で、怒りと悲しみが渦巻いている。「坊やには――俺の代わりに生きてほしいんだよ」
 その言葉を聞いた瞬間、ノワリーの感情は爆発した。
「貴方の代わりに生きろだって!? そんなこと、できるわけないじゃないか! 俺は貴方の命を、人生を犠牲にして生き延びてしまったんだぞ!? 本当は、イージスさんが生きるはずだったんだ! シエラさんとイリアちゃんと、幸せに生きるはずだったんだ! それなのに、あいつが――!」
「……親父さんを恨むな。ノワリーを失いたくなかった。だから必死だったんだよ」
「あいつは、俺から大切な者を奪ったんだ。それだけでは飽き足らず、翼までもぎ取ろうとした。そう簡単には……許せない」
 イージスの表情が変わった。晴天から曇り空へ。雷を伴った雨はまだ降っていない。
「じゃあ訊くが、どうしてあの時、親父さんを庇ったんだ?」
「それは――」
 イージスの質問に、ノワリーは即答できなかった。
 世界樹の中で、クラッドが狂気の科学者パスカルに撃たれそうになった時、気がつくとノワリーは、彼の前に飛び出していた。
 恨んでいるのなら、
 憎いのなら、クラッドの胸に銃弾が突き刺さるのを見ていればよかった。
 神様が天国から下界を見下ろすように、
 冷静に、
 冷徹に、
 彼の心臓に穴が空く工程を、見ていればよかったのだ。
 それなのに、
 どうして、俺は、
 彼の前に飛び出したんだ?
「本当は、親父さんを愛しているんだろう? だから、彼を助けたんだよ」
 イージスの言葉が、ノワリーが心の奥に押し込めていた感情を揺さぶった。否定しつつも信じたかった思いが、次々と溢れ出す。言葉の代わりに涙が流れる。止まらない。乾かない。涙を消し去る魔法の言葉が分からなかった。
「……俺は……大佐に……父さんに認められたかった。愛されたかったんだ。息子じゃないと言われても、キメラだと言われても……俺は父さんが好きだ。大好きだ。言いたいことが、たくさんある。話したいことが、たくさんあるんだ」
「そう思うなら、早く自分の世界に戻るんだ。坊やを待っている人がたくさんいる。俺の代わりに長生きして、俺の代わりに空を飛び続けてくれよ」
 イージスの双眸は、青空のように澄み切っていた。
 全てを失い、天国に飛ぼうとした時に出会った少女と同じ目だった。
 キメラだと知ってしまった時、また死を選ぼうとした。
 空に愛された少年に、空から逃げていると言われ、勇気を出して空と向き合った。
 そして、空と仲直りできた。
 生きる勇気を取り戻した。
 そうだ。
 あの時も、もう少し生きてみようと思ったんだ。
 曇りのない目が勇気をくれた。
 死ぬための勇気ではない、死なないための勇気を。
 生きていてもいいだろうか?
 風が揺れる。
 雲が動く。
 ほんの僅か、世界が頷いたような気がした。
「……約束します。イージスさんの代わりに生きて、空を飛び続けます」
 ノワリーがイージスに誓ったその時、黒い機影がノワリーの頭上を駆け抜けた。空を仰ぐと、菱形に編隊を組んだ七機の戦闘機が、燕のように優雅な軌跡で上空に舞い上がって行くところが見えた。先頭を駆けているのは、淡いオレンジ色に染め上げられたF14トムキャットだ。
 機体が一斉にフレアを放出した。
 オレンジの閃光が、流星群のように飛んでいく。
 編隊を離れたトムキャットが降下して、草地に侵入してきた。
 水平だった機首が左に傾き、90度バンクした。
 空気を切り裂くナイフエッジ。
 キャノピィは、ノワリーのほうを向いている。
 すれ違う瞬間、ノワリーはパイロットの姿を見た。
 ヘルメットも酸素マスクも装備していない、若い女性だった。
 ノワリーは彼女を見つめていて、彼女もノワリーを見つめていた。
「……シルヴィ」
 ノワリーは彼女の名前を呟く。
 翡翠色の目を細め、シルヴィは笑っていた。
 ノワリーも笑顔を返した。
 バンク角を維持した機体は、水平直線飛行を保ったまま草地を駆け抜けて上昇に入り、待機していた仲間と合流した。そして彼女たちは風になり、空の中に溶けていった。
「そろそろ俺も行かないとな。神様に怒られちまう」
「……イージスさん」
「じゃあな、ノワリー。今度こそ、本当にお別れだ。イリアを頼んだぞ」
 ノワリーの頭を叩いたイージスは、距離を置いて快活に笑った。
 輝くような笑顔の輪郭が、空気に滲んでいく。
 イージスは淡い緑色の燐光となり、空気に溶けていった。
 宇宙に、星に、還っていったのだ。
 寂しくはない。
 悲しくはない。
 いつか、きっと会える。
 彼の想いに応えるように、ノワリーは敬礼した。
 意識が遠のく。
 俺がいるべき場所は、ここじゃない。
 行こう。
 彼らの待つ、世界へ。


 電子音が、規則正しく脈を打っている。乱れもなくただ淡々と、機械に繋がれた青年の生体リズムを刻んでいるのだ。白い光がソエルの瞼を貫いた。カーテンの向こう側から差し込んでいる陽光のせいだ。どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。椅子に座ったままの姿勢で眠っていたから、身体の節々が痛かった。
 静かに病室のドアが開いた。病室の主に気を遣っているような開け方だった。飲み物の缶を持ったアッシュが入ってきた。いつもと同じ不機嫌そうな顔だが、わざとそう見せているのかもしれない。彼の紫の目は、ソエルと同じ感情の色に染まっていたからだ。
「まだ……目、覚まさねぇか?」
「……はい」
「ほら。これを飲んだら基地に帰って休め。一昨日からずっといるんだろ?」
「私なら平気です。アッシュ君こそ……休んでください」
 一昨日からずっといるのはアッシュも一緒だ。ソエルはミルクティーの缶を受け取って断ったのに、アッシュは、帰って休めと頑なに言い続けた。コーラの缶を開けたアッシュは、壁にもたれて茶色の液体を飲み始めた。どうやらユグドラシル基地に帰る気はなさそうだ。アッシュが投げたアルミの戦闘機がループを描き、病室の隅にあるゴミ箱に着陸した。
 ノワリーが銃弾に倒れてから、既に数ヶ月が経過していた。ノワリーは一週間もの間、集中治療室で昏睡状態に陥っていたが、奇跡的に容体が安定して、一般病棟に移されたのだ。それから一カ月。ようやく面会許可が下りた。それでも意識が戻らない状態だった。
 氷河の氷の色を焼きつけたような白い皮膚。空気を送る人工呼吸器と、酸素マスクの音だけが、虚しく響いていた。心臓の音が聞きたいのに、どうして聞かせてくれないんだ。
 自らの流した血で真っ赤に染まったシャツと、はだけられた胸に繋がった、医療機器のコードやパッドが痛々しい。ノワリーの全身に、無数の傷跡が刻まれているのに気づいた。現役のパイロットだった時に負った傷の名残だろうか。いつも身に着けている白い手袋も外され、あの機械の義手が見えていた。恐らく初めて目にしたのだろう。ソエルの説明を聞いたアッシュは驚いていた。
「……隊長は、傷だらけだったんだな」
 アッシュが静かに呟いた。顰められた眉と曇る瞳。ノワリーと同じ痛みを感じているような口調だった。他人と同じ痛みを感じられる人間は優しい人だ。一年前のアッシュがこの場にいたら、どんな顔をして、どんな台詞を口にするのだろう。
「痛みに耐えながら、オレたちを守ってくれてたんだよな。ファック。それなのに、オレたちは……オレは……いつも迷惑をかけてよ……最悪だぜ」
「私だって、同じです。ミスばっかりしていたのに、隊長は笑って許してくれたり、時には厳しく叱ってくれたり……いつも、私たちを見守ってくれていました」
 悲しみの土砂崩れで声帯が塞がり、ソエルは言葉に詰まった。声の代わりに嗚咽が漏れた。遺影の前でする、故人を称えるスピーチみたいじゃないか。ノワリーは眠っているだけで、死んではいないというのに。神は残酷だ。再び英雄から翼を引き千切ろうとしているのだから。
「隊長がいない空なんか……飛びたくないです」
「……オレもだよ」
 神様。
 お願いします。
 泣き虫のままで構いません。
 だから、彼を返してください。
 英雄を星座にしないでください。
 未来を生きる力をください。
 不意に、規則正しくリズムを刻んでいたモニターの波長に変化が現れた。低かった波が徐々に高くなっていく。ほんの僅かだったが、今まで全く動く意思を示さなかった手が動き、どんな鍵を使っても開かなかった瞼が開き、琥珀色の目が現れた。ずっと見たいと焦がれていた色だ。二人はベッドの側に行った。まだ意識が朦朧としているのか、瞬きをする目の動きは緩慢だった。
「隊長! ステュアートです! 分かりますか!?」
「オレだ! ブルーだ! 返事してくれよ!」
 ソエルは温もりを取り戻し始めた手を握った。握り返してきた力は弱かったが、彼が生きる力を失っていない証拠だ。酸素マスクに覆われた口が弱々しく動く。ステュアート、ブルー。二人の名前を呼んでいるのだ。妖精のような儚い微笑みが浮かぶ。お願いだから、ネバー・ランドに帰らないで。
「ソエルは医者を呼んでこい! オレはアレックスたちに連絡してくる!」
「はっ――はい!」
 ソエルに指示をしたアッシュは、病室を飛び出して行った。軽い足音が廊下を駆けて行く。ソエルはナースコールのボタンを押した。数分後、担当の医師と看護師が飛んで来た。モニターと医療機器をチェックしたり、触診したりと慌ただしくなる。彼らの邪魔をしてはいけない。廊下に出て待機したソエルは、アッシュたちを待った。
 一時間後、アッシュとアレックス、メアリィとリゲルが廊下を走って来た。本当ならば、病院では静かに行動しないといけない。今度から守りますと都合のいい言い訳をして、ソエルたちはノワリーの病室に戻った。
 意識を取り戻したノワリーは上半身を起こしていて、傍らに立った看護師の女性が、彼の身体からコードを外していた。質問をしながら、医師がカルテにペンを走らせている。少しの間だが、会話を交わすことを許された。会釈をした医師と看護師は出て行った。
 ソエルたちはベッドに身を預けたノワリーと向き合った。感動の対面だというのに、相応しい言葉が思いつかない。奇跡の生還を称える台詞が出てこない。何か言いたいのに、言わないといけないのに。言語中枢が壊れてしまったのか。もどかしいまま、許された時間が過ぎていく。ノワリーが笑う。そして、言葉が紡がれた。
「心配をかけて、すまなかった」
 その言葉を引き金に、ソエルたちの胸の中に押し込められていた感情や思いが爆発した。アッシュを残した全員がノワリーに向かってダイブする。一瞬、ノワリーが不意を突かれた表情になった。さあ、来い。彼は笑顔を浮かべると、挑むように両手を広げた。
 できるだけ傷口に触れないように、ソエルたちは英雄の胸に飛び込んだ。四人分の重みを受け留めたノワリーが、ソエルたちを抱き締める。笑って、泣いて、生きている喜びを分かち合った。
 ダイブを拒んだアッシュは、両手をポケットに突っ込んだまま、病室の隅で傍観者になっていた。不機嫌な顔だ。今度は演技じゃないようで、お気に入りのオモチャを横取りされた子供のように口を尖らせている。
 ソエルたちを解放したノワリーが両腕を広げた。しかしアッシュは動かない。アレックスが彼の後ろに回りこみ、そっと華奢な背中を押した。覚悟を決めた顔で、アッシュがベッドの脇に立った。紫と琥珀色の視線が宙で交差した。
「馬鹿野郎。……心配させやがって」
「お互い様だろう」
「……もう、本当に、大丈夫なんだな?」
「ああ。すまなかったな」
「オレたちは……オレは……あんたのいるヴァルキリーで空を飛びたいんだ。隊長と一緒に空を駆けたいんだ。だから――勝手に置いていかれたら、困るんだよ」
「ブルー……ありがとう」
 大空を愛し、ヴァルキリーを愛するアッシュの思いの全てが集約されていた。人と触れ合うことを苦手とするアッシュが勇気を奮い立たせ、広げられたノワリーの腕の中に入った。ノワリーがアッシュの背中を優しく叩く。過去と現在のエースパイロットの軌跡が交わった瞬間だった。
 アッシュが離脱する。彼の白い頬は赤く染まっていた。見るな馬鹿。鼻を啜りながらアッシュが顔を逸らした。泣いているのだ。明日は大雨が降るに違いない。
 ユグドラシル基地に戻る時間が迫っていた。ノワリーは昏睡状態から回復したばかりだ。無理をさせてはいけない。ノワリーはどこにも行かない。ユグドラシル基地で待っていれば、必ず会えるのだから。
「隊長。ユグドラシル基地で待っています」
 チームヴァルキリーのメンバーは、背筋を伸ばし、敬礼した。
 二度とできない最高の動きで。
 琥珀色の目が揺れた。
「……ああ。必ず、帰還する」
 表情を引き締めたノワリーが敬礼を返した。
 その顔は凛々しく、
 高潔で、
 まさに、「天空を貫く光の槍」そのものだった。
 やっぱり、光の槍は折れていなかった。
 誇りという光を失っていなかった。
 どんなに深い暗闇の中でも、
 彼がいるかぎり、チームヴァルキリーは迷わない。
 光の槍が、道を切り拓いてくれる。


 数週間の入院が必要だと医師は言っていたが、それよりも早く退院できそうだった。人間離れした回復力で、退院する許可を得ることができると、ノワリー確信していた。普通の人間ではあり得ない回復力だと言われた。医師は患者がキメラだということを知らない。そもそもキメラという存在すら知らないだろう。ノワリーは曖昧に笑って誤魔化した。
「……うん。もう大丈夫でしょう。傷口も塞がっていますし、体力も回復したみたいですね。退院の許可を与えましょう」
 聴診器を首から外した医師が頷いた。胸の傷の上に、新しい絆創膏とガーゼが貼られる。銃で撃たれた傷は綺麗に塞がっていたが、跡が残るだろうと言われた。全身傷だらけだから気にしていない。彼らを忘れないための傷で、彼らが生きた証なのだ。
 ノワリーは、担当医から手術を担当した執刀医の話を聞いた。銃弾は心臓から僅かに逸れていたらしく、あと数センチずれていたら確実に死んでいたようだ。ノワリーは左胸のポケットに指輪を入れていたことを思い出した。彼女が――シルヴィが助けてくれたのか。君を助けることができなかったのに。心が軋んだ。医師に指輪のことを訊くと、保管しているから退院する時に返してくれると言ってくれた。
「すみません」
 ノワリーは、去り際の医師に声をかけた。何でしょうと医師が振り向く。
「あの時は……ありがとうございました。俺のことを、ご存知ですよね?」
「ええ、もちろんです。驚いたな。僕のことを覚えていてくれたなんて。お元気そうで何よりです。お元気そうでって言うのも変ですよね」
「貴方に二度も助けられました。本当にありがとうございます」
「お礼なんていりませんよ。生きようとする人たちを助けるのが、僕たちの使命ですから。では、退院する時に会いましょう」
 気さくな笑顔を浮かべた彼は、頭を下げると出て行った。やっぱり彼だ。新しい手脚を与えてくれた医師だった。忌まわしい手脚だと、ずっと思い続けていた。けれど、この手脚がなければ、空を飛ぶことはできなかった。ソエルたちと出会うこともなかった。寂しがり屋の神様は、思いもよらない形で存在をアピールしたのだ。
 退院の日がやってきた。退屈で窮屈なドールハウスから逃げられる日だ。少ない荷物を鞄に押し込んでいると、ドアがノックされた。ヴァルキリーのメンバーだと思い、ノワリーは返事をした。すると、意外な人物がドアを開けて入って来た。来訪者はぎこちなく口を開いた。
「……元気か?」
「大佐……」
 クラッドの目は白い室内を一周すると、ノワリーのほうを向いた。接し方が分からずに困っているようだ。それは自分も同じだった。今まで親子らしい会話をしたことがなかったからだ。
「はい。これからユグドラシル基地に戻ります。心配をおかけしました」
 本当は、心配なんかしていないだろう。そう思いつつ答えた。クラッドが真っ直ぐにノワリーを見つめる。数十センチの所まで距離が縮まった。互いの間に緊張が走る。
「……私を恨んでいるか? お前から大切な者を奪い、翼をもぎ取った私を。キメラとしてお前を生み出してしまった私を――」
 イエスかノーか。ノワリーはすぐに返答することはできなかった。許したい。許せるものか。二つの相反する感情が、正義の女神が掲げる天秤の上で激しく揺れている。この世と天国の隙間で出会ったイージスに言った言葉を思い出すと、負の感情は波のように引いていった。波が引いた後に残ったのは、凪いだ海のように静かな感情だった。
「……恨んでいました。でも、私は――俺は、翼を取り戻しました。大切な人たちを見つけました。キメラでも生きていけると気づきました。あの時も言いました。息子として認めないと言われても、俺は――」
 逞しい腕が身体に巻き付き、気がつくとノワリーはクラッドに抱き締められていた。彼の黒い肩が震えていた。泣いているのだ。嗚咽に混じり、すまないという言葉の切れ端が聞こえた。後悔と懺悔の涙がノワリーの肩を濡らす。震える背中をそっと叩いたら、ますます震えが酷くなってしまった。
「ノワリー」
「はい」
「今度、母さんと三人で旅行に行こう。いろいろ話そう。共有しよう。私に父親らしいことをさせてくれ。お前は、キメラではない。私の大切な息子だ。……愛している、ノワリー」
 ずっと聞きたかった言葉が、
 ずっと待ち望んでいた言葉が、
 こんなに美しい響きだったなんて。
 魂が震えた。
 この素晴らしい響きを、返さないといけない。
「俺も、愛してるよ。……父さん」
 四角い窓の外を見上げた。
 広くても、
 狭くても、
 やっぱり、空は綺麗だ。
 いつだって、自由だ。


 宇宙が広がる遥かな高みまで空は青く染まり、白い雲が青い海をクロールして、世界の果てまで競争している。平和が訪れた世界を祝福しているように澄み渡った景色は、もう二度と、誰にも汚せないだろう。
 世界樹を巡る戦いから、はや数ヶ月が経っていた。アンティオキアは軍法会議にかけられた末、国際連合の手で解体されることに決まった。世界樹ユグドラシルは、ワールドエンドとともに霧の中に消えたままだった。二度と人類に姿を見せないのかもしれない。パンドラの箱は、永遠に封印されたのだ。
 暇を持て余していたソエルは、話し相手を求め、第一格納庫に向かっていた。予想どおり、シャッターの前に二人の少年がいた。アッシュとアレックスだ。何やら真剣に話しこんでいる。
「何で言わないんだよ。じれったいなぁ」
「うるせぇ。言えるわけねぇだろうが」
「したんだろ?」
「は?」
「だから、キス、したんだろ? キスしたんだから、言えるだろ」
「ファック! ちげーよ! アレは、その、人工呼吸だ! てゆうか、誰から聞いたんだよ!」
「アッシュ君。可愛い」
 次の瞬間、助走をつけて跳躍したアッシュの見事な飛び蹴りが、アレックスの背中に直撃した。盛大な音を立て、アレックスが地面に倒れる。仲が良いのか悪いのか。喧嘩するほど仲が良いと言うが、果たしてそれは本当だろうか。
「おはようございます」
「よぉ」
「お……おはよう……」
 背中をさすりながらアレックスが起き上がる。無事に起き上がれたところを見ると、脊椎に損傷はないようだ。損傷があったら大変だ。二度と戦闘機に乗れなくなるどころか、一生車椅子生活を送ることになるぞ。
 次いで豪快な欠伸をしながら、リゲルが格納庫から出て来た。いつもと同じ真っ黒のツナギ。一種のお洒落だろうか。彼に続いてメアリィも出て来た。呆れ果てたような表情を浮かべていたが、どんな顔をしていても、彼女は女神のように優しくて綺麗だった。
「おはようございます。リゲルさん、メアリィさん」
「ウ〜ッス。退屈すぎて死にそうだ」
「おはよう、ソエル。さっきから同じことばっかり言ってるの。機体の整備があるじゃない」
「クソみたいにやったぜ。新品みたいっスよ。何かさ、エリオット隊長がいないと、気が引き締まらないんだよなぁ」
「隊長、いつ帰って来るんでしょうね」
(……またそれかよ。これで二十五回目だぜ)
 アッシュの心の中で不満が爆発した。爆発の余波がアレックスとリゲルに伝わってしまったようで、二人の悪戯小僧は神経を逆撫でするような、非情に腹立たしい笑みを浮かべていた。脚を振り上げてローキックの天罰を。アッシュに脛を蹴飛ばされた二人は、ウサギみたいに飛び跳ねていた。
「二週間の家族旅行か。いいなぁ。俺も母さんと行きたいよ」
「行って来い。二度と帰ってくんな」
「酷いこと言うなよ!」
 そう、ユグドラシル基地にノワリーはいない。解雇されたわけではないし、自ら依願退職したわけでもない。二週間の休暇を申請し、家族旅行に行っているのだ。きっと、今頃は、家族と思い切り語り合っているのだろう。嬉しそうに笑うノワリーの顔が目に浮かぶ。本部からノワリーの代わりを務める指揮官が来ているのだが、リゲルの言うとおり、厳しい彼がいないと、何となく調子が出なかった。
「今から暇じゃなくなるわよ」
 艶やかな声が響き渡る。クルタナ空軍の軍服を自分流に着崩したオペラ・ド・グランツが、ハイヒールを鳴らして闊歩して来た。グラマラスな身体のラインが見事に表れている。彼女がノワリーの代わりに赴任して来たのだ。
「……出た。妖怪厚化粧年増女」
 顔を歪めたリゲルが、排気ガスみたいな声で呟いた。オペラの完璧なメイクに亀裂が走る。鞭が転がっていたら、彼女はそれを拾い上げ、迷いなくリゲルの背中を打つだろう。
「……何ですって?」
「何でもないっスよ! いつも綺麗だなぁって思っただけっス! じゃあ、整備の続きがあるンで!」
 爽やかな笑顔で上手く誤魔化したリゲルは、格納庫の中に退避した。まったく。オペラが呆れて溜息をつく。気を取り直した彼女は振り向いた。アイラインを濃く描いた青い目が、ソエルたちを見つめた。
「ソエル。ノエル君のヴァルキリーへの異動が、正式に許可されたわ」
「えっ!? 本当ですか!? いつ会えますか!?」
「今週中には会えるわ。これから忙しくなるわよ。国籍不明の戦闘機が、クルタナの領空を徘徊していると情報が入ったわ。ソエルとアッシュにアレックス。これからすぐ飛び立ってちょうだい。なるべく穏便に済ませて。ただし、場合によっては撃墜してもいいわ。整備士の坊や! 機体の整備は終わったの?」
 オペラが格納庫の暗がりに呼びかけると、リゲルが顔を出した。白い歯を見せて笑うと、リゲルは親指を立てた。
「完璧っスよ! 女王様!」
 メイクの亀裂が一段階進行した。オペラは怒りを堪え、ソエルたちは笑いを堪えた。真紅のピンヒールがターン。指揮官の顔に戻ったオペラはとても凛々しく、ノワリー並みの生真面目な表情だった。
「さあ! ヴァルキリーの腕を見せてちょうだい!」
「「了解!」」
 アルヴィト、グングニル、メイデンリーフが滑走路に引き出された。
 キャノピィが空を映し、太陽の光を反射する。
 純白とミッドナイトブルー、ジェイドグリーンの機体がパイロットを待っている。
 メアリィが微笑む。
 リゲルが親指を立てる。
 ノワリーが見守ってくれている。
 アレックスが肩を叩く。
 ソエルの隣にアッシュが立った。
 アメジストのような瞳と目が合う。
 呼吸をするように、自然と笑顔が浮かんだ。
 彼らの思いが背中を押してくれる。
 だから、飛べるんだ。
 空が私たちを待っている。
 空を飛ぶのに、理由なんていらない。
「行こうぜ!」
「はい!」
 彼らの飛ぶ姿は戦乙女ヴァルキリーのようだ。
 冷たくも、
 美しく、
 清らかに、
 穢れのない青空を踊るように飛んで行く。
 掲げた剣で、
 大空に軌跡を残しながら。