車という乗り物は、不思議な物体だと常々思う。戦闘機と同じでマナを消費して動くというのに、その乗り心地は全然違うのだ。揺れが少ない戦闘機に対して、車は容赦なく身体を揺らしてくる。少しくらい静かに走ってほしい。テンポの激しいロック音楽のように気が利かない奴だ。
 俺とシルヴィとイージスの三人は、休暇を取って彼が運転する車に乗り、街に向かっていた。生きて帰ることが条件で、休暇の申請は簡単に許可された。最近は世界の情勢も安定しているようで、チームを支える俺たちが何日か留守にしても大丈夫なんだろう。
 車から見る景色は、教会で聞く神父の説法のように退屈だった。空があんなにも離れて見えるなんて。翼をもがれた鳥の気持ちが分かったような気がする。下は黒いアスファルト。その上に白いラインが果てしなく続いている。四角い形の車に乗っていると、棺桶に閉じこめられたみたいで、いつ埋葬されるのだろうかと思ってしまう。もしかしたら俺は既に死んでいて、車は墓地に向かっているのかもしれない。
 死ぬなら、空の上で散りたい。
 抜け殻は、雲が拾ってくれる。
 神様が、優しく受け留めてくれるだろう。


「ここで停めて」
 シルヴィが運転席のイージスに呼びかけた。イージスがブレーキペダルを踏み込む。彼の足の動きに呼応するように車は速度を落とし、路肩に停車した。ドアのロックを解除。シルヴィが先に降り、俺も彼女の後に続く。運転席の窓が下にスライドして、イージスが顔を出した。
「じゃあ、明日の午後二時に迎えに来るからな」
「ありがとうございます。ご家族とゆっくりしてきてください」
「シエラさんとゲルダちゃんによろしくね」
 快活に笑ったイージスが敬礼をした。俺とシルヴィも敬礼を返して、彼方に走り去る車を見送った。
「さて。じゃあ、行きましょうか」
 微笑んだシルヴィが出発を促した。淡いメイクを纏ったシルヴィは、いつにも増して綺麗だった。同じようなメイクをして、同じような服を着ている女性たちより何倍も。ファッション誌に載っている女性たちを見ると、全員がクローンに見えてくる。雑誌のモデルという人種は、髪型も服も、笑顔さえも似たり寄ったりで不気味なのだ。
 今日、俺はシルヴィの家族に会いに行く。ローレンツ家は四人家族で、シルヴィには六つ下の妹がいるらしい。街の広場を抜けて何回か角を曲がると、両脇に白い家が並んでいる住宅街に着いた。白い家に緑の芝生というコントラストが美しい。シルヴィは迷うことなく一軒の家の前で足を止めた。両手を広げたシルヴィが振り向いた。
「ここが私の家よ」
 俺の家に比べれば小さな家だったけれど、傲慢な大豪邸にはない謙虚さを持っている。教会のように清く慎ましい家で、家の左手にある庭が綺麗だった。白い家に映えるように、赤、黄色、オレンジの暖色系の鮮やかな花が咲いている。庭の隅で小さな影が動いていた。少女がシャベルで土を掘っている。その背中に、シルヴィが柵越しに声をかけた。
「メアリィ! ただいま!」少女が顔を上げた。鼻の頭に泥が付いている。
「お姉ちゃん? お帰りなさい!」
 メアリィがシャベルを置いてこちら側に回って来た。門を開けた彼女は跳躍すると、両手を広げたシルヴィの腕の中に飛び込んだ。シルヴィと同じ翡翠色の瞳。金色の髪は彼女より少しだけ明るくて、緩く波打っているのも同じだった。双子と間違えそうだ。
「こら! お客様が来てるんだから。もう少しおしとやかになさい」
「お客様?」
 メアリィが俺に気付いた。初対面の人にはまず挨拶だ。微笑んだ俺が会釈した次の瞬間、少女の白い頬は鮮やかな赤に染まり、次いでか細い返事が返ってきた。俺から逃げるように、メアリィは家の中に駆け込んで、二度と出て来なかった。
「俺、何か悪いことでも言ったかな」
「ごめんなさい。妹は恥ずかしがり屋なの。あとできつく叱っておくわ」
「いいんだ。気にしないで」
 初対面なんだから仕方がないと思うし、叱られるのは可哀想だ。俺はシルヴィと家の中に入った。右に靴箱。靴箱の上にはウエディングドレスのように真っ白な百合の花が花瓶と仲良くしていた。廊下は真っ直ぐで、左右にドアが並んでいる。そのうちの一つが開き、女性が出て来た。彼女もシルヴィと同じ髪の色をしていて、雰囲気が似ていた。きっと、同じ遺伝子を持つ母親だろう。
「お帰りなさい、シルヴィ」
「ただいま! 父さんは?」
「公園を散歩しているわ。もうすぐ戻るって電話があったから、三十分ほどで戻るでしょう。あら……お客様?」
「は……初めまして。ノワリー・エリオットです。ローレンツさんとは……その……」
 俺は無意識にネクタイを直した。学芸会で主役を演じる子供みたいに緊張してしまった。空の上では無敵だと思っていたのに、地上には敵が多い。俺の隣でシルヴィが笑う。笑わないでほしいな。こっちは真剣なんだぞ。
「エリオット君と私は付き合ってるの。今日は、皆に紹介しに来たのよ」
「まあ……そうなの。初めまして。シルヴィの母のリリィです」
 会釈を交わしてリビングへ案内された。俺は花柄のソファに座った。リリィが紅茶とクッキーをトレイに載せて運んで来た。カップを受け取って角砂糖を入れ、一口飲む。高級な茶葉ではないけれど、シンプルな味が新鮮で美味しい。俺が落ち着いてきた頃、玄関のドアが開く音がした。
「主人が帰って来たみたい」
 リリィが小走りに玄関に向かって行った。せっかく緊張の糸が緩んだのに、また張り詰めてしまった。数分後、男性がリビングに入って来た。茶色のハンティングベレットに、アーガイル模様の毛織のベストと黒のチノパンという格好で、洗練された紳士みたいだ。彼の髪は亜麻色だった。この家族は全員髪の色が明るい。太陽に愛されているのかもしれない。
「お帰り、シルヴィ」蜂蜜のように甘いバリトンの声だ。「元気でやっていたか?」
「ただいま、父さん。今日は……えっと……彼氏を連れてきたの」
 シルヴィの父の目が丸くなった。驚いている証拠だ。目を細めた彼が俺を見る。娘に相応しい男かどうか確かめている視線だ。
「ノワリー・エリオットです! シルヴィさんと、お付き合いしています」
 俺は慌てて立ち上がり、会釈をして挨拶した。沈黙が流れる。しばらく経つと、彼は帽子を脱いで優雅に一礼した。
「初めまして。シルヴィの父親のデイヴィットです。お転婆な娘ですが……よろしく頼みます」
「父さん!」
 親子の笑い声が重なって、リビングに木霊した。プロのオーケストラが奏でる音色よりも素晴らしい音だった。シルヴィが俺の隣に座り、俺たちの正面に彼女の両親が座った。さあ、戦いの始まりだ。俺は紅茶を一口飲んで喉を潤し、臨戦態勢に入った。
「ノワリー君はいくつ?」
「十七です」
「もしかして、君は、あのエリオット家の者かい?」
「はい。あの、俺は、身分とか、そういうのは……」
「分かっている。君は、そんなことに囚われない人だと思っているよ」
 デイヴィットの言葉に俺は安心した。エリオットという鎖は、いつも影のように付き纏い、俺の全身を縛り付けてくる。どこまで俺の人生に影を落とす気なんだ。ローレンツ一族が一人足りなかった。メアリィとも交流しないと、彼らとは絆を深められないだろう。
「すみません。メアリィさんに、挨拶してきてもいいですか?」
「ええ、いいわよ。庭にいると思うわ。妹のお気に入りの場所だから」
 失礼しますと断って、俺は席を立った。玄関から外へ出て、家と庭を結ぶ木製の門を開けた。水の音と鼻歌が聞こえてくる。つばが広い真っ白な帽子をかぶったメアリィが、ホースで庭の草木に水をやっていた。
「メアリィ」
 俺の呼びかけに反応した白い肩が跳ね、メアリィが振り返った。白いスカートの裾が花弁のように翻った。そんなに驚かなくてもいいのに。自分が幽霊みたいに錯覚してしまうじゃないか。二本の足も生えているし、身体も透けていない。俺がまだ生きている証拠だ。
「さっきはちゃんと挨拶できなかったから。俺はノワリー・エリオット。君のお姉さんと、お付き合いしてるんだ」
「あの……さっきはごめんなさい。いきなりで、びっくりしたの」
 ホースを握った細い両手は震えていた。また頬が赤くなっている。これ以上赤くなると、破裂してしまうぞ。極度の人見知りなのだろう。
「花が好きなのか?」ゆっくりと側に行って、俺は尋ねた。
「あ……うん。お姉ちゃんも好きよ。この白百合が大好きだって言ってた」
「俺も、好きなんだ」
「本当?」翡翠色の目が俺を見上げた。純度の高い、透明な色だった。
「ああ」
 本当は、花なんて興味ない。場を和ませるための優しい嘘だった。誰かと仲良くなるためには、時には嘘が必要だ。でも、俺のついた嘘は本当になる可能性を秘めていると思う。だから許してほしい。シルヴィを愛しているから、彼女が愛する物を愛するようになるよ。
「ノワリー、メアリィ! おやつにしましょう! アップルパイを焼いたの」
 庭に面した窓が開き、隙間からシルヴィが顔を出した。香ばしい匂いが風に運ばれてくる。ほのかに甘い林檎の香りも鼻に届く。シルヴィが手を振る。俺も手を振り返した。
「行こうか」
「うん」
 メアリィが笑った。姉に似た綺麗な笑顔だった。
 子供は皆、簡単に綺麗な笑顔を浮かべる。
 俺にも、こんな頃があったのだろうか。
 誰だって、綺麗に笑うことができる。
 ただ、笑い方を忘れているだけなんだ。
 きっかけさえあれば、簡単に思い出せる。


 以前ほど、地上は窮屈だと思うことが少なくなった。空のように自由じゃないけれど、地上でしか得られない大切な宝物を見つけた。笑い合う友人。愛し合う恋人。まるで映画のシナリオのような平和な日々で、誰かがシナリオを書き換えるんじゃないかという不安に襲われた時もあったけれど、俺の心配は杞憂に終わった。でも、幸せな毎日の裏側で、クルタナを取り巻く情勢は悪化し始めていた。不安定な天秤の上で、俺は二年の年月を過ごした。
「……また、ヴァルキリーのメンバーが一人墜ちたそうだ」
 コーヒーを一口飲んだイージスが、雨粒のように呟いた。墜ちたパイロットを弔うような口調だ。
「またですか? これで三人目じゃないですか……」
 ヴァルキリー。俺たちが所属するユグドラシル基地で、トップクラスの腕を持つパイロットたちが集まっているチームの名前だ。その精鋭チームのメンバーが相次いで撃墜されるなんて、俄かには信じられなかった。
「エリオット! イージス! 指揮官が呼んでるぞ。オフィスまで来いってさ!」
 同僚が俺とイージスに伝言を伝えた。
「何だろうな」
「さあ……。とにかく、行ってみましょう」
 フライトを終えたばかりで疲れていたし、温かいシャワーを浴びて柔らかいベッドで眠りたかったけれど、指揮官が呼んでいるのだから仕方がない。シャワーとベッドはしばらくおあずけだ。宿舎を出て、俺とイージスは飛行隊隊舎に向かった。エレベーターで三階へ。ドアをノックしてオフィスに入る。室内には、飛行隊長と二人の女性が待っていた。一人はシルヴィで、もう一人は見知らぬ女性だった。
「疲れているのにすまんな。彼女はオペラ・ド・グランツ。クルタナ基地のパイロットだ」
「初めまして」
 オペラと軽く挨拶を交わした。イージスより二つか三つ年下だろう。彼女はしばらくの間、俺だけを見つめていた。
「エリオット、イージス、ローレンツ。君たちにヴァルキリーへの異動を命ずる。そしてエリオット、君にヴァルキリーの隊長を務めてもらいたい」
 指揮官の言った言葉を理解するのに、俺は数分の時間を要した。凍結していた思考が回転してくると、彼の言った言葉の意味と重みが、俺にのしかかってきた。
「どうして……俺なんですか?」
「ここ数年の貴方の活躍を見た空軍幹部が是非にと。これはとても名誉なことよ」
 微笑んだオペラが補足する。俺の父は空軍幹部の一人だ。もしかしたら、父が圧力をかけたのかもしれない。でも、俺は実力を認められて推薦されたと思いたい。
 確かに、精鋭チームであるヴァルキリーの隊長に抜擢されたのは名誉なことだ。でも俺はまだ十九歳だし、経験だってビニールプールみたいに浅い。俺よりも年上で、経験豊富なパイロットたちはいくらでもいるのだ。俺には荷が重すぎる。辞退したほうがいい。結論が出ると同時に、大きな手が俺の肩を叩いた。
「ノワリー。俺は、お前が適任だと思ってる。坊やの下で飛べるなんて、俺は最高に嬉しいぞ」
「私もよ。貴方にはその資格がある。私たちは、ノワリーの下で飛びたいわ」
 俺を見つめる二人の目は、期待と信頼に満ちていた。
 両親からもこんな目で見られたことがあった。
 でも、両親は違う意味の期待と信頼の目をしていた。
 エリオットの名に恥じない生き方をしろ。
 そう、そんな目だった。
 メドゥーサの視線よりも怖い目だった。
 それを弾き返す盾は掲げていなかった。
 首を狩るハルペーも持っていなかった。
 ヘルメスも、アテナも側にいなかった。
 でも、今は違う。
 俺を支えてくれる二人がここにいる。
「……分かりました。俺にやらせてください」
「感謝する。これが正式な契約書だ。明日中に提出してくれ。ご苦労だった、ゆっくり休んでくれ」
 敬礼して俺たちは退室した。格納庫に用があるシルヴィと別れて宿舎を目指して歩いていると、オペラの声が俺を呼んだので、振り向くと早足で彼女が向かって来るのが見えた。
「俺は、先に戻ってるよ」
 イージスはそう言って宿舎に入って行った。彼の姿が消えると同時に、オペラが俺の前に着いた。イージスがいなくなるのを見計らったようなタイミングの良さだ。風で乱れた髪を直したオペラが微笑む。俺は彼女よりが背が高いから、自然と見下ろす形になる。実際、オペラはもっと背が低いのかもしれない。真紅のピンヒールを履いているから、背が高く見えているのだ。そんな靴でよく歩けるものだ。
「グランツさん……でしたよね。俺に何か?」
「貴方とゆっくり話がしたいと思って。美味しいレストランを知っているの。これから行かない?」
 オペラが俺との距離を縮める。甘い息が俺の頬を通り過ぎた。オペラが豊満な身体を押しつけてきた。手が伸びて、俺の腕に触れた。その腕は滑るように移動して、俺の胸を撫でていく。鳥肌が立った。今度は彼女の手が、俺の飛行服のファスナを下ろした。冷たい空気が現れた素肌に突き刺さる。これ以上我慢できない。後ろに下がって離脱。彼女の魂胆はすぐに分かった。
「媚びても無駄です。俺には愛する人がいます。貴女は、俺に興味があるんじゃない。エリオットに興味があるんでしょう?」
「……まあ、そうと言えばそう。違うと言えば違うわね。私は、貴方にも、エリオットにも興味があるのよ。じゃあ、お休みなさい、ノワリー」
 踵を返し、オペラは滑走路の向こうに姿を消した。後を追う気はない。俺は宿舎に戻った。談話室を通って階段を上がる。部屋に入るとイージスはいなかった。脱ぎ捨てられた衣服が床で丸く縮こまっていたから、シャワーを浴びに行ったのだろう。服を畳んで彼のデスクの上に置いておいた。契約書にサインをすると、ベッドに寝転んで雑誌を読んだ。雲の中に沈むように、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。


 眠りの海を漂流していた俺は、現実から伸びてきた手に肩を揺さぶられた。疲れているんだから静かに寝かせてほしい。俺は苛立ちながら、眠気が残る重い瞼を開けた。霞んだ視界に緊迫した表情のイージスが映る。刹那、窓の向こうで閃光が走った。次いで、爆音が部屋を揺るがす。俺の眠気は一気に吹き飛んだ。
「何が起こったんですか?」
「アンティオキアが奇襲攻撃を仕掛けてきてるんだ。すぐに第一格納庫に集合だ。急げ!」
 俺は瞬時にベッドから飛び起きて、イージスと第一格納庫に走った。既にヴァルキリーのメンバーが揃っていた。当たり前だけれど、初めて見るパイロットたちだ。シルヴィの姿を見つけて一安心した。
「これで全員揃ったな。諸君、緊急事態だ。アンティオキアが奇襲攻撃を仕掛けてきた。恐らく、国境に近い場所に位置する、ユグドラシル基地の壊滅が目的だ」
 軍事大国アンティオキアは、世界樹ユグドラシルを自国の領土に加えるという目的の他に、世界征服も企んでいる。国境に近く、クルタナ空軍に所属する飛行部隊の中でも、特に精鋭であるヴァルキリーが所属するこの基地は大きな障害になるのだ。再び遠くのほうで爆音が響いた。市街地の方角だ。シルヴィの家族は大丈夫だろうか。避難していることを祈った。
「エリオット、無理は承知で頼みたい。ヴァルキリーを率いて先陣を切ってくれるか?」
 指揮官の言葉に俺は戸惑った。まだメンバーの顔も知らず、彼らの機体の特徴や欠点も把握していない。イージスとシルヴィ以外のメンバーとは飛んだこともないのに、いきなり飛べというのは無謀そのものだ。だが、今はスクランブルよりも深刻な緊急事態だ。弱音を吐いている暇なんてない。
「了解しました」
「各自、自分の機体を点検するように! 一時間後に出撃だ!」
 散らばったパイロットたちは、自分たちが乗り込む戦闘機の傍らに走って行った。俺もブリューナクの所に走った。整備士に機体の状態を聞き、燃料とマナを補給してもらうように頼んだ。補給が終わるまでの間、俺はその場に立っていた。右手が小刻みに震えている。情けない。震えを止めようと、俺は拳を握り締める。無駄だった。震えは収まらなかった。
「大丈夫かね?」機体の整備を終えたヴァルカンが側に来た。
「……ええ。ヴァルキリーのメンバーと飛ぶのは初めてなんです」
「お前さんならできる。ほら、嬢ちゃんと話すといい」
 数秒間の短い会話だったけれど、少しだけ勇気が出た。ヴァルカンに礼を言って、俺はシルヴィの所に行った。彼女は静かにブリュンヒルドを見上げていた。
「シルヴィ、大丈夫か?」
「……怖くないと言ったら嘘になるわ。貴方こそ、大丈夫なの?」
「何とか。彼らを……君を守れるだろうか」
「守れるわよ。貴方は光の槍なんだから。私たちの道を切り拓いてくれると信じているわ」
 表情こそ毅然としていたが、シルヴィの声は震えていた。無理もない。このミッションは、今までにない大きな戦いになるだろう。生きて帰れる保証はどこにもないのだ。むしろ生きて帰れることが奇跡だろう。
「ねえ、ノワリー。……私たち、まだ愛し合ってなかったよね」
「そうだな。……戦闘機乗りは、忙しすぎる仕事だから」
 俺もシルヴィと海のように深い愛を交わしたかった。しかしパイロットは、死と隣り合わせの毎日を繰り返さなければいけない。深く愛し合えば、その分愛情は強くなるけれど、どちらかを失った時の喪失感も大きくなるだろう。俺は、一歩踏み出すことを恐れていたのかもしれない。
「子供は二人がいいな。男の子と女の子ね。赤い屋根の小さな家に住んで、綺麗な花を一杯育てるわ。私はパイロットを辞めて、専業主婦になろうかな。それでね、近所の人たちに、私の夫は有名なパイロットだって自慢するの」
 子供を抱き上げて微笑むシルヴィを想像した俺は笑った。彼女の夢を少しだけでもいいから叶えてあげたい。深呼吸を二回。夢を叶える魔法の言葉を唱える時だ。
「シルヴィ」
「何?」
「無事に帰って来たら……結婚しよう」
「……え?」
 俺はフライトスーツのポケットから指輪を取り出した。シルバーのリングの頂に、無垢な光を抱くダイヤモンドが輝いている。彼女を驚かすために、内緒で買った物だ。俺はシルヴィの左手を取って、白い薬指にそっと嵌めた。思ったとおり、ぴったりだ。ガラスの靴みたいに、指輪は彼女を選んだのだ。パイロットのシンデレラ。想像すると滑稽に思えてしまう。
「ノワリー……私なんかでいいの?」
「君がいいんだ。俺には君しかいない。俺は、シルヴィを愛しているんだ」
「……馬鹿」
 涙を滲ませたシルヴィが俺に抱きついた。
 両腕を首に回して、彼女は俺の肩に顔を埋める。
 俺は震える手でシルヴィを抱き締めた。
 翡翠色の目はとても澄んでいて、
 その色を忘れないように、琥珀の中に閉じ込めた。
 唇を重ね、俺たちは呼吸を分かち合った。
 機体のメンテナンスが終わった。
 順番に滑走路をランディング。
 陣形を組んで、ヴァルキリーは空に飛び立った。
 空中は混雑していた。
 前方に黒い機影が雷雲のように広がっている。
 アンティオキアの軍隊だ。数では圧倒的に負けている。
 曲が始まるのを待っているのか?
 奏者は揃っているぞ。
 指揮者のタクトが振り下ろされるのを待つだけだ。
 さあ、戦おう。
 誇りと誇りをかけて。
 これは、俺たちの戦いだ。
 幻想のタクトが空を切った。


 チームの数機が斜めに下降していった。大きく旋回し、反対側に出るつもりだ。
 それに続くように、残る数機が左正面を目指して突撃していく。
 エルロンを切る。翼を傾け、斜めにスリップしながら下降に入った。
 反転から背面へ。
 ブリューナクはキャノピィを下に向けたまま墜ちていく。
 左右を確認してから、もう一度反転した。
 前方に三機。
 速度が遅い一機に狙いを定め、ダイブの角度を修正した。
 後方を確認。
 逆方向に反転し、戦場を眺め、機関砲のロックを外した。
 スロットルを絞り、速度を調整。
 ラダーを左右に振って、エアブレーキを掛ける。
 先に撃ったのは敵だった。
 気が短い奴だ。
 一機目は、あと七秒で射程圏内に入るだろう。
 二機目はどれにする?
 更に速度を落とすためにフラップを下げるか? 
 数秒思案した俺は、そのまま反転してエレベータを引いた。
 ストール・ターン。
 スロットル・ハイ。
 素晴らしいタイミングだ。
 20mm機関砲を二秒間撃ちながら、スロットルを絞る。
 後方、左右、前方を確認。
 相手は炎のドレスを纏っていた。まずは一機。
 ターン。
 緩いロールを打ちながら上昇。
 二機目は遥か下にいて、旋回していた。
 斜め後方から一機が突撃しようとしているようだが、速度が足りないから追いつけないだろう。
 ダイブ。
 ロールで周囲を確認。エレベータ・アップ。真横に森林地帯が見える。
 俺の予想通り、前方に相手を捉えることができた。
 しかし、速度はブリューナクのほうが速い。
 オーバーシュートに注意しないと。
 攻撃は諦めて、俺は左に旋回した。
 少し高度を落とし過ぎたようだ。
 左上空から一機が来た。
 逆に切り返し、少しずつ上昇した。
 高度を稼ぎながら、さっき墜としそこなった敵の動きを観察した。
 もうすぐ旋回するはずだ。その軌跡を読み、違う方向に飛ぶと見せかけて、俺は背面のまま一直線に切りこんだ。
 相手は味方機を追跡しようとしていた。
 スロットル・ハイ。
 反転。
 ダイブで突撃。
 俺の周囲には誰もいない。
 空と雲と空気だけだ。
 後方上空に三機見えたけれど、距離は離れている。弾は届かないだろう。
 前を見据え、ラダーで微調整。
 半ロール。翼を立てて急旋回に入る。
 相手が気づいて右へ切り返した。俺も機首をそちらに向ける。奴はもう逃げられない。
 この距離ならば、確実に貫ける。
 一秒だけ機関砲を放ち、すぐに離脱した。
 黒煙を吹き出しながら、二機目が墜ちていくのが見えた。
 HUDとコンソールの計器類をチェック。
 異常はない。上昇した刹那、無線が鳴った。
『……長……隊長!』
「エリオットだ! どうした!?」
『ロッソとブランがやられました! 俺も胴体に被弾! あぁ……もう駄目です』
「諦めるな! 離脱するんだ! 脱出装置を使え!」
『……駄目です、壊れています。……最後まで戦えなくて、すみませんでした』
「諦めるな! 応答せよ!」
 ノイズの後、無線は途切れた。
 墜ちたのか、離脱したのか。
 いずれにせよ、知る術はない。
 上昇していたブリューナクをダイブさせる。
 機首を左右に振り、戦場を確認。
 突然警告音が鳴った。
 レーダーを見る。ミサイルが後方から迫っていた。
 即座にスナップ・ロール。
 ブリューナクのすぐ横を横切ったミサイルは、敵機を破壊した。
「……何だ? アレは」
 後方に巨大な爆撃機が飛んでいた。
 放たれた無数のミサイルが、次々と戦闘機を墜としていく。
 自分の仲間を攻撃する馬鹿はいない。いたらキスをしてやるよ。
 あれは――ヴァルキリーの機体だ。
 ターン。
 俺は爆撃機に狙いを定める。
 ブリューナクに気づいた爆撃機が、こちらを向いた。
 ロール。
 ハーフ・ロール。
 スナップ・ロール。
 雨のように降り注ぐミサイルの弾道を見切り、上空に回り込む。
 破壊力は絶大だが、敵の動きは鈍いようだ。
 連続して機関砲をお見舞いする。
 主翼が爆発し、次々と連鎖して爆発していく。
 大きな爆発が起こった。炎上した爆撃機が、ゆっくりと墜ちて行った。
 再び無線が鳴った。声がよく聞こえない。ボリュームを上げた。
『……ノワリー?』
「シルヴィ!? 無事か!?」
『……いいえ……駄目みたい。エンジンをやられたわ。舵も効かないの』弱々しい声だ。シルヴィが首を振る姿が脳裏に浮かんだ。
「離脱するんだ!」半ロールで背面飛行。俺はキャノピィから下を見た。東に湖が広がっている。「四時の方向に湖がある! うまくそこに着水すれば――」
『……私も被弾してる。もう助からないわ。ごめんなさい、って家族に伝えて』
「駄目だ、シルヴィ! 約束したじゃないか! 生きて戻ったら、結婚しようって!」
『……さよなら、ノワリー。……愛してるわ』
 無線が切れた。俺は周りを確認する。淡いオレンジ色の機体が、黒い煙をあげながら墜ちて行き、眼下に広がる森に墜落した。小さな煙と火が見えた。俺はすぐさま機体の向きを変え、シルヴィが墜ちた辺りに向かおうとした。
 そこへ、後方から放たれた機関砲の流星群が降ってきた。
 俺はフットペダルを蹴りつけ、空に刻まれた機関砲を避けるはずだった。
 刹那、鈍い響きとともに、キャノピィの側面が粉々に吹き飛んだ。それと同時に俺の側頭部に鋭い痛みが走り、かろうじて原形を留めているキャノピィに鮮血が飛び散った。流れ出る血が視界を遮る。俺はバイザーを上げ、片手で目を拭った。
 視界の片隅に、ブリューナクの右下方を降下していく敵機が見えた。シルヴィのことで頭が一杯だった俺は、左から突っ込んで来た敵に気づくのが遅れ、横合いからの銃撃をまともに食らってしまったのだ。
 気を抜けば失いそうな意識を維持しながら、俺は操縦桿を倒した。
 キャノピィを砕いた敵を発見した。
 ブリューナクより低い高度を飛んでいる。
 半ロールで180度回転。
 背面飛行に移る。
 高度は4000メートル。充分な高度だ。
 エレベータ・ダウン。
 インメルマン・ターンとは逆方向のループで降下。
 減速して降下速度を押さえる。
 相手の後ろに張り付いた。
 トリガに掛けた指は、小刻みに痙攣していた。
 ファイア。
 墜ちていく敵を、朦朧とする意識の中で確認した。
 一瞬、集中していた神経が緩んだ。
 爆発。
 何かが機体を貫通した。
 機体が傾く。
 そのまま失速。高度も下がっていく。
 もう一機の爆撃機が、斜め左上方にいた。
 まだいたのか?
 それとも、墜とした奴が蘇ったのか?
 ブリューナクは吸い込まれるように、地面に向かって加速していく。
 操縦桿を引くが、機体は上がらない。
 どうした? 反抗期か?
 どうして言うことを聞かないんだ!
 早く空に戻って、皆を助けないといけないのに!
「上がれえええええええぇっ!」
 折れてもいい。
 俺を空に戻してくれ。
 渾身の力を込めて、俺は操縦桿を引いた。
 ほんの僅か、機体が浮いた。
 でも無駄だった。ブリューナク森に墜ちてしまった。
 木の枝を折りながら墜落し、そのまま地面に激突すると、ロールを繰り返しながら、ブリューナクは地面を転がった。回転が止まった。頭部の痛みのせいで、酷い吐き気がする。それに身体中が痛い。特に、右腕と右脚が引き裂かれそうだった。
 俺の脳裏に、今まで出会った人たち次々と浮かぶ。まるで、スライドショーを見ているみたいだ。
 俺の家族。
 シルヴィの家族。
 チームヴァルキリーのメンバー。
 イージスさん。
 そして、シルヴィ。
 タルタロスよりも深く、
 暗い闇の底に、
 俺の意識は墜ちていった。


 意識を取り戻した俺は、薄暗い森の中を歩いていた。自力で歩けるような状態ではないのは分かっている。誰かが俺の身体を支え、引き摺るように歩かせているのだ。左の側頭部から流れ続ける血が、視界の半分を赤く染めていた。右腕と右脚の感覚がない。もしかしたら、繋がっていないのかもしれない。確認しようと思えばできたけれど、恐ろしくてできなかった。意識が鮮明になった途端、今まで経験したことがない激痛が全身を走り抜け、痛みに負けた俺は呻いた。
「よう、坊や。気がついたか?」懐かしい声が耳元で囁いた。
「……イージスさん?」
「俺のミネルヴァもやられちまってな。何とか離脱することに成功したんだが、木に引っ掛かって墜ちてしまってよ」
 イージスは快活に笑って見せた。何だ、元気そうじゃないか。俺が安堵したのも束の間、咳きこんだイージスが血を吐いた。飛び散った鮮血が、落ち葉の上に赤い模様を描く。彼の顔面は蒼白で、両目の下に黒い隈が浮かんでいた。視線を下に向けた俺は、凄惨な光景を見てしまった。
「イ……イージスさん……そっ……それはっ……!?」
 俺は絶句した。イージスの腹部に、巨大な機体の破片が突き刺さっていたのだ。鈍色に光る破片は腹部を貫通して、背中にまで突き出ていた。もういい。止まってくれ。死んでしまう。しかし俺の願いは届かなかった。イージスは歩みを止めなかったのだ。
「なぁに、大したことはないさ……ただ、ちょっと、デカい破片が刺さっているだけだ。安心しな。基地に連絡しておいた。指示された合流地点まで、あと少しだ」
「シルヴィは……?」
「……間に合わなかった。あの爆撃機にやられちまったよ」
 シルヴイは生きている。俺の微かな希望は粉々に打ち砕かれた。足を止めたイージスが再び血を吐いた。血を吐き終えたイージスが再び歩き出す。大地を一歩踏み締めるたびに、イージスの命は削られているのだ。おまけに俺を担いでいるから、更に強い力で大地を踏みしめて歩かないといけない。せめて、彼だけでも助かってほしい。生き延びてほしい。だから――。
「俺を置いていってください……貴方だけでも助かって……」
「馬鹿言うんじゃねぇ! 坊や、お前だけは死なせない!助けてみせるさ、絶対にな!」
 死神の足音に怯えながら、俺を担いだイージスは指示された合流地点に辿り着いた。イージスと車に乗せられて、俺は軍の病院に運ばれた。手術室に運ばれる途中、乗せられたストレッチャーの上で、医師たちが交わす会話が切れ切れに聞こえてきた。
 一人は心肺停止。先程、死亡が確認された。
 もう一人は右腕と右脚に重傷を負っている。切断の可能性もあり。
 三十分前に運ばれた女性も、死亡確認。
 麻酔が投与されて、俺の意識は混濁していく。
 きっと、これは夢だ。
 目が覚めたら、俺はシルヴィと結婚式を挙げるんだ。
 白いウエディングドレスを着た彼女が、ヴァージンロードを歩いて俺の隣に立つ。
 イージスは快活に笑っている。フォーマルスーツが似合ってないけれど、まあいいか。
 誓いを交わして指輪の交換。
 神父の祝福を受けた二人は唇を重ねる。
 車じゃなくて、複座型の戦闘機に乗って新婚旅行に行こう。
 不思議の国が、二人を待っている。
 きっと、素敵な旅になる。
 きっと――。