僕はこの世界に生まれた瞬間に、悪魔に祝福された。
 母親の命と引き換えに産声を上げた僕は、酒に溺れた父親の暴力を受け続けながらも懸命に生きようとしていた。僕を殴る時、父親は決まってこう言った。妻が死んだのはお前のせいだと。父の悲しみが晴れるのならばと、僕は甘んじて父の暴力を受け止めてきた。そうすればいずれは父が僕の愛に気づき、僕を愛してくれると思っていたからだ。
 でも、僕の愛は裏切られた。父親は僕を愛する代わりに僕を殺そうと画策したのだ。妻を殺した僕に対する報復なのか。保険金目当てかなの。それとも――ただ純粋に、僕を亡き者にしたかったのだろうか。この時だけ僕は抵抗した。刺して、刺して、刺して、彼が肉の塊になるまで刺し続けた。そして僕は家に火を放った。母さんの所に父さんを送り届けるためだ。さよならは言わなかった。いずれまた、会えるのだから。
 父の死は寝煙草が原因の失火による焼死と断定された。火加減を間違えたトーストのように黒焦げになった彼の身体は、さらに炎で炙られて肉の塊から灰の塊になった。天涯孤独の身になった僕は母方の親戚に引き取られたものの、彼らからは地を這う蛇の如く邪険にされた。狭い部屋に押し込められ、冷えきった残飯しか与えられず、それなのに奴隷のように労働を強制される毎日が続いた。なにかと口実を見つけては、彼らは僕を殴り続けたのだ。
 僕が邪険にされていたのは学校でも同じことで、僕の居場所はどこにもなかった。でも、彼だけは違った。黒い髪と青い目を持った綺麗な顔立ちの男の子は、少しも躊躇わずに僕と友好関係を結んでくれたのだ。その彼はクラスのスーパースターで、毎日のように愛の花束を抱えた女の子達が彼の周囲に群がっていた。清純な微笑みの裏に隠された欲望を僕は知っている。お前たちは彼とセックスをして、ハイになりたいだけなんだ。
 彼が美しい青年に成長してからも、奴らは蠅のように群がってきた。
 子供も男と女も年寄りも、欲望を剥き出しにした顔で彼を犯そうとするのだ。
 彼を愛するのは僕だけだ。
 そして、神様が仰ったのだ。
 彼を守れと。
 だから、僕は豚どもを殺した。
 手足を奪い、目を抉ったのも、呪われたものから彼を守るためだ。
 神様の芸術作品を守ろうとしただけなんだ。
 僕は愛されたかった。
 愛を感じたかった。
 誰かに愛され、
 誰かを愛したかった。
 ただ、それだけなんだ。
 ただ、それだけなんだ――。


 真冬の澄み切った空気が、上空から降り注ぐ黎明の光を反射している。
 いつもと同じ時間に家を出ていつもと同じ時刻の地下鉄に乗り、いつもと同じ道程を歩いく。ドラマの再放送みたいに単調で平穏な日常を送れることに幸福を感じながら、ティナはニューランドの歩道を歩いていた。
 ニューランドを覆っていた大寒波は一月とともに過ぎ去ったとはいえ、朝の時間帯は乳白色の霧が漂うほど気温が低く、マフラーとコートに手袋とタイツで完全防備していても、業務用の冷凍庫に押し込まれたみたいに寒いのだ。ティナも仕事場に向かう人々も、何枚も重ね着したせいで雪だるまみたいに膨張していた。
 空腹を感じたら食べ物を欲するように、喉が乾いたら水分を補給するように、生存本能に従ったティナの足は自然と向きを変え、数百メートル先のスタンドに進路を定めていた。購買意欲を刺激された通勤途中のサラリィマンやオフィスレディたちが、どの品物を買おうか吟味している。彼らより頭一つ分背の高い青年を見つけたティナの頬は、自然と緩んでいた。ティナに気づいた青年が片手を上げている。ティナも手を振り返して、誰かに奪われるより先に彼の隣にホームインした。
「おはようございます、アルタイルチーフ」
「ああ、おはよう、ティナ」
 甘く微笑んだシエルの右手には、可愛げのないブラックコーヒーが待機している。甘い笑顔と苦いコーヒーのアンバランスが魅力的だ。
「寒かっただろう。君もなにか飲むか?」
「そうですね。ミルクティーでも、飲もうかな」
「分かった。すぐに買ってくる」
 ミルクティーを買ってくると宣言してから数十秒後、シエルは見事に公約を果たした。だらしない政治家の諸君にも見習ってもらいたいものだ。代金はいいと拒むシエルに無理矢理コインを握らせて、ティナはミルクと砂糖たっぷりの柔らかい色の飲み物を受け取った。
 おはようの挨拶を返された時、正直言ってティナは驚いた。ティナがシエル・アルタイルと出会ってから丸一年は経っただろうか。冷淡で傲慢で無愛想だったシエルは、まるで人格が入れ替わったんじゃないかと思うくらい優しくなった。互いへの愛情に気づき、海のように深い愛を交わしたからだと思う。あの時交わした愛は甘い余韻となって、今も二人の心に強く焼きついているのだ。
「エヴァンズは元気か? メールのやり取りをしているんだろう?」
「週に二、三回ですけど、元気でやっているみたいです。友達もたくさんできたって言っていましたよ」
 ティナに淡い恋心を抱いていたクリスチャン・エヴァンズはメシアを離れ、警察官になるという夢を実現すべく、全寮制の学校で日々勉学に励みながら青春を謳歌している。太陽のように明るい彼の笑顔を見れないのは寂しいが、あと数年もすればティナたちと同じ職場に配属されるだろう。ちなみにクリスチャンが通っている学校はシエルが紹介したものである。
「あの、チーフ。失礼なことだとは思うんですけど――」
「なんだ。遠慮せずに言ってみろ」
「ナタリアさんとは、今も連絡を取り合ったり、会ったりしているんですか?」
 コーヒーを逆噴射するかと思ったが、落ち着いた動作でシエルは口に含んでいたコーヒーを飲み込んだ。
「……まあ、時々、な」
 この浮気者め。ティナは頬を膨らませた。ティナの頬を元に戻そうと、シエルが慌てて弁明を始める。「誤解するんじゃない。色々と相談に乗ってもらっているだけだ」
「相談ってなんですか? デートの日程とかですか?」
「違う。その……異性に告白する時はどうしたらいいとか、女性が喜びそうなデートスポットはどこだとか、そういう類いだ。それに彼女は近々婚約するらしい。相手を聞いたら驚くぞ」
「えっ? 誰ですか?」
「オリヴィエ・オブライエンだ。覚えているだろう?」
 もちろん忘れるわけがない。神の脚と称えられ、若くしてこの世を去ったバレリーナの卵ミシェル・オブライエンの兄である。ナタリアはミシェルの親友で、彼女がいなければミシェルの魂は永遠に救われなかったのだ。亡き妹の親友と亡き親友の兄が運命の赤い糸で結ばれるとは。ときに神様は、思いがけない形で存在をアピールする。
「ナタリアさんとオリヴィエさんかぁ。うん、お似合いですね――って、チーフ! 上手く誤魔化しましたね!? あぁ〜もう! 意地悪!」
 しぼんでいたティナの頬は再び膨らんだ。笑いを堪えながらコーヒーのカップをゴミ箱に押し込んだシエルが、ティナの手を握って歩き出した。突然のフェイントに驚いたティナは、頬を染めてシエルを見上げた。苦いコーヒーを飲み干したというのに、キャラメルのような優しい甘さの微笑みは消えていない。すれ違う婦女子達は熱い視線をシエルに注ぎ、嫉妬の視線をティナに注いでいる。どうだい? 絶世の美青年と手をつないでいるんだぞ。羨ましいだろう。世界中の女の子に自慢したくなりそうだ。
 ニューランドヤードに到着するまで、ティナとシエルの手はつながったままだった。名残惜しいが上司と部下の関係に戻ろう。つながっていた手を分離させて微妙な距離を開けた二人は、繊細な見た目の裏に頑丈な一面を隠し持ったガラスのドアを開けた。法と秩序を守る警察署のロビィは相変わらず混雑している。鍋で煮こまれているシチューの具材になった気分だ。
「よぉ、おはようさん」丸いボディの男性が声を掛けてきた。殺人課の刑事ヴェラだ。「メシアに荷物が届いてたから、オフィスまで運んでおいてやったぜ」
「そうか。ありがとう。では、失礼する」
 目を丸くして驚いているヴェラに気づかないまま、シエルはエレベーターホールに歩いていった。衝撃から抜けだせないヴェラが、ティナの肩をつついた。
「おい。アルタイルの奴、どうしちまったんだ? 地下鉄に撥ねられたのか?」
「馬鹿なこと言わないでくださいよ。チーフだって、ありがとうくらい言います」
「……だよな。明日は大雨だろうな」
 ヴェラと別れてエレベーターホールに向かうと、先にいったはずのシエルがティナの到着を待っていた。以前のシエルならば、容赦なく置き去りにしていただろう。彼の変化ぶりに驚いたティナは、愛という偉大な力を改めて思い知った。人類に愛情の心が埋め込まれていなかったら、地球という惑星はとっくの昔に滅んでいる。
 五階でエレベーターから降りて、廊下の片隅に追放されたメシアのオフィスを目指す。真実を導きだし、いくつもの魂を天国の門に送り届けた誇らしい部署だ。情けないとも惨めだとも思わない。ドアを開けるとフレンとディアナはいなかった。あと少し待てば、二人は出勤してくるだろう。四人揃えば賑やかになる。パーティーでも開こうか。デスクの上に四角い箱が座っていた。ヴェラが運んできた宅配便だ。
「コートを脱いでくる。すまないが、開封しておいてくれ」
「分かりました」
 ティナはペーパーナイフを手に取ると包装紙の隙間に滑り込ませて、ゆっくりと剥がしていった。包み紙の中から現れたのは、シンプルな白い箱だった。差出人も商品名も記載されていないなんて不親切な箱だ。中身を知るには蓋を持ち上げるしかない。セロファンテープを剥がして、ティナは箱の口をこじ開けた。
「きっ――きゃああぁっ!」
「アンバー!? どうしたんだ!?」
 ティナの上げた悲鳴を聞いたシエルが、ガラス張りの部屋から飛び出してきた。恐ろしいものを見てしまったティナはシエルの腕の中に飛び込んで、箱の中身を忘れようと努力した。次いで慌ただしい足音が駆けてくる。フレンとディアナがドアを開け放って飛び込んできた。ティナの悲鳴を聞いて出勤時間を早めたのだろう。
「ティナ! アルタイルチーフ! どうしたんですか!?」
「今、悲鳴が聞こえたけど――どうしたの!?」ディアナがシエルの腕の中で震えているティナを見た。
「箱……箱の中に……」
 小刻みに痙攣を繰り返す指で、ティナは白い箱を指差した。ティナをフレンに預けたシエルが箱に近づき、青い切れ長の目を見開いて瞠目した。常に冷静沈着なシエルが驚きを露わにするなんて、これは一大事だ。シエルの周りに集まったディアナとフレンは彼と同様に息を呑み、小さな箱の中に押し込まれている光景に戦慄した。
 白い箱の内側に入っていたのは、人間の手首と瑞々しい眼球だった。手首の皮膚はゼリーのように弾力があり、二つの眼球は新鮮な果実のように潤っている。まるで、数分前まで人間の身体にくっついていたように見える。シエルが一枚のカードを発見した。カードを拾い上げたシエルの表情が一瞬にして変わった。箱の中身と対面した時よりも動揺している。いったいなにが書いてあるんだ。
「チーフ? そのカードになにが書いてあるんですか?」
「……私は資料室に行ってくる。ロゼラは殺人課にいってこのことを伝えてこい。フローライトはモルグに連絡を。アンバーは科学捜査班のラボにいくんだ」
 ティナの申し出を拒否したシエルは、急いでいる様子でオフィスを出ていった。思い詰めたような横顔がティナの目に映る。数分遅れて、フレンが隣の殺人課に助けを呼びにいく。ティナもシエルの後を追いかけたかった。でも、業務命令には従わないといけない。ずっと側にいてほしいと懇願したくせに、置き去りにするなんてひどいじゃないか。従うべきか無視するべきか葛藤していると、しなやかな手がティナの肩を叩いた。
「チーフが心配なんでしょう? 構わないからいきなさい。ラボには私が連絡しておくわ」
「ディアナさん――」
 謝罪と感謝の意を表明して、ティナは地下深くに埋もれている資料室に向かった。静かにドアを開け、足音を忍ばせながら室内に入った。別に足音を消す必要はなかったが、箱の中で目覚めの時を待っている未解決事件を起こしたくなかったから、大きな音を立てないように注意したのだ。誤って起こしてしまい、すみません間違いでしたと、薄っぺらい希望を抱かせたくなかった。
 白い箱と茶色の箱が整然と並んでいる本棚が室内を圧迫していて、天井近くまで伸びている。白い箱に詰め込まれているのが解決された事件で、くすんだ茶色の箱にいまだ解決されていない事件資料が詰め込まれているのだ。茶色の箱が圧倒的に多い。未解決事件がこんなにあったなんて――。自分の無力さを感じながら、ティナはシエルを捜した。見つけたぞ。床の上に座りこんで箱の中身を撒き散らしている。箱のボディは渋い茶色だ。
「……ラボにいけと言ったはずだが」
「命令を無視したことは謝ります。でも、チーフが心配なんです。それに、ずっと側にいるって、約束したじゃないですか」
「……そうだったな。すまない」
「いえ、謝らないでください。その箱は、未解決事件の資料が入っているんですよね。あれに関係している事件なんですか?」
「そうだ」
 資料が纏められたファイルがティナに手渡される。それを受け取ったティナは、念入りに隅から隅まで目を滑らせた。事件が発生したのは十五年前で、慎ましく生きていた上流家庭が犯人に襲撃された。殺害されたのは愛を誓い合った夫婦。夫妻の息子も襲われて背中に重傷を負ったものの、奇跡的に一命を取り留めた。唯一の生存者の名前を見たティナは、両目を見開いて愕然とした。夫婦の息子の名前はシエル・アルタイル。ティナの目の前にいる青年と同じ名前だったのだ。
「嘘……これって……」
「私の両親は、両手足首と目玉を奪われて殺されていた。模倣犯の仕業かもしれないが、私は十五年前の事件と同じ犯人の仕業だと思っている。両親の殺害現場にも、これと同じ物が描かれていた」
 シエルが純白のカードをポケットから取り出した。トランプと同じサイズだ。ハートやスペード、クローバーとダイヤの定番マークは描かれていないし、七並べをするには枚数が圧倒的に足りない。マークの代わりに描かれていたのは、真っ赤なインクを身にまとったペンタグラムだった。赤いインクの成分は、身体のパーツを奪われた犠牲者のものだろうか。
 シエルは床に散乱している資料を箱に詰め始めた。撤収の合図だ。茶色い箱を抱えたシエルと一緒に、ティナは資料室の深海から地上へ浮かび上がる。メシアのオフィスに帰還した二人を出迎えたのは、任務を完遂したフレンとディアナに、殺人課から派遣されたヴェラだった。箱の重みから解放されたシエルが三人を見つめ、無言で報告を促した。代表者のヴェラが重苦しい表情で口を開いた。
「死体が発見された。……両手足首を切断されて、目玉をくり抜かれた仏さんがな」



 死体が発見された現場は、ニューランドヤードの北に位置するサン・ロレンツォ教会の近くに広がっている高級住宅街の一角だった。神に捧げられた教会の側で殺人を犯すなんて随分と傲慢な犯人だ。現場に着くとすでに数台のパトカーが到着していて、黄色いテープと警官たちが野次馬を遠ざけようと奮闘していた。
 BMWから降りたティナたちは、バッジを見張りの警官の目の前に掲げてロープの内側に入った。殺人課の刑事や鑑識とすれ違いながら歩みを進めていくと、ブルーのビニルシートで構築された天幕が見えてきた。あの奥に犠牲者が眠っているのだ。シートが内側から開く。黒いスーツの上にグレイのコートを羽織った細身の青年が出てきた。思わぬ人物の登場に、ティナたちは驚いた。
「エクリー?」
 シエルの呼びかけに青年が反応した。眼鏡の奥の緑色の目が丸くなる。青年の名前はエクリー・エクリプス。階級は警部で、ロムレス本部に籍を置くエリート警察官だ。
「やあ、どうも。久し振りだね」
「なぜ君がここにいるんだ? ロムレスに戻ったと思っていたが――」
「十五年前の事件と同じ方法で殺害された死体が発見されたって聞いて、応援に駆けつけたんだよ。もちろん上の許可は取ってある。少しでも君たちの力になりたいと思ったんだ。迷惑だったかい?」
「そんなことはない。ありがとう」
「殺害されたのはこの家の住人、エヴェンポート一家だ」
 一家ということは、もしかして――。ティナたちの背筋を戦慄と悪寒が駆け抜ける。ティナたちの不安を察したエクリーが表情を曇らせた。エクリーは言葉を続ける。それが義務だというふうに。
「……エヴェンポート夫妻と二人の子供は、僕たちが到着した時にはすでに死んでいた。夫妻の両手足首は切断されていて、子供の眼球もくり抜かれていたよ。……ひどいことをする」
 エクリーがブルーシートのテントを指差した。
「彼らの遺体はあの中だけど……アンバーさんには、見せないほうがいいと思う。遺体はモルグに運んでおくよ。それでいいかな」
「手間をかけさせてすまない」
「いいんだ。気にしないで」
 シエルの肩を叩いたエクリーは、再び遺体と対面するためにテントの中に姿を消した。次は現場検証だ。家主の裕福さを象徴する豪邸の中へ入る。天井から吊り下げられた豪奢なシャンデリア。繊細な模様で縁取られた螺旋階段。職人たちの努力の汗が染み込んだペルシャ絨毯が、家中の床を保護している。家の中は科学捜査班の独壇場で、彼らは最先端の道具を駆使して宝探しをしていた。順番に部屋を覗いて殺害現場を探していると、見慣れた若者を見つけた。ティナたちに気づいた若者が微笑んだ。メシアに幾度となく協力してくれた、スペック・リードだ。
「お疲れ様です。殺害現場はこの奥の寝室です。どうぞ、入ってください」
 ティナを見るリードの目は温かい思いやりに満ちていた。ここにいる誰もが、メシアに復帰して間もないティナの心を気遣ってくれているのだ。死者の魂を見捨てて逃げないと誓った。だからいかなくてはいけない。大丈夫だとアピールすると、頷いたシエルは先陣を切って寝室に入っていった。凄惨な光景から少しでもティナを守ろうとしてくれているのだ。
 ワックスで磨き抜かれたフローリングの床に赤い血溜まり染み込んでいた。天井と壁に飛び散った血痕は、発狂した画家が絵の具を染み込ませた筆を振り回して描いたみたいだ。赤い液体は天蓋付きのダブルベッドの近くに集中している。ベッドの側で命を奪われたに違いない。しかし逃げないと決意はしたものの、神をも恐れない殺人の痕跡を見せつけられると、ティナの固い決意は危うく揺らぎそうになった。シエルの手がティナの手を包み込み、折れそうになった心を奮い立たせてくれた。
 寝室の床と壁に不気味な物が描かれていた。一つはペンタグラム。あの白い箱に添えられていたカードに刻まれていた模様と同じ物だ。もう一つは円形の巨大な魔法陣だった。バツ印で区切られたスペースに、見たことのない文字が書かれている。不気味な物体はそれだけではなかった。魔法陣の中央からやや東側に40センチ角の二つの箱が重ねられていて、直径15センチ、高さ1.6メートルほどの門柱が立てられていたのだ。数は二つ。材質はベニヤ板だ。どちらも黒と白に塗装されており、二つの箱の両側に設置されている。それらが放つ異質なオーラを誰もが感じ取っていた。
「なんですか? これ――」ティナの声は震えていた。
「悪魔を召喚しようとしたのかな。ペンタグラムも魔法陣も血で描かれてるよ」
「この魔法陣……どこかで見たような気がするんですけど――」
「これはこれは……どちら様かと思えば、窓際部署の刑事さんたちじゃありませんか」
 敵意を剥き出しにした声がティナ達の推理を妨害した。メシアに敵意を抱いているのは彼らしかいない。予感は見事に的中した。縄張りを荒らされた犬のような表情をした、殺人課の刑事たちが立っていた。彼らの怒りはティナたちを迎え入れたリードにも向けられている。リードを裏切り者だと思っているようだ。
「あら。こんにちは」
 貴族の令嬢のようにディアナが微笑む。刑事たちは一瞬頬を緩めたものの、即座に魅惑の笑顔を振り払い、厳格な顔つきに戻った。残念。あと少しで、男たちを魅了できたのに。
「どうやってここを嗅ぎつけんたんだ? 犬並みの嗅覚だな」
 シエルはなにも答えなかった。正しい判断だと思う。こういう輩は相手にすればするほど傲慢になるのだ。シエルが抵抗しないことをいいことに、刑事はさらに醜い言葉を吐き出した。
「この事件、アンタが巻き込まれた十五年前の事件と同じ手口らしいな。アルタイル警視さんよぉ、もしかして、アンタがやったんじゃないのか? 注目されたくて、やっちまったんだろ?」
 この場にいる誰もが醜い言葉を吐き出した刑事に怒りを感じ、心の傷を抉られたシエルに同情した。なかでもティナの内側で燃え盛った怒りは凄まじく、それはティナの身体と舌を媒介にして表現された。簡単に言うと、ティナの怒りが爆発したというわけだ。
「アルタイルチーフはそんなことしない! チーフに謝りなさいよ! アンタたちは最低よ! 最低のクソ野郎だわ!」
 刑事たちの顔が縄張りを荒らされた犬の顔から、ゴリラのような顔つきに変わった。荒い鼻息。胸を叩いて威嚇している。若い者は血気盛んだ。フレンが進み出た。ディアナも戦う意思を示している。リードはどうだろう。カメラのフラッシュで目を眩ませて、援護してくれるだろうか。さあ、決闘を始めよう。ティナの真横から伸びてきた黒い腕が、ティナたちの決闘を止めた。
「愚かな行為はやめろ。ここは殺人課の担当だ。ニューランドヤードに戻るぞ」
 シエルに命令されたからには従わなければいけない。ここはおとなしく引きさがってやる。すれ違った時に見えた刑事たちの横顔は、腹立たしいほどに勝ち誇った笑みを浮かべていた。主を失った家を出てブルーシートの天幕を視界の端に捉えながら、道路の片隅に駐車してあるBMWの所へ向かう。漆黒の車は、落ち葉のドレスをまとって待っていた。
「殺人課の人たちは、どうしてメシアを敵視しているんですか?」
「俺にもよく分からないけど……多分、自分たちが投げ出した事件をメシアが解決しているからじゃないかな。ほら、あとで食べようと取っておいたケーキを、勝手に食べられたら腹が立つだろ?」
「それはそうですけど……」フレンの例えはとても分かりやすかったが、あの刑事たちに対する怒りが収まったわけではない。
「でも、あれはひどいですよ! チーフもチーフです! おとなしく引きさがるなんて、チーフらしくないですよ!」
 ティナたちに背を向けているシエルは相槌を打つ素振りも見せず、ただ無言で佇んでいた。いつもの彼ならば、誰も太刀打ちできないような毒舌を炸裂させるというのに、マリッジブルーの花嫁みたいにおとなしかった。おかしい。今日のシエルは、普段の彼となにかが違うのだ。心配したティナが声をかける前に、黒い背中を向けたままのシエルが口を開いた。
「……少し、頭を冷やしたい。すまないが、先にニューランドヤードに戻ってくれ」
「……分かったわ。風邪をひかないようにね。フレン、行きましょう」
 質問も詮索もしないまま、ディアナとフレンは銀色の車に乗り込んで、指示された通りに走ってきた道を引き返していった。ティナはその場に残っていた。ディアナが積み忘れたわけではない。自らの意思で留まることを選んだのだ。ようやくシエルが肩越しに振り向いた。ティナを一瞥したシエルは移動して、BMWに背中を預けて空を仰いだ。側にいってもいいだろうか。ティナもシエルの軌跡を辿り、彼の隣に移動した。文句の雨は降ってこない。数分間、二人で同じ空を見上げていた。
「チーフ。まさか、彼らの言ったことを真に受けているんですか?」
「違う。……やはり、過去からは逃げられないと思い知らされただけだ」
 青い目を伏せたシエルは一瞬黙り込み、再び口を開いた。彼の口から紡ぎ出されたのは、十五年前の灰色の記憶だった。


 1998年の二月九日。時刻は深夜二時半だった。二階の自室で就寝していたシエルは、階下から聞こえて来た物音で目を覚ました。風が窓を叩く音だろうと思って寝返りを打った直後、シエルは自らの耳が錆びついていたことに気づいた。次の瞬間、絹を裂くような悲鳴が響いたからである。風の音じゃない。あれは――母親の悲鳴だ。次いで、男性の叫び声が後に続く。父親の声だ。誰かと争っている。争う声と音は、しばらくのあいだ続いたのち途切れてしまい、不気味な静けさが訪れた。ベッドから下りたシエルは勇気を奮い立たせ、自らを待ち受ける運命を知らないまま、一階に続く階段を下りて行った。
 リビングに足を踏み入れると、凄惨な光景がシエルを出迎えた。ガラスの破片が飛び散り、テーブルとソファが横倒しになっている室内に、三人の人間がいた。二人は床の上に転がっていて身動きせず、残りの一人が二人の上に馬乗りになって、何かの作業に没頭していた。物を削るような音と錆びた鉄の匂い。いったい奴は何をしているんだ。気づかれないように距離を縮めようとシエルは一歩踏み出した。シエルの足が踏み締めたのは冷たい床ではなく、粘り気のある赤い液体――血だった。不覚にも小さな悲鳴を上げてしまった。背中を向けていた黒い影が動く。シエルの存在に気づいた奴が振り向いたのだ。
 白いカーテンが翻り、開け放たれた窓から青白い月の光が差し込んで、真っ暗だったリビングを照らしだした。そして、シエルは惨たらしい亡骸と成り果てた両親の姿を見てしまった。両親の片方の手首は切断されていて、夥しい血液が流れ出ていた。全身には無数の刺し傷が刻まれていて、父の足には鋸の刃が食いこんでいる。物を削っているような音は、鋸で足首の骨を削っている音だったのだ。逃げなければ殺される。シエルの遺伝子に組み込まれた防衛本能が叫んだ。
 しかし、シエルは逃げ出すことができなかった。頭は逃げろと叫んでいるのに、身体が言うことを聞いてくれないのだ。湧き上がる恐怖が今にも爆発しそうだった。そしてシエルは襲いかかって来た犯人に、いとも容易く押し倒されてしまった。子供のような小さい身体が覆い被さってくる。右手には血塗れのナイフが握られていた。殺される。シエルは身近に迫った死を覚悟した。
 だが犯人は、シエルを突き刺すことはせずにパジャマのボタンを外し、露わになった彼の素肌を唇と舌でなぞり始めたのだ。首筋から喉、喉から鎖骨へ、胸郭全体に腹部と、臍の窪みにまで舌を突き入れられる。まるで金縛りに遭ったかのようにシエルの身体は動かず、されるがままになっていた。胸の頂きを湿った舌で転がされるたびにシエルは震えた。両親を殺した殺人鬼に犯されようとしているのに、どうして身体は動いてくれないんだ。
 犯人の手がパジャマのズボンの内側に潜り込んで下着の中に侵入した時、シエルを縛っていた見えない鎖が弾け飛んだ。叫び声を上げながら、シエルは死に物狂いで抵抗した。両手を振り回し、両足で床を踏み鳴らす。突然の抵抗に驚いたのか、犯人がシエルの上から退いた。シエルは逃げようとした。だがすぐに捕えられてしまい、うつ伏せにされて床に押し付けられた。性行為の続きをするのかと思ったが、シエルの視界に映ったのは、振り上げられたナイフだった。
 灼熱の痛みがシエルの背中を走り抜けた。
 それは一度だけでは終わらず、何度も何度もシエルの背中を駆け抜けていった。
 皮膚が裂かれ、肉が抉られる。
 死ぬ前に、
 殺される前に、
 もう一度、両親の温もりに触れたかった。
 暗闇がシエルの視界にまとわりつく。
 シエルの瞼は、ゆっくりと閉ざされていった。


「……十五年前、家族を奪われた私はずっと死に囚われていた。何でもいい、どんな方法でもいい、ただ、死にたかった。父と母のいる天国に飛んでいきたかった」
 魂の扉を開いたシエルは、自らの過去を語り始めた。彼が背負った過去の重さと死を示唆するような恐ろしい言葉に、ティナは息を呑んだ。
「孤独だった私は、とある人に救われた。その人は十五年前の事件を担当していた警察官の一人で、背中に重傷を負って瀕死の状態だった私を見つけてくれた人だった。死に焦がれる私を優しく包んでくれて、涙を流しながら必ず犯人を逮捕すると約束してくれた。そして彼は、私に生きる希望と素晴らしい夢を与えてくれたんだ。彼と同じ警察官になるという夢を――」
「その人は、今も刑事として活躍しているんですか?」
 ティナの質問に、シエルは首を振った。
「彼は――死んでしまった。殺人犯に殺されたんだ」
「えっ――?」
「執念ともいえる捜査の末に、彼は私の家族を殺害した犯人を見つけ、抵抗する犯人を捕えようとした際に……刺し殺されてしまったんだ」
 シエルは悲痛な表情をしていた。まるで、彼の死が自分の責任だというふうに。不意に、ティナの脳裏に過去のワンシーンが蘇った。真夜中に包まれた家の書斎。疲弊しきった父の背中を、裏切られた表情を浮かべた幼いティナが見つめている。
『パパの嘘つき! こんどの日曜日、水族館に連れていってくれるっていったじゃない!』
『ティナ……』椅子から立ち上がった父が、身を屈めてティナを正面から見つめた。机の上に散乱した書類が父の激務ぶりを教えてくれた。
『ごめん。約束を破ってしまったことは、悪いと思っているよ。でも、あと少しで悪い人を捕まえることができるんだ。彼の家族を奪った犯人を逮捕できるんだよ。分かってくれるかい?』
『わからないわ! パパの嘘つき! パパなんて大嫌い!』
 父を罵る発言をすると、幼いティナは書斎のドアを跳ね飛ばして出ていった。腰を屈めた父が、彼女が出ていったドアを悲しい目で見つめている。そして父はティナの前から姿を消し、冷たい骸と成り果てて戻って来たのだった。母と一緒に病院の霊安室に行ったティナは、医師が話す父の死因をぼんやりと聞いていた。医師の言葉は難解で、四歳のティナには理解できなかったが、「死」という一言だけが、とてつもなく恐ろしいモノだと理解できた。過去の情景から離脱したティナの身体は、小刻みに震えていた。
「アンバー? 大丈夫か?」
「チーフを助けてくれた人って……」ティナは鞄を開けて、肌身離さず携帯している写真を取り出した。「この男の人ですか?」
 写真に写っていたのは、ライトブラウンの髪とティナと同じ蜂蜜色の目をした、優しく微笑んでいる男性だった。ティナから写真を受け取って男性と目を合わせたシエルの青い目が、夜に浮かぶ満月のように丸くなった。
「確かに同じ人だ。なぜ君が彼の写真を?」
「彼の名前はクロード・アンバー。私の……父です」
「まさか――」
「去年言いましたよね? 私の父は警察官で、逮捕しようとした犯人に刺されて命を落としたって。まさか、チーフのご家族を殺した犯人を追いかけていて、その犯人に殺されたなんて」
 離脱したばかりの過去のワンシーンが蘇り、ティナの心をつつき始めた。水の中から空を見上げているみたいに視界が滲んでいく。
「父さんは、パパは、チーフとご家族の無念を晴らそうと必死で捜査して、犯人を捕まえようとしていた。それなのに、私は水族館に行けなかっただけでパパを罵って、大嫌いって言ったんです。その次の日、パパは死にました。謝れないまま、さよならも言えないまま、パパは、天国に行っちゃった――」
 ティナは喋り続けた。言葉がしまわれている扉の蝶番が弾け飛んだようであった。
「パパができなかったことをしたかった。パパが救えなかった人を助けたかった。パパが生きていれば救えたはずの、魂たちを救ってあげたかったんです。メシアに配属が決まった時は、本当に嬉しかった。パパの魂を救えると思ったから」
 ティナは引き攣った笑顔を浮かべていた。無理矢理捻じ曲げた針金を皮膚の下に埋め込んだような、下手くそな笑顔だった。シエルを見上げた蜂蜜色の瞳は、溢れ出した涙を持て余している。流れ出すのは時間の問題だろう。涙の水圧に負けたティナは、肩を震わせて嗚咽を漏らした。かける言葉も見つからないままシエルはティナを抱き締めて、悲しみで痙攣する背中を撫で続けた。
「お願い。死にたいなんて言わないで。パパみたいに私を置いて行かないでください。残された人は、悲しくて、悲しくて、死んでしまいたくて、それでも会いたいのに会えない、胸が引き裂かれそうなほど苦しくて、つらい思いを噛み締めながら生きていかなきゃいけないんです。だから、死なないでください。お願いだから――」
 シエルはティナの頭を優しく抱いて、自らの胸に押し付けた。彼の背中に両手を回して、ティナはその鼓動に耳を傾けた。
「……分かった。もう、馬鹿なことは考えない。我々で父上の魂を導こう。そして、二人で生きよう」
 ティナを離したシエルが、コートのポケットから小さな箱を取り出した。
「だから――これを、受け取ってくれないか?」
 シエルがポケットから取り出したのは、宇宙の色を吸い取ったミッドナイトブルーの小さな箱だった。シエルの手が箱を開ける。土台に挟まっていたのは、シルバーのペアリングだ。模様も宝石もチャームも付いていない、土星の輪のような外見のシンプルなリング。星の色を写し取ったボディには、ティナとシエルのイニシャルが刻印されていた。
「チーフ……これは……」
「本当はエンゲージリングを渡したかったのだが……君の誕生石を知らなかったから、しばらくはこれで我慢してほしい。ティナ、私と結婚してくれ。ティナ・アルタイルになってくれないか?」
 ティナは一歩を踏み出せずにいた。シエルのプロポーズが嫌なわけではない。むしろその逆だ。なぜならばティナはシエルに処女を捧げる前に、邪悪な獣に食い尽くされてしまったからだ。その時の暗い記憶が、今もなおティナを苛んでいるのだ。
「私は……シエルさんに相応しくないと思っています。馬鹿で、ドジばっかりして、頼りない泣き虫な子供です。それに――」
「それ以上は言わなくていい。確か前にも言ったはずだ。君の身体も心も汚れてはいない。私は、ティナという魂に惹かれて、ティナという魂に恋をしたんだ。君の魂は綺麗で美しい。だから、誰も君を汚すことはできないんだ。君のいない人生なんて考えられない。私は君の全てを知りたい。君と幸せを感じたいんだ」
 ティナを見つめる青い瞳は真摯で、彼女への深い愛に満ち溢れていた。
 ティナだってそうだ。シエルへの愛が溢れ出しそうだった。
 素直になろうよ、ティナ・アンバー。
 青い星を道標にして、彼と一緒に人生の大海を航海しよう。
 空に舞い散る灰になるまで、愛を感じよう。
「……私も、シエルさんの花嫁になりたい。貴方の花嫁にしてください」
「もう一度、言わせてくれ。ティナ、私と結婚してくれ」
「……はい」
 ティナの左手を優しく手に取ったシエルは、彼女の薬指に神秘的に輝く銀色の指輪を嵌めこんだ。
 宝石なんて必要ない。
 光に照らされるたびに、指輪は虹の色に頬を染めるから。
 ティナとシエルは見つめ合い、抱き合って静かに唇を重ねた。
 二月の空に教会の鐘が鳴り響く。
 真冬のニューランドに相応しい、凜とした澄み切った音色だった。
 神の歌声に耳を傾けながら、ティナとシエルは一つに溶け合った。


 婚礼を誓い合ったティナとシエルはニューランドヤードに帰還すると、地下深くに眠るモルグに向かった。ディアナとフレンは科学捜査班のラボにいる。青白いスポットライトが照らしているのは検死台のステージで、ステージの上にいるのは四人の遺体。殺害現場から輸送されてきたプレンティス一家だ。両手足首をもぎ取られ、眼球を盗まれた無残な姿が痛々しい。幸せに暮らしていた家族をこんな姿にするなんて許せない。四人をシートで覆ったジャックが十字を切って溜息をついた。
「……ひどいっスね。瞼と目を奪われているから、大地の底で安らかに眠ることもできないんですよ」
 デスクの引き出しからファイルを取り出したジャックが内容を読み始めた。
「死亡推定時刻は、午後九時から十時半の間。死因は射殺。こめかみに火傷の痕跡はないし、被害者の身体から発射残渣(はっしゃざんさ)は検出されませんでした」
「発射残渣?」聞き慣れない言葉にティナは首を傾げた。
「拳銃を発砲すると、煤、鉛、アンチモン、バリウム、亜硝酸塩が飛散して、発射した者の周囲に付着するンだ。異国でよくいう硝煙反応は、上記の亜硝酸塩の反応のことさ。自殺の場合、上記の物の反応が本人に付いていないとおかしいんだ。ただ外から撃ち殺して、本人にその銃を握らせて弾を撃てば偽装はできるけどな。でも、自殺は銃を密着させるから、その部分が火傷をしていないとおかしいってコト」
「成程。火傷と発射残渣が見られないということは、自殺じゃないってことですね?」
「そのとおり!」
「被害者の両手足首と、眼球を奪った凶器の種類は?」
「骨の断面を見てみました。鋭利な刃物で切断したようには見えませんでしたよ。こう、力任せに叩き切ったというか、そんな感じっス。多分、鋸かチェーンソー、肉切り包丁のどれかだと思うんスよ。逆に、目玉は鋭利な刃物で抉り取っていますね。弾は摘出して、骨の断面図と一緒に科学捜査班のラボに送っておきましたんで」
 ジャックの報告を聞いていると、デスクに座っている電話が歌を歌い出した。内線電話というタイトルだ。ファイルを投げ捨てたジャックが受話器を取る。シエルの目の前で大事な資料を放り投げるとは何事だ。数十秒の短い会話。受話器を置いたジャックがターンした。
「リードからです。話したいことがあるから、至急、科学捜査班のラボまで来てほしいそうです」
 モルグから上昇して四階にあるラボへ。なぜか白衣を引き摺ったジャックもついてきた。地下に籠ってばかりだと、ミイラみたいに干からびてしまうと思ったんだろう。ガラスの向こうにディアナたちを見つけた。水族館の観客から水槽の中で泳ぐ魚になったティナたちは、ディアナとフレンと合流した。
「突然呼び出してすみません」ホワイトボードをエスコートしてきたリードが頭を下げる。「ジャック? 君を呼んだ覚えはないんですけど――」
「うっせえ。オレだって、メシアの一員なンだよ」
「まあ、いいですけど。皆さん、この写真に見覚えはありますよね?」
 リードがボードを指差す。彼の指を追いかけて、ティナたちはボードに貼り付けられた写真を認識した。プレンティス家の寝室に描かれていた謎の魔法陣と、不気味な祭壇を映した写真の群れだ。忘れようにも忘れられない。否、忘れてはいけない光景だ。
「これは四大天使召喚魔術の際に用いられる物なんです」
「四大天使って……ミカエルとガブリエル、ラファエルとウリエルのことですよね。その、召喚魔術って何ですか?」
「19世紀末のイヴァリース国で、黄金の暁教団と呼ばれた魔術教団が構成したものです。この教団は、ユダヤ神秘思想カバラやグリモワという魔術書を素材に、魔術研究や宇宙の秘密について研究を重ねていたと伝えられています。この祭壇と黒と白に塗装された柱は、古代ユダヤの祭壇を模倣した物なんですよ」
「魔法陣に書かれている文字は分かるの?」
「解読済みです。時計回りに、東、南、西、北、と書かれていました。そして、こんなふうに――」
 リードの指が、空気のキャンバスに絵を描いた。
「ペンタグラムの形を作って、東、南、西、北の順に、呪文を唱え、最後に大天使召喚の呪文を唱えるんです」
 リードの講義は終了した。魔法陣と祭壇の正体は暴かれたものの、事件の真相には辿り着けないままだった。なぜ被害者の両手足首と眼球を略奪したのか。どんな目的で、四大天使を召喚しようとしているのか。考えれば考えるほど、真実が迷宮の奥深くに逃げて行くような気がする。誰かがガラスを叩いているぞ。視線を向けると、ヴェラとエクリーという意外な組み合わせが透明なガラスの外側に立っていた。二人に共通しているのは、排気ガスのように重苦しい表情だ。
「悪い知らせだ。……また、死体が発見された。それも、三か所同時にな。どれも同じ手口で、一家皆殺しだ」
 ティナたちは一斉に息を呑んだ。どれだけ業を深める気なんだ。ヴェラが会話のバトンをエクリーに渡す。
「殺人課の刑事たちが現場に向かっている。これが現場の住所だ。僕とヴェラも今から行ってくるよ」
 シエルにメモを手渡したエクリーは、足早にラボを出て行った。ヴェラの両足は床に沈んだままで、腕組みをした彼は警戒しているような険しい目つきで、遠ざかるエクリーの背中を睨んでいる。
「あの野郎、エクリーとか言ったよな。どうも信用できねぇ」
「エリートだからじゃないの? 確か、前もそう言ってたわよね」
「それもあるけどよ。なんて言うか、こう、羊の皮を被った狼というか、悪魔というか――。とにかく! 奴は信用できねぇんだよ! お前らも気をつけろよ!」
 自らの語彙の乏しさに憤慨したのか、喚き散らしたヴェラは足音を響かせてラボから立ち去った。エクリーに難癖をつけて決闘が始まらないといいが。しかし報告を受けたはいいが、殺害現場に急行しても、また殺人課の刑事たちに暴言を浴びせられ、蠅みたいに追い払われてしまうだろう。奴らのスパイはヴェラとエクリーに任せよう。ティナたちは二手に分かれて、現場周辺で情報を集めることにした。
 ティナとシエルは北と西へ、ディアナとフレンは東と南の現場に向かった。どの現場も教会の近くに密集している住宅地だ。神の足下で殺人を繰り返すなんて。偉大なる存在に敵対心を抱いているのだろうか。一軒ずつ根気よく回ってみたが、事件の糸口となるような話はなかなか聞けなかった。最後の家の呼び鈴を鳴らす。出て来たのはトイプードルを腕に抱いた女性だ。シエルの微笑みとバッジを見せて、マダムの警戒心と緊張を解きほぐした。
「ニューランドヤードのアルタイルとアンバーです。最近、変わった事や、怪しい人物を見ませんでしたか?」
「そうねぇ……」女性が頬に手を添える。ダイヤの指輪が煌めいた。「空き巣が多くなったことぐらいかしら。怪しい人物じゃないんだけど、昨日か一昨日、刑事さんが注意を呼び掛けに来たわね。夜中も見回りしてくれるって言ってたわ」
 これ以上有力な情報を得られそうにないと判断した二人は、彼女にお礼を言ってBMWの所に向かった。ドアを開けて乗り込もうとしたその時、あの女性が叫びながら走って来た。金切り声が閑静な住宅街に響き渡る。いったいどうしたんだ。彼女が坂を転げ落ちる前に、駆け寄ったシエルが女性を受け止めた。
「怪しい人物を思い出したの。物陰に隠れて、コソコソしていたわ。私、そいつがロンバルディアさんの家から出て来たのを見たのよ! きっと、そいつが彼らを殺したんだわ!」
「落ち着いてよく思い出してください。不審人物の性別や服装、人相は覚えていますか?」
「多分……男よ。刑事さんと同じくらいの年齢だと思う。灰色のパーカーに、ジーンズを着ていたわ。暗かったし、家の窓越しに見ただけだから人相は分からないの。ごめんなさい。でも、時間は覚えているわ。昨日の午前一時頃よ」
 女性を家まで送り届けて名刺を渡し、ティナとシエルは漆黒の車に乗り込んだ。必死で追いかけて来た彼女の情報は、殺人犯を追い詰める手掛かりとなるのだろうか。シートベルトを締めようとしたシエルのポケットが振動した。引き摺り出した携帯電話のボディを上下にスライドさせたシエルが通話を始める。通話を終えたシエルが携帯を押し込んで、助手席のティナを見た。
「フローライトからだ。重要な事を思い出したらしい。急いで戻るぞ」
 BMWを飛ばしてニューランドヤードに戻る。メシアのオフィスに入ると、二人を呼び戻したディアナは既にプレゼンテーションの準備を整えていた。お疲れ様です。フレンの労いの言葉とともに、絶妙な温度の紅茶とコーヒーがプレゼントされた。数枚の写真がデスクに展開された。十後半代から二十代の女性が微笑んでいる。モデルの選考でもするつもりか。
「この人たちは?」
「ルイーザ・ワイリーとエレクトラ・ランバルディア、エマ・フルーレルに、シエナ・ナイトレイ。この事件の犠牲者よ。彼女たちの写真を見て思い出したの。チーフも見覚えがあるでしょう?」
「いや――」眉を寄せたシエルが首を振る。「見覚えはないが」
「覚えてないの?」ディアナは驚き、些か怒っていた。「まあ、いいわ。彼女たちは、皆アルタイルチーフに告白をしているの。罪の告白じゃないわよ。愛の告白をね。まったく……一人も覚えていないなんて、ひどすぎるんじゃない?」
「チーフはティナ一筋だからね」フレンが軽口を叩き、シエルに睨まれて慌てて口を閉じた。
「犯人は彼女たちに嫉妬して殺したということか? それならば、なぜ家族全員を殺したんだ。それに、手足と目玉を奪う必要はないはずだ」
「嫉妬ということは、犯人は女性ということですよね」
「決めつけるのはまだ早い。残虐すぎる手口だ。怨恨の可能性もある。不審人物を目撃したという情報を得た。その男は二十代後半。灰色のパーカーとジーンズという服装で、午前一時頃にランバルディア家から出て来たところを目撃されている」
「空き巣をしようと家に侵入して見つかったから、一家を殺害したのかもしれません。でも、顔も名前も分からないから、捜すのに一苦労しそうだなぁ」
 フレンが早くも根を上げた。確かに広大なニューランドの中から特定の人物を捜し出すのは至難の業で、大海原に落とした一粒の真珠を拾い上げるようなものだ。その男を見つける前に、ティナたちの寿命が尽きてしまうかもしれない。メシアの応援要請を快く引き受けてくれそうな人間なんて思い当たらない。わずか四人のメンバーで地道に捜していくしかないのだ。
 真冬の寒さと戦う準備を整えて一階のロビィへ向かう。ティナたちがロビィに足を踏み入れると同時に、一人の若い男性がダンプカーの如く突撃してきた。青白い顔に血走った目。恐怖に怯えて一睡もしていないような、憔悴しきった顔だ。ナイフを持った襲撃者か? それとも、コカインでハイになった異常者か? 瞬く間に男は警官たちに捻じ伏せられた。警察署で暴れようとは無謀の極み。ライオンに喧嘩を売るネズミのようなものだ。
「ちくしょう! 放せ! 放してくれ! 俺は見ちまったんだよ! 見ちまったんだよぉっ!」
 警官の下敷きになった男が叫ぶ。サンドウィッチに挟まれたハムとチーズみたいだ。素知らぬ顔で通り過ぎようとした時、男がティナの足を掴んだ。
「助けてくれ! 俺は死にたくない! 死にたくねぇんだよっ!」
「やっ――やだっ! 放してください!」
 怯えた目をした男が這い上がってくる。底なし沼に引き摺り込まれるような恐怖がティナを襲った。シエルとフレンが力ずくで男を引き剥がし、床に叩きつけた。灰色のパーカーにブラックのジーンズ。男の全身が露わになった。ちょっと待って。あのマダムが目撃した不審人物と同じ服装じゃないか。
「アルタイルチーフ! この人、もしかして!」
「あの夜に目撃された不審人物かもしれん」シエルが警官たちを振り返る。「すまないが、彼の身柄は私たちが預からせてもらう。さあ、立つんだ」
 大海原の中に落とした真珠を見つけたぞ。男の身柄を預かったティナたちは殺人課の取調室をレンタルして、そこに男を閉じ込めた。箱庭の中で男は両手で頭を抱えて震えている。ティナたちには見えない幻覚に怯えているのか。
「奴の名前が分かりました」ファイルを抱えたフレンが戻って来た。「エメット・ピアス。年齢は二十七歳。空き巣の常習犯で、過去に四回逮捕されています」
「よし。尋問を始めるぞ。アンバーとロゼラはここで待機していろ。フローライトは一緒に来てくれ」
「了解」
 シエルとディアナが取調室に入って行った。ティナとフレンはマジックミラー越しに観察を始めた。腕と脚を組んだシエルがエメットの正面に座り、ディアナは彼の斜め後ろに回り込む。
「エメット・ピアス」名前を呼ばれたエメットが面を上げた。落ち窪んだ目と無精髭が、彼の恐怖を物語っている。「昨日の午前一時、お前はどこにいて何をしていた?」
「嘘をついても無駄よ。調べれば簡単に分かることなんだから」
 二人の放つオーラに圧倒されたのか、観念したエメットは震える唇を動かし始めた。
「あの夜は……また悪い癖が出てよ、適当な家を見つけて、空き巣に入ったんだ」
「ランバルディア家か?」シエルの問いかけにエメットが頷く。「一家を殺したのはお前か」
「違う! 俺は殺してねぇ! 俺が家の中に入った時には、皆くたばってたんだよ! 俺は見たんだ! 家の奴らを殺した犯人を見たんだ! 奴に見つかって、死にたくなかったら言うことを聞けって脅されて、それで次の日、警察に通報したんだ。そうしろって、アイツに言われたから」
「そいつの顔は見たの?」
「……いや、見てねぇ。顔を見たら殺すって言われたから。でも、一瞬だけ見えた物があるぜ。あれは――バッジだった。アンタらが付けてるような、警察官のバッジだった。本当だ。この目で確かに見た。なあ、正直に白状したから俺を守ってくれよ! 奴に殺されちまうよ!」
「殺人課に話をしておく。明日また来い。その際は、シエル・アルタイルに会いに来たと言え」
 椅子から立ち上がろうとしたエメットが動きを止めて、正面に座っているシエルに視線を注いだ。シエルに見惚れているわけではなさそうだ。左右の眉が合体しそうなくらい、眉を顰めていたからだ。エメットの変化に警戒したディアナが、ベルトのホルスターに右手を添える。シエルは青い目を逸らさずに、不躾な彼の視線を受け止めた。
「アンタが――シエル・アルタイル?」
「そうだが。それが何か?」
「いや……奴がブツブツ呟いていてさ。よく聞こえなかったけど……シエルって言ってたのを覚えていたから」
 空き巣の常習犯の取り調べは終わった。守ることはできないが、外まで護衛することはできる。空き巣の常習犯とはいえ、彼も一人の一般市民なのだ。ティナたちはエメットをロビィまで送り届けることにした。丁度そこに、諜報活動を終えて帰還したヴェラとエクリーが現れた。ヴェラたちとエメットがすれ違う。エメットの背中はニューランドの街に溶け込んでいった。
「今の人は?」振り返ったエクリーが質問してきた。
「エメット・ピアス。空き巣の常習犯です。ランバルディア一家を殺害した犯人と鉢合わせしたらしいので、詳しい話を聞いていたんです」
「犯人と? 顔は見たのかい?」
「いえ、見ていないそうです。でも、警官バッジを見たそうですよ」
「そうか――」一瞬、眼鏡の奥の緑色の双眸が暗い翳りを帯びた。「犯人は、警察官なのかな」
「まだ何とも言えません。でも、被害者同士を繋ぐ共通点を見つけましたよ」
「共通点? 是非、聞いてみたいな」
「ルイーザ・ワイリー、エレクトラ・ランバルディア、エマ・フルーレル、シエナ・ナイトレイ。彼女たちは、全員アルタイルチーフに告白していたんです」
「アルタイルに愛の告白だって!?」
 笑いのツボを刺激されたヴェラが吹き出した。シエルに対して失礼だぞ。ティナが一睨みすると、彼は口元を引き締めた。
「犯人は彼女たちに嫉妬して、一家全員を皆殺しにしたってワケか? となると、犯人は嫉妬に狂った女だな。間違いない」
 いや、もしかしたら犯人は男かもしれないぞ。神話に登場するゼウスとアポロンは、美しい少年を寵愛していたと伝えられているし、山羊に似た脚と角を持つ牧神パンは、野山で美少年を追いかけ回したと記載されている。シエルはアポロンにも劣らない容姿の持ち主だ。女性のみならず、男性を魅了していてもおかしくない。
「さっきも言ったが、犯人が女だと決めつけるのはまだ早い。金目当てや怨恨の線もある。証拠や目撃情報を集めないと、何も分からないんだ。今日はここまでにしよう。帰っても構わないぞ」
「アンバーさん。ちょっといいかな」
 メンバーが解散していくのを横目に見ながら、エクリーに連れられたティナはロビィの片隅に移動した。シエルの姿は消えていた。ティナがエクリーと一緒だから、安心してメシアのオフィスに戻ったのだろう。彼を深く信頼しているのだ。
「あの、どうしたんですか? 私、気に障ることでも言っちゃったんでしょうか」
「いや、そうじゃないんだ。犯人は、シエルに告白した彼女たちに嫉妬しているかもしれないんだよね?」
「確証はありませんが、その可能性はあります」
「君も、用心したほうがいい」
「え? 私が……ですか?」
「そうだ」エクリーが視線を落とし、また上げた。「アンバーさんはシエルと……その、恋人同士だって聞いたんだ。そうなると、犯人の次の狙いは君かもしれない。だから、気をつけたほうがいいよ。それと……犯人が逮捕されるまで、少しシエルと距離を置いたほうがいいんじゃないかな。別に君のことが憎くて言っているわけじゃないんだ。アンバーさんとシエルのことが心配だから、言っているだけなんだ。気に障ったのなら、謝るよ」
「いいえ! そんなことありません! 肝に銘じておきます!」
「ありがとう。じゃあ、僕はこれで。くれぐれも気をつけて。犯人は君のすぐ近くにいるかもしれないしね」
 マシュマロみたいに柔らかい微笑みを浮かべたエクリーはティナの肩を叩くと、ニューランドヤードから退散した。エクリーを見送った直後、ふとティナは不思議に思った。いつどこで、エクリーはティナとシエルが恋人同士だと知ったのだろうか。二人がそういう関係だということは、ディアナとフレンはおろか、周囲の人間には公言していないはずなのに。
 ニューランドの都市が、夕焼けの海に沈んでいく。
 長い一日が終わろうとしていた。


 翌朝、ティナはいつものようにニューランドの歩道を歩いていた。シエルとの待ち合わせ場所であるスタンドを目指して歩いていると、キャメルブラウンの鞄のポケットが突然歌い出したではないか。歌声の主は携帯電話だ。ポケットから携帯電話を取り出してボディを開くと、とある女性の電話番号がディスプレイに表示されていた。
「もしもし? アンバーです」
『アンバーさん? 私よ、ナタリア・ノーマンです。お久し振りね。アルタイルさんとは上手くやってる? あの、彼から聞いているかしら。私、その……ミシェルのお兄さんと婚約したの。何だか不思議ね。でも、凄く幸せよ』
 白皙の頬を朱色に染めて、幸福そうにはにかんでいるナタリアがティナの脳裏に浮かんだ。きっと、電話をしながら左手のエンゲージリングを眺めているに違いない。次に聞こえてきたナタリアの声は、陰鬱な調子を帯びていた。
『貴女に電話をしたのは――私のところに変な手紙が届いたからなの。もしかしたら、テレビで言っている連続殺人犯からかもしれないと思うの』
 思い出した。千年に一度の天才バレリーナと謳われているナタリア・ノーマンも、シエルに愛を告白していたのだった。殺人犯は異様とも思えるほどシエルに執着している。美貌と才能に恵まれた彼女に嫉妬した犯人が、ナタリアを血塗られた牙で噛み殺そうと決めたのだ。犯人の次の狙いはナタリアだ。ナタリアの幸せを守りたい。そのためには彼女に警告しなくてはいけない。
「ナタリアさん。落ち着いて聞いてください。連続殺人犯が貴女を狙っているかもしれないんです。応援を要請してすぐに向かいます。今、どこにいるんですか?」
『殺人犯が、私を――?』一瞬息を呑んだものの、次に聞こえたナタリアの声は落ち着いていた。『ニューランド国立劇場よ。リハーサルをやっているの。警備員に話しておくわ』
「アンバーさん」
「きゃっ!?」
 電話を切ると同時にいきなり名前を呼ばれ、それと同時に肩を叩かれたティナは、天敵に見つかったウサギみたいに飛び上がった。肩越しに振り向くと、エクリーがすぐ後ろに立っていた。鞄を提げているから、ニューランドヤードに向かう途中でティナを見つけ、朝の挨拶をしようとして彼女の肩を叩いたのだ。エクリーは些か驚いた顔をしていた。まさか軽く悲鳴を上げられたうえに、飛び跳ねるとは想定していなかったのだろう。
「ごっ……ごめんなさい! ちょっと、驚いちゃって。おはようございます、エクリーさん」
「おはよう。今日も寒いね。深刻そうな顔をしているみたいだけど……何かあったのかい?」
 エクリーはロムレス本部に所属しているエリート警官だ。力を貸してくれるかもしれない。連続殺人犯の次の狙いはナタリアだと告げると、真剣な表情になったエクリーは頷いて、ティナを一台の車の側へ誘った。どうやら、この機械仕掛けの馬車でティナを送り届けてくれるようだ。エクリーは運転席へ、ティナは助手席に乗り込んだ。
 ナタリアが狙われているとシエルに報告しようとしたティナを妨害したのは、運転席に座っているエクリーだった。ティナが持っていたアイスピンクの携帯は奪われて、エクリーのポケットに隠されてしまった。緊急事態なんだぞ。どうして意地悪をするんだ。
「エクリーさん!? ふざけてる場合じゃないんですよ!? 携帯を返してください!」
「L'uccello neve-bianco e rubato di un'ala, e prende via per il paradiso meridionale nel cremisi mare: avra un sogno. (純白の鳥は翼を奪われ、真紅の海の中で南の楽園に飛び立つ夢を見るだろう)」
 緑色の目を進行方向に向けたまま、エクリーが謎の言葉を口にした。暗号のような、一つの詩のような、その言葉の意味は分からなかった。シャーロック・ホームズのような鋭い洞察力や、エルキュール・ポアロが自慢にしている灰色の脳細胞があれば、こんなシンプルな言葉の意味なんて瞬く間に分かるのに。悔しいけれど、エクリーに訊いてみるしかない。
「何ですか? その言葉は……」
「ナタリア・ノーマンに送られた手紙の内容だよ」
「どうして……エクリーさんが内容を知っているんですか?」
「綺麗な指輪だね。シエルからのプレゼント?」
「えっ? そう、ですけど――」
「最初はね、計画通りナタリア・ノーマンを殺そうと思っていたんだよ。でも、彼女よりも罪深くて最低な女を見つけてしまったんだ」
 正面を向いていたエクリーが右を向き、ティナを見た。天使のような微笑は浮かべたままだったが、緑色の双眸は地獄に潜む悪魔のように暗い色を帯びていた。限りなく深い闇に魂まで飲み込まれてしまいそうだ。
「エクリーさん……?」
「それは君のことだよティナ・アンバー! 僕が見ている前でシエルと抱き合って、シエルの唇を奪った雌豚め! あの男の娘だと知った時は納得したよ。アイツも僕からシエルを奪おうとしたんだからね!」
 車が赤信号で停止すると同時に、シートベルトを外したエクリーがティナに飛びかかってきた。不意を突かれたうえに上半身をベルトで固定されていたティナは、抵抗もできずに窓側に押し付けられてしまった。傍から見れば、人目も気にせずに愛を交わす恋人同士だと思われるだろう。湿ったハンカチがティナの口を覆った。薬品の匂いが鼻に突き刺さり、次いで脱力感が全身を襲う。
「E assente; fa' i gattini (お休み、仔猫ちゃん)」
 エクリーの声が耳元で囁かれた。
 もう、抗えそうにない。誘惑に負けたティナは、瞼を閉じてしまった。
 信号がブルーグリーンに染まる。
 傍らにティナを乗せたまま、殺人犯が操縦する車は悠々と走り去った。


 最悪な形でシエルの一日は始まった。昨日、シエルたちに救いを求めてきたエメット・ピアスの死体が発見されたのだ。額の中央に穴が開いた状態で、彼は極寒の海の上に浮いていた。死体を発見したのは釣り人で、魚を釣り上げる代わりに魂を失った抜け殻を釣り上げたというわけだ。恐らく口封じのために殺害されたに違いない。遺体はすぐに引き揚げられて、ジャックのいるモルグに輸送された。
「チーフ。ティナと一緒じゃなかったんですか?」モルグに続く廊下を歩く途中、フレンが話しかけてきた。
「常に一緒にいるとはかぎらない」
「あら。いつも一緒にいるじゃない」
「……寝坊でもしたんだろう。無駄口を叩いている暇があったら、足を動かせ」
 今朝、シエルはいつも足を運んでいるスタンドでティナの到着を待っていた。しかしいくら待っても愛らしいティナの姿は見えず、あのソプラノの声も聞こえてこず、迫りくる出勤時間に背中を押されて渋々シエルはその場を後にしたのだった。強引なプロポーズが災いして、彼女に逃げられてしまったのだろうか。悶々としていると、モルグのドアが見えてきた。ドアを開けて中へ入る。定番のロックミュージックは流れていない。沈没した街のように静かだ。
「お疲れサマンサでっす」
「ご苦労様です」
 検死台に腰掛けたジャックと、ファイルを抱き締めたリードが挨拶をした。司法解剖を終えたのか、検死台の上に死体は乗っていなかった。代わりに乗っているのはジャックのお尻だ。職務に忠実で真面目な検死官だと思われたいのだろう。ジャックが地面に足をつけた。いい判断だが昇給はできないぞ。
「エメット・ピアスの死因は、頭部に受けた銃撃でした。犯人は彼を殺したあと、海に遺棄したようです。で、エメットの頭部から摘出した銃弾と――」
「ワイリー、ランバルディア、フルーレル、ナイトレイ一家の頭部から摘出された弾丸と一致しました」リードがジャックを押し退けて、自らの存在を主張した。「銃の種類はピエトロ・ベレッタM92。口径は9mmです。警察官が使用している種類と同一の物ですね」
「一家の手足を切断した鋸と目玉をくり抜いたとされるナイフも、海の底から回収されました。DNAも100パーセント一致しましたよ」
 やはり連続殺人犯は警察官なのか。もし仮にそうだとしても、警察官の職に就いている者は、天空に散らばる星の数ほど存在するのだ。罪を背負った一人を捜し出そうとするならば、とてつもない労力と時間を要するだろう。シエルたちが犯人に辿り着くまでに大勢の罪なき人々が殺されてしまうかもしれない。
「悪いことばかりじゃありませんよ」
 リードがノートパソコンをデスクに置き、投入口にDVDを押し込んだ。
「エメットが遺棄されていた場所に向かう途中の通りに防犯カメラが設置されていて、彼と犯人らしき人物が映っていました」
 パソコンの画面に再生されたDVDの映像が映し出された。日付は昨日で、時間は午後11時半。陰気な街灯の明かりの下を、エメットともう一人の人物が歩いて行くところだ。和平会談でもしているのか、激しく口論しているようには見えない。先頭を歩くのはエメットで、その後ろを犯人らしき人物が付き従っているが、夜の色のフードで頭を隠しているせいで肝心の顔は拝めなかった。諦めてなるものか。シエルは目を凝らして画面を見続ける。その時、小さな光源がシエルの視界に飛び込んだ。
「リード。巻き戻して、奴の腰辺りを拡大してくれ」
 シエルの指示に従ったリードが、マウスを操作して映像を巻き戻す。ここで止めろ。シエルが二回目の指示を出す。画面が停止した。犯人の腰が拡大されて、ミクロの光源の正体が明らかになった。全員が衝撃に頭を殴られて、しばらくの間目に映った光景を信じることができなかった。なぜならば、画面に映し出されたのは金色に輝く警官バッジだったからだ。ニューランドを象徴する竜の代わりに、勇ましく咆哮している双頭の獅子が刻まれていた。
「このバッジは……間違いない、ロムレス市警本部に所属する警官たちが身に付けているバッジだ。IDナンバが刻印されているはずだ。もう少し拡大できるか?」
「お安いご用です」リードがエンターキーを軽やかに叩いた。「見えました。……906557ですね」
 リードが読み上げたIDナンバを聞いた瞬間、シエルの背筋は一気に凍りついた。引き潮のように、血の気が一斉に引いていく。シエルしか知りえないナンバだった。彼の顔が記憶の海から浮かび上がってくる。シエルだけが彼の正体に気づいたのだ。
「……奴の正体が分かったぞ」
 シエルは正体を突き止めた犯人の名前をディアナたちに伝えた。予想したとおり、四人は火星人と遭遇した時のように驚き、現実を受け入れらずにいた。無理もない。シエルが告げた名前は、昨日まで協力して連続殺人犯と戦った「彼」だったからだ。モルグの空気がピアノの弦のように張り詰める。張り詰めた空気に耐えかねたように、シエルのポケットが痙攣して悲鳴を上げた。泣いているのは携帯電話だ。スライドした画面に表示されたのは、ナタリア・ノーマンのナンバだった。
「アルタイルです」
『アルタイルさん!? ナタリアです!』
 ナタリアの声は酷く切迫していた。話を訊き出すには、落ち着かせないといけない。
「落ち着いてください。何かあったんですか?」
『アンバーさんに電話をして、連続殺人犯が私を狙っているって聞いたんです。それで、応援を要請して来てくれるって言っていたんだけど、いつまで待っても来なくて――。何度電話をかけても繋がらないんです』
 彼女の声は泣き出す直前のように震えていた。シエルは雷鳴の如く声を荒げそうになったが、ナタリアは自分を頼って電話をかけてきたのだ。ヒーローは取り乱してはいけない。シエルはできるだけ冷静になり、自分がティナに連絡を取ってみるから家に帰るまで決して一人にならないようにと指示を出し、ナタリアとの通信を終了した。シエルがティナの携帯に繋ぐ前に、彼女のほうからアプローチが来た。
「アンバーか? 今どこに――」
『やあ、シエル』荒い息遣いを伴った声が、電話の持ち主の代わりに応対した。
「アンバーに何をした? 彼女は無事なのか?」
『今は無事だよ。それにしても、随分と心配するんだね。嫉妬しちゃうな』
「彼女を返してくれ。今ならまだ間に合う。自首するんだ」
『自首だって? 馬鹿なことを言うなよ。この子を返してほしければ、始まりの場所まで一人で来い。他の奴らを連れて来たら……この女の頭に、銃弾をブチ込んでやるからな』
 シエルと彼を繋いでいた電波の糸は一方的に切られてしまった。何度かけ直しても無駄だった。向こうが電源を入れないかぎり永遠に繋がらないのだ。後悔のナイフがシエルの胸を抉る。今朝、スタンドの前でティナがやって来るまで辛抱強く待っていれば、彼女は彼に誘拐されることはなかったのに――。
「チーフ。ティナに何かあったの!?」
 ディアナたちは情報を知りたがっているが、それが凶報であることを四人は知らない。だが、彼らはメシアのメンバーだ。どんな事件も一人では解決できない。ディアナたちがいたからこそ、迷宮の中に置き去りにされた未解決事件を解決できたのだから。
「……アンバーが、犯人に誘拐された」
 殺人犯の正体を知った時よりも大きな衝撃の波が四人を飲み込んだ。衝撃の波が引いていくと、海の色と雲の色を掻き混ぜてできた色が、ディアナたちの顔を塗り潰していた。シエルは就寝中のシナプスを叩き起こして、彼が言った始まりの場所の意味を必死で考えた。細胞達が滑車の中を走り続けるハムスターみたいにフル稼働する。記憶の欠片がとある場所をシエルに提示した。思い当たる場所はここしかない。導き出された結果を伝えると、フレンが血相を変えた。
「すぐに助けに行きましょう! 俺、応援を呼んできます!」
「駄目だ。応援は呼ぶな」
「どうしてですか!? また、あの時みたいに――!」
 熱くなり過ぎたことに気づいたフレンが口を閉じる。ティナを見捨てるつもりか。フレンはそう言おうとしたのだ。連続レイプ殺人鬼スキンハンターがニューランド全土を恐怖の深淵に突き落とした事件を誰もが思い出していた。
 ロムレス本部からニューランドヤードに派遣されて来た刑事たちが、ティナを生け贄にしてマルコ・サイモンを逮捕しようと計画していることを知ったシエルは、ティナを見殺しにするような発言をした。そして、激怒したフレンに必死で隠していた彼女への強い愛を見破られ、本部の管理官を殴り倒して犯人の潜伏先へ単独で乗り込んだのだ。マルコ・サイモンを逮捕できたのはよかったものの、その代償として、ティナは心と身体に深い傷を負ってしまったのだった。
「私は――ティナを愛している。だからもう二度と、彼女を見捨てるような真似はしない」
 もう、同じ過ちは繰り返さない。
 繰り返したくない。
 人間は、過ちから立ち直れる動物だから。
「チーフ……すみません、俺――」
「謝る必要はない。奴は、私一人で来いと言った。逆らえば、アンバーは殺されてしまうかもしれん」
「主任!」踵を返したシエルの背中に、ジャックの声が衝突した。「まさか、たった一人で乗り込む気じゃないですよね!?」
「そのまさかだ」
 銀色の鎧の代わりに漆黒のコートをまとい、
 聖なる剣の代わりに銃を右手に掲げよう。
 さあ、準備は整った。
 馬の代わりに車を駆って、邪悪な殺人犯に囚われた琥珀の姫君を救いに行こう。
 漆黒の鷲の異名を持つ、気高き勇者の到着を待っている。


 死神のように陰気な空気が、ティナの頬を撫でながら通り過ぎていく。空気中に散っていた意識の欠片たちが、頭の中に戻ってきた。身体の下は冷たくて硬い。恐る恐る両目を開けてみると、白い天井が初対面の挨拶をしてきた。礼儀正しく挨拶を返したティナは転がされていた身体を起こし、周囲の状況を確認した。
 ティナが放り出されていたのは、どこかの家の一室だった。超一流ホテルの最高級スイートルームみたいな部屋だ。埃が積もった調度品に、蜘蛛の巣が張り巡らされたシャンデリア。革張りのソファやマホガニーのテーブルには、幸せな思い出を覆い隠すようにグレイのシートが掛けられている。積み重なった埃と蜘蛛の巣の量から推理すると、家を守護する家主が出て行ってから相当の年月が経っていると思う。一秒でも早くここから逃げ出したかったのだろうか、生活に必要不可欠な物は全て置き去りにされていた。
 ティナは壁に飾られたままの額縁に閉じ込められている写真に気づいた。表面を優しく撫でると、大量の埃が逃げていった。一組の男女と幼い少年。三人共洗練された衣服に身を包んでいた。黒髪に口髭を蓄えた男性は、王者のように他者を圧倒する雰囲気を惜し気もなく披露している。端正な面は凛々しいと同時に厳格だ。
 男性とは対照的に女性の表情はとても穏やかで、湖のように澄み切っていた。緩やかに波打つプラチナブロンドの髪。陶磁器のように白い肌に思わず触れてみたくなる。彼女の目は深い青色で、無限の宇宙を内包したような色だった。
 ティナの視線は少年のほうに移動した。黒い髪に青色の目。父親と母親の遺伝子を色濃く受け継いだ証だ。白いシャツの上にブルーグリーンのネクタイを締めた彼は、素晴らしい家族を誇りに思っているかのように微笑んでいた。額縁を裏返してみると、流麗な文字が書かれていた。筆跡が違うのは異なる人物がサインしたからだろう。
『1998.February.9 我が愛する息子に捧げる。誕生日おめでとう、シエル。愛しているわ。ルーベンス、システィーナ・アルタイル』
「アルタイル? まさか、この二人が――」 
「そう。シエル・アルタイルの両親だよ。そして、僕が殺した奴らさ」
 声が飛んでくると同時に歯ぎしりのような音を立て、ティナの背後の床が軋んだ。写真を抱き締めたまま振り返ると、太陽の光を背中に浴びた青年が立っていた。ダークスーツをラフに着崩した細身の青年。フォレストグリーンの髪に、髪より少しだけ明るい緑色の目。表面上は穏やかだが、禍々しいオーラが内側から滲み出ている。
「エクリーさん……」
 ティナが名前を呼ぶと、青年――エクリー・エクリプスは、ココアのような優しい微笑みを浮かべた。優しい笑顔に騙されるな。エクリーの内側に隠された本当の姿をティナは見てしまったのだ。
「貴方が……殺したんですか? アルタイルチーフのご両親とプレンティスさんたち、そして――私の父を」
「そうだよ」
 否定することもなく、エクリーは素直に罪を認めた。その微笑みでずっとティナたちを騙し続け、ヘンゼルとグレーテルをお菓子の家に誘った魔女のように平気で欺いていたのだ。不思議と怒りは込み上げてこなかった。怒りを押し退けて顔を出したのは、裏切られ、騙されていたという深い悲しみだった。
「どうして!? どうして彼らを殺したの!? あの人たちは何もしていないじゃないですか! 普通に生きていただけなのに、どうして、あんなひどいことをしたんですか!?」
「やっぱり親子だな。あの男も同じようなことを言っていたよ。うるさくてうるさくて、だから、ナイフで刺してやった。火山が噴火するみたいに血が噴き出して、ナイフを突き刺す身体はゴムみたいな感触だったよ。知ってるか? 人間ってのはな、ただの肉と血の塊なんだ。アイツは死ぬ間際まで君の名前を呼んでいたな。ティナ、ティナ、ごめんな、ティナってね。僕とシエルを引き離そうとしたんだ。当然の報いさ」
 罪悪感の欠片も見せず、エクリーはティナの父親の命を奪った瞬間を、母校を巣立つ学生が卒業式でスピーチするように、自慢げに誇らしげに語った。クロードの死に様を知ったティナは、涙と嗚咽を噛み殺した。父を殺した憎き男が目の前にいる。仇の前で情けない顔で泣きたくはなかった。クロードは最期まで悪に立ち向かい、正義を貫いたのだ。だからティナもそうしたかった。
「あの雌豚どもはシエルに色目を使って犯そうとした。シエルを汚そうとした。だから殺してやったんだ。シエルに触れないように手首を引き千切って、シエルに近づけないように足首を切断して、シエルを見ないように目玉を抉り取った。シエルを守るために、僕は薄汚い豚を始末しただけさ。それに、雌豚と同じ血を引く奴らを生かしておいたら、今度はそいつらがシエルを汚すからね」
「そんな理由で彼らを皆殺しにしたの!? ひどすぎるわ!」
「そんな理由、だって?」エクリーの顔から柔和な微笑みが消滅した。「どうやら君は、僕の崇高な使命が理解できていないようだね。これは、神から僕に与えられた使命なんだよ。美しいモノは守らなければいけないんだ」
 被害者の血痕で描かれていたペンタグラムと魔法陣。古代ユダヤの神殿を模倣した祭壇。なぜ犯人は四大天使を召喚しようとしていたのか。その意味が今やっと分かった。残虐非道な殺人鬼――エクリーは、電話もメールも手紙さえも送れない、天空の使者から伝令を受け取ろうとしていたのだ。
「エメット・ピアスを殺したのも――貴方ですね?」
「あぁ――あの、社会不適合者か。金をよこさないと警察にチクるぞって言ってきたから楽にしてやっただけさ。奴も幸せだと思うよ。飢えも寒さもない、あの世に行けたんだからね」
 エクリーの声は卵の白身のように淡白だった。エメットの死はまるでゴミ箱にゴミを捨てるような、左右の足を交互に出して歩くような、それがごく当たり前のような感じだった。深い悲しみは出番を終えて、楽屋で待機していた激しい怒りがティナの表面に出てきた。空き巣を繰り返していた罪人と言えどもエメットは一人の人間だ。どんな理由であれ、人を殺してはいけない。
「ふざけないで! どんな人にだって生きる権利はあるわ! 私たち警察官は人を守るのが仕事なのに、貴方は罪もない人たちの命を奪った! 貴方は私たちを――シエルさんを裏切ったのよ!」
「黙れ! シエルの名前を口にするな!」
「きゃあっ!」
 エクリーに髪を掴まれたティナはそのまま部屋の中心に引き摺られ、髪を掴まれたまま振り回された挙句、床に突き倒された。ティナの髪の感触に飽きたのか、エクリーは手を離していた。逃げようと思えばいつでも逃げられるし、好きな時に抵抗もできた。しかし、ティナは動けなかった。エクリーの右手に握られた銃がティナを威嚇していたからだ。
「犯人は君を狙っているかもしれないから、くれぐれも気をつけろって言ったよね? すぐに君を始末して、バラバラに解体してあげるよ。シエルの唇を奪った唇も、シエルとセックスしたその身体も、シエルと見つめ合ったその瞳も、全て、全部、跡形もなく消し去ってあげるから」
「エクリーさん! お願いします! こんなことはやめて罪を償ってください! これ以上私たちを――シエルさんを裏切るような真似はしないで!」
 ティナは声を張り上げて必死にエクリーの良心に訴えかけた。少しでもいい。一瞬でもいい。法と秩序を守る正義の警察官に戻ってほしかった。しかしティナの説得の言葉に応えたのは法と秩序の番人ではなく、悪魔に魂を売り渡し、闇に堕ちた人間だった。初めて人を殺した瞬間に、彼の良心は粉々に砕け散ってしまったのだ。
「安心して。君の代わりに、僕がシエルを愛してあげるから」
 持ち上げられたベレッタが、嫌な速度でティナの額に狙いを定めた。
 あと数秒で螺旋状に回転した弾丸が空気を切り裂き、ティナの頭蓋に食い込むだろう。
 やれることは全て試したつもりだ。
 目を閉じて、十字を切って神に祈ろう。
 次に目を開けた時は、どうなっているんだろう。
 世界は、私は、皆は?
 目を閉じていても太陽を感じるから、そこは暗闇ではなかった。
 何か、音が聞こえる。
 足音だ。靴音が駆けてくる。
 ティナを迎えに来た神様の足音か?
「ティナ!」
 痛みと衝撃の代わりに、ティナと将来を誓い合った青年の声が聞こえた。死ぬ間際の幻聴だろうか。幻聴にしては精巧で鮮明だ。震える瞼を励まして両目を開けてみると、ティナはまだ生きていた。ティナに銃を向けていたエクリーは立ち位置をわずかに変えていて、部屋の入り口を見据えている。緑色の視線の進行方向には、息を切らした黒髪に青い目の青年が立っていた。
「あぁ――シエル」エクリーは甘い声と恍惚とした表情の二重奏を奏でた。「やっと来てくれたんだね。よく、この場所が分かったね」
「私の住んでいた家だから当然だ。始まりの場所といえば……ここしかないと思った」
 シエルの表情は、彼が一歩ずつ進むたびに悲しみと苦痛を帯びていった。この部屋に散らばった過去の欠片が鋭利な刃物となり、シエルの心に突き刺さっているのだ。エクリーの正面から数歩手前で、シエルは足を止めた。シエルは銃も手錠も取り出そうとしない。凶暴だったエクリーの右手もおとなしい。
「……教えてくれ、エクリー。十五年前、君が私の両親を殺したのか?」
 エクリーは即答しなかった。シエルの悲痛な表情を味わっているかのようだ。
「そうだよ。僕が殺した」
 笑顔の花を咲かせたエクリーとは対照的に、シエルは今にも涙腺の導火線に火を点けそうだった。全身全霊の力を込めて、自制心を奮い立たせている。
「どうして! どうして――父と母を殺したんだ!?」
 過去の記憶に押し出されたシエルの悲しみが爆発した。切れ長の目に涙を溜めたシエルは叫び、自分に狂った愛情を抱いているエクリーを見つめた。エクリーの顔は呆けたように蕩けている。美術館で名画を眺めているような、蜂蜜を舐めている熊のような、そんな表情だ。シエルの心から流れ出す血の涙の味を堪能しているのだ。
「どうしてって? 決まっているじゃないか」両腕を広げたエクリーが、殺害動機を語り始めた。「君は僕のモノだ。君を愛するのは僕だけでいい。僕だけが君を愛する資格を持つんだ。僕だけが君に触れて、君を抱き締めて、君を見つめて、一つになるんだ。キスをして、セックスをして、一つに溶け合おう。君の唾液も、細胞も、遺伝子も、全て僕のモノになるんだ」
 埃で飾りつけされたステージをエクリーは闊歩する。銃をアクセサリィにしたモデルなんて、刺激的すぎるんじゃないか。斬新かつ奇抜なアイデアだ。審査員がいれば、そんなコメントを残しているだろう。
「あの時、君の綺麗な身体を傷つけてしまったことは後悔しているけど、僕の愛を拒んで抵抗したから悪いんだよ? さてと、最後のゴミを片付けようかな」
 陽炎のように揺らめいたエクリーが振り返り、未だ床に座り込んだままのティナに凍りついた視線を注いだ。温もりも慈悲も一切持ち合わせていない呪われた目。その目に囚われてしまったら、魂まで石化してしまいそうだ。エクリーの視線を浴びてしまったティナは、全身の自由を奪われていた。
「待っていてね、シエル。この女を殺してから、二人でゆっくり愛し合おう」
 大人しくしていたベレッタが獣の本性を取り戻し始めた。凶暴な人格を隠しているのは人間だけではないことを、ティナは身を持って思い知った。ただの金属の塊だと馬鹿にしてはいけない。引き金を手前に引くだけで、持ち主の代わりに人間を殺してくれるのだから。
「止めろ! エクリー!」
 もはやエクリーの凶行を止めるには銃を向けるしかない。苦渋の決断をしたシエルがベルトのホルスターから銃を引き抜いて、エクリーの背中に突きつけた。シエルの銃口はエクリーへ、エクリーの銃口はティナに吸い付いている。
「頼む」絞り出されたシエルの声は震えていた。「銃を床に捨てて、ティナを解放してくれ」
 シエルの言葉に答える代わりに、エクリーの指は引き金を数ミリ引いた。
「エクリー! お願いだ! これ以上罪を重ねるのは止めてくれ! 私から愛する者を奪わないでくれ!」
「止めろ!」
 ついにエクリーが反応を見せた。余裕に満ちていた表情は皮膚の下に沈み、顔全体を焼き焦がすような激情が現れていた。
「愛しているなんて言うな! この女は君には相応しくない! レイプ犯とセックスをした汚れた女じゃないか! そんな女を愛しているなんて言わないでくれ! 君が愛しているのは、僕だけだろ!?」
「私が愛しているのは君じゃない! 父と母、メシアのメンバーたち、そして――ティナだけだ!」
 シエルの眦から透明な液体が溢れ出した。涙腺が許容量を超えてしまったのだ。塩辛い液体に声帯を塞がれながらも、シエルは精一杯言葉を絞り出す。銃を使わずに、友人の凶行を止められることを信じているのだ。
「エクリー。私たちは――俺たちは友人じゃなかったのか!? 心の底から信じ合える、親友同士じゃなかったのか!?」
「どうして……どうして泣いているの!? 僕は君のために……君を守るためにやったんだよ!? なのに、どうして、そんな目で見るんだよ! 君が苦しんでいたから、僕は――!」
「確かに俺は苦しんでいた。でも、今は違う。メシアの皆がいる、ティナがいる。彼らが俺の魂を救ってくれたんだ。エクリー、君も苦しまなくていいんだ。俺たちが君を助ける。だからもう、終わりにしよう」
「ティナ、ティナ、ティナってうるさいんだよぉっ! 僕が終わらせたいのは、この女の人生だ!」
「駄目だ! エクリー!」
「うわああああぁっ!」
 響く絶叫。
 二発の銃声。
 二丁の拳銃からは、同じ色と同じ長さの白煙が立ち昇っていた。
 ティナの正面に立ちはだかっていたエクリーが膝を折って崩れ落ち、仰向けに倒れた。心臓の真上に穿たれた黒い穴は徐々に赤く染まっていき、赤い液体が床に染み込んでいった。エクリーの双眸はもはや光を映しておらず、白濁した緑色の目は死という永遠の夢を見ていた。闇に堕ちた青年の狂気は終わったのだ。
「アルタイルチーフ!」
 人質という名の呪縛から解放されたティナは、シエルの元に駆け寄った。硝煙の匂いをまとうベレッタを握り締めている右手は、込められている力に呼応して白く変色し、親友を撃ってしまったという罪悪感で震えていた。
「ティナ……怪我は……ない、か……?」
「大丈夫です! チーフこそ――?」
 刹那、シエルの身体が傾いた。ティナはシエルを支えようと奮闘したが、力を失った成人男性の重みに耐えきれずに一緒に倒れ込んでしまった。張り詰めていた糸が切れて失神してしまったのか。こんなところで眠ったら風邪をひいてしまうぞ。シエルの身体を揺すってみたが、一向に彼は目覚めない。不意に、湿った感触がティナの両手に広がった。ティナの両手の至るところに鮮やかな血が付着していた。
 恐ろしい予感がティナの背筋を駆け抜ける。うつ伏せに倒れていたシエルの身体を反転させて、頭から爪先まで彼の全身を隅々まで観察した。青いシャツの下に赤い液体が滲み出している。スーツとベストのボタンを外してネクタイを解き、スラックスから引き抜いたシャツを開く。白い胸の中心に銃創があった。高度な医療技術がないと治せない傷だ。撃たれたのは――エクリーだけではなかったのだ。
「いやっ……いやぁっ! 目を開けて! 目を開けてください! 私を置いていかないって、二人で生きようって、約束したじゃない! お願い! 目を開けて微笑んで、ティナって呼んでよ! 愛してるって言ってよ!」
 溢れ出す大量の血に混じり、シエルの生命力も流れ出しているのではないかと思ったティナは、丸い穴を塞ぐように自らの両手を重ね合わせ、全体重を注ぎこんだ。少しでもいい、緩んだバルブを閉めたかった。複数の足音が廊下を走ってくる。足音なんかどうでもいい。今は、シエルの胸に開いた穴を塞ぐことしか考えられなかった。
「ティナ! アッ――アルタイルチーフ!? 嘘だろ!?」
 真っ先に部屋に飛び込んできたのはフレンだった。血塗れで横たわるシエルとエクリーを認識した彼は、数秒間絶句していた。フレンに続いて銃を構えたディアナとヴェラが突入してくる。ディアナとヴェラもフレンと同じく動揺していたが、彼よりも経験を積んでいる二人はすぐに落ち着きを取り戻した。ティナの側に屈みこんだディアナがシエルの首筋に指を添え、脈の有無を確認した。ディアナがヴェラを見上げる。頷いたヴェラは携帯を開き、救援を要請しに出ていった。
「ティナ」ディアナがティナの両肩に手を添えた。「手を除けなさい。もう、大丈夫だから」
「ひくっ……ううっ……いやぁっ……いやぁっ……シエルさんの側にいます……だって、約束したんだもん。ずっと、側にいるって、二人で生きて行くって、約束、したんだもん……」
 それからのあとのことは、よく覚えていなかった。
 夢から覚める一歩手前のような、奇妙な浮遊感を伴った意識の中でティナがかろうじて覚えていたのは、ディアナとフレンの温もりと、途切れ途切れに聞こえるサイレンの音と――両手に染みついた、シエルの血の匂いだけだった。