人類が住む大陸では、多くの文明が産声を上げては国家を形成し、拡大と衰亡、繁栄と荒廃の歴史を繰り返してきた。そして、ヴィンセント・フォン・アルジャーノンという男が世界樹ユグドラシルを発見し、マナをエネルギーとした利用する技術を編み出してから、人類の文明は著しく発展していった。
 鉄道。車。原子力発電。人々が生きる上で欠かせない物の全てを、マナが補うようになったのだ。まだ幼かった国々は、世界樹とマナの恩恵を分かち合ってきたが、文明と技術が発達するにつれ、次第に世界樹とマナを巡って争うようになった。
 中央海を挟んだ東側に広がる永世中立国クルタナ。
 中央海の西側に広がる軍事大国アンティオキア。
 数ある国々の中でも、この両国は世界樹とマナを巡り、幾度となく熾烈な戦争を繰り返してきた。最初のうちは火花が散るような小競り合いが続き、次いで大規模な軍隊の衝突が始まった。だが、両国とも決定打がなく戦線は膠着状態に陥り、戦争は息の詰まりそうな長期戦に突入した。五年前に両国は激しい空戦を繰り広げ、それを境に両者の関係は、更に悪化の一途を辿っている。
 度重なる両国の戦争で、その名を華々しく轟かせた兵器があった。
 そう、大空を駆ける戦闘機である。
 この時代の主流はジェット機で、レシプロエンジンとプロペラを組み合わせたレシプロ機は過去の遺物と化していた。両国の戦争前から急速に発展を続けてきた航空機だが、度重なる戦争によって、更なる技術的革新がもたらされたのだ。その結果として、戦闘機、爆撃機、輸送機といった機体が、次々と戦場の空を飛び始めたのである。
 最初のうちは、いつ墜落するか分からない、頼りない金属の塊でしかなかったが、戦場で活躍するにつれ、必要不可欠な存在になっていった。そして、戦闘機のパイロットたちの多くが。十代から二十代の若者だった。戦闘機に乗った彼らは空を舞い、若い命の光を、戦いに染まった空に散らしていった。
 地上を走る乗り物が、時速100キロ以下を最高としていたのに対し、航空機は150キロ、戦闘機に至ってはそれ以上の速度を出し、時にはマッハを越えることもある。しかも、母親の腕の中のように安定した地上とは違い、空の上は思春期の子供のように不安定で、上下左右前後その全てに、繊細なバランスが求められるのだ。
 それに対応する反応速度と応答速度を全年齢で実験した結果、十代から二十代の青少年が、抜群に優秀な成績を示したのだ。その結果、戦闘機乗りのほぼ全てが、若者で構成されることになったのである。
 この結果を耳にした各国は、若きパイロットの養成に力を入れ始めた。十代の半ば、早熟な者は十代の初めから航空学校で訓練を積み、最高の成績を収めた者だけが、戦闘機パイロットに抜擢されるのだ。
 成績優秀な者と、優れた遺伝子を持つ者だけが、生き残れる世界。
 欠陥品は、淘汰される。
 それが、この世界の常識だった。


 群青色に煌めく空を追いかけるように、白い雲の群れが真下を走っている。青い空と白雲が無限の彼方にまで広がっていて、こっちにおいでよと両腕を広げ、不思議な旅に誘おうとしているのは気のせいだろうか。意地悪な景色だ。外に出られないのを知っていて誘惑しているのだから。もうすぐ青い色を吸い取った空の中を自由に飛べるのだ。今は耐え忍ぼう。
 機内の窓から望める飛行機の主翼は風を切り、順調に目的地に向かっている。それに天気も最高で申し分ない。神様が不機嫌じゃない証拠だ。昨夜は興奮して眠ることができなくて、結局映画を観ながら一晩中起きていた。SF、ホラー、アクション、ファンタジィ。何本の機内映画を観たのか思い出せない。ソエルの目と耳の疲労は、ピークに達していた。ヘッドフォンを着けていた耳が痛いのも当然か。
 添乗員が座席を回り、空になった機内食のトレイを回収していった。その際も笑顔を忘れていない。この航空会社は、社員をちゃんと教育しているのだ。ソエルは前の座席の背もたれに設置されている小さなモニターに目を向け、画面をタッチして地図を表示させた。
 赤い矢印が飛行機のアイコンの機首から伸びていて、目的地を指差している。着陸する前に荷物を纏めておこう。ソエルは折り畳み式のテーブルの上に散らばっている文庫本やノートを鞄に押し込んだ。機内に音楽が流れ、次いで女性のアナウンスが響いた。
『皆様。当機はまもなく、ユグドラシル空港に到着いたします。添乗員が各席を回りますので、指示に従ってシートベルトをお締めになってください。テーブルも折り畳んでくださるよう、よろしくお願いいたします』
 添乗員が各座席を回り、丁寧にベルトの締め方を教えてくれた。堅苦しい教科書よりも親切だし、複雑な手順もないから、簡単に締めることができた。機内が揺れる。機体が高度を下げ始めたのだ。小さな窓から外を除くと、管制塔と空港の建物に、滑走路が近づいてきた。
 いよいよ着陸の時だ。機長と副機長と添乗員、そして乗客たちに緊張が走る。その時、高度を下げていた機体の機首が持ち上がり、地上が遠ざかって空が近づいた。不審に思った乗客たちの囁き声が聞こえた。再びアナウンスが鳴った。今度は男性の声だ。
『機長です。先程、管制塔から連絡が入りました。国境を越えたアンティオキアの戦闘機がこちらに向かっています。安全が確認されるまでの間、しばらく上空で旋回を続けます。ご了承ください』
 訓練の賜物だろう、機長の声は凪いだ海のように落ち着いていた。後部座席で悲鳴が上がり、悲鳴が連鎖していった。何があったんだ。ソエルは窓の外を覗き込んだ。首を捻って後方を確認すると、一機の戦闘機が飛んで来るではないか。
 全長18メートルのF4ファントム2。ダークグレイに塗られたボディに、高らかに吠える獅子のエンブレムが胴体にマーキングされている。あれはアンティオキアの国章(ラウンデルマーク)だ。
 次の瞬間、オレンジの閃光が駆け抜けて、機関砲が左の主翼を貫いた。爆発。黒い煙が左翼をコーティングしている。機銃に砕かれた破片が煌めきながら、真っ逆さまに落ちていくのが見えた。
 機体は傾いたが、すぐさま体勢を立て直した。ラダートリムスイッチを入れたのだ。それでも不安定で天秤のように揺れている。このままでは、乗客全員が死者の魂となって、正義の天秤の上に乗せられてしまい、正義の羽と釣り合わないと、来世を約束されないのだ。
 不安定に揺れ続ける機内を添乗員が巡回して、冷静な表情と声で酸素マスクを着けるように指示している。緊急着陸をしようにも、周囲をファントムが蜂のように飛び交っているのだ。地上に帰還できないジャンボジェットは、燃料とマナが尽きて墜落してしまうだろう。
「死ぬなんて嫌……神様、助けてください……」
 ソエルの隣の座席に座っている女性が、十字を切って呟いた。真っ青に染まった顔と、小刻みに震えている肩が痛々しい。誰だって、こんなところで死ぬのは嫌に決まっている。ソエルだってそうだ。子供の頃から思い続けていた夢が叶おうとしているのに、未練を残したまま死ぬのは嫌だ。死んでも死にきれない。
「見て!」
 ソエルの数列後ろの座席に座っていた男の子が叫んだ。華奢な指が窓の外を指差している。乗客たちは一斉に窓の外を見た。玻璃の外をファントムとは違う戦闘機が駆け抜けて行った。あれは、タイフーンと呼ばれる機体だ。四カ国が共同開発したマルチロール機で、アフターバーナーを使わずに超音速巡行(スーパークルーズ)ができるのだ。
 ライトグレイのボディには、十字に交差する剣のラウンデルマークがマーキングされている。クルタナの国章。つまり、タイフーンは味方だ。歓声が上がる。遥か前方で、両者は一騎打ちを開始した。この瞬間、乗客たちの運命は、タイフーンのパイロットに委ねられたのだ。
 タイフーンの後方に陣取ったファントムが機関砲を発射。
 タイフーンは、右のエルロン・ロールで難なく回避する。
 敵機の追尾方向へタイフーンが旋回した。
 敵の機軸の延長線上に入らないように、バンク角を調整している。
 防御機動の一つ、ブレイク・ターン。
 後方に占位した敵機との交差角を増大させ、追尾を困難にすることを目的とした機動法だ。
 ファントムがオーバーシュート。狙い通りだ。
 両機の距離は近い。
 タイフーンが旋回。
 エレベータ・アップ。
 相手の後ろ上方に占位しようとしている。
 ファントムはそれを許さない。
 上昇と旋回の応酬。
 縺れ合い、絡み合いながら、青い世界をシザーズで駆け回る。
 ブレイク・ターンなどの防御機動が成功し、敵が自機の近距離をオーバーシュートした際に、素早く旋回方向を切り返して相手の後方に占位するように機動すると共に、上昇しながら蛇行を繰り返して前方象限に対する速度を減することで、形成の逆転を試みるテクニックだ。互いに旋回を繰り返して交差する様子が鋏の開閉動作に酷似していることから、シザーズという名称がつけられたのだ。
 三回目のロール。
 交差角が最大になるタイミングで、タイフーンが僅かに機首を下げた。
 エレベータ・ダウン。
 機動で失った速度を回復させ、自機が前方に押し出される前に離脱したのだ。
 ファントムの旋回面の内側へリード・パシュート。
 距離を詰める際に最も有効なカーブだが、継続すると相手の前方に出てしまうぞ。
 敵機の真横、90度ラインを過ぎる。
 バンク角を水平に。
 アップ。
 右にハーフ・ロール。背面になった。
 ダウン。降下旋回。
 悪霊を追い払う時間だ。
 ファイア。
 27mm機関砲が、ファントムの尾翼と右翼を粉砕した。
 これ以上は戦えないと判断したのか、ファントムは方向転換をして、破損した尾翼と右翼を引き摺りながら自国の領土に逃亡して行った。賢明な判断だ。敵はドッグファイトを途中放棄したぞ。つまり、タイフーンの勝利だ。
 タイフーンがジャンボジェットの隣に並び、翼を振って合図している。もう安全だと言っているようだ。戦闘機が斜めに傾いて、空港の方角に飛んで行った。もう生命を脅かす輩はいない。旅客機も砕けた翼を抱えて、目的地であるユグドラシル空港に向かった。


 格納されていた車輪が出された。果たして片翼だけで無事に着陸できるのだろうか。機長の腕と経験を信じるしかない。抗力発生装置、スポイラーが作動。減速する機体。未だに不安定な機体の向きをラダーで調整している。車輪が灰色の滑走路を走り、速度と車輪の回転が落ちていく。完全に機体は停止した。胴体が折れることも爆発炎上することもなく、旅客機は地上に帰還した。
 ソエルたち乗客は、搭乗口に設置された緊急脱出用のスライダーで地上に滑り降りた。待機していた消防車が、左翼に放水を開始した。九死に一生を果たした乗客たちの反応は様々だった。崩れ落ちて泣く者。家族や友人と抱き合って無事を喜ぶ者。怪我人や死者が一人も出なかったのは、まさに奇跡だろう。気紛れな神様の采配に感謝しよう。
 視線を巡らすと、旅客機を救い出したタイフーンが、滑走路の脇に佇んでいるのに気づいた。勇気あるパイロットはまだいるだろうか。多くの人命を救ったヒーローに感謝の意を伝えたい。キャノピィが開き、パイロットが姿を見せた。
 地面に降り立った飛行士は、旅客機の機長や空港の職員と会話をしている。操縦士が煙のように消え去るその前に、ソエルはタイフーンの側へ走った。ソエルの気配を察知したパイロットが振り向いた。
 パイロット――彼はとても若かった。ソエルと同じティーンエイジャーで、一つか二つ年上だろう。柔らかく波打った淡い栗色の髪と、春に芽吹く若葉のような萌える緑色の目。フェイクファーで縁取られた焦げ茶色のミリタリージャケットとダークグリーンのベストに、インディゴブルーのジーンズが良く似合っている。それに背が高い。180センチはありそうだ。視線が合った瞬間ソエルは一礼した。
「ありがとうございました! 貴方のお陰で、皆助かりました!」
「お礼なんてそんな……俺は、当然のことをしただけだよ」
 奏でられた声は、少年の甘さが残る、柔らかいボーイソプラノだった。なんて謙虚な人なんだ。彼は照れたように頭を掻いた。ジャケットに付けられているエンブレムが、陽光を反射して煌めいた。金色の光に紛れ、戦乙女の横顔のレリーフが見える。あのエンブレムは、もしかして――。
「あの、もしかして……チームヴァルキリーの人ですか?」
「え? そうだけど――」少年がジャケットのポケットから写真を出し、それを確認するように眺めたのち、視線を上げた。「君……ソエル・ステュアートさん?」
「はっ――はい! 失礼ですが、貴方は……?」
「あぁ、ごめん。まずは、自分から名乗るのが礼儀だよね。俺は、アレックス・フォン・アルジャーノン。君の言うとおり、チームヴァルキリーのメンバーだよ。エリオット隊長の命令で、君を迎えに来たんだ」
「ソエル・ステュアートです! よろしくお願いします!」
 ユグドラシル基地で自己紹介と敬礼を初披露すると思っていたが、まさか空港の滑走路で披露するとは思っていなかった。踵を合わせて敬礼をすると、朗らかに笑ったアレックスは、ソエルに敬礼を返してくれた。
 それにしても、メンバーの一人が年若い少年だと知って驚いた。あんな美しい軌跡を描けるなんて羨ましい。いつかソエルにもできる日がくるだろうか。
「こちらこそよろしく。じゃあ行こうか」
 アレックスが出発しようと言った直後、俄かに滑走路の反対側が騒がしくなり始めた。数台のテレビ局のワゴン車が停まっていて、カメラやガンマイクで武装した人の群れが、空港の職員たちと争っていた。瞬く間に戦場ができあがる。マスメディアがタイフーンとファントムの空戦を嗅ぎつけたのだ。どの局よりも早く報道しようと、リポーターたちが我先にと口を動かしていた。
 白く眩い閃光が走る。それはカメラのフラッシュで、アレックスとタイフーンをフィルムに焼き付けた合図だっただ。『ヴァルキリーのパイロット、アンティオキアの戦闘機から旅客機を救う!』というタイトルのニュース速報が昼頃には流れ、明日一番には新聞の一面を飾るだろう。どのニュース番組も、しばらくはこの話題で独占されるに違いない。
 カメラのレンズとリポーターのマイクに捕まる前に、二人は空港の施設に退避した。受付で手続きを済ませ、ベルトコンベアに乗って流れてきたスーツケースを荷物の群れに加える。衣類や生活用品を胃袋に収めたメタボリックのスーツケースはアレックスが運んでくれた。さすがは男性と言ったところか、彼は軽々と運んでいた。女性に優しくするなんて簡単にできることではない。両親の教育の賜物だろう。
 空港の外に出て、タクシー乗り場へ向かう。片手を上げたアレックスが、一台のタクシーを呼んだ。乗客の出現に心躍らせたタクシーが、すぐに走って来た。ポピュラーな黒いボディで、白い帽子を被った運転手が、運転席でにこやかに微笑んだ。アレックスが後部座席を開け、ソエルに先に乗るように促した。天井に頭をぶつけないように注意して、ソエルは奥の座席に座った。
 二人分の荷物をトランクに詰め込んだアレックスが隣に座ってドアを閉め、ユグドラシル基地までと運転手に目的地を告げた。白い手袋を嵌めた手がハンドルを回す。年季の入ったエンジンが響く。いざ、ユグドラシル基地へ。タクシーが走り出した。


「ステュアートさんって、どういう経緯でヴァルキリーに入ることになったの?」
「さんづけじゃなくていいです。ソエルって呼んでください」
 それは今から数ヶ月前、ソエルがまだ航空学校に在籍していた時のことだ。ある日ソエルは、何の前触れもなく、唐突に教官に呼び出された。呼び出された理由は大体見当がついていた。前日に提出したレポートのことだ。
 今思えば、レポートの内容は目を覆いたくなるほど酷いものだった。レポートは不合格。追試を受けなさい。ソエルは二つの言葉が教官の口から出てくるのを待った。しかしソエルの予想に反し、教官は驚くべき内容を口にした。
 なんと、あのチームヴァルキリーの隊長であるノワリー・エリオット大尉が、ソエルをチームのメンバーの一人として迎えたいと直々に言ってきたというのだ。
 チームヴァルキリーとは、クルタナ空軍が誇る精鋭中の精鋭である飛行隊の名前だ。かつて「天空を貫く光の槍」と謳われたパイロットが指揮するチームは、若きパイロットたちの憧れの対象であり、目標点でもある。もちろんソエルもその中の一人だった。その英雄がソエルの技術を認め、チームの一員に迎え入れたいとは。今まで生きてきたなかでで最高の名誉だろう。
 しかし、有名であるにも関わらず、「光の槍」と呼ばれているパイロットの素性は、謎の霧に包まれている。マスメディアを毛嫌いしているようで、本人がテレビに出ている姿は、ほとんどと言っていいほど誰も見たことがないからだ。
 唯一分かっているのは男性であることと、名門貴族エリオット家の出身であること。そして、九年前にたった一人で十五機の敵機を撃墜したことだけだった。
「卒業と同時にユグドラシル基地に配属されることになって、今に至るわけです」
「隊長に認められるなんて、凄いな。君の腕が卓越している証拠だよ」
「そんな……まだまだ未熟者ですよ」
 高速道路をタクシーは西に向かって走り続ける。ソエルが配属されるユグドラシル基地は、クルタナの首都ヒンメルから西に離れた所に建設されていて、主要道路の一つである66号線が網目状に走り、基地と各都市を繋げているのだ。
 ユグドラシル基地は中央海と呼ばれる大海に近く、遥か北の方角には隣国アンティオキアとクルタナを隔てる国境が走っていて、中央海にまで侵食しているのである。
「あの……アルジャーノンさんって、もしかして、世界樹を発見したアルジャーノンさんですか?」
 並走しては追い抜いて行く、カラフルな車を眺めていたアレックスが振り向いた。アレックスでいいよと言うと、彼は視線を宙に向けた。
「うん、そうだよ。世界樹を発見した、ヴィンセント・フォン・アルジャーノンの一族だよ」
 アルジャーノン一族といえば、この世界で五本の指に入る大富豪一族の名前だ。その富と権力は留まることを知らず、各国の大統領や王室もアルジャーノン一族には頭が上がらないと囁かれている。彼らの一声で世界が動かせると言っても過言ではないのだ。薔薇色の人生を送ってきたのだろうと思っていたが、アレックスの瞳は暗く翳っていた。
「どうしてユグドラシル基地が、首都から離れた所にあるか知ってるかい?」
 アレックスが話題を変えた。これ以上踏み込まれることを恐れているかのようだった。
「アンティオキアとの国境に近いから……ですよね」
「そう。それもあるけど、この辺りはマナが濃いんだ。燃料の一部になるマナを集めやすいんだよ」
 マナとは、この世界に満ち溢れているエネルギーのことだ。人々はマナの恩恵で文明を築き、マナを利用して発展させてきた。交通の便。家電製品。電力発電所。人類が生きるために欠かせない物の全てを、マナが補っているのだ。もちろん戦闘機も、マナを利用して飛んでいる。
 マナは、世界樹ユグドラシルから生み出されている。世界樹ユグドラシルは、中央海の真ん中に位置するワールドエンドと呼ばれる大陸にあるらしいのだが、何とも不確かな言い方なのは仕方がない。ワールドエンドは晴れることのない厚い霧に覆われており、実際にに世界樹が存在しているのか定かではないのだ。
 近年マナの量は激減している。世界中の科学者たちが危機を回避する方法を研究しているが、解決策は見つかっていない。いずれはマナが枯渇して、原始時代に逆戻りしてしまうと危惧されている。
「世界樹が悲鳴を上げているのに……俺たちは気づいてないんだ」
 窓枠に頬杖を突いたアレックスが呟いた。数分前まで明るく快活だったのに、彼の声と表情は沈みきっていた。まるで、深海を泳ぐ孤独な深海魚みたいだ。
「アレックスさん……?」
「ごめん。何でもない。ほら、街が見えてきたよ。街を抜ければ、基地に着くよ」
 心を蝕み始めた憂いを振り払ったアレックスが微笑んで、窓の向こうを指差した。高速道路から一般道路に乗り換えたタクシーが街に接近した。働く人々で溢れかえるビル。賑やかなショッピングモール。勉学に励む子供たちが通う学校。日常を過ごす人々が暮らす街を駆け抜けて、タクシーは走り続けた。
 鉄橋を渡って更に西へ。鉄橋の真下には、蛇のようにくねる川が中央海に向かって流れている。前方に広大な敷地が見えてきた。パイロットを見守る管制塔が見え、頑丈なゲートが近づく。詰所から警備員が出て来た。
 アレックスが身分証を見せる。身分証を預かった警備員は、パソコンを起動させてデータベースを開き、身分証に刻まれているIDナンバを照合した。にこやかに笑った警備員がゲートのロックを解除した。アレックスが任務を遂行したタクシーの運転手に代金を払う。走り去るタクシーを見送って、二人はユグドラシル基地の敷地に入った。


 ソエルの視界に真っ先に飛び込んできたのは、地平線の彼方まで伸びる真っ直ぐな滑走路だった。戦闘機を空の上に送り出す道を駆け抜けて早く飛んでみたい。ソエルの心は躍る。エリオット大尉が待つオフィスに向かう道すがら、アレックスが基地の施設を説明してくれた。
「左側にあるのが格納庫。左から第一、第二、第三格納庫だよ。第一格納庫はヴァルキリー専用なんだ。右側にある赤茶色の屋根の建物が、搭乗員宿舎。パイロットたちが生活してる。宿舎の隣にあるのが飛行隊隊舎。ブリーフィングはそこでやるんだ」
 南に入り口ゲート。北に広がるのが戦闘機を空に導く滑走路で、その脇に建造されているのが格納庫だ。駐機場には、数機の機体が日光浴をしていた。格納庫から少し離れた所には倉庫があって、燃料タンクとマナのタンク、役に立つかどうか分からない物が押し込まれているらしい。
 格納庫と倉庫を結ぶ道の途中にはジープタイプの連絡車と、戦闘機を滑走路に引き出す際に使用される牽引車が置いてあった。肩越しに振り向けば、赤い屋根を被った建物が見える。飛行士や整備士たちが生活している宿舎だ。人数の多い男性は相部屋だが、女性は数が少ないらしく、部屋は個室らしい。
 搭乗員宿舎の隣にあるのが飛行隊隊舎だ。質実剛健な灰色のビルディングへ。ステップを上り、ガラス製のドアを開けて中に入る。隊舎に入るとそこはロビィで、白い壁と四角い形に切り抜かれたタイルで覆われた床が広がっていた。
 ロビィの片隅にはテーブルと革張りのソファがあり、時間を潰すための雑誌や新聞が詰め込まれたマガジンラックが置いてある。上階から足音が響いてきた。首を動かして上を見上げると、うら若い女性が階段を優雅に下りて来た。まさに銀幕のスター。二人に気づいた彼女が足を止めた。
「あら……アレックス」
「こんにちは、メアリィさん」
(うわぁ……綺麗な人だなぁ……)
 ソエルは思わず感嘆した。漣のように緩く波打つ金色の髪。白い頬は陶磁器のように滑らかで、薄い桃色に染まっている。翡翠色の目は優しく細められていて、その視線の先にはソエルがいるだろう。白いワンピースの上に紺色のジレを羽織った姿は、神話に登場する愛の女神アフロディーテを彷彿とさせた。
「貴女――新人?」透明感のある涼やかな声が、心地よく響いた。
「はっ――はいっ! 本日ユグドラシル基地に配属されました、ソエル・ステュアートです! よろしくお願いします!」
「私はメアリィ・ローレンツ。貴女の先輩になるみたいね。よろしく。隊長はオフィスにいるわ。じゃあ、また後で」
 メアリィが妖精のように微笑んだ。ふわりと波打った髪を揺らし、メアリィは立ち去った。主張しすぎない、控え目な花の香りが漂う。爽やかに甘いロマンティックな香りだった。
「綺麗な人ですね。ローレンツさんも、ヴァルキリーのメンバーですか?」
「うん。凄腕のパイロットなんだ。優しくていい人だよ」
 エレベーターのボタンを押したアレックスが微笑んだ。到着したエレベーターに乗り、三階に上昇する。窓枠を切り取った光が差す廊下を歩いて、オフィスの前へ向かった。
 このドアの奥で、幼い頃から憧れていた英雄が待っているのだ。緊張で胃が締めつけられる。ソエルの緊張をほぐすように、アレックスの大きな手が肩を叩いてくれた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。隊長は厳しいところもあるけど、優しい人だからさ」
「ふ……ふわぃ……」
 アレックスがドアを二回ノックした。励ましてくれた彼も緊張しているのか、表情が強張っていた。
「アルジャーノンです。只今戻りました」
 入れ。短い返答が木霊する。ノブを回し、緊張を抱えたソエルはオフィスに入室した。


 英雄が鎮座するオフィスは、無駄な物を全て排除したシンプルなレイアウトだった。名誉と栄光を誇示するような備品は、何一つ置いていなかった。控え目で謙虚なヒーローということを、アピールしているのかもしれない。艶やかな光沢を放つ焦げ茶色のデスクとチェスト。デスクの正面には、黒い革張りのソファが置かれている。
 デスクの脇に、男性が佇んでいた。二人に背中を向けている男性は、眩い窓の外を眺めている。オフィスに向かうソエルを観察していたのかもしれない。それとも、空を仰いでいたのだろうか。ブラインドを下ろした男性が、ゆっくりとした動作で振り向いた。
「ご苦労だった、アルジャーノン。君が、ソエル・ステュアートか?」
「はっ――はい!」
「いい返事だ。私はノワリー・エリオット。ユグドラシル基地の指揮官で、チームヴァルキリーの隊長を務めている。よろしく頼む」
 光の槍と謳われた英雄は、ソエルが想像していたよりも遥かに若かった。二十代前半の、見るからに生真面目そうな青年だ。アレックスも背が高いがノワリーも長身で、数センチの誤差しかないだろう。
 前髪を伸ばしたショートヘアは深い緑色で、稲妻のような鋭い知性を湛えた切れ長の瞳は琥珀色だ。袖口に金糸のパイピングを施した漆黒の軍服を、完璧に着こなしている。胸元に降る勲章の雨。最先端のファッションだろうか、彼は右手にだけ白い手袋を嵌めていた。
「君とまた会えるのを、楽しみにしていた。私のことを、覚えているか?」
「え?」
 どこかで会っただって? 藪から棒に何を言い出すんだ。眉根を寄せ、不躾だとは分かっていたが、ソエルはノワリーを凝視した。記憶を司る脳の部分が活性化し、過去の情景が鮮明に映し出された。航空学校の廊下を走るソエル。角から歩いて来た男の人にぶつかって、まるで少女漫画のワンシーンのような出来事だった。思い出した。目の前にいる青年は――。
「あっ……貴方は……もしかして……廊下でぶつかった――?」
「覚えていてくれたようだな。安心した」
「貴方が――エリオット大尉だったんですか!?」
「そうだ」
 ソエルは絶句した。顔の筋肉が痙攣しているのが、手に取るように分かる。まさか彼が、ヴァルキリーの隊長であり、歴史に名を残す英雄だったとは。正体を知らなかったとはいえ、廊下で衝突したうえに、散乱したレポートの用紙を拾い集める手伝いをさせてしまったのだ。死刑を宣告された罪人の気持ちが分かったような気がする。
「黙っていてすまなかった。それと……もう一つ隠していたことがある。実技訓練で君を担当した試験官を覚えているか?」
「はっ……はい。背が高くて、若い男性のかたでした。名前は……ファブレ教官です」
「ファブレ教官は私だ。君を担当するはずだった教官に、無理を言って代わってもらった」
「えええええ――!?」
 見えないタクトに導かれたソエルの喉から絶叫が迸った。世界最恐を自負するジェットコースターに乗ったとしても、こんな悲鳴は奏でられない。ファブレ教官も彼だったなんて。道理で面識のない教官だと思ったわけだ。
 そうとも知らずに、コクピットの中で馴れ馴れしい口を利いてしまった。おまけに、本人を前にして「光の槍」に憧れていると愛を告白してしまった。相次ぐ失態に、顔からアフターバーナー並みの火が出そうだ。
「ほっ――本当に、申し訳ありませんでした!」
 許してくれるかどうかは分からないが、明らかにこちらに非があるのだ。金色の髪とポニーテールを揺らし、ソエルは頭を下げた。
「いや、謝る必要はない。真実を伝えなかった私に落ち度がある。頭を上げてくれ」
 大空のような寛大な心で、ノワリーはソエルの犯した過ちを包み込んでくれた。思いやりのある上司でよかった。無罪放免の判決を下したノワリーは、ソエルの隣に立つアレックスに視線を向けた。
「三十分前に空港から連絡があった。アンティオキアの戦闘機が、旅客機を襲ったそうだな。それを、アルジャーノンが撃墜したと。ステュアート、すまないが、先に報告を聞きたい。座ってくれ」
 促されたソエルは、革張りのソファに腰掛けた。ソエルの隣にアレックス、正面に腕と脚を組んだノワリーが座る。憧れていた英雄が目の前にいるのだ。緊張と興奮を抑えるのに苦労した。緊張した面持ちのアレックスが、詳細を話し始めた。
「えっと――彼女を迎えに空港に着いた直後でした。南東の方角から、アンティオキアの戦闘機、F4ファントム2が飛んで来たんです。身分証を見せて、管制塔に行きました。ファントムが飛んで行った方向には、これから着陸する旅客機が飛んでいると聞いたんです」
「お前の乗ったタイフーンは、どうやって調達した?」
「哨戒用の機体が空港にあると聞いて、それを借りました。それでファントムを撃墜しました」
 両手で機体の位置を示しながら、アレックスが詳しく報告した。真剣な表情のノワリー。説明に耳を傾けているのだ。報告が終わった。組んでいた腕と脚を解いたノワリーが息を吐いた。
「後で報告書を書いて提出してくれ。ステュアート。長旅で疲れただろう。詳しい話は後日話す。今日はゆっくり休むといい。ああ、そうだ。あれを渡さないといけないな」
 立ち上がったノワリーがソファを迂回して、ソエルの脇にやって来た。慌ててソエルも立ち上がり、コンパスのように背筋を伸ばした。漆黒のスーツの胸ポケットから、光り輝くエンブレムが取り出された。手と手が触れ合い、ソエルの掌の上にエンブレムが置かれた。
 世界樹を模した繊細な模様と、戦乙女の凛々しく美しい横顔が刻まれたエンブレムだ。ユグドラシル基地とチームヴァルキリーの名前、自分のフルネームが黄金色の表面に彫られている。エンブレムを観賞したソエルの顔に、満面の笑顔が広がっていく。憧れだったチームの一員になれた証をソエルは握り締めた。
「チームヴァルキリーへ、よく来てくれた。我々は、君を歓迎する」
「あっ――ありがとうございます!」
 喜びと興奮の成分でできた笑顔を浮かべたまま、ソエルは正面に立つノワリーを見上げた。ソエルの笑顔に釣られたのか、彼は微かに笑ってくれた。端正な顔立ちが微笑んだ瞬間、ソエルの鼓動が高鳴った。
「アルジャーノン。もうすぐブルーが偵察飛行から戻るはずだ。出迎えてやってくれ。それと、彼女を宿舎に案内するように」
「了解しました」
 敬礼をしたソエルとアレックスは、オフィスから退出した。エンブレムを受け取った時の喜びが忘れられず、ソエルは夢見心地で廊下を歩いていた。夢から覚めないと危ないぞ。現実に戻ったソエルは、ノワリーが言っていた「ブルー」という名前が気になった。アレックスなら知っているかもしれない。
「あの、ブルーさんって……どなたですか?」
 前を歩くアレックスが速度を落とし、ソエルの隣に並んだ。
「ヴァルキリーのエースパイロット。基地でアイツに敵う者はいないんだ。確か……ソエルと同い年だったはずだよ」
 ソエルと同じ十六歳ということは、航空学校を出て間もないはずだ。同い年で精鋭中の精鋭チームのエースパイロットの座に就いているとは、相当な腕の持ち主なんだろう。ブルーという人物に会ってみたい。興味が湧いてきた。
「私も、ブルーさんに会ってみたいんですけど……駄目ですか?」
「アイツに? 俺は構わないけど……アイツはその……気難しくて人嫌いなんだ。大変だよ?」
「大丈夫です。私、人見知りはしないタイプなんです」
「分かった。じゃあ、まだ時間もあるし、格納庫に行こうか。俺たちの戦闘機を見せてあげるよ」


 飛行隊隊舎を出た二人は滑走路を横断して、隊舎の向こう側にある第一格納庫に進路を定めた。旅の途中で、数人のパイロットがアレックスに声をかけてきた。そのたびに、彼は快活な笑顔を浮かべ、嫌がることもなく親しげに返事を返していた。
 どうやらアレックスは、基地の人たちに慕われているようだ。その理由はすぐに分かった。快活で気さくな彼は、誰にでも優しく接してくれる。つまり、面倒な壁を作らないのだ。ソエルも、いつの間にかアレックスのことを好きになっていた。きっと、いい友人になれるだろう。
 ソエルたちの目の前を横切るように、滑走路をランディングした戦闘機が、大空へと飛翔して行った。機体が飛び立って行った方角は、クルタナとアンティオキアを隔てている国境だ。パイロットの目的は、遊覧飛行ではなく偵察飛行だろう。やがて機影は遠ざかり、黒い点となって空の彼方に消えた。
 第一格納庫に到着した二人は、半開きのシャッターをくぐって中に入った。忙しく動き回る靴音や、機械のモーターの音が木霊していて、四つの天窓から差し込む光源が整列した戦闘機を照らしている。
 整備士たちの仕事を見物しながら奥へ進んで行くと、機体の陰から女の子が顔を覗かせた。十歳前後だろう。茶褐色の髪と同じ色の瞳。青いネズミの縫いぐるみを胸に抱いている。二人に気づいた女の子が、機体の陰から出て来た。
「アレックス! おかえり!」
「ただいま! いい子にしてたかい?」
 屈みこんだアレックスが、両手を大きく広げた。少女はバレリーナのような見事な跳躍で、広げられた腕の中に飛び込んだ。アレックスは軽々と自分の目線の高さまで少女を抱き上げる。茶褐色の大きな瞳がソエルの存在に気づき、横に動いた。アレックスが彼女を地面に下ろすと、興味を隠しきれない目がソエルを見上げてきた。
「お姉ちゃんは……誰?」
「私はソエル。ソエル・ステュアート。今日、ここに配属されたの」
「新人さん? あたしはイリア。よろしくね」
「よろしくね。イリアちゃん」
「うん!」
「イリア。リゲルはいるのか?」
「いるよ! こっち!」
 イリアに案内されたソエルとアレックスは、整列している機体の側面に回りこんだ。呟き声が聞こえてきた。三人に背中を向けた整備士が床の上に胡坐を掻き、地面に広げた設計図と睨み合いをしていた。
 整備士の背後に近づいたイリアが背中をつつくと、顔を上げた彼がイリアと言葉を交わし、肩越しに振り向いた。立ち上がった整備士は、両目を覆っているゴーグルを外した。
「アレクじゃねぇか! いつ戻ったんだよ」宇宙の色を吸い取った青い目がソエルを映す。「その子は? 見ない顔だな」
「ソエル・ステュアートです。本日付けで、ユグドラシル基地に配属されました」
「隊長が言ってた新人さんか。俺は、リゲル・フォーマルハウト。ヴァルキリーの専属メカニックチームに所属してるンだ。よろしくな」
 頬に黒い煤のメイクを施したリゲルが笑った。年齢はソエルとアレックスと同じティーンエイジャーだろう。青みがかった銀髪は、重力に逆らうように飛び跳ねていて、灰色のツナギは真っ黒だ。悪戯好きの男の子がそのまま成長したような感じだ。昔は相当悪行を繰り返していたに違いない。
「なかなか可愛いじゃん。今度、デートしようぜ――いってぇっ!」
 突然リゲルが叫び声を上げた。頬を膨らませたイリアの小さな足が、リゲルの脛を思い切り蹴飛ばしたのだ。痛みに顔を引き攣らせたメカニックは、冗談だよと小さなプリンセスの御機嫌を取っている。忍び笑いが聞こえた。周囲で作業している整備士たちが、笑いを堪え切れずに吹き出していた。
「ソエルに戦闘機を見せてあげたいんだけど……」
「今からか? そうだなぁ……」
 困った顔のリゲルが頭を掻いた。彼は離れた所で作業している中年の整備士に視線を送った。眉を顰めた整備士が首を振る。彼がメカニックチームを統率するチーフのようだ。
「悪い。今日中に全部の機体を整備しないといけないんだ。今日は無理っぽいわ」
「無理を言ってすみません……」
「いいって。気にすンなよ」
「リゲル。アッシュはいつ飛び立ったんだ?」
 青い瞳が壁に掛けられてある時計に動いた。軍手を嵌めた手が、時間を数える仕草を描く。
「確か……二時間前だったから、もう戻って来るはずだぜ」
 リゲルが答えると同時に、格納庫の天井を突き抜けて、重いエンジン音が響いてきた。青い高みから近づいているのだ。耳を澄まし、音を聞いていたアレックスが、確信したように頷いた。エンジンの音を聞いただけで正体が分かるようだ。
「この音は――アイツだ。迎えに行こうか」
「はい」
「じゃ、俺は整備があるんで」
 ソエルの肩を叩いたリゲルは再び地面に胡坐を掻き、図面とのドッグファイトを再開した。イリアもコンテナの上に座り、リゲルと図面の戦いを見守っている。二人と別れて滑走路へ。次第に近づいてくる音を聞きながら、ソエルは空を見上げた。
 仰いだ空に黒い機影が浮かぶ。距離を縮める機体。そして、一機の戦闘機が滑走路の端に着陸した。ランディングする機体は、二人の前で停止した。着陸までの動作は実に滑らかで、ブルーというパイロットがエースパイロットであるという事実を改めて認識させられた。全長15メートル弱の戦闘機は、暮れゆく空のように深いミッドナイトブルーだ。
 アクリルのキャノピィが開く。コクピットからパイロットが姿を見せた。小柄で華奢なパイロットだ。子供だろうか。今にも重力に押し潰されてしまいそうだ。主翼を足場にして地面に飛び降りると、パイロットはベルトを外し、グレイのヘルメットを脱いだ。
 機体と同じ濃紺の髪が、彗星の尾のような軌跡で風に揺れた。