たくさんの夢を、見ていたような気がする。
 まるで、万華鏡のような世界。
 夢の中の僕は、戦闘機乗りの仕事に就いていて、幾度となく戦闘機と人間を撃墜して来た、孤独なエースパイロットだった。ああ、僕は、このまま、死ぬまで独りぼっちで生きて行くんだろうなと思っていた。だって、ほら、映画に出て来るヒーローや、天才科学者は、皆孤独じゃないか。でも、彼女が基地に配属されて、僕が彼女のバディになった時、僕を取り巻く世界は360度シフトしたんだ。
 それから、僕は継ぎはぎだらけの記憶を取り戻して、彼女とキスをした。施設に収容されて、そこを逃げ出して、彼女と一緒にまた逃げた。そうそう、モーテルに身を潜めて、愛を告白して、愛し合って、一つになって、未来を語り、空想の空を一緒に飛んだ。
 僕達は、触れ合っても溶けなかった。
 一体、僕は、何に怯えていたんだろう。
 子供騙しの幻想か。
 なんて滑稽なファンタジィ。
 馬鹿馬鹿しくて、可笑しくなりそうだ。
 僕を助けてくれる人の所に行って、奴等に見つかってしまって、ウンザリするくらい逃げた。
 結局、僕と彼女は薄暗い下水道に追い詰められてしまったのだ。
 そして、僕は、彼女を自由にする為に、美しい空の上に戻す為に、息を止める決意をした。
 僕を見つめる彼女の空色の瞳には涙が溜まっていて、独りにしないでと懇願していた。
 そういえば、彼女を泣かせたのは、これで何回目だろう。どちらかと言えば、彼女は泣き虫だと思うけど、彼女の涙の原因の大半は、僕の所為だったような気がする。彼女を悲しませたくないと思って取った行動なのに、結果的には彼女を悲しませてしまったのだ。
 僕はイカれた頭を銃で撃ち抜いて、夢から離脱した。
 少々、強引だったかもしれないけど、僕は白い天井の下で目を覚ました。床も壁も真っ白。僕が横たわるベッドさえも。右手が何かを握り締めていた。コードの付いたボタン。機銃のトリガだろうか。僕は押してみた。大抵、ボタンという物は、押せば何かしらの反応をする筈なんだけど、ソイツは僕の指に対して何の反応もしなかった。
 ボタンを押してから数分後、壁の向こうから足音が聞こえて来た。壁の向こうは見えなかったけど、多分、廊下が真っ直ぐに伸びていると思う。部屋の外には廊下があるのが当たり前だから。ドアがスライド。白い服を着た女性が入って来た。
「目が覚めたんですね? おはようございます」
 僕は窓の外へ目を向けた。少なくとも、朝には見えない。なのに、おはようございますだなんて。真夜中でも、彼女はおはようございますと言うのだろうか。彼女が医療機器のモニタをチェックした。穏やかな波線。あれは、医療機器のモニタじゃないポリグラフで、僕が嘘をついていないかどうか確かめているんだ。残念。僕は、ありとあらゆる嘘で構築された人間だから。
「今日はいい天気ですよ。身体の状態も安定しているようですし、外の空気を吸いに行きましょうか」
「見えますか?」
「はい?」
「空は、見えますか?」
「ええ、勿論、見えますよ」
 どちらかと言えば、二人で太陽の光を浴びるより、一人で日光浴をしたかった僕は、その旨を彼女に伝えた。いいですよ。彼女は嫌な顔をせずに頷いて、僕の足下に靴を置いてくれた。床はひんやりと冷たくて、その冷たさが懐かしかった。足を靴の中に滑り込ませ、キャノピィを閉めるように靴紐を結んだ。
 初めはぎこちなかった僕の身体は、四肢を動かすうちに本来の機能を思い出したようで、すぐにスムーズに動いてくれるようになった。部屋を出て廊下を抜ける。渡り廊下の右側には中庭が広がっていた。丁寧に手入れされた芝生。ベンチを見つけた。中庭を横切って、僕はベンチに腰掛けた。正面には白い壁。額縁みたいな窓が押し込まれている。誰かが僕を見ている。監視しているような錯覚。錯覚なら気にしない方が賢明だ。
 青空を目指して。
 肉体を脱ぎ捨てた僕の意識は上昇した。
 現実をランディング。
 フル・スロットル。
 エレベータ・アップ。
 ロールを織り交ぜながら。
 主翼に弾かれた雲が散って行く。
 更に上昇。宇宙を制覇してやる。いや、宇宙はまだ早いか。大言壮語を吐いてしまった。
 頂点でスロットルを絞る。エルロンとラダーを左へ。
 バンク。揚力を失った機体は、左斜めにグライドして行く。
 主翼から発生する白い帯。
 まるで、彗星の尻尾のよう。
 墜ちて行こう。
 彗星のように、美しい軌跡で。
 僕の命が散る瞬間なんて、世界からしてみたら、ほんの一瞬の事にしか過ぎないけど、
 僕は、一瞬の中に永遠がある事を知っている。
 だからこそ、パイロット達は、広すぎる空の中で、美しく死ぬ事が出来るのだ。
 滑空して行く僕の横を、雲の下から現れた戦闘機が上昇して行った。
 白い――純白のファイティングファルコンだった。
 機体は複座型。金色の髪の男女がキャノピィ越しに手を振っている。
 誰に向けて?
 僕は、彼等を知らない。
 知らない筈だ。
 青空に吸い込まれて行ったファルコンは、小さな小さな点になって、僕の視界から消えた。
 待ってくれ。
 二人の後を追いかけたかった。
 でも、僕の意識は現実に向かって下降していて、既に着陸の態勢を整えていた。そして、僕は現実に舞い戻った。銃で頭を撃ち抜くよりも、簡単で、優しい手段で離脱したのだ。僕が座るのはコクピットの座席じゃなくて、愛想の無いベンチだった。
 僕の正面に陣取る建物のドアが開いた。一人の男性が、煉瓦のステップを下りて来て、僕の方に歩いて来るのが見えた。漆黒の軍服に身を包んだ男性。あれは、空軍の制服だ。胸に降る勲章の雨。肩章の星を数えてみた。階級は大佐か。彼がベンチに辿り着くと同時に、僕は立ち上がって敬礼した。彼は、少しだけ驚いたようだった。彼を驚かせた張本人である僕も驚いていた。夢の中だけじゃなくて、現実でも戦闘機乗りの仕事に就いていたという訳か。
「大分、回復したみたいだな」
「恐らくは」
「安心した」
「大佐――でよろしいですか?」
「ああ」
「尋ねたい事があります」
「何だ?」
「自分は、パイロットだと思ってもいいんですか?」
「そうだ。君は、優秀なパイロットで、エースの座に就いていた」
 就いていた、か。過去形の発言だ。
「自分は、撃墜されたんですか? それとも――銃で頭を撃ち抜いたんですか?」
 大佐の顔に緊張が走った。些細なきっかけで、爆発してしまいそうな顔だ。どうやら、僕は不味い事を言ってしまったらしい。完璧に味付けされた料理に余計なスパイスを加えて、台無しにしてしまった感じ。
「何故、そう思うんだね?」彼は動揺の色すら見せない。見事な自制心に拍手を送りたい。
「夢で見たからです。夢の中で、自分は頭を撃ち抜いていました。パイロットらしくない死に方でした」
「それは単なる夢にすぎん。君は、トラブルに巻き込まれて怪我を負い、入院しているだけだ。忘れなさい」
「はい。あの、また、戦闘機に乗れますか?」
「それは解らん。今、君に出来る事は、身体を回復させて、少しでも早く退院する事だ。さあ、部屋に戻ろう」
 大佐の手が僕の背中に添えられた。
 昔から知っているような温もり。
 僕に父親が居るのならば、きっと、同じ体温を宿しているのだろう。
 夢の中の二人を僕は知っている。
 けど、僕は故障してしまって、二人を忘れてしまったのだ。
 だから、僕は白い建物に居る。
 壊れた部分を修理してもらう為に。
 僕は青い空を見上げる。
 手を伸ばせば届きそうなのに、いつも僕の手の中をすり抜けて行く空を。
 飛行機雲を見つけた。
 浮上して来た言葉を、僕は呟いた。
「――ソエル」
 大佐が僕を見る。また、驚かせてしまった。浮かび上がって来た記憶は、青空に漂う酸素の一部になってしまった。つまり、もう同じ言葉を呟けないという事。僕は泣いていた。理由は解らない。僕が泣いている理由は、酸素の一部になってしまった言葉しか知らないだろう。
「どうした? 大丈夫か?」
「はい」僕は涙腺のバルブを閉めた。でも、これは一時的な処置だ。「すみません、大丈夫です。多分、目にゴミが入ったんです」
 泣くという行為は、子供だけに与えられた特権だと思っていた。
 いや、違うな。
 思い直して苦笑した。
 皆、いつでも子供だ。
 心の片隅に、誰もが子供を住まわせている。
 永遠の子供なんだ。
 だから、何処へだって行けるのだ。
 空があれば、
 自由に、
 何処へでも飛べる。


 空を、見上げていた。
 キャノピィの外を流れて行く、何の変哲もなく、代わり映えしない景色に、珍しいモノを見つけたから。
 七色の色が交わる虹が青空にかかっていた。美しい弧を描いたアーチ状の虹。ループを駆使しても、あんな軌跡は作りだせないだろう。パイロットを感嘆させるなんて大した奴。何故か、頭の隅に引っ掛かって来る虹だ。聖者のお告げが舞い降りようとしているのか? それとも、誰かが、合図を送っているのか?
 彼が居なくなってから、長い時間が経った。時々思うんだ。あの出会いは、夢だったんじゃないかって。時間の流れ方を早く感じるのは、夢から覚めた所為なんじゃないかって。夢じゃない証拠はちゃんとある。裁判に提出して、無罪を勝ち取れる立派な証拠を、ソエルは持っている。記憶のフォルダに。
 コクピットの前方部分に嵌め込まれたディスプレイの時計に目を向けた。基地に帰還する時間を、少しだけオーバーしていた。門限を破ってしまった。このまま逃亡する事も出来るよ。右コンソールに配置された操縦桿が、ソエルを誘惑した。駄目だよ。やっと、飛行停止処分が解除されたんだ。また何かやらかしたら、今度はクビになってしまう。彼が戻って来るまで、空から離れないと決めたんだから。
 ユグドラシル基地の敷地が見えて来た。まるで、精巧なミニチュアみたいだ。エレベータ・ダウン。目指すは滑走路。アップ。減速。車輪を滑走路にタッチ。華麗なランディング。ファイティングファルコンは、教科書に載っているお手本みたいに停止した。
「お疲れ様です」整備士が労いの言葉をかけてくれた。「エリオット大佐から伝言です。至急、オフィスまで来て欲しいそうです」
「解りました。アルヴィトのメンテ、お願いしますね」
 ユグドラシル基地を統括する大佐が居るオフィスは、搭乗員宿舎から伸びた渡り廊下で繋がっている。つまり、わざわざオフィスビルに足を運ばなくても、宿舎から直接行けるという訳だ。陽光が差し込む廊下を歩き、つき当たりの階段を上って、再び廊下を歩く。焦げ茶色のドアの前で、ソエルは停止した。深呼吸。ノックを二回。失礼しますと断って、ソエルはドアを開けた。
「帰還した所を呼び出して、すまないな」
 デスクに座ったままのエリオット大佐は、ほんの少しやつれているように見える。あんな形で息子を失ったのだ。仕事に集中する事で、悲しみを紛らわせようとしているに違いない。
「あの、用件とは――何でしょうか」
「うむ。実は、ユグドラシル基地に新人パイロットが配属される事になった。そこで、ステュアート飛行士。君に、新人とバディを組んでもらいたいのだが――構わないかね?」
「はい。異存はありません。その新人は、到着しているんですか?」
「数十分前、基地に到着したと連絡が届いた。戦闘機を見たいと言っていたから――第一格納庫に居る筈だ。すまないが、至急、格納庫に行ってくれ」
「了解しました。失礼します」
 敬礼をして、ソエルはオフィスを退出した。その足で第一格納庫に向かう。新人、か。いつ聞いても、期待に胸が躍る言葉だ。優しい先輩を演じよう。簡単に辞められたら困るし、自分の責任にされるのは嫌だから。ライトニング、ストライクイーグル、スホーイにファイティングファルコン。見慣れた戦闘機がソエルを歓迎してくれた。デートの相手は何処にも居なかった。大佐が嘘をついたのか。いや、あり得ない。エイプリルフールは遥か彼方だし、大佐は嘘をつくようなタイプではない。
「すみません」帰り支度を整えている整備士に声をかけた。「ここに、新人パイロットが居るって聞いたんですけど――」
「え? ああ、はい。さっきまで居ましたよ」
「居ました?」過去形の発言にソエルは首を傾げた。「じゃあ、今は何処に?」
「えっと……」困り果てた挙句、整備士は天井を指差した。「上です」
 上だって? ソエルは首の角度を上げた。灰色の天井しか見えない。天井の向こうに広がっているのは、広大な青い世界。彼女と目を合わせた整備士は苦笑すると、そそくさと格納庫から退散した。そして、戦闘機が奏でるエンジンの音が聞こえて来た。配属されたばかりの新人に、飛行許可を与えたのか。パイロットが地面に激突する前に、無謀な飛行を止めさせないと。ソエルは急いで外に出る。
 ソエルが外に飛び出ると同時に、上空から降下して来た戦闘機が滑走路に侵入して来た。
 水平だった機首が左に傾いて、九十度バンクした。
 空気を切り裂くナイフエッジ。
 バンク角を維持しながら、機体は水平直線飛行を保ったまま、滑走路を駆け抜けて行った。
 スロットル・アップ。
 エレベータ・アップ。
 水平飛行で速度を上げて行く。
 ループ。
 背面で頂点へ。
 半ロール。
 背面飛行から復帰した機体は機首を引き起こし、二回目のループに入った。
 繰り返されるループと半ロール。
 パイロットが繰り出したのはキューバンエイト。二つのループとエルロンロールを組み合わせた機動だ。横から見た軌跡が数字の8を横倒しにした形に見える事から、この呼び名が付けられたのだ。
 キューバンエイトを終えた機体は、高く昇って行った。
 九十度の垂直姿勢。
 上昇していた機体の速度が落ちて行く。スロットルを絞ったんだ。
 速度がゼロになった機体は、当然降下する。
 機体が後方に百八十度回転した。
 後方回転のテールスライド。
 回転し過ぎていない。見事なコントロールだ。
 垂直降下姿勢を維持したまま、速度を上げた機体は機首を上げ、水平飛行に転じた。
 機体が滑走路に近付く。車輪と地面が擦れる。数十メートル走ったのち、機体は完全に停止した。パイロットが意図したのかどうかは解らないが、戦闘機はソエルの正面で大人しくなった。キャノピィが開いて、パイロットが姿を見せた。許可も無しに戦闘機を操縦した輩に喝を入れたかったが、あの時と同じ色の稲妻に貫かれたソエルは、声を出せないまま立ち尽くしていた。
 銀色に染まったスーパーホーネット。ソエルを守る為に負った傷も残っている。主翼に乗っているパイロットが跳躍して地面に着地した。引き剥がしたヘルメットを脇に抱えた彼は、ソエルの数歩手前で足を止めた。太陽の光を浴びた濃い緑色の髪が、夏の緑のような色に染まる。
「許可も無しに飛び立った事は、悪いと思っている。でも、この戦闘機と空を飛びたいと思ったんだ。何故かは解らないけど――懐かしいと思ったから」
 スーパーホーネットを見上げた青年は微笑みを浮かべ、振り返ってソエルを見つめた。
「初めて見る顔だな。新人か?」
「いえ――」震えそうになる声を制御した。「ずっと前から、ここに居ます」
「そうか。そう言えば、皆が初めて見る顔だった。今日、ユグドラシル基地に配属されたんだ。もしかして、君が俺のバディになるのか?」
「はい。エリオット大佐に指名されたので」
「基地の指揮官と同じファミリィネームだなんて、不思議だと思わないか?」青年が、ジャケットのポケットから皺だらけの写真を取り出した。「それに、この写真に映っている女の子――君にそっくりだ。ほら、見てくれ」
 震える手を叱咤して、ソエルは写真を受け取った。サイズの合わないヘルメットを被った女の子。金色の髪と空色の目は、幸せを謳歌しているように輝いている。ふと、何かに気付いて、ソエルは写真を裏返した。すると、写真の裏側の左隅に、さっきは見つけられなかった文字が書かれているではないか。
『Gottin meines Gluckes(俺の幸運の女神)』
「……こんなに長い間待たせるなんて、馬鹿よ」
 写真を胸に抱き締めて、ソエルは嗚咽を噛み殺した。
 抑えきれなかった一筋の涙が、頬を走って地面に落ちる。
 冷たいようでいて温かい、不思議な温度の手が肩を撫でた。
 魔法の手が肩を滑り、ソエルを引き寄せようとして思い留まった。
 彼は、真っ白になってしまったのだ。
 ソエルと出会い、痛みと悲しみを共有して、愛を分かち合った事も。
 でも、悲しくなかった。
 だって、約束したから。
 貴方が全てを忘れてしまっても、思い出させてみせるからと。
「……大丈夫か? 俺は、悪い事でも言ってしまったのか?」
「いえ、何でもありません。さあ、ヴァルキリーのメンバーに、貴方を紹介しないと」
「ヴァルキリー、か。なんだか懐かしい名前だ」
「きっと、盛大に歓迎してくれますよ」
「そうか。楽しみだな」
 ソエルには解っていた。
 考えるよりも先に、本能が感じ取っていた。
 ソエルの魂に、入って来てくれたモノ。
 それは、空っぽだったソエルの心を満たして、
 きっと、永遠に生き続けるだろう。
 掌で頬を擦ると、指に涙が付いて来た。
 また、泣いていたのか。
 でも、いいよね。
 こんな涙なら、いいんだよね。
 滑走路を駆け抜けて、戦闘機が飛んで行く。
 騒々しいエンジンの音。
 風の音。
 機体が軋む音。
 補助翼が動く音。
 オイルの匂い。
 大好きな音と匂い。
 ソエルを包んでいるのは、可能性に満ち溢れた未来だった。
「自己紹介がまだだったな。俺の名前は、ノワリー・エリオットだ。宜しく頼む」
「ソエル・ステュアートです。宜しくお願いします」
 敬礼を交わして。
 差し出された右手をソエルは握り締める。
 ほんの一瞬だったけど、分かち合った温もりは、二人を繋いでくれた。
 そして、私達は風になる。
 空に溶けて、
 何処までも行こう。
 虹の橋を越えて。