まったく、地上にある物は何でこう重いんだ。もっと体重を削らないと、空に嫌われるぞ。羽がないと飛べないなんて、地上は窮屈だ。でも、窮屈だ窮屈だと思っている箱庭の地上も、それほど悪くはないと思う時もある。見上げれば空が広がっているし、羽がなくても戦闘機があればいつだって飛べるからだ。格納庫の床に座って、スーパーホーネットを見上げながら、僕は愚痴を零した。
「なんだか不機嫌そうだね」
僕の隣に座る彼が言った。視線はピッツアみたいに薄っぺらい写真の上。さっきから目を落としたままだ。
「当たり前だろ」不機嫌な声で、僕は返事を返す。「地上に居るんだから」
「すぐに飛べるよ。僕達は、戦闘機乗りなんだから。コレを見るといい。少しは元気になると思うよ」
彼が写真を手放して、僕に手渡した。嬉しそうな微笑みを浮かべて眺めていたから、てっきりアダルトな類いの写真かと思っていた。でも、僕の予想は見事に外れた。薄い紙に印刷されていたのは、ブカブカのヘルメットを被った女の子だった。彼と同じ金色の髪。目の色も同じだ。
「この子……誰だ? もしかして、お前の隠し子とか?」
「馬鹿、違うよ。僕の妹だよ。パイロットを目指していて、今は航空学校で勉強しているんだ」
「へぇ……」
こんな細い腕で操縦桿を操れるのか。
こんな華奢な身体で、戦闘機を駆る事が出来るのか。
綺麗な空色の目で、墜ちてゆく戦闘機と人間を直視出来るのか。
僕は、無意識に、一度も会った事がない少女を心配していた。
写真の女の子を凝視していると、彼が僕の肩を叩いた。僕が彼女に見惚れていると誤解しているようだ。
「可愛いだろ? 今度のミッション――中央海上空戦が終わったら、一緒に会いに行こう。きっと、妹も喜ぶよ」
「そうだな。楽しみにしてるよ」
彼が笑った。妹の喜ぶ顔を想像したんだろう。彼につられた僕も、ピエロみたいな微笑みを浮かべた。彼は立ち上がると、スーパーホーネットの主翼に飛び乗ってコクピットに乗り込み、台所を漁るネズミみたいに動き始めた。気になった僕は彼を追いかける。彼は、コンソールの片隅に、自慢の妹が映った写真を貼り付けている。
「おい、馬鹿、何してるんだ」
「なにって――写真を貼っているんだよ。どうやら、妹に一目惚れしたみたいだからね」
「はぁ? 勘違いしてるぞ。一目惚れじゃない。心配しただけだ」
「同じ事だよ」
僕の必死の反論も空しく、彼は写真を貼り付ける作業を終了して、嬉しそうな笑顔を僕に向ける。そんな顔で見るなよ。僕は、コクピットに乗り込む度に、出撃して飛行する度に、彼女に見つめられるんだぞ。でも、悪い気はしなかった。何故だろう。写真の女の子が僕を守ってくれる女神に見えたからだろうか。彼が地上にダイブ。僕は瞬きをする。目にゴミが侵入したような、チクチクした刺激を覚えたからだ。
瞼のシャッタが上がった。
僕は驚いた。
いつの間にか、僕は、白いシーツにくるまれて、白い天井を見上げていた。僕が目覚めると同時に、膨大な記憶がシナプスを駆け抜けて、現実を認識させる。ああ、そうだ。僕は健康診断に引っ掛かって、基地から遠く離れた病院に輸送されたのだ。
ドロドロに濁った、変な味の薬を飲まされて、殺風景な部屋に閉じ込められている僕が居る場所は病院ではない。病院という名の研究施設だ。連れて来られた瞬間、僕は確信していた。エリア51みたいに政府が管理する極秘施設で、これから僕は、ヒトに似た、ヒトではない生き物に改造されてしまうのだ。
オイルみたいな色の薬を飲まされる度に、僕の記憶は次第に曖昧になって行った。あんなに鮮明だった記憶達が、どんどん薄くなって行くのだ。アルバムに貼り付けられた、思い出の家族写真みたいに。逃げよう。ここから離脱しよう。空から切り離される前に。
ドアの鍵は厳重にロックしているくせに、彼等は窓には無関心だったみたいで、僕が手を動かすと、窓の鍵は初めて出来た恋人みたいに素直に開いてくれた。チラチラと雪が降っていて、茶色と白でまだら模様になった地面が広がっていた。真夏だった季節は真冬になっていた。季節が変わってしまう程、僕は長い間閉じ込められていた訳だ。
室外機。雨樋。パイプを足場にして地面に着地。幸い、施設の人間には見つかる事なく、僕はゲートを乗り越えて外に出る事に成功した。黒い道路。左右には枯れ木の群れ。見上げる空は曇天だ。道路を下ってしばらく歩くと、街が見えて来た。すれ違う人間は僕に視線を惜しみなく注いで来る。きっと、フライトジャケットが珍しいんだろう。
歩道の片隅に電話ボックスを見つけた。ドアを開けて中へ。ガラスに囲まれた箱。僕は水槽で泳ぐ魚みたいだ。コインを持っていない事を思い出した。一縷の望みをポケットに。ポケットを探っていた僕の指が、数枚のコインを見つけた。一、二、三、枚数を数える。数分間会話を楽しめると思う。
ライトグリーンの電話に触れて。
基地のナンバを、僕は思い出す。
僕?
僕――だって?
僕は、いつから自分の事を、「僕」と呼ぶようになった?
曖昧な記憶の中には、自分の事を「俺」と呼ぶ僕が泳いでいて、ソイツがにっこりと笑いかけて来る。
ああ――。何が何だか解らなくて、僕は電話にもたれかかった。
コツコツとガラスが叩かれて、僕の後ろのドアが開く。せっかちな奴が入って来たのだ。
そのせっかちな奴は、いきなり背後から僕を抱き締めた。首筋に顔を埋められた僕は、肩越しに振り向いた。視界の隅に映り込む金色の髪。最高級のシルクみたいに柔らかそうだ。曖昧だった記憶が、ほんの一瞬だけクリアになった。僕は――「彼」を知っている。
「――ノエル」
僕は「彼」の名前を呟いた。僕の首筋から離脱したノエルは微笑んで、僕の胸を抱き締めていた両手を移動させた。フライトジャケットのポケットの重力が増えた。ポケットに重い物が侵入したのだ。僕が戦闘機だったら、瞬く間に墜落していただろう。
「これで、君は自由になれる」
僕の首筋にキスをしたノエル。
電話ボックスの脇を走る車のクラクション。
気がつくと、ノエルは跡片もなく消えていて、僕はコインを握り締めていた。
白昼夢? 随分と、リアルな夢。でも、ポケットは重い。
中を確認。冷たい。闇の色を吸い取った拳銃が出て来た。
これも、幻か?
質感も、重量も、ボディの輝きもリアルだ
戦闘機を墜とすように、誰かを墜とせというのか?
でも、今は、誰も墜とす気になれない。
僕が居るのは空の上じゃなくて、窮屈な地上だから。
早く彼女に電話をしよう。
僕の記憶が、散って行く前に。
ユグドラシル基地に帰還してから数週間も経たない内に、ノワリーは病院に逆戻りする事になった。どうやら、ノワリーは、定期的に実地される健康診断をパス出来なかったようで、病院で詳しく診察してもらった方がいいと、エリオット大佐が判断した為だ。すぐに戻って来る。優しく笑ったノワリーは、そう言い残して旅に出た。
一日で帰って来るとは思っていなかったけど、その可能性には微かに期待していた。三日、一週間、一か月、夏が過ぎ去って冬が顔を出しても、ノワリーはユグドラシル基地に戻って来なかった。怖くなって逃げたんだ。女を作って逃げたんだ。最初はノワリーの行方を詮索していたパイロットや整備士達も、ゴシップに飽きた視聴者みたいに、次第に彼の話題を口にしなくなった。ノワリーの存在を基地から消し去ろうとしていて、エースパイロットの座を狙っているに違いない。
ノワリーというバディが居ないフライトは、芸能ニュースよりも退屈だった。それに、とても寂しくて、心細かった。まさか、ノワリーにこんな感情を抱くなんて。あの時のキスが原因かな。思い出す度に頬が熱くなる。談話室の片隅にある電話が鳴り響く。談話室に居るのはソエル一人。沼の底に沈んでいるみたいな気分で、電話を取る気にはなれなかった。電話は鳴り止まない。仕方がない。怠けていると思われない速度で、ソエルは電話の所に行き、受話器を耳に当てた。
「もしもし?」
『――ソエル? ソエルなのか?』
少しだけくぐもった、真冬の風のような凜とした声。ずっと聞きたかった声だ。
「もしかして――ノワリーさん? ソエルです!」
『懐かしいな』息が漏れる音。笑顔を浮かべたのかもしれない。『元気か? 墜ちてはいないだろうな』
「数ヶ月も、病院に居たんですか? 心配してたんですよ? 電話の一つもしてくれないから――」
『ごめん。俺が居るのは、病院じゃないんだ』
「え?」
『俺が連れて行かれたのは、病院じゃなくて――何処かの研究施設だった。そこで、変な薬を飲まされて、部屋に閉じ込められたというか、監禁に近い状態だった。ここに居たら、俺が俺じゃなくなるような気がして、逃げ出したんだ。街に辿り着いて、君に、電話を掛けて――』
ガタガタと何かが倒れる音がした。荒い息遣いも聞こえる。しばらくの間、二人を繋ぐ糸が切れた。
「ノワリーさん?」
『……何でもない。少し、目眩と頭痛が酷いだけだ』
彼の声は、機体がグライドするみたいに力を失いかけていた。会話を続けている事で、意識を保とうとしているみたいだ。ノワリーの意識は暗雲の下に墜落してしまうんじゃないか。そうなる前に、彼の意識が濁ってしまう前に、会いに行かないといけない。もう、待っているのは嫌だから。
「今、何処に居るんですか?」
『多分――』チャリンという音。電話の食欲を満たす為に、コインを入れたのだ。『ユグドラシル基地から、東に60キロ離れた所にある街だと思う。ちょっと待って。看板がある。街の名前だ』
電話の脇に添えられていたメモ用紙を千切って、ノワリーが言った街の名前を走り書きした。
「これからすぐに行きますから! 待っていて下さい!」
『解った』
電話を切る直前、また何かが倒れる音がした。彼の無事を確認したいと思ったけど、電話を切ってしまったからもう駄目だ。ソエルは部屋に戻って、財布と携帯を鞄に詰め込んだ。それと地図。小型ラジオ。サバイバルキットよりも頼りないけど、それなりに活躍してくれる筈だ。
部屋を飛び出して、宿舎に別れを告げて、ゲートの前まで来たソエルは、街まで向かう手段を考えていない事に気付いた。戦闘機で飛んで行くか? あまりにも目立ち過ぎる。なら、バイクは? 操作が解らない。バス。遅すぎる。超能力者だったら、一瞬で跳んで行けるのに。
「よぉ、嬢ちゃん。どうしたんだ?」
森林を駆ける狼のような、野性的な雰囲気のパイロット、ジェラルド・イージスがゲートの脇に立っていた。口で煙草を弄んでいる。彼はノワリーと親しい。ノワリーが置かれている状況を伝えれば、何らかの形で助けてくれる筈だ。
「実は――」
ちょっと待て。脳から発せられた電気信号がソエルの口を閉めて、オフィスビルの方角に目線を移動させた。黒いスーツを着た数人の男達が、こっちを見ている。彼等は、自分達が認識された事に気付いていないようだ。パイロットの視力を侮っているな。きっと、男達はノワリーを監視している奴等で、彼が施設から脱走した事を知って、ユグドラシル基地に来たのだ。ソエルも監視対象の一人となっているならば、迂闊に行動出来ない。
「あぁ! そうだったな! レストランで飯を奢る約束だったな!」
突然、イージスがライオンみたいな大声を出した。まるで、ソエルの様子を窺っている男達に聞かせようとしているみたいに。何を言っているんだ。そう問いかけようとしたソエルを遮るように、鋭い視線が彼女を牽制した。俺と話を合わせろ。イージスのテレパシィ。従った方がいい。ノワリーの為にも。
「そっ――そうですよ! お腹がペコペコなんですから、早く行きましょう!」
ゲートの前には、大型バイクがスタンバイしていた。スクランブルに備えていたのだろう。ブラックとシルバーのボディ。ハーレーに少しだけ似ている。バイクは複座型。操縦士はイージスで、ソエルが副操縦士だ。目覚めるエンジン。四つに重なったマフラから吐き出される灰色の煙が空気に溶けて行く。道路をランディング。ゲートを抜けて、バイクは66号線を東に向かった。
「奴等を巻いた事だし、そろそろ事情を聞かせてくれないか?」
スピードを僅かに落として、耳元で唸る風を追い払ったイージスが口を開いた。
「気付いていたんですか?」
「当たり前だ。パイロットだからな」
「ノワリーさんを監視している奴等だと思います。詳しくは言えませんが、ある人から聞いたんです」
「監視だって? えらい物騒だな。坊やは普通のパイロットだぞ? 今は病院に居るんじゃないのか?」
「違うんです。ノワリーさんは、病院に連れて行かれたんじゃなくて、研究施設に連れて行かれたんです。さっき、彼から電話がありました。様子が変で――施設を逃げ出したって言ってました」
「――マジかよ。で、坊やは何処に居るんだ?」
「基地から東に60キロ離れた街です。お願いします。急いで下さい」
「おうよ!」
通信終了。イージスがスロットルを全開にする。爆発するような音を響かせて、バイクは街に到着した。迷路のような道路を駆け抜けて、狭苦しい路地裏へ。レンガが積み重なって出来たアパート。ネオンで彩られた看板や、ロープに吊り下げられた洗濯物が整列している。
アパートの非常階段の下に蹲る青年を見つけた。寒さから逃げるように、ギュッと身体を丸めている。薄汚れた服を纏った浮浪者達が彼の周りに群がって、ベトベトした視線で眺めていた。青年の身体を触っている奴も居る。金目の物を探しているのだろうか。大股で近付いたイージスが彼等を威嚇して追い払う。蜘蛛の子を散らすように、浮浪者達は路地の暗がりに逃げて行った。安全を確保。青年に駆け寄ったソエルは、彼の肩を揺さぶった。
「ノワリーさん! ノワリーさん!」
声と振動に反応した青年が、膝の中に埋めていた顔を上げた。脱色したみたいに白い顔。現実と空想の間を彷徨っているような、ボンヤリとした虚ろな表情だ。
「ソエル……? イージスさん……? よかった、俺を信じて来てくれたんだな……。来てくれないだろうと思っていた。俺は――皆から嫌われているから」
目を伏せたノワリーが囁く。自嘲めいた笑みを浮かべて。嫌いだなんて思う訳ないじゃないか。答える代わりに、ソエルはノワリーに抱き付いた。ノワリーもソエルを抱き締めた。なんて冷たいんだ。冷凍庫に詰められたアイスクリームみたいに、身体の芯まで冷えきっている。早く温かい毛布で包まないと、アイスクリームよりも酷い状態になってしまう。
「ユグドラシル基地に帰ろう。大佐に事情を話すんだ。きっと助けてくれる」
「――駄目です」イージスの手を借りて立ち上がったノワリーが、彼の提案を却下した。「基地には、帰れません。また、あの施設に連れ戻されます。研究施設でクルタナ空軍の幹部を見たんです。その中に、父も居ました。だから――俺は戻れません」
「なら、どうするんだよ。このまま、ここで凍死する気か?」
「それは嫌だな。死ぬのなら、空の上で死にたいですよ」
「馬鹿言うんじゃねぇよ! クソッ! 誰か助けてくれる奴はいないのかよ!」
「あの人なら――」ソエルの脳裏に浮かぶヴィジョン。病院で出会った、エレノアという名前の女性が映っていた。「エレノアさんなら、ノワリーさんを助けてくれるかもしれません」
「それしか方法がない、か。ソエルとイージスさんは基地に戻って、この事をアルジャーノンに伝えてくれ。彼が、エレノアさんに上手く繋ぎを取ってくれる事を祈ろう」
「ちょい待てよ。坊やはどうするんだ?」
「俺は――基地には二度と戻りません。エレノアさんと接触出来るまで、逃げ続けるつもりです」
ソエルは見てしまった。琥珀色の奥に宿った、鋼の如く強靭な意志を。ノワリーはソエルを置いて行こうとしている。ソエルを安全な世界に残して、自分だけ危険な旅路を歩こうとしているのだ。嫌だ。そんなのは嫌だ。旅立つノワリーの背中なんて見送りたくない。安全な世界から離脱しようと動いたノワリーの背中にソエルはしがみ付いた。引き締まった腹部の上で両手を交差させて、ソエルと同じ世界に彼を繋ぎ留める。
「ソエル。手を、放してくれ」
「嫌! 嫌です! 絶対に放しません!」
「子供みたいな事を言うんじゃない。早く行かないと、二人を危険な目に遭わせてしまう」
「私も一緒に行きます! 一緒に連れて行って下さい!」
「それは出来ない」
「どうしてですか?」
「君を――巻き込みたくないんだ」
もう巻き込まれている。
スパイラルダイブのような、運命の螺旋の中に。
操縦桿を倒しても、
スロットルを調整しても、
誰にも制御出来ないだろう。
神様しか操れないのだから。
「――連れて行ってやれよ、坊や」静観していたイージスが口を開いた。「無理矢理基地に連れて帰ったとしても、ソエルは坊やを追いかけると思うぜ。嬢ちゃんを愛しているんだろう? 本当は、離れたくないんだろう? 一生に一度ぐらい、自分に素直になったらどうだ?」
ノワリーを縛っていたソエルの両手が外された。
お願いだから、行かないで。ソエルは必死に祈った。
ノワリーの足は、地面に張り付いたままだ。
ロール。
ターン。
減速したノワリーが振り向いた。
「……構わないのか? 俺と一緒に来れば、平和な世界に戻れないかもしれないんだぞ?」
「ノワリーさんと一緒なら……どんな世界でも怖くありません」
「――馬鹿だな」
「はい。私は……馬鹿ですから」
痛いくらい、静謐な表情。
翼のように広げられた両手がソエルを包み込んだ。
抱き締められる。
キャノピィのように。
バイクを引き摺ったイージスに護衛されて、ソエルとノワリーは66号線に続く道路に出た。バイクのキーをノワリーに手渡すイージス。キーを受け取った友人をイージスはハグした。ノワリーはハグを受け入れた。もう、二度と、彼に会えないと解っていたから。
「バイクは二人にプレゼントだ。なぁに、心配するなって。バイクを盗まれたって言って、基地の誰かに迎えに来てもらうさ。アルジャーノンの坊やには必ず伝える。約束するよ。――気を付けてな」
お元気で。イージスと握手をして、強い絆を確認しあった二人はバイクに跨った。バイクが走り出す。66号線の道路に乗るタイヤ。バックミラーに映るイージスの姿が豆粒みたいに小さくなって、やがて見えなくなった。人生は数奇な運命に満ちている。だから、また会える。
行くあては無いし、正しい道筋は見えない。二人は地図を持たない旅人。滑走路のように一直線で、時に蛇のように蛇行するアスファルトの上を走って行くだけだ。
一体、何で、どうして、こんな事になってしまったんだろう――。
上昇するバイクの速度が作りだした風に金色の髪を乱されながら、ソエルは思った。私達は、何も悪い事をしていないじゃない。国家転覆を計るテロリストでもないし、軍の機密事項を横流しするスパイでもない。ただのパイロットで、ごく普通の恋人同士なだけなのに。
「――道路が途切れていればいいのにな」バイクを操るノワリーが呟いた。手はハンドルを握ったまま。「そうすれば、地上でも飛ぶ事が出来るし、例え、最後に地面に叩きつけられる末路だとしても、一瞬だけ空を飛ぶ事が出来るじゃないか。でも、直線の道が真っ直ぐ走っているだけで、何処も途切れていない。道路も世界も神様も意地悪だ。俺達は――俺は、窮屈な地上で生きて行くしかないんだな」
もしも、二人が生きている現実が、お伽話の世界だったら、大団円というフィナーレが二人を待っていただろう。
でも、これはフェアリィ・テイルじゃない。
お伽話よりも残酷な、現実だ。
彼は確信していたのかもしれない。
二度と、戦闘機には乗れない事を。
二度と、空には戻れない事を。
それから、ソエル達の生活は様変わりした。一つの街に留まらない、まるで渡り鳥のような毎日。まだ渡り鳥達の方が楽だろう。彼等には暖かい楽園が待っていて、ソエル達を待っている楽園なんてないのだから。短期間の労働で得た資金で命を繋ぎながら、ソエルとノワリーはひたすら逃げ続けた。
何から逃げていたかって?
それは、解らない。
もしかしたら、血走った目をした未来から、逃げていたのかもしれない。
二人が見つけた楽園は、寂れたモーテルで、愛想も何もない、素っ気ないレイアウトだった。右の壁に押し付けられた双子のベッド。双子の真ん中にサイドテーブルが置いてあって、テーブルの上で電気スタンドが項垂れている。左側には壁と一体化したクローゼットと二つ目のドア。磨りガラスが嵌め込まれているから、多分、身を清める為の浴室だろう。この隠れ家は、いつまで二人を匿ってくれるかな。
「寒いな」
薄っぺらい毛布にくるまったノワリーが呟いた。隙間から冬の冷気が染み込んでいて、部屋の温度は低い。エアコンもストーブもないなんて、どうかしてる。節電対策なのか、それとも、モーテルのオーナーがケチなのか。どっちでもいいか。
「私の毛布、使って下さい」
「いや、必要ない」
「でも、風邪をひきますよ」
「ひかないよ」
「ひきます」
強情なんだから。逃亡犯みたいに追われていて、気軽に病院に行けない立場なんだぞ。ソエルはベッドによじ登り、ノワリーが羽織っている毛布の端を持ち上げて、彼の隣に寄り添った。身体同士が密着して、淡い体温が伝わった。ノワリーが着ていたフライトジャケットは脱ぎ捨てられていて、部屋の隅に放り投げられていた。ジャケットの恩恵を受けていないから寒いんだよ。ユグドラシル基地の事を忘れたくて取った行動かもしれない。
「――もう、飛べないかもしれない」
ソエルの頭を肩に乗せたノワリーが呟いた。彼は右手を高く伸ばして、握ったり開いたりしていた。まるで、機銃のトリガを外すように。
「飛べないって――どういう事ですか?」
「そのままの意味だ。俺は、もう、飛べないと思う」
「飛べます。絶対に」
「絶対なんてないんだよ。俺の記憶は、どんどん曖昧になって、消え始めているんだ。このままだと、全部忘れてしまう。キャノピィの開き方も、操縦桿の握り方も、機銃の撃ち方も、君の事も。やっぱり、俺は間違っていた。君を連れて来るべきじゃなかった。今なら、まだ間に合う。ソエルはユグドラシル基地に戻るんだ。俺の居場所を言えば、大佐は許してくれる」
「馬鹿な事を言わないで下さい。貴方が居ないと――私、独りぼっちになっちゃうじゃないですか。独りで空を飛べって言うんですか?」
「空の上では、誰もが独りになる」
「ノワリーさんも?」
「ああ」
「私が居たのに?」
「居たのは解っている。でも、俺は独りだ。独りが好きなんだ」
「私は必要ないって言うの?」
「そうだ。今も、これからも」
目を伏せたノワリーが視線を逸らした。蛇の舌を持つ嘘つきパイロットめ。その嘘を暴いてやる。
「嘘よ! じゃあ、これは何なんですか?」
ポケットから引っ張り出した薄い紙を、ソエルはノワリーに突きつけた。ブリューナクのコクピットで発見した薄い紙。その正体は、一枚の写真だった。パイロットのヘルメットを被った女の子が映る一枚の写真。ノエルが生きていた頃に、彼に撮影してもらった、幼いソエルが映る写真だった。
「この写真は――何処で見つけたんだ?」
「ブリューナクのコクピットです。独りが好きだなんて嘘ですよね? 私が必要ないなんて、嘘ですよね?」
「嘘じゃない。俺は、事実を言ったまでだ」
「嘘よ! じゃあ、何で私の写真がコクピットにあったの? 独りが嫌だから――誰かと一緒に居たいから、写真を持っていたんでしょう?」
「くだらない! こんな物、ただの紙切れじゃないか!」
ノワリーの手が写真を奪い去って、躊躇いもなくグシャグシャに握り潰した。彼の両手に圧迫されて丸い塊に変身した写真は、部屋の片隅に放り投げられた。ノエルとの思い出が詰まっている宝物は、無惨な姿に変わり果ててしまったのだ。ソエルの中で張り詰めていた、脆くて繊細な糸が切れた。
彼は、完全にソエルを拒絶している。
ソエルの存在なんて、必要ないと言っている。
ならば、望み通りに居なくなってやろうじゃないか。
複座型のベッドから離脱。
荷物を掴んでドアの前へ。
一回だけ、肩越しに振り向いた。
オレンジ色の空に浮かぶノワリー。
目を閉じたまま、動かない。
「貴方は、臆病者よ」
別れの言葉を放り投げて、ソエルは部屋を出る。
そうかもしれない。
ノワリーの言葉が、追いかけて来たような錯覚を感じながら。
一階のロビィに下りると、受付の男が嫌らしい笑みを浮かべながらソエルに視線を送って来た。楽しんだかい? ハンサムな彼は気持ち良くしてくれたかい? ドロドロに濁った、ヘドロみたいなテレパシィを無視してモーテルの外に出た。
何処へ行こう。モーテルの周囲は真っ暗で、ペンキで塗り潰されたみたいだった。ハイウェイを走る車は疎らだ。ハイウェイの脇に立って、車が通るのを待っていると、一台のトラックが停止してくれた。何処へ行くんだい。無愛想なドライバーが尋ねた。何処でもいい。適当な街で降ろしてくれれば。そう答えると、彼は口元を緩ませて、助手席のドアを開けてくれた。
トラックの座席は高くて、コクピットに座っているみたいだった。戦闘機と違うのは、定められた道を走る事。敵機と遭遇する事もない。遠くの方で雷鳴が響いたかと思うと、すぐに雨が降り出した。ワイパが動き始める。フロントガラスから追い払われた雨粒が、道路に墜落して行った。
「一人旅かい?」無愛想だと思っていたドライバーが話しかけて来て、少しだけ驚いた。
「ええ、まあ、そんな所です」
「まだ子供だってのに、一人旅か。まさか、家出じゃないよな? だとしたらマズいよな。俺が誘拐したって思われちまう」
いかつい顔をほころばせたドライバーは運転に専念する事にしたようで、会話はスムーズに終了した。
家出――か。
あながち、彼の言った事は間違っていない。
一人の男性と逃げているのだから、それは家出と同じようなモノだ。
シートにもたれかかって、ソエルはフロントガラスを見つめた。
雨粒を弾くワイパ。
まるで、ロールの繰り返しのよう。
永い夢を見ていたような気がする。
孤独なエースパイロットと出会って、
絆を深めて、
兄の死に様を教えてもらい、
一緒に基地を飛び出した、そんな夢。
ノワリーを置いて、モーテルを飛び出した。
彼を好きになった筈なのに。
嘘をついていたのだろうか。
嘘はあまりつきたくない。嘘を一つつく度に、身体と心が重くなってしまう。
軽くならないと空は飛べない。
空に溜まった嘘は雨が流してくれる。
雨が空に溜まった穢れを地上に落とす。
だから、空はいつまでも綺麗で、
地上は、いつまでも濁っている。
目尻が熱い。沸騰した液体が、ソエルの頬を焼き尽くす。
涙。涙。涙。
連鎖する涙が落ちて行く。
空に舞い上がれば、誰もが孤独になる。
百万人の友達が居る奴でも、空の上では孤独になるのだ。
パイロットになると決意した時から、解っていた事じゃないか。
解っていたけど、やっぱり、彼の温もりが、恋しくて恋しくて仕方がない。
好きだ。
ノワリーが好きだ。
好きだ。大好きだ。愛している。
空を飛べなくてもいい。
窮屈な箱庭で生きて行こう。
二人で生きて行きたい。
ドライバーに頼んで、トラックから離脱。我儘を言ってごめんなさい。モーテルへ戻って、部屋へ向かう。ニヤニヤ笑うカウンタの男は無視。廊下の窓を雨粒が斜めにコーティングしていた。重力に撃墜されないように、必死でガラスにしがみ付いているのだろう。
部屋の鍵は開いたままだった。隙間から洩れる暗闇。光源はサイドテーブルの上でしおれている電気スタンドだけだった。ノワリーは起き上がっていて、ベッドに座っていた。壁に背中を託して、窓の外を眺めている。彼の側へ。ノワリーの顔は角度を変えない。窓の外を向いたままで、皺くちゃの写真を手にしていた。懸命にアイロンをかけたのだろうか。
「――忘れ物か?」
「……はい。色んなモノを忘れる所でした」
「そうか」
荷物をサイドテーブルの上に置いて、ソエルはノワリーの隣に座った。二人分の体重が、ベッドのスプリングを軋ませる。
「――ごめんなさい」
「何で謝る」
「臆病者って言いました」
「本当の事だ」
「私も臆病者です。ノワリーさんを置いて、逃げようとしました」
「正しい判断だよ。君は、間違っていない」
「もう一度、正しい判断をさせて」
ソエルはノワリーの頬に触れて、振り向かせて、彼の薄い唇にキスをした。
彼の白い頬は湿っていた。ソエルが触れる直前まで、泣いていたのだろうか。
「止めろ」ノワリーが言う。突き放すようにわざと。「基地に帰るんだ」
「嫌」
「馬鹿な事を考えるな。頭を冷やせ」
「馬鹿な事じゃないわ」
「馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。俺には、君を愛する資格はない。頼むから、基地に戻ってくれ」
「どうして? 私を……嫌いだから?」
「違う。嫌いじゃない。大好きだ。愛しているんだ。だからこそ、出来ないんだ。君を傷つけてしまう。ユグドラシル基地に帰したくない、手放したくないと思ってしまう。君の未来を奪ってしまう。後悔してしまうよ」
「私は貴方が大好きです。だから、ノワリーさんをもっと知りたい、好きになりたいの。それはいけない事なの?」
「正しい事だよ」彼は声を振り絞る。「俺も、君の事をもっと知りたい。好きになりたい。でも、知りすぎたら……もっと好きになったら……苦しくなる、辛くなる。俺の記憶は、明日、いや、今かもしれない、近い内に、君を忘れてしまうかもしれないんだ」
「それでもいいの。貴方が私を忘れたとしても、思い出させてみせますから」
「――ソエル」
「大好きなんです。ノワリーさんの事が」
上昇したソエルの手は、ノワリーの心臓を見つけて、その上に着地した。
一回。心臓が脈を打つ。
戦闘機のエンジンよりも大人しくて、静かな音。
「――俺も、君の事が好きだ。大好きだ」
肩に添えられた手が上昇して、涙に濡れたソエルの頬を持ち上げた。
ソエルの角度から見えるのは、夕焼けの色を吸い取った光に縁取られたノワリーの顔。
端正な顔が距離を縮める。地球に接近する月のように。
ソエルは目を閉じた。
口づけが来る事を確信して。
重なる唇。
今までよりも激しく。
長い睫毛がくすぐったい。
キスの引力に負けたソエルの背中は、白いベッドに沈没した。
ソエルの心臓は熱い。
重力が二人を引き寄せる。
強引だな。
慌てなくていいよ。逆らわないから。
シーツの空を、二人は飛んだ。
身体を縛る服は脱ぎ捨てよう。
旋回。ロール。
鼓動を上昇させて。
反転。ソエルの背中を唇がなぞる。
絡み合うようなシザーズ。離脱なんかしたくない。
再び反転。背面から水平飛行へ。
ダイブ。
スパイラルダイブ。
二つの軌跡は一つになる。
部屋に反響する、浅くて速い呼吸。
オレンジの光源が、抱き合う二人の身体を染め上げる。
このまま互いの体温で、身体も、細胞も、遺伝子さえも、溶けてしまっても構わない。
むしろ、溶けてしまおう。
一つになろう。
そうすれば、離れないで済む。
ソエルは動くのが怖かった。
一ミリでも動いてしまえば、この美しい夢から醒めてしまう。
でも、夢から離脱しなければいけない。
そうしないと、未来に進めないんだ。
同じベッドに座って、同じ毛布にくるまって、同じ物を食べて、ソエルとノワリーは色んな物を共有した。モノクロの映画を観ながら、色んな事を語り合った。時々、思い出したように、互いの体温を感じたくて、手を繋いで、身体に触れ合って、キスをした。二人に共通する記憶を一杯作りたかった。
「ソエル」
「はい」
「逃亡生活なんか止めて、二人で暮らしてみたいと思わないか?」
「いいですね、それ。じゃあ、住む家を探さないと。可愛い一軒家がいいな。小さな庭があって、花を一杯植えて、綺麗な庭にしたいです」
「仕事も探さないといけないよ。飛行機に関われる仕事なんてないだろうな」
「ありますよ」
「あったっけ?」
「遊覧飛行なんてどうですか?」
「遊覧飛行ぉ?」ノワリーが露骨に嫌な顔をした。子供っぽい仕草に笑ってしまう。「悪くは無いと思うけど、客の機嫌を取らないといけないんだろう? 自由に空を飛べないじゃないか」
「自由に飛びながら、機嫌を取ればいいんですよ」
「そうだね。邪魔になったら、パラシュートを付けて放り投げればいいんだし」
笑いながらノワリーが目を閉じた。
ソエルも目を閉じて、彼と同じヴィジョンを共有した。
ランディング。
テイクオフ。
大空へ舞い上がろう。
フル・スロットル。垂直に上昇する機体。
雲を巻き込むロール。
背面でダイブ。
いつの間にか、鬱陶しい観光客の姿は居なくなっていた。
鮮やかなパラシュートが見える。
ノワリーが放り投げたんだ。
バイバイ。
二人で空を飛ぼう。
アルヴィトとブリューナク。
ソエルとノワリーしか居ない空。
青。
水色。
群青色。
無限の青が横たわっていて。
「ソエル」
「はい」
「凄く――綺麗だ」
「……はい。綺麗です――とても。眩しいくらい」
誰も上がって来ない。
上がって来れない。
何もない。
空と、雲と、空気しか存在しない。
自由だ。
もう、考えるのはよそう。
未来を見れば見るほど、苦しくて仕方がない。
でも、考えてしまう。
未来を夢見てしまう。
人間は、そんな生き物だから。
永遠であって欲しかった夜が明けて、黎明が姿を見せる。下の階が騒がしくて、ソエルは目を開けた。隣で眠っている筈のノワリーは先に目を覚ましていて、半開きにした窓から外を見下ろしていた。甘い余韻が残留する身体を起こし、シャツと下着を身に着けて、ソエルは彼の側に行った。引き寄せられて、おはようのキスを。真剣な顔に戻ったノワリーが、再び窓の外に目を向ける。
「どうしたんですか?」
「あの車に見覚えがあるんだ」ソエルはノワリーの視線を追いかけた。筋肉質なジープが二台。ボディはブラックだ。ウインドウは黒いフィルムで塞がれている。車内にエイリアンでも乗せているのだろうか。「間違いない。俺を施設に乗せて行った車だ。どうやら、奴等に見つかったみたいだな」
「私、ロビィの様子を見て来ます」
「危険だ。俺が行く」
「駄目です。もし、見つかったとしても、私だけなら上手く誤魔化せるかもしれません。ノワリーさんは、荷物を纏めておいて下さい」
「解った。気を付けてくれ」
窓際から離脱したノワリーが、手際良く荷物を纏め始めた。ズボンを穿き、部屋を出て一階のロビィへ。話し声が聞こえる。階段の途中で立ち止まって、ソエルは身を潜めた。気付かれないギリギリの位置。カウンタの前で、黒いスーツの男性と受付の男が会話を交わしていた。耳を澄まして、ソエルは聴覚を研ぎ澄ませた。
「一組の男女を見なかったか? 女は十代後半。髪は金色で、空色の目をしている。男も十代後半で、髪は緑色。整った容姿をしているから、覚えていると思うんだが。有力な情報を提供してくれれば、それに相応しい額の報酬をお支払いしよう」
男性がカウンタにズッシリと重い袋を置いた。宝石が金塊が詰め込まれているのだろう。男の顔に強欲の色が現れた。ギラギラに光る目が袋を凝視している。
「どうだったかなぁ……見たような、見てないような……」
「足りないようなら、更に上乗せしますよ」
二つ目の袋が詰まれる。男の表情が完全に変わった。欲望に支配された顔だ。アイツは二人の居場所を密告するぞ。聖者を売り渡したユダのように。男性と男が交渉を始めた。ソエルは急いで部屋に戻った。ノワリーは着替えを済ませていて、荷物も綺麗に纏められていた。
「すぐに逃げた方が良さそうです。カウンタの男が、私達の居場所を教えると思います」
「解った。窓から逃げて、気付かれないようにバイクの所に行こう」
窓を半開きから全開へ。パイプや室外機を足場にして、ノワリーが先に下りた。彼が地上に着地。体操選手も真似出来ない動きだ。同じルートでソエルも続く。手を伸ばしたノワリーが彼女を支えた。ソエルも無事に着地した。
モーテルの裏側は汚くて、異臭がした。どれだけコストを削減する気なんだ。我慢しよう。逃げる事が先決だ。追手に気付かれる事もなく、二人はバイクと合流する事が出来た。ロックを解除。スタンドを上げて。座席へ跨る。唸るマフラ。エンジンが始動。さあ、楽園を旅立つ時が来たのだ。
灰色のハイウェイを走って行くと、小さなドライブインが見えて来た。運のいい事に、セルフ式のガソリンスタンドも付いている。燃料とマナを補給しないといけないと思っていたから丁度良かった。それに、作戦会議もしないといけないし。バックミラーに黒いジープは映っていない。まだ、奴等には気付かれていないようだ。数台のトラックが駐車場に止まっていた。賑わっているような雰囲気ではない。ここならいいか。ターン。駐車場に滑り込む。まずは身体を休めよう。ノワリーが提案して、二人はカフェに入った。
クラブハウスみたいな店内。右側にL字型のカウンタと、キノコに似た形の丸椅子。カウンタの奥にはマスタが居て、彼の後ろにはラベルが纏わり付いた瓶が並んでいる。左側には、何処にであるような対面式の席が並んでいた。客は疎ら。カウンタの席には三人の男が座っていて、豪快にビールを飲んでいた。駐車場に止まっていたトラックも三台だった。対面式の席には、紅茶を飲んでいる男性が座っていた。
隅の席に座ると、マスタがメニューを手渡して、注文を訊いて来た。彼一人のワンマン経営なのだろうか。贅沢は出来ないな。レモンティーとコーヒーをオーダー。予め用意されていたのかと思ってしまうぐらい、ドリンクはすぐに運ばれて来た。
「これから――どうします?」
「そうだな……一刻も早く、エレノアさんと連絡を取りたい所だが、まずは安全を確保しないといけない。その為には、かなり遠くまで行かないといけないだろうな。ガソリンとマナを入れて来るよ。すぐに戻るから、待っていてくれ」
ソエルの正面から離脱したノワリーが店を出て行った。入口のガラス越しに、彼がスタンドに向かって行く姿を確認した。ノワリーが戻って来るまで琥珀色の海を掻き回して遊ぼうかな。ティーの底に沈む輪切りのレモン。遥か太古に沈没したアトランティスを見つけた。
「よぉ、お嬢ちゃん。どこから来たんだ? 俺達と、気持ちいいコトして遊ばないか?」
下品な笑い声が上がったかと思うと、重苦しい足音が向かって来た。カウンタの席に座っていた三人の男がソエルの背後に立っていた。風船みたいに赤い顔。男が呼吸をする度に、酒の匂いを帯びた息が上昇して行く。ヴァイキングみたいな顔の男が席に近付いて、ソエルの肩に慣れ慣れしく手を回して来た。太い腕が肩を滑り、ソエルの腰に巻き付いて、彼女を席から引き離した。
「貴方達には関係ない事です。放して下さい」
こういう輩は相手にしない方がいい。冷たい音色の声で、ソエルは拒絶した。でも、それはかえって逆効果だったようで、男達は薄ら笑いを浮かべた。ゴツゴツした手がソエルの腰を撫で回す。気持ち悪い感触にゾッとした。マスタは見て見ぬ振り。黙々とグラスを拭いている。
「止めて!」
「いいじゃねぇか。あの彼氏にヤられてなくて、欲求不満なんだろ? さあ、俺達と行こうぜ。派手にヤろうじゃないか」
「彼女を、放してくれないか?」
ヒーローが颯爽と現れた。男達の背後に、燃料の補給を終えて店内に戻って来たノワリーが立っていた。彼の存在を認識した男達が、更に汚れた笑みを広げた。
「おっと、彼氏のお出ましか。かなりの男前だな、兄ちゃん。でもよぉ、俺達の方が兄ちゃんより逞しいし、テクニックも上だぜ。アンタよりも、彼女を気持ち良くさせてやれると思うがなぁ」
ノワリーは息を吐いて、目を閉じた。ポケットで大人しくしている右手が疼いている。機銃を撃ちたいと言っている。残念だけど、ここは地上で空の上じゃない。コクピットの中じゃなくて、古臭い店の中だ。操縦桿もないし、財布と携帯とバイクのキーしかない。我慢してくれないか。右手に言い聞かせて、正面の男を見据える。男もノワリーを見据えていた。汚れた視線が、彼の表面を流れて行く。
「男相手にヤってみるのも、悪くは無いかもな。顔も綺麗だし、イイ声で喘いでくれるんだろうな。決めたぜ。女は止めだ。今夜の相手は――アンタにヤってもらおうか」
あまりにも低俗すぎる。本当に同じ人間なのか。ノワリーは吐き気を覚えた。奴等には、酒と女とセックスだけがあればいいのだ。俺にはそんなくだらないモノは必要ない。空と戦闘機さえあれば、生きていける。
「……もう一度言わないと解らないのか? 彼女を放せ、と言ったんだ」
ノワリーがジャケットに着けているエンブレムが見えるように身体を動かした。男達の表情が強張った。自分達が喧嘩を売っている相手の正体が解ったらしい。
「あ――アンタ、もしかして、クルタナ空軍のパイロットか?」
「そうだと言ったら?」
男達の顔が真っ青に、綺麗な青に染まった。それでも、綺麗だとは思わない。お前達の色は空を冒涜している色だ。硬直した彼等の真ん中を通って、ノワリーがソエルを救い出した。
「待ってくれ! わっ……悪かった! 許してくれるよな?」
ノワリーがゆっくりと振り向いて微笑んだ。男達を安心させて、今度は彼等を震え上がらせるのに充分な表情を作った。
「今度会ったら、撃墜してやるからな。二度と会わないように祈ってろ、クソ野郎」
ネズミのように震えあがった男達は、大慌てで代金を支払うと、逃げるように店を出て行った。三台のトラックがハイウェイに飛び出して行くのが見えた。きっと、彼等は警察に捕まるだろう。飲酒運転をしているのだから。ノワリーが旋回。優しい微笑みを浮かべていた。
「大丈夫か?」
「は……はい。助けてくれて、ありがとうございます」
「目立つ行動を取ってしまったな。燃料とマナも補給したし、そろそろ出発しよう」
パチパチと乾いた音が店内に木霊した。優雅に紅茶を飲んでいた男性が立ち上がって、拍手をしていた。まるで、アンコールを求めているような拍手だ。役者は逃げてしまったから、再演は無理だと思う。
「いやいや、面白いモノを見せてもらったよ。君は――本当にパイロットなのかい?」
「……そうだ。それが何か?」
「そんなに睨まないでくれたまえ。私にもパイロットの息子が居てね、親近感を覚えただけだよ。見た所、お困りのようだね。素晴らしい劇を見せてもらったお礼だ。このナンバに電話するといい。きっと、君達を助けてくれるだろう」
コートのポケットから折り畳まれた紙を取り出した男性は、ソエルにそれを手渡すと、店を出て行った。紙を広げてみる。11ケタのナンバが丁寧な文字で書かれていた。どうするべきか。罠かもしれない。ナンバを授けた彼は、天国に住む天使か。それとも、地獄に潜む悪魔だろうか。
「――掛けてみよう。俺達は追われている身だ。彼が追手だろうとなんだろうと、同じ事だ」
「……そうですね。私が掛けてみます」
「ありがとう」
ノワリーから紙を受け取って、カウンタの端っこにある電話の側へ。数枚のコインを投入して、メモに書かれてあるナンバをプッシュした。コール音が七回。ラッキィな数字。受話器が取られた。
『――もしもし? どちら様?』
マイク越しに聞こえて来た声は、聞き覚えのある声だった。病院でソエル達と接触を計ろうとした女性、エレノアの声だった。
「エレノア――さんですか?」
『そうですけど』静電気が走ったように、彼女の声に警戒の色が走った。『名前を訊く前に、自分から名乗るのが礼儀だと思いますけど』
「私です。ソエル・ステュアートです。一度、病院でお会いしましたよね?」
『ソエルさん? もしかして、ノワリー君も居るの?』
「はい」横目で隣に居るノワリーを確認。「一緒に居ます」
『良かった――ユグドラシル基地から連れ出されて、アークに監禁されたと聞いていたから。上手く逃げ出せたのね? 今は何処に居るの?』
「基地から東に60キロ離れた街のモーテルに隠れていたんですけど、追手に見つかってしまって、今は66号線沿いのドライブインに居ます。今の所、見つかっていません」
『解りました。すぐにそこを出て、今から私が言う場所まで来て。ドライブインを出て、ハイウェイを更に東に進んで。80キロ程走ると、分かれ道に出ます。そこを左に曲がって道沿いに下って。坂の下に小屋があります。私は小屋に居るわ。大丈夫?』
鞄からメモ帳を取り出して、エレノアのナビゲートを一言一句聞き逃さずに書き写した。
「はい。すぐに向かいます。お昼過ぎには着くかと思います」
『あの、ノワリー君と代わってくれる? 無事を確認したいの』
ノワリーに受話器を渡して、ソエルは場所を譲った。
「ノワリーです」
『エレノアです。覚えているかしら?』
「ええ。病院で会いました」
『覚えているという事は――まだ、記憶がはっきりしていると思っていいのね?』
「はい。でも、長くは持たないかと思います」
『ノワリー君』
「はい」
『私は、貴方の真実を知っています。それを、貴方達に伝えるつもりでいます。真実を聞けば――きっと、二人の心は傷ついてしまうわ。私の事を忘れて、遠くへ逃げるという選択もあるわ。例え、貴方がその選択を選んでも、私は怒りません』
「俺は――それでも会いに行きます。ソエルも同じ事を言うと思います。俺は、俺達は、真実を知りたいんです」
『――そうね』エレノアの声が僅かにくぐもった。溜息をついたんだろう。『ごめんなさい。馬鹿な事を訊きました。貴方達が無事に着くのを祈っているわ』
電話を終えて、受話器を元の位置に戻した。離れた場所に居るエレノアは、二人の無事を祈っているのだろうか。カフェを出てバイクを発進させる。方角を確認。66号線を東へ。東には楽園があった事を思い出す。二人を安らかにしてくれる楽園だったらどんなにいいだろう。
メーターが80キロを指した時、分かれ道が見えて来た。エレノアのナビに従って、左に旋回。岩壁に囲まれた道を下って行く。カーブが連続している道で、周囲は荒れ果てた平原だ。下の方は霞んで見えない。速度を調整して、バイクは順調に道をダイブして行く。流石はエースパイロット。ソエルは滑らかなターンに見惚れてしまった。
アスファルトの道路が終了。道路は途中で途切れていて、舗装されていない道が真っ直ぐに伸びていた。正面に一軒家を発見。キャンプ場にあるバンガローみたいな丸太小屋だ。小屋の横にはガレージがあった。ドアの隣に窓。カーテンが下りていて暗い。バイクを適当な場所に停める。二人が木製のステップに足を掛けると、ゆっくりとドアが開いた。黒いセーターにジーンズ。茶色の編み上げブーツを履いた、栗色の髪の女性が出て来た。
「いらっしゃい。ソエルさんと、ノワリー君ね? 外は冷えます。さあ、中に入って」
ステップを上がる。ポーチがギシリと軋んだ。戦闘機よりも脆い奴だ。室内に入った。奥に本棚と窓。右側に鉄製のストーブがあったけど、埃が積もっていたから長い間使っていないのだろう。左側には小さな対面型のキッチン。正面のテーブルには、大量の紙が乗せられていて、入りきらなかった紙が床に散らばっていた。左奥には梯子が立て掛けられていた。天井を目指して。ロフトがあるのだろう。
「ごめんなさい、ストーブは焚けないの。煙で気付かれるかもしれないから。座って。お腹は空いていない? 簡単な物でよければ、すぐに用意出来るわ」
エレノアの厚意に甘えて、食事を御馳走してもらう事にした。キッチンの棚から取り出されるレトルトのパウチ。本当に簡単な物だ。鍋に張られた沸騰したお湯の中に放り込まれて、頃合いを見計らった彼女がパウチを取り出した。白い皿に分けられたのは、野菜とウインナが転がったポトフだった。食欲が無いんです。ノワリーは手を付けない。簡素な昼食が終わった。
「アレックスは元気? しばらく会っていないから、心配なの」
「元気ですよ。いつも助けてもらっています。優しくて、良い人です」
「良かった。お友達もたくさん居るみたいね」
「ええ。基地中の人が友達ですね」
「エレノアさん」鋭い声が響く。窓際にもたれかかったノワリーの声だった。「貴女は、全てを知っていると言いました。そろそろ、教えてくれませんか?」
「――そうね。本題に入らないといけないわね」
椅子から立ち上がったエレノアが二人を見つめた。息を吸い、吐いた彼女が口を開いた。
「……全ては、二年前に始まったと言ってもおかしくは無いわ。二年前の中央海上空戦を知っているわね? 彼等はプロジェクトの段階を進める為のサンプルを手に入れる為に、撃墜されて命を落としたパイロットと、瀕死の重傷を負ったパイロットを極秘に入手しました。その二人の名前は、ノエル・ステュアートとノワリー・エリオット。ソエルさんのお兄さんと――ノワリー君です」
消息不明だったノエルは――やはり、死んでいたのだ。ソエルの心が慟哭した。涙腺が痛い。ソエルの肩に触れる手。窓際から移動したノワリーが、彼女の側に立っていた。まだ序の口だ。真実は紐解かれたばかりなのだ。
「プロジェクトの内容は?」ノワリーの声は冷静だ。
「プロジェクト・エデン。内容は多岐に渡っていて、私が把握しているのは、ほんの一部にしかすぎません。彼等が造り出そうとしているのは、永遠に戦い続ける兵器――「キメラ」と呼ばれているモノよ。命を落としたパイロットを回収して、壊れた部分を修復して、再び飛べるようにする事。また壊れたら、それをベースに新しい肉体に作り変える。人間が追い求める、永久機関に似たようなモノです。ノワリー君。貴方が――オリジナルのキメラなの」
「俺が――キメラ?」ノワリーは怖いくらい落ち着いていた。普通なら、動揺したり、小さく悲鳴を上げたりするものなのに。
「そうです。貴方は、ノエル・ステュアートの肉体をベースにして生み出されたキメラ。本当は――ノエル君がオリジナルになる筈だった。でも、貴方のお父さんがそれを拒否して、貴方をオリジナルにしてくれと頼んで来たんです。頻繁に、おかしなヴィジョンに悩まされるでしょう?」
「はい」一瞬、ノワリーがジャケットのポケットに触れた。「前にも見ました」
「それは、適合率が低い所為なの」
「副作用というヤツですね」
「そういう事になるかしら。研究施設――アークというのだけれど、そこに連れて行かれた時、オイルみたいな色の薬を飲まされたでしょう? アレは、細胞の代謝を一時的に向上させる作用が含まれているの。古い細胞は廃棄され、新しい細胞に生まれ変わる。特に、記憶を司る細胞に大きく働きかけます」
「俺の記憶は、いずれ、消えてしまう。そして――奴等は俺を回収して、新しい兵器に造り変える。欠陥品は要らないという事ですね」
「……残酷だけど、恐らく、そうなります」
「そうですか。ありがとうございます。お陰で、全てを知る事が出来ました」
「一つ、腑に落ちない点があるのだけれど――どうやって、ここの電話番号を知ったの?」
「それは――」ソエルとノワリーは顔を見合わせた。答えてくれ。ノワリーが、発言権をソエルに譲った。「ドライブインのカフェで、男の人が教えてくれたんです」
「――男」エレノアの双眸が灰色に曇った。嫌な予感に襲われた時に似ている。「どんな男だった?」
どんな外見だったかと訊かれても、貧弱な脳が覚えているかどうかは解らない。記憶のフィルムを巻き戻して、ドライブインのカフェのシーンを再生した。拍手をする男性。ソエルにメモを渡す男性。彼の残像が鮮明に蘇った。マロンペーストの髪。目の色は灰色だ。そういえば、細いフレームの銀縁眼鏡を装備していた。詳細にエレノアに伝えると、彼女の双眸は更に曇った。
「エレノアさん? どうしたんですか?」
「……貴女達に私のナンバを教えた男は――ノワリー君を回収しようとしている奴等の一人です。奴等に見つかるのも時間の問題だわ。ノワリー君。貴方を治療出来る施設があります。明日、私と一緒に来てくれる?」
「行った方がいいですか?」
「人として生きたいと思うのなら。でも、二度と戦闘機には乗れないと思います」
ここに来て初めて、ノワリーの顔に迷いが生じた。僅かに俯く顔。目線は床へ。数秒。ノワリーが顔を上げた。
「一晩、考えさせて下さい。貴女には空の価値なんて解らないと思うけど、俺にとって、空というものは、かけがえのない――命よりも大切な存在なんです。我儘を言ってすみません」
ノワリーの声は淡々としていた。まるで、プロの殺し屋みたいだ。ソエルは兄の死に動揺して、涙を堪えるのに精一杯だというのに。おまけにノエルの死体は利用されて、ノワリーを生かす為の道具にされたのだ。本来ならば、ノエルが命を繋ぎ留める筈だったのに――。それなのに、ノエルは利用されて、無惨に捨てられた。平等じゃない世界。理不尽な怒りが湧き上がる。爆発させては駄目だ。二人を巻き込みたくない。でも、怒りの炎は自分では制御出来ないほどに燃え盛っていた。
「どうして――そんなに落ち着いていられるの!? 実験台にされて、大切な人を殺されたのよ!? 存在そのものが消されようとしているのに、おかしいよ! どうして、兄を助けてくれなかったんですか!? 返して! ノエルを返してよ! 私の家族を返してよっ!」
ソエルは叫んだ。絶叫した。ノエルを殺した張本人の一人が目の前に居る。ここが上空ならば、ソエルは戦闘機に飛び乗って、躊躇なくエレノアを機銃で粉々にしているだろう。ノワリーに腕を掴まれたソエルは引き寄せられて、彼の腕に抱かれた。エレノアを罵る言葉は涸れ果てて、掠れた嗚咽に変わっていた。
「すみません。彼女は――疲れているんです」
「いいのよ。謝らないで頂戴。今日はここで休んで。あそこ――上のロフトで寝るといいわ。二人くらいなら、ギリギリ寝転べると思うから」
エレノアが天井にあるロフトを指差した。ロフトは、戦闘機のコクピットより何倍も広いけど、コクピットの方が好きだ。いつでも、好きな時に、空の色を思い出せるから。ノワリーに支えられて、ソエルはロフトに移動した。双子の枕と毛布が設置されている。
ノワリーは、ソエルの傍らに居てくれた。エレノアから訊き出したい事が色々あると思うのに、それを我慢して、ソエルの側を離れないでいてくれている。でも、今のソエルにとって、彼の優しさは、愛情は、酷く辛かった。ノワリーを愛しく想えば想うほど、ノエルを思い出してしまうのだ。
「……ノワリーさん」
「ん?」
「しばらく、独りになりたいの。……ごめんなさい」
「……そうか。解った」
ノワリーの体温が離れる。ソエルの側を離脱した彼は、ロフトとリビングを結ぶ梯子を下りて行った。
会いたい。
ノエルに会いたい。
会いたくて会いたくて、気が狂いそうだ。
許されるならば、今すぐにでも、ノエルの居る天国に飛んで行きたい。
もしも、ここにノワリーが居なければ、ソエルの隣には、優しく微笑むノエルが居るのだろうか。
真夜中、ソエルは深い眠りから覚醒した。隣にはノワリーが居た。妖精の羽音のような寝息。空を飛ぶ夢を見ているのか。誰とバディを組んで、空を飛んでいるんだろう。足音を忍ばせてロフトを離脱。ソエルは、小屋の外に設置されているステップに座って、夜空を見上げた。オリオン、シリウス、ベテルギウス。真冬の星座が、綺羅星のように輝いている。空の上に上昇すれば、もっと綺麗に見えるだろう。理不尽な怒りは幾分収まったものの、モヤモヤとした暗い感情を追い払えずにいた。
「風邪をひくわよ」
ソエルの背後に響く声。そして、ドアが開く音。ブーツのヒールがステップを下りて来て、ソエルの隣で停止した。厚手のストールを肩に巻き付けたエレノアが、ソエルと同じ段に腰掛けた。
「眠れないの?」
「――はい。あの、色々と怒鳴り散らして……すみませんでした」
「無理もないわ。色々な事を知ったんだもの。辛かったでしょう?」
「辛くないって言ったら、嘘になります。生きていると信じていた兄が――死んでいたんですから。でも、私よりも、ノワリーさんの方が何倍も辛いんです。苦しいんです。自分という存在が消されようとしている。私が彼の立場だったら、とっくの昔に気が狂っています」
「優しいのね。それに比べて、私は――罪深い人間だわ」
「罪深い――?」
告解室で懺悔する信者のように、エレノアが頭を垂れ、胸の前で十字を切った彼女は、自らの罪を語り始めた。
「ええ。私は――プロジェクト・エデンに参加していた科学者なの。キメラの実験にも関わっていました。ある日、私は非人道的な行為が恐ろしくなって、プロジェクトチームを抜けたわ。もっと早く、彼等の行動に疑問を持っていたら、こんな事にはならなかった。――ごめんなさい」
「……確かに、ノエルを亡くしたのは凄く悲しいし、辛いです。でも、私は、ノワリーさんと出会う事が出来ました。エレノアさんは、過ちに気付く事が出来たんです。そして、ノワリーさんを助けようとしてくれています。罪深い人なんかじゃありませんよ」
「……ありがとう、ソエルさん。少しだけ、訊きたい事があるの。多分、失礼な発言になると思うわ。それでも、答えてくれる?」
「はい」
「貴女は――ノワリー君とセックスした?」
「――えっ?」大胆すぎる質問に頬が赤くなった。「いきなり何ですか?」
「大事な事なの。恥ずかしがらずに、答えて」
「……しました」いつ? 真剣な表情のエレノアが催促する。「半日前です」
「この薬を、三錠飲んで」エレノアが、錠剤の詰まった小柄な瓶を取り出した。「今すぐに」
「何の薬ですか?」
「貴女が宿した、ノワリー君の精子を殺す薬です」
「殺すって――」
「チームの科学者に、貴女が彼の種を宿していると知られたら、貴女も捕えられて、何らかの実験サンプルにされてしまうわ。廃人になるかもしれないし――下手をすれば、殺されてしまうかもしれません。彼等に気付かれる前に薬を飲んで。恐ろしい事を言っているのは解っています」
「そんな……私には――出来ません!」
「飲みなさい。貴女の為にも、ノワリー君の為にも」
ソエルの手の中に薬を置いたエレノアは、ステップを上って小屋に戻って行った。ステップに座りこんだまま、ソエルは星空を投影した瓶を見つめていた。二人の愛の証を打ち砕く恐ろしい薬。地面に叩きつけて、バラバラに壊してしまいたい。
「飲んだ方がいい」
星が落ちて来る代わりに、凜とした声が落ちて来た。振り向くと、柱に背中を預け、腕を組んだノワリーが立っていた。背中を離したノワリーが、ソエルの隣に座った。ロフトで眠っていると思っていたのに。いつの間に、目を覚ましたんだろう。
「……聞いていたんですか?」
「ああ。君を愛してしまった所為で、君を危険な目に遭わせてしまうなんて――皮肉だな。エレノアさんの言うとおりだ。早く薬を飲むんだ」
「そんな事出来る訳ない! この薬を飲んだら――私も、兄さんを殺した奴等と同じになっちゃうわ!」
体当たりをするように、ソエルはノワリーにしがみ付いて、彼の胸を拳で叩いた。
「どうして、私達を傷つけようとするの!? 私達、何も悪い事してないじゃない! 愛し合っただけじゃない! ただ、普通に生きたいだけなのに、どうして、許してくれないの――?」
しなやかな腕がソエルの背中に回されて、力強く彼女を抱き締めた。
「俺だって、普通に生きたい。君との間に子供を授かって、幸せに暮らしたいよ。でも、どれだけ強く望んでも、手に入らないモノがあるんだ。叶わない願いがあるんだ。俺達が思い描いているのがそうなんだよ。やっぱり、俺は化け物だ。大切な人達を不幸にしてしまう呪われた存在だ。君を愛した事を後悔したくないのに、今は後悔しているんだ。俺と出会わなければ、君は――」
ソエルを包む彼の身体は震えていた。千切れそうな涙腺を、必死で繋ぎ止めているのだ。辛いのは、ソエルじゃない。ノワリーだ。残酷すぎる運命を啓示されても、ひたすらソエルを守ろうとしてくれている。ソエルの身代わりになって、全ての苦痛を受け止めてくれているのだ。守られているばかりのお姫様の役を辞めよう。今度は、私が、彼を守る番だ。瓶の蓋を開けて、ソエルは三錠のカプセルを飲み込んだ。
「私達の愛は、消えません。絶対に、何があっても。例え、世界が滅んでも」
「俺は行くよ。ヒトとして生きる為に。二度と、戦闘機に乗れなくなったっていい。空に戻れなくなったっていい。ソエルと一緒に――生きて行きたいんだ」
「私も一緒に行く。一緒に生きたい。だから、約束して。もう、一人で行かないって。一人で死んだりしないって。一人で、空の上に逝く人はいい。でも、地上に残された者は、どうすればいいんですか? 悲しくて、悲しくて、死んでしまいたくて、それでも、会いたいのに会えない。手を伸ばしても届かない。もう、そんな風にしないで。しないで下さい。独りは嫌。もう、独りは嫌なんです」
「約束する。ずっと、君の側に居るよ。ソエル。俺の中に、ノエルは居る。生きている。だから、君は独りじゃない。いつか、また、同じ空を飛ぼう。俺と君は――バディだから」
「――はい」
止まった筈の涙が溢れた。ソエルは再び、ノワリーの胸の中で泣いていた。
幼い頃、いつもノエルと一緒だった。
食事も、遊ぶのも、勉強も。眠りに落ちる時は、一緒のベッドで眠った。
ノエルと一緒に居る事が、ソエルにとっての幸福だった。
彼の手を握り、背中に抱きつき、体温を共有する。兄が側に居るだけで、ソエルは安心出来た。
五歳年上の兄から見れば、いつでも何処でも付いて来るソエルは、鬱陶しくて迷惑な存在だったかもしれない。しかし、ノエルはそんな様子を微塵も見せず、可愛いソエルと囁きながら、優しく包んでくれた。
一瞬のような、永遠のような、不思議な時間。
いつまでも続くと思っていた、幸せな日々。
でも、ノエルは行ってしまった。
ソエルを置いて。ソエルを独りにして。
兄の亡骸もないのに、
紙切れ一枚で、兄の死を押し付けられて、
解りましたとサインを書かされた。
信じられなかった。
信じたくなかった。
だから――信じなかった。
兄が還って来ないのならば、自分の手で連れ戻してみせる。
広すぎる空の中で、迷子になっているだけなんだ。
空軍に入隊して、戦闘機のパイロットになって、ノエルと同じ空を飛びたかった。
もう一度、ノエルと会って、さよならを言っておきたかった。
もう一度、彼の身体に触れたかった。
抱き合って、温もりの中で髪を撫でてもらい、頬に触れてもらいたかった。
ずっと、そうしていたかった。
二度と、離れないように。
ノエルは空に抱かれながら散った。
誇り高く、
稲妻のように。
そして、ノエルは帰って来た。ノワリーの中で、彼は息づいているのだ。
彼の身体に触れている。
抱き合って、
温もりの中で髪を撫でてもらい、
頬に触れてもらっている。
もう、二度と離れる事はない。
ずっと一緒だ。
だから、さよならを言わないと。
ノエルの魂を解放してあげないと。
彼を縛りつけていたのは、私だったから。
別れの言葉が溶けて行く。
成層圏を貫いて、
宇宙の渚を上昇して、
星に、
宇宙に還って行った。
翌朝、エレノアに連れられて、二人は小屋を出発した。ライトグレイのライトバンはソエル達が走って来た道をビデオを巻き戻すように引き返して、ハイウェイの分かれ道を右に進んで行った。左側に黒い森林。右側には崖が口を開いていて、哀れな転落者を待ち構えている。
「あと、数時間で施設に着きます。気分は悪くない?」運転席に座っているエレノアが二人を気遣った。
「はい。平気です」
「ノワリー君は?」
「えっ?」窓の外を眺めていたノワリーが、驚いたように視線を向けた。数秒の沈黙。何かを思い出したノワリーが頷いた。「はい。問題はありません。大丈夫です」
「――彼女と私の名前を思い出せる?」
琥珀色の視線がソエルの方を向いて、次に、バックミラーに映るエレノアの顔を捉えた。
「えっと――」再び沈黙が流れた。さっきよりも間隔が長くなっている。「彼女はソエル。貴女はエレノアさんですよね」
「ええ。そうよ。変な質問をしてごめんなさい」
「――いえ、いいんです」
ノワリーの様子にソエルは恐ろしい不安を感じた。ヒューズが火花を散らすように、彼の記憶はどんどん散っているのだ。散った記憶は、二度と戻って来ない。エレノアが嘆息する。
「……危険な状態ね。一刻も早く、治療を始めないと――」
その時だった。突然、上空にヘリコプターが出現したのは。たまたま偶然上空を飛んでいたヘリかと思ったけど、ヘリはライトバンに狙いを定めている。まるで、餌を発見した猛禽類のように。次いで、黒のジープが背後に出現した。数は三台。チェック・シックスを怠っていた。
「エレノアさん!」
「どうやら、私達が巣から出て来るのを待ち構えていたみたいね。乱暴な運転になるわよ! しっかり掴まっていて!」
アクセルペダルが限界まで踏み込まれて、バンの速度が一気に上昇した。跳ねる車内。衝撃がソエル達を襲う。性能が違うのか、バンはジープに囲まれてしまった。機銃のトリガさえ付いていれば、一瞬で奴等を撃墜出来るのに。地上の乗り物は窮屈で不便だ。ジープが包囲網を狭めて来た。強引に停止させる気だ。
エレノアがハンドルを切った。左側に陣取ったジープを跳ね飛ばして、バンは森の中に飛び込んだ。木々を削りながらバンは走り続ける。目の前に巨大な大木が横倒しになっていた。根元が焼け焦げている。落雷の仕業か。通り抜ける事は不可能だろう。ブレーキ。ライトバンの逃亡劇は終幕した。バンから離脱。必ず、奴等は追いかけて来る。兵器を回収する為に。
「あの道を行けば、古いトンネルに出ます。その中に、下水道に繋がる道があるわ。そこを抜ければ施設の近くに出られる筈。私が奴等を足止めします。貴女達は行きなさい」
「エレノアさんを置いていけません」
「ノワリー君。貴方の人生を滅茶苦茶にしてしまって、本当にごめんなさい。許して欲しいとは言いません。でも、最期に、一言だけ謝りたいの。ソエルさんにも。大切な人を奪ってしまって――ごめんなさい」
「俺は……貴女を恨んではいません。貴女は、俺を空に戻してくれました。それだけで充分です」
「――ありがとう。必ず、逃げて。そして、生き延びて頂戴」
ソエルの腕が掴まれて、移動を強制された。ノワリーの手だ。それでいいの。エレノアが頷く。ヘリのローター音が近付く。タイヤが回転する音を引き連れて。狩人がやって来るぞ。急いで逃げないと、狼のように腹を切り裂かれてしまう。早く行って。彼女が促す。思いを無駄にするな。二人は地面を蹴った。
エレノアと別れて、二人は指示された道を走った。ロマンティックな逃避行じゃない。生死を懸けた逃避行だ。ガラスの靴は落とせない。悪魔に気付かれてしまうから。灰色のトンネルが見えて来た。ピノキオとゼペット爺さんを飲み込んだ鯨みたいに、馬鹿でかい口を開けている。
トンネルの中へ。空気は湿っていて冷たい。懐中電灯の明かりが、ソエル達を照らそうと追いかけて来た。追いつかれたのか。反対側からもライトが伸びて来た。サンドイッチの具材になってしまったのだ。ノワリーが下水道の入り口を見つけた。エレノアが言っていた場所だ。ライトに捕まる前に、二人は逃げ込んだ。
足下で跳ねる水。時間の感覚は既に失われていて、どれくらい進んだのかさえ把握出来ない。視界が広くなった。円形の天井に覆われた、広い空間に辿り着いた。下水道の中心部だろうか。陰気なダンスホールみたいな場所だ。
不意に、ノワリーが濡れた足を止めた。ソエルも立ち止まる。休憩せずに走り続けて来たから、疲れたんだろうと思いたかった。ノワリーが振り向いた。白い顔。神の啓示を受けた聖者みたいだった。ソエルにとって残酷な、恐ろしい予感が這い出て来る。
「少し休みませんか? 足が痛くて」
「いや、その必要はないよ」
「ですよね。じゃあ、早く行きましょう。追いつかれちゃいますよ」
「君も、俺も、捕まらない」
「それは解ってます」
暗い下水道に反射する光。
光源なんて皆無に近いのに。
目の錯覚だろうか。
ノワリーの右手がジャケットのポケットに消えて、
現れて、
銃を握っていた。
いつの間に――銃を?
「君を自由にする。空に戻れるようにするよ」
「何を言っているんですか?」
「そのままの意味だ。このまま、上手く逃げれたとしても、俺が生きている限り、奴等は追いかけて来る。俺が死ねば、全てが終わるんだよ」
「回収されて、造り変えられてしまうだけよ」
「それでもいい。君を平和な世界に戻せるなら」
「一緒に生きるって約束したじゃない」
背筋を伝う汗。冷たいのに熱い。
「ごめん」
ノワリーが笑う。
綺麗な笑顔で。
二度と見れないかもしれない笑顔で。
「守れそうにないよ」
ノワリーが近付いた。
銃は握ったままで。
二回のキス。
一回目は雲のように軽くて。
二回目は空のように深い。
離脱。
「自由に生きてくれ。俺と、ノエルの分まで」
銃が持ち上がる。
彼のこめかみに何かを囁いている。
引き金が動いて。
音。
煙。
火薬の匂い。
薬莢が闇の中へ落ちる。
ノワリーの身体が、ゆっくりと倒れて行く。
もう、動かない。
重要なパーツが破損したから。
動いているのは真っ赤な血だけだ。
「ノワリーさん」
ソエルは呼びかけた。
沈黙が返事を返した。
「目を開けて」
肩を掴んで揺さぶった。
腕の筋肉が疲れただけだった。
「目を……開けてよぉ……」
白い顔。
綺麗な顔。
穏やかだ。
とても。
頭に開いた穴さえも、綺麗に見えてしまう。
何で、
どうして、一人で死ぬんだ。
どうして、簡単に約束を破ってしまうんだ。
卑怯だ。
無責任だ。
兄さんの事を知っているのは、貴方だけなのに。
二人で、未来を生きて行こうって誓ったのに――。
「おやおや。死んでしまったか」
下水道に反響する声。聞いた事が無い。いや、違う、一度だけ聞いた事がある。白衣を着た男性がこっちに歩いて来る。彼をエスコートしているのは、銃で武装した兵士達だ。思い出した。ドライブインのカフェで、ナンバの書かれた紙をプレゼントしてくれた男性だ。慌ただしい足音がした。左右に分かれる兵士達。蒼白な顔をした、クラッド・エリオット大佐が現れた。
「――何て事だ」
クラッドが近付いて来る。ノワリーの側に来ようとしているのだ。ノワリーの頭を撃ち抜いた銃を掴んで、ソエルは持ち上げた。
「来ないで!」
「ステュアート飛行士。馬鹿な真似は、止めなさい」
「馬鹿なのは貴方達よ! 彼に触らないで!」
「銃を下ろしなさい。これは、指揮官命令だ」
「そんな命令、クソッタレよ!」
「クソッタレ、か。美しい響きだね。ノワリー君を返してくれないかな。彼は、私の作品なんだ」
白衣の男性が前に進み出た。ソエルが構える銃を怖がっていない様子だ。
「貴方が――ノワリーさんを造ったのね」
「その通り」
「私の兄を――ノエルを犠牲にした」
「おや。君のお兄さんだったのか。いい検体だったよ。彼も本望だろう。友人の一部になれたんだからね」
「ふざけないで! 兄を返してよ!」
「ふざけてなんかいないよ。君のお兄さんは帰って来たじゃないか。エレノアから聞いた筈だ。ノエル君はノワリー君となって、君の所に帰って来たんだよ」
違う。
違う。
確かに、彼は兄の身体をベースにして造り出された存在だ。
でも、ノエルとノワリーは別人だ。
ソエルはノワリーと出会い、
愛し合い、
一緒に空を飛んだ。
ノエルは空気になった。
帰って来たのは、ノワリーだ。
でも――。
ノワリーは、何処にも居ない。
もう、何処にも。
握り締めた銃の重みに耐えかねて、ソエルは崩れ落ちた。
彼との思い出が蘇る。
神は、残酷だ。
こうなる事が解っていて、二人を出会わせたのだから。
「パスカル」ソエルの手から銃を奪い去ったクラッドが、後ろに居る男性を呼んだ。パスカル。それが、男の名前だったのか。「ノワリーを――息子を助けてくれ。お前達ならば、出来る筈だ」
「勿論、可能ですよ。但し、今回は優秀な検体がありませんから、時間がかかりますし、どうなるか保証は出来ませんが。いいんですか? 息子さんを実験サンプルにするんですよ?」
「息子が助かるのならば、構わん。お前達の非人道的な行為には目を瞑る。資金も援助しよう。だから、実験が成功したならば、ノワリーを返してくれ。私達の所に――」
顎に手を添えたパスカルが、足を上下させて、コツコツとリズムを刻んだ。眼鏡の弦を押し上げた科学者が頷いた。交渉が成立したようだ。
「まあ――いいでしょう。解りました。ノワリー君は、貴方達の所に返してあげますよ。君達。彼を運んで行ってくれたまえ。くれぐれも、慎重にな」
銃を下ろした兵士達がノワリーに近付いた。担架が組み立てられる。彼を連れて行く為の道具だ。
「待って!」
ソエルに集中する視線。兵士達がパスカルに指示を仰いだ。
「お願い……少しだけでいいから、待って下さい」
待ってやれ。科学者が優しい指示を出した。
横たわったまま、二度と動かないノワリーの傍らに、ソエルは膝をついた。
緑色の髪に触れて。
冷たい頬に手を滑らせた。
身体を折る。
屈みこんで。
最後のキスを。
氷の唇に落とした。
「――さようなら、ノワリーさん」
担架に乗せられたノワリーが運ばれて行く。
遠ざかって行く。
星になって行く。
ソエルは地上へ。
ノワリーは空の上へ。
基地に着くまで、少しでもいいから眠っておこう。
面倒な現実が待っているから。
でも、悪くはないかな。
また、彼と出会える事を信じて生きて行こう。