俺は、たくさんの命が輝きながら散っていく、美しくも熾烈な戦場の空を飛んでいたはずだった。
 でも、俺はいつの間にか地上に戻っていて、手術台のようなベッドに寝かされていた。神に捧げられた子羊のように横たわる俺を見下ろしているのは、白く輝く六つの太陽だ。太陽は一つだと思っていたが、眩しさに目を細めて観察してみると、それは人間が作った照明だと分かった。
 部屋の空気は冷たい。俺の衣服は全て剥ぎ取られていて、下半身を隠すように薄いシーツが掛けられているだけだ。ここがどこかなんてどうでもいい。夢なら早く醒めてほしい。一秒でも早く、俺は空に戻りたかった。
「やあ。目が覚めたようだね。気分はどうだい?」
 乾いた音が二回。神様が訪ねて来たのかと思ったが、部屋に入って来たのは神様とは程遠い一人の人間だった。四十代前半の男性。マロンペーストの髪。中肉中背で白衣を羽織っている。どこにでもいそうなごく普通の中年男性に見えたけれど、彼の灰色の目はどこか不気味だった。ベッドの傍らに立った男は、優しく微笑んだ。
「それにしても、あの高度から墜落してよく助かったね。まさに奇跡の生還だ」
 俺は墜ちたのか。俄かには信じらなかった。これが夢である証拠を探そうと、俺は首を動かした。パイプと蛍光灯が絡まった灰色の天井と壁。薬と包帯と医療道具が詰まった棚。鋼鉄の遺体安置室があった。窓は見当たらない。換気扇が唸っている。ここは地下なのかもしれない。俺が寝ているベッドの隣に、もう一つのベッドが置かれていた。誰かいる。敵か?
「おっと。駄目だよ」白衣の裾が翻り、俺の視界を遮った。「そっちは見ないほうがいい」
 男が着ている白衣が視界を遮る刹那、俺はベッドに寝かされている血塗れの男性を見てしまった。テーブルの上のトレイには、鈍く光る金属の破片が積まれていた。俺は、あの破片の正体を知っている。そして、動く気配を全く見せない血塗れの男性の正体も、俺は多分知っている。でも、俺は、それを思い出すのが怖かった。
「疲れただろう? 少し眠るといい。次に目が覚めた時は、全て元通りになっているよ。君は元気になって、また空を飛べるようになっているからね」
 俺の頬に掌を這わせた男は微笑んだ。爬虫類のような体温の手だった。白衣のポケットから注射器が現れ、細い針が俺の左腕に優しく刺さった。透明なのに濁って見える液体が、赤い血液と混ざり合っていく。やがて、ゆっくりとした速度で、俺の瞼は重くなっていった。
 空が遠く離れていく。
 青い夢から醒めようとしている。
 お願いだ。
 神様、もう一度だけでいい、俺を空に戻してくれ。
 俺の祈りは届かなかった。
 きっと、高度が足りなかったんだ。


 空気中に散らばっていた意識を掻き集めて、目を覚ました俺を出迎えたのは、清潔な白い天井だった。視線を動かすと、そこには黒いモニターがあり、緑色の線が緩やかな波線を描いていた。見慣れたコクピットのディスプレイではない。霞んでいた視界がクリアになる。倦怠感が色濃く残る身体は、ほとんど動かせない。戦場では、真っ先に周囲の状況を確認しないといけない。無理をして俺は首を捻った。
 身体中に繋がったコード。フライトスーツは脱がされていて、入院患者が着るような服が、俺の身体を包んでいた。頭が窮屈なのは巻かれた包帯のせいだと思う。ベッドの横にはサイドテーブルと、控え目な大きさのテレビが置かれていた。テレビの画面は静かだ。サイドテーブルの上には、花のない花瓶が佇んでいる。どうやらここは、どこかの病院の一室のようだ。天井も壁も、カーテンも真っ白だった。おまけにベッドもシーツも白い。花嫁に怒られるぞ。白い色は、花嫁だけが着ることを許された色なんだ。
 花嫁?
 シルヴィは? 
 イージスは?
 ヴァルキリーはどうなった?
 ここは地上か?
 ならば、早く空に戻らないと。
 正面にあるドアが開いて、白衣と聴診器を身に纏った医師と看護師が入って来た。医師はカルテに視線を落とし、謎の呪文を呟いている。ちゃんと前を見て歩かないと危ないぞ。看護師がベッドの側に来た。彼女の手が俺の口を覆っている酸素マスクを外した。ゆっくりと呼吸をしてみてくださいという指示に従い、俺はゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐いた。新鮮で、冷たい空気が肺に送り込まれる。侵入してきた酸素に驚いた肺が、胸に痛みを伝えた。
「ご気分はどうですか?」
 カルテをサイドテーブルに置いた医師が訊いた。最悪に決まっているだろう。そう言ってやろうと思ったけれど止めておこう。
「悪くないです。ここは……軍の病院ですか?」自分の声とは思えない、掠れた音だった。
「いえ。ここはクルタナの首都病院です。医療設備が整っているここに、貴方は移送されたんですよ」
「いつ退院できますか?」
「少なくとも――五ヶ月はかかるでしょう。頭部を激しく強打。肋骨が折れて、肺に突き刺さっていました。おまけに、左側頭部にキャノピィの破片が突き刺さっていたんですよ。死んでいても可笑しくない状況だ。助かったのは奇跡としか言いようがない」
 奇跡と聞いて俺は笑った。そんな言葉はいらなかった。綺麗にラッピングした箱に入れて、赤いリボンを結んで送り返してやる。天辺に文字を書いたチョコレートもつけてやろうか。医師と看護師も笑った。俺が助かった喜びを噛み締めていると思っているのだろう。看護師が医師に耳打ちした。彼の表情が翳った。咳払いをすると、医師は口を開いた。
「……エリオットさん。残念ながら、良いことばかりではありませんでした。貴方の右腕と右脚は、酷い損傷を負っていました。治療を施しても、もう動くことはないと判断し……切断しました。でも安心してください。最新式の義手と義足を着けさせてもらいました」
 切断と義手と義足だって? 彼の言葉が信じられなかった。真実を確かめたい。俺は身体を起こした。看護師が身体とベッドの隙間にクッションを入れてくれた。医師がシーツを捲る。現れた異様な光景に、俺は言葉を失った。
 鈍く光る銀色の機械が、俺の腕と脚に繋がっていた。子供の頃にテレビで見た映画に出て来たロボットのようなパーツだった。俺の右腕と右脚は、肘から先と膝から下が綺麗になくなっていた。俺は、冷たいボディのサイボーグになってしまったのか? 違う。俺は人間だ。血と肉と骨があるじゃないか。
「これは、一般には普及されていない、最新の義手と義足です。機械の回路と神経、筋肉を繋いでいますので、脳からの電気信号をダイレクトに伝えることができます。付け外しはできませんが、水を弾く特殊な金属で作られているので、普通に入浴もできます。初めは動かすたびに痛みが走りますが、慣れれば以前のように動くようになりますよ」
「失礼する」
 来訪を伝える声に続くようにドアが開き、クルタナ空軍の軍服を着た男が室内に入って来た。長身に逞しい体躯。凝ったデザインは、軍の幹部が身に着ける軍服だ。会釈を交わし、医師と看護師は出て行った。男はベッドの脇に立って、冷えきった目で俺を見下ろした。
「墜落したと聞いた時は驚いた。無事で何よりだ」
「……話したくない。帰ってください」
「久し振りに再会した父親に、その言葉はないだろう」
 俺の父親――クラッド・エリオットは、何の感情も表さずに淡々とした口調で言った。プロの殺し屋のように、自分の心の内を読ませようとしないのだ。
「……俺を心配して会いに来たんじゃないくせに、よく言いますね。跡継ぎのことが心配なんでしょう? この機械の腕と足を着けるように頼んだのも、貴方ですね?」
「大戦は終結した。チームヴァルキリーの犠牲のお陰で、我々は勝利した」
 犠牲?
 この男は、何を言っているんだ?
 あの時、指揮官が言っていた言葉を思い出した。
 先陣を切ってくれ。
 まさか――。
 冷や汗が背筋を伝っていった。
「……ヴァルキリーを、捨て駒にしたのか?」
「そうだ。少しでも奴らを殲滅しておきたかった」
「ふざけるな! 彼らを見殺しにしたんだぞ!?」
「兵士はいくらでもいる。重要なのは、いかにして自軍の戦力を減らさずに、相手の戦力を削ぐかだ。キングは守らなければならない。しかし、あれだけの人数で敵の機体を半分以上墜とすとは、さすがは精鋭チームだ。失うには惜しかった」
 冷静にならないといけない。落ち着くんだ。俺が病院に運ばれたのなら、あの二人もここにいるはずだ。
「……イージスさんは? シルヴィは? チームはどうなったんです?」
「チームヴァルキリーは全滅した。ローレンツとイージスも、一週間前に死んだ」
 冷静になろうと努力したけれど、クラッドの言葉が俺から冷静さを奪い去った。点滴のチューブと医療機器のコードを引き抜いた俺はベッドから跳ね起き、制止するクラッドの声を振り切って病室を飛び出した。医師が話していたとおりだ。動かすたびに痛みが走る義足を引き摺りながら病院を彷徨い、俺は遺体が安置されている場所を見つけた。
 震える手でドアを押し開けると、目の前に広がっていたのは、何もない暗い空間だった。安置室には抜け殻になった遺体が置かれているはずなのに、そこには何も置かれておらず、暗闇が横たわっているだけだった。イージスとシルヴィは先に逝ってしまったのだ。
 そんなのは嘘に決まっている。
 ここで待っていれば、元気な姿の二人がやって来る。
 快活な笑みを浮かべたイージスが坊やと呼んでくれる。
 シルヴィも微笑んで、あの透明な声で名前を呼んでくれる。
 ずっと待っていても無駄だった。
 駄目だった。
 二人は、もう、戻って来ない。
 聖なる天国の門をくぐり、俺の手の届かない所に行ってしまったのだ。
「ノワリー。病室に戻るんだ」
「……嫌だ。ずっと……ここにいる」
「彼らは死んだ。生き残ったのはお前だけだ」
 感情のこもっていない、悪魔のような冷たい声が、俺の心に絶望を植え付けた。全身から力が抜けた俺は、冷えきった床に座り込んで嗚咽を漏らした。靴音が俺のすぐ側まで近づく。溜息の音。逞しい腕が俺の身体に回された。身体が宙に浮く。クラッドが俺を背負ったのだ。
 十九歳の大きな赤ん坊を背負ったクラッドが廊下を歩く。あまりにも情けなくて笑う気にもなれない。そのまま病室に運ばれて、俺はベッドに寝かされた。クラッドが看護師を呼んできた。鎮静剤を打たれた俺は、眠りの中に強引に引き込まれていった。


 夢の中で目覚めた俺は、灰色の滑走路の真ん中に立っていた。周囲に佇む管制塔や格納庫に、搭乗員宿舎の形に見覚えがあった。そう、俺はユグドラシル基地にいたのだ。機械の手足は消えていて、肉と骨を纏った手足が生えていた。
 早く夢から離脱しないと。でも、目覚める方法が分からない。後ろに誰かいる。夢の中で振り向いたらいけないと聞いたような気がしたけれど、考えるよりも先に身体が先に動いていた。振り向いた途端、俺の身体中の細胞は凍りついた。
「よう。坊や」
「久し振りね」
 俺は戦慄した。快活に微笑むイージスとシルヴィが後ろに立っていたのだ。二人とも五体満足で、機体の破片も突き刺さっていない。二人は笑っていたけれど、どこか異質で不気味だった。次の瞬間、イージスの顔が暗く歪んだ。
「坊や。何で俺たちを殺したんだ?」
「……え?」
「お前が俺たちを殺したんだ。おかげで俺は、シエラとイリアに二度と会えなくなっちまった。おまけに、俺の身体を奪って生き延びやがって」
「何を……言って……」
「そうね、貴方が私たちを殺したのよ」
「違う! 俺は――!」
「人殺し」
「信じていたのに」
「家族に会いたい……」
 呪詛の声が、周囲から聞こえてきた。
 チームヴァルキリーのメンバーが、恐ろしい形相で俺を睨んでいた。
 手足を失った者。
 全身に火傷を負った者。
 折れた骨が肉を突き破っている者。
 人とは思えない姿をしたパイロットが、俺を取り囲んでいた。
「愛しているわ。ノワリー」
 血塗れの顔でシルヴィが微笑んだ。
 夢から離脱。
 呼吸が浅く、そして、速い。
 汗で湿ったパジャマが身体に張り付いている。
 吐き気がして、頭が痛かった。
 俺は部屋を出て暗い廊下を歩き、トイレに向かった。
 便器の前に屈みこみ、液体に血が混じるまで何度も吐いた。
 冷たい床に蹲ってすすり泣いた。
 背中を撫ででくれたイージスの大きな手はもうない。
 愛を誓い合ったシルヴィはどこにもいない。
 彼らは空で散った。
 抜け殻は、雲が優しく受け留めてくれただろうか?
 神様が拾ってくれただろうか?
 俺は、大事なものを空に残してきた。
 抜け殻だけが、地上に戻って来てしまった。
 どうして、戻って来てしまったんだ?
 どうして――。


 一日の大半を殺風景なベッドの上で過ごし、拷問のように辛いリハビリを続ける。そんな毎日が続いた。あれ以来、クラッドは訪ねて来ない。抜け殻状態でも、生きてさえいれば充分なんだろう。俺はエリオット家を存続させるための道具でしかないんだ。
 質素な昼食を終えた俺は、虚ろな目で窓の外を眺めていた。俺が入院している部屋は個室だ。だから話し相手はいない。寂しいとは思わなかった。そのほうがいい。機械の手脚を持つパイロットという噂が広まって、好奇な目で見られるのは嫌だから。ドアがノックされた。返事をする。ドア開く。神様でも死神でもない、花束を抱えた少女が入って来た。
「こんにちは……ノワリーさん」
「……メアリィ?」
 訪ねて来たのは、シルヴィの妹のメアリィだった。彼女よりも小柄で華奢だったけれど、恐ろしいくらいシルヴィに生き写しだった。シルヴィを思い出すだけで、心が引き千切られそうなくらい辛いのに。彼らを殺した罰なのか? 込み上げてくる悲しみが、次第に俺の理性を奪っていった。
「お見舞いに来たの。これ、百合の花束。私が育てた花よ」
 メアリィはサイドテーブルの上にある花瓶に花を入れた。一つ一つの動作がシルヴィにそっくりだ。俺は理由もなく苛立った。彼女を追放しろ。もう一人の俺が囁いた。
「……帰ってくれないか」
 見たくない。
 見たくないんだ。
「え?」
「悪いけど、帰ってくれ」
「どうして……?」
 お前の顔なんて、見たくないんだ!
「帰ってくれっ!」
 俺は花瓶を掴んで床に投げ捨てた。華奢な花瓶は無惨に砕け散り、白百合の束が床に散乱した。床に水が染みていく。メアリィの肩が震え、翡翠色の双眸に涙の海が広がった。服の袖で顔を隠したメアリィは、飛び出すように病室を出て行った。取り乱して遠ざかる足音を、俺は無表情で聞いていた。頭の中からメアリイを閉め出して、窓の外に目を向けた。
 秋晴れのような空は青く、一点の曇りもない。
 もっと近くで空を見たい。
 ベッドから下りた俺は、松葉杖を手に取った。空に近い場所と言えば屋上だ。こんな脚だから、階段を使うのは辛いので、俺は杖をつきながらエレベーターの乗り場へ向かった。到着した箱に乗り込んで屋上に上昇する。割と素直にドアは開いた。
 洗濯された白い衣類が、ロープに吊るされてはためいている。屋上には誰もいないようだ。屋上の端に行った俺はフェンスを乗り越え、へりに立って真下を眺めた。ミニチュア人形みたいに小さな人々が動いている。さあ、飛び降りて、彼らの平和な日常に、刺激的なスパイスを効かせてやろうじゃないか。
「駄目!」
 甲高い声が背後から聞こえた。振り向くと、フェンス越しに幼い女の子が俺を睨んでいた。少女は破れた網の隙間に手を突っ込むと、俺の服を強く掴んだ。小さな手が俺の服を引っ張り、フェンスの向こう側への帰還を要請した。
「はやくこっちに来て!」
 引っ張る手の力が強まった。無視して飛び降りることもできるけれど、そうすれば子供を巻きこむことになるだろう。仕方なく俺はフェンスの向こうに戻った。子供はまだ服を引っ張っている。そんなに引っ張らないでほしい。義足に慣れていない足がふらついて、俺は尻餅をついた。少女が驚いて後ろに下がった。自分がしつこく引っ張ったせいだと思ったんだろう。俺は仰向けに寝転んで、空を見上げた。思ったとおり、綺麗な空だった。
「あの……大丈夫?」
「何が?」仰向けになったまま、俺は答えた。
「その……手と脚……」乱れた服の隙間から、機械の手脚が見えていた。
「あぁ……大丈夫だよ」
 子供が俺の側に来た。柔らかそうな金色の髪。目は素晴らしい空色だ。なぜだろう。気分が少し落ち着いた。身体を起こし、俺は広がる街並みを眺めた。一人の人間が飛び降り自殺を企てたのに、ビルや家は素知らぬ顔で建っている。
「お兄ちゃん、パイロット?」
「そうだった。でも、もう飛べないけど。どうして分かった?」
「看護師さんから聞いたの。パイロットの人が入院してるって。会えて嬉しいなぁ」
 女の子は太陽のように笑顔を輝かせた。空の眩しさには慣れているはずなのに、彼女の笑顔はとても眩しく、俺の胸を衝いた。
「こんな所にいた! 検査の時間よ」入口のドアが開き、女性が顔を出した。担当の看護師だろう。
「もう行かないと。またね!」
 少女は小さな手を振り、看護師の女性と出て行った。
 もうしばらく、俺は空を眺めることにした。
 なぜだろう。死ぬのが馬鹿馬鹿しくなった。
 死ぬには勇気がいる。
 その勇気があれば、何だってできるのかもしれない。


 俺はまた、夢の中で目を覚ました。
 今度は暗闇の中にいて、足下には血の池が広がっていた。
 不意に、湿った感触が俺を襲った。
 無数の青白い手が俺の全身を這い上がり、絡みついてきたのだ。
 触り、掴み、探る。
 肉の腐り落ちた手が、全身を隅々まで這い回る。
 そのうちの一本が、俺の首を絞めてきた。
 池から浮かび上がるように、一人の死者が俺の前に立った。
 紙みたいに白い顔。
 全身に火傷を負っている。 
 それは――シルヴィの顔をしていた。
 唇が動く。
 愛しているわ。
 息が止まる寸前に、俺は現実に戻った。時計の文字盤を覗き込む。真夜中だ。眠れそうにないし、喉が渇いていた。震える身体を起こして、俺は一階のロビィに向かった。
 ロビィに人の姿はなかった。ナースステーションも明かりが点いているだけで誰もいない。見回りに行っているのだろう。世界に自分一人しかいないと思えるほど静かだった。もう、人類は既に滅んでしまったのかもしれない。
 俺は自販機でコーヒーを買って、適当に選んだソファに座った。正面の天井には大きな天窓があった。プラネタリウムみたいに星空を投影している。知っている星座がいくつかあった。優しかった頃の父に教えてもらった星座だ。
「こんばんは」後ろのソファから、あの女の子が顔を出した。
「君は……この前の」
「眠れないの?」
「まぁ、そんなところ」
 移動して来た子供が俺の隣に座った。足が床に届いていない。戦闘機に乗る時は苦労するな。年齢は俺より一回りは下だろう。希望に満ち溢れて、挫折を知らない年代だ。
「何か飲むか?」
 少女が頷いた。俺は立ち上がって自販機まで歩いた。コインを入れて、オレンジジュースのボタンを押し、出てきたジュースを手に取って戻る。俺の身体はだいぶ義足に慣れてきたようで、痛みはあまりなかった。少女はジュースを受け取り、蓋を開けて美味しそうに飲んだ。
「夜更かしすると、怒られるぞ」
「平気。もう子供じゃないもん」
「よく言うよ」
「あたしね、大きくなったらパイロットになるんだ! テレビで見たパイロットさんが、凄くカッコよかったの!」
「ふぅん……どんな人?」少女は眉を寄せた。思い出そうと努力しているのだ。
「どんな人かは知らないの。この前の大戦で活躍した、光の槍って呼ばれてる人よ。顔は知らない」
「……やめたほうがいい」何で? という顔で、少女が顔を向けた。「そいつは臆病者だから」そう付け加えると、少女は更に俺を見つめてきた。
「……そいつは仲間を見捨てて地上に逃げ帰って来た卑怯者だ。一度は死にかけたけれど、空で死ねなかった。チームを守り抜くと誓ったのに、結局はチームを全滅させてしまった人殺しだ。光の槍は、錆びついてしまったんだよ。彼は――もう、飛べない」
 俺は手に持ったコーヒーの缶を握り締めた。アルミのボディが音を立てて陥没した。
「ねぇ……もしかして、お兄ちゃんが光の槍?」
 俺は無言で頷き、そして俯いた。少女が俺を見つめているのが分かる。その視線を受け留めるのが怖かった。憧れだったパイロットがこんな奴だと知って、幻滅したんじゃないか。
「死んじゃ駄目だよ」唐突に少女が言った。驚いた俺は見つめ返した。
「お兄ちゃん……死にたがってる。駄目だよ。空でそんなことしちゃ駄目」
 核心を突かれたような気がした。
 全てを失って、俺は死を選んだ。
 屋上から飛び降りようとしたのも、空に近い場所で死にたかったからだ。
「あのね、あたしのパパとママは、お星様になったの。もう会えないけれど、いつも空の上からあたしを見守ってくれてる。ママが言ってたの。死んだ人は光になって、星の中心に還るんだって。そして、また生まれ変わってくるんだって。お兄ちゃんの大切な人も、星に還る前に、会いに来てくれるよ」
 内側から破裂するように、両目から涙が零れた。俺は大人だ。幼い子供の前で泣く姿を見せたくなかった。でも止められない。嗚咽が唇から洩れる。少しでも年長者の威厳を保ちたくて、俺は顔を伏せた。
「……ごめんっ……情けないよな……大人が泣くなんて……」
 小さな手が俺の手に重なった。俺を見つめる空色の瞳は、痛いくらいに澄んでいた。空をガラス玉に閉じ込めたら、きっと、こんな感じになる。世界中の店を探しても、どこにも売っていない幻の品だ。短い腕を精一杯伸ばした少女が俺を抱き締めた。俺を抱くには些か小さい身体だった。
「あたしが側にいてあげる。だから、思い切り泣いていいよ」
 俺の胸に頬を寄せた少女が静かに言った。あまりにも大人びた言葉に俺は苦笑した。俺は笑いながら、思う存分泣いた。涙が涸れ果てた頃、隣に座っている少女の身体が傾いて、小さな頭が俺の太腿の上に落ちた。眠りの神の誘惑に負けたんだな。彼女は眼を閉じて、安らかな寝息をたてている。
 一回だけ、俺は少女の髪に触れてみた。とても柔らかい金色の髪は、期待通りの感触を指に与えてくれた。アラクネが織った布も、こんな手触りなんだろう。少女の体温を噛み締めながら、俺は天窓のプラネタリウムに映った星を眺めて、魂が還るという星の中心を探した。
 ロビィを包む空気が冷たくなってきた。部屋に運んだほうがいいと思ったけれど、それと同時に彼女の病室を知らないことに気づいた。俺の部屋に連れて行くわけにはいかない。困り果てていると、階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。
 足音は廊下を曲がり、ロビィに近づいてくる。一人の女性がロビィに入って来た。少女を認識した女性の顔に、警戒の色が浮かぶ。俺を変質者か誘拐犯だと誤解しているみたいだ。警察を呼ばれる前に、誤解を解かなければいけない。俺はこれまでの経緯を女性に話した。彼女は銃を持っていないから、両手を上げる必要はなかった。表情を和らげた女性が口を開いた。
「貴方……もしかして、パイロットの人ですか?」
「え?」驚いた俺は目を瞬かせる。「どうして、分かったんですか?」
 女性が微笑んで、俺の脚の上で眠っている少女に視線を向けた。
「この子が嬉しそうに話していたんです。パイロットのお兄ちゃんに会ったって」
「貴女は、この子の知り合いですか?」
「はい。伯母で、彼女を育てています。どうも、ご迷惑をおかけしました」
 俺は慎重に少女を抱き上げて立ち上がり、彼女を女性の腕の中に渡した。ありがとうございます。少女を受け取った女性がお礼を言う。
「すみません」立ち去ろうとした女性に声をかけた。少女を抱えた女性が振り向いた。「助けてくれてありがとう、ってその子に伝えてもらえませんか?」
「え? ええ、分かりました。伝えておきます」
 頭を下げると、女性は廊下を曲がって行った。遠ざかる足音は、やがて暗闇へと消えていった。静まりかえるロビィ。また、俺は独りになってしまった。でも、怖くない孤独感だった。
『ノワリー』
 妖精の羽音のように小さな声が後ろで響いた。注意しなければ聞き取れないほど小さな声だった。俺は振り向いた。心臓が止まりそうになった。朧げな輪郭のイージスとシルヴィが立っていた。向こうの景色が透けて見えている。悪夢の中で見た二人とは違う。天国の門の内側にいる聖者のように静謐で、穏やかな表情だった。
『還る前に会いに来た。俺たちは、坊やを憎んじゃいないよ。むしろその逆だ』
『貴方と飛べて、よかったわ。私たちに縛られちゃ駄目よ。自由に生きてね』
『じゃあな、坊や。お前は最高の友人だ』
『大好きよ、ノワリー』
 最後に二人は微笑んだ。
 俺の心に余韻を残し、二人は消えていった。
 彼らは誇り高く、空で散った。
 その命は、最期まで雄々しく、光輝いていた。
 勇敢で気高く、
 稲妻のように、
 自分たちが生きた証を空に刻み込んだ。
 俺は敬礼した。
 今までに行った敬礼よりも、素晴らしい動きで。
「……さよなら」
 俺は呟き、振り向いた。
 抜け殻がそこにあった。
 それを拾おうとはしなかった。
 そうして、過去の自分から離脱した。


 傷だらけだった過去の抜け殻を捨て去った俺は、まるで生まれ変わったようにリハビリに励み、思っていたよりも早く退院の権利を勝ち取った。血の滲むような努力を重ねれば、必ず実るということだ。少ない荷物を纏めていると、病室のドアが叩かれた。ドアを開けて入って来たのは、汚れたツナギを着た老齢の男性だった。
「……ヴァルカンさん?」
「久し振りじゃな、ノワリー。具合はどうだね?」
「墜ちたい墜ちたいと言っていたら、本当に墜ちてしまいましたよ」
「……ノワリー」
 ほんの軽い冗談のつもりだったのに、ヴァルカンの表情が暗くなってしまった。俺は慌てて明るい表情を作った。
「もう大丈夫です。新しい手足にも慣れました。心配をおかけしました」
「そうかい、安心したよ。……イージスとシルヴィのことは、本当に……残念じゃった……」
 目頭を押さえたヴァルカンが呟いた。少し胸が痛んだけれど、以前ほど悲しくならなかった。二人は俺の中で生きている。永遠に色褪せはしない。だから、大丈夫だ。
「シルヴィの妹さんが来ているようじゃが……どうするかね?」
「メアリィが?」
 俺は驚いた。あんなに酷い再会をしたのに、彼女はまた来てくれたのか? いや、彼女の友人が、偶然俺と同じ病院に入院しているのかもしれない。思い上がるな。いずれにせよ、メアリィに会わなければいけないだろう。
「メアリィはどこにいるんですか?」
「一階のロビィにいるよ」
 最後の荷物を鞄に詰め終わって、俺はヴァルカンと一緒に一階に下りた。混雑しているロビィを見渡すと、人の波の中にメアリィの姿を見つけた。誰を待っているのか気になった。ユグドラシル基地に戻るヴァルカンと別れた俺は、緊張しながら彼女に近づいた。気配に気づいたメアリィが顔を上げる。一瞬、怯えた表情が彼女の顔に浮かんだが、メアリィはすぐに微笑んだ。
「……やあ」
「……こんにちは」荷物を置いて、俺は彼女の隣に座った。メアリィが話し出すのを待っていたけれど、彼女は無言だった。
「誰を待っているんだ?」
「え? ……その、ノワリーさんを待っていたの。今日退院するって聞いたから」
「俺を? 君に……酷いことを言ったんだ。嫌われたと思っていた。本当に、すまなかった」
「嫌いだなんて、そんなこと思ってないわ! ……私こそ、ごめんなさい。貴方がどれほど苦しんでいるのか知らなかった」
 メアリィが首を振った。波を描く金色の髪が揺れる。
「貴方は姉さんを愛してくれた。姉さんの人生に幸せを与えてくれた。私も家族も、とても感謝してるわ」
 メアリィの両目から綺麗な涙が溢れた。地面に落とすのは勿体ない。俺はポケットからハンカチを出して、彼女の目尻を優しく拭った。姉を殺した相手を許してくれたばかりか、そいつのために涙まで流せるなんて、彼女は優しい子だ。
「……ありがとう、メアリィ。その言葉だけで、俺は救われる。でも、許してもらおうとは思わない。一生を懸けて、罪を償うよ」
 自分でも驚くほど、穏やかな微笑みだったと思う。迎えが来ると聞いている。そろそろ時間だ。俺は立ち上がり、鞄を肩に提げた。
「もう行くよ。来てくれてありがとう。嬉しかった」
「待って!」メアリィも立ち上がった。ポシェットを開けたメアリィは、小さな箱を取り出した。俺は箱を受け取って、蓋を開けた。
「これは――」
 哀れなくらいに折れ曲がった、銀色の指輪が中に入っていた。唯一無傷なダイヤモンドが光っている。あの時シルヴィに捧げたエンゲージリングだった。思えばあの瞬間が、人生で一番幸せな時だった。
「どうして……君がこれを?」
「姉さんが最期まで身に着けていたの。貴方に預かってほしい。二人の愛の証だから」
「……ああ。ありがとう」
 大事に、慈しむように、俺は指輪をしまった。これがあれば、いつでもシルヴィに会えるだろう。
「じゃあ、行くよ。元気で」
 俺はメアリィを包み込み、別れのハグをした。
 二年前の時みたいに、メアリィは白い頬を真っ赤にした。
 もう、二度と、会わないかもしれない。俺はそう伝えようとした。
 でも、言わないでおこう。
 天気予報も外れることがあるからだ。


 病院の外に出ると、一台の高級車が俺の正面で止まった。空軍の車だろう。根回しがいいな。運転手が後部座席のドアを開けた。俺を気遣っているつもりなのだろう。余計なお世話だ。自分で開けれる。文句は言わなかった。彼は与えられた仕事をしているだけなのだ。
「どこへ向かう?」
「クルタナ空軍本部です」
「戻る前に寄ってもらいたい所がある。構わないか?」
「もちろんです。お気兼ねなくどうぞ」
「ありがとう。住所は――」
 俺を乗せた車は走り、市街地に向かった。見慣れた住宅街に到着する。車を待たせた俺は、一軒の家に行った。呼び鈴を鳴らし、住人が出て来るのを待った。しばらくするとドアが開き、女性が出て来た。娘と同じ金色の髪。そう、シルヴィの母親リリィだ。青白い顔に削げた頬。リリィは、生きる意味を、生きて行く意味を見失ったような目をしていた。
「……ノワリー君?」
「お久し振りです。ご主人はご在宅ですか?」
「ええ。どうぞ、上がってちょうだい」
 家に上がって、何度も通った廊下を歩く。リビングのソファは同じ花柄だった。デイヴィットはソファに座っていた。妻と同じく彼もやつれていた。無理もない。最愛の娘を失ったのだ。子に先立たれた悲しみは計り知れない。夫妻の目の奥に、俺は絶望の光を見た。
「久し振りだね。入院したと聞いていたが……もういいのかい?」
「はい」座るように促され、俺はデイヴィットの正面に座った。沈黙。鳥の囀りだけが聞こえる。
「私たちに話があって来たのだろう?」
「……彼女は、シルヴィは最期まで勇敢に戦いました。誇り高く、空で散りました。全て俺の責任です。許してくださいとは言いません。俺を憎み続けてくださっても構いません。だから……彼女の後を追う真似だけはしないでください」
 俺は遠回しに、二人に死ぬなと言った。懇願した。リリィが嗚咽を漏らした。再び沈黙が流れる。デイヴィットの目が俺を見つめた。
 ターンもできない。
 ロールも、ループも駄目だ。
 逃げてはいけない。
 俺は彼の視線を正面から受け留めた。
「……私も、リリィも、君を憎んではいない。娘を愛してくれたのだから。……だが、もう二度と、ここには来ないでくれるかね? 娘の死は、あまりにも辛すぎた」
 デイヴィットの口調は、凪いだ湖面のように穏やかだったけれど、俺を拒絶する意思が色濃く表れていた。俺は頷いた。覚悟はしていた。でも、改めて言われると辛かった。ただ二人は、シルヴィの墓参りをすることだけは許してくれた。
 深く一礼して、俺は家を出た。車の所に戻ると、運転手がドアを開けてくれた。まったく、どこまで仕事熱心なんだ。少しは妥協しろ。
「待たせてすまない。用事は済んだ。本部に向かってくれ」
「はい」
 慣れた手つきで運転手は車を発進させた。本当はイージスの家族にも会いに行くつもりだった。でも、何度電話しても繋がらなかったのだ。でも、俺は諦めはしない。どんな手段を用いてでも、必ず探し出してみせる。
 煙草を吸いたいと俺は思ったが、未成年だったことを思い出して諦めた。吸えば法律を破ることになるぞ。ふと不思議に思った。俺はいつから煙草を望むようになったのだろう。
 車内の空気が濁ってきて、俺は窓を半分開けた。濾過された空気が吹き抜ける。少し寒かったけれど、淀んでいた思考をクリアにしてくれた。
 車から見上げる空は狭い。屋根を剥ぎ取ってオープンカーにしたくなる。
 でも、どんなに狭くても、空の色は綺麗だった。
 例え、二度と飛べなくなっても、
 君が戻るその日まで、
 俺は空を守り続けるよ。
 ポケットに入れた指輪の輪郭をなぞった。
 閉じた瞼の奥に、シルヴィの姿が描かれる。
 ほら、いつでも会えるんだ。
 望めば、いつだって――。