太陽が眩しかった七年前のある日、メアリィと彼は出会った。
 その日は雲一つ見当たらない青天で、それが、何かが起こる前兆に見えたのを覚えている。
 庭に新しい花の種を植えようと計画していたメアリィは、汚れても平気な服を箪笥から引っ張り出して部屋で着替え、玄関で待機していた肥料袋を抱えて庭に出た。そして、勇敢な騎士が持つ剣のようにシャベルを構え、大地という大いなる自然との一騎打ちを開始した。
 最初は頑固で固かった土も、掘り進めるうちに素直になってきて、ケーキのスポンジのように柔らかく変化し始めた。拳大の穴を掘って種の詰まった袋の封を開け、適当な数を摘まみ穴の中に落とす。次に肥料の袋を開け、説明書きを見ながら適量を穴に入れた。その上に土を重ね、シャベルで叩いて穴を封印する。あとは、清められた水をやるだけだ。中腰だった姿勢を起こし、メアリィは身体を伸ばした。
「メアリィ! ただいま!」
 懐かしい声がメアリィを呼んだ。振り向くと、柵越しに姉のシルヴィが覗きこんでいた。数週間ぶりの姉との再会に心が躍る。シャベルを放り出し、庭を回り込んだメアリィは門を開け、家の前の階段を駆け下りて、シルヴィに飛びついた。背中に羽が生えているような跳躍を目の当たりにすれば、バレリーナも真っ青になるだろう。輝くような笑顔がメアリィを見下ろし、次いで駄目じゃないかというふうに顰められた。顔が半分笑っているから、怒っているわけではなさそうだ。
「こら! お客様が来てるんだから、もう少しおしとやかにしなさい!」
「お客様?」
 姉の斜め後ろに、見慣れない若い男性が立っていた。メアリィより四、五歳年上だろう。濃い緑色の髪と切れ長の琥珀色の瞳で、細身のスーツを嫌味なくらい着こなしている。降り注ぐ陽光を反射する滑らかなスーツの生地は、恐らく高級な素材で作られたものだと思う。一般市民には手が出ない値段だ。自慢するためにわざわざ着てきたのだろうか。彼は、溜息をつきたくなるほど、綺麗で端正な顔立ちをしていた。きっと、太陽神もこんな顔をしているのだろう。
「こんにちは」
 しなやかな長身の身体を折り、青年が挨拶をした。冬の風のような、凜とした声を紡ぎ出した形のいい唇は微笑んでいる。洗練された優雅な動作で、育ちの良さが窺い知れた。挨拶を返さないと失礼だと分かっているのに、メアリィの全身は金縛りに遭ったように動かなかった。身体中を駆け巡る血流が、顔に一気に集中した。いわゆるレッドアウトだ。頬が真っ赤に染まるのを自覚した。
「こっ……こんにちはっ……」
 かろうじて声を振り絞ることができたけれど、蚊の鳴くような情けない声だった。これ以上、彼と顔を合わせているのは不可能だ。即座に判断したメアリィは、急いでターンして玄関のドアを開け、二階に続く階段を駆け上がった。部屋に帰還して、ベッドにランディング。うつ伏せになり、メアリィは枕に顔を埋めた。心臓の温度が急上昇していた。
 メアリィが鍵を掛け忘れたドアが開き、二人分の足音が廊下を歩いて行く。シルヴィと、あの青年だ。二人の会話に三人目が加わり、リビングに吸い込まれていった。しばらくすると、再びドアが開いた。そして、足音が廊下を駆けて行く。散歩を終えた父のデイヴィットが帰って来たのだ。
 一人増えたリビングからは、楽しそうな談笑が聞こえてくる。メアリィも彼らの輪の中に入って行きたかった。けれど、そんな勇気は湧いてこなかった。
 窓の外から見える木々に睨まれたメアリィは、さっき植えたばかりの花の種に、水を与えていないことを思い出した。思えば、数週間は雨が降っていない。きっと、ミイラみたいに乾燥しているだろう。早く水をくれと、庭の草木と花たちが叫んでいる。リビングを通らずに外に出られることが救いだった。できるだけ足音を立てず、スパイのようにメアリィは階段を下りた。
 頭上に陣取る太陽が、容赦なく肌を攻撃してくる。姉とお揃いのお気に入りの白い帽子を被り、庭に出て物置からホースを引っ張り出した。ホースの先端を蛇口に繋いで軽く栓を捻ると、透明な水が溢れ出した。メアリィは鼻歌を歌いながら、植物たちに恵みの雨を与えていった。
「メアリィ」
「きゃっ!?」
 突然名前を呼ばれたメアリィは、天敵に発見されたウサギのように飛び跳ねた。一度聞いただけなのに、名前を呼んだ声の主は知っている。恐る恐る振り返った。リビングにいるはずの青年が、メアリィの後ろに立っていた。
「さっきは、ちゃんと挨拶できなかったね。俺は、ノワリー・エリオット。君のお姉さんと、お付き合いしているんだ」
 律儀な人だとメアリィは思った。彼の名前なんて、後で姉から聞けばいいことだ。それだけを言いに、わざわざ来たのだろうか。姉や家族との楽しい会話を中断させてしまった。
「あの……さっきは、ごめんなさい。いきなりで、びっくりしたの」
 ホースを握る手が震え、落としてしまった。ホースの代わりにスカートを握り締めると、蜘蛛の巣みたいな皺が広がった。あの端正な顔が自分を見つめていると思うと、メアリィは彼を――ノワリーを直視できなかった。
「花が、好きなの?」ノワリーがメアリィに近づいた。心臓が跳ねる。
「あ……うん。お姉ちゃんも好きよ。この白百合が大好きだって言ってた」
 メアリィは庭の中央に咲いている、真っ白な色の百合を指差した。姉のお気に入りの花で、メアリィも大好きな花だ。
「俺も、好きなんだ」
「本当?」
 メアリィが隣に立つノワリーを見上げると、彼は頷いた。空と地上みたいに距離が離れているノワリーと、共通のものを見つけたことがとても嬉しかった。庭に面した窓が開き、シルヴィが顔を出す。二人を見つけると、シルヴィは笑った。誰にも真似できない、輝くような笑顔が眩しかった。
「ノワリー! メアリィ! おやつにしましょう! アップルパイを焼いたの」
 香ばしい匂いが鼻に届いた。少し香ばしすぎる気もしたけれど、気にしないことにしよう。メアリィと違い、姉は料理が苦手なのだ。でも、これからは、死に物狂いで特訓するだろう。こんなに素敵な恋人がいるのだから。


 この日、ローレンツ家にいるのはメアリィ一人だけだった。両親と姉はショッピングモールへ買い物に行っていて、夕方まで帰って来ないのだ。数週間後、姉はまた休暇を貰い、我が家に帰って来た。そんなに基地を留守にして大丈夫なのかと訊いてみると、大丈夫よとシルヴィは笑って太鼓判を押した。クルタナの空を守っているパイロットの彼女がそう言うのだから信じよう。世界が平和な証拠だ。
 シルヴィは帰って来たけれど、恋人のノワリーは一緒じゃなかった。安心すると同時に残念だった。留守番の任務はとても退屈だ。学校も日曜で休み。テレビ番組も、どれもこれも同じような内容でつまらない。ただじっとしているのも時間の無駄だ。庭いじりをすることにしよう。軍手を箪笥から出し、メアリィは庭に行った。メアリィは中腰になり、我が物顔で庭を占領している雑草を引き抜き始めた。
「メアリィ」
「きゃっ!?」
 また名前を呼ばれ、また悲鳴を上げてしまい、また飛び跳ねたメアリィは、腰を上げて振り向いた。柵の向こうにノワリーが立っていた。この前と同じスーツを着ていて、相変わらず身だしなみは小綺麗に整っている。彼はエリオット家の人間だと家族から聞いた。アルジャーノン家に次ぐ大貴族の名前だ。
「こっ……こんにちはっ……」また声が震える。前よりはマシだった。多分、震度5くらいだろう。
「お姉さんに会いに来たんだけど……いるかな」
「買い物に行ってて、夕方まで帰らないの。携帯持ってるから、電話しようか?」
「いや、大丈夫だ。待たせて貰っても、構わないか?」
「え? うん。あ、じゃあ、どうぞ……」
「ガーデニングしてるのか?」
「うん。暇だから」
「俺も手伝うよ」
 そう言うと、ノワリーは柵を開けて庭に入って来た。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた彼は、糊の効いたシャツの袖を捲った。暇だからねという気さくな言葉が補足される。貴族の人間は、他人を見下す者が多いと思っていたけれど、ノワリーは違うタイプの貴族のようだ。
「何をすればいいかな」
「えっと……じゃあ、雑草取り、お願いします」
「了解しました。指揮官殿」
 敬礼を添えたユーモアに満ちた返事が返ってきた。彼は屈みこむと、雑草を抜き始めた。名門貴族の跡取り息子が、腰を屈めて雑草抜きをしているなんて、誰も想像できないだろう。このことがエリオット家の者に知られたら、メアリィの白い首は、ギロチンで刎ねられるに違いない。
 ノワリーは時々身体を伸ばしながら、黙々と作業を続けている。彼の指は、長くてしなやかな形だった。雑草取りにはむいていない、繊細なライン。ピアノの鍵盤を優雅に弾いている姿が浮かんだ。その手が操縦桿を握っていると思うと、何だか複雑な気持ちになった。メアリィは鼻筋の通った端正な横顔をぼんやりと眺めていた。
「メアリィ?」
「はっ……はいっ!?」
 我に返ると、僅かに首を傾げたノワリーが、至近距離でメアリィを見つめていた。
「とりあえず、抜き終わったんだけど――」
 ノワリーが身体の位置を動かした。彼の肩越しに、庭の隅に積まれた雑草の山が見えた。
「ありがとう。疲れたでしょ? お茶にしましょうよ」
 ノワリーが頷いた。彼を伴って家に入る。ノワリーをリビングで待たせてキッチンへ。戸棚からポットとカップ、紅茶のティーバッグを取り出した。お菓子も必要だ。クッキーの箱を開け、花柄でコーティングされた皿に取り分ける。
 準備した物をトレイに載せ、メアリィはリビングに戻った。ノワリーの隣に座りたかったけれど、そんな度胸はなく、彼の斜め向かい側に座るのが精一杯だった。
「この紅茶、美味しいね」
 紅茶を一口飲んだノワリーが感想を漏らした。高級な物を堪能しているはずなのに、本当に美味しいと思ったのだろうか。舌が肥えすぎて、高級な物に飽きているのかもしれない。卑屈な考えを頭を振って追い払った。
「あの……エリオットさんは、お姉ちゃんに何の用で来たの?」
「大した理由はないよ。シルヴィに会いに来た。それだけだ。それと、俺のことはノワリーでいいよ」
 カップを置いたノワリーが微笑んだ。幸せに満ち溢れた笑顔だった。その微笑みを、私に向けてほしい。いつの間にか、メアリィは姉に嫉妬していた。嫉妬しては駄目だ。メアリィは汚れた感情を押し込めた。
「お姉ちゃん、喜ぶよ」
 玄関のドアが開く音がした。足音が廊下を通り、リビングに近づく。紙袋を両手に提げた両親と、シルヴィが姿を見せた。
「ただいま、メアリィ。……ノワリー? 来てたの?」
「ああ。迷惑だったかな」
「そんなことないわ。……凄く、嬉しい」シルヴィがはにかむ。頬が少し赤かった。
 その後、夕食をご馳走になったノワリーは、ユグドラシル基地に帰って行った。その日の食卓は賑やかで温かった。人が一人増えるだけで、こんなに雰囲気が変わるものなのか。いずれ、これが日常となり、当たり前の光景になるのだろう。
 隣同士に座った二人は幸せそうに語り合い、笑い合っていた。
 二人の姿は美しく、とても綺麗で、一枚の絵画から抜け出たようだった。
 メアリィは、グラスのガラス越しに、それを眺めていた。
 姉の恋人に、恋をした。
 この想いが、許されないことだとは分かっている。
 禁断の果実を口にした人類が知恵をつけたように、罪深いものだということも。


 メアリィがノワリーと出会い、彼に心を奪われてから、二年の月日が流れた。シルヴィとノワリーは喧嘩をすることもなく、順調に愛を育んでいった。近いうちに二人は結婚するだろう。招待状が届いたら、メアリィは彼らを心から祝福できるだろうか。いろいろ考えながら宿題を終え、メアリィは教科書とノートを閉じた。
 教科書とノートを鞄にしまい、机のライトを消した。窓の外が小さく光る。それと同時に、爆音と振動が住宅街に響いた。シルヴィとノワリーが所属しているユグドラシル基地の方向だ。ノックが二回。次いでドアが開き、デイヴィットが入って来た。
「お父さん! 何があったの!? さっきの――基地のほうから聞こえたよ!?」
「アンティオキアが、クルタナに宣戦布告をしたらしい。シェルターに避難する。急いで荷物を纏めなさい」
 数日分の着替えと、数冊の本を鞄に詰め込んで一階に下りると、深刻な顔をした両親がテレビの画面を食い入るように見ていた。髪をワックスで後ろに撫で付けたキャスターが、ニュースの原稿を読んでいる。「アンティオキア宣戦布告!」という字幕が、大きく映し出されていた。 
『この事態について政府は、先程記者会見を行いました。陸海空の軍を総動員して、直ちに攻撃を開始するそうです。この作戦には、ユグドラシル基地に所属する飛行チーム、ヴァルキリーも参加するそうです』
 父がテレビの電源を切った。シルヴィとノワリーも駆り出されるのだろうか。
「お母さん……お姉ちゃんは大丈夫かな……ノワリーさんは……」
「二人はきっと大丈夫よ。さあ、行きましょう」
 アンティオキアの国境に近いこの街には、無数の避難シェルターが設置されている。核にも耐えられる金属で作られていて、一つのシェルターに約四千人が避難できるのだ。家を出て、徒歩でシェルターへ向かう。近所の人と友人がいた。軽く会話を交わし、割り当てられたスペースに座る。
 デイヴィットがラジオを鞄から出し、スイッチを入れた。ノイズが多い。アンテナを伸ばすと、途切れ途切れに音が入ってきた。リポーターの興奮した声が聞こえ始めた。
『私は今、ユグドラシル基地のメインゲートの外にいます! これから、チームヴァルキリーが飛び立つようです! 敷地内に入れないので、遠目からでしか確認できません――あ! 今、ヴァルキリーが飛び立ちました! 関係者の話によると、ヴァルキリーの隊長は、あのノワリー・エリオットだそうです!』
 メアリィは愕然とした。ノワリーは違うチームに所属しているはずだ。彼がいるとするなら、シルヴィも所属しているのだろうか。
『アンティオキアの軍隊は、クルタナの何十倍とも言われていますが、我々には光の槍がいます! 彼が、必ず、クルタナを勝利に導いてくれるでしょう! 以上、現場からお伝えしました!』
 これ以上聞きたくない。身体を丸め、メアリィは現実から逃げるように毛布にくるまった。地上で音が響く。ここにいれば安全だ。だけれど、シルヴィとノワリーは命を懸けて戦っているのだ。両手を握り締め、メアリィは二人の無事を祈った。
 神様、お願いします。二人を守ってください。こんなに必死に神様に祈ったことはなかった。
 都合が良すぎると思われても構わない。
 大切な二人を、無事に返してほしいだけなのだ。


 満足に眠ることもできないまま、メアリィは眩しい朝を迎えた。怖いくらい静かな朝だった。ラジオのスイッチを入れ、一心に聞き入る。大戦は終結し、クルタナが勝利したというニュースが耳に飛び込んで来た。双方の被害状況の情報は分からなかった。
 でも、きっと、多くのパイロットが、空の上で散っていったのだろう。
 大戦が終結した日から数日後、軍の関係者が家を訪ねてきた。応対に出た母に封書を渡すと、彼は去って行った。母の指が封を破る。開けないでと言いたかった。嫌な予感がしたからだ。平和だった日常が、一気に壊れていくような気がしたからだ。
 手紙を読んだリリィが崩れ落ちた。蹲り、丸くなった背中の向こうから、嗚咽が聞こえる。メアリィは急いで電話に駆け寄り、父の勤める会社に電話した。父が帰って来るまで、メアリィは母の背中を撫で続けた。でも、リリィの涙と嗚咽は止まらなかった。
 姉が死んだ。空軍本部から届いた封書には、そう書いてあった。メアリィが思っていたとおり、シルヴィはノワリーと同じくヴァルキリーに異動していたのだ。お悔やみ申し上げます。儀礼的なその文章が酷く腹立たしかった。
 軍は死んだ人たちのことなんて、これっぽっちも思っていない。一欠片の悲しみの感情も抱いていない。美しい謳い文句を掲げれば、兵士は簡単に集まる。彼らは使い捨ての駒なのだ。
 メアリィは両親と共に、シルヴィの遺体が収容されている病院に向かった。デイヴィットも、リリィも無言だった。湿った土のような重苦しい沈黙が、車内を押し潰す。少しでもいい。沈黙から逃れたくて、メアリィは窓を半分だけ開けた。
 姉が死んだというのに、空は清々しい青色だ。メアリィは必死で機影を探した。シルヴィが墜ちたというのは嘘で、今も元気に空を飛んでるんじゃないかと思ったから――思いたかったからだ。病院に着くまで、メアリィは戦闘機を探していた。
 医師に案内され、メアリィたちは霊安室に行った。白い布の下から現れたシルヴィは、とても穏やかな顔だった。死んだとは思えなかった。淡々と医師が説明を始めた。
「シルヴィさんの死因は、出血性ショックでした。腹部に受けた銃創から、大量に出血したようです。機体が墜落し、炎上した時には、すでに息を引き取っていたようです」
 医師の言葉がメアリィの鼓膜に響く。まるで、世界の果てから届いているような感じだった。リリィが泣き崩れた。魂の底から泣いているような声は、虚しく霊安室に木霊した。デイヴィットに支えられた母は出て行った。
「彼女の妹さんですか?」残されたメアリィに、医師が話しかけてきた。
「……はい」
「これを、お渡します」
 医師は白衣のポケットから小さなビニール袋を取り出すと、メアリィに手渡した。封を開け、中身を掌に落とし、メアリィは目を見開いた。
「これは――」
 言葉が出なかった。ビニール袋の中身は、酷く折れ曲がったシルバーのリングだった。シルバーの相棒が痛々しい姿をしているというのに、ダイヤモンドは何も知らずに無垢な輝きを放っている。リングをひっくり返し、メアリィは裏側を見た。
 「N・EとS・R、二人の愛は永遠に」という文字が刻まれてあった。部屋の暗い明かりを反射した文字が光る。間違いない。これは、ノワリーがシルヴィに贈ったエンゲージリングだ。二人は――結婚を誓い合っていたのだ。言いようのない感情が込み上げた。
「馬鹿! お姉ちゃんの馬鹿! 何で死んじゃったの!? 私たちに全部押し付けて、全部置き去りにして! ずるいよ! 酷いよ! お願い、目を開けて! 帰って来てよぉ……お願い……」
 もう動かないシルヴィの冷たい身体に、メアリィは縋りついた。
 泣いた。そして憎んだ。
 姉にこんな運命を与えた神様を。
 姉を奪った空を。
 平和で、幸せだった日々には戻れない。
 もう、二度と――。


 メアリィは、ノワリーが同じ病院に入院していることを知った。瀕死の重傷を負った彼は、奇跡的に一命を取り留めたらしい。ノワリーに会いに行くな。両親は蛇のようにしつこく忠告してきた。ノワリーがシルヴィを殺したと思いこんでいるのだ
 お見舞いの品に、彼が大好きな白百合の花を持ち、メアリィは両親に内緒で病院に行った。受付で病室を訊き、彼がいる個室に向かった。白いドアをノックすると、掠れた声の返事が返ってきた。メアリィは震える手でドアを開け、室内に入った。
「こんにちは……ノワリーさん」
 メアリィは挨拶をした。窓際のベッドにいるノワリーが、ゆっくりと振り向いた。彼の笑顔を期待したけれど、ノワリーは笑ってくれなかった。
「……メアリィ?」
 ノワリーは、酷く驚いた様子だった。昼食を終えたばかりなのだろう、サイドテーブルの上にトレイが置かれていたけれど、食事の大半は残されていた。ノワリーはやつれていた。皮膚は青白く、頬は肉を失い、両目の下には濃い隈が浮かんでいる。頭に巻かれた白い包帯が、彼の怪我の深さを主張していた。
「お見舞いに来たの。これ、百合の花束。私が育てた花よ」
 メアリィは花を包んでいる紙をゴミ箱に捨て、サイドテーブルにある花瓶に入れた。
「……帰ってくれないか」棘のある声が背後から聞こえた。
「え?」
「悪いけど、帰ってくれ」
「どうして――?」
 振り向いたメアリィと、ノワリーの目が合う。鳥肌が立った。彼の琥珀の双眸は、底知れない憎しみと怒りに満ちていた。
「帰ってくれっ!」
 ノワリーが花瓶を掴み、床に叩きつけた。陶器の割れる音が響き、白い床に花が投げ出された。水が広がり、床に染みを作った。無残に散らばった白百合が、メアリィの翡翠色の目に突き刺さる。ノワリーが喜ぶと思って大切に育てたのに、花が好きだというのは嘘だったのか。メアリィの心の奥で、大切な何かが音を立てて壊れた。涙が溢れる。服の袖で顔を隠し、メアリィは病室を飛び出した。
 心を砕かれ、逃げるように家に帰ったメアリィは、ベッドに蹲って泣いた。ドアの外側で、リリィがメアリィを呼んだ。涙を拭ってリビングに向かうと、裁判官のように厳しい顔をしたデイヴィットが待っていた。
「……何?」
「座りなさい」いつも穏和な父に相応しくない声色だ。メアリィは、おとなしく彼の正面に座った。
「……彼に、会いに行ったそうだね。止めなさいと何度も言ったはずだ」
「……会いに行ったわ。何がいけないの?」
「シルヴィを殺した男だ。二度と会いに行かないと、約束しなさい」
「違うわ! ノワリーさんは、お姉ちゃんを殺してない! 彼のせいじゃない! 二人共酷いわ! あんなに親しくしてたのに態度を変えて、全部ノワリーさんのせいにするなんて、間違ってる! 卑怯よ!」
「メアリィ!」
 これ以上リビングにいたくなかった。このまま居続ければ、両親に酷い言葉をぶつけてしまいそうだった。部屋に戻り、ベッドに飛び込んで、毛布をかぶった。二人の気持ちは痛いほど分かる。愛する娘を失った悲しみや怒りを、どこにぶつけたらいいのか分からないのだ。
 でも、私がいるじゃない。
 私じゃ、駄目なの?
 お姉ちゃんの代わりになれないの?
 分厚い毛布にくるまって、メアリィは一晩中泣き続けた。


 もう一度、彼に会いたい。いや、会いに行かないといけないと思っていた。
 けれど、あの表情を思い出すと恐怖が息を吹き返し、それに抗えなかった。
 明日行こう、明日行こうと思っているうちに、数ヶ月が経ってしまった。風の噂で、ノワリーが明日退院することを知った。明日行かなければ、二度と会えないとメアリィは思った。今度こそ、必ず会いに行こう。この機会を逃したら、一生後悔することになるだろうから。
 またこっそりと、メアリィは病院に行った。堂々と行けばいいのに、何で自分はこんなに臆病なんだろう。両親を傷つけたくないから? いや、違うと思う。両親に嫌われるのが怖いのだ。ノワリーの病室は知っている。ロビィに足を踏み入れると、勇気が萎えてしまった。また、あの目で睨みつけられたら、どうすればいいのか分からない。迷いを抱えたまま、メアリィはソファに座った。
「人違いならすまんが……もしかして、シルヴィの妹さんかね?」
 俯いた頭上から、声が降ってきた。顔を上げると、老齢の男性がメアリィを見下ろしていた。日に焼けた赤銅色の顔に、サンタクロースのように真っ白な髭。オイルで汚れたツナギには、ユグドラシル基地のエンブレムが着けられていた。頷くと老人は隣に座り、ヴァルカンと名乗った。チームヴァルキリーの専属メカニックだったらしい。
「ほぉ……お姉さんに瓜二つじゃな。美人なところもそっくりじゃ」
「そんな……姉のほうが綺麗ですよ」
「ノワリーに、会いに来たのかね?」
「……はい。でも、怖くて――」
「怖い?」
「……この前会いに行った時の彼は、凄く怖かった。やっぱり……もう、会わないほうがいいかもしれません」
「ワシは、会ってほしいと思っておる」
 メアリィは思わずヴァルカンを見た。優しく、諭すような視線が見つめ返してきた。
「ノワリーはの、全てを失った。チーム、友人のイージスに……婚約者のシルヴィ。生き延びた代償は大きかった。彼は、右手脚を切断したんじゃよ。恐らく、もう、戦闘機に乗れないじゃろう。それに、屋上から飛び降りようとしたらしい。何とか思い留まったようじゃがな。お嬢ちゃんから見放されたと知ったら……ノワリーは――」
 ヴァルカンの言葉は途中で詰まった。メアリィは絶句した。ノワリーが右手脚を切断したことも、屋上から飛び降りようとしたことも知らなかった。それなのに、自分が悲劇のヒロインだと思い込んでいた。ノワリーがどれほど苦しんでいるのか気にも留めなかった。
「ワシは会いに行くが、お嬢ちゃんはどうするかね? 来たことを伝えておこうか?」
「……はい」
 メアリィの肩を叩いたヴァルカンは、人波の中に姿を消した。
 馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。
 私はとてつもない愚か者だ。
 姉にそっくりな自分を恨んだ。
 だから、あの時、ノワリーはあんな態度をとったのだ。
 メアリィを見て、姉を思い出したのだ。
 顔の皮を剥がし、別人になりたいと思った。落としていた視線が、メアリィの前に立つ革靴を捉える。メアリィは、ゆっくりと顔を上げた。
「……やあ」
 目の前にノワリーが立っていた。黒いスーツとコート。肩に鞄を提げている。一瞬、怯えてしまった。ノワリーの顔は穏やかだった。短い返事をした。彼は荷物を置くと、メアリィの隣に座った。何を言えばいいか迷っていたら、ノワリーが話しかけてきた。
 ノワリーに会いに来たと告げると、彼はあの日の出来事を謝ってくれた。貴方は悪くない。その一言が言えず、胸が痛んだ。何回か言葉を交わし、鞄を肩に提げたノワリーが立ち上がった。
 ノワリーを呼び止めたメアリィは、ポシェットから小さな箱を取り出し、ノワリーに渡した。中には指輪が入っている。蓋を開けたノワリーは驚き、愛おしげに指輪を指でなぞると、切れ長の目を伏せた。長い睫毛が、彼の端正な顔に憂いを帯びた影を落とす。
「どうして……君がこれを?」
「姉さんが、最期まで身に着けていたの。貴方に預かってほしい。二人の愛の証だから」
「……ああ。ありがとう」
 ノワリーは壊れ物を扱うような手つきで、指輪をコートのポケットにしまった。そして、別れの抱擁をしてくれた。挨拶みたいなものだと分かっていたけれど、嬉しかった。メアリィは控え目に彼の背中に腕を回した。メアリィを放すと、ノワリーは一度だけ振り返って立ち去った。
 好きだと告白することもできた。でも、メアリィは想いを伝えなかった。シルヴィを裏切ってしまうと思ったからだ。ノワリーは、生涯シルヴィを想い続け、独りで老いていく道を選ぶだろう。姉の存在を越える女性が現れないかぎり。永遠に。
 そう広くない背中に、計り知れない重みを背負い、ノワリーは生きようとしている。
 折れた翼を抱え、地上で生きようとしている。
 二度と飛べない空を見上げながら。
 世界を支える孤独なアトラス。
 支えたい。
 姉と同じ空で、生きたい。


 メアリィを乗せた旅客機は、無事に滑走路にランディングした。空港でバスに乗り換え、揺られながら景色を眺める。目的地に到着した。身分証と許可証を警備員に見せ、ゲートをくぐったメアリィは、敷地内に足を踏み入れた。
 目の前に広がるのは灰色の滑走路だ。両脇に三つの格納庫と隊舎、赤茶色の屋根を頂く建物がある。オフィスはどこだろうか。場所が分からない。誰かに訊いてみることにしよう。メアリィは格納庫の中を覗いてみた。人の気配はない。中に入った。薄暗い建物内に足音が響く。何気なく辺りを見回していたら、驚く物を見つけた。
「これは――」
 見覚えのある、淡いオレンジ色の機体。間違いない。シルヴィの機体――ブリュンヒルドだ。昔、送られてきた写真に写っていた。姉と一緒に墜ちたはずの戦闘機が、どうしてここにあるのだろう。触れてみたい。メアリィは手を伸ばした。
「触っちゃ駄目だよ! 姉ちゃん!」
 手を引っ込め、メアリィは振り向いた。コンテナの陰から、三人の少年がこちらを見ている。銀髪、栗色、濃紺の髪の三人組だ。銀髪の少年が歩み寄って来た。なぜか、手に苺ジャムの瓶と革靴を持っている。
「勝手に触んないでほしいな。隊長に怒られちまうよ」
「この戦闘機は、誰の?」
「パイロットはいないよ。運ばれてきたンだ。すっげぇボロボロだったのを、俺たちが直したのさ」
 自慢げに少年が笑う。キャノピィが開き、シルヴィが降りてくる幻覚を見た。
「お姉さん、基地の人?」栗色の髪の少年が尋ねてきた。
「見たことない女だ。不法侵入じゃねぇのか」
「正確に言えば……今日から基地の人間になるの。ここの指揮官に会いたいんだけど、オフィスってどこかしら?」
「反対側にあるよ。コンクリートの隊舎の三階で……赤茶色の屋根の建物の隣。案内しようか?」
「いいえ、大丈夫。ありがとう」
 栗色の髪の少年の申し出を丁寧に断り、メアリィは滑走路の反対側に行った。コンクリート造りの隊舎に入り、エレベーターで三階に上がる。廊下を進み、一つのドアの前で足を止めた。ドアの上部にプレートが付けてある。二回ノックをしたけれど、返事はない。ノブを回して室内に入った。
 無駄な飾りのない、シンプルなオフィス。彼らしいと思った。デスクの上に、伏せられた写真立てがあった。それを手に取ったメアリィは、目を細めた。幸せな笑顔を浮かべる二人の男女が写った写真が閉じ込められていた。やっぱり、彼女を忘れないでくれている。それが、とても嬉しかった。
「メアリィ?」
 懐かしい声が背中を叩き、メアリィは振り向いた。長身の青年が立っていた。漆黒の軍服。肩には階級を表す星が光り、胸元には勲章が煌めいている。溜息が出るほどの端正な顔立ち。濃い緑色の髪は、少しだけ伸びていた。
「久しいな。二年ぶりか?」
「ええ。会えて嬉しいわ」
「私もだ。そうか……新人というのは君だったのか。早速ですまないが、これが契約書だ。できれば、明日中に提出してくれ」
 ノワリーは引き出しから数枚の書類を出し、メアリィに手渡した。彼は、右手にだけ白い手袋を嵌めていた。右手脚を切断した。ヴァルカンの言葉が蘇る。罪悪感が顔に出ないように演技した。ノワリーは勘が鋭いから、気づいているのかもしれない。でも、気づかない振りをしてくれるだろう。
「君に訊いても仕方ないと思うが――私の靴を見なかったか?」
「靴? 革靴?」
「そうだ」ノワリーはスーツに不釣り合いなスニーカーを履いていた。
「そういえば――」格納庫にいた少年たちを思い出した。「格納庫にいた男の子たちの一人が、革靴を持っていたわ」
「……アルジャーノンとフォーマルハウト……またあの二人か。まったく、彼らは酷い悪戯小僧で、何度言っても、反省の色を見せないんだ。ああ、すまない。敷地内を案内しよう」
 ノワリーの後に続き、メアリィはオフィスを出た。メアリィの前を歩くノワリーは、昔と変わらなかった。大きく変わったのは外見ではなく、中身だと思う。口調は責任ある立場のものに変わっていた。昔のように、笑い顔を見せてくれないのだろうか。無理矢理感情を押し込めているような感じがした。
「メアリィ・ローレンツ」
 足を止めたノワリーが振り返った。
「チームヴァルキリーへ、よく来てくれた。我々は、君を歓迎する」
 ノワリーが敬礼した。無駄のない完璧な動作が素晴らしかった。
「よろしくお願いします。エリオット隊長」
 メアリィも敬礼を返した。
 ぎこちない動きだったけれど、彼は微笑んでくれた。
 ブリュンヒルドに乗りたいというつもりだ。
 生きようとして、精一杯生き抜いた、シルヴィの軌跡を知るために。