雲の隙間から差し込んだ陽光が、透明な玻璃の壁を突き抜けて、白いデスクを七色のスペクトルに染めあげている。光を反射した真っ白なデスクは容赦なく視界に侵入して来て、さあ、目を細めるんだと偉そうに命令して来るのだ。そんな事出来る訳ない。ソエルはそう思った。デスクに座る人物に誤解されてしまう。大抵の場合、目を細めていると、アイツは怒っていると思われてしまうからだ。
 ユグドラシル基地の指揮官が鎮座するオフィスは、オフィスビルの三階に設置されている。そこは滑走路に面していて、運が良ければ離陸と着陸する戦闘機に出会えるだろう。しかし、常にとは解らないけど、ウンザリする程の騒音に悩まされているに違いない。額縁に封印された勲章や賞状が壁一面に張り付いていて、指揮官の過去の栄光を華々しく語っている。シンプルなのは、本棚と観葉植物くらいだろう。
 ソエルの正面に居るのは、ユグドラシル基地の指揮官を務めているクラッド・エリオット大佐だ。四十代後半。染色体はXY。濃い緑色の髪は短く刈り込まれていて、ありとあらゆる全ての甘さを削ぎ落した、鋭く精悍な顔立ちだ。漆黒の空軍の制服が逞しい体躯を覆っている。女性からして見れば、仕事一筋のストイック感が魅力的なんだろう。
「ソエル・ステュアート」
 デスクに腰掛けている男性が声を出して、折り畳んでいた身体を持ち上げる。ブラックコーヒーみたいなバリトン。彼の外見に相応しい声だ。答える代わりに敬礼を。真新しい制服の袖がギュッと伸びる。
「これが正式な契約書だ。今週中に提出しなさい。それと、基地のシステムに慣れるまでの間、君にバディ――パートーナーを付けよう。多少扱いにくい人物だが、有能だ。色々と教えてくれるだろう」
「ありがとうございます」シルバーのクリップで束ねられた契約書を受け取って、二回目の敬礼をする。
「基地の事を知りたい時は、君と同室のガゼル・ブルーに尋ねなさい。数日間、君にミッションは出ない。新人と言う事を考慮した結果だ。悪く思わんでくれ。話は以上だ。ゆっくりと身体を休めるといい」
「了解しました。失礼します」
 三回目の敬礼。一礼したソエルは、勲章や賞状で彩られたオフィスから離脱した。パチパチと瞬きをして眩しさを追い出す。廊下を歩いてエレベーターに乗り込む。エレベーターの脇に階段があったのを思い出したけど、楽をしたかったから鋼鉄の箱に愛を告白した。鋼鉄のボーイフレンドは、無表情を保ったまま一階のロビィに到着した。ソエルがロビィの床に足を乗せると同時に、入口のドアが開いて、一人の少女が入って来た。
「……アンタが、ソエル・ステュアートか?」
「え? はい。そうですけど……貴女は?」
「オレはガゼル。ガゼル・ブルーだ。アンタと同室さ」
 年齢はソエルと同い年だと思うけど、小柄で童顔だから幼く見える。うなじまで伸びたミッドナイトブルーの髪は、船舶を固定する碇みたいにピンと跳ねている。瞳は濃い紫だ。白い肩を剥き出しにしたパンク系の黒いシャツに、インディゴブルーのデニムのショートパンツ。白黒のボーダー柄のニーハイソックスという服装だ。それにしても、一人称が「オレ」の女の子なんて珍しいな。
「期待の新人さんに基地を案内して差し上げろと命令されたんでね。面倒臭いけどよ、何処から見たい? 言ってみな」
「じゃあ、お言葉に甘えて……そうですね、格納庫が見たいです」
「あいよ。んじゃ、行きますか」
 口元を斜めに吊り上げたガゼルが先頭を行く。口調は荒いけど、優しい少女だとすぐに解った。恐らく、彼女もユグドラシル基地に所属している戦闘機乗り――パイロットなんだろう。どの機種の戦闘機に乗っているのか気になった。親睦を深めれば、いずれ教えてくれるだろうか。
 オフィスビルの前には、果てしなく続く灰色の滑走路が走っていた。ビルの隣に搭乗員宿舎。赤茶色の屋根を帽子みたいに被ったペンションみたいな建物だ。ビルの隣とはいっても、遠くもなく、近くもない距離で隔てられている。滑走路の向こう側に並ぶ建物が、戦闘機を収納する格納庫だ。第一、第二、第三と分けられていて、ソエルが所属する事になるチームが使用しているのが、第一格納庫らしい。第三格納庫の脇にあるのが倉庫で、役に立つ物から立たない物まで、多種多様な物が押し込められているそうだ。
「それにしても、こんな辺鄙な基地に来るなんてよ、物好きな奴だな。自分から希望したんだって? 何でだ?」
「それは……私、ちょっと、捜している人がいて、ユグドラシル基地に配属されたと手紙に書いてあったので……」
 「彼」の事を思い出すと、無意識に声が暗くなってしまう。本当は、詮索して欲しくないんだけど、同僚とスムーズな人間関係を築くには、自分にとっては嫌な質問でも、笑顔で答えないといけない。ガゼルは一度だけ頷くと、それ以上、踏み込んで来ようとはしなかった。見た目はロック歌手みたいに近寄りがたいけど、やっぱり優しい女の子なんだな。
 滑走路を横断して反対側へ移動する。車は突っ込んで来なかったし、歩行者も飛び出して来なかった。蛇腹模様のシャッタは開いていて、モーターが唸る音や、機械が振動する音が漏れていた。シャッタをくぐるガゼル。ソエルも後に続く。灰色の深海。左右の壁に嵌め込まれた窓が、光と空気を送り込んでいる。整備士の姿は見えない。休憩時間だろうか。広い室内に対して、保管されている戦闘機は三機という少ない数だった。
 一機目の戦闘機は、F15ストライクイーグルと呼ばれる機種。二十数年前に開発された機体は全長十九メートルを超す機体にも関わらず、航続距離、速度、機動性に優れている。胴体側面に大きく膨らんだ燃料タンクに、LANTIRN(ランターン)システムと呼ばれる赤外線監視装置、地形追随レーダーを搭載している。ボディは鮮やかなジェイドグリーンに塗られていた。
 二機目はF35Aライトニング。究極のマルチロールファイター、最後の有人戦闘機など、様々な言葉で形容される現在開発中の戦闘機だ。空軍型、海軍型、垂直離着陸が出来るタイプがあるが、目の前にあるライトニングは空軍型だ。三機目は大型の機体。四機目の戦闘機は、真っ青なブルーシートで覆われていた。多分、これがソエルの戦闘機だと思うけど、まだお披露目の時ではないようだ。
「ガゼル?」
 柔らかいボーイソプラノの声が反響した。F15の陰から若者が顔を出している。顔が引っ込む。次いで、全身が現れた。フワリと癖の付いたマロンペーストの髪に、少し垂れ目なエメラルドグリーンの瞳。フェイクファーの付いた焦げ茶色のミリタリージャケットをサラリと着こなしている。まだ若い。ティーンエイジャーだろうか。それに、背が高い。180はありそうだ。
「どうしたんだ? もしかして、スクランブル?」
「馬鹿、ちげーよ。新人に格納庫を見せに来たんだよ」
 自己紹介しろよ。紫の目がソエルに合図を送る。戦闘機に見惚れていて、危うく忘れる所だった。自己紹介は人間関係をスムーズにしてくれる潤滑油だから。
「ソエル・ステュアートです。本日、ユグドラシル基地に配属されました」
「俺はアレックス・フォン・アルジャーノン。長い名前だけど、宜しく」
 ユーモアを交えた自己紹介に緊張がほぐれた。微笑みと握手を交わす二人。大きな手だ。きっと、華麗に操縦桿を操っているんだろう。
「でも、チームヴァルキリーに新人が配属されるなんて、珍しいな」
「ヴァルキリー?」
 アレックスの緑の瞳を見つめて、ソエルは聞き慣れない言葉をオウム返しした。
「この中隊の、コードネームだ」ガゼルが答える。
「クルタナ共和国第二航空団所属、第555飛行中隊、通称ヴァルキリー。それが、俺達が所属する隊の名前だよ。ヴァルキリーは独立した飛行中隊だから、コードネームが与えられているんだ。他の二チームも、それぞれコードネームが与えられているよ」
 爽やかな微笑みを絶やさないアレックスが、親切丁寧に説明してくれた。人柄の良さが滲み出ている。先輩と後輩という面倒な垣根は作らないタイプだろう。それにしても、広大な格納庫だ。四機しか収納されていないとはいえ、その規模はクルタナに点在する基地の中でも一、二を争うんじゃないか。ブルーシートで隠された機体の隣のスペースが空いているのに気付いた。
「すみません。あの機体の隣が空いていますけど……戦闘機を置いていたんですか?」
 ガゼルとアレックスが、同時に空白になっているスペースに目を向けた。
「正確に言えば、置いていたんじゃなくて、置いている、かな。あのスペースは、俺達のチームの――」
 キーンと響くエンジンの音。発生源は天井。つまり、遥かなる高空からだ。話すより見た方が早いよ。行こうか。アレックスがソエルを外に誘い出した。晴れ渡る青空の眩しさに目を細めて、ソエルは音の発生源を探す。青い世界に浮かぶ黒点。少しずつ、大きさを増して行くソレは、一機の戦闘機だった。速度を落とさないまま滑走路に近付く戦闘機。間近で見て、ようやく機種が解った。
 高潔な騎士が掲げる槍のように輝く、銀色の戦闘機。F/A18スーパーホーネットだ。ホーネットを全面的に改修した結果、全長は1.3メートル伸び、主翼の面積は二十五パーセントも大きくなった。その特徴は大型ディスプレイを多用したコクピットだ。たった一人で空中戦から地上攻撃まで任務をこなせるように、操作の単純化が図られているのだ。
 機体下部から伸びた車輪がコンクリートの滑走路に触れた。
 エレベータ・アップ。
 スロットル・ダウン。
 着陸すると思った刹那、速度を上げたスーパーホーネットが滑走路を駆け抜けて、再び離陸して行った。
 着陸してから間髪入れずに離陸する、タッチ&ゴーだ。
 一直線に舞い上がるスーパーホーネット。
 銀色の衣装を身に纏った踊り子は、大空の舞台でワルツを踊り始めた。
 180度のロール。
 背面になったホーネットは上昇して行く。
 パイロットは、アウトサイドループをやるつもりだ。
 アウトサイドループとは、通常のループとは逆に、背面姿勢から開始する。通常では円運動の中心が常に機体の上方にあるのに対し、アウトサイドループは機体の下方に円運動の中心があるのだ。その為、全身が持ち上げられるようなマイナスGが、パイロットに襲いかかってしまう。
 マイナスGなどものともせず、スーパーホーネットは真昼の空に美しい満月の軌跡を描いた。
 エレベータ・ダウン。
 降下速度をつけたホーネットは、二回目の上昇に入った。
 約三十度の急な角度。ホーネットは上昇を止めない。
 1500、2000、2500、そして、3000メートル。
 高空へ昇れば昇るほど、気温は低くなるのがセオリーだ。大体、1000メートルで六度下がり、3500メートルだと二十度は低下する。地上が摂氏二十度でも、3500メートルの上空では零度を下回っているのだ。更に、時速120から130キロの速度が加算されている。コクピットから這い出れば、一瞬にして凍死してしまうだろう。
 それに、高空の空気密度の薄さは、エンジンだけでなくパイロットにも牙を剥く。空気が薄くなれば、必然的に呼吸が辛くなる。その状態で長く居続けると、酸素不足で脳に深刻な影響を与えてしまうのだ。それを避ける為に、酸素マスクの装備は、パイロット達に義務付けられている。
 スーパーホーネットが鋭い動きで左にバンクして行く。
 殆ど垂直に近い。
 背面。
 一回転。
 一気に100メートル以上もダイブする。
 それから、急激なスピンが始まった。
 一、二、三回転。
 スーパーホーネットは、2000メートル近く降下した。
 四回目のスピンでスーパーホーネットは回復し、再び上昇して行った。
 スピンとは、失速状態で連続的に旋転しながら降下する機動の事で、錐もみとも呼ばれている。機体を意図的に失速させながら旋転を持続させる為、比較的リスクが高い機動だと言われているのだ。この他に、ピッチ角が水平状態で旋転・下降するフラット・スピンや、背面姿勢で旋転するインバーテッド・スピンなどの多種多様な種類があるが、アクロバット専用機以外の機体では、意図的なスピン操作は禁止されている。それなのに、上空のスーパーホーネットは堂々とスピンをやってのけた。
 反転。旋回。離脱。インメルマン・ターンだ。
 インメルマン・ターンは、攻撃側、防御側とともに活用出来る機動だ。航空機が方向転換するには広大な空間を必要とするが、この機動は垂直上昇の頂点で機体を反転させ、任意の方向に抜け出す事で、水平方向の空間を殆ど使わずに方向転換が可能となる。
 左右にロールを繰り返して。
 凄い。同じ角度で主翼を止めている。
 ダイブと上昇のエンドレス。そして、幾何学的な軌跡。
 まるで、青空のキャンバスに絵を描いているみたいだ。
「あの野郎、遊んでやがるな」
「俺もそう思う。大佐に怒られるんじゃないかな」
 反転。背面へ移行。
 背中を向けたスーパーホーネットが螺旋状に墜ちて来る。
 スパイラル・ダイブ。
 パイロットにも、戦闘機にも、負担がかかる高度な機動だ。
 降下する速度は下がらない。まさか、パイロットは死ぬ気なのか。
 滑走路に激突する寸前で、スーパーホーネットの機首が持ち上がった。
 背面から水平飛行へ。
 滑走路にタイヤの跡を焼き付けて、銀色の機体は停止した。
 パイロットの顔が見たい。遺伝子の奥から溢れ出た衝動に背中を蹴飛ばされて、ソエルは機体の側に走った。ソエルがスーパーホーネットの側に到着するとほぼ同時に、キャノピィがスライドした。パイロットがコクピットから這い出す。どうやって狭いコクピットに座っていたんだと悩むくらい、操縦士は長身だった。あの脚の長さから推定すると、180は軽く超えているんじゃないか。
 主翼を足場にして地面に下りるパイロット。頑丈な手袋を嵌めた手がヘルメットを固定しているベルトを外す。添えられた両手がヘルメットを持ち上げて、パイロットの顔を解放した。現れた素顔を見たソエルは、思わず息を呑んだ。稲妻が全身を駆け巡る。今思えば、これは、運命だったのかもしれない。
 まず、最初に思ったのは、こんなに完璧な顔を持つ人間に出会った事はないという事だった。流麗な線を描く鼻筋。形のいい唇は真一文字に結ばれている。切れ長の目は琥珀色で、睫毛と下睫毛は驚くほど濃くて長い。どちらかと言えば色が白く、あまり日焼けはしていないようだ。十代後半か、二十代前半だと思う。まさに絶世の美青年だ。青年は、無言でソエルを見つめている。全身を貫いた稲妻の余韻に痺れながら、ソエルは案山子みたいに立ち尽くしていた。間違いない。この青年が、「彼」の手紙に書かれていた人物だ。
「ほら。挨拶しろって」
 ガゼルがソエルの脇腹をつつく。そうだ。敬礼をしたソエルが自ら名乗れば、着任の挨拶はスムーズに終了するのだ。しかし、ソエルは動けなかった。地上に帰還したパイロットと対面した瞬間から、彼女の身体は石像のように強張っていた。不躾なまでの視線を青年に注いだまま、ソエルは硬直していた。異様とも思える空色の視線を、青年は受け止めている。
「ほっ――本日、ユグドラシル基地に配属されました、ソエル・ステュアートです! 宜しくお願いします!」
 踵をキッチリと合わせて、ソエルは本日四回目となる敬礼を披露した。青年の自己紹介を期待したけど、彼は目元にかかる緑色の前髪を払い除けただけで、ソエルを無視して踵を返した。チェック・シックスを守らずに逃げるつもりか。
「まっ――待って下さい!」言葉の機銃を発射。機銃は青年の足を撃ち抜いた。「貴方に、お訊きしたい事があるんです!」
 青年は、一度だけ肩越しに振り向いただけで、地平線の彼方に歩き去った。やっと、「彼」の事を知っている人間に出会えたのに、生き証人に容易く逃げられてしまった。肩を落とすソエルの両脇に、ガゼルとアレックスがやって来た。
「いきなりナンパするなんて、大胆だな。あんまり気にするなって。空から帰って来た直後だから、機嫌が最悪なだけだよ。明日になれば、笑って挨拶してくれるって」
「……本当ですか?」
「うん。あの人は、いつもそうなんだ。気にする事はないよ」
「――はい」
 ガゼルとアレックスは、半分だけの真実と、半分だけの嘘を言ったと思う。
 真実も、嘘も、いつも一つしかない。
 いつだって、一つだ。


 翌日、ソエルは早朝に目を覚ました。どのくらい早朝かって言うと、窓の外から見える景色に、乳白色の霧がかかっている時間帯。二段ベッドの上で眠るガゼルを起こさないように注意して、ベッドから離脱。座席を射出させる必要がないから、コクピットから緊急脱出するよりも簡単だった。
 蛍光灯の点いていない廊下を歩いて階段を下りる。階段の脇には談話室がある。談話室と言えば、待機中や非番のパイロット達が談笑しているのがセオリーだけど、早朝と言うだけあって、流石に閑散としていた。居るとするならば、朝の早い老人だけだろう。
 搭乗員宿舎を出る。ソエルの両足は、自然と格納庫の方角に向かっていた。見えない神様に手を引かれるように。こっちにおいで。甘い飴玉をあげるから。神様が囁く。誘拐犯が言いそうな台詞。逮捕権を持つ警察と言えども、流石に神様は逮捕出来ないだろう。
 ユグドラシル基地は、クルタナ国の首都から遥か西に離れた場所、中央海に面した場所に建設されている。何故、そんな辺鄙な場所に基地があるのかと言うと、隣国アンティオキアとの国境に近いからだ。アンティオキアは世界屈指の軍事大国だ。アンティオキアの奇襲攻撃にすぐさま対応出来るように、国境付近にユグドラシル基地があるのだ。
 第一格納庫のシャッタは、顎が外れて閉まらない口のように、開きっぱなしになっていた。不用心すぎないか。敵国のスパイが侵入していたらどうするんだ。頭をぶつけないようにシャッタをくぐる。まるで、朝が格納庫だけを避けているみたいに、中は薄暗い。開きっぱなしの間抜けなシャッタから入って来た白い霧が、吐き出された二酸化炭素のように、ソエルの足下で渦巻いていた。
 F15とF35Aを見つけた。静かなのは、夢の中に居るからだろう。ブルーシートで隠された機体の隣に、あのパイロットが乗っていた戦闘機、F/A18スーパーホーネットが置いてあった。スーパーホーネットのキャノピィは持ち上げられていて、誰かが主翼に乗っている。よく見えない。距離を縮めて。どうやら、ウエスでボディを拭いているようだ。静寂の中に響き渡るソエルの靴音。音に気付いた彼が、肩越しに振り向いた。
 主翼の上に居たのは、昨日出会った青年、スーパーホーネットのパイロットだった。白い半袖シャツにライトグレイのズボン。焦げ茶色のフライトジャケットを腰に巻きつけている。恐らく、羽織っている内に暑くなって、脱ぎ捨てたんだろう。季節は夏に入ったばかり。まだ早朝は涼しいとはいえ、身体を動かしていれば体温が上昇して暑くなる。彼の判断は正しい。
「……何か、用でも?」
 真冬の空気を思わせる、凜とした冷たい声が、青年の口から発せられた。ソエルは瞬きした。驚いた事を示す反応だ。初めて彼の声を聞いたからだろう。ウエスを握った青年は、ソエルの返事を待っている。
「あっ……その……特に用はないんですけど……」
「じゃあ、何故、こんな朝早くに格納庫に来たんだ」
「朝早くに目が覚めちゃって……私、一度目が覚めると、中々眠れないタイプなんです。どうせ眠れないなら戦闘機を見に行こうって思って、格納庫に来たんです。あの、貴方はどうして格納庫に?」
「ブリューナクの手入れをしているんだ。見れば解ると思うが」
 青年の声には、軽い罵倒の響きが込められていた。まだ機嫌が悪いのか、それとも、元々こんな性格をしているのか。いずれにせよ、彼は他人を遠ざける事が得意なタイプだろう。友好的な会話は期待出来そうにない。離脱するのが賢明だ。誰もが忠告すると思うけど、あの事を訊くまでは、尻尾を巻いて逃げたくはない。
「あの、お尋ねしたい事があるんですけど」
 背中を向けて、ブリューナクの清掃作業に戻った彼が再び振り向いた。少し、苛立ちの成分を滲ませた顔。作業を邪魔されたんだ。誰だって、あんな表情を浮かべるだろう。ソエルを無視するか。それとも、ウエスを放り投げて罵倒するか。ソエルは青年の動きを待った。
 刹那、青年が跳躍した。靴が地面と喧嘩する音。地面との喧嘩に勝った靴音が近付いて、ソエルの数歩手前で停止した。青年がソエルの正面に立っていた。あの硬質的な音は、彼が主翼から大地に飛び下りた音だったのだ。希有な存在の、絶世の美青年がすぐ近くに居る。そう思うだけで、心臓が破裂しそうだった。
「何だ」
「私、一人のパイロットを捜しているんです。もしかしたら、御存知かなって思って――」
「名前は?」
「ノエル、です」
 ポーカーフェイスだった青年の顔が、僅かに変化したのをソエルは見逃さなかった。きっと、彼の心拍数は上昇しているに違いない。青年が両目を閉ざした。記憶のキャビネットを漁っている仕草だ。数秒を浪費した青年は目を開けて、無表情に戻した顔で首を振った。
「悪いが……聞いた事がないな」
「そんな――! よく思い出してみて下さい! ノエルはユグドラシル基地に所属していたんです! ヴァルキリーに配属されたって、手紙に書いてあったんです! だから、貴方とも面識があった筈なんです!」
「しつこいぞ。知らないものは知らない。俺の邪魔をしないでくれ」
 機関銃のように繰り出されるソエルの質問を振り切った青年は、ブリューナクの胴体に立てかけられている梯子を上って、コクピットにその長身痩躯を沈みこませた。頑固なシェルターに避難されてしまった。もう、ソエルの質問は届かないだろう。ここは、諦めた方が賢明だ。
「……私、部屋に戻りますね。お掃除の邪魔をして、すみませんでした」
「ちょっと待て」
 踵を返したソエルの背中に、青年の声がぶつかった。金色の髪を揺らして振り返ると、コクピットに退避した青年がソエルを見下ろしていた。
「ノワリー・エリオットだ」
「え?」
「ノワリー・エリオット。俺の名前だ。お前の名前は?」
「はっ――はい! ソエル・ステュアートです! 昨日、ユグドラシル基地に配属されました!」
「交流会は終わりだ。じゃあな」
 ソエルを一瞥した青年――ノワリーは、再びコクピットの揺り籠に沈みこんだ。
 目を閉じて、腕を組んで、彼は、大空を舞う夢を見ているのだろうか。
 エンディミオンのように綺麗な寝顔だった。
 起こしてしまえば、
 きっと、
 全人類は滅んでしまうだろう。


 格納庫から搭乗員宿舎に戻ったソエルは、宿舎の一階の奥にあるピロティを抜けて、食堂に向かった。早朝だった時間帯は過ぎ去り、眠りから覚めた人々が活動する時間にシフトしていた。パイロット達が談笑する声。食器同士が擦れ会う音。即席の楽団達が、食堂に賑やかなBGMを流している。
「ソエル!」
 ソエルを呼ぶ声が喧騒の中を突き抜けて、彼女の視線を導いた。ミッドナイトブルーの髪の女の子が両手を振って合図を送っている。同席しているのは、マロンペーストの髪の少年だ。パイロットの波を掻き分けて、ソエルは二人の席に向かった。
「おはようございます」
「ウッス」
「おはよう」
「目を覚ましたら驚いたぜ。ソエルが居なかったんだからよ。逃げ出したのかと思った」
「ソエルはそんな事しないって。ね?」
「そうですよ。やっと、夢だったパイロットになったんですよ? そんな馬鹿な真似はしません」
 弾む会話は宙に溶け、賑やかなBGMの一部になった。突然、楽団達が奏でていたメロディが鳴り止んだ。水を打ったように静まり返る食堂。全員の視線は、食堂の入口を凝視している。音楽を止めた原因は、食堂にやって来た彼だった。
 入口に立っている青年――スーパーホーネットのコクピットで眠っている筈の、ノワリー・エリオットだ。突き刺さるような、嫌悪に似た視線をものともせず、食堂を突き進んだノワリーは、一番奥の、窓際の席に座った。誰も彼に話しかけようとしない。まるで、触れるのを恐れているかのように。
「ご機嫌の悪い、エリオット様のお出ましって訳か」
「コラ。そんな事言わない」
 皮肉たっぷりに言い放ったガゼルの頭を、アレックスが軽く小突いた。
「あの、ごめんなさい。席を移動しても構いませんか?」
「別に良いけどよ……お前、あの野郎の所に行く気か? 止めとけって。ロクな目に遭わねぇぞ」
 ソエルを説得するのは無理だと悟ったようで、勝手にしろと呟いたガゼルは黙り込んだ。頑張って。アレックスの大きな手が、ソエルの背中を叩いてくれた。小学校に初登校する子供を送り出すような仕草だ。覚悟を決めたソエルは座ったばかりの椅子から立ち上がって、彼の所に真っ直ぐに突き進んだ。
 ノワリーはテーブルの上に頬杖を突いていた。暁光の日差しに染まった横顔は、儚い憂いを帯びている。白皙の横顔は、真夏の日差しに負けて溶けてしまいそうだった。野次馬の好奇な視線が、ソエルの背中に集中しているのが解る。話しかけないと何も始まらない。
「おはようございます、エリオットさん」
 窓の向こう側を眺めていた琥珀色の目が上昇して、ソエルを認識しようと瞬いた。挨拶を返す必要はないと判断したのだろう。ノワリーは無言で視線を戻した。覚悟はしていたけど、改めて無視されると辛い。負けるものか。折れそうになった心を奮い立たせて、ソエルは言葉を続けた。
「お一人、ですよね。座ってもいいですか?」
「……好きにしろ」
 しつこく話しかけて来るソエルにウンザリしたノワリーが根を上げた。ありがとうございます。椅子を引いて、ソエルは彼の正面に腰を下ろした。ソエルが座るのを見計らったノワリーが椅子から離脱。まさか、逃げる気か。堂々と逃げられると流石に傷ついてしまう。せめて、急用を思い出したとか、親が急病で倒れたから家に帰らないといけないとか、そんな理由で逃げて欲しいものだ。
「何を食べるんだ?」
「え?」
「だから、朝食は何を食べるんだと訊いている」
 身を翻して敵前逃亡すると思っていたノワリーは、苛立ったように眉間に皺を刻んで、ソエルを見下ろしていた。質問の内容を反復する。彼は、彼女が食べる予定の朝食のメニューを尋ねているのだ。質問の意図が理解出来ないけど、とりあえず、答えておいた方が無難だろう。
「えっと……バタートーストと目玉焼きに、サラダとロイヤルミルクティーです。あの……それが何か?」
「特に意味はない。コーヒーを買うついでに持って来てやる。それだけだ」
 驚きを隠せないソエルを置き去りにしたノワリーは、まず自販機に向かってコーヒーを購入した。次に、コーヒーのカップを片手に持ったノワリーはカウンタの前に行って、メニューに目を通す事もなく、料理を注文した。完成した料理をトレイに乗せた彼が帰還。ソエルの前に置かれるトレイ。無造作に放り投げるような動作だった。ソエルが彼に伝えた料理が乗っていた。
 他人を拒絶するような冷たい空気を纏ったノワリーと食事を共にするのは緊張する。尻ごみするソエルをお構いなしに、早く栄養を補給しろと、数十億個の細胞が要求している。頂きます。両手を合わせて豊穣の女神様に感謝を。会話という名のボールを投げてみても、多分、ノワリーは受け止めてはくれないだろう。彼とバッテリーを組む事は諦めよう。
「ステュアート……だったな」
 ソエルの喉に引っ掛かる目玉焼きの黄身。窒息する前にミルクティーの洪水で押し流した。フェイントで話しかけるなんて、卑怯じゃないか。窓の外を見ていた横顔はいつの間にか角度を変えていて、斜めに座って腕と脚を組んだノワリーがソエルを見つめていた。
「はっ……はいっ……」
「どうやら、俺はお前とバディを組まされる羽目になったようだ。非常に不愉快な事だが……仕方がない」
 ノワリーの言葉に苛立ちを感じたソエルは、目玉焼きの白身を突いていた手を止めて、彼を見据えた。
「それって、どういう意味ですか?」
「何回でも言ってやる。お前のような素人と組むのは、非常に不愉快だと言っているんだ」
「私の事を何も知らないくせに、偉そうな事を言わないで下さい!」
 シルバーのフォークを置いて、テーブルを叩いたソエルは立ち上がった。いつの間にか、周囲のパイロット達は食事や談笑を中断して、ソエルの動向を見守っている。巻き込まれないように、絶妙の距離をキープしながら。
「お前も、俺の事は何も知らないだろう」
「ええ、知りませんね! なら――エリオットさんの事、色々と教えて下さいよ! バディなんだから、構いませんよね?」
「ふざけるな。何故、俺がお前に、自分の事を教えないといけないんだ。もういい、お前の顔は見たくない。大佐に言って、バディを解消してもらう」
 ソエルから視線を逸らしたノワリーは立ち上がり、背中を向けて足を踏み出した。二回目の敵前逃亡か。そう簡単に、逃がしはしないぞ。高慢な鼻をへし折ってやる。
「逃げるんですか?」
 挑発に近いソエルの言葉に反応したノワリーが、両足を止めて、ゆっくりと振り向いた。
「――何だと?」
「空の上では無敵のエリオットさんも、地上では腰抜けになってしまうんですね」
 ノワリーの完璧に整った端正な顔が、酷薄な色に染まり始めた。ソエルの挑発が、ノワリーのプライドに傷を付けて、怒りの雷雲を発生させたのだ。落雷の時は近い。気象予報士でなくとも解る。
「……面白い。いいだろう、俺の全てを教えてやる。但し、これから行う模擬空戦で、お前が俺に勝ったらの話だがな。お前は、何を賭けるんだ?」
「えっ?」何を賭けるんだと急に言われても、思いつく訳がない。「じっ――じゃあ、一週間、エリオットさんの戦闘機の手入れをします!」
「――フン」ノワリーが息を吐く。明らかに、ソエルを馬鹿にしたような息だ。「まあ、いいだろう。朝食を食べたら滑走路に来い。逃げるなよ」
 罪人に死刑宣告をする裁判長のように、慈悲も慈愛も持たない冷えきった声に、ソエルは身震いした。コーヒーを飲み終えたノワリーは、空っぽになった紙コップをゴミ箱に投げ捨てて、未練の欠片も残していないような足取りで立ち去った。様子を見守っていたガゼルとアレックスがやって来た。だから言わんこっちゃない。ガゼルはそんな表情をしていた。
「チームのエースパイロットに勝負を挑むなんて、ソエルは度胸があるなぁ」
「度胸があるっていうより、単なる馬鹿だ。アイツは四十五機も撃墜した、凄腕のエースだぜ? どうなっても知らねぇからな」
 ガゼルとアレックスの言葉が耳をすり抜けて行く。
 温かった朝食は、レストランのショーケースを彩るプラスティックのサンプルみたいに硬まっていた。


 朝食を済ませたソエルは、エースパイロットが待つ滑走路に向かった。結局、朝食の大半を残してしまって、食堂で働く調理師の女性の非難の視線を浴びてしまったけど。到着した滑走路にはギャラリィが群がっていて、機体が引き出されていた。それにしても、凄い野次馬の数だ。配属されたばかりの新人が、エースパイロットに喧嘩を売ったからか。
 ライトグレイの戦闘機。あれは、タイフーンと呼ばれる機体だ。全長十五メートル。最大速度はマッハ2.2。四カ国が共同開発したマルチロール機で、アフターバーナーを使わずに超音速巡行、スーパークルーズが出来るのだ。恐らく、ソエルに割り当てられた機体だろう。スーパーホーネットの脇に、ノワリーが居た。腕組みをして、既に臨戦態勢だ。
「遅いぞ」
「……すみません」
「無駄口は要らない。さっさとタイフーンに乗れ。ルールは簡単だ。相手をガンサイトに捉えた者が勝つ。それだけだ。解ったな?」
「了解です」
 ブリューナクの主翼に近付いたノワリーの動きが止まる。機体に異常でもあったのだろうか。
「よぉ! 坊や! これから、新人さんとドッグファイトをするんだってな!」
 活力に満ち溢れた快活な声が響き渡った。煙草を銜えた青年が、滑走路を横断して来る所だった。三十手前の青年。ボサボサに乱れた茶褐色の髪。精悍な顔立ちは、好き放題に生えた無精髭に覆われている。
「……どうも」
 無愛想に挨拶するノワリー。もう少し、気の利いた挨拶があると思う。スーパーの店員みたいに素っ気ない挨拶を、青年は大きな懐で受け止めた。ノワリーの肩を叩いた彼は、煙草を携帯灰皿で押し潰すと、ソエルの正面に立った。身長はノワリーと同じぐらいだと思うけど、彼の方が筋骨逞しいだろう。
「俺は、ジェラルド・イージスだ。宜しくな、可愛い嬢ちゃん」
「ソエル・ステュアートです。宜しくお願いします」
 イージスは、ソエルと握手を交わした手を上下にシェイクした。一体、どんな味のカクテルが出来あがるのか楽しみだ。バシバシと背中を叩かれたソエルは思わず咳きこんでしまった。ワイルドなスキンシップだ。
「模擬空戦を始めたいので、そろそろ宜しいですか?」
 冷気を纏った声が割り込んだ。白い靄が見えそうなほど凍りついている。腕組みをしたノワリーが、氷の視線を注いでいた。ノワリーが放り投げたヘルメットがソエルの胸にぶつかる。パイロットの命を守る道具なんだから、もう少し丁寧に扱ったらどうなんだ。ヘルメットを装着したノワリーは、主翼を足場にしてブリューナクに乗り込んだ。頑張れよ。ゴツゴツとしたイージスの手がソエルの頭を撫で回した。
 ヘルメットを装備。専属の整備士が待っていた。タイフーンの主翼に飛び乗ってコクピットへ。エンジン点火。スロットルを開放。計器システムオールグリーン。背後を見ながらラダーペダルを左右交互に踏んで、方向舵の動きを確認。操縦桿の動きに連動するエレベータも、エルロンも異常無しだ。
 コクピットで戦闘機の操縦を行うパイロットは、スティック、または、操縦桿と呼ばれる棒状の装置を利用する。基本的には操縦桿を前後に倒す事で、水平尾翼の昇降舵(エレベータ)が上下に動き、機体のピッチ角が変わる。そして、操縦桿を左右に倒せば、主翼の補助翼(エルロン)が動いて、機体の傾斜角度が変わるのだ。方向舵は足の所にあるラダーペダルを踏む事によって左右に動き、機体のヨー角度、機首の向きが変更される。機体を左に傾けたいのならば、左のペダルを踏み、右に傾けたいのならば、右のペダルを踏み込めばいいのだ。
 スロットルを絞る。急発進を防ぐ為に、操縦桿を引き寄せて。
 整備士が車輪止めを外すと、機体はゆっくりと、滑るように動き始めた。
 既に、ノワリーの機体ブリューナクは、滑走路を走り始めている。
 慎重に機を進めて、ソエルはブリューナクの左後方に付く。
 ブリューナクが風に向かって針路を定め、スロットルを上げて増速した。スロットルレバーを掴んだソエルも、レバーを上に倒して速度を上げ、エンジンの回転率を上昇させる。
 フル・スロットル。
 風が機体を突き上げる。速度が増すにつれ、反発は激しくなって行く。
 この時、自機の動きだけに集中していると、思わぬ修正のミスをして機体がバランスを崩したり、下手をすれば横転する事がある。進行方向、なるべく遠くに一点を見定め、それをランドマークにして進んで行く事で、針路修正をするのが望ましい。
 彼にしよう。ソエルは、基地の外れに立っている身長の高い木を目標にして、針路を修正した。スロットルを上げ、次に操縦桿を軽く倒し、機首を下に向ける。つまり、尾翼が持ち上がるのだ。機体は、主翼下の前輪、機尾の尾橇の三点で地上に接している。三点のうち、まずは尾翼を持ち上げて、二個の前輪だけで滑走速度を高めるのだ。
 目の前のブリューナクが大地を離れた。
 今度は、操縦桿を軽く引く。
 エレベータ・アップ。一瞬、機首が首を傾げて上を向いた。
 エレベータを引き過ぎると、尾橇が再び接地してしまう。
 スピードは充分だ。主翼を駆け抜ける風が、揚力を発生させる。
 飛び上がる機体。
 もう、誰も、ソエルを連れ戻す事は出来ない。
 窮屈な地上から解放されて、美しい大空へ舞い上がる。
 この瞬間が大好きだ。
 甘い余韻に身を委ねている余裕はないぞと言う風に、ソエルの目の前でブリューナクが上昇して行った。
 置いて行かれるものか。
 エレベータ・アップ。
 フル・スロットル。
 減速したブリューナクが、タイフーンの横に並ぶ。
 ノワリーの白い手が上がり、ソエルと自分を指差して、両手の指が交差した。
 模擬空戦開始の合図だ。
 ノワリーが再び手を上げて、下へ振り下ろした。
 戦いの角笛が鳴り響く。
 ラグナロクを知らせるギャラルホルンのように。
 ここから先は、相手の機体に照準を合わせた者が、勝利を手に入れられる。
 模擬空戦とはいえ、緊急事態に備えて機銃は搭載されているが、勿論、撃つ事はない。だから、後方からの追尾射撃の構えを作った機体が勝者となるのだ。
 ノワリーは後方を確認しながら緩やかに上昇反転して九十度旋回したのち、水平飛行に移った。
 わざと速度を落として、ソエルの動向を探る。
 タイフーンが後方に張り付いて来た。単純な奴だ。
 ラダーペダルを交互に踏んで、ブリューナクを左右に揺らす。背後からの照準を定めにくくする為だ。
 だが、ソエルは巧みに機体を操りながら、影のように付いて来る。
 200、100、50メートル。
 既に、ブリューナクは射程距離に捉えられているだろう。
 照準を正確に付けるだけで、戦いは終わる。
 後方を確認。
 エレベータ・ダウン。
 本来なら上昇する所だが、追尾されている状況から判断すると、上昇反転が好ましい。
 だが、セオリーに従うのは好きじゃない。
 スロットル・ダウン。
 ラダーペダルを踏み込んで、操縦桿を倒す。
 切れ味の鋭いロール。
 しかも速度を失っている為に、斜めに滑りながら旋回して行く。つまり、錐もみ旋回の応用だ。
 一体、何が起こったのか。ソエルの思考は凍結していた。
 後方に張り付いて、あとは更に距離を詰めるだけだと思っていた矢先――。
 突然、ブリューナクが視界から消失した。
 ブリューナクが上昇すると踏んだソエルは、エレベータを引こうとした。しかし、不意を突いてバンクしたブリューナクは、ソエルの視界から見事に離脱したのだ。
 すぐさま後を追いかけようとしたが、タイフーンは既に上昇の体勢に入ってスロットルを上げている。いきなりの小半径旋回と錐もみ旋回は不可能だ。
 諦めたくない。
 スロットルを維持。
 反転上昇。
 機体を水平に戻してダイブ。
 上手くいったと思ったのに、ブリューナクは居ない。
 上下左右、左右後方。
 銀色のスーパーホーネットは見当たらなかった。
 何処? 何処に居るの?
 まさか――。
 予感は的中した。
 緩降下しつつあるソエル機の後方に、這い上がるように上昇して来たブリューナクが現れたのだ。
「そんな――!」
「やはり、上昇反転したな。俺の予想通りに動いてくれて、感謝する」
 形の整った唇を僅かに吊り上げて、ノワリーは笑った。
 ブリューナクは錐もみで下降旋回したあと、上昇に移っていた。ソエルは上昇反転したが、速度が上がっていた所為で、旋回半径が大きくなっていた。それが致命的となり、錐もみを利用して、最小限の動きで旋回したブリューナクに、いとも簡単に背後を取られてしまったのだ。おまけに、ソエルはブリューナクを見失っていた。
 ブリューナクはソエルの後下方に占位しながら、その位置を保ったまま上昇した。
 後下方はパイロットにとって、最も視認しづらい位置である。自機の胴体で死角になり、真下に近ければ、尾翼も邪魔になってしまうのだ。
 死角から這い寄って来たブリューナクは、ソエルを背水の陣に追い込んだ。
 ソエルは一気にスロットルを絞ると、操縦桿と方向舵を激しく操作して、錐もみ旋回に移った。
 砂糖菓子のように甘いソエルの考えは、ノワリーに完全に読まれていた。
 ブリューナクは、やや離れたものの、プロの殺し屋みたいに追従して来る。
 錐もみに錐もみで付いて来るなんて、普通では考えられない高度なテクニックだ。
 これが――エースパイロットの実力なのか。
 五回目の回転。高度は300メートルを切っている。
 駄目! 
 機首を引き起こす。
 その行動もノワリーは読んでいたようで、ソエルよりも小さい半径で上昇に移り、後方に付けて見せた。
 対抗策が閃かない。
 もう――どうしようもなかった。
 死に物狂いの上昇旋回。
 そして、下方旋回でブリューナクの背後を占位しようと試みた。ノワリーはそれを譲らない。
 旋回と上昇下降の応酬。
「――諦めの悪い小娘だな」
 だが、ノワリーの方も、ソエルの後方に陣取ったまま、50メートルより先に接近する事が出来ずにいた。勿論、この位置でも彼が絶対的に有利である。とはいえ、射撃が完璧に有効な距離からはやや遠い。更に接近しようと試みるが、ソエルは左右の機動を繰り返し、銀色の衣を纏った死神から逃れ続けている。
「もうっ! しつこい!」
 ノワリーに動きを見切られていて、ソエルはブリューナクを振り解く事が出来ない。
 審判による採点方式だったら、確実にノワリーの勝利で幕が下ろされる。ソエルが勝利するには、一発KOを狙うしかない。幾度も繰り返した全速力の旋回が、ソエルの身体を蝕み始めていた。早期決着。時間は残されていない。
 旋回によって生じるGは、パイロットの肉体に多大な負担をもたらす。それに、血液が身体の一方向に偏ってしまう事で、一時的な貧血を起こしてしまうのだ。脳の血流が下に偏った事によって、視界が暗闇に包まれるブラックアウトが生じ、逆に脳の血流が上に集中すれば、視界が真っ赤に染まるレッドアウトが発生してしまう。どちらも脳や眼球に対する負担が大きい。左右へのGも、視界を狭めるなどの悪影響があるのだ。
 脳に負担がかかると、判断力や思考力にも影響が及ぶ。思考の回転が鈍くなれば、結果的に運動能力も低下してしまう。瞬発力に加え、体力と耐久力が必要とされる飛行士には、大きな負担がのしかかる。戦闘機のパイロットが他の航空機パイロットよりも遥かに若いのは、こういった理由から来ているのだ。
 Gに耐えながら、ソエルは必死に旋回を続けた。
 ここで諦めたら、ノワリーに勝利を奪われてしまう。
 限界を感じているのは、ソエルだけではなかった。ノワリーの身体と脳も、苦痛を訴え始めていた。
 空の上で我慢比べが続く。
 このまま、ソエルがノワリーの追跡を避け続ける事も不可能ではないだろう。しかし、燃料とマナという、決定的な要素がある。模擬空戦の為、燃料とマナはフルタンクではない。巡航にすると、約一時間分が給油されているだけだ。ソエルは幾度も激しい機動を繰り返している。巡航の三、四倍の燃料を消費しているだろう。燃料計の針がその証拠だ。嫌な速度で、ゼロに向かって進んでいる。残りの燃料とマナは、巡行で十分弱しかない。着陸場所を見つけないと、地面まで真っ逆さまに墜ちて行くだろう。
「往生際が悪いぞ! 素直に負けを認めたらどうだ?」
 ノワリーの命令を無視して、ソエルはエレベータを引いた。
 あの技に、賭けるしかない――!
 フル・スロットル。
 エレベータを引き続ける。
 二十、三十、四十度。
 険しくなる上昇角度。
 四十五度の上昇角を越えた。
 人間の感覚では、殆ど垂直に上っているのと一緒だ。
「――何をやるつもりだ」
 ブリューナクを駆って、ノワリーも後を追いかける。
 五十度を越えて、傾斜計にさよならを。
 太陽に向かってフル・スロットル。
 高度は4000メートルに近い。
「まさか――あの機動を繰り出すつもりか?」
 そのまさかを、ソエルは繰り出そうとしていた。
 インメルマン・ターンで上昇。
 頂点でスロットルを絞る。
 左に機体を捻りこんで。
 一瞬、揚力を失う。
 失速。
 通常より小さい回転半径で、ソエル機は旋回した。
 旋回したソエル機と、上昇したブリューナクがすれ違う。
 十メートルもない距離。
 互いの顔が、
 表情が、
 鮮明に網膜に焼き付いた。
 ソエルの意図に気付くノワリー。幸運のクローバーを見つけた訳じゃない。
 素早く操縦桿を倒し、スロットルを極限まで絞る。
 離脱。
 回避行動が遅れていたら、主翼同士が衝突していたかもしれない。
 ブリューナクは、ロールをしながら下降して行く。
 タイフーンに腹を見せる格好だ。なんて情けない。
「そこっ!」
 ソエルは叫び、機銃の発射トリガに指を掛けた。
 撃つんじゃない! これは、訓練だぞ!
 もう一人の自分が叫んで、ソエルは我に返った。
 幸い、トリガは安全装置でロックされていたから、機銃は発射されなかった。もし、発射されていれば、確実にブリューナクを貫いていただろう。
「勝った……! エリオットさんに勝った……!」
 操縦桿を手放して、ソエルは勝利の雄叫びを上げた。
 歓喜に満ちた勝利の歌は、空の中に溶けて行った。


 ユグドラシル基地に帰還。タキシングで滑走路に侵入したタイフーンは、無事に着陸した。勝利の余韻に浸りながら、ソエルはコクピットから離脱して、滑走路に飛び下りた。拍手と歓声がソエルを祝福する。ブリューナクは既に着陸していて、操縦士は銀色の戦闘機の傍らに腕組みをして佇んでいた。彼が動く。歩いて来たノワリーは、ソエルの正面で停止した。険しい顔。二回もプライドを傷つけられたんだ。怒り狂っているに違いない。勝利の味は、一気に吹き飛んだ。
「あんな危険な真似をするなんて、お前は救いようのない大馬鹿者だな。俺が回避したからよかったものの、一歩間違えれば空中衝突して、二人共死んでいたかもしれないんだぞ?」
 ノワリーの声は怒りを滲ませていた。彼が怒るのも無理はない。ソエルが繰り出した技は、異国のパイロットが得意としていた、左捻り込みという機動だ。敵に背後を取られて、宙返りをする回避機動の最中に、わざと失速状態を作り出すという、荒技中の荒技。彼の乗っていた異国の戦闘機――零戦でしか繰り出せない機動で、エンジンも構造も異なるタイフーンで再現出来たのは奇跡だろう。
「……ごめんなさい。でも、本気で戦わなければ、空の上では生き残れませんから」
「……あまり、無茶をするな。お前は――俺のバディなんだ。心配させるんじゃない」
「えっ――? 今、なんて――」
「約束しただろう。お前は俺に勝ったんだ。だから、俺の事を教えてやるし、バディとして認めてやる」
「エリオットさん――」
 ありがとうございます。ソエルの言葉は音になる事なく、空気中に溶けて行った。Gに食い散らかされた身体が悲鳴を上げ始めた。崩れる膝。Gで衰弱した身体は動かない。動け。動くんだ。脳が電気信号を送り続ける。もう限界だった。ソエルは、水を吸って重くなった紙のように、地面の上に座りこんでしまった。上を見上げると、青空の天蓋が回りながら踊っていた。意識を失う前兆だ。
 座り込んだまま動けないソエルの襟首が掴まれた。どんな感じかと言うと、生まれたての子猫を掴み上げるような感じだ。ソエルは引き起こされ、そして、長い腕が身体に絡みついて、ソエルを横抱きに持ち上げた。景色が揺れる。瞼が落ちる。視界の霧が濃くなって行く。残念ながら、王子様の顔を見る事は出来なかった。
 瞼を閉じれば、しばらくの間は目を覚まさないだろうなと思いながら、ソエルは目を閉じた。
 懐かしい匂い。懐かしい鼓動。
 それらが、ソエルを眠りに誘う。
 空を飛ぶ喜びをソエルに教えてくれた、「彼」と同じモノだった。


 夢の中で、ソエルは彼と空を飛んでいた。
 彼が駆るのはF16ファイティングファルコン。
 空を泳ぐ雲と同じ色に染まった、滑らかなブレンデット・ウイング・ボディの戦闘機だ。
 二人は、同じ機動で大空の舞台で踊った。
 恋人のように、
 双子のように、
 兄妹のように。
 ソエルの隣を優雅に飛行していた彼が、突然墜ちて行った。
 彗星のような、真っ黒な尻尾を引き摺って。
 彼は、二度と舞い上がって来なかった。
 空気になってしまったのだ――。


 恐ろしい夢から離脱したソエルの肺腑からは、浅く、速い、呼吸が吐き出されていた。過呼吸になる一歩手前の息遣い。次第に、悪夢は綿菓子のように蒸発して行き、それと同時にテンポの速かった呼吸も落ち着いて行った。確か、ソエルはノワリーと空の上で一騎打ちを繰り広げていた筈だ。でも、ソエルが横たわっていたのは真っ白なベッドの上で、狭苦しいコクピットの座席ではなかった。ここは、何処だろう。もしかしたら、現代社会にそっくりな天国かもしれない。静かにドアが開く。ソエルより小柄で、華奢な女の子が入って来た。同室のガゼルだった。
「目が覚めたみたいだな。気分はどうだ?」椅子をベッドの側に引っ張って来て、その上に座ったガゼルが笑いかけた。「顔色も良いみたいだし、だいぶ良くなったみてぇだな」
「ここ……何処ですか?」
「ここは宿舎でアンタの部屋だ。アンタとエリオットのドッグファイトから、三日経った」
 模擬空戦から三日も経っていたなんて。眠り姫のように、昏睡状態に陥っていたのか。よく生還を果たしたモノだ。一つ、疑問点が浮上した。何処の親切な人間が、ソエルを部屋まで運んでくれたのだろう。混濁した意識を引き摺ったまま、一人で戻れる訳がない。
「あの……誰が、私を運んでくれたんですか?」
「聞いたら飛び上がると思うぜ。エリオット様だよ。あの野郎が、アンタを運んで来たんだ」
「えっ――いったっ!」
 ガゼルの予言は当たった。驚いて飛び上がった拍子に、ソエルはベッドの天井に嫌と言うほど頭をぶつけてしまった。ここが二段ベッドの下段だという事をすっかり忘れていた。コメディ映画に笑い転げる観客みたいに、ガゼルは腹を押さえて笑っている。ソエルの演技は主演女優賞並みという事か。
「それは……本当ですか? 本当に、エリオットさんが私を運んでくれたんですか?」
「疑り深い奴だな。本当だって。こんな風にお前を抱き上げて来て――」ガゼルが枕を抱えて見本を披露してくれた。世界中の女の子達が憧れている、お姫様抱っこだった。「優しくベッドの上に寝かせて、後は頼むってオレに言って、静かに出てったんだ」
 ソエルの顔は、急激に温度が上昇したエンジンのように、見事な赤色に染まった。大人しくなっていたガゼルの笑い声が息を吹き返す。もう知らない。お腹が爆発するまで笑い転げてたらいい。飛び散った中身なんて拾ってやらないぞ。笑いの塊と化したガゼルは放っておこう。それよりも、気難しいエースの居場所を訊き出さないと。
「あの……エリオットさんは何処に?」
「さぁな。雲みたいに居所が掴めない野郎だからな。基地の何処かに居る筈だぜ。お前、捜しに行くのか? 止めとけって。また冷たくされるぞ」
「部屋まで運んでもらったんです。お礼ぐらい言わないと」
「本当は、あの野郎の綺麗な顔を拝みたいだけじゃねぇの?」
 ソエルの顔が再び赤く染まる。苦労して肌色に塗り潰したのに。肩をすくめるガゼル。呆れましたよの意思表示だと思う。彼女は二段ベッドの上に横になると、静かになった。夢の世界に旅立ったのだろう。現実の世界に留まる事を選択したソエルは、ノワリーを捜しに部屋を出た。
 非番のパイロット達で溢れかえる談話室を抜けて宿舎の外へ。ソエルに気付いた彼等は話を中断して、気分はどうだとか大丈夫かとか、彼女を心配する台詞を口にした。配属されたばかりの新人であるソエルに優しくしようと努めてくれているのだろう。新人に優しくする事が先輩の義務だと思っているのだ。感謝と微笑みのお土産を残しておこう。
 ユグドラシル基地をくまなく捜したというのに、ノワリー・エリオットはソエルの前に現れてくれなかった。空を泳ぐ雲のように居所が掴めない青年。ガゼルの言うとおりだ。オフィスビルにも、格納庫にも居ない。パイロットや整備士に尋ねてはみたものの、誰もが彼の居場所を言い当てる事は出来なかった。もしかしたら、ノワリーは、マッチ売りの少女が灯火の中に描いたように、幻想だったのだろうか。
 基地の敷地の西に広がる土手に行っていない事を思い出したソエルは、僅かな可能性を信じて行ってみる事にした。軽快にリズムを刻んで走っている人を発見。少しでも体重を軽くしようとしているんだろう。高く昇れる事を信じて。熱心だなと思いつつ眺めていると、ランニングをしているのがノワリーだという事実に気付いた。
 彼の向きが変わった。ソエルの方へ走って来る。集中しているのか、ノワリーはソエルに気付いていない。道端に転がる石のように、気にも留めずに通り過ぎて行くのか。それは嫌だ。やっと見つけたんだ。労働の対価というモノがあるだろう。
 落ちる速度。ノワリーの足が止まった。進路を塞ぐように立っているソエルに気付いたようだ。額に張り付いた緑色の髪。白い首筋を伝う汗。鎖骨の窪みに溜まって行く。白いシャツに汗で描かれた世界地図が浮かんでいた。上下する肩。乱れた呼吸を整えようと躍起になっているのだ。
「……お前か。何か用か?」
「えっと……その……」
 雰囲気に圧倒されて言葉が押し潰されてしまう。潰れた言葉を復元しようと奮闘していると、ノワリーが軽いストレッチを始めた。ランニングの続きに戻ろうとしているのだ。苦労して見つけたんだから、どんな手段を用いてでも引き止めないと。そう簡単には行かせないぞ。動くノワリー。早足でソエルの脇をすり抜ける。
「助けてくれて、ありがとうございました!」
 ピタリとノワリーの足が止まった。肩越しに振り向いた彼は、訝しげに眉を顰めていた。コイツは何を言っているんだ。暑さで頭がおかしくなったんじゃないか。きっと、そう思われているに違いない。
「何を言っているのか解らない。理解出来るように説明しろ」
「倒れてしまった私を、部屋まで運んでくれたと聞きました」
 ノワリーの眉間に刻まれた皺は、彼の整った顔を台無しにしていない。モノクロの記憶に色を塗ったノワリーが頷いた。良かった。覚えていてくれたみたいだ。
「お前の撒き散らした嘔吐物で、戦闘機を汚されたくないと判断しただけだ。勘違いするな」
「はい」氷のような毒舌に免疫が出来たみたいで、あまり落胆しなかった。「でも、お礼を言っておきたかったんです」
「礼なんて必要ない。戦闘機は共に空を駆ける大切な相棒だ。パイロットと共に空を飛び、空で散る。だから、敬意を示さないといけないんだ。覚えておけ」
 一回。ソエルの心臓が高く飛び跳ねた。たった今、ノワリーが言った台詞は、「彼」が口癖のように言っていた台詞と双子のように同じだったからだ。「彼」しか知らない言葉を、何故、ノワリーは知っているんだ。知らないって言っていたくせに。嘘だったの?
 知りたい。
 ノワリー・エリオットの事をもっと知りたい。
 見えない糸で、「彼」と繋がっているような気がするから。
 だから、その糸を手繰り寄せなければいけない。
「ステュアート」
「はっ……はいっ?」
「今日、時間は空いているのか?」
「え? はい。しばらく、私にミッションは発令されないので。あの、それが何か――?」
「……約束、しただろう。俺の事を教えてやると」
 何処となく、照れたようにノワリーが呟いた。驚くソエル。まさか、三日前に交わした約束を覚えていて、おまけに実行しようとしてくれているなんて。ランニングを口実に離脱するかと思っていた。
「ほっ――本当ですか? ありがとうございます!」
「シャワーを浴びて来るから、ゲートの前で待っていろ。すぐに行く」
「了解です!」
 アキレス腱を伸ばしたノワリーが走り去る。0.01秒で却下されると覚悟していたのに、ノワリーは炭酸が含まれていないコーラみたいに了承してくれた。浮き立つ気分。雲の上を歩いているような感じだ。真夏の日差しに焼かれながらゲートの前で待っていると、ノワリーがやって来た。シャワーを浴びたお陰で、青空のように爽やかになっている。彼は、大型の二輪バイクを連れて来ていた。
「適当な店で話そう。行きたい所は?」
「いえ、特にないですし、配属されたばかりなので、基地の周辺の事はよく知らないんです。エリオットさんにお任せします」
「解った。後ろに乗れ」
 ノワリーの後ろに座るという事は、転落しないように彼の腰付近に腕を巻き付けるという事だ。嫌がられないだろうか。彼の催促の視線を感じながら、後部座席に跨って、恐る恐る操縦席に跨ったノワリーの腰に腕を巻き付けた。文句の嵐は訪れない。ソエルを後ろに乗せたノワリーがバイクを発進させた。
 冷たい風と、身体に伝わるノワリーの体温。相反する温度が不思議と気持ちいい。66号線沿いにある小さなドライブインを見つけた。バイクがターン。ノワリーが駐車場にバイクを滑らせる。スタンドでバイクを固定。キーでロック。ドアを開けて店内に入った。
 レトロな内装。店の隅にはボディが剥げたジュークボックスが佇んでいて、古臭い歌を歌っていた。いつの時代の歌か解らない。カウンタの席には数人の男女が座っている。客は彼等だけみたい。グラスを拭いているマスタがいらっしゃいと挨拶をした。隅の席に座った。背もたれつきの椅子とソファに分かれているタイプだ。待ち構えていたウエイトレスがやって来た。
「ご注文は?」
 何にするんだ。ノワリーが目で合図を送って来た。メニューを開いて、美味しそうな料理を探す。
「えっと……チーズパイと、レモンティーで」ノワリーは何を頼むんだろう。彼はコーヒーを頼んだ。
「パイのサイズはどうしますか? S、M、Lがありますよ」
「じゃあ、Sサイズをお願いします」
 注文をメモに書き留めると、ウエイトレスはカウンタに居るマスタにメモを渡した。シェフは居ないのかな。グラスを置いたマスタは慣れた手つきでパイを作り始めた。パイ生地から作るのかと思ったら、彼は冷凍庫からパイ生地を出した。チーズクリームを飲み込んだパイがオーブンで火炙りにされて行く。
 先に運ばれて来た紅茶を飲みながら、ソエルは向かいに座るノワリーに目を向けた。彼は口数が少ないから会話は生まれない。シルバーのスプーンで、焦げ茶色の液体を掻き混ぜながら飲んでいる。あれが世界なら、とっくに沈んでいるだろう。
 香ばしい匂いのチーズパイが運ばれて来た。Sサイズなのに意外と大きい。ナイフでパイを切り分けて、四本の歯が生えたフォークにパイを突き刺して、口まで運搬。甘いチーズクリームとパイのサクッとした食感が絶妙だ。三日間眠り続けていたから胃袋は空っぽだったけど、Sサイズのパイは、胃袋を満腹にしてくれた。
「それで、何が訊きたいんだ」
「え?」
「え、じゃないだろう。俺の事を知りたいと言って来たのはお前だぞ」
 ノワリーの声は多少の苛立ちを滲ませていた。このままでは、ここに置き去りにされてしまいそうだ。彼がコーヒーを飲み終えるまでに質問事項を完成させないと。年齢。出身地。身長と体重。趣味と好きな食べ物。ありふれた内容。やっぱり、もう一度ノエルの事を訊こう。チリリンと客の来店を告げるベルが鳴った。六人目の客が来た合図だ。木製の床が軋む音。ソエル達の方へ近付いて来る。相席するつもりだろうか。足音が止まった。
「アンタ、ノワリー・エリオットじゃないか?」
 名前を呼ばれたノワリーが、飲みかけのコーヒーを置いて顔を上げた。メッシュキャップを被った男性がテーブルの脇に立っていて、懐かしそうに笑っている。相席するのが目的じゃなかったようだ。ノワリーを知っているから、声をかける為にここまで来たという訳か。ノワリーは無表情で無反応。微笑まないし、握手を求めようともしていない。
「失礼だが、面識がないな。貴方は誰ですか?」
「オイオイ。覚えてないのかよ。二年前の空戦で、同じチームで戦ったじゃないか。もしかして、アイツの事も忘れちまったのか? お前のバディだった、ノエル・ステュアートだよ」
 ソエルの全身の細胞が凍りついた。男性が言った名前は「彼」の名前だった。顔面の血流が、一斉に引いて行くのが解る。驚愕するソエルに気付かないノワリーは、威圧するように男性を睨みつけた。幻の照準レティクルが出現。ガンサイトが男性の脳天に狙いを定めている。
「知らないと言っているだろう。これ以上、アンタと話す気はない。消え失せろ」
 琥珀色の機銃が男性を貫いて、その場から退散させた。もっと詳細に訊きたかったのに。彼は二度と近寄って来ないだろう。チームメイトに冷たくされたのだから。席を立つノワリー。レジで代金を支払った彼は、店の外に出て行った。ソエルも慌てて後を追いかける。エンジン音は聞こえない。ノワリーはバイクのロックを解除して、スタンドを足で蹴っている所だった。
「あの……エリオットさん……」
「――うるさい。俺に話しかけるな。さっさと乗れ」
 ノワリーの周囲に張り巡らされた、分厚い玻璃の壁がソエルを拒絶している。「彼」の事を訊き出すのは諦めた方が賢明だろう。ノワリーの後ろへ跨る。腕を腰に巻き付けて身体を固定。
 バイクがエンジンを吹かす。
 旋回。
 ランディング。
 アスファルトの空をバイクが駆ける。
 バックミラーに映る店が遠ざかって行く。
 ユグドラシル基地に帰還する為に、二人のパイロットを乗せたバイクは66号線を駆け抜けて行った。
 目に見えない何かが、ソエルと「彼」を遠ざけようとしている。
 一体、誰だ?
 天使の翼に乗った、神様か?


 真夜中。ソエルは割り当てられた部屋のベッドに寝転んで、窓の外に浮かぶ小さな月を眺めていた。近付きたいと思えば思うほど、遠ざかって行く銀色の天体。まるで、天国に旅立ったノエルのようだ。眠ろうとしても眠れない。両目の瞼が駄々をこねているのだ。悲しみと憂鬱を抱えた時、ソエルは戦闘機を眺める事にしている。写真でも、模型でも、実物でも、何でもいいのだ。戦闘機を見上げて、コクピットに乗り込んで、空を飛ぶ幻想を見よう。幻想の空で、「彼」が待っている。
 同室のガゼルは二段ベッドの上で熟睡している。起こしてしまったら可哀想だ。静かに部屋を出て廊下を歩き、階段の踊り場へ向かうと、ソエルの足音とは別の音が聞こえて来た。人間の声だ。二人。階段を下りるにつれて、声のボリュームは上がって行く。発生源は談話室だ。二つの黒い影が、ライトに照らされて細長く伸びていた。
「こんな時間に呼び出すとは――バディの件か?」
「いえ、違います。別の事です」
 ガラスのような凜とした声と、甘くて苦いバリトンの声。ノワリーと、エリオット大佐だろう。素知らぬ顔で通り過ぎるには難しい相手だ。ここは一旦身を潜めて、二人の会話が終わるのを待とう。光の届かない段の上に屈みこんで、ソエルは秘密組織のスパイみたいに息を殺して様子を窺った。
「別の事とは、何だ?」
「ノエル、とは誰なんですか?」
「――!?」一瞬、空気が揺れた。クラッドが息を呑んだのだろう。「何処で、その名前を知ったのだ?」
「ステュアートと、カフェで会った男が言っていました。二年前、俺は彼とバディを組んでいたと。ステュアートは、ノエルを捜しているようです。貴方の反応から察すると、どうやら、彼の事を御存知のようですね。教えて下さい。彼は、誰なんですか? 何処に居るんですか?」
「答える事は出来ん。話は終わりだ。部屋に戻りなさい」
 会話が止んだ。ノワリーは諦めたのか。少しでいい。あと、少しでいいから食い下がって欲しい。甘い言葉を囁いて、イヴを誘惑した蛇のように、大佐を誘惑するんだ。機密情報を聞き出してくれ。ソエルの願いも空しく、ノワリーの質問は再開されなかった。革靴の音が床を歩き始める。大佐が立ち去ろうとしているのだ。
「父さん」
 響くノワリーの声。止まる靴音。ソエルは驚いた。ちょっと待って。たった今、確かに、ノワリーはエリオット大佐の事を「父さん」と呼んだ。今更気付いたけど、二人のファミリィネームは同じじゃないか。同じ遺伝子を持っているという訳か。似ているようで似ていない、そんな感じだ。
「俺は――本当に、貴方の息子なんですか?」
「おかしな事を訊くな。お前は、私の息子だ」
「嘘だ」
「何故、そう思う?」
「貴方が俺を見る時の目は、異質なモノを見るような、化け物を見るような、汚らわしいモノを見るような――そんな目だ。そう――二年前から、何かが変なんだ」
「そんな事はない。きっと、疲れているんだろう。部屋に戻って、休みなさい。では、失礼する」
 靴音が遠ざかり、エリオット大佐の気配が完全に消えた。ソエルは階段の暗がりから光の下に離脱して、背中を向けて佇んでいるノワリーの後ろに移動した。ソエルの気配を肌で感じたノワリーが振り返る。今晩はの挨拶もなしに現れたというのに、ノワリーは驚きも、怒りもしなかった。ソエルがソプラノの声を奏でる前に、ノワリーは無言のまま彼女の脇をすり抜けて、階段を駆け上がって行った。
 微妙な温度の夜風が窓の隙間をすり抜けて、ソエルの頬を撫でて行く。
 空には雲一つ浮かんでいなかった。
 何かが起こる。
 何かが始まる。
 そして、
 何かが終わる。
 きっと――。