目が覚めた時、僕は自分がどこにいるのか全く分からなかった。
自分が冷たい液体の中に浮かんでいること。
幾本の細いプラスチックのチューブが、白い身体に絡み付くように繋がっていること。
僕が把握できたのは、それだけだった。
分厚いガラス越しに、白い服を着た複数の人間が僕を見ている。
まるで、僕は、水族館で泳いでいる魚みたいだった。
きっと、彼らはこんな不思議な気持ちを味わっているに違いない。
生まれた時は、覚えていない。
呼吸をしていたのだろうか?
産声を上げたのだろうか?
周りに浮かぶ気泡を見ているうちに、僕の瞼は重くなってきた。
不思議と、僕が開いている両目に対し、液体はとても優しい。
考えるのに疲れ、僕は目を閉じた。
どれくらい眠りに支配されていたのだろうか。不意に液体が抜かれ、浮力を失った僕は下に落ちていった。群れと化した無数の手が僕の身体を掴み、容器から引き摺り出した。絡み付いていたチューブが引き抜かれ、僕は固いベッドの上に寝かされた。
一人の男が屈みこみ、僕を覗き込んだ。淡い栗色の髪と、灰色の両目。薄い色の目が、僕を珍しそうに見ている。まだ若そうだ。細いフレームの眼鏡が、男をインテリジェントに見せている。僕を生き物として見ていない目で、プラスティックのサンプルを眺めるような、そんな目だった。
「やあ、おはよう。気分はどうだい?」
最悪だ。そう言いたかったけれど、生憎、僕は言葉を知らない。生まれたばかりの赤ん坊だって言葉を話せないのだから、当然だと思う。
「まずは、言葉を教えないといけないようだね」
簡素な白い服を着せられた僕の足下に、小さな靴が置かれた。靴紐の結び方が分からない。ぼんやりしていると、男が紐を結んでくれた。これからは、自分で結ばないといけないだろう。僕は彼の手の動きを目で追いかけ、完璧にトレースした。
「こっちだ」
男は僕の手を引き、暗い部屋を出た。天井も、廊下も、壁さえも真っ白で、電灯とドア、ナンバープレートが規則正しく整列している。きっと、建築士が定規で測りながら作ったに違いない。そんなことに労力を使うなら、もう少しこの景色に彩りを加えたらいいのにと僕は思った。
一つのドアの前で、彼が足を止めた。彼は白衣のポケットからカードキーを出し、ドアの横に付いている端末にスライドさせた。ドアが開く。僕と彼は中に入った。
正面に茶色い机と椅子。壁を隠すように大きな布が垂れ下がっていて、机の上に丸いレンズを嵌めこんだ機械が置かれていた。男が椅子を引く。僕はおとなしく座った。これから何をやらされるのか、不安と期待が半々といったところだ。男がコンセントにプラグを差し込み、機械のスイッチをONにした。レンズが光を発射。前方の布に、何だか分からない映像が、次々と映し出されていった。
「この映像は、人類の愚かな歴史でね。なかなか面白いよ。一時間経ったらまた来るよ」
僕の肩を叩くと、男は出て行った。映像に集中しよう。僕は前方に視線を向けた。
落とされる爆弾。
唸る銃。
空を舞う戦闘機。
そして、人々が殺し合う。
握手をして平和を誓いながら、平気で嘘をついている。
エゴと欺瞞に塗れた正義を振り翳している。
次々と目まぐるしく変わっていく映像を、僕の脳は刻んでいった。映像に飽きてきた頃、画面一杯に巨大な大樹が映し出された。絡み合うように伸びる根。大空を包み込むように生い茂る、新緑の葉。精一杯目を見開き、視神経を活性化させ、僕は大樹を見つめた。
忘れるな。
忘れてはいけない。
ここが、お前の還る場所だ。
僕の奥深くに刻みこまれた何かが、命令していた。
「それは、世界樹ユグドラシルだよ」
気づくと、いつの間にか、あの男がいた。男の背後には、彼と同じ白衣を着た大人たちが立っていた。機械のスイッチを切った彼が僕の側に立つ。また、あの目だ。世にも珍しい新種を発見したような目が、僕を映していた。
「世界樹ユグドラシル?」
僕の口から、言葉というものが出た。男は目を細め、それから感心したように笑った。
「もう言葉を覚えたんだね。さすが、我々下等な生き物とは違うな」
「世界樹って、何?」
「人類が生きるために必要なエネルギー、マナを生み出す大きな樹のことだ。ワールドエンドという大陸にあるんだけどね。私たちはそれを探しているんだよ」
話はここまでだというふうに、男は眼鏡のフレームを指で上げた。僕も、それ以上は訊く気はなかった。訊かなくても、いずれ知る時がくる。知識を蓄えなければ、生き物は生きていけない。僕もその生き物の一人だ。これからは、必死に知識を掻き集めなければいけないだろう。
「さて、ゼロ君。訊いてもいいかな?」
「ゼロ?」聞き慣れない名前に、僕は首を傾げた。「ゼロって――誰?」
「君のことだよ。まあ、我々が勝手に付けた名前だ。気にしないでくれたまえ。質問の続きをしよう。ゼロ、君は今、何を考えている?」
僕は質問の意味を理解しようとしばらく考えた。自分は何者なのか。ここはどこなのか。なぜ、ここにいるのか。考えていることは、たくさんあってきりがない。でも、僕の頭の中には、考えとは違う、強い何かが芽生えていた。
「……飛びたい。空を、飛びたい」
僕は、それを言葉にしてみた。乾いた音が室内に木霊する。何の感情もこもっていない、社交辞令のような拍手の音だ。彼と数人の男女が拍手をしていた。いつの間にか観客が増えていた。
「エクセレントだ。諸君! 今ここに、素晴らしい芸術作品が完成した! 実験を第二段階に進めよう」
男に手を引かれ、僕はまた違う部屋に連れていかれた。この前の部屋とは違い、頑固なロックは付いていない。甘い言葉を囁けば、簡単に開いてくれるタイプだ。ドアが開く。お世辞にも広いとは言えない部屋だった。
真っ白で、奥に小さな窓、隅のほうに本棚とパイプ製の二段ベッドが数個あるだけだ。中には数人の子供たちがいた。僕と同じような服を着ていて、脱色したような白い顔が並んでいる。別に不気味とは思わなかった。僕も、同じ姿をしているのだから。
「君には、しばらくここで過ごしてもらう。数週間の辛抱だ。頑張って」
本当に僕を応援しているのか疑ってしまう口調でエールを送ると、彼は出て行った。上品な革靴の音が木霊して、遠ざかっていった。僕は、しばらく案山子のように突っ立っていた。靴を履いているのに、床がとても冷たい。僕に現実を教えようとしているのかもしれない。
「君、大丈夫?」
一人の子供が、僕の前に立っていた。マシュマロみたいに柔らかそうな栗色の髪。目は鮮やかな緑色だ。その子供は、他の子供よりも、比較的健康そうに見えた。地面に足をつけ、しっかりと立っている。床が冷たくないのだろうかと思った。我慢していて、現実と戦っているのかもしれない。無言でいると、子供が覗きこんできた。好奇心の塊みたいな奴だ。
「僕はアレックス。君は?」
「……ゼロ」
「ゼロ? 変な名前だね」
変だと言われても、別に腹は立たなかった。僕の名前ではないのだから当然だ。彼らが勝手に付けたもので、お腹を痛めて産んでくれた母親や、大きく温かい腕で抱き上げてくれる父親が付けてくれた名前なら別だ。ゼロという名前は、僕にとって道端に転がる石ころのようなものだ。あの男は、たまたま爪先に当たった石ころを拾い上げ、それを僕に与えたにすぎないのだ。
「ここがどこか分かる?」アレックスが僕の横に座り、無意味な質問を投げかけてきた。
「知らない。訊かなくても、分かると思うけど」
「そうだよね。ごめん」
僕は疲れていた。長時間スライドを見たせいで、頭の中が狂ったように踊っている。彼との会話を切り上げ、僕は空いているベッドに寝転んだ。僕は白い海に身を沈め、胎児のように丸まった。
ヒトは皆、こんなふうに生まれてきたのだと思う。
でも、僕は違う。
冷たい試験管が、僕の生みの親なんだ。
それからアレックスは、たびたび僕に話しかけてくるようになった。僕はそれを拒みはしなかった。話し相手がいるのはいいことだと思うし、何もすることがない毎日の暇潰しにもなる。生まれたばかりの僕にとって、彼はいろんなことに対するお手本になった。
話し方。話す時の仕草や表情。食器の使い方やマナー、服の着方にボタンの留め方、スライドでは学べなかったことを、僕はすぐに覚えていった。他人の面倒を見るのが好きなのか、アレックスはどんなことでも親切に教えてくれた。こんなに親切だと、かえって疑ってしまう。後で多額の金銭を要求されるんじゃないか。でも、彼は子供だから大丈夫だ。子供の僕が心配することじゃないな。
変化のない、気が狂いそうな、シンプルで退屈な毎日。僕が生まれてから、どのくらいの月日が経ったのだろうか。殺風景な部屋には、時計もカレンダーもなかったけれど、窓から見える太陽の位置で、僕は大体の時間を知ることができた。何日経とうが僕にはどうでもよかった。誕生日を楽しみに待つ子供じゃあるまいし。馬鹿馬鹿しい。
「ゼロ! 隠れて!」
いきなり僕の腕を掴んだアレックスが、パイプで構築されたベッドの陰に引き摺りこんだ。僕たちが隠れると同時に部屋のドアが開き、白衣を着た男たちが入って来た。彼らは品定めするような視線で子供たちを見回した。数人の子供を選び、彼らは出て行った。足音が離れていくのを確認すると、僕たちはベッドの陰から這い出た。
「あいつらは?」
「悪い人たちだよ。僕たちを、実験台にしてるんだ」
「連れていかれた子たちはどうなるの?」
「……知らない。多分、あの子たちは――」
途中で途切れたアレックスの言葉の続きは分かった。
彼らは、二度と戻ってこない。
つまり、死ぬということだ。
「死ぬんだ」
呼吸をするように簡単に、僕は死という言葉を口にした。アレックスの表情が暗くなる。彼が頷く。怖いのかと訊くと、彼はまた頷いた。
死ぬということは、怖いことなのか?
神様から貰った命を返すだけなんだ。
何が怖い?
何を恐れる?
呼吸が止まり、
身体を清められ、
祈りの言葉を聞きながら土に埋められ、あるいは火に焼かれる。
灰になった骨が、空に飛んでいく。
土に埋められた身体が、大地に還っていく。
ただ、それだけなのに。
いや、
それだけだから、怖いのか――。
次の朝、僕が目を覚ますと、アレックスの姿が見当たらなかった。僕を見つけると、笑顔を浮かべて駆け寄って来るのに。昨日よりも子供の数が減っていた。まさか、大人たちに連れていかれたのか? 僕の中に不安が芽生える。
他人の存在なんて空気のように思っている僕が、赤の他人を心配するなんて。不思議だった。少し驚いた。壁の向こうから足音がした。革靴の音。間違いない。あの男だ。頑固なロックが外され、ドアが開いた。
「おはよう、ゼロ君。気分はどうだい?」
「……彼は、どこ?」
「彼?」
「アレックスがいないんだ。どこに連れていったの?」
「あぁ――」男の目が驚いたように丸くなった。「息子に会いたいのかい?」
「あなたの息子なの?」
僕はまた驚いた。間抜けな顔をしていたのだろうか。男は口元に笑みを浮かべた。
「そうだよ。アレックスは、私の可愛い息子だ。特別に会わせてあげよう」
男の後に続き、僕は部屋を出た。部屋から出るのは本当に久し振りだ。空気も澄んでいる。廊下を曲がり、エレベーターに乗った。身体が引っ張られる感覚。地下に到着。エレベーターを降りる。薄暗く、湿った冷たい空気が充満していた。青白く光る蛍光灯が僕を見下ろしている。僕は、神様気どりのそいつを睨んでやった。
「さあ、入りたまえ」
案内されて足を踏み入れた室内はとても広かった。ドーナツみたいに丸い部屋だったけれど、甘い匂いはしなかった。見たこともない機械が並んでいて、訳の分からない数字が、不気味に発光しているモニターに羅列している。0と1の不思議な世界に頭が痛くなりそうだ。
長く、太い容器の中に、いなくなった子供たちが浮いていた。全身に細いチューブが絡み付いている。そう、その姿は、僕と同じだった。容器に貼られたラベルに「廃棄」と書かれていた。
「少し、待っていてくれ」
僕を置き去りにした男は、部屋の奥に行った。頑丈な扉が見える。あの扉の奥に、アレックスがいるんだと思う。僕は近くにあった椅子に座った。忙しそうに動き回っている科学者たちは、僕の存在に気づいていない。それとも、気づかない振りをしているのだろか。僕は幽霊で、あの男とアレックスにしか視えないのかもしれない。
デスクの上に書類が置かれていた。興味に思った僕は書類を手に取り、ページを捲った。緑色の髪の少年の写真が貼ってあり、年齢、身長、体重、出身地などのパーソナルデータが詳細に書かれている。その中に書かれていた「キメラ」という文字が気になった。
「駄目だよ、勝手に見ちゃ。それはトップシークレットなんだ」
困ったような声が頭上から降ってきた。戻って来た男が僕を覗き込んでいた。
「この人、誰?」
「彼は、あるプロジェクトの被験者だよ。優秀なパイロットとして活躍していたけどね、引退したらしいんだ。これ以上は言えないよ」
「キメラって何?」
「ノーコメント。アレックスはこっちだ」
男はドアの脇にある端末にカードキーを滑らせ、7桁のナンバーを打ち込んだ。僕の目は自然と彼の指を追いかけ、秘密のナンバーを頭に刻み込んだ。ドアが開く。病室のような部屋だった。点滴のパウチが吊り下げられたスタンド。医療機器のモニター。ベッドの上に、アレックスが横たわっていた。
顔色は病人みたいに青白い。機械から伸びたチューブが華奢な腕に潜り込んでいる。また来るよと言い残し、男は出て行った。僕は彼に近づき、名前を呼んでみた。瞼が動き、そして開いた。萌える緑の双眸が僕を捉えた。
「……ゼ……ロ……?」紙ヤスリのようにザラザラして掠れた声だった。
「久し振り。会いに来たよ」
「嬉しいな……君に会えないと思ってた」
「僕も。何があったの?」
アレックスは辛そうに身体を起こすと、僕を見つめた。長い間じっと。視線で僕の身体に穴を開けるつもりか?
「……よく覚えていないんだ。ここに連れてこられて、注射を打たれて、その後、気持ち悪くなった。意識がなくなって、目が覚めたらゼロがいた。でも――」
「でも?」
「マナとか、遺伝子とか……言ってたよ」
マナという言葉に、僕の心は強く惹かれた。何だかとても懐かしい響きだ。生まれる前から知っているような気がした。ドアが開き、男と女性が入って来た。
「さあ、面会時間は終わった。ゼロ、部屋に戻ろう。アレックス、薬の時間だよ」
脇に控えた女性が、鞄から注射器を出した。アレックスの表情が強張った。ウサギみたいに震えている。僕はここに残って、彼の側にいたかった。でも、無理だった。男に手を引かれ、例のあの部屋に連れていかれた。子供の僕は、大人の男に抗う術を持っていないのだ。
ベッドに潜り込んで、僕は目を閉じた。
次に目を開けてみると、僕は美しい藍色の戦闘機に乗っていた。
青い空が、雲と共に流れていく。
右手は操縦桿。
左手はスロットルレバー。
僕の両足は、フットペダルに添えられている。
高度は1500。
右にロール。
感触を確かめるように、十秒かけて。
エレベータ・アップ。
四回の右ロール。
角度は垂直。
さあ、空高く昇って行こう。
神様が待っている。
反転。
旋回。
インメルマンとスプリットSを二回。
8の字が縦に描かれた。
エレベータ・ダウン。
背面から二回ロールを打つ。
そのままダイブ。
主翼から発生する白い帯。
まるで、彗星の尻尾のよう。
墜ちていこう。
彗星のように、美しい軌跡で。
僕は、空と一体になった。
この瞬間、僕は確信した。
僕は空でしか生きられない。
僕の死に場所は、ここなんだ。
真夜中、僕は目が覚めた。こういう時は、大抵何かが起こるものだ。流れ星を見たり、幽霊と出くわしたり、時には宇宙人と遭遇したりする。室内を黒い影が動き回っていた。幽霊か? 宇宙人か? 正体不明の影は、何かを探しているようだった。僕はベッドから這い出て、影の側に行った。
「ねえ」影が震える。電気のスイッチに伸びた僕の手を影が遮った。
「駄目。明かりは点けないで」女性の声だ。少しの間の後、小さな明かりが灯った。懐中電灯の丸い明かりだ。
「貴方、アレックスの居場所を知ってる?」
影の正体は女性だった。濃い栗色の髪と、アレックスと同じ緑の瞳。どことなく雰囲気が彼に似ている。アレックスの血縁者だろうか。
「誰なの?」
「あの子の母親よ。お願い、教えて」
「ここにはいない。地下にいるんだ。案内するよ」
僕は記憶に残っている男の歩いた道筋を、そのまま辿ることにした。エレベーターで地下に降り、例の研究施設に着いた。幸い中に人はいない。僕はドアの前に行ったけれど、カードキーを持っていないことに気づき、女性を見上げた。女性が服のポケットからキーを取り出して端末にスライドさせ、僕が暗証番号を打ち込んで、ドアを再起不能にした。飛び込むように彼女は中に入った。
「アレックス!」
ベッドの上のアレックスは、信仰心を奪われた信者みたいに萎れていた。数時間前はあんなに元気だったのに。瞼が動く。アレックスが目を開けた。濃い隈の浮かんだ顔が、弱々しい笑みを浮かべた。
「ゼロ……母さん……?」女性に支えられ、アレックスが身体を起こした。
「あぁ――! 無事でよかった!」
彼女はポケットから小さな注射器を取り出した。容器の中で揺れている。カバーを外した彼女が先端を弾いた。透明な珠が滲み出た。何の薬だろう。アレックスを助けてくれる薬だろうか。
「……これで、貴方はヒトに戻れるわ」
小声で呟いた彼女が、注射針をアレックスの腕に刺した。細い針が皮膚を突き破り、青い血管の奥に埋没する。注がれる薬品。薬の効果が現れ始めたのか、アレックスの顔に活力が戻ってきた。
「ここから逃げるわよ」
「待って! ゼロも一緒に連れてって!」
彼女が振り向き、僕を見た。驚き、そして納得した顔で頷いた。
「ええ、そのつもりよ。さあ、早く行きましょう」
僕たちは彼女に連れられて部屋を出た。来た道を急いで戻る。上階に戻って廊下を走っていると、けたたましい音が鳴り響いた。警報ベルの音だ。どうやら、見つかってしまったようだ。一斉に明かりが点く。僕たちを捜すように足音が木霊した。
施設の外に飛び出し、僕たちはサーチライトの光を避けながら森に逃げ込んだ。黒い森の中を僕たちはひたすら走った。こんなに緊迫した状況なのに、頭上はとても綺麗な星空だった。立ち止まって、じっくりと星座を探したかったけれど、彼女に怒られそうだったから我慢した。前方に小さな明かりが見えた。木で造られた小さな小屋だ。
「誰だ!?」鋭い声が宵闇を切り裂いた。
「私よ。エレノアです」
僕たちの後ろの茂みから、青年が出て来た。穏和そうな顔立ちだ。月の光に銀色の髪が光る。
「無事でしたか! 帰りが遅いので心配したんですよ。ここは目立ちます。さ、中へ」
青年の後に続き、僕たちは小屋の中に入った。中は狭かったけれど、あの部屋と比べたら天国だ。暖炉には赤い火が灯り、薪が爆ぜている。エレノアは手早く簡素な食事を作ってくれた。ウインナと野菜が転がったポトフだ。その間に青年が自己紹介した。彼の名はシェダルといって、アンティオキアの軍事活動に反対しているらしい。いわゆる、レジスタンスというやつだろう。
食事を終えると、エレノアとシェダルは窓の側で話し始めた。声は小さくて聴き取りにくかったから、僕は二人に気づかれないであろう距離まで移動した。もし気づかれたとしても、天体観測をしていたと誤魔化せる絶妙の位置だ。
「ありがとう、シェダル。貴方たちの協力で、二人を助けることができたわ」
「いえ。それにしても、アルジャーノン博士も惨いことをしますね。……実の息子を実験台にするなんて」
「あの人はマッドサイエンティストよ。もう……夫でも何でもありません」
「あの子、ゼロが――ジェネシスですか?」
「ええ」二人の視線がこちらを向いた。僕は慌てて窓の外を眺めている振りをした。
「信じられないな。見たかぎり、普通の子供じゃないですか」
「私も驚いたわ。あの人は、オリジナルを造ったと言っていた。多分、彼がそうね。それからまた、ジェネシスを造ろうとしたけれど、完全な個体は造れなかった。唯一成功したのが……アレックスよ。何とかあの子をヒトに戻せたけれど、遺伝子から完全にマナを取り除くことはできなかったわ」
エレノアの声が詰まった。嗚咽が漏れる。彼女は口を手で隠すと、ごめんなさいと呟いた。
「……課題が山積みね。アークを破壊しないと、たくさんの悲劇が生まれるわ。また、貴方たちに協力してもらうことになるけれど、構わないかしら?」
「もちろんです。今日は休んでください。奥に部屋がありますから」
「ありがとう」
エレノアは椅子の上で眠りの船を漕いでいるアレックスを起こした。シェダルが彼を抱き上げ、ベッドに運んでくれた。僕が先にベッドに寝転がり、その隣にアレックスが寝かされる。シェダルはおやすみと囁くと、静かにドアを閉めた。ドアの向こうから二人の会話が微かに聞こえてくる。今後のことを真剣に話し合っているのだろう。
僕はベッドに寝転んだ。逃げる途中で見た星空を思い出した。空を見ようと思ったけれど、意地悪な天井が邪魔をした。目を閉じたら見えるかもしれない。僕は目を閉じてみた。正解だった。瞼の奥に星空が浮かんだ。
二人が話していた、ジェネシスという言葉が、頭の隅に引っ掛かっていた。
そうか。
そうなんだ。
やっと、分かった。
僕は、人間じゃないんだ。
施設にいた時から思っていた疑問が、確信に変わった瞬間だった。
「これがパスポートです。国境の近くにレジスタンスの仲間がいます。気をつけて」
シェダルから精巧に偽造されたパスポートを受け取り、僕たちは国境に向かった。彼の仲間が僕たちを待っていた。黒い髭の男だった。縦にも横にも大きい体形で、熊みたいな奴だ。男が手招きした。僕たちは後に続く。筋肉質なジープが待機していた。
彼が運転する車に乗り、僕たちは難なく国境を越えた。堅い灰色のコンクリート。その上を白い線が流れていく。車に乗るのは初めてで、揺れが酷い乗り物だった。しばらく走り、車は豪華絢爛な屋敷の前で止まった。僕たちを降ろすと、車は走り去った。
とても大きな屋敷だ。黒い門の柵が槍みたいで、近づいたら容赦なく串刺しにされそうだった。エレノアが門に近づいた。僕は彼女が串刺しになるんじゃないかと心配したけれど、エレノアは躊躇わずに門を開けて中に入った。アレックスも後に続く。僕は躊躇した。馬鹿みたいに、ぼんやりと立ちながら。
「大丈夫よ。行きましょう」
エレノアが僕の手を握った。彼女の手は温かく、僕の抱いている不安を追い払ってくれた。彼女が言うには、この屋敷はエレノアの両親の家らしい。どうやら、僕はしばらくここで暮らすことになるようだ。
エレノアとアレックス、彼らの祖父母も、余所者の僕に優しく接してくれた。でも、優しくされればされるほど、僕は自分の居場所がなくなっていくような気がした。
僕も、できるだけ自然に振る舞おうと努力を重ねたけれど、多少のぎこちなさがあったと思う。どうしたらいいのか分からなかった。スライドでは学べなかったから。
彼らと馴染むことができないまま、僕は屋敷の中庭でぼんやりと空を眺めていた。身体の下にある芝生は、高価な絨毯のような座り心地だ。ゆっくりと雲が横切っていく。自由で、縛られない彼らが羨ましい。
「隣、いいかしら?」
庭を横切り、エレノアが僕の隣に立った。特に断る理由もないので、僕は頷いた。エレノアが隣に座った。香水の香りがした。
「何か用ですか?」
「貴方に話があるの」
「丁度よかった。僕も、訊きたいことがあるんだ。先に話してもいい?」
「ええ。どうぞ」僕は一呼吸した。僕の質問が、彼女を驚かせるだろうと確信して。
「ジェネシスって、何ですか?」
エレノアの表情が強張った。予想していたとおり、彼女は無言だった。僕が何も知らないと思っていたのだろう。それは思い違いだ。僕は、何も知らない無知な赤ん坊じゃないのだから。僕は彼女の答えを待った。
「……聞いていたの?」僕は頷く。「いずれ、話さなければいけないと、思っていました」
エレノアはまた口を閉ざした。複雑に絡み合った言葉を整理しているのだろう。
「ジェネシスは、遺伝子にマナを組み込んで造り出されたヒトのことを言います。生み出された目的は一つ、世界樹ユグドラシルを発見すること。ゼロ、貴方はオリジナルと呼ばれる、この世界に一人しか存在しないジェネシスなの」
「アレックスは?」
「あの子は、半分ジェネシスで、半分ヒト。人間の血が濃いわ」
「僕は、人間じゃないんだね?」
「いいえ、貴方は人間です。人為的に生み出された命とはいえ、貴方は一人の人間よ。ゼロ、私のお願いを聞いてくれる?」
「うん」
「私の息子になってくれない?」
唐突にエレノアが言った。僕は彼女の言葉を理解するのに時間がかかった。アレックスという息子がいるじゃないか。何を言っているんだろうと思った。
「どういうこと?」
「そのままの意味。私の息子になってほしいの。名前もちゃんと用意してあるわ。アッシュ。アッシュ・ブルー。どう? いい名前でしょう?」
僕は何も言えなかった。うまく言い表せない感情が、僕の深い場所から湧き出てくるのだ。
喉の奥が痛い。
鼻の奥が熱い。
両目から液体が流れた。
僕は目尻に触れてみた。
指先が濡れる。
これは、涙と呼ばれる液体だ。そう、
僕は泣いていたのだ。
「……アッシュ」
「僕は……生きていていいの?」
ずっと思っていたことを、僕は言葉にした。ますます胸が苦しくなってしまって、僕は更に泣いた。
神様は、無慈悲で残酷だ。
勝手に造っておいて、飽きたら知らない振りをするのだから。
「そんなことを言わないで。私も貴方も、生きるために生まれてきたのよ」
エレノアが僕を引き寄せ、胸に抱き締めた。一瞬、僕は戸惑った。誰かに抱き締めてもらったのは、これが初めてだったからだ。彼女の腕の中は優しくて、柔らかい。まるで、雲の中に身体を沈めているような感じだった。彼女は僕が泣きやむまで、ずっと抱き締めてくれた。
僕は、アッシュ。
アッシュ・ブルー。
もう、ゼロじゃない。
僕は、高い場所が好きだ。
その理由はただ一つ。少しでも空に近い場所にいたいからだ。
手を伸ばせば掴めそうなのに、やっぱり空には届かない。意地悪な奴だ。屋根の上は僕のお気に入りの場所であり、特別な場所だ。エレノアもアレックスも危ないから止めろと言うけれど、止める気はない。僕が空から遠ざかる日は、棺桶の中に押し込まれる時だと思う。
「ゼロ……じゃないや。アッシュ、捜したよ」
真下の窓が開き、アレックスが顔を出した。栗色の髪が揺れる。彼は器用に壁を伝い、僕の隣に来た。一年前は、僕と同じくらいの背丈だったのに、アレックスは僕より背が伸びていた。成長期真っ盛りというわけだ。彼とは反対に、ジェネシスである僕はほとんど成長しない。
「何だよ」
「母さんに話したんだって? その……パイロットになりたいって」
「……言ったよ」
「何で、なりたいの?」
「空で、死ねるから」
僕は簡潔に言った。
簡潔に短く、無駄な言葉を削ぎ落とした答え。
アレックスは黙っていた。
「僕も、なるよ」
「何に」
「パイロット」
「寝言は寝てから言えよ」
「本気だよ。お前を、独りにさせたくないから」
沈黙。静寂が訪れた。冗談かと思ったけれど、アレックスの顔は真剣そのものだった。僕はそんな彼の優しさが、鬱陶しくて嬉しかった。相反する思いを感じるなんて、人間は複雑な生き物だ。
「……お節介」
「何とでも言えよ。そうそう、母さんが呼んでる。会わせたい人が来てるって」
僕たちは屋根から下り、狭い窓をくぐり抜けて室内に戻った。階段を下りると、廊下でエレノアが待っていた。穏やかで理知的な笑顔を見るたびに、僕の心は落ち着くのだ。
「また、屋根にいたのね? 何度言ったら分かるのかしら。お説教は後にしましょう。二人に会わせたい人がいるから、来てちょうだい」
彼女の後に続き、僕たちは応接間に入った。アンティークの時計の針が奏でる音色が、広い室内に木霊していた。窓から木漏れ日が差し込んでいる。陽光の下に佇んでいる若い男が、壁に飾られている絵を眺めていた。
「お待たせして、ごめんなさい」
「いえ。気にしないでください」
男が振り向いた。かなり若く、少年から青年に羽化した直後かもしれない。男は長身で、漆黒の軍服を着ていた。あのデザインは、クルタナ空軍のコスチュームだ。嬌声を上げた異性が群がりそうな顔立ち。切れ長の琥珀色の目は、ナイフのように鋭い。どこかで見た顔だった。そうだ。施設で見た書類に貼ってあった、写真の少年に似ていた。
「彼は、ノワリー・エリオット大尉。ユグドラシル基地の指揮官で、チームヴァルキリーの隊長よ」
「よろしく」短くノワリーが挨拶した。
「チームヴァルキリーって……あの、大戦で活躍した!? じゃあ、貴方が光の槍ですか!?」
僕の隣でアレックスが叫んだ。興奮で顔が紅潮している。
「もう過去のことだ。私は、引退した」ノワリーは、暗い口調と影のある微笑を披露した。
「お偉い様が、僕たちに何の用ですか?」
「ジェネシスのことを、エリオット大尉に話しました。貴方たち二人を、ヴァルキリーに入隊させてくれると言ってくれたわ。大丈夫、彼は信頼できる人です」
「でも……航空学校を卒業しないと、駄目なんじゃ――」
「君たち二人が大勢の人間の中で過ごすのは、あまりにもリスクが大きいだろう。ジェネシスであることが公になれば、二人は軍に連行されてしまう可能性が高い。私の管轄下にあるユグドラシル基地にいれば、君たちは安全だ。エレノアさんはそれを考慮して、私に君たちを託す決断をしてくれた。安心してくれ、必ず君たちを守る」
パイロットになりたい。僕の夢を叶えるために、エレノアはこの青年に頼みこんだのだろう。ノワリーの言葉に、僕は誠意を感じた。彼女が信頼している男だ。僕も、ほんの少しだけ信じることにした。一生に一度くらい、他人を信じてみてもいいんじゃないかと思ったからだ。
一週間後に迎えに来ると言い残し、ノワリーは立ち去った。いろいろと準備をしているうちに、あっという間に一週間が過ぎた。持って行く物はあまりなかった。少ない荷物が僕の短い歴史を物語る。小さな鞄を肩に提げ、僕は玄関に行った。ドアの前でエレノアが待っていた。
「気をつけて。身体を大事にしてね。これ、貰ってちょうだい」
エレノアはポケットからペンダントを取り出し、僕の首にかけた。兵士が身に着ける認識票――ドッグタグのようなデザインで、シルバーのペンダントトップに文字が刻まれてあった。アッシュ・ブルー。彼女がくれた僕の名前だ。
「……ありがとう」
「忘れないで。貴方の帰る家はここだから……ずっと待ってるわ」
「……うん。必ず、帰って来るよ。行って来ます」
エレノアは優しく抱擁して、僕を送り出してくれた。
アレックスの呼ぶ声。
そうだ。彼がいる。
だから、僕は独りじゃない。
一歩、踏み出そう。
扉を開けよう。
大空に続く、扉を。