大空という世界は、どうして輝かしい自由に満ち溢れているんだろう。
 空の上に舞い上がり、キャノピィの外を流れていく雲を見るたびに、俺はそう思うんだ。
 コンソールに配置されている時計を横目で確認すると、ユグドラシル基地に帰還する時間が迫っていた。ようやく地上の束縛から解放されたと思ったのに、また重苦しい地上に戻らないといけないのだ。
 大空を飛んで自由を満喫していたい。
 このまま燃料とマナが尽きるまで飛び続け、太陽に焦がれたイカロスのように墜ちてしまおうか。
『ブリューナク。基地に帰還する。機首を南東に向けろ』
 飛行隊長の指示が無線を通して伝えられた。先頭を飛ぶタイフーンが翼を振っている。
『どうした? エリオット、応答せよ』
 答えないでいようか。
 そうすれば、煩わしいことから解放される。
 でも――。
「……了解」
 臆病者とは思われたくない。
 そういうくだらない見栄が、俺と地上を結びつけている。


 先に着陸したタイフーンに続いて低速飛行(タキシング)をしながら、俺の機体のF/A18スーパーホーネット――ブリューナクも滑走路をランディングして止まった。キャノピィを開けて狭いコクピットから這い出る。緑色の髪に琥珀色の切れ長の瞳。キャノピィに映る俺の顔は幼い。青年というより、少年という呼び方が相応しいだろう。怜悧に整った顔立ちは、他人を拒絶するような空気を纏っている。待っていた整備士たちが牽引車に乗り、タイフーンとブリューナクを格納庫に運んでいった。
 運ばれていった機体を追いかけるように、俺も格納庫へ向かう。薄暗い格納庫を整備士たちが動き回っていた。いつ見ても彼らは働き蟻のようだ。職務に忠実で妥協することを許さない。自分の仕事に誇りを持っている、素晴らしい人種だ。
「異常はありましたか?」
 俺はブリューナクを見上げている整備士に話しかけた。振り向いた整備士は、深い皺が刻まれた顔に笑みを浮かべた。老齢だが身体つきは逞しく、赤銅色に焼けた肌が若々しい。
「お帰り、ノワリー。無事だったようじゃな」
「ええ、まあ。基地に帰るのをやめようかと思いましたけど。燃料が切れるまで飛んで、墜ちたかったですよ」
「馬鹿なことを言うでないわ! ワシをショック死させる気か?」
 彼は分厚い皮膚に覆われた手で、俺の頭を豪快に撫でた。骨張ったマメだらけの掌は温かい。年輪のように、彼の生きた歴史が刻まれているんだと思う。
「ショック死だなんて大袈裟じゃないですか? ヴァルカンさんはあと百年は生きれますよ」
「何を言っとるか! あと百五十年は生きるつもりじゃよ」
 ヴァルカンはユグドラシル基地に所属する整備士の一人だ。彼らの中でも最年長で、四十年以上のキャリアを持つ大ベテランだ。典型的な職人気質で頑固だが情に厚く、誰からも慕われている。もちろん俺もその一人で、ヴァルカンを親のように慕っていた。若者が多いパイロットにとって、彼は親のような存在なのだ。
「メンテ、お願いします」
「了解。任せなされ」
 彼になら安心してブリューナクを任せられる。いや、任せられるのは彼だけで、他の奴は信用できない。ヴァルカンと別れた俺は格納庫を後にした。滑走路を横断して、飛行隊隊舎の隣にある搭乗員宿舎に入った。フライトで疲れた身体と神経を早く休ませたかったけれど、談話室を通らないと部屋に戻れないのが最悪だった。談笑する声と笑い声が聞こえてくる。先客がいるのだ。いつも誰もいない時を見計らって行くのだが、今回は上手くいきそうにない。
 覚悟を決めて俺は談話室に踏み込んだ。数人のパイロットたちが会話を中断して俺を見る。見覚えのある顔だった。最悪だ。俺を嫌っている連中じゃないか。素知らぬ顔で通り過ぎようとしたけれど、パイロットの一人が、目ざとく俺に気づいた。
「おい、お坊ちゃまのご帰還だぜ。相変わらず、綺麗な顔ですねぇ。今日は何機撃墜したんですか?」
 挑発に近い声色だ。おまけに息が酒臭い。テーブルの上にビールの缶が散乱していた。このまま無視するのも癪に障る。面白い。お前の挑発に乗ってやろうじゃないか。
「そうですね……今日は二機墜としましたよ。俺を心配するより、自分のことを心配したらどうですか? 確か、今月は一度も撃墜していないんですよね?」
 男の薄ら笑いが僅かに引き攣った。ざまあみろ。反撃を受けたにも関わらず、奴は薄ら笑いを張り付けていた。打たれ強い男だ。
「……さすがは、名門エリオット家の御曹司でいらっしゃる。俺たち平民とは、違う血が流れてるからですかねぇ。お父上は空軍の幹部で、お母上は貴族の娘。あ〜羨ましいったらありゃしない」
 大袈裟な身振りで、男は皮肉たっぷりに言った。周りにいるパイロットたちも口元を歪め、嫉妬に塗れた笑みを浮かべている。見るだけで反吐が出そうな、黒く汚れた笑みだった。
「そんなに金持ちになりたいなら、俺の父に頼んで養子にしてもらったらどうですか? それが嫌なら生まれ変わるんですね。俺が撃墜してあげますよ」
 男の顔が完全に引き攣り、温度計の温度が上昇していくみたいに、みるみる真っ赤に染まった。奴が俺に詰め寄り、拳を振り上げた。刹那、顔面に衝撃が走る。男に殴られた俺は床に尻餅をついた。名門貴族の跡取り息子を殴るなんて、神をも恐れない奴らだ。
 俺を一瞥したパイロットたちは、心配する素振りを一度も見せずに談話室を出て行った。錆びた鉄の味が口の中に広がる。苦味のせいなのか、悔しさのせいなのか、理由も分からない感情が込み上げた。顔を顰め、俺は階段を上がった。
 ユグドラシル基地に配属された時から、俺は一部のパイロットたちから煙たがられていた。理由はいくつか思い当たる。弱冠十四歳で航空学校を首席で卒業したこと。天才的な操縦技術を発揮して、瞬く間にチームのエースパイロットの座に昇り詰めたこと。名門エリオット家の嫡男で、父も昔はエースパイロットだったということ。引退した父はクルタナ空軍の幹部として働いている。あまりにも恵まれすぎた環境が彼らを嫉妬させ、反感を買っているのだろう。そんなの俺の知ったことじゃない。たまたまそういう家に生まれてしまったんだ。しょうがないじゃないか。
 悶々とした感情を消せないまま、廊下を歩いて部屋のドアを開けると、右端にあるデスクに見慣れない男が座っていた。俺のデスクじゃないか。背中を向けている彼は俺に気づいていない。自分の領域を侵された気がして、何となく腹が立った。
「……あの、そこ、俺の机なんですけど」
 数分前のトラブルも手伝って、自然と語気が強くなってしまった。デスクを占領していた男が椅子を回転させて振り向いた。針鼠のように乱れた茶褐色の髪に、無精髭の生えた精悍な顔立ち。意外と若い。俺より一回りは年上だろう。少なくとも同年代とは思えない。これで同年代というのなら立派な詐欺だ。
「ん? ああ、悪い。坊やの席だったか。もしかして……坊やがノワリー・エリオットか?」
「そうですけど……貴方は?」
「俺はジェラルド・イージス。今日から坊やと同室になった。へぇ……もっと大人かと思っていたんだがな。まだ子供じゃないか」
 坊や坊やと連呼するイージスに、俺は怒りを覚えた。これから一緒にに寝起きすることを考えると、喧嘩するのは馬鹿なことだ。冷静になろう。
「名門エリオット家の奴と同室になるって聞いて、楽しみにしていたんだぜ」
 この男もか。俺は溜息をついた。
 誰もが俺を、エリオット家という色眼鏡で見るのだ。
 さあ、次は何を言うつもりだ?
 皮肉か? それとも嫉妬か?
 彼の口から出てきた言葉は、意外なものだった。
「よろしくな、ノワリー」
 立ち上がったイージスが右手を差し出して、俺に友好の握手を求めてきた。肩透かしを食らったような、そんな気分を味わった。訝しげにイージスが俺を見つめていた。間抜け面を浮かべてしまったのかもしれない。表情を引き締めて、俺は彼の右手と握手した。俺の手とは正反対の、無骨なフォルムの頑丈で大きな掌だった。
「こちらこそ……よろしくお願いします」
 俺をを色眼鏡で見なかった人物は、ヴァルカンを除いて彼が初めてだった。
 この青年となら、巧くやっていけるかもしれない。
 そんな微かな期待が芽生えていた。


「イージスさん! 起きてくださいっ!」
 巧くやっていける。昨日思ったことを即座に訂正したい。二段ベッドの上に寝ているイージスは、何度呼びかけても起きなかった。豪快な鼾をかきながら、訳の分からない言葉を呟いている。音量を最大にした目覚まし時計を耳元で鳴らしても、彼は全く起きなかった。最強の盾イージスの名のとおり、鉄壁の神経だ。
「う〜ん……愛してるぜ、シエラぁ……」
「うわっ!」
 イージスの頑丈な腕が身体に巻きつき、そのまま引き寄せられた俺は、彼の分厚い胸板に顔を押し付けられた。大きな手が背中と腰を撫でる。あまりにも不快な感触に鳥肌が立った。身体を撫でる手がシャツの中に潜り込んできて、ゆっくりと素肌の上をなぞられた。俺は小さく叫んだ。このままでは不味いし、いろんな意味で危ない。俺は枕元にあったミネラルウォーターのペットボトルを掴んで蓋を開け、中身をイージスの顔に思い切りぶち撒けた。
「こっ――洪水だ! 逃げろ!」
 ミネラルウォーターの一撃を食らったイージスが飛び起きた。茶褐色の髪に水滴が垂れ下がっている。男臭い胸板から解放された俺は、新鮮な空気を存分に味わった。寝惚け顔の彼が俺の存在に気づいた。
「……あれ? 坊や?」
「……おはようございます。早く準備してください、九時に滑走路に集合ですよ。俺は先に行ってます」
 俺は呆然とするイージスを残して梯子を下り、部屋を出て廊下を歩いた。俺の後を追うように、イージスが飛び出してきたた。慌てて着替えたのか、シャツのボタンを掛け違えている。俺がそれを指摘すると、イージスは照れた笑みを浮かべた。年上のくせに、手のかかる子供みたいだ。でも、そんな一面が少し羨ましい。なかなか起きなかったことを伝えると、イージスは素直に謝った。
「シエラって、誰なんです?」
「俺の奥さん。凄い美人だぞ。……って、何で坊やがシエラを知ってるんだ?」
「寝言で言ってました」
「あとな、娘のイリアもいるんだ。後で写真見せてやるよ」
「楽しみにしています」
「なあ、何か怒ってるのか?」
「怒ってません」
 滑走路には、既にチームのメンバーが揃っていた。昨日、談話室にいたパイロットたちの姿もあった。できれば会いたくなかったけれど、同じチームだから仕方がない。チームの紅一点である女性もいた。彼女は俺を一瞥しただけで、すぐに視線を戻した。堅物で有名な飛行隊長が俺たちを見回した。
「全員揃ったな? 国境から50キロ地点にある、アンティオキアの軍事施設を偵察せよという指令が入った。フォーメーションデルタ、時間は二時間だ。各自、常に無線で連絡を取り合うように! 以上だ!」
 俺は滑走路に引き出されたブリューナクに乗り込んだ。エルロン、ラダーは異常なし。システムオールグリーン。燃料もマナも満タンだ。整備士のGOサインが挙がる。見事な陣形を形成して、俺たちチームは飛び立った。


 フライトは順調。時折交信してくる仲間の声も元気だ。やっぱり空はいい。最高だ。真下に厚い雲の群れが広がっているため、地上の景色はまったく望めない。雲の間を切り裂くように真っ直ぐに飛ぶ。フライトブリーフィングで指示されたとおり、俺たちは北北西に向かって飛んだ。
 スロットルを絞り、灰色の雲の中へ沈むように降下する。
 雲の中を抜けた。魔女が住んでいそうな黒い森が見えてくる。
 視界を遮っていた邪魔な雲が消えたので、俺はイージスの機体を捜した。俺より低い高度を飛んでいて、かなり距離が開いている。イージスは翼を揺らしていた。機体を媒介にして、大丈夫だと言っているのだろう。俺は一人笑みを零し、それからすぐに笑った自分に驚いた。
 森の上空を飛び続けると、前方に広い湖が見えてきた。両側に陣取るのは愛想のない平たい草原。この先に偵察対象の軍事施設があるはずだ。俺はコンソールの時計を素早く確認した。基地を飛び立ってから、そろそろ一時間というところか。
 さらに高度を落とす。一昨日降った豪雨の影響で、湖の水は土色に濁っていた。肩越しに後ろを確認。イージスは右後方を飛んでいる。どうやら遅れを取り戻したようだ。下方の警戒はイージスに任せ、俺は上方に神経を集中させた。空が眩しくないのが幸いだった。
 俺たちに戦いを挑むようにそびえるダムが姿を現わした。
 距離は――およそ350メートル。
 スロットル・ハイ。
 俺はエンジンの回転率を一気に上げ、やや左に傾いた状態で上昇した。
 ダムを制覇して、そのまま上昇を続ける。角度を修正。機体を振って周囲に目を走らせる。右手に道路と鉄道。そこからさらに奥に工場のシルエットが見えた。
 エレベータ・アップ。
 機速を稼いでからエルロンを切り、背面に入れてから半ロールで水平に戻す。
 眼下に広大な施設が映った。恐らく隊長が言っていた、アンティオキアの軍事施設だろう。円型のドームと、キノコのように群生している煙突。煙突の頂点からは灰色の煙が高く昇っている。産業廃棄物の煙だ。戦闘機が墜ちて行く時に上げる煙に似ていた。
「空を、汚すなよ」
 独り言のように呟いて、俺は気づいた。
 これは、自己中心的な綺麗事なんだ。
 正しいことをしていると思っていても、実際はそれが間違っていることが多い。
 大きく旋回しながら工場のほうに近づく。見た限り稼働しているようには見えなかった。他国に密輸するための兵器を生産していると隊長から聞いているが、詳しいことは教えられていないし、別に知りたいとも思わない。
 俺は、ただ空を飛びたいだけだ。
 空に舞い上がり、
 空を駆け、
 ブリューナクとともに空を飛ぶ。
 それだけでいい。
 それだけで、何もかもが満たされる。
 ブリューナクの横に、イージスが乗る機体――ミネルヴァが並んだ。全長20メートルを超す機体スホーイSu35で、強力な二基のエンジンと稼働式排気ノズルを搭載した、Su27フランカーを発展させた戦闘機である。ライトグレイのボディには、翼を広げた梟のイラストがマーキングされている。女神アテナが愛する知恵の鳥だ。イージスはコクピット越しに俺を見ていた。何か伝えたいことがあるのかもしれないと思った時、無線が繋がった。
『坊や! お客様だぞ!』
『後方に敵機確認。各自散開せよ!』
 イージスの楽しんでいるような声と飛行隊長の冷静な声が、ほぼ同時に聞こえた。
 レーダーを確認してから、上空後方を見やる。
 四つの黒点が、灰色の雲の中に浮かんでいた。
 敵機との距離はかなり近かった。相手の機速は充分にある。最初の一撃は回避するしかないだろう。
 俺は左へ旋回し、イージスはダイブで右へ飛んだ。
 フル・スロットルで高速旋回しながら、湖面を削るように飛ぶ。
 後方を確認。敵はまだ撃ってこない。猛禽類のように、上から襲うつもりだろうか。
 機体はエンジンの振動で揺れていたけれど、今のところ異常は見当たらない。コンソールの計器類を順番にチェック。増槽を切り放す準備をする。
 もう一度後ろを確認。敵はまだ見えない。
 俺は身体を少しだけ動かしてシートに座り直し、目を閉じて深呼吸をした。
 さあ、一緒に踊ろうじゃないか。
 刹那、俺の前方に見える水面が弾けた。相手が機銃を撃ったのだ。予測通り上から来たか。
 増槽を切り放し、その反動にタイミングを合わせてエレベータを引いた。
 ロールを織り交ぜながら上昇。相手の位置を確認できた。
 闘牛のように突撃しながら撃ってきた。
 一機がすれちがい、もう一機が飛んで来る。
 フラット・スピンで回避。
 一機は上昇しすぎて、急いで下降しようとしていた。もう一機は素早くダイブに入っている。
 左へ反転。
 機銃の弾が飛んできた。
 水平飛行に戻し、エンジンをフルにして速度を上げた。
 エレベータ・アップ。
 90度の垂直姿勢で上昇を続ける。
 上昇速度がゼロになった刹那、右のフットペダルを踏みこんだ。
 180度の急反転。バンク角が変化しないように操縦桿でコントロールする。
 垂直に急降下。速度を得た時点で引き起こし、水平飛行に戻す。
 左へラダーを切る。
 機体は斜めにグライドしながら滑るように墜ちていく。
 上方から下降して来た敵とすれちがった。計算どおりだ。相手はフラップを下げていた。急いでブレーキを掛けたのだろう。反対を見て、もう一機の動向を確認した。
 機関砲のロックを外し、一瞬息を止めてから、俺はトリガを弾いた。
 左へエルロンを切る。
 フラップ・ダウン。
 エレベータを引いて左へ離脱した。
 機銃で威嚇した相手は元気な姿で飛んでいた。ダメージを与えられなかったようだ。俺は舌打ちをした。鈍い動きで一機が上昇して来る。
 奴が撃つまであと五秒。
 左のフットペダルを蹴りつけた。
 スリップが発生。
 右翼が失速状態になり、左右で大きな揚力差が生じた。
 鋭い右ロール。
 スナップ・ロールの完成だ。
 目の前に一瞬相手が来る。
 右手がトリガを弾き、左手がスロットルを絞った。
 ラダーで反転。遅刻していた二機目がやっと来た。
 右へ反転。機首を下へ向けて振り返る。
 鈍重な一機はどこだ?
 回転しながら落下。回るコクピットの中で、俺は戦場を見渡した。工場からの距離も把握。下方にもう一機を見つけた。
 右翼を下げて、正常な旋回に入る。
 相手を二機とも確認。
 スロットル・アップ。エレベータも引いた。
 左へ反転。
 上昇して来た相手の前方に出る。間髪入れずに右へ反転。
 敵が撃つ。
 ダウンしてロール。
 スロットルを絞り、小さくループした。
 相手の機動は明らかに精彩を欠いていた。恐らく、機体のどこかにダメージを負っているのだろう。最初に撃った俺の一撃が当たったのかもしれない。
 もう勝負はついていた。
 下から相手の腹を悠然と眺め、
 ファイア。
 左旋回で離脱。
 火を噴きながら墜ちて行く敵を目視で確認。
 迷子のもう一機を捜した。
 上を見て、次に背面になり、今度は下を捜す。
 敵は黒煙を引きながら、湖面に近いところを飛んでいた。こちらもさっきの一撃が命中していたようだ。俺は念のために周囲を見回し、他に敵らしき機体がいないことを確かめてから、エレベータを押して急降下した。
 俺が急降下している途中で、赤い火を吹いていたほうの機体が、湖面に墜落するのが見えた。脱出装置は作動しなかったようだ。可哀想にという言葉を贈る気はなかった。戦闘機乗りである以上、撃墜されるという事態を、俺たちは常に想定していなくてはいけないのだ。
 エンジンから黒煙を吐き出し続ける敵に後方から接近した。機速が低下していて簡単に追いつける。まさに格好の標的だった。目を瞑っていても墜とせるだろう。
 俺が慈悲を与えようとしたその時、相手は左翼を下げ、湖面に接触した。そのままメリーゴーラウンドのように回転し、盛大な水飛沫を宙に撒き散らした。俺は上空で旋回を続け、機体が湖の底に沈んでいくのを見届けると、その場を離脱して工場のほうへ向かった。
 偵察対象の軍事施設の上を通過し、ダムの方角へ進路を定める。敵機も味方機も見当たらなかった。任務は完遂したので、あとは基地に帰るだけだ。俺はエレベータを引き、雲の上を目指した。雲の上に出ると、チームの機体が俺を待っていた。
『全員無事か?』
「ブリューナク、異常なし。一機撃墜しました」
『ミネルヴァ、一機撃墜。元気だ』
『ブリュンヒルド、一機撃墜。問題ありません』
『了解。機首を北へ。フォーメーションデルタで基地に帰還する』
 一瞬の油断が隙を生み、その隙が死に繋がる。
 そんなストイックのような、緊張感が好きだ。


 午後十五時三十五分。チームは一機も欠けることもなく、無事にユグドラシル基地に帰還した。そのまま現地解散して、俺とイージスは格納庫の前で休憩していた。隣にいる彼は煙草を吹かしながら、空を仰いでいる。
「坊やは吸わないのか?」
「吸わないのかって……俺は未成年ですよ」
 そうだよなと頷くと、イージスは白い煙を吐き出した。俺は風上へ避難する。煙草の匂いは、服に染みつくとなかなか取れないのだ。煙草は本体よりも煙のほうが有毒だと聞いた。吸っている本人はそんなことはどうでもいいのだろう。ハイになれればそれでオーケーなのだ。
「これはこれは……エリオット殿ではありませんか。今日も活躍したそうですね」
 思わず耳を塞ぎたくなるような、不快な声が響いた。奴らだ。滑走路を横切ってこっちに来る。取り巻きも一緒だ。薄ら笑いを浮かべたその顔は、どんな生き物よりも醜かった。
「人を殺した後の気分はどうですか? 最高ですよねぇ」
 反論する気は起こらない。俺は大人しく黙っていた。煙草を踏み消したイージスが俺の前に立った。
「おい。やめろって」イージスの制止も聞かずに、男は言葉を続ける。
「天空を貫く光の槍? それがどうした。お前はただの人殺しだよ。血塗れの手で掴み取った栄光がそんなに嬉しいのか? あぁ?」
「おい! 坊やに謝れ!」
「よう、イージス。お前らそんな関係なのか? 奥さんが泣くぜ」
「てめぇ!」イージスの手が男の襟元を掴んだ。凄まじい形相で睨みつける。
 どうして地上に生きる奴らは、こんなに愚かで醜いんだ。俺の中で何かが目覚めて爆発した。燃え盛るような怒りではなく、極北に浮かぶ氷のように凍てついた怒りが、俺の内側で渦巻き始めた。
「……殺せよ」
「坊や?」
「……そんなに俺が憎いのなら、殺せよ。お前らと同じ汚い空気を吸うより、死んだほうがマシだ」
 長い前髪の隙間から覗く俺の双眸が、氷河のように凍り始める。琥珀の中に閉じ込められた感情が、今にも弾けそうだ。あまりの凄惨さに男が後ずさりした。しかし彼は勇気を奮い立たせ、震える手でポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。光る刃が展開される。
「言われなくても、そのつもりだよっ!」
「やめなさい!」
 凜とした涼やかな声が響き渡り、殺伐とした空気を切り裂いた。格納庫のシャッタの奥から女性が出て来た。足早に歩いて来た彼女は、ナイフを握り締めている男の腕を掴んだ。
「子供相手にみっともないわよ。隊長に言いつけても構わないのかしら?」
「……チッ。おい、行くぞ!」
 男たちの姿は宿舎の中に消えていった。彼らの後ろ姿を睨んでいた女性が振り返った。
「助かったぜ、シルヴィ」
「どういたしまして。貴方、怪我はない?」
「……余計なお世話だ」
「え?」
「どいつもこいつも低俗な奴ばかりでうんざりする! 金、地位、名誉。アンタたちが気にするのはそんなくだらないことばかりだ! こんなモノ、欲しかったらくれてやるよ!」
 両手を握り締めて俺は叫び、驚いて立ち尽くす二人を置き去りにして、搭乗員宿舎に戻った。俺は階段を駆け上がって部屋に飛び込み、煮えたぎる感情を抑えてベッドにダイブして、白いシーツの海に顔を埋めた。処理しきれない感情が次々と湧いてくる。二回。ドアがノックされた。遠慮がちな声が外側から聞こえた。
「坊や、俺だ。入っていいか? 入るからな」
 ノブが回り、ドアがゆっくりと開いた。部屋に入って来たイージスは椅子を持ち上げると、ベッドの側に置いて腰掛けた。きっと情けない顔をしているから、俺は顔を見られたくなかった。枕に顔を埋めたまま俺は黙っていた。このまま窒息してもいい。
「……泣いているのか?」
 俺が泣いているだって? 誤解されたくない。俺は身体を起こし、顔を伏せたまま首を振った。
「なあ、ノワリー。泣きたい時は泣いてもいいんだぞ。俺が見るに、お前は感情を押し込めすぎてる。坊やぐらいの年頃の奴は、素直に笑ったり泣いたりするもんだ。我慢しなくていいんだ。な?」
「……じゃない」
「ん?」
「俺はっ……人殺しじゃないっ……!」
「大きな声で叫べ」
「俺は人殺しじゃないっ! 好きで墜としてるわけじゃないんだ! 栄光だって、欲しくて貰ったんじゃないよ!」
「ああ。そうだ」
「どうして皆は、俺を一人の人間として見てくれないんだ!? エリオット家の人間じゃない、ノワリーとして見てほしいんだ!」
 抑えきれなかった感情が遂に爆発した。爆発した感情は弾け飛び、涙となって地上に落ちていった。ズボンとシーツに、丸い染みが刻まれていく。月のように丸く、満ち欠けのように形を変える塩辛い液体を、俺は止めることができなかった。椅子からベッドに移動したイージスが俺を抱き寄せる。父親のように大きくて、兄のように優しい手が俺の背中を撫でた。
「泣け、泣け。泣きたい時は、思いっきり泣け」
 俺は思い切り泣いた。泣き叫んだ。
 人前で涙を見せるのは恥だと、幼い頃から叩き込まれた。
 今思えばそれは、世間体に縛られたものだったのだ。
 ここは家ではない。
 空に近い場所。
 空のように自由だ。
「落ち着いたか?」
 逞しい胸に身を委ねたまま、俺は頷いた。男臭いと敬遠していたのに、イージスの腕の中は心地よかった。目を閉じて彼の体温を刻みつけ、俺は距離を取る。優しい光を湛えた眼が俺を見下ろしていた。
「……はい。見苦しいところを見せて、すみませんでした」
「気にするなって。泣きたい時は、いつでも俺の胸を貸すぜ」
「ありがとうございます。でも、しばらくは必要ないですよ」
「ははっ。そうか。外の空気を吸ってきたらどうだ?」
「そうします」
 もう一度、俺はイージスにありがとうと言った。気にするなと彼は片手を上げて笑ってくれた。俺には到底作れそうにない笑顔だった。貰ったものは返さないといけない。俺は精一杯の微笑みを浮かべた。満足げに頷くと、イージスは二段ベッドの上に上がって横になった。すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。彼を起こさないように、俺は静かに部屋を出た。
 家に縛られるのが嫌で、家出同然に飛び出したけれど、
 彼ら以上に、金と地位と名誉に縛られていたのは自分だった。
 色眼鏡で見ていたのも――。


 ユグドラシル基地の敷地内には土手があり、そこへ向かう道の途中には木が並んでいる。そこはとても日当たりが良好で、俺のお気に入りの場所だった。滑走路を一望することができるし、何よりも寝転んだ時に真っ青な空を仰ぐことができる。寝転べばどこだって空を見ることができるかもしれない。でも、ここから見る空は格別だった。
「隣、いいかしら」
 涼やかな声が頭上から降ってきた。空から視線を外した俺は、声の主を捜した。あの時、俺をナイフで刺そうとした男の凶行を止めた女性が見下ろしている。俺は急いで起き上がり、頷いて身体の位置をずらした。優雅な動作で彼女が隣に座った。
 間近で見ると、とても綺麗な人だと分かった。緩く波を描く金色の髪は、肩の辺りで切り揃えられていて、まるで風と戯れる精霊シルフィードのようだ。彼女の目は淡い翡翠色だった。山奥にひっそりと佇む湖のように、神秘と謎に満ちている。
「エリオット君……よね? さっきは大丈夫だった?」
「はい。迷惑をかけました」
「迷惑じゃないわ。悪いのはあいつらよ」
「俺にも非があります。見下していたんです。光の槍と呼ばれていい気になってた」
「ねえ。どうして光の槍って呼ばれているの?」
「えっと……二年前でした。単独で偵察飛行をしていたんですけど、帰りに敵のチームと鉢合わせになったんです。相手が攻撃してきたので応戦しました。結果は敵は全滅。それだけです」
 知らない人がいるんだなと驚きつつ、分かりやすく両手で機体の動きを再現しながら、俺は彼女に丁寧に説明した。
「チームって……何機だったの?」
「確か……十五機でした」
「十五機も一人で墜としたの!?」
「はい。それで気がついたら、天空を貫く光の槍、なんて大げさな異名がついたというわけです。俺は俺の飛び方をした。それだけなんです」
「謙遜しないでいいのよ。ほら、こんなふうに胸を張ってみるとか」
 彼女が大きく胸を張った。両手を腰に当てて胸を張ったその姿は、テストで100点満点を取った子供みたいだった。その仕草があまりにも可笑しくて、俺は思わず声を出して笑っていた。
「……笑った顔、凄く素敵ね」
 優しく微笑んだ彼女と目が合った。細められた両目の間から零れる翡翠色がとても綺麗で、あまりにも綺麗すぎて、眩しくて直視できなかった。エンジンの温度が上昇するように俺の頬は赤くなり、心臓の鼓動の回転率が上がった。そして彼女が腰を上げる。両足を地面につけて歩くためだ。
「じゃあ、また会いましょう。ごきげんよう」
「あの!」女性が振り向いた。少し驚いた顔だ。「貴女の……名前は?」
「ローレンツ。シルヴィ・ローレンツ。君と同じチームよ。覚えてない?」
 残念そうに微笑んだシルヴィは、道の向こうへ歩いて行った。誰にも真似できない綺麗な歩き方で、モデルのような媚びた歩き方ではなく、自然に培われた嫌味のない歩き方だった。
「……シルヴィ・ローレンツ」
 無意識のうちに、俺は彼女の名前を呟いていた。


 翌朝、俺とイージスの二人は食堂で朝食を摂っていた。朝食とはいっても、時刻は既に九時を回っている。流石に食堂は閑散としていて、俺たちを含めて五、六人しかおらず、食器を動かす音が静かに響いている。噂によると、あのパイロットたちは別の基地に異動になったらしい。イージスかシルヴィが、ユグドラシル基地の指揮官に報告したのだろう。詳細を訊く気はなかったし、聞きたくもなかった。知らない振りをするのが一番無難な選択だ。
「なぁ、俺の娘、可愛いだろ?」
「……ええ」
「名前はイリア。今年で三歳になる」
「……若いですね」
「今はシエラと暮らしてるんだがな、もう笑った顔が最高に可愛いんだよ」
 俺の向かいの席に座るイージスは、無骨な顔を緩ませて写真を眺めている。ぼんやりとした思考のまま、俺は適当に相槌を打った。
(笑顔が可愛い……か)
 冷めきったベーコンエッグをフォークでつついてみると、半熟だった黄身は既に固まっていて、俺の言うことを聞いてくれなかった。仕方なくコーヒーを一口飲んだ。ミルクを入れ忘れたコーヒーは苦味という機銃を撃ってきた。味覚に被弾。あまりの苦さに俺は咳きこんだ。視線を感じて顔を上げると、呆れ顔のイージスが、正面から俺を見ていた。
「どうしたんだ? 坊や。さっきから変だぞ」
「……頭がぼんやりとして、食欲がないんです。風邪をひいたと思うんですけど、熱はないみたいなんです」
 俺は重苦しい溜息を吐いた。口に詰め込んだパンを飲み込んだイージスが、ピエロのように笑った。
「そりゃ、アレだな」
「アレ?」
「恋だよ。坊や、お前は恋してるんだ。相手は誰だ? 俺の知ってる子か?」
「……ローレンツさん」
「シルヴィか? そうか……彼女か――」
 イージスが伸ばし放題の無精髭を撫でた。考え込む時の彼の癖だ。助けてほしい。救いを求める目で、俺は彼を見つめた。
「俺、どうしたらいいんですか?」
「……何で俺に訊くんだよ」
「だって、結婚してる」
「――よし! 俺がシルヴィを呼び出してやるから、今すぐに告白しろ! んで、結婚して子供が産まれたら、真っ先に俺に報告するように!」
 飛躍しすぎだと反論したかったけれど、イージスは俺のために言ってくれているのだ。だから、彼の厚意を素直に受け取ろう。頼りになる友人がいてよかったと改めて思った。もっとも、友人と思っているのは、俺だけかもしれないけれど。朝食を終えてトレイをカウンタに返す。イージスはシルヴィを捜しに外へ。何をすればいいか分からなかったから、俺はとりあえず部屋に戻った。
 今日は非番だったから、何もすることがなかった。遠くない未来、パイロットを引退した俺は、博物館のミイラみたいに干からびてしまうのだろうか。ベッドに寝転んで家から持ってきた本を読んでいると、イージスがいきなり入って来た。いくらルームメイトとはいえ、ノックぐらいしたらどうなんだ。喉まで出かかった文句を飲み込んで、俺は起き上がった。
「話はつけてきた。シルヴィは格納庫の前で待ってるぜ。ほら、早く行って来い!」
 背中を押された俺は、半ば追い出されるように部屋を出た。入口の煉瓦のステップを下りて滑走路を横切る。格納庫の前に人影が立っていた。遠目からでも、それがシルヴィだと分かった。色素の薄い金色の髪が風に揺れている。俺は自然と早足になっていた。
「ローレンツさん」
「あら。おはよう。機体を見に来たの?」
 シルヴィは飛行服を着ていた。これから飛び立つのか、帰還した直後なのか、それとも、着替えがなかったから着ているのか。少なくとも三番目ではないだろう。どこか可笑しい三択問題だ。
「ねえ、イージスは? 私、彼に呼び出されたんだけど……」
「いえ、貴女に話があるのは俺なんです」シルヴィの顔が少しだけ、ほんの少しだけ綻んだ。
「そうなんだ。じゃあ、話って何?」
「えっと……」
 十七年間生きてきたが、俺は異性を好きになったことは、今まで一度もなかった。当然、告白の経験もない。歯が浮くような気持ち悪い台詞なんて言いたくないし、かといって「好きです」という一言で終わらせたくもない。それではあまりにも味気がない。敵の機銃の弾道を読むほうがまだ優しい。恋愛というメカニズムを解体して整備するよりも、戦闘機を整備するほうがよっぽど簡単だ。
「……私も、君に話があるんだけど……先にいいかしら」
「は……はい」
 気持ちを整理する時間が稼げるぞ。俺は安堵した。シルヴィも黙り込んだ。話す決心がつかないのだろう。きっと、重大な話に違いない。彼女が話し出すまで俺は待った。意を決したシルヴィが顔を上げた。
「……私、エリオット君のこと……好きになったみたいなの……」
「え?」
 シルヴィの言葉に俺は我が耳を疑った。シルヴィが俺に好意を持っているなんて、こんな都合のいいことがあるはずがないからだ。眉を顰めて、俺は訝しげに彼女を見つめた。
「すみません。……今、何て言ったんですか?」
「え……? だから……好き、なの……」
「もう一度」
「もう! 何回言わせるのよ! 恥ずかしいじゃない!」
 シルヴィは顔を真っ赤にして睨んできた。刹那、興奮した表情は雪が溶けるように消え、代わりに不安げな表情に取って代わった。答えを出さない俺に不安を覚えたらしい。
「……駄目……よね。ふふっ……そうよね、二つ年上なんだもの。若い子のほうがいいよね」
「そんなことありません! 俺も……俺も、ローレンツさんのこと……好きなんです……」
「本当……?」
 シルヴィの声は震えていた。嘘をついていないことを示さないといけない。俺は頷いた。シルヴィが微笑む。輝くような笑顔だった。
「でも、どうして俺を?」
「君は、私のことを知らないって言ってたけれど、私は君のことを前から知ってたわ。感情を表さない子で、年の割に大人びている、背伸びしすぎてるなって思って見ていたの。名門出身を鼻にかけてる、そんな感じがしたわ」
 彼女の指摘は的確だった。そのとおりだった。否定する気はなかった。壁を作って周りから遠ざかっていたのは自分だ。
「でもね、あの君の笑顔が、とても素敵だった。本当の君を見たの。それからよ。好きなんだなって気づいたのは」
「俺もです。貴女のあの笑顔が忘れられなくて……気づいたら、好きになってました」
 あの時、俺たちは同じ時間を共有した。
 同じように笑い、
 同じように互いを好きになった。
 偶然か?
 それとも、運命か?
 どちらでもいい。
 見えない神様の悪戯に、俺は密かに感謝した。
「ねえ……キスして」
「へ?」
 思いがけないお願いに、俺は間抜けな声を出していた。両目を閉じたシルヴィは、背伸びをして待っている。キスを交わしている場面を誰かに目撃されたりしてみろ。永久にからかわれるぞ。周りを見回して誰もいないことを確認した俺は身を屈め、可憐な桜色の唇に、そっと唇を重ねた。
 その感触は、とても柔らかかった。空に浮かんだ雲に触ることができたなら、きっとこんな感触で、でも彼女の唇の柔らかさには勝てないだろう。
 シルヴィはしなやかな両腕を俺の背中に回し、胸の中に身を委ねた。彼女は華奢で、硝子のように繊細だった。抱き締めたら壊れてしまいそうな気がした。恐る恐る、俺はシルヴィを抱き締めた。大丈夫だ。壊れはしない。互いの唇に余韻を残し、俺と彼女は離れた。頬を赤く染めて、はにかんだ彼女が俺を見上げた。
「今度、私の家族に会ってもらっていい?」
「もちろんです」
「それと、私に対する敬語と、さんづけは禁止ね」
「分かりました」シルヴィに睨まれて、俺は苦笑した。
「そうするよ。えっと……シルヴィ」
「よろしい」
 優しく目を細めたシルヴィが微笑んだ。
 あの時と同じ、とても綺麗な笑顔で、キャノピィから眺める太陽のような笑顔だった。
 地上にも、こんなに素晴らしい景色があるんだ。