朝なんて、大嫌いだ。窓枠に嵌め込まれた玻璃の壁を突き抜け、差し込んでくる太陽の光も、空気のように軽やかに歌う小鳥の囀りも、アッシュにとっては地獄の底で燃え盛る炎よりも熱く、耳元で囁く悪魔の声よりも憂鬱なものだった。神様がいるのならば、迷うことなく問い質すだろう。貴方はなぜ、太陽と朝を創造されたのかと。
閉じた白い瞼を、暁光が容赦なく貫いた。窓から離れたベッドで眠っているというのに、無色透明の光は容赦なく網膜を焼き焦がそうとしてくるのだ。生き物が動き回る音が聞こえる。鳴る寸前の目覚まし時計を止め、二段ベッドから身を乗り出したアッシュは下界を見下ろした。
水晶体に残留していた眠りの霧が晴れていく。シャツとトランクス姿の長身の少年が、クローゼットを開けて服を引っ張り出している。淡い栗色の髪と後ろ姿しか見えないが、彼の目は萌えるような緑色だ。白のカッターシャツとダークグリーンのベストに、インディゴブルーのジーンズ。焦げ茶色のミリタリージャケットはフェイクファーのおまけつき。少年はそれらを手際良く身に着けていった。
濃紺色の頭を掻きながら、アッシュは彼の名前を思い出そうと努力した。思い出した。アイツだ。ルームメイトの、アレックス・フォン・アルジャーノンだ。世界樹ユグドラシルを発見し、マナをエネルギーとして利用する技術を編み出した一族の跡取り息子で、莫大な富と栄光を手に入れた、大富豪一族の次期当主だ。
アレックスは、アルジャーノンという名前を嫌がっていると本人から聞いた。そんなに嫌ならくれてやれと言ったことがある。そうしたら彼は複雑な表情を浮かべ、曖昧に笑っていた。
嫌だ嫌だと言っていても、変化を恐れているから、固定された日常がシフトするのが怖いから、結局はそれを引き摺って生き続けている。人間は分からない生き物だ。そんな生き物を創った神様も分からない。分からないことが積み重なって、この世界ができたんだと思う。
「アッシュ? 起きたのか?」
ボーイソプラノの声が奏でられた直後、栗色の髪が揺れて、ジャケットを羽織ったアレックスが振り向いた。アッシュは素早く頭を引っ込め、彼に背中を向けるようにベッドに転がった。覚醒していると気づかれたら、話しかけてくるに違いない。人間と会話をするのは苦手だ。コミュニケーションなんて面倒臭い。だから、狸寝入りをすることに決めたのだ。
ドアが閉じる音。スニーカーが廊下と擦れる音が遠ざかったのを確認して、アッシュは目を開けた。二度寝しようと寝返りを一回打つ。甘い眠りに引き込まれていく刹那、彼とオフィスで会う約束をしていたのを思い出した。
舌打ちをしたアッシュは、ベッドから這い出した。白の半袖シャツと、ダークグリーンのカーゴパンツに着替え、熟して落ちた林檎のように転がっているヴァイオレットのスニーカーを拾い上げる。変わらないサイズの足を滑らせた。赤い紐を結んで完了。デスクの上のペンダントを首にかけ、引き出しから小さな紙の箱を取り出して、ポケットに突っ込んだ。
部屋を出て一階へ降りる。ピロティの向こうにある食堂から、賑やかな声が聞こえた。騒がしい輪の中に入る気はない。アッシュが足を踏み入れれば、愚かな子供たち、は明日世界が滅びると知った人類のように静かになるからだ。
朝食はいつも食べない。その必要がないし、睡眠時間を割いてまで食べたいとは思わない。それに、他人と馴れ合うのは嫌だ。面白くもない世間話に愛想笑いを浮かべ、安っぽい友情を演じるのも吐き気がする。群れなければ生きていけない奴らと一緒にされるのはごめんだ。世界が終わるまで、オレは独りで生きていくんだ。
でも、アイツ――アレックスだけは違った。アレックスは、極度の人嫌いのアッシュが、唯一心を開いている相手だった。アッシュとアレックスは、特別な絆で結ばれているのだ。友情という陳腐な言葉ではない、もっと強い絆で。
「あら。ブルー君じゃない」
ピロティを引き返していると、運悪く食堂で働いている女性に見つかってしまった。聞こえないように舌打ちをしたアッシュが振り向くと、白いエプロンを着けた女性がそこにいた。白い色を見るたびに、アッシュはあの箱庭を思い出す。鼻腔を刺すような消毒液の匂いが嫌いだった。
「朝ご飯食べていくでしょう? おばちゃん、腕によりをかけて作るわよ」
「……いらない。朝はいつも食べないから。それに、隊長と会う約束をしてる」
「そう、残念ね。でも、朝は食べなきゃ駄目よ」
女性がにっこりと微笑んだ。
いかにもアッシュを心配しているようだった。
きっと、彼女の微笑みはフェイクなんだ。
見てみろ。
今に化けの皮が剥がれて自己満足の塊が現れるぞ。
心配しています。
気を遣っています。
優しい振りをして、優越感に身を浸している。
そんな人類が、今日も生きている。
息をしている。
アッシュはフェイクの笑顔を返してやった。
満足そうに頷くと、女性は食堂に入って行った。
ポケットの中の右手が、機銃のトリガを弾いた。
白い背中に、見えない機銃を撃ち込んだ。
肩甲骨の辺りに被弾。
真っ赤な血が、白に映える。
頭はコクピット。
心臓はエンジン。
手足は翼とエルロン、ラダー。
口は機銃で、悪意の弾を撃ちまくる。
彼女が戦闘機なら、すぐに修理できる。
人間はそうはいかない。
何て不便な生き物なんだろう。
外の空気は冷たかったが、その冷たさが逆に気持ちいいし、澄み切っていて清々しかった。冷たい粒子を肺の中に吸い込んで、頭の中をクリアにする。空は雲が多い。時折、分厚い雲を押し退け、太陽が顔を出す。このまま行けば、昼前には快晴になるだろう。
空を眺めながら、アッシュは搭乗員宿舎の隣にある飛行隊隊舎へ入った。エレベーターで三階に上昇。彼がいるオフィスの前に到着した。最初にノックをして、次に失礼しますと断り、最後にドアを開けて室内に入るのが、人間社会に浸透したマナーだ。
でも、マナーを守る気はない。なぜかって? アッシュは、人間に似せて創られた生き物だからだ。ノックと断りの言葉を省いて、アッシュはドアを開けた。
飾り気のないシンプルなオフィス。正面のデスクに座り、書類を読んでいる男が顔を上げた。二十代前半の若い青年だ。マナーを破ったというのに、彼はアッシュを咎めなかった。どうやら、アッシュがノックもせずに入って来ることを予期していたらしい。相変わらず、稲妻のように勘が鋭い男だ。
青年――ノワリー・エリオットと初めて会った時から、アッシュは彼に対して苦手意識を抱いていた。何でも一人で片付けてしまう完璧な青年。戦闘機で言うとマルチロール機だろうか。おまけにモデルも足元に及ばない容姿と知性を身に纏い、更には地位と名誉も兼ね備えているのだ。
ノワリーは「天空を貫く光の槍」と謳われた英雄で、惜しまれながらもパイロットを引退したらしい。そして、十九歳という若さで大尉の地位に昇りつめたのだ。
ノワリーは、自分の意思でパイロットを引退したんじゃない。アッシュはそう思っている。欲に塗れた人間の手で、翼をもぎ取られて空から引き離され、望みもしない地位に祀り上げられた挙句、地上に縛り付けられてしまったのだ。ノワリーの身体には汚れた糸が絡み付いていて、彼が地上で息をするたびに、背中に残った翼を少しずつ千切っているのだ。
この男は苦手なのに、どこか似たような雰囲気を感じる。
アッシュと同じように空に焦がれ、
空で散ることを望んでいる。
いや、望んでいたのかもしれない。
確信はない。
だけれど、
そんな気がする。
「どうした?」
ノワリーは怪訝な面持ちをしていた。どうやらアッシュは、彼を凝視していたようだ。何でもないと返事を返す。
「すまないが、この書類を読み終えるまで待ってくれ。すぐに終わる」
「早くしろよ」
腕組みをしたアッシュは、後ろの壁にもたれかかった。ノワリーが書類に視線を落とす。ポケットの中に押し込んだ箱に触れた時、オフィスは禁煙だったことを思い出した。理由は単純明快。ノワリーは煙草を嫌っているからで、亡くした友人を思い出すらしいからだ。
これは煙草とは違う物だが、匂いは煙草と同じように人を不快にさせることが多い。我慢しよう。環境と人に優しいアッシュ・ブルー。滑稽で陳腐な謳い文句。政治家のポスターみたいに酷い。
ノワリーは書類を読破すると、慣れた手つきでサインを書き、ファイルに挟みこんでデスクの引き出しにしまいこんだ。
「待たせてすまない」
「で、オレはどこを飛べばいいんだ?」
「国境から65キロ地点を偵察飛行してくれ。それだけだ。これからすぐに飛び立ってほしい。構わないか?」
「分かった。グングニルの状態は?」
「フォーマルハウトに連絡しておいた。二十分後には、整備が終わるそうだ。他に訊きたいことは?」
「ない」ドアノブに手を触れたアッシュは、今思い出したという表情を作って振り向いた。「そういえば……アレックスはどこに行ったんだ?」
「アルジャーノンは、新人を迎えに空港に向かった。何か問題でもあるのか?」
「ないね。うるさい奴がいなくなって清々するぜ」
苦笑するノワリーを視界の端で確認して、アッシュはオフィスから離脱した。
新人という言葉が気になった。
精鋭中の精鋭チームに、新しい奴が参入するのか。
どんな奴なんだ?
腕は立つのか?
魚が吐き出す気泡みたいに、次から次へと興味が湧いてくる。
別に、そいつが気になるわけじゃない。
誰だって、新しいものには飛びつくじゃないか。
まあ、考えるのは後にしよう。
そのうち、嫌でも思い知るさ。
第一格納庫に向かいながら、アッシュはポケットからスモークと携帯用灰皿を出した。アッシュの身体は特別で異質であり、普通の人間とは違う。スモークという煙草に似た形の薬を吸わないと、体調を維持できないのだ。
ジッポで先端に火を点け、口に銜えた。煙を吸い込み、細胞の隅々まで行き渡らせる。強烈な苦みに顔を顰めた。良薬は口に苦しと言うが、こいつは苦すぎだと思う。そもそもこれは、良薬の部類に入るのだろうか。世間一般に知られていない、非合法の薬だ。とてつもなく苦いし、ハイになれない。でも、これを吸わないと、身体の調子が保てない。つくづく面倒な身体だと思う。
空気の匂いとは違う別の匂いが、アッシュに挨拶をした。アッシュにしか感じることのできないマナという物質で、人類には認知することが不可能なのだ。世界樹ユグドラシルから生み出されているマナは、人類の文明を支えている物質でもある。ユグドラシル基地周辺は特にマナが濃い。きっと、ここの土地の値段は高額だろう。
スモークが残骸になると同時に、第一格納庫に到着した。シャッターをくぐって中へ。貧弱な蛍光灯が、最後の力を振り絞るように光っている。ここは、四六時中薄暗い。電気が点いていても、暗闇を追い払えないのか。アッシュは自分の機体を探した。
すぐに見慣れた色の戦闘機を見つけた。機体の前に少年がいる。チームヴァルキリーの専属メカニックチームに所属している少年、リゲル・フォーマルハウトだ。星のように輝く銀色の髪がよく目立つ。肩越しにリゲルが振り向いた。
「ウッス。悪いな。もうちょっとかかりそうなんだ。部屋で待ってろよ。終わったら呼びに行くぜ」
「どのくらいかかる?」
「そうだな……三十分ってところかな」
「いいよ。待っててやる」
「サンキュ」
近くに積まれてあるコンテナを見つけ、アッシュはその上に座った。リゲルがメンテナンスの続きを再開する。片足を立て、後ろに伸ばした両腕で身体を支え、アッシュは彼の仕事を観察した。迅速かつ無駄のない動きだ。機体の隅々まで知り尽くしている動きに感心した。
十七歳という年齢にも関わらず、リゲルの腕はメカニックチームの中でも一、二を争う腕前だ。最年少で試験に合格した腕は伊達じゃない。ちょっと待て。こいつ、図面を見てねぇじゃねぇか。横目で見る程度かよ。グングニルを壊される前に注意しないといけない。
「オイ」
「ん?」
「テメェ、ちゃんと図面見てるのか? 真面目に仕事しろよ」
「図面は覚えてる。何回も整備してるンだ。大丈夫だって」
「ファック。そのスカスカの脳味噌に詰まってるとは思えねぇな」
「はいはい。今度からは気をつけます」
基地内で有名なアッシュの毒舌をリゲルは軽く受け流した。リゲルは壁際に置いてあったボンベを抱えると、剥き出しになっている燃料タンクの側に屈みこんだ。ボンベから伸びたチューブをタンクに繋ぎ、ノズルを捻って中身をタンクに注ぎ込む。あの中には、燃料の次に大事なマナが詰まっている。飛ぶためには欠かせない大事な物だ。額の汗を拭ったリゲルが側まで来た。
「終わったぜ」
「三十秒オーバーしてる。尻叩きの刑だ」
「そんぐらい勘弁してくれよ」
ヒヨコみたいに口を尖らせて抗議をするリゲルを無視して、コンテナから下りたアッシュは、整備が終わったグングニルの側に行った。無限に広がる宇宙のようなミッドナイトブルー。宇宙に空気がないのが残念だ。空気があれば、宇宙人相手に空中戦を繰り広げられるのに。お前に宇宙はまだ早い。空で我慢しろということか。
「どうだ? 新品みたいだろ?」
「グングニル、もっと軽くできねぇのか?」
「はぁ? 何言ってんだよ。限界まで軽くしてるんだぞ。それに、グングニルは他の機体より小さいんだ。もう削る所はない。これ以上軽くならない。できません」
アッシュは、主翼の真下に着けられている機銃に目をやった。アッシュが使用している機体には、機銃と機関砲は搭載されていないが、ミサイルが切れた時の予防として、特別に搭載されているのだ。世界中で使用されているコルト・ブローニングM2の一つの重さは38キロ。アッシュの体重と同じだ。おまけに、25mm機関砲も付けられてある。どこまで重くする気だ。
「機銃が邪魔だな。外せよ」
リゲルの顔が、呆れ果てたように歪んだ。溜息が地上に落ちる。
「機銃がないと戦えないだろ。念力で敵を倒すのかよ。エスパーか。大体、何で軽くしたがるんだ?」
「高く昇れるような気がする」
「墜ちるぞ」
「それを望んでる」リゲルの二回目の溜息が足下に落ち、渦を巻き始めた。
「馬鹿なこと言うなよ。もう行くのか?」
「ああ。濁った空気をこれ以上吸いたくない」
「了解。すぐに準備するよ」
数分の間。滑走路に行ったはずのリゲルが戻って来た。忘れ物か? トイレか?
「アッシュ。言い忘れてた」
「何だよ」
「ちゃんと、帰って来いよ」
「ファック。余計なお世話だ」
アッシュは中指を立て、得意のポーズをお見舞いしてリゲルの厚意を拒絶した。ビターチョコみたいな苦笑いを浮かべたリゲルは、チームの整備士たちと滑走路に走って行った。アッシュは再びグングニルを見上げて目を閉じ、共に空を飛んでいるヴィジョンを思い描いた。
耳の奥で、翼が風を切り裂く音がハウリングした。
そうだ。
早くお前に乗って、
あの澄んだ、
穢れのない大空に行くんだ。
濁りきった空気を吸い、
重くなってしまっては、空に浮かぶことはできない。
そうなりたくはない。
そうなってしまえば、
オレは生きていけない。
さあ、心を綺麗に整理して、飛ぶ準備をしよう。
綺麗なものだけが、あの中に昇っていけるのだから。
キャノピィの向こう側を、白い雲が流れていく。
空を渡る旅人は、風の吹くままにどこへでも行ける。
彼らの目的地は、きっと天国だ。
羨ましい。ヒトは、天国すら見つけられないというのに。
せめて、天国と地上の隙間を見つけようと、アッシュは目を凝らした。
視界一杯に広がる白い雲と、透明なスカイブルー。
それが、天国の代わりに見つけた景色だった。
二つの景色は、互いを称え合いながら、見事に調和していた。
世界中に名を馳せた画家でも、この景色は描けないだろう。
空に来るたびに、いつも探しているんだ。
白い雲の上に残された、神様の足跡を。
見つけたら、
きっと、
天国に連れて行ってくれる。
電子音が鳴り響いた。戦闘機の機影が、コンソールのレーダーに映し出される。
せっかく夢を見ていたのに。
燃料とマナは充分ある。
十二時の魔法が解けるまで、踊ろうじゃないか。
そうだ! 来い!
オレの顎は、テメェに牙を突き立てたくて、涎を垂らしているぞ!
パーティの始まりだ。
さあ、ハイになろうじゃないか。
フル・スロットル
速度は五分五分。
黒い亡霊が、機関砲を撃ってきた。
右へロール。
オレンジの閃光が、脇をすり抜けた。
スロットルを絞って、エレベータ・ダウン。
降下を利用して速度をつける。
肩越しに後ろを確認。
ファントムは諦めていない。
ブレイク。
敵もブレイク。
シザーズで駆け回って。
ロール。離脱。
エレベータ・アップ。
上昇。風が渦を巻く。
約30度の急な角度。アッシュは上昇を止めない。
1500、2000、2500、そして、3000メートル。ここまで五分。
凍える手を叱咤して、操縦桿とスロットルを制御する。
燃料節約のため、ヒーターの温度は低めに設定されている。
吝嗇な奴らだと罵る気はない。多少寒いほうが、頭の回転はよくなる。
高空へ昇れば昇るほど、気温は低くなる。大体、1000メートルで六度下がり、3500メートルだと二十度は低下する。地上が摂氏二十度でも、3500メートルの上空では零度を下回っているのだ。コクピットから這い出れば、一瞬にして凍死してしまうだろう。
高空の空気密度の薄さは、エンジンだけでなくパイロットにも牙を剥く。空気が薄くなれば、必然的に呼吸が辛くなる。その状態で長く居続けると、酸素不足で脳に深刻な影響を与えてしまうのだ。それを避けるために、酸素マスクの装備はパイロットたちに義務づけられている。
水平飛行へ。
エレベータ・ダウン。
左にバンク。
ほとんど垂直に近い。
背面。世界が反転して、大地が頭の上にくる。
半ロール。
一気に100メートル以上もダイブする。
降下速度を味方につけて。
ラダーペダルを踏み込む。機首が横を向いた。
速度が出ているせいで、機体は斜めに滑空していく。
エレベータ・アップ
急激なスピン。
機首は上を見上げようとするが、降下速度が速く、スロットルが絞られているせいで、エンジンの回転数は上がらない。こうなると、ラダーの影響で横滑りしている機体に主翼の自転作用が加わり、機体は弧を描いた。これが単なる旋回じゃないことは、尾部が大きくスライドしているところからも分かる。
風に弄ばれる木の葉のように回りながら、グングニルは地上に墜ちていく。
一、二、三回転。
メリーゴーラウンドのように、景色が回転する。
アッシュの類い稀な平衡感覚と動体視力は、安っぽい幻惑に惑わされなかった。
グングニルは、一気に2000メートル近く降下した。
四回。五回目の回転。
右のペダルを蹴りつけると同時に、エレベータ・ダウン。
空気の流れが一気に変わり、機体が押し戻された。
半ば失速していた主翼に、空気と揚力が戻ってきた。
スロットルを上げる。
ラダーはニュートラル。
エレベータ・アップ。
上昇に移行。
高度500メートル。
五回の回転で、3000メートル近く降下したわけだ。
ファントムもスピンを終え、グングニルの後方に占位しようとしている。
ドライアドの誘惑に負けたのか、敵の速度は落ちていた。
それでも奴は、上昇に入ろうとしている。
そろそろお開きにしよう。
135度。右へバンク。
エレベータ・アップ。
7Gの旋回を維持。
180度旋回。45度のバンク。
水平に戻す。
高度を生け贄に捧げ、機首方位を最短時間で180度反転させるスライス・バック。
ファントムの後方に占位。
男に追い回される女のように奴は逃げる。
どこへ行くの? ジュラルミンのシンデレラ。
ガラスの靴は、もう脱ぎ捨てたのかい?
ほら、王子様がお前を追いかけているぞ。
「Der Sohn, der eine Ru"ckkehr in einem Haus ist (お家に帰りな、坊や)」
機関砲のトリガに指をかけて。
ファイア。
すれ違いざまに撃ち墜とす。
黒い煙を上げながら、敵機は白い雲に吸い込まれるように消えていった。
しばらくすると、鮮やかな色のパラシュートが見えた。
パイロットが脱出したようだ。
地上に戻りたがる奴の気が知れない。
「……ファック」
オレも地上に戻ろうとしている。
何で?
なぜ?
地上に生まれた者の宿命か。
空に留まれない者の運命か。
好きで生まれたわけじゃない。
望まれて生まれたわけじゃない。
人間の自己満足と知識欲、探究心を満たすために生まれ、生かされてきた。
生きているのが苦痛だった。
生まれた時からずっと、空で死ぬことを望んでいた。
このまま昇って行けば、天国に行けるのだろうか。
青い空を泳ぎ、雲を突き抜け、太陽を尻目に高みを目指す。
でも、太陽に翼を焼かれたら?
蝋で塗り固められた、傲慢というヒトが持つ見えない翼。
神話に出てくるイカロスのように墜ちるのは嫌だ。
あまりにも、惨めすぎるからだ。
どうせ死ぬのなら――。
空で、死にたい。
群青の海をダイブ。
白い雲を突き抜けて下降を続けていると、ユグドラシル基地が見えてきた。
背の高い管制塔。赤い頭の搭乗員宿舎。発泡スチロールのような飛行隊隊舎。世界地図みたいな大地が広がっている。とても小さい、ミニチュアのような世界が、空に居続けられないアッシュの帰る場所なのだ。
ふと、アッシュは思った。ノワリーは、オフィスの窓からグングニルを見ているのだろうか。お帰りと言うノワリーの姿は想像できない。
地上で生きている人間たちから見たオレたちは、どんなふうに映っているんだろう。
天使かと思って手を振れば、
それはただの金属の塊で、
恵みの雨の代わりに真っ赤な血の雨を降らせながら、
遥か彼方に飛び去るのだ。
地上に縛られた奴らには、空の価値なんて分からないだろう。
分かるわけがない。
フラップ・ダウン。
エレベータ・ダウン。
ラダーを調整。
機首を持ち上げ、車輪を出す。
スロットルを絞って。
車輪が滑走路に触れた。
着陸の衝撃が響く。
滑走路をランディング。
グングニルは止まった。
キャノピィを開け、アッシュは狭いコクピットから這い出した。待ち構えていた重力が、アッシュの上にのしかかる。息が詰まりそうだ。いっそのこと、息が止まってしまえば、どんなにいいだろう。地上で死ぬのはごめんだが、窮屈な肉体から解放されれば、アッシュの意識は空に還ることができるだろう。
重力と格闘していると、第一格納庫から二人の人間が出てきて、こっちに歩いて来るのが見えた。一人はアレックス。もう一人は女だった。XXの染色体を持つ、アダムに禁断の実を与えた罪深い生き物だ。
(メアリィか? いや、違う。あの女より若い――)
見慣れない人間が、アッシュの目の前に到着した。
幼さの残る顔立ちだ。年はアッシュと変わらないだろう。金色の髪をポニーテールにして、頭の左上で結っている。どこにでもいそうな、ごく普通の善良そうな一般市民の少女だが、アッシュを見上げる目の色は、澄んだ青色だった。
何度も何度も夢に出てきた、神様にしか作れない色。
アッシュがずっと焦がれている、空の色だった。