彼は空が好きだとよく言っていた。
 冴え渡る氷の色を映した蒼穹の空。
 帯電したように輝く聖火の色に染まった夕焼け。
 硝子窓を叩く北風のような曇り空。
 365日同じ空はないんだよ、と彼は口癖のように言っていた。
 いつも違う表情を見せてくれる。だから、空を飛ぶ楽しみが生まれるんだ。
 屋根の上に昇って手を伸ばしながら彼は笑っていた。
 その微笑みが、彼と世界を結びつけていた。
 彼が空軍に志願した時、躊躇う事もなく、ソエルは彼と同じ道を歩みたいと告げた。
 当時、空軍は若者にとって最先端ともいえる世界だった。
 賞賛と輝く栄光に満ちた世界は、ヒーローを夢見る若者達の、憧れの的だったのである。
 でも、ソエルも、ノエルも、ヒーローになりたい訳じゃない。
 ただ、あの目の覚めるような、蒼穹の世界に溶けてしまいたいだけだ。
 すると、彼は、微笑とも、苦笑ともとれる笑顔を浮かべて、ソエルの金色の髪を撫でながらこう言った。
『戦闘機乗りだけが、お前の生きる道じゃないんだよ。優しいお前にパイロットは向かないな。別の仕事を見つけて――いや、仕事なんかしなくていい。運命の相手と出会って、結婚して子供を授かって、幸せに包まれながら老いて行く。それが、未来というモノなんだよ。お前の気持ちは嬉しい。でも、お前は地上で生きて、僕の道標になって欲しいんだ。空から地上に戻る時、お前の所に、僕が戻れるように――』
『でも、ノエルが帰って来なかったら、私、独りぼっちになっちゃうじゃない』
『大丈夫だよ。僕が帰れなくなった時は、アイツがお前を守ってくれるから』
『アイツ?』
『僕のバディで、最高の親友だよ。無愛想で冷たい奴だけど、本当は優しい奴だ。だから、安心して』
『うん。ねえ、その人に――会えるかなぁ』
『いつか、きっと会えるよ』
 突如、ソエルを包むセピア色の情景が暗転した。
 まるで、追憶の世界全体がブラックアウトしたみたいに。
 何も見えない。
 何も聞こえない。
 彼の姿も。
 必死に闇の中を手探りするソエルの耳に、今にも飛び立とうとする戦闘機のエンジン音が届いた。
 彼が飛び立とうとしている。
 ソエルを暗闇の中に残して。
『ノエル? 待って! 行かないで! 私を置いて行かないで! 独りにしないで!』
 灰色の死が待ち構えている、美しい大空へ。
 綺麗な空を飛び回れる彼が羨ましくて、
 置いて行かれたくなくて、
 いつか、絶対に、彼と一緒に空を飛び回れる事を夢見ていた。
 夢見ていたのに――。


 遺伝子に刻まれた防衛本能が、ソエルを恐ろしい夢から強制離脱させた。脈打つ心臓。身体は焼けるように熱いのに、皮膚の上を流れる汗は冷たい。熱いのは身体だけじゃなかった。指を頬に当てて滑らせると、透明な液体が指先を濡らした。両目を拳で覆って、溢れ出る涙を堰き止めようとしたけど、無色透明な液体は指の隙間から流れ出て、ソエルの頬を伝って落ちた。
「ひくっ……くうっ……ううっ……」
 ベッドの上で身体を折って泣いていると、冷たいようで温かい、不思議な温度の手が肩に触れた。誰でもいい。悲しみを追い払ってくれるのなら。肩に触れている手を引き寄せて、ソエルはしばらく、その温もりに身を委ねた。冷たい指がソエルの額に触れて、瞼の上に居座っている金色の髪を払い除けたのを感じた。随分と優しい手だ。ルームメイトのガゼルだろうと思いつつ、ソエルは目を開けた。
「……落ち着いたか?」
 端正な顔立ちの青年が、ベッドの端に座って、湖畔のように静かな面でソエルを見下ろしていた。フォレストグリーンの髪に、琥珀色の切れ長の瞳。彼の片方の手はソエルの額に触れていて、もう片方の手は、ソエルが握り締めている。その両手の主は、彼女のバディ――ノワリー・エリオットだった。
「ひっ――ひゃあああぁっ!?」
 ノワリーの手を振り解いたソエルは、白いシーツに身を隠して、ベッドの片隅に避難した。ソエルの頬は熱を発して、一瞬のうちに、頬を湿らせていた涙を蒸発させた。何故、逃げるんだという風に首を傾げるノワリー。男子禁制の部屋に、若い青年――それも、絶世の美青年が侵入して来たんだぞ。おまけに、ソエルはキャミソール一枚という、男性からして見れば刺激的な格好だ。逃げるのは当たり前じゃないか。
「エッ――エリオットさん? 何で、ここに居るんですか?」
 いつもと同じ、冷静な表情に戻ったノワリーが、腕組みをしてソエルを見下ろした。湖畔のように静寂な表情は、深い森の奥に、琥珀の海の奥に消えてしまった。
「決まっているだろう。お前を起こしに来たんだ」
「起こしにって……」
「忘れたのか? 今日は、ミッションが発令される日だぞ。いつまで経っても起きて来ないから、わざわざ起こしに来てやったんだ。有り難く思え」
 ベッドの端から腰を上げたノワリーは、ドアを開けて出て行った。しまった。また、怒らせてしまったか。完全に閉じる寸前のドアの隙間から見えた横顔からは、判別出来なかった。寝癖で絡み合った髪を櫛で梳かして衣装をチェンジ。部屋を出たソエルは、相棒の足跡を追いかけた。
 ヴァイオレットの空が明けて行く。まるで、魔法使いが神秘的なローブを脱いでいるようだ。ローブのかくしから零れた薬品が、太陽や月、星座達を創り出すんだろう。今日は初ミッションの日。ユグドラシル基地に配属されてから数週間。ようやくパイロットの一員になれるという訳だ。エリオット大佐が君臨するオフィスに到着。室内には、学校の前に置かれている銅像のような顔つきのクラッド・エリオット大佐と、彼が居た。頑なに他人を拒絶し続けているエースパイロット――ノワリー・エリオットだ。腕組みをして、光を避けるように立っている。踵を合わせて敬礼を。ソエルは革張りのソファの脇に立った。
「今回のミッションの詳細を説明する。ソエル・ステュアート飛行士、ノワリー・エリオット飛行士。お前達に偵察飛行を命ずる。場所は基地から南南西に350キロだ」
「アンティオキア……じゃないですよね。方角が違います」
「そうだ」クラッドが白いデスクに地図を広げて、赤いペンで一点をマーキングした。「国自体にそれ程脅威はないが、過激な宗教団体が軍事兵器を密輸していると聞いた。その団体が管理する、軍事工場の様子を偵察して欲しい。奴等の戦闘機はF4ファントム2。黒いボディに、交差した槍が赤い色でマーキングされている。危険を感じたら、速やかに離脱しろ。いいな?」
「了解しました」
「ノワリー」退室しようとしたノワリーを呼び止めるクラッド。「ステュアートは新人だ。バディのお前が、しっかりとサポートするんだぞ」
「――解っていますよ」
 卵の白身のような淡白な返事を返したノワリーは、すぐにオフィスを出て行った。バディのソエルを置き去りにするなんて。忠誠を示す敬礼をして、ソエルも白いオフィスから退出した。指令を受けたソエルは、オフィスビルから第一格納庫に、寄り道せずに向かった。シャッタの前で談笑している整備士達に挨拶をして中へ入った。ここは四六時中薄暗い。まるで、鯨に飲み込まれたピノキオになった気分。先に出発した筈なのに、ノワリーの姿は見えない。まったく。何処で道草を食っているんだ。
「よぉ、嬢ちゃん。ノワリーをデートに誘ったって、本当かい?」
 快活な声が響き渡る。二十メートルを超す機体、スホーイSu35の前にジェラルド・イージスが立っていた。強力な二基のエンジンと、稼働式排気ノズルを搭載した、Su27を発展させた戦闘機。ライトグレイのボディに翼を広げた梟のイラストがマーキングされている。女神アテナが愛する知恵の鳥だ。誤解されるような事を大声で言わないで欲しい。早足でイージスの所に向かった。
「へっ――変な事言わないで下さい! 一体、誰から聞いたんですか?」
「ガゼルだよ。仲睦まじくバイクに跨ったアンタ達を見たんだとさ。で、どうだった?」
「何がですか?」
「初デートの結果に決まってるじゃないか。手は握ったのか? キスはしたのか?」
「してません! エリオットさんの事を色々知りたかっただけです!」
 顔を真っ赤にして怒鳴った直後、ソエルは気付いた。もしかしたら、イージスも「彼」の事を知っているのではないか。それに、ノワリーとも親しそうだから、彼のパーソナルデータをインプットしているかもしれない。駄目元で訊いてみようか。
「あの、イージスさん。エリオットさんは――二年前の空戦に参加していたんですか?」
「ん? ああ――あの、中央海上空で起こった空戦だな。坊やも参加していた筈だぜ。勿論、俺もな。同じチームだった」
 二年前に勃発した中央海上空戦。マナを生成する世界樹ユグドラシルの所有権を巡って勃発した戦いだ。マナとはこの世界に満ち溢れているエネルギーの事で、人類はマナの恩恵で文明を構築し、発展させて来た。交通の便。家電製品。電力発電所。人類が生きる為に欠かせない物全てをマナが補っているのだ。勿論、戦闘機もマナを利用して飛んでいる。
 中央海上空戦は熾烈な戦いだったと聞いている。幾人ものパイロット達が空で戦い、空で散って行ったのだ。戦死者は数万人にも及んだらしいが、正確な数字は未だに解明されていない。「彼」もその戦いに巻き込まれて、消息を絶ってしまっている。つまり、生死不明という訳だ。
「じゃあ、ノエルというパイロットも御存知ですよね? エリオットさんと同じチームに所属していたと聞きました」
「ノエル?」鳶色の視線を宙に彷徨わせたイージスが呟いた。記憶の一部を引っ張り出す事に成功したみたいで、彼は頷いた。「ああ、アイツか。金色の髪の坊やだな。チームの中でも一、二を争う腕の持ち主だったな。おまけに誰にでも優しくてな、男女問わずに人気があったよ」
「エリオットさんとバディを組んでいたって聞きました」
「よく知ってるな。そうだよ。ノワリーとノエルはバディだった。相性抜群でな、二人が組めば、チームを必ず勝利に導いてくれるとまで言われてたんだぜ。でも――」
 イージスが言葉を濁した。濁った言葉が濾過されるのを待つ。数秒後、彼が口を開いた。重苦しい表情で。
「中央海上空戦で、二人は撃墜されたんだ。多勢に無勢ってヤツでな、たった十人ちょっとのチームで数百機を墜とせなんて無理だったんだよ。二人は――チームを守ってくれた。自らを犠牲にしてな」
「犠牲――? じゃあ、ノエルは――」
「……残念だが、死んじまったよ。彼だけが、死んでしまったんだ」
 死んだ。
 「彼」は――ノエルは、死んだ。
 死んでしまった。
 一人だけ、独りで、空で散ってしまったのか。
 ソエルの心に、洞窟のような穴が開く。
 開いた穴から、青い色が零れて行った。
 どんなに頑張っても、その色を留まらせる事は出来なかった。
「戦争が終わった直後かな。ノワリーが姿を消したのは」
「姿を消した――?」
「ああ。一年半ぐらい経ってから戻って来て、ユグドラシル基地に配属されたんだ。上手くは言えないが、昔の坊やとは違う感じがするんだ。記憶を失くしたって言ってたから、当然か」
「記憶を、失くした――」
 成程。だから、カフェで男性に話しかけられた時、何も知らないの一点張りだったのか。でも、何だろう、この感じは。ソエルの胸に何かが引っ掛かっている。手を伸ばしても、歯ブラシを駆使しても取れない、小さなミクロの物質が蹲っていた。
「誰の噂話ですか?」
 真夏の格納庫の温度を急激に低下させる凜とした声。シャッタの脇に、腕組みをしたノワリーがもたれかかっていた。軽快に靴音を響かせて、ノワリーがやって来る。彼が歩く度に、夏が遠ざかって行くような気がした。
「大した事じゃないさ。新人さんに、パイロットのノウハウを教えていただけだよ。何だ? もしかして、俺に嫉妬してるのか?」
「してません」
 光の速さで否定したノワリー。
 ノエルを忘れている彼。
 ノエルを空に残して生き残った彼。
 ソエルは苛立ち始めた。苛立ちとはいっても、殆ど怒りに近かった。
「教えて下さい。彼は、ノエルは――どうして死んだんですか? どうして撃墜されたんですか? あの時、ノエルに何があったんですか? どうして――」
「いきなり何だ。俺が知る訳ないだろう」
「何でもいいから言って下さい! ノエルが撃墜された時の事を聞きたいんです! 知りたいんです! 教えて下さい! 戦死したのは彼だけなんですよ? どうしてですか?」
 頑なに沈黙を貫き通すノワリーに業を煮やしたソエルは、彼に歩み寄ると、男性にしては細い腕を掴んだ。その一連の動作は素早く、イージスが制止する暇もなかった。
「答えて下さい!」
「何度も言った筈だ。ノエルという奴は知らない。それだけだ。そいつが生きていようが、死んでいようが、俺には関係ない」
 死者を冒涜するような発言に、ソエルの怒りが爆発した。ノエルとの思い出が仕舞われている、大空のように神聖な場所を、地上の泥で汚れた土足で踏みにじったのだ。許す訳にはいかない。
「人殺し! 貴方がノエルを殺したのよ! バディのくせに、自分だけ生き残った卑怯者! 返してよ! ノエルを返してよ! アンタが彼を見殺しにしたんだわ!」
「嬢ちゃん! 止めろ!」
 ノワリーの手が、彼の腕を掴んでいるソエルの手を取った。驚くほど冷たい手。本当に、生きている人間の手なのかと疑ってしまう。冷たい手と同じくらい、琥珀色の双眸も凍りついていた。虚無的な琥珀の眼差しはソエルを見てはいるが、誰も映していないようにも見える。廃墟のような、退廃した雰囲気。思わず溜息をついてしまいそうなほどの美青年なのに、死神に魂を抜きとられた人間のように、無表情だった。
「人捜しをする為だけにパイロットになったというのならば、俺は、お前を空から引き摺り下ろす。空を飛ぶ気のない奴は、ヴァルキリーに必要ない。飛ぶ気があるのなら、付いて来い。飛ぶ気がなければ、荷物を纏めてさっさと消え失せろ」
 氷の手から自分の手を抜き出したソエルは、祈りを捧げるように頭を垂れ、力を失ったように床に膝をついた。握り締めた拳は震えている。堪え切れない燃え盛る激情は沸騰し、嗚咽となって、引き結んだ唇の隙間から零れ落ちた。イージスがどう行動を起こせばいいか戸惑う中、呆然とするソエルの脇をすり抜けて、ノワリーはブルーシートで覆われた戦闘機の前に行った。涙を飲み込んで、彼に続いてブルーシートで覆われた戦闘機の前へ向かう。黙々と作業をしていた整備士達が、ブルーシートを引き剥がした。空色のスクリーンに映る戦闘機。ソエルは息を呑んだ。
 F16ファイティングファルコン。全長は十五メートル弱だろう。高性能の代償として高価格になったF15を補完する軽量戦闘機計画で開発された戦闘機だ。胴体と主翼を滑らかに繋ぐ、ブレンデッド・ウイング・ボディ。大きくて視界良好なキャノピィ。フライ・バイ・ワイヤを採用し、操縦桿が右コンソールに配置されている珍しい機体だ。機体の重量は、F15の半分ほどしかない。
 フライ・バイ・ワイヤとは、操縦装置と舵の間をコンピュータが仲介するシステムを指す。操縦装置を操作すると、その動きは電気信号に変換されて、コンピュータに入力される。コンピュータは各種センサーでその時の機体の姿勢や速度、気圧と気流の状態を計算し、最適な角度で舵を動かすのである。
「名前はどうするんだ。自分の機体には、好きな名前が付けられる」
「……アルヴィト。アルヴィトにします。古い言葉で、「純白」って意味なんです」
 突然、ノワリーが頭を押さえて屈みこんだ。日焼けをしていない肌は青白く染まり、瞼がきつく閉ざされている。頭痛だろうか。触るな。肩に触れようとしたソエルの手を、ノワリーは乱暴に払い除ける。ようやく痛みが収まったようで、彼はよろめきながら立ち上がった。
「エリオットさん? 大丈夫ですか?」
「……問題無い。いちいち喚くな」
 頭痛持ちなんて聞いていないぞ。大体、そんな状態でミッションをクリア出来るのか。空を飛べるのか。心配するソエルを余所に、ノワリーが戦闘機を引き出してくれと整備士達に依頼した。ファイティングファルコンとスーパーホーネットが、牽引車にエスコートされて炎天下の滑走路に引き出される。迷いの無い足取りで、銀色のスーパーホーネット――ブリューナクのコクピットに搭乗するノワリー。ヘルメットを装着した彼がキャノピィをロック。ソエルもアルヴィトに乗り込んだ。
 強風が走り回っていた。発進準備を整えたブリューナクが、風に向かう進路を取る。アルヴィトは、真後ろに位置をつけた。他の基地の滑走路に比べると、格段にいい状態に整備された滑走路だ。殆ど揺れず、200メートルも走ると、機体は極めて自然な動きで大地を離れた。フル・スロットル。操縦桿を軽く引いて。アイスクリームみたいな滑らかさで、機体は上昇して行く。
 凄い。なんて、軽い機体なんだ。
 アルヴィトは軽々と宙に浮き、ブリューナクを追いかけて行く。簡単に追い越せそうだ。
 空が呼んでいる。
 行こう。
 自由な大空へ。

 
 頭上は青一色の世界。真下には雲の波が走る。微妙な青色のグラデーションが綺麗だ。地上で想像する色とは違う。空は誰に対しても平等だ。一般市民も、貴族も、政治家も皆同じだ。全て受け止めてくれる。包み込んでくれる。大いなる存在だと思った。
 南南西に350キロ。目的地に到着。眼下に広がるのは軍事施設のような建物の群れだった。円形のドーム。凶暴なガスが詰まっているんだ。漆黒の煙を吐き出す煙突の群生林。環境問題などお構いなしか。人間は、世界の命を削って日々を生きている。世界が悲鳴を上げて助けを求めているのに、人類は気付いていない。気付かない振りをしている。誰か親切な人が気付いてくれると思っているのだ。
『アレが、偵察対象の工場のようだな』ヘルメットの無線が喋り出した。『気付かれないように、高度を維持しろ』
「了解です」
 何度か旋回を繰り返して、眼下の景色を頭に叩き込んだ。宗教団体が軍事工場を管理しているなんて、変わっているな。今じゃ当たり前の事なのかもしれない。コクピットに電子音が鳴り響いた。警告の音だ。レーダーに目を。敵の機影が表示されていた。発見されたか。軍事施設を飛び立った黒い機体が向かって来る。漆黒のF4ファントム2だ。
 ソエルは操縦桿を倒して、ラダーペダルを踏んだ。
 半ロールで離脱。
 アルヴィトがロールを繰り出した数秒後、機体のすぐ横を、赤い閃光が駆け抜けて行った。
 機関銃の弾が、アルヴィトの横を通り過ぎたのだ。
 降下反転。真下を確認。
 地面が上になった視界を、敵の戦闘機が飛んで行く。
 奴を撃墜して、ノワリーにアピールしてやる。
 水平飛行へ。
 フル・スロットルで上昇。
 アルヴィトを一瞥したファントムは、降下から上昇に転じていて、大きな弧を描きながら上昇して行く。
 遅いぞ! のろまな幽霊め! そんな速度じゃ、天国には行けないぞ。
 鋭いバンク。
 小さな回転半径で旋回。
 ファントムの背後を狙う。
 敵は一機。背後に張り付いてしまえば、撃墜を阻むものは何もない。
『駄目だ! 離脱しろ!』ノワリーの叫びが、ソエルの鼓膜を貫いた。
「離脱? 馬鹿な事を言わないで下さい! アイツを墜としてみせます! 私は飛べる! 空を飛んで、敵も墜とせるんだから! ノエルも見つけてみせるわ!」
 ブリューナクは、アルヴィトとは反対方向に降下反転していた。
 即座に上昇。
 だが、ファイティングファルコンとファントムには追いつけない。
 駄目だ! 
 このままでは、あの時と同じになる! 
 あの時? 
 二年前の記憶が、息を吹き返す。
 白いファイティングファルコンに乗っているのは――「彼」なのか?
 違う。
 スロットルを開きながら、ノワリーは虹の色を掻き回したような色の記憶に戸惑った。
 速度が上昇するにつれて、正体不明の記憶は海の底に沈んで行った。
 危険だとソエルに伝えたいのに、怒りに支配されている彼女は無線のスイッチを切っていた。
 距離は1000メートル以上離れている。追いつけるだろうか。
 ファントムは、緩慢に上昇して行く。機体トラブルに襲われたような動きだ。
 鋭い上昇と旋回。アルヴィトはたちまち追いついた。
 距離、100メートル。
 そこだ!
 機銃のトリガに指を乗せて、力を込めた。
 20mmバルカン砲の連射。
 しかし、ファントムは、ダンスのステップのような動きで回避する。
 距離50メートル、40メートル。
 じれったい速度で差が縮まって行く。
 照準を覗くソエルの額に汗が流れた。
 30メートル、20メートル。
 ついに、照準レティクルとコンバイナーに映っているファントムが、完全に重なった。
 トリガを押そうとしたその刹那、鈍い発射音と共に機体全体に衝撃が走った。
 ソエルは振り返る。
 一瞬、真紅の炎に視界を塞がれた所為で、何が起こったのか全く解らなかった。
 次の瞬間、炎を纏った敵機が降下して行き、その脇を掠めるように、ブリューナクが上昇して行った。
 目の前のファントムは、既に反転降下を行っている。
 アルヴィトも螺旋上昇で離脱した。
 上昇して行くソエルの目に上空に居る機影が映る。目線を下に転ずると、炎を噴いた敵機が完全に失速して、錐もみを繰り返しながら墜ちて行くのが見えた。途中で主翼が折れた敵機はそのまま地上に激突し、火の粉を撒き散らしながら爆発した。アルヴィトにもいくつもの穴が開き、そこから空気が侵入して、聞き慣れない不気味な音を奏でている。おまけに、昇降舵の一つが破損していた。
 六時の方向――つまり、背後から銃撃されたのか。ソエルは衝撃を受けた。ファントムを追跡するのに夢中で、後方の警戒が完全におろそかになっていたのだ。恐らく、上空から降下して来た敵機がアルヴィトの後方に張り付いて、機関銃をお見舞いしたのだろう。あと数秒長く機銃を食らっていたら、間違いなくソエルは撃墜されていた。
 ソエルの墜落の危機を救ったのはノワリーだった。アルヴィトに銃撃を浴びせる敵とほぼ同じタイミングで、20mmバルカン砲を放ったのだ。その結果、ソエルは離脱に成功して、彼女の身代わりとなった敵機は、炎に食い尽くされて墜落して行った。
 甘かった。ソエルに恐怖が襲いかかる。
 あと少しで、死神に魂を奪われる所だった。
 でも、躊躇している余裕を戦場の空は与えてくれない。
 高空から、二機の敵が降下して来る。
 ノワリーは何処だ?
 ソエルは空を見回した。
 アルヴィトよりも低空。ブリューナクが敵機に追跡されていた。
 ファントムともう一機。撃墜した戦闘機を含めると、敵は五機も居た計算になる。
 明らかに、罠だったのだ。ファントムが単機でソエルに緩慢な攻撃を仕掛けて、離脱する。故障が起きたように演技して、アルヴィトが追いかけて来るのを待つのだ。まんまと罠にかかったアルヴィトを、上空に待機していた列機が急襲するという作戦か。恐らく、経験の浅い列機に、実戦の感覚とスコアを与える為に、ファントム自らが囮になって仕組んだトラップだったのだ。
 簡単なフェイクに騙されるなんて!
 ノワリーを助ける余裕なんて、ソエルにはなかった。
 ソエルを助ける余裕も、ノワリーにはない筈だ。
 敵が降下して来た。
 半ロールで回避。
 降下旋回へ。
 すぐに食いつかれる。最悪だ。
 銃弾がボディを掠める。
 背筋が凍る嫌な音と共に、主翼に穴が穿たれた。
 スロットル・アップ。
 上昇反転。
 インメルマン・ターンで奴の背後に。
「そんな! 背後に回れない!」
 敵もインメルマン・ターンで追跡して来た。
 錐もみで離脱。
 無駄だった。瞬く間に追いつかれてしまう。
 しかもその間、もう一機の敵は、付かず離れずの絶妙な距離で付いて来ている。列機がアルヴィトを取り逃せば、すかさず攻撃態勢に入り。そうでなければ外側を固めて地道に待つ。攻撃役を担っている列機が疲労すれば、交代する事もあるだろう。
 これが、二対一の空戦の恐ろしさなのか。
 このまま逃げ続けても、必ず補足されてしまうだろう。体力も消耗するし、被弾すればする程、機体の損傷は増えて行く。それ以前に、気力が尽きて諦めてしまい、そこを撃墜されるというケースも、実際の空戦では度々起こる事だった。
 逃げ続けるのは嫌だ。
 でも、解決策が浮上してくれない。
 ソエルが戦っているのと同時に、ノワリーも苦戦を強いられていた。
 同じく二対一の圧倒的に不利な状況。
 しかし、ソエルよりも実戦経験を積んでいるノワリーは、流石に落ち着いていた。
 冷静な機動で敵の追随を回避し、時には攻撃を加える。
 だが、敵を回避しながらの攻撃は、ノワリーの心身を押し潰して行く。
 一対一なら、撃墜出来る可能性は充分あった。
 敵機、特にファントムは、執拗にブリューナクを追いかけて来る。
 ノワリーに出来る事は、急降下から速度をつけ、ひたすら逃走する事だろう。
 スーパーホーネットが急降下の負担に耐えられれば、ファントム達をギリギリで振り切れるかもしれない。 しかし、それでは、ソエルを殺す事になってしまう。
「ソエル!」
 ノワリーは必死にアルヴィトを捜したが、無情にも空は暗くなって行く。太陽が山脈の稜線に沈もうとしていて、大空を駆け続ける戦闘機の立体的な機影は、赤黒い空に飛び散った黒い染みのような形になっていた。そんな空の中で、激しい空戦の最中にソエルを捜し出す事は難しかった。墜ちて行く戦闘機は見えない。ソエルが生きている証拠だ。
 エレベータ・ダウン。
 地上すれすれの低空飛行。
 高度は10メートルを切っている。
 スロットル・ダウン。
 更に速度を落とす。
 巡航速度よりも低い、失速寸前のスピードだ。
 この失速を、ノワリーが諦めたと思いこんだ敵機が、絶好の餌食だと言わんばかりに食らいついて来た。
 奴の狙いは、降下したのち後上方に占位してからの決定的な一撃だ。
 ノワリーはスロットルを絞って、極端に速度を落とした。
 距離と速度の目算が狂った敵は、オーバースピードのまま射撃した。
 敵が撃った弾丸は、全てブリューナクの前方を通り過ぎて落ちて行った。
 敵は焦ったのか、射撃を続けたまま弾道を修正しようとしたが、機体のコントロールがおろそかになった。 機首を引き起こすタイミングを誤った敵は、ブリューナクを掠めると地上に激突して、炎と煙を生み出した。
 地上に発生した火柱を目撃したソエルは、覚悟を決めた。
「エリオットさんが――墜ちた? ううん、そんな訳ない! 私も……戦うんだ! 戦わないと――やられる!」
 大人の余裕に満ち溢れた敵は、ソエルを追い詰めて確実に撃墜しようとしている。しかし、絶対有利な状況に驕っているのか、自らが撃ち墜とされる事は想像していないようだ。安全に、尚且つ無理をせず、ソエルを撃とうと画策しているのだ。
 そのバランスを崩してやる!
 一か八か、螺旋上昇からフル・スロットルで、急上昇に入った。
 予想通り、追跡して来る。
 敵は、ソエルが自棄になって急上昇する程追い込まれていると思っているようで、悠然と追いかけて来た。
 四十度、五十度、六十度。上昇角度が大きくなる。
 高度4500メートル。エンジンが息をつき始めた。
 まだ、付いて来る気か?
 敵機との距離は、約100メートル。
 急角度の上昇に気付いている。ソエルが何をしようとしているのかも。
 一瞬早く、敵が反転降下。離脱する気だ。
 反転の瞬間、無防備な腹が上を向く。
 逃がさないぞ!
 左捻り込みで旋回。
 目を覚ます20mmバルカン砲。
 貪欲な銃弾は、敵機の白い腹部に吸い込まれて行った。
 その光景は、スローモーションのように、ソエルの青いスクリーンに映った。
 一発ごとに構造材が飛び散り、玻璃のように輝く破片を撒き散らす。
 胴体に洞窟みたいな大穴が開き、主翼の折れる音が鮮明に聞こえた。
 時間の流れが元に戻る。
 失速した敵機が瞬く間に縮小化して、見えなくなった。
 顕微鏡で覗いてみても、二度と見つからないだろう。
 勝利の歌は後回しだ。次の奴がやって来るぞ。
 フル・スロットル。
 エンジンが活性化した。遅かったか?
 アルヴィトを襲っていた二機一組の片割れが、相棒が撃墜されたのを目撃しながらソエルに襲いかかって来ない筈がない。おまけにアルヴィトは、エンジンの恩恵を失って、自由落下している金属の塊なのだ。
 敵が一機だけだったら、二回目の左捻り込みも有効だろう。
 模擬空戦でノワリーに勝利したように。
 だが、ソエルを狙っている敵は二機だ。
 一機を撃墜しても、その所為でもう一機に隙を与えてしまうのならば、それは既に戦術ではない。
 敵一機と心中する自殺攻撃だ。
 解っている。でも、それしか出来ないんだ。
 来る!
 敵にとってアルヴィトは、豪華なディナーのようなモノだ。
 ソエルは、今度こそ被弾を覚悟した。
 発射音と命中音。
 全身を貫く銃弾の感触と、衝撃を待ち構える。
 デートに遅刻したみたいに、銃弾の痛みも、衝撃も来なかった。
 ソエルは無傷だったのだ。
「えっ――!?」
 アルヴィトと敵機の間に、ブリューナクが割り込んでいたのだ。
 敵の射線にその身を投げ出したブリューナクは、ファントムの20mmバルカン砲を全て受け止めた。
「エッ――エリオットさん!」
 白煙を吐き出しながら、ブリューナクがフル・スロットルで上昇した。
 敵との距離、約130メートル。
 上昇した敵が機首を変えた。向かい合う形。真っ向から勝負しようという訳か。
 手負いのウサギを墜とすのに、緻密な戦術は要らない。
 バルカン砲が咆哮を上げた。
 弾丸の雨が、互いのボディに降り注ぐ。
 数発が翼に穴を穿いて、カウリングに激突した。
 耐え忍んだのはブリューナクだった。
 爆発。
 刹那、綿菓子のような黒煙がファントムを焼き尽くす。
 雨に打たれた亡霊は、地獄の底に墜ちて行った。
『……アート! ステュアート! 応答しろ!』叫ぶ無線。ノイズがうるさい。
「こっ――こちらアルヴィト! 問題ありません!」
『……無事なら、いい。基地に帰還する……コンバットスプレッドを崩すな。俺に……付いて来い……』
 二機の高度差は八メートル。ブリューナクが先頭を飛び、斜め後方三十度の位置をアルヴィトが占位する。 敵の群れは追跡して来ない。傷だらけのソエル達は、いずれ墜落すると踏んだのだろう。
 無線から流れて来たノワリーの声は、酷く弱々しかったような気がする。Gに押し潰されたのだろうか。ユグドラシル基地が誇るエースパイロットだ。そんな事はあり得ないだろう。
 二機はユグドラシル基地に帰還した。アルヴィトが完全に停止したのを確認して、コクピットから離脱。主翼を伝って地面に着地して、ソエルはブリューナクからノワリーが降りて来るのを待った。
 ブリューナクのキャノピィが開く。数分、数十分経ったのに、パイロットが出て来ない。ソエルはシルバーのボディに穿たれた黒い穴に気付いた。アレは被弾した跡じゃないか。まさか――。戦慄がソエルの細胞を撫で上げる。ブリューナクの主翼に飛び乗って、ソエルはコクピットを覗き込んだ。
 コクピットに押し込まれていたのは、コンソールに突っ伏すように倒れているノワリーだった。肩を掴んで揺さぶってみたけど、ノワリーは顔を上げない。肩から離脱したソエルの手に恐ろしいモノが付着していた。真紅の液体。これは血液だ。ソエルは怪我をしていない。なら、この血液の保持者は、一人しか居ない。
 ソエルはノワリーを固定しているベルトを外して、うつ伏せになっていた彼を仰向けにした。シートにもたれかかったノワリーの全身をスキャン。白いシャツに付いている赤い色を見つけた。ごめんなさい。心の中で謝って、ソエルはシャツを捲り上げた。胸じゃない。鳩尾でもない。ここだ。滑らかな脇腹を貫く銃創があった。コイツがノワリーの意識を奪い去ったのだ。
「……エ……ル……?」掠れたと息と共に吐き出される声。ノワリーが、意識を掻き集めたのだ。「ノエル……なのか?」
「エリオットさん? 喋っちゃ駄目です! すぐに救急車を呼んで来ますから!」
「ごめ……ん……俺は……お前を守れなかった……助ける事が出来なかった……。一緒に墜ちたのに、何で――俺だけが生き残ったんだ? 本当は……俺も、お前と一緒に死ぬ筈だったのに――ごめん……な……」
 途切れ途切れの意識の中、ノワリーはソエルを誰かと間違えているようだ。その言葉は断片的で、意味が掴みきれない。ノワリーの身体から力が抜けた。完全に意識を失ったのだ。
「エリオットさん! エリオットさん! しっかりして下さい! 誰か! 救急車を呼んで! お願い!」
 殺人鬼に遭遇した女性の悲鳴のようなサイレンの音が聞こえて来て、ソエルの視界の端に赤い光が映った。ソエルの救難信号を聞き、異常事態を察知した整備士が、救急車を呼んでくれたのだ。白いボディに赤い線がマーキングされた救急車が到着。コクピットから大地へ、慎重に降ろされるノワリー。救命士達がノワリーをストレッチャーに乗せて、車内に運び込んだ。患者を乗せた救急車が基地を走り去る。残ったのは、サイレンの音の名残だけ。
 血塗れのコクピットを見下ろしたソエルは、シートの隅っこで縮こまっている物体を見つけ、上半身を滑り込ませてそれを拾い上げた。チョコレートの銀紙のように、クシャクシャに丸められた薄い紙。ピッツアみたいな薄い紙。チーズもバジルもトッピングされていない。広げて、ソエルは衝撃を味わった。
 何故なら、それは、
 タロットカードのように、ソエルの運命を暗示していたから。
 暮れて行く空は、真っ赤に燃え盛っていた。


 空が真っ赤に燃えている。
 炎上して墜落して行く戦闘機の色を吸い取っているのだ。
 閃光。
 視界の端で光が爆発した。
 バイザーに映る、燃え盛る機体。
 踊り狂う炎の隙間から見えるのは、雲のように透き通った白いボディだ。
 あの色は知っている。
 何度も何度も、一緒に空を駆けた「彼」が乗る戦闘機。
 墜ちて行く「彼」に群がる敵機達。
 確実に息の根を止めようとしている。
 止めろ!
 俺はスロットルを押し上げる。それなのに、速度は上昇しない。
 何故だ? 操縦桿もぎこちない。
 HUDに表示されている情報は、空と同様に真っ赤に染まっていた。つまり、機体が危険な状態だという事を教えてくれているのだ。
 被弾したのか。
 銀色の戦闘機に乗った俺も墜ちて行く。
 空が遠く離れていく。
 夢から醒めようとしている。
 お願いだ。
 神様。
 もう少しだけ、
 空に居させて欲しいんだ。
 「彼」を助けたいんだ。
 俺の祈りは届かなかった。
 きっと、高度が足りなかったんだ。
 切り替わるシーン。目が覚めた。白い天井が視界に入る。天井が遠い。二段ベッドの上では無いようだ。目をぐるりと動かして、状況を確認。薬。包帯。医療道具が詰まった棚。白い壁に白いカーテン。漂白された色。大嫌いな色だ。ペンキがあったら黒く塗り潰してやりたい。
 乾いたノックの音。二回だ。喉を開いたけど、声は出なかった。入っていいよ。テレパシィを送る。エスパーじゃないというのに、俺の送ったテレパシィはドアの向こうの相手に伝わったみたいで、ゆっくりとドアが開いた。
「やあ。目が覚めたようだね。気分はどうだい?」
 部屋に入って来たのは、四十代前半の男性だった。マロンペーストの髪。中肉中背。白衣を羽織っている。何処にでも居そうな、ごく普通の中年男性に見えたけど、彼の灰色の目はどこか不気味だった。気分はまあまあだ。そう言おうとしたけど、俺の声は行方不明になってしまったのか、ちっとも音色を奏でてくれなかった。ベッドの傍らに立った男が優しく微笑む。
「喋れないのは当然だ。炎を吸いこんでしまって、喉が焼け爛れているんだよ。それにしても、あの高度から墜落してよく助かったね。まさに、奇跡の生還だ」
 やっぱり、俺は墜ちたんだ。墜ちた俺が居るここは、病院かもしれない。俺が運ばれたならば、「彼」もここに居る筈だ。奇跡の生還を果たしていると思いたい。男と目が合う。俺の言いたい事が解っているようだ。声が出ないのに、言いたい事が伝わるなんて。俺はエスパーだったのか。
「――残念だけど」男が首を振った。そして、左右に動かした首の影響でずれた眼鏡を押し上げる。「彼は助からなかったんだ。懸命な治療の甲斐もなく――死んでしまったよ」
 死んだ、だって? 冗談は止めて欲しい。嘘は嫌いだ。それに、嘘はエイプリルフールにつくモノだろう。この男は蛇の舌を持っていて、アダムとイヴのように、俺を堕落させようとしているんだ。
「嘘じゃないよ。本当に、彼は死んだんだ。ああ、駄目駄目。そっちは見ない方がいい」
 白い布が翻って、俺の視界を遮った。見せたくないモノが隣にあるようだ。でも、俺は見てしまった。隣にあるベッドに乗せられた、血塗れの足を見てしまった。戦慄。怖い。恐ろしい。アレはまさか――。ぬるい体温を宿した手が俺の頬を撫でた。手が動く。子守唄を歌う母親のように。
「さあ、少し眠るといい。次に目が覚めた時は、全て元通りになっているよ。君は元気になって、また空を飛べるようになっているからね」
 男が注射器を取り出して、細い針を俺の左腕に突き刺した。流れる液体。透明なのに濁って見える。
 暗い海の中へ意識が墜ちて行く。
 暗い。
 闇に押し潰されそうだ。
 俺は何処まで沈むんだろう。
 空から落とされた俺は、二度と浮上出来ないのか。
 底へ。もっと底へ。
 俺は深海に潜む魚。
 「進化」に失敗した、
 ヒトになれなかったサカナだ――。


 暗闇に身を沈めたソエルは、独りで壁際に蹲っていた。周囲にはダンボール箱が積まれていて、ダンボール特有の匂いと、部屋に舞い散る埃が、ソエルの鼻腔を刺激する。ここは、現在使用されていない宿舎の部屋だ。とはいっても、部屋と呼べるような程でもない。空を仰げる窓が切り抜かれていない、パイロットに配慮していないレイアウトだから、元々は物置だったのだろう。ドアの隙間から太陽の光が差し込んで来て、昼と夜の区別をソエルに教えてくれた。
 独断専行。命令不服従。二つの大罪を侵したソエルは、懲罰房入りという刑に服していて、既に二日目を迎えていた。懲罰房という名の、物置に近い部屋の片隅で、喋る事もなく毎日を過ごす。当然の如く、罪人であるソエルを訪ねる者は誰も居ない。ガゼルも、アレックスとイージスも。正当な用件があって許可を得られなければ、懲罰房に押し込められた者とは面会出来ない規則になっているからだ。
 食事や水は支給されるが、シャワーと風呂は使用を禁じられていた。朝と晩に、洗面器一杯の僅かな水で、顔を洗う事が許されて、生理現象は、部屋の隅に設置されている簡易トイレに済ませる。決まった時間に当番の兵士が取り替えてくれるのだが、ソエルは殆ど使用していなかった。そして、埃を被った食事。ショーケースのプラスティックサンプルよりも味気ない。食事には手をつけていない。別に、反抗している訳じゃない。ただ、ノワリーの事を思うと、呑気に食べる気になれないだけだ。
 恐らく、夜だと思われる時間帯。ソエルは胎児のように身体を丸めて、ダンボール箱に挟まれるように横になっていた。毛布は与えられているが、優しいベッドはない。寒くはなかった。けど、身体が震えて、歯が硬質的な音を立てた。一晩中覚醒していて、時折、ビニルプールのような浅い眠りに落ちる。しかし、すぐに目が覚めて、時には飛び起きる事もあった。そんな時は、心臓が早鐘の如く脈打っていた。身体は熱いのに、背筋を這い下りて行く冷や汗が、酷く不気味だった。まるで、誰かと悪夢を共有しているみたいな感覚。いっそ、このまま、心臓が活動を停止してくれれば、どんなに楽だろうか。そうすれば、ノエルが待っている空の上に行けるのに――。
 暗闇の濃度が薄くなって行く。まだ、太陽は昇っていない。夜明けが、ドアをノックしようとしているのだ。誰かが廊下を歩いて来る。金属同士が擦れ会う音。続いて、懲罰房のドアが開く。錆びた蝶番が軋んでいる。こんな時間に、食事は運ばれて来ない。誰? ソエルは薄く目を開け、入って来た人影を認識しようと瞬きをして、思わず身体を起こした。ドアの所に立っていた人物は、クラッド・エリオット大佐だった。
「エリオット大佐……」
「ソエル・ステュアート飛行士。航空団司令本部から、君に対する処分が出ている」
「えっ!? それは――」
 ソエルは息を呑んだ。処分とは、ユグドラシル基地、ヴァルキリーの上部組織に当たる、戦闘航空団司令部が下したもの。これで、ソエルの空軍パイロットとしての将来が確定してしまうのだ。
「処分って、どんな内容なんですか!? 私は――もう、戦闘機に乗れないんですか!? 空を飛べないんですか!?」
 二度と、戦闘機に乗れないかもしれない。
 二度と、空に戻れないかもしれない。
 どんな事をしてでも、
 どんな犠牲を払ってでも、
 手に入れたかった青い世界。
 ここで、パイロットの資格剥奪の処分が決定すれば、もう、空軍で、ヴァルキリーで飛ぶ事が出来なくなってしまう。
 それは、翼をもがれた鳥と同じようなモノだ。
 寝る間も惜しんで努力を重ねて、ようやく手に入れたソエルの世界が、取り上げられようとしている。
 ノエルに憧れて、
 追いかけて、
 今は行方を捜すという、ソエルが生きている理由が、
 意味が、
 ここで終わろうとしている。
 そして、もう、二度と永遠に届かないのだ。
 いつの間にか、ソエルの空色の瞳には涙が滲んでいた。
「本部は、私に判断を任せると言って来た」
「大佐に……ですか?」
 ソエルの未来を左右する運命の糸巻きは、クラッドの手に握られているのか。糸を紡ぎ続けるか、糸巻きを暖炉に放り込むか。全ては彼の気分次第なのだ。
「出なさい」
「えっ――?」
「懲罰房から出なさい、ソエル・ステュアート飛行士。君を、二週間の間、飛行禁止処分に処する」
「そんな……軽い刑でいいんですか?」
「ノワリーが、全ては自分の責任だと言い張った。君が解雇されるのなら、自分も辞職すると。クルタナ共和国で最高の撃墜王であるノワリーが空軍を辞めれば、大幅な戦力低下は免れん。幹部達の焦った顔は見物だった。無理もない。ノワリーの階級を上げて、いずれは空軍の広告塔として祀り上げようとしているのだからな」
「エリオットさんは――目を覚ましたんですか?」
「ああ。身支度を整えて、会いに行きなさい。きっと、彼も会いたがっているだろう」
「はっ――はいっ!」
 ミイラみたいに乾燥した身体を引き摺って、ソエルは独房を脱出した。シャワーを浴びて三日分の汚れを洗い落とし、食堂で軽い食事を胃袋に詰め込み、基地を飛び出して病院行きのバスに飛び乗った。屋根裏部屋を走るネズミみたいに小刻みに揺れるバス。虫の居所が悪いエンジンが、貧乏揺すりをしているのかもしれない。そんなバスを操っている運転手は凄腕だ。エースパイロットになれるんじゃないか。
 機銃の弾に身体を貫かれたノワリーは、二週間もの間、集中治療室で昏睡状態に陥っていたが、奇跡的に意識を取り戻して、一般病棟に移されたらしい。バスの運行掲示板に表示される病院の名前。ボタンを押して降車する意思表示。運賃を払ってバス停へ降りる。ソエルという荷物を下ろしたバスは、地平線の彼方へ走り去った。太陽に焦がされた上り坂を上って病院へ向かう。自動ドアをくぐって院内へ。フル稼働している冷房が、真夏の空気を追い払っていた。
 受付のカウンタの前に行って、ノワリーが入院している部屋の番号を訊いた。あの、モデルみたいな、素敵な彼ね。データベースを開いた受付の女性が微笑む。512号室。つまり、五階だ。エレベーターホールに行くと、エレベーターがソエルを待っていてくれた。見舞い客と患者と医師と看護師が入り混じった箱に詰められて五階に上昇。眩しい廊下を歩きながら、512号室を見つけた。
 面会謝絶の札はぶら下がっていなかった。ノックを奏でて室内へ。病室は個室だった。エリオット大佐の配慮だろう。ソエルの左側に白いベッド。正面に窓があって、右側にフラットな液晶テレビ。ベッドの脇にはサイドテーブルが縮こまっている。プラスティックのトレイに乗っている料理は手つかずのままだった。
 ノワリーは白い海に沈みこんで、窓ガラスの向こう側を眺めていた。無機質な街並みを眺めているんじゃない。その上に横たわる空を見上げているんだと思う。静かすぎる横顔。彼の美術鑑賞を邪魔したくないな。声をかけるのを躊躇っていると、ノワリーがソエルの存在に気が付いた。存在を知られたんだから、声を出さないと。でも、恥ずかしがり屋の声は出て来なかった。
「……久し振りだな」
「……はい」
「とりあえず、座ったらどうだ。馬鹿みたいに立ったままでいられると、落ち着かない」
 拒絶する言葉の代わりに、椅子に座れという命令が発せられた。手近にあった椅子を引き寄せて、ソエルはベッドの脇に腰掛けた。シーツの上を走る陽光の波を追いかけているノワリーは大人しい。白皙の顔。憂いに覆い尽くされて。白い喉は呼吸を繰り返している。忌まわしい悪夢を追い払おうとしているように。まるで、母親の胎内から生まれたばかりの赤子みたいだ。
「エリオットさん。私、貴方に謝りたいんです」琥珀の視線が上昇して、ソエルの所で停止した。何故だ。理由を訊いている。「私の所為で、大怪我を負わせてしまって――ごめんなさい。それに、私の責任だったのに、私を庇ってくれて――。退院するまで毎日来ます。何でもお手伝いします。飛べる日まで何でもします。許して欲しいなんて思ってません。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい――」
 空色の目から溢れた液体が頬を伝って、唇の隙間から侵入して来た。こいつは何だ。塩辛いな。味覚が味を吟味する。そう、これは涙だ。ソエルは泣いていた。泣きたいのは、ノワリーの方なのに。空から引き離されたんだぞ。ソエルを庇った所為で。
「声が、聞こえたんだ」
「――え?」
 不意に発せられた言葉の意味が知りたくて、ソエルは顔を上げた。涙の海に溺れた視界がかろうじて捉えたのは、身を乗り出してソエルを見つめるノワリーだった。深い琥珀色に、吸い込まれてしまいそうだ。
「ソエルを守れ。守ってくれ。俺の中で声が叫んだ。だから――あの時、俺は飛び出したんだと思う。俺が望んでした事だ。お前の所為じゃない。泣かないでくれ。目の前で泣かれると、どうしたらいいのか、解らないんだ」
 ノワリーの伸ばした指が、ソエルの目尻から涙を盗んで行く。しなやかな指。操縦桿を握っているなんて思えない。彼の手を掴んだソエルは、そのまま胸に抱き締めて、更に激しく泣いてしまった。ソエルに捕えられていないもう一つの手が、ソエルを引き寄せた。彼の胸に顔を埋めたソエルは、背中を丸めて縮こまった。洗濯に失敗したジーンズみたいに丸く、皺くちゃに。どうしたらいいのか解らないって困っていたくせに、最高級の慰め方じゃないか。
「――ノエル」
「今……何て言ったんですか?」
「は?」
 瞬きをしたノワリーがソエルを見下ろした。たった今、現実に戻って来たような顔だ。
「やっぱり――覚えているんじゃないですか! 知らないなんて、嘘だったんですね?」
「何を言っているんだ」
「ノエル・ステュアートの事ですよ! あの時だって、私をノエルと間違えたわ! 教えて! 彼は何処に居るの? 死んだなんて嘘なんでしょ? 教えてよ――!」
 ノワリーの胸から離脱したソエルは、彼が怪我人である事を忘れて、パジャマの襟元を掴んで激しく揺さぶった。嘘つき。嘘つき。私を騙したんだわ。壊れたエルロンみたいに、ソエルはノワリーを揺さぶり続けた。落ち着け。ソエルの両手が拘束される。くたびれた襟元を引き摺ったノワリーが彼女を見つめていた。
「ノエルなんて知らない」
「嘘よ」
「嘘じゃない。本当に、知らないんだ。俺には――二年前の記憶が無いんだ。気が付いたら、俺はユグドラシル基地に居て、当たり前のように空を飛んでいた。思い出そうとしても駄目なんだ。でも、最近は――」
 ノックの音が、恐らく重要だった彼の言葉を遮った。ガーゼと包帯を変える時間か。ドアを開けて、一人の女性が入って来た。珍しいな。看護師の制服を着ていない。栗色の髪を一本の三つ編みに束ねた、緑色の瞳の若い女性だ。ブーツを履いた看護師なんて見た事がない。モデルから転職したのだろうか。
「お久し振りね」女性が微笑んだ。緑色の視線はノワリーの上。彼の知り合いか? ノワリーは無表情。つまり、彼女と面識がないという事だ。「パイロットに復帰したと聞いて、驚きました。もう、飛べないと思っていたから」
「戦闘機乗りを、空から引き離す事は出来ませんから」
 驚く事に、ノワリーが返事を返したではないか。抑揚のない、国語の教科書を読んでいるような淡々とした口調だったけど、会話を円滑に進めるには充分だった。
「ええ、そうね。貴方に会いに行くのは危険だと解っていました。けど、どうしても貴方に謝りたくて、危険を承知で会いに来たの」
「貴女に謝られるような事をした覚えはないのですが」
「それは、貴方が覚えていないだけです」
「思い出せないだけかもしれない」
「二年前の記憶が途切れているから?」
「そうだと思う」
「どんな感じか説明出来る?」
「頭の中に、濃い霧がかかっていて、思い出そうとすると遠ざかって行く。電車の中から、通り過ぎる駅のホームを見ているような感じです」
「――そう。事態は深刻ね。あの、手を、見せてくれる?」
 いきなり何を言い出すんだ。手相でも見るつもりか。意外な事に、ノワリーは、素直に点滴のチューブが付いた左腕を伸ばした。垂れ下がった髪を耳の上に掻き上げた女性が、ポケットから注射器を取り出した。マスカラを少しだけ大きくしたような形。カバーが外される。細い針が彼の手首を貫いた。注射器を取り出してから、突き刺すまでの一連の動作は素早くて、ソエルが止めようと思った時には全てが終わっていた。正体不明の薬を打たれたノワリーが頭を押さえて身体を丸めた。彼の背中を、女性は優しく撫でる。キャノピィを磨くように。
「頭痛がするのね?」
「――はい。とても、酷い。色んなモノが流れ込んで来ます。万華鏡みたいだ」
「それは、貴方が忘れていた記憶です。自分をしっかり保って。記憶の波に流されないように」
「なっ――何をしたんですか? 人を呼びますよ!」
 ソエルは確信した。彼女は、看護師じゃない。どうする。ナースコールのボタンを押して、本物の医療従事者を呼ぶべきか。ソエルの意図を察知した女性がターン。真剣そのものの緑色の視線がソエルを貫いた。
「安心して。危険な薬ではありません。一時的にだけど、彼の記憶を取り戻して、守ってくれる治療薬です。それと、誰も呼ばない方が賢明です。彼を監視している奴等に気付かれてしまうわ」
 彼女は監視という物騒な台詞を口にした。無意識に、ソエルはドアに視線を送った。
「今は大丈夫。彼等は夢の中です。私が、飲み物の中に睡眠薬を入れておいたから」
「監視って――どういう事ですか? 一体、誰がエリオットさんを監視しているんですか?」
「ここは人の目が多いわ。準備が整い次第、私から連絡します。貴女達は、アレックスを知っているわね? あの子を通して連絡します。それまでは、私と会った事は誰にも言わないで頂戴。私を信じて。私は――貴女達の味方だから」
「信じられないと言ったら、どうしますか?」
 ノワリーが鋭く切り返す。沈黙。呼吸を終えた彼女が言葉を紡ぐ。
「貴方は、そんな事を言わないわ」
 ブーツのヒールを響かせた彼女が病室を出て行った。早足だったのは、彼等に気付かれる前に離脱したかったからだろう。
 初対面で、馴れ馴れしかった彼女を信じられる確証も、保証も何処にもなかった。
 なのに――。
 でも、何故だろう。
 彼女を信じてもいいと思った。
 色んなモノが沈殿して濁った地上にも、
 信じていいモノがあってもいいんじゃないかと思ったから。


 若者を楽園に誘う煌めく夏の季節が半分過ぎた頃、無事に退院したノワリーがユグドラシル基地に戻って来た。彼を出迎えたのはソエルとガゼル、アレックスとイージスだけで、相変わらず、他のパイロット達は彼を煙たがっていた。ソエル達は憤慨したけど、当の本人は全く気にしていなかった。孤独に慣れ切っているんだと思う。そんなの寂しすぎるよ。
「やあ、ソエル」
 賑わう食堂。隅のテーブルに座って、アイスティーを相棒にしているソエルの向かい側に、紅茶の入ったカップを携えたアレックスが着席した。穏やかな面に嵌め込まれた緑色の双眸は、真剣な輝きを帯びている。きっと、病院で遭遇した彼女の事だ。アレックスと彼女は、何らかの接点で繋がっているのだ。
「――病院で、姉さんと会ったんだね」
「アレックスさんのお姉さんだったんですか?」
「そう。彼女は、エレノア。俺の姉だよ。姉さんが、君とエリオットさんに会いたいって言ってるんだ。大事な事を話したいって。勿論、断る事も出来るよ」
「大事な話って……何ですか?」ソエルは問いかけた。答える代わりに、アレックスが首を振る。
「俺も訊いてみたんだけど、詳しくは教えてくれなかった。俺が言えるのは、ソエルとエリオットさんが知りたい事だと思う」
「私は――会いたいです。「彼」の事を教えてくれるんですよね? きっと……エリオットさんも、彼女に会いたいって言うと思います」
「解った。姉さんに伝えておくよ。エリオットさんにも言っておいてくれないか? それと、姉さんの事は内密に頼むよ。じゃあ、また後で」
「はい」
 紅茶を飲み終えたアレックスが立ち上がる。カップをカウンタに返した彼は、静かに出て行った。秘密の暗号で、エレノアと連絡を取りに行くのだろう。昼はパイロット。夜は華麗なる諜報員。まるで、スパイチームの一員みたいだ。
 ソエルも食堂から離脱。そういえば、イージスが言っていた。ノワリーは長時間のフライトに飛び立っていて、夜になるまで帰って来ないと。マナと燃料の補給は中継点にある基地で給油して、基地で休憩をとった後に、再び飛び立つらしい。復帰したばかりなのに、随分とハードなスケジュールだ。パイロットとしての能力を、再確認させられているようだと思った。
 西に沈む太陽。宵闇が月と星座を運んで来る。格納庫の正面に走る滑走路に、誘導灯が灯された。ここに滑走路がある事を、パイロットに伝える為だ。飛行士を導く光の道。なんてロマンティックな響きだろう。
 部屋に響く硬質的な音で、ソエルは目を覚ました。彼の帰りを待っているうちに、眠りの海を走る船に乗って、大海原を冒険していたようだ。ソエルを目覚めさせた音は続いている。控え目な音量だけど、お前がドアを開けるまで喚いてやるぞと訴えている。ガゼルを起こさないようにベッドから離脱。静かにドアを開けた。
 ドアの向こうに居たのは、ノワリーだった。焦げ茶色のフライトジャケット。白いシャツにライトグレイのズボン。いつもと同じ服装だ。ソエルが眠っている間に、フライトを終えて基地に帰還したようだ。誰も出迎えてくれなかった事が気に入らなくて、ソエルにクレームを言いに来たのだろうか。こんな夜更けに。それも、二人の麗しい乙女が眠る部屋に。
「エリオットさん。お帰りなさい。長時間のフライト、お疲れ様です」
「ああ、ただいま。……お前に、話したい事があるんだ。時間はあるか?」
 聞いたか? ワトソン君! 人嫌いのエースパイロットが、ただいまと言ったぞ! ソエルは顎の筋肉を引き締めて、開きそうになった口を閉じる。正面のノワリーは返事を待っている。丁度いいタイミング。ソエルも伝えたい事があったから。
「はい。あの、私も、エリオットさんに伝えたい事がありますから」
「少し、長い話になりそうなんだ。とりあえず、外まで来てくれ」
 踵を返したノワリーは、廊下に広がる暗闇に消えて行った。床の上で大人しくしているジャンパを羽織って、ノワリーが待つ外に出る。外界は意外に冷えていた。夏のくせに生意気な。ノワリーは、搭乗員宿舎の前に居た。外壁に背中を預けて、天体観測をしている。滑走路に佇むブリューナク。整備士が仕舞い忘れたのだろうか。星空からソエルへ。琥珀色の視線が動く。ソエルに気付いたノワリーが離脱。理科の授業は終わったようだ。
「お待たせしてすみません」
「いや、いいんだ」
「それで……お話って、何ですか?」
「あまり、人目につきたくない。格納庫の中に行こう」
 格納庫のシャッタから、整備士達がお菓子を見つけた蟻みたいに出て来た。今日の仕事を終えて、街にあるバーにでも行くのだろう。暗く染まった滑走路を渡って、消灯時間を迎えた第一格納庫へ入る。電気のスイッチをONにする必要はなかった。窓から差し込む月光が、格納庫を明るくしていたから。地球に優しい自然エネルギーだ。アルヴィトの前でノワリーが立ち止まって、振り向いた。ここで話そうという事か。
「伝えたい事とは――何だ?」
「病院で会った女性の事です」
「病院?」ノワリーの眉根が眉間に接近した。「俺は、病院に行った覚えはないぞ」
「えっ――? 覚えていないんですか? 数ヶ月前、ミッションで私を庇ってくれた時に怪我をして、ずっと入院してたじゃないですか。私がお見舞いに行った時に、彼女と会ったんですよ」
 片手で頭を押さえたノワリーが目を瞑る。頭蓋骨の内側で鳴り響く頭痛と格闘しているみたいに。例の頭痛か。彼の端正な顔は青白い。疲れの所為か、それとも、別の理由だろうか。瞬き。僅かに頷くノワリー。記憶を引き揚げる事に成功したようだ。
「――彼女の事だな。確かに、俺は病院に入院して、病室で彼女と会った。すまない。近頃――変なんだ。少し前の出来事が、思い出せない時が何度かあるんだ」
「いえ、謝らないで下さい。彼女はエレノアさんといって、アレックスさんのお姉さんだったんです。大事な話がしたいから、私とエリオットさんに会いたいと言っていました。準備が整ったら、連絡してくるそうです」
「大事な話――か」壁際に移動したノワリーが、腕組みをしてグレイの壁に背中を預けた。「きっと、ノエルに関係する事だろうな」
「多分、そうだと思います。私とエリオットさんが知りたい事だと聞きましたから」
「お前とノエルは、どういう関係なんだ? 教えてくれ」
「私とノエルは――」
 ソエルも場所を移動して、ノワリーが佇む壁際ではなく、純白のファイティングファルコンの側に行った。「彼」の事を思い出すのは辛いけど、アルヴィトの近くに居れば、白い戦闘機が痛みを和らげてくれると思ったからだ。
「兄妹なんです。ノエルは五つ年上のお兄ちゃん。私達の両親は、自動車事故で亡くなって――それからずっと、ノエルが親代わりになって、私を育ててくれたんです。私がパイロットになったのは、ノエルと同じ空を飛びたかったから。いつか、きっと、彼と一緒に空を飛べると信じていたんです。でも――ノエルは何処にも居なかった。地上にも、空の上にも――」
 肺腑を切り裂くような悲しみが競り上がって来た。必死で堪えようとしたけど、即席の堤防を作るよりも早く、涙が目尻から溢れ出す。すぐ後ろに感じるノワリーの気配。情けない泣き顔を見られたくないの。白いボディに額を押し付けて、ソエルは彼の視界から逃げ続けた。ソエルの両肩に添えられた手が、彼女を振り向かせた。真っ直ぐな眼差しが、ソエルを見つめていた。
「そうか――お前とノエルは、兄妹だったのか。だから、お前は必死でノエルを捜していたんだな。そうとは知らずに、俺はお前に冷たくした。……許してくれ」
「……謝らないで。本当の事を言わなかった私が悪いんですから」
「ソエル」
「はっ――はいっ?」
 いきなり名前を呼ばれて、ソエルは上ずった声で返事を返してしまった。金属同士が擦れ会う感じ。簡単に言うと、裏声だ。いつもファミリィネームで呼ぶくせに。不意打ちなんて卑怯じゃないか。どういう心境の変化だ。
「思い出したんだ。ノエルの事を。俺とノエルは、バディだった。一緒に空を飛んでいたんだ。アイツは綺麗な飛び方をする奴で、俺にとって、最高のバディだった。ノエルが居てくれたから、俺は――息苦しい地上で生きて来られたんだ」
「思い出したって――本当ですか?」
「ああ。多分、あの薬のお陰だと思う」
「話して……くれませんか。兄さんが墜ちた時の事を……」
 流れていた時間が堰き止められた。ようやく、ノワリーが口を開く。真実を紡ぐ為に。
「……ああ」
 ノワリーが息を吐き出した。格納庫を包む空気は冷たい。語り始めたノワリーの横顔は闇に溶け込み、その表情を隠している。ノワリーの紡ぎ出した長い物語は、何度も途切れながら、青い時間に沿って流れるように続いて行く。痛みを伴う記憶に、ノワリーが口を閉ざすと、ソエルが彼を促した。
 ノワリーがノエルと出会ったのは三年前で、最初は水と油のように混じり合わず、反発しあっていた。正確に言えば、反発していたのはノワリーの方で、歩み寄ろうとしてくれたノエルの優しさを跳ね除けていたのだ。しかし、時が経つにつれて、二人は気心の知れ会った親友同士になっていた。そして、二年前の中央海上空戦が、二人の運命を決定づけたのだった。
「エリオットさんって、人嫌いだったんですか?」
「まあ……そうなるな。大佐の息子の俺に取り入ろうとしてくる奴等が鬱陶しくて、いつも独りで居た。空と戦闘機さえあれば、生きて行けると思っていたんだな。戦況は最悪で、俺とノエルは二機編成(ロッテ)を組んで、チームメンバーを守っていた」
 ノワリーは目を閉じた。その日の情景を、瞼の裏のキャンバスに描くように。熾烈な戦場の空を駆けるブリューナクと、ノエルの機体ヴァルハラが、ソエルの脳裏に映し出される。
 高度3000メートルで定常旋回をしている時、雲の切れ目から降りて来た敵機が見えた。
 数は一機。こちらに背中を向けて、優雅に飛んでいる。ノワリー達には気付いていないようだ。こちらに気付いていない敵は絶好の相手だが、ノワリーは嫌な予感を感じた。慎重に追跡するか、あるいは、より高空に占位して、周囲を確認すべきだと思った。
「高度を上げて、周囲を確認しよう」
『解った』
 無線を媒介にして指示を出す。
 白いファイティングファルコン――ヴァルハラが上昇を始める。
 ノワリー達は、悠々と飛行する敵機から距離を置いて、様子を見ようとした。
 その時、味方機のF22ラプターが突撃して来て、たった一機で降下を始めたのだ。
 敵機に向かって速度を上げて行く。明らかに、敵を撃墜するコースだ。
「俺は、味方に戻るように指示を出したが、無駄に終わった。多分、そのパイロットはビギナで、戦果がなかった。初撃墜をしようと焦っていたのだろう。それに気付かなかった、俺が迂闊だった」
 すぐさまノエルが追いかけた。ノワリーも続いたが、最初のダッシュに出遅れたのが災いして、ヴァルハラに大きく差を開かれてしまった。
 味方機は、緩やかな後上方から敵機に接近しようとしていた。
 理想的なアプローチだが、真っ直ぐ近付いて行く進路は敵に発見されやすい。
 それでも敵機は針路を変えず、味方の攻撃は成功するかのように見えた。
「その時だ。更に上空の雲間から、二機の敵が降りて来た。そして、ラプターに銃撃を浴びせかけた」
 明らかに敵は狙っていた。
 悠然と飛行する単独機は囮だったのだ。
 この時、味方が一撃で撃墜されなかったのは、ノエルが必死に、更に後方から銃撃を続けていたからだろう。
 彼の攻撃は命中しなかったが、危険だと判断した二機の襲撃者は、上昇しながら退避した。
 ラプターはエンジンに被弾したのか、白煙を噴き出し始めていた。
 そのまま離脱すべく、戦場を離れようと動く。
 味方がすぐに墜とされなかったのは、傷を負ったウサギは好きな時に撃墜出来ると判断が下り、新手のヴァルハラに敵が標的を変更したからだろう。
 ヴァルハラは一直線に突撃すると、すぐさま旋回して離脱しようとした。
 しかし、ヴァルハラの大回りの旋回に対し、敵は小さく旋回して背後に密着した。
 二機は仲良く旋回しながら降下して行った。
「俺はノエルを助けようと、フル・スロットルで降下して追いかけた。味方の事は、頭から消えていた。とにかく、ノエルを助けたかった」
 二機は高度をかなり落としていた。
 危険と隣り合わせの低空を飛行している事に気付いたヴァルハラが上昇した。
 敵機も続く。
 そこへ、ブリューナクは飛び込む。
 だが、ノワリーは速度を出し過ぎている事に気付いた。
 このままでは、相手を撃つ前にオーバーシュートしてしまう。
 急制動をしなければ。
 エレベータ・アップ。
 急上昇の操作をする。
 機体の速度が一気に落ちた。
 同時に、身体が前へ傾いて、コンソールに押し付けられる。
 この時、ブリューナクの射界に、願ってもいない位置で敵が飛び込んで来た。
 距離は20メートルもない。絶好のチャンスだ。
 撃つ事さえ出来れば――確実に墜とせる。
「機銃のトリガを握った。激しく、これ以上ない程に、強く。しかし――弾は出なかった」
「何で!? どうして!?」
 ソエルは叫んだ。まさか、ノワリーが安全装置を外し忘れたのか?
「とにかく、弾丸は一発も出なかった。あとで解った。あまりに急激な減速の所為で、機関砲の薬莢搬送ベルトに、不具合が生じてしまったと」
「そんな――」
 機関砲を犠牲にしてまで減速したのに、ブリューナクはスピードを殺しきれなかった。
 ブリューナクはそのまま敵機を追い越して、一瞬、ヴァルハラと並んだ。
 刹那、敵機の20mmバルカン砲が、ヴァルハラを貫いた。
 一瞬にして翼が折れ、まるで、巨人に踏み潰されたように機体が潰れた。
 失速したヴァルハラは、翼を焼かれたイカロスのように墜ちて行った。
 ほんの少し前まで、身軽に空を飛んでいたのが嘘のように。
 墜ちて行くヴァルハラにノワリーは叫び、近寄ろうと急降下した。
 しかし、追いつく事は出来なかった。
 コクピットからノエルが脱出する事もなかった。
 垂直に森へ墜落した機体は、鈍い轟音と震動を上空に響かせた。
 ノワリーは、ノエルの墜落地点でその死を悼む事すら出来なかった。既に二機が撃墜され、ブリューナク一機に対して三機の敵が襲いかかっていた。四面楚歌の状況。これでは勝ち目はない。
「ここは逃げるべきだったが、俺は怒りで我を忘れていた。死に物狂いで、敵に食い付いて行った。しかし、二機の追跡を振り切る事は出来なかったんだ」
 必死に敵機を追跡するブリューナク。
 背後に張り付いた二機が、交互に銃弾を浴びせて来る。
 かろうじて回避行動をとっていたが、ついに銃弾を受けてしまい、力を失ったブリューナクは墜落した。
 燃える燃料。
 火を消してくれる整備士は居ない。
 失速。
 機体は墜ちて行く。
 彗星のように尾を引きながら。
 煌めく光ではない、黒い煙の尾を。
 炎が皮膚を舐めて、狂おしそうに踊る。
 灼熱の業火が、ノワリーの記憶を焼き尽くした。
「そこで、俺の記憶はなくなった。気が付いたらユグドラシル基地に戻っていて、昔と同じように空を飛んでいたんだ。いや、違うな、同じじゃない。もう、ノエルは居ないんだ――」
 ノワリーの吐いた息と共に、残酷なフェアリィテイルは幕を閉じた。
 ソエルは涙を流していた。溢れる涙を止める事も出来ないまま、ただ泣きじゃくる。
「うぅ……くぅぅ……兄さんっ……」
 家に届けられたのは、たった一枚の白い紙、戦死の公報だけだった。
 今、初めて、
 ソエルはノエルの死の有様を知ったのだ。
「……すまない」
 ノワリーは、それだけしか言えなかった。ソエルは何度も首を振って、泣き続ける。
 彼女が首を振る度に、朝露のように透明な雫が宙を飛ぶ。ソエルの涙を消し去る魔法の言葉も思いつかず、どんな態度で接したらいいのか、ノワリーには解らなかった。何度も何度も躊躇した挙句、ノワリーはソエルの華奢な肩を抱いた。
「うっ……くぅぅ……うええええんっ!」
 肩を抱き締めた途端、ソエルが抱き付いて来た。ノワリーの首にしがみ付き、胸に顔を埋めて、嗚咽を隠す事なく吐き出し続ける。ノワリーは動揺しながらも、ソエルの背中に腕を回して、その金色の髪を優しく撫でた。悪夢にうなされる子供を慰めるような、愛情に溢れた動作で。ソエルの涙はいつまでも続き、やがて、ノワリーの琥珀色の瞳までも濡らした。
「……ごめんなさい」
「何で、謝るんだ」
「兄さんを最後まで守ろうとしてくれたのに、人殺しだなんて酷い事を言いました。卑怯者だと罵りました。命令を無視して、敵を追いかけて、簡単に罠にはまった。まるで、兄さんが撃墜された時と同じでした。これじゃ、私が兄さんを死なせたのと……今度は、エリオットさんを失う所だった。勝手な事をして、皆に迷惑をかけて、貴方まで……私は――最低な人間だわ」
「――そんな事はない。お前は――君は、最低な人間じゃない」ノワリーは小さく答えた。ソエルと触れ合っている部分が温かい。「ノエルの最期の時を見た時から、俺は、全てを捨てる事しか頭になかった。銃殺でも、絞首刑でも、死ねるのなら、そうして欲しかった。俺には、もう、何もなかったから――」
「もう、いいんです! もう――」
 ソエルは、ノワリーの手を握った。やや遅れて、ノワリーも彼女の手を握り返す。
「エリオットさんは……最期まで兄さんを想ってくれました。私は、ようやく、やっと、兄の魂に触れる事が出来ました。だから、もう、いいんです」
 ソエルの指を一つずつ確かめるように、ノワリーの手が握り締めた。
「お前は……ノエルを見つける為に、パイロットになったんじゃないのか?」
「はい。今でも、その気持ちは変わりません。エリオットさんと一緒に空を飛んで――ノエルの魂を導いてあげたいんです」
「そうか――でも、俺は、地上で生きて欲しいと思っている。二度と空を飛ぶ必要のない、平和な地上で……」
「兄さんも……同じ事を言っていました」
「ノエルは、彼は、戦争を嫌っていた。時間が経つと共に激しく、情け容赦なくなる戦闘を――」
 ノワリーの耳の奥に、ノエルの声と言葉が蘇った。
『ノワリー。時々、僕は考えるんだ。僕達は、僕は、ただ、空を飛んでいたいだけなのに――いつから互いを殺し合うようになってしまったんだろう。大空を駆ける者達は、地上の束縛を嫌って自由を選んだ者達だ。地上の価値観なんて興味なくて、ただ、あの広大な青の懐に抱かれたいだけなんだよ。一体、いつから戦闘機を、人を撃墜する必要性が生まれてしまったんだろう』
 ノワリーは、初めて大粒の涙を零した。真珠のような涙を抑えようと空を仰ぐ。抑えきれなかった涙が、堪えた嗚咽を道連れにして落ちて行く。忘れていた記憶が心を抉る。半身を失ったような痛みを、両腕を広げて受け止めた。この痛みと哀しみは、ノエルが感じていたモノだから。
「素晴らしい、人だった。生きていたら、きっと、お前と一緒に、幸せな人生を楽しんでいた。そんな素晴らしい男の妹を……死なせたくないんだ。戦場の空を、飛ばせたくないんだ――」
「ノワリーさん――!」
 ソエルは、ノワリーの唇に、自らの唇を重ねた。
 涙の海を彷徨う琥珀色の双眸が見開かれる。
 小鳥の囀りのような、軽い口づけ。
 甘く、切ない味が、二人の唇に染み渡る。
 何故、こんな事が出来たのか解らない。今まで抱き締められていたのは、ソエルの方だった。
 でも、今は、プレゼントされた温もりを返したかった。
 彼の涙を止めたかった。
「ソエ……ル……」
「何も言わないで……言わないで下さい……」
 ソエルはノワリーを抱き締めた。
 抱き締めたかった。
 腕の中に閉じ込めて、気が済むまで泣かせてあげたかった。
 彼を抱くには、ソエルの身体はあまりにも小さく、腕は背中を一周出来なかった。
 それでもいいじゃない。
 地球を回る月だって、時間をかけて周回しているのだから。
 月光のスポットライトに照らされて、ソエルとノワリーは抱き合った。
 二人で一緒に、狭いコクピットに座って、輝く月を眺めた。
 頬に寄り添う彼の体温が、とても心地よかった。
 これから待ち受ける運命を知っていたら、
 きっと、二人はスペースシャトルに乗って、38万キロメートル彼方の月まで逃げていただろう。
 残酷な運命を知る由もない二人は、いつまでも地上に留まっていた。
 いつまでも――。