王子様もヒーローも助けにきてくれない深い茨の森の奥深くで、ティナは永い夢を見ていた。
 万華鏡のように移り変わる夢の中で、亡き父の遺志を継いで警察官の職に就いたティナは、ニューランドヤード特殊捜査課――通称メシアに配属され、かけがえのない素晴らしい仲間達と出会った。フレンとディアナ、クリスチャンとヴェラ、ジャックにリード。そして――シエル。真実を待ち望んでいる者たちのためにメシアのメンバーは力を合わせ、様々な未解決事件を解決していった。
 幼い少女。神の脚と謳われたバレリーナの卵。引き裂かれる前に死を選んだ少女と青年。純粋無垢な子供たち。市民を守るために命を捧げた警察官。現世を彷徨っていた魂たちを、天国の門へと導いた。もちろんそれらが夢ではないことは分かっている。そして、夢で終わらせてはいけないことも。すべて現実だ。そう、あの悪夢のような出来事も。現実はいつだって、ティナに手を振りながら存在をアピールしているのだ。
 スキンハンター、マルコ・サイモン。被害者の皮膚の一部を切り取る連続レイプ殺人魔の名前だ。彼の血と欲望に塗れた軌跡を目にすれば、地獄を根城にしている悪魔でさえも、死者の魂を愛撫する冥界の女王でさえも戦慄を覚えるだろう。サイモンを逮捕するための囮に利用されたティナは、身体と心に深い傷を負った。奴が逮捕された瞬間は記憶に残っていない。意識を取り戻すと、ティナは病院の白いベッドに抱かれていたからだ。
 メシアを離職したい。ティナは上司である青年――シエル・アルタイルに懇願した。怒り。恐怖。憤り。悲しみ。絶望。悪魔が舌を舐めて小躍りしそうな感情を抱えたままでは、死者の魂を救えないと思ったからだ。儚くも美しい、清らかな魂を汚したくないと思ったからだ。漆黒の鷲と畏怖されている彼は、炭酸が含まれていないコーラみたいに、あっさりとティナの離職を許してくれた。
 さよならの台詞を告げる数秒前、ティナは涙を流しながら大好きだとシエルに愛の告白をした。どうして大胆な発言をしてしまったのか分からない。もしかしたら、心の奥底で引き止めてほしいと願っていたのだろうか。心の奥にしまいこんでいた願望が言葉の手を借りて自らの存在をアピールしたのだ。しかしティナの願いを裏切るように、シエルは引き止めなかった。これがロマンティックな恋愛映画だったなら、シエルはティナを腕の中に閉じ込めて、優しいキスを落としてくれただろう。
 しかしシエルはティナを腕に抱くことも、口づけをすることもなく、彼女にさよならを言ったのだ。
 ティナがいなくても、メシアは機能するのだ。
 宇宙を回り続ける惑星からしてみたら、ティナは小さな部品でしかないのだ。
 消滅しても活動に支障をきたさない、影の薄い微生物なのだ。
「どうしたんだい? 気分でも悪いのか?」
 彼方から聞こえてきた声が、ティナを現実の世界に引き戻した。フロントガラス。漆黒のアスファルトと白い線。車高は高い。左を向くと、白い口髭を生やした男性がティナを見ていた。メッシュキャップを被ったジャニュアリィのサンタクロースだ。枯れ草色のツナギは黒い水玉模様で汚れている。彼女を捉えていた視線は、数秒で前方に戻された。いったい彼は誰だっけ。そうだ。思い出した。彼はトラックのドライバーで、ニューランドから旅立ったティナを、遠い異国の世界へ乗せていってくれる親切な旅人だ。
「いえ、大丈夫です。ちょっと――考えごとをしていただけですから」
「そうかい。気分が悪くなったら、遠慮なく言ってくれよ。お嬢ちゃんは、まだティーンエイジャーなんだろう? 一人旅だなんて偉いよなぁ。まさか家出じゃないよな? 俺が誘拐したって思われちまうよ」
 初めは無愛想だったドライバーは時間を共有するにつれて、気さくで快活な人柄を披露し始めた。これが彼の本当の姿なんだろう。初対面の人間を隣に乗せていたら、誰だって冷凍庫のアイスクリームみたいに無愛想になる。ニューランドヤードの刑事ですと告白したらどうなるだろう。墓地の棺みたいに口を閉ざすに違いない。ここは黙っておこう。饒舌な彼との会話をもう少し満喫していたいから。ガソリンメーターを一瞥したドライバーが舌打ちした。
「なんだ、もうガス欠かよ」運のいいことに、数キロ先にドライブインありと表示された看板を発見した。「悪いけど、ドライブインに寄ってもいいかい? このポンコツ野郎の腹を満腹にしないといけねぇんだ」
「いいですよ」
 サンキュと謝礼すると、彼はハンドルを回してドライブインの駐車場にトラックを滑り込ませた。コンビニと小さなレストランがガソリンスタンドに併設されているドライブインだ。ドライバーが燃料を補給しているあいだ、ティナは買い物をすることにした。ちょうど小腹が空いていたし、親切な彼にサプライズプレゼントを贈りたい。少しでも彼の厚意に報いる行為がしたかった。
 黒いマットに足を乗せると、ティナの体重に反応した自動ドアが開いた。小さな店内へ。雑誌を立ち読みしている女性の客が一人いるだけで、店員とティナを含めるとコンビニの住人はわずか三人だけだった。さてなにを買おうかな。自分用のサンドイッチとミルクティーは確保した。残るはドライバーの彼に贈るプレゼントだけだ。さすがにアルコール類は駄目だろう。飲酒運転を黙認しているようなもので、ましてやティナは警察官だ。モラルを破る手助けをしてはいけない。
 長考の末、眠気覚ましのコーヒーとボリュームのあるハンバーガーをプレゼントすることに決め、商品を詰めた籠を抱えたティナはレジに向かった。暇を持て余していた店員は即座に背筋を正して職務に戻り、レジ打ちを開始した。ポップなBGMが店内に流れた。新しい客が来店した合図だ。突然フルフェイスのヘルメットを被った男がカウンタに割り込んできた。
「お客さん」苦言を呈しようと店員が口を開いた。「順番を守ってもらえますかね」
「うるさい! 死にたくなかったら、おとなしく金をよこしな!」
 物騒な発言のあと、男がポケットから鈍く光るナイフを取り出した。なんということだ。ティナの目の前でコンビニ強盗のミュージカルが始まってしまった。おまけにティナも役者の一人だなんて。早くしやがれ。男がナイフを店員に突きつけて脅迫した。ティナの会計を中断した店員は、レジに詰められているコインとお札を取り出し始めた。
 目の前で繰り広げられている強盗を易々と見逃す気はない。休職しているとはいえ、ティナは一人の警察官だ。緊急事態に備えてバッジと手帳は持っていろとシエルに言われ、その二つは返却することなく持っていた。こいつを見せつければ、愚かな強盗は瞬く間に大人しくなるはずだ。金色に輝く権力を突きつける前に説得してみよう。
「馬鹿な真似はやめて、ナイフをしまってください」
「なんだと?」ナイフの切っ先がティナに向く。「ガキは黙ってろ! 次にふざけたことぬかしやがったら、テメェから殺すぞ!」
「今ならまだ間に合います。ナイフをしまって、帰ってください」
 ティナの説得の言葉は、時速1400kmの速さで強盗犯の耳を走り抜けていった。神の御言葉に耳を傾けないなんて罰当たりな奴だ。男はバッグに現金を押し込んでいる。それにしても、カウンタに並べられている金銭の量に対して少し大きすぎるんじゃないか。バッグの大きさが男の自尊心の大きさなんだろう。見ていろ。すぐに空っぽにしてやるぞ。コートのポケットに待機している秘密兵器に、ティナは合図を送った。
「ニューランドヤードです。ナイフを捨てて、両手を頭の上に上げてください」
 権力の象徴である竜のレリーフが刻まれたバッジを、ティナは男の鼻先に突きつけた。ヘルメットのバイザーにバッジが映る。お札とコインをバッグに詰め込んでいた手が止まった。ナイフを捨てろと命令したのに、男は金属の凶器を握ったままだった。手放す気がないのか。それとも接着剤で固定されているのか。
「お前みたいなガキが刑事だって?」男が鼻で笑う。超常現象を頑なに信じようとしない科学者みたいな笑いかただ。「……ふざけたことをぬかしやがったら、殺すって言ったよな? 望みどおり串刺しにしてやるよ!」
 上昇気流を捉えたコンドルのように、ナイフを握り締めた右手が舞い上がる。貪欲な刃がティナの心臓に突き立てられようとしたそのとき、強盗犯の動きが静止した。なにが起こったんだ。誰かが時間を止めたのか。雑誌を立ち読みしていた女性が男の背後に立っていて、雑誌の代わりに銃を構えていた。銃口はフルフェイスの後頭部に吸いついている。
「お嬢さんの言うとおりよ。おとなしくナイフを捨てなさい。頭を撃ち抜かれて死にたくなければね」
 刃物と銃器が一騎打ちを繰り広げたら、確実に軍配は銃器にあがるだろう。ナイフを手放した男は両手を上げて、クリーム色の床に膝をついた。賢明な判断をしたな。ハイヒールを履いた足がナイフを蹴り飛ばす。手錠を取り出した女性は、慣れた動作で男の両腕を拘束した。窓の外を走るサイレンの光。数台のパトカーがコンビニの駐車場に滑り込んできた。店内に突入してきた警官たちが、強盗犯を連行していった。
 彼女は何者だ? 手錠の仕組みに精通している女王様か? 拳銃をホルスターにしまった女性がコンビニの外に出た。このまま素知らぬ顔でドライブインから退避することもできたが、彼女のことが気になったティナは少し遅れて女性の後を追いかけた。ハイウェイを走り去るパトカー。ブラックのハイヒールがターンする。サングラスを外した女性がティナと向き合った。
「ご協力、感謝するわ。私はミランダ・ロットー。アルジェント市警の警察官よ」
 三十代前半。セミロングのライトブラウンの髪はベッドのスプリングみたいに捻じれていた。凜とした目は灰色で、何者にも屈しない強靭な意志が宿っている。胸元が大きく開いた黒いシャツに、インディゴブルーのブーツカットデニム。見事に引き締まったスリムな身体だ。戦いと知恵の女神アテナが現世に蘇ったら、こんな感じになるのだろう。
「いえ、そんな……たいしたことはしてません。貴女がいなかったら、ナイフで刺されていましたよ」
「それにしても、随分と可愛い刑事さんね。お名前は?」
「ティナ・アンバーです」
「ティナ、ね」一瞬、ミランダは眉根を寄せた。落としたパズルのピースを見つけたみたいに。「いい名前だわ。ねえ、ニューランドヤードの刑事さんが、どうしてこんな辺鄙なところにいるのかしら?」
「えっと――休暇中なんです」
 レイプ犯に襲われたなんて言ったら、同情と好奇に満ちた目で眺められるに違いない。そんな目で見られるのは嫌だし、おまけに初恋の男性に告白して見事に玉砕したなんて言ったら、彼女はお腹を抱えて笑い転げるだろう。XXの染色体を持つ者は、恋愛話が大好物なのだ。腕組みをしたミランダはティナに視線を注ぎ続けている。獲物を狙う鷲のような鋭い視線だ。お願いだからなにも詮索しないでほしい。青空の高みにいる神様に、ティナは祈りを捧げた。白い雲が流れていく。願いを叶えてくれた合図だろうか。
「自分探しの旅――みたいなものかしら。旅の途中悪いんだけど、貴女さえよければ私たちに協力してくれない?」
「協力……ですか?」
「そう。私たちは、ある未解決事件を担当しているんだけど、人手が足りなくて困っているのよ。どうかしら。人助けだと思って、手伝ってみない?」
 ティナは逃れられない強い運命を感じた。
 運命の女神が操る馬車が、ティナを彷徨える死者の魂のところまで連れていこうとしているのだ。
 ならば、死者の魂を救いにいこう。
 すでにメシアの一員ではなくとも、心の一部は彼らとともにあるのだから。


 旅の仲間だったドライバーに別れを告げると、彼は無骨な顔を歪ませながら別れを惜しんで旅の成就を願ってくれた。せめてものお礼だ。コーヒーとハンバーガーを手渡して、ティナはミランダが待つアルファ・ロメオに乗車した。情熱的な彼女を表すような真紅のボディだ。踏み込まれるアクセルペダル。サングラスを装着したパイロットがハンドルを回す。真紅の機体がハイウェイの空に飛び立った。
 シンプルなハイウェイ。積み上げられた灰色の堤防の向こうには群青色の大海原が広がっていて、遥か水平線の彼方を走る船舶が見える。同じ青色なのに、空と海の色はどうして微妙に異なっているんだろうか。その秘密を紐解くには、天地創造の瞬間まで遡らないと分からないだろう。半開きのウィンドウから入る風がティナの髪を揺らす。風は潮の香りを運んできた。退屈な一本道が続いているから、運転手は眠気と戦うのに大変だろう。少し手助けをしてあげようか。
「ロットーさんは、どうしてドライブインにいたんですか?」
「ミランダで結構よ。証拠品を持って帰る途中だったの。ランチを買おうと思ってコンビニに立ち寄ったら、強盗と出くわしたというわけよ。ツイてないって思ったけど、ラッキィだったわ。ティナと会えたんだからね。運命ってやつかしら」
「おおげさですよ。未解決事件ってどんな事件なんですか?」
「十年前に起きた殺人事件。被害者は映画館の技師で死因は絞殺。頭も殴られていたわ。死体はアルジェント郊外の廃車置き場に遺棄されていたわ。頭を殴ったとされる凶器は発見されたけど、指紋は綺麗に拭きとられていてね、犯人は特定できなかったの。それに首を絞めた凶器は発見できずじまい。捜査は手詰まり状態で、事件はお蔵入りになったわ。でも、大丈夫ね」
「どうしてですか?」
「ティナが協力してくれるから。さあ、見えてきたわ」
 ハイウェイを離脱して、アルファ・ロメオは港町アルジェントに入っていった。アルジェントは山脈と丘陵地帯に挟まれた港町で、12世紀に築かれた旧市街が目抜き通りを中心に南北に広がっており、薄暗い路地が不思議の国のように入り組んでいた。港には貨物船やヨットが浮かび、高台からは美しい湾岸都市の夜景が一望できるのだ。恋人と愛を囁き合うには絶好の場所だ。
 ドーリア家の宮殿が並び、中世の面影を色濃く残す小さな広場サン・マッティオ広場を北東に進んでいくと、アルジェント市街を見渡すように建設されたビルが見えてきた。白の宮殿と同様に、アルジェントの観光スポットである赤の宮殿とよく似た赤い外壁を持つ、17世紀のバロック様式の建物だ。入口の真上には、黄金色の碇に絡み付いた翼の生えた蛇のエンブレムが飾られている。海神の御使いで、アルジェントの守り神だとミランダが教えてくれた。どうやらこの優美な建物がアルジェント市警らしい。
 アルジェント市警のロビィは大海原のように広大だった。四つの柱がロビィを優しく支えていて、高い天井は吹き抜けになっている。多くの人々が行きかっている階段の上にはエレベーターホールがあるようだ。バロック様式と現代建築が手を取り合って、見事に互いを称え合っている。そんな感じの内装だった。
 白亜の階段を上ってエレベーターへ乗り込む。ランプが点灯。三階へ到着。未解決事件を担当しているのだから、ミランダが所属する部署も冷遇されているに違いない。ミランダがドアの前で立ち止まった。殺人課とマーキングされたプレートが、胸を張って存在を主張している。粗野な警官たちにノックは必要ない。ミランダがドアを開けて、ティナをエスコートした。
 殺人課のオフィスはスタイリッシュなデザインだった。四つでワンセットになったデスクが点在している。デスクに添えられているのは刑事と書類だ。板チョコのような形の蛍光灯が眩しい。ニューランドヤードの殺人課よりも遥かに規模が大きかった。大半がXYの染色体を持つ男性で女性は少なく、異邦人のティナにあまり友好的ではない視線を送ってくる。時間が経てば、冷凍庫のアイスクリームは柔らかく溶けてくれるだろう。どうやら殺人課にはメシアのような窓際部署はないようだ。好待遇か。羨ましいな。
「ロットー」
 一人の刑事がミランダを呼び止めた。二十代後半。長身。彫りの深い顔立ちで、ダークブラウンの髪にアイスブルーの目。滑らかな黒革のジャケットを着ている。
「随分と遅かったな。被害者の息子さんが待っているぞ」
「分かったわ、ありがとう。ティナ、紹介するわね。彼はフラック・ケイヒル。同じ事件を担当している刑事よ」
「ニューランドヤードのティナ・アンバーです」
「フラック・ケイヒルだ。よろしく」
「持って帰ってきた証拠品よ。すぐにラボに回してちょうだい」
 伝令役の刑事に袋を渡してミランダは歩みを進めた。来客用のスペースだろうか。オフィスの隅にソファとテーブルが設置されている。守護するべき市民を隅に放置するのはどうかと思うが、プライバシィを配慮して設計されたのかもしれない。一人の若者が背中を向けて座っていた。かけがえのない家族を奪われて、復讐に燃える息子だろう。テーブルの上のコーラが、彼の復讐の炎を鎮火してくれることを期待しよう。
「お待たせしてごめんなさい。事件を担当しているミランダ・ロットーよ」
 立ち上がった若者が振り向いた。ティナと同じティーンエイジャーで、磨き抜かれた銅を思わせる赤毛に、サイダーのように爽やかな青い目だ。ダウンジャケットと、I LOVE ROCKと書かれた白黒ボーダーのシャツ。ダメージジーンズを完璧に着こなした少年だった。目が合う。ティナは驚いた。ティナと同様に彼も驚いていた。なぜならば、二人は顔見知りだったからだ。
「ジッ――ジャックさん!?」
「ティナ?」
「あら。知り合いなの?」
「はっ……はい……」
「同じ職場で働いてるんっスよ。うわ。すっげぇ奇遇だな」
「悪いけど、昔話はあとにしましょう。座ってちょうだい」
 一秒でも早く捜査を再開したいミランダが催促する。ティナはジャックの隣に座り、彼の正面にミランダが腰を下ろした。まさかジャックの父親が殺されていたなんて。普段の彼を見るかぎりでは、肉親を失った悲劇の検死官とは到底思えない。陰気なモルグの住人になったのは、父親の死が関係しているのだろうか。自ら望んで志願したとは思えない。死体愛好者じゃあるまいし。
「早速だけど、これを見てくれるかしら」
 ミランダがファイルを展開して、一枚の写真をテーブルの上に置いた。赤黒く染色されたシャツが写った写真だ。パフスリーブの半袖シャツと丸襟を縁取るフリル。女性に捧げられたドレスだ。赤黒い色が白い生地を押し潰していて、シャツを塗り潰しているのは人間の血液だろう。染められた直後は鮮やかな緋色だったに違いない。長い年月に耐えきれずに老化してしまったのだ。ジャックが写真を見つめる。記憶のアルバムを開いて必死にページを捲っているのだ。写真を元の位置に戻したジャックが息を吐いた。
「見覚えはある?」
「――はい。オレの姉貴が着ていたシャツっスよ」
「間違いない?」
「十年くらい前に見たことがあるけど、あんまり自信はないなぁ。ガキだったし。あの、どこで見つけたんですか?」
「アルジェントから、ポルトフィーノに続いているハイウェイ沿いの森の中。土の中に埋められていたのを動物が掘り出したみたいで、放り出されていたシャツを散歩中の人が見つけたのよ」
 血塗れのシャツを発見して、律儀に警察に届けでた人に感謝をしたい気分だ。普通なら素知らぬ振りをして、なにも見なかったと言い聞かせながら、自分の代わりに警察に宅配してくれる人が現れるのを待つだろう。誰だって面倒事に巻き込まれるのは嫌だし、黒く汚れた殺人事件に関わりたくないのだから。
「ロットーさんは、姉貴が事件に関わってるって思ってるんっスか?」
「ええ」ミランダが答える。迷いのない声だ。被害者に同情すらしていない。「貴方のお姉さん――シェリル・エイヴォンは、事件が起こった日の夜に姿を消している。被害者を殺害して逃亡したと考えるのがセオリーじゃないかしら?」
「……そんなの知らないっスよ」
 ジャックの声は少しばかり苛立っていた。身内を殺人犯扱いされたことによる怒りなのか。それは違う。ティナは思った。姉を庇おうともしないなんて不自然すぎる。もっと複雑な事情が彼を怒りに駆りたてているのだ。写真を収納してファイルを閉じたミランダが立ち上がり、ブラックカラーのトレンチコートを腕に巻きつけた。身体に優しいローカロリーの尋問は終わったという合図か。
「まあ、いいけど。今から貴方の里親の家に行くわ。出来れば、貴方も一緒に来てもらいたいのだけど」
 準備を整えたミランダが、ソファに張りついたままのジャックを見下ろした。イエスかノーか。ジャックに選択権が与えられているように見えるが、ミランダの声には拒んでも無駄だ、首に縄を掛けて無理矢理引っ張っていくぞという響きが含まれていた。警察官という立場を最大限に利用しようとしているのだ。顔を上げたジャックは、挑むようにミランダを見上げた。
「分かりました。いきますよ」
「感謝するわ。車を回してくるから外で待っていて」
 ハイヒールを響かせたミランダは足早に出て行った。ステージの上を闊歩するモデルみたいな歩きかただった。どちらからともなく席を立ち、ティナとジャックはアルジェント警察署を離脱した。海の香りでコーティングされた外へ。堂々とそびえる門の脇に立って、最先端の緋色のカボチャの馬車が迎えにくるのを待った。
「ジャックさんって、その……養子にだされていたんですか?」
「……いや、違うよ。ガキの頃に両親が死んで姉貴と養護施設に預けられて、今の里親に引き取られたんだ。驚いただろ? 親父が殺されててさ、おまけに姉貴が親父を殺したんだぜ」
「お姉さんが殺したって決めつけるのは、早いと思います」
「分かってるさ。でもよ、たった一人しかいない血の繋がった弟を置き去りにして、行方をくらましたヤツなんて信じられねぇんだよ。……本当はここに戻りたくなかった。親父が殺されて、姉貴がいなくなった町なんて、海の底に沈んじまえばいいのに――」
 憎しみと悲しみに染まった声が港町の喧騒に溶けていった。タイヤが地面を削る音。タイヤの表面を数ミリ擦り減らしたアルファ・ロメオが二人の正面に停車した。運転席のウインドウが動く。乗りなさい。サングラスを装備したミランダが乗車を促した。ティナとジャックは後部座席へ。シートベルトを締めておかないと。警察官が警察官に逮捕されるなんて、あってはならないことだ。
 沈むアクセルペダル。
 回転するタイヤ。
 灰色の雲に押し潰された箱庭を、真紅のロメオは駆けていった。


 灰色の曇天が上空を覆い尽くしている。数時間前までは目も眩むような青空だったのに。誰かが神様の御機嫌を損ねてしまったのだ。港町に相応しくない天気は雨が降り出す前兆か。分厚い雲が太陽を隠している影響で気温は低い。車内の気温も冷えきっていた。沈黙の曇り空が漂っているせいだ。
 後部座席の左端に陣取ったジャックは頭の後ろで両手を組んで、目まぐるしく移り変わる町並みを眺めている。ティナとジャックの間には微妙な隙間が横たわっていて、まるで彼女がジャックに話しかけようとするのを邪魔しているみたいだった。自然に生まれた隙間ではなく、彼が故意に作り出したものなのかもしれない。
 重苦しい沈黙を引き連れたまま、アルファ・ロメオは市街を走り続ける。空に浮かぶ太陽が首を傾げているから西に向かっているんだろう。閑静な住宅街に到着した。そこは高台になっていて、坂を下っていけば生命が育まれたコバルトブルーの海の側まで近づけるだろう。黄金色の砂浜では、港町で起きた殺人事件を知らない人間たちが海と戯れていた。
 青い海の側に並んでいる家の群れはどれも真っ白で、鋭い鑑定眼を持っていたとしても見分けることは難しいだろう。一件ずつ家を見て回るという地道な努力を重ねたティナたちは、赤いポストにマーキングされたエイヴォンの文字を発見した。
 自分と同じファミリィネームを見たジャックの足が止まった。ミランダが催促しても、ティナが手を引っ張ってみても、彼は石像みたいに動かなかった。勝手にしなさい。溜息をついたミランダは門を開け、黄金色の碇に守られているドアを叩いた。この家も海神に守護されているのだろうか。
 数秒後、ドアが開いて家の主が姿を見せた。黄金比で混ざった灰色と白の髪を、飴色のバレッタで固定していて、アーガイル模様のセーターに柘榴色のスカートを穿いている。黒のタイツを装備しているのは、冷えを予防するためだろう。清楚で物静か。それが彼女の第一印象だ。暖かい室内で編み物をしているのが似合っていそうな女性だった。
「オードリー・エイヴォンさんですね?」女性が警戒する色を浮かべるよりも早く、ミランダがバッジを掲げてアピールした。「アルジェント市警殺人課の、ミランダ・ロットーです」
「ニューランドヤードのティナ・アンバーです」ミランダに倣って、ティナもバッジを掲げる。
「そうだけど……刑事さんが、なんの用かしら? なにか事件でもあったの?」
「現在進行形の事件ではありません。私たちは未解決事件を捜査していて――」
 歯ぎしりのような軋んだ音が、ミランダの言葉を飲み込んだ。ティナが閉めた黒い門を通り抜けようとした誰かが開けたのだ。ティナは振り返った。ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだジャックが歩いてくる。芝生を踏み締める足取りは重く、地面を突き抜けて地球の裏側まで沈んでしまいそうだ。伏せていた顔を上げて、ジャックは真正面からオードリーを見つめた。オードリーは両手を上昇させて口元を覆い隠した。驚いている仕草だ。
「……貴方は……ジャックなの?」ティナとミランダの脇をすり抜けたオードリーが、複雑な表情のジャックの前に立った。
「……久し振り。母さん」
 ジャックは快活な笑顔を浮かべた。彼女の前では笑っていようと努力しているみたいだけれど、わずかに表情が強張っている。ハグを交わす二人。油を差し忘れたアンドロイドみたいにぎこちない。オードリーが家のドアを開放した。取り調べに応じる気になったようだ。
 ポーチを通過して茶色のフローリングへ。壁も天井も真っ白だ。リビングへ案内される。艶のあるブラウンのキャビネット。花瓶に生けられた花はおとなしい。なにかが起こる前兆なのか、カーテンは凪いだ海のように静かだ。壁に飾られた額縁に閉じ込められているのは高級な絵画ではなく、仲睦まじく微笑む家族写真だった。ティナたちは象牙色のソファに座った。お構いなくと言ったのに、オードリーはハーブティーを持ってきた。アルジェントの海のように爽やかな味だった。
「貴女たちがここにきたと言うことは――シェリルの行方が分かったの?」
「残念ですが、お嬢さんの行方は分かっていません。私たちが来た目的は、十年前の殺人事件についてお話を伺うためです」
「……そう」オードリーが溜息を落とす。なぜだろう。安堵の息の匂いがした。「十年前の事件というと――主人が殺された事件ね? でも、捜査は打ち切りになったはずじゃなかったの?」
「捜査は再開されたんです。アルジェントとポルトフィーノを結ぶハイウェイ沿いの森の中で、血塗れのシャツが見つかったんですよ。科学捜査班のラボでDNA鑑定を行っています。恐らくご主人の血液と一致するかと。息子さんに聞きました。発見されたシャツは、シェリルさんが着ていた物と同じだそうです」
 バッグから例の写真を取り出したミランダは、オードリーの目の前に写真を置いた。赤く染まったパフスリーブの半袖シャツを撮影した写真だ。写真を手に取ったオードリーはライトブラウンの目を見開き、確認を終えた写真をミランダに返却した。オードリーの顔は強張っている。鮮やかな赤に動揺しているのだ。
「シェリルさんの服で間違いないですね?」
「――ええ、間違いないわ。あの子の誕生日に私がプレゼントした服だから」
「ご主人――ジョージさんを恨んでいた人物に心当たりはありませんか?」
「いえ――」オードリーが首を振る。灰色の髪が彼女の頬を打った。「私の知るかぎりでは、主人に恨みを抱いているような人はいないわ。主人の友人が映画館で働いています。彼ならなにか知っているかもしれません」
 オードリーの心身を気遣って事情聴取を終えたティナたちはエイヴォン家をあとにした。エイヴォン家に足を踏み入れてから、ティナは違和感を感じていた。ごく普通の一般家庭なのに、ごく普通の一般家庭とは違うなにかがあるような気がするのだ。些細なことであれな放っておけと言われるかもしれなが、些細なことが事件を解決する鍵に繋がることもある。こんなとき、シエルがいてくれたら――。いけない。彼を思い出すのはやめよう。胸が熱くなり、締めつけられてしまうから。
「あぶねっ!」ジャックがティナの手を引っ張って、電柱と衝突しそうになった彼女を救助してくれた。「ちゃんと前見て歩かねぇと、頭に大きな瘤ができるぞ」
「ごめんなさい。考えごとをしていて――」
 ティナは道路の反対側を走行している車に目を向けた。どんな景色にもスムーズに溶け込んでしまいそうな、シンプルな軽乗用車だ。操縦席に身を潜めている若い女性が、サングラスで隠した視線をティナたちに送っている。戦闘機がタキシングしているような速度で、まるで三人をストーキングしているようだ。足を止めたティナを催促しようと側にやってきたジャックも女性の存在に気づいた。ジャックの顔色が一気に変わった。
「――姉貴?」
「えっ?」
「シェリル姉ちゃんだろ!?」車に向かってジャックが叫んだ途端、車の速度が上昇した。「待ってくれよ! 訊きたいことがいっぱいあるんだ! いかないでくれ!」
 フル・スロットルでタイヤの回転速度を上げた車は、制限速度を破りそうな速度で地平線の彼方に走り去った。ジャックが道路に飛び出した。その直後、タイミングを見計らったかのようにクラクションを鳴らしながら大型トラックが突撃してきた。
 警察官の目の前で轢き逃げ事件を発生させるわけにはいかない。ティナとミランダは協力して、ジャックを安全な歩道の上に引き戻した。排気ガスを撒き散らしながら、トラックは通過していった。ドライバーは馬鹿野郎と叫んでいるに違いない。歩道に座りこんだジャックは呆然とした表情で、車が逃げ去った方向を凝視している。ミランダのコートのポケットが痙攣した。携帯電話が泣いているのだ。
「ロットーよ。ええ、そう、分かったわ。映画館で合流しましょう」携帯電話を宥めたミランダが振り返った。「シャツに付着していた血液の持ち主が分かったそうよ。ヴェネルディ映画館でケイヒルと合流するわ。さあ、車に乗って」
 ティナはジャックを立ち上がらせてジャケットとジーンズに付着していた埃を払い、アルファ・ロメオの後部座席に彼を押し込んだ。
 ロメオが360度ターン。
 車内の降水確率は90パーセント。
 沈黙と涙で構築された雲は濃度を増して、今にも悲しみの雨が降り出しそうだった。


 「Venerdi Teatro di film(ヴェネルディ映画館)」という年季の入った看板が掲げられていなければ、誰もがそこに映画館が建設されていることに気づかなかっただろう。周囲の専門店や市場は買い物客や観光客の恩恵で潤っているのに、ヴェネルディ映画館だけが暗欝とした陰気なオーラで取り囲まれているのだ。十年前の殺人事件の残り香が、映画館に染みついていて取れないのだろう。入口の前で、フラック・ケイヒルが煙草を吸いながら待機していた。黒い姿にティナは一瞬動揺してしまった。違う。彼はシエルじゃない。シエルは喫煙者じゃないからだ。いつまでもシエルの幻影に悩まされているなんて情けないと思った。
「待たせちゃったみたいね。ごめんなさい」
「いや、いいんだ」フラックが煙草を揉み消して笑う。役目を終えた煙草は携帯用灰皿へ。「そっちの収穫は?」
「とくになにも。ジョージ・エイヴォンの友人がここで働いていることくらいかしら。DNAの鑑定結果は?」
「100パーセント、ジョージ・エイヴォンの血液だった。それと――シェリル・エイヴォンの血液も付着していたよ。被害者と争ったんじゃないか?」
「かもしれないわね。どちらにせよ、彼の友人に話を聞かないと。いきましょう」
 ミランダとフラックは映画館の中に入っていった。後に続く前にティナは肩越しに振り向いて、ジャックが駄々をこねていないか確認した。大丈夫。暗い影を浮かべているけれど、検死官はついてくる。裏路地にひっそりと佇んでいる、洗練されたバーのような館内だ。意外なことに、赤いカーペットが敷き詰められたロビィはそこそこ混雑していた。
「いらっしゃいませ」
 白いシャツの首元を蝶ネクタイで飾った男性がにこやかに微笑んだ。バッジと警察手帳を見せても、彼は微笑みを絶やさない。見事な自制心に拍手を送ろう。
「警察のかたですか。あの、どのようなご用件で?」
「十年前、ここで映画技師として働いていたジョージ・エイヴォンが殺害されたことは知っていますよね? 彼の友人が、ここで働いていると聞いたのだけれど――」
「ええ、清掃員のウィレム・ルイジのことですね。館内全体を清掃してもらっています。この時間は――四番シアターを清掃しているはずですよ」
 ヴェネルディ映画館はドーナツみたいな造りになっていて、十分もあれば簡単に一周できる構造だった。シアターは一番から四番まであり、年代物の貴重な映画から最新の映画まで鑑賞できるのだ。防音措置が施された分厚い扉を開けて四番シアターへ。まだ上映時間じゃないから当然客はいない。モップを装備して床を磨いている男性を見つけた。静かなシアターに靴音が反響する。リズムを狂わされたモップがダンスを止めた。ダンスを邪魔されたにも関わらず、男性は笑顔を浮かべた。その笑顔はジャックに向けられている。
「オイオイ――まさか、ジャックか?」
「そうだよ」笑顔を返したジャックが頷く。「久し振り、親父さん」
「ははは! あのチビのジャックか! 大きくなったな!」
 モップを引き摺った男性はジャックに歩み寄ると、彼の赤毛を掻き回した。二人は知り合いだったのか。アルジェントはジャックの生まれ故郷だ。知り合い同士でも不思議はない。ヒールを鳴らしたミランダが一歩前に進み出た。
「ウィレム・ルイジさんですね?」
「そうだが――アンタたちは?」
 同じ台詞と同じ動作、同じ小道具で自己紹介を。ウィレムと見破られた男性は律儀にお辞儀をした。清掃マニュアルには記載されていないだろう。
「刑事さんが、しがない清掃員になんの用なんだい?」
「ジョージ・エイヴォンをご存知ですよね?」腕組みをしたミランダが質問を開始する。その途端、ウィレムの表情がわずかに強張った。「十年前、ここで殺害された映画技師です。確か貴方の友人だとお聞きしましたが」
「確かにそうだが――」モップに寄りかかったウィレムが笑う。「友人とはいっても、たまに酒を飲みに行く程度の付き合いだったよ」
「事件当日、貴方はどこにいました?」
「仕事をしていた。二番シアターだよ。ジョージは映写室で映写機を操作していた。嘘だと思うのなら、マスタに訊けば分かるはずだ」
 水の溜まったバケツに突っ込んだモップを絞ると、ウィレムは仕事を再開した。仕事を口実にして取り調べから離脱しようとしているのだ。このまま強引に取り調べを続けることもできるが、ウィレムとの間に深い溝が生まれてしまうだろう。そうなれば、清掃員は二度と口を開かなくなる。ひとまずここは退散しよう。四番シアターからロビィに戻る。ロビィの壁に貼り付けられている映画のポスタを見たジャックが、吸い寄せられるように近づいて足を止めた。
「ジャックさん。どうしたんですか?」
「この映画――初めて姉貴と観にいった映画なんだ」
 シェリルとの思い出が蘇ったのか、ジャックの青い目は悲しみと追憶で曇っていた。映画のタイトルは「Blue Sky Blue」で、行方不明の兄を捜すためにパイロットになった少女と、その兄とバディを組んでいた孤独なエースパイロットの物語らしい。様々な障害を乗り越えて二人は結ばれるのだが、逃避行の末に待ち構えている悲しい運命と、希望を感じさせるラストシーンが観る者の涙を誘うようだ。上映時間は数十分後で、ロビィに待機していた客たちが移動を始めていた。
「観にいっても構わないわよ」ミランダがサプライズな発言をした。
「え? でも――いいのか? いや、いいんですか?」
「捜査に協力してもらったお礼よ。私は周辺の店に聞き込みにいってくるわ。いろいろとつらかったでしょう? 息抜きも必要だわ。ケイヒル、ティナとジャックをお願いね」
「え? あ、ああ――分かった」
 フラックに子守りを任せたミランダは、ヒールを響かせて足早に出ていった。彼のアイスブルーの目は、しばらくのあいだ彼女が出ていった扉を見つめていたが、未練を断ち切るように扉から離れてティナとジャックのほうを向いた。行こう。二人の子供を託された刑事兼ベビィシッターが歩きだす。前列と後列の中間の席を確保。席を立ったフラックが出て行って、コーラとコーヒーにポップコーンの戦利品を携えて戻ってきた。まさか本気でベビィシッターになるつもりなのか。
「ケイヒルさんってさぁ」ポップコーンを齧りながら、ジャックが後ろの席に座っているフラックを振り返った。「ロットーさんのこと、好きなんっスか?」
 コーヒーがフラックの口から噴射された。シアターの上空に、美しく弧を描く虹が描かれる。
「なっ――!? いきなりなにを言うんだ!?」
「ロットーさんの後ろ姿を見つめる目。あれは恋する男の目っスよ。な? ティナ」
「そうですね。ぞっこんってやつですね」
「ばっ――馬鹿なことを言わないでくれ。それに大人をからかうもんじゃない」
 恋愛話は終わりだというふうに、フラックは腕組みをして明後日の方向を向いた。季節外れのハロウィン。トリック・オア・トリート、お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ。そう言いたいところだけれど、コーラとポップコーンを貰ったんだ。このくらいで勘弁してあげようじゃないか。
「元気そうだったな、親父さん」
「ウィレムさんのことですか? 親子みたいに仲がいいんですね」
「まぁな。……なかなか家に馴染めなかったオレは――ダチと馬鹿なことばっかりやっててさ、両親に反抗して、皆に心配かけさせてたんだ。そんなオレを叱りとばして、家族の大切さをウィレムさんが教えてくれたんだよ。で、家族ぐるみの付き合いを続けてるってわけさ」
 世界が暗転した。映画が上映される合図だ。スクリーンに投影されるカウントダウン。鬱陶しいCMが過ぎ去り、本篇が始まった。映画はテンポよく進んでいく。台詞も簡潔で、無駄なものを削ぎ落としたみたいだ。様々な色の空を舞う戦闘機。エースパイロットの青年と絆を深めていく少女。少女の兄の死が明かされるシーンでジャックが口を開いた。
「あの二人――ソエルとノワリーだっけ? なんだか、ティナとアルタイル主任に似てるよな」
「私と――アルタイルチーフに?」
「ああ。ノワリーが素直になれないところがな」
 確かに。ティナも納得した。冷酷で高慢な顔の裏に、優しさを隠しているところがよく似ている。映画が進む。ソエルがモーテルを飛び出してトラックに拾われるシーンだ。ティナの脳裏に、シエルに背中を向けて走り去る自分の姿が蘇った。
「――皆、心配してたぜ、ティナのこと」
「……皆さんが、ですか?」
「フレンとディアナさん。クリスチャンにスペック、ヴェラのオッサンもな。とくにアルタイル主任は――凄く心配してたぜ」
「チーフが――」
「なにがあったのかは……だいたい知ってる。だから、なにも訊かない。ティナの傷が早く癒えることを、オレは願ってる」
「ジャックさん……」
 ラストに向けて映画は走り続ける。星空が浮かぶバンガロー。そのステップにソエルとノワリーが肩を並べて座り、一緒に生きていこうと約束を交わしていた。数人の観客がすすり泣いていた。時を越えて繰り返し上映されている作品だ。きっと、この映画を何回も観ている常連なんだろう。
「そういえば十年前、このシーンで親父が姉貴を呼びにきて映写室に連れて行った……まさか――!」
 突然ジャックが席を立ち、稲妻の如き素早さでシアターを飛び出していった。制止する暇もなかった。映画鑑賞を途中放棄して、ティナとフラックもジャックを追跡する。二番シアターの隣にある映写室から騒音は鳴り響いていた。間違いない。囚人はここにいるぞ。牛乳瓶の底のようなレンズが嵌め込まれた眼鏡をかけた技師が、ジャックと口論を繰り広げていた。
「出ていけと言っているじゃろうが! また物を盗む気か!? この泥棒猫め! 警察を呼ぶぞ!」
「話の分からない爺さんだな! 十年前の1月27日の映写室に、ジョージ・エイヴォンとシェリル・エイヴォンがいたかって訊きたいだけなんだよ!」
 今にも殴り合いを始めそうな二人を引き離し、ティナとフラックは警察官であることをアピールした。ジャックと技師は、鞭で調教される猛獣のようにおとなしくなった。深呼吸をして焦る気持ちを落ち着けたジャックが、今度は礼儀正しく丁寧に同じ質問をした。険しかった技師の表情が和らぐ。最低限のマナーを守らないと、人は優しくなってくれないのだ。
「十年前の1月27日じゃな? 確かにジョージはここでフィルムを回しとったよ。女の子といたのかどうかは分からんが――ワシが飯を食いに外に出たとき、女の子とすれ違ったのは覚えとる」
「この人でしたか?」
 ティナは微笑むシェリルの写真を見せた。オードリーからレンタルした、シェリルの若かりし頃の写真だ。眼鏡の位置を直した老人はこれでもかというぐらい両目を見開いて、写真の少女を凝視した。錆ついた記憶に油を差そうとしているのだろう。
「自信を持って言えんが――多分、この子じゃった。なにせ、十年も昔じゃからな」
「さっき、また物を盗む気かと言っていましたけど――盗難事件に遭われたんですか?」
「そうじゃ! その坊主が言っていた十年前の1月27日に、フィルムが一つ盗まれたんじゃよ! 安いフィルムじゃったからよかったものの……まったく! 嘆かわしいことじゃ!」
 沸騰した薬缶のように怒りの蒸気を立ち昇らせた技師は、映写機の前に張り付いて動かなくなった。ティナの脳裏に、ミランダから聞いた事件の詳細が蘇った。ジョージ・エイヴォンの死因は絞殺で、彼を絞殺した凶器は発見されていないのだ。もしかしたら、映写室から失踪したフィルムがジョージの命を奪い去った凶器で、証拠隠滅のために殺人犯が持ち去ったのかもしれない。ちょっと待って。確か、映写室の隣は二番シアターだった。事件当日、「彼」がそこにいたはずだ。
「ジャックさん! 確か――ウィレムさんは事件の日に二番シアターを清掃していたと言ってましたよね? だとしたら、なにか知っているはずですよ!」
 ウィレムが仕事を終えて帰宅していないことを祈りながら、ティナたちは四番シアターに駆け込んだ。清掃員はそこにいた。幸運の女神が微笑んでくれたのだ。ウィレムはなにかを忘れるように、なにかから逃れるように仕事に没頭している。振り返ることもなく、ウィレムは動きを止めた。
「……またアンタたちか」友好的な声の裏に疎ましさが隠されていた。「もう話すことはないよ。仕事に集中したいんだ。悪いけど、帰ってくれ」
「ルイジさん。まだ、我々に話していないことがあるんじゃないですか?」
 フラックの質問にウィレムが反応を示した。思い当たる節があるのだろう。彼がなにか隠していると判断したフラックが、さらに言葉を続けた。
「先程貴方は仰いましたよね? 事件当日、二番シアターを清掃していたと。二番シアターの隣が映写室になっていることはご存知のはずです。物音や言い争う声を聞いていると思うのですが――教えてくれませんか?」
 ゆっくりと身体を傾けて振り返ったウィレムは、蒼白な表情をしていた。モップの柄を握り締めている手は白く染まり、小刻みに震えている。隠していたことを白日の下に晒そうと決意したのだ。自らの意思で縛りつけていた舌をウィレムは解き放った。
「……俺が殺した」初めは小さかったウィレムの声は、次第に音量を増していった。「そうだよ! 俺がジョージを殺したんだ! さあ、逮捕してくれよ! それがアンタたちの仕事だろう!?」
 モップを投げ捨てたウィレムは叫び、両腕を突き出した。逮捕してくれという意思表示だろう。しかし、フラックは冷たい手錠を取り出すことはしなかった。唇を噛み締めたジャックが前に進み出て、ウィレムの前に立ちはだかったからだ。待ってくれ。ジャックが今にも暴れ出しそうな手錠を鎮めた。
「……嘘だ。親父さん、アンタは嘘をついてる。親父さんは人を殺すような人じゃねぇよ! 極悪非道な罪を犯した最低な奴でも、そいつは一人の人間だ。だからどんなに憎くても、殺してはいけないって教えてくれたのはアンタじゃないか! 頼むから本当のことを言ってくれよ!」
 音のない世界にジャックの悲痛な慟哭が反響した。沈黙に包まれながら、ティナたちはウィレムの言葉を待った。
「……嘘はついていない。俺がジョージを殺した」
 ジャックの必死の説得も空しく、ウィレムは供述を翻すことはしなかった。ウィレムの両手を拘束するためにフラックが進み出る。冷たい金属の輪が牙を剥いたとき、シアターのドアが開け放たれてミランダが入ってきた。収穫はあったのだろうか。情報を共有しよう。ティナはウィレムが罪を告白したと伝えた。しかしミランダの表情は晴れない。
「逮捕するのはまだ早いわ。事件当日の夜、映画館の裏口から出てきた二人の女性を見たと証言があったわ。一人はシェリル。もう一人は――オードーリー・エイヴォンだったそうよ。もう一度、彼女に話を訊きにいきましょう」ミランダがウィレムに視線を向けた。「ルイジさん。貴方にも同行してもらいたいのですが――来てもらえますか?」
 床に膝をついたウィレムは力なく頷いた。映画館を離脱。群青の海を背中に背負った住宅街に、真紅のアルファ・ロメオは眩しいくらいによく映える。二回目の事情聴取を決行しにエイヴォン家へ向かう。ミランダがドアを叩く必要はなかった。オードリーはポーチの前に置いてあるベンチに腰掛けて、遥か彼方の水平線を眺めていた。自分を待ち受ける運命を知っているような静寂な顔だ。ティナたちに気づいた彼女が立ち上がり、冷たい眼差しを向けた。
「……お話しすることはありませんわ。帰ってちょうだい」
 オードリーは180度ターンした。真実を語らないまま、扉の向こうに逃げようとしているのだ。その瞬間、ティナはあのとき感じた違和感の正体に気づいた。エイヴォン家に飾られていた家族写真のなかにジョージが映っている写真が一枚もなかったのだ。まるで、彼の存在を抹消しようとしているかのように。真実を知り、事件を解決に導くにはオードリーの心を溶かさなければいけない。去りゆくオードリーの背中にティナは呼びかけた。
「待ってください! オードリーさん、貴女は――事件の真相を知っているんですよね!? だったら、逃げないでください! 真実から目を背けないでください! もう抱え込まなくてもいいんです。苦しまなくてもいいんです。お願いです。私たちを信じて、すべてを話してください。ジャックさんとシェリルさん、そして貴女自身を十年前の呪縛から解放してあげてください」
 ドアの内側に逃げようとしていたオードリーの歩みは止まったが、彼女は振り向かなかった。
「……刑事さんの言うとおりだよ」ウィレムが歩み出た。オードリーの首が動く。「もう、終わりにしようじゃないか。ジャックとシェリルを愛しているんだろう? なら、重苦しい鎖を引き千切ろう。俺は、ジャックとシェリルを――君自身を救いたいんだよ」
「……分かりました」
 振り向いたオードリーがドアを開放した。冷たい眼差しは溶けていた。罠は仕掛けられていない。
「さあ、中へ入って。すべてをお話ししますわ」
 家に上がってリビングへ。気のせいだろうか、ティナたちの身体を受け止めた象牙色のソファは、少しだけ不機嫌になっていた。主を二回も取り調べにきた刑事から、少しでもオードリーを守ろうと抵抗しているのかもしれない。聞こえるのは寄せては返す青い波の音。港町に眠っていた真実が、目覚める時がきたのだ。
「……ジョージを殺したのは――私です。あの子に罪はないわ。あの男は、死んで同然の男だから。ゴミ屑のように最低な男よ」
「どういうことだよ。死んで同然なんて――」
 ジャックが両膝の上で拳を握り締めた。込められた力が彼の皮膚を白く染める。今にも骨と血管が浮き出そうだ。
「ジョージは……シェリルを――」オードリーが口を閉ざす。お願い。勇気をだして真実を語って。「性的虐待していたのよ。誰にも気づかれないように、ヴェネルディ映画館の映写室で何度も何度も――」
 穏やかだったオードリーの声は怒りと憎しみを帯び、燃え盛る火のように激しさを増していった。永いあいだ封じ込めていた、ジョージに対する怒りや憎しみが爆発したのだ。
「……教えてくれよ、母さん。あの日、なにがあったんだ?」
 漣の音をBGMに、フェアリィテイルは幕を開けた。



<2002 January Day27>


 シェリルからの救難信号を受信したオードーリーがヴェネルディ映画館の映写室に駆けつけたとき、狭苦しい映写室は地獄絵図と化していた。灰色の箱庭に飛び散った鮮血。赤い血溜まりに沈んでいたのは、側頭部が陥没した我が夫ジョージだった。そして動かない彼の傍らに立ち尽くす少女。オードーリーに救いを求めてきた最愛の娘シェリルだ。鉄パイプを握り締めて小刻みに震えている彼女の顔は、冴え渡る月のように真っ青だった。
「シェリル! いったいなにがあったの!?」
「母さん! 私っ……父さんを――!」
 駆け寄ってきたシェリルを抱き締めたオードリーは娘の背中を優しく撫で、混乱している彼女を落ち着かせた。理性を取り戻したシェリルが話し始めた。震える唇が紡ぎ出す。なぜ父を殴ってしまった事態に陥ってしまったのかを。
 いつものようにシェリルは弟のジャックを連れ、ヴェネルディ映画館に映画鑑賞にきていた。何度も何度もこの目に焼きつけてきた大好きな映画だ。父に呼び出されないかぎり、シェリルは幸せを味わっていられる。しかし気紛れな神様は、シェリルの運命の糸巻きを煮えたぎる窯の中に落としてしまったのだ。誤って落としたのか、故意に落としたのかは誰にも分からなかった。
 美しい星空の下で少女と青年が約束を交わすシーンで、誰かがシェリルの肩を叩いた。しかしシェリルは振り返りたくなかった。振り返れば拷問のような責め苦の時間が待ち構えているからだ。でも逃げられはしない。彼女が逃げればジャックが次の生け贄に選ばれてしまう。いつもの場所――映写室まできなさい。シェリルの肩を叩いたジョージは待ち合わせ場所を指示すると、暗転したシアターを出ていった。
「姉ちゃん」小さな手がシェリルの服を引っ張った。ポップコーンの欠片を口元に付けたジャックの手だ。「どこに行くの? 映画、終わっちゃうよ?」
「すぐに戻るから。映画が終わったら、ロビィで待っていてね」
「うん。分かった」
 真っ白な笑顔を浮かべたジャックはスクリーンに向き直り、映画の世界に入っていった。この世の汚れとは無縁の純粋無垢な笑顔を守るために、シェリルは映写室に向かった。途中で技師の男性とすれ違ったが、彼は分厚い眼鏡のレンズ越しから彼女を一瞥しただけで、これから起こる悲劇に気づかないまま立ち去った。
 映写室のドアを開けて室内に入ると、シェリルの到着を待ち構えていたジョージが薄ら笑いを浮かべながら立っていた。まるでホラー映画に登場するヴァンパイアのような醜悪な笑みだった。欲望を剥き出しにしたジョージがシェリルに飛びかかってきた。引き千切られる衣服。皮膚の上をなぞる手は泥のように湿り、詐欺師のように陰湿だ。今日のジョージは恐ろしいほど凶暴だった。彼は――性行為の最終段階に入ろうとしているのだ。
「いやっ――いやあああぁっ!」
 もうこんな目に遭いたくない! 
 私はアンタの奴隷じゃない!
 シェリルの内側でなにかが爆発した。ジョージの身体を跳ね除けて彼の全身に爪を立て、死に物狂いでシェリルは抵抗した。抵抗されたことに腹を立てたのか、ジョージはシェリルを引き摺り起こして壁に叩きつけ、平手で頬を弾くという肉体的苦痛を与えてきた。体罰を与え続けて戦意喪失を狙う作戦か。
 このままでは殺される。なんでもいい。私を助けて。シェリルの救いを受け取ったのは、冷たい鉄パイプだった。我に返るとシェリルの足下には赤い液体が広がっていて、うつ伏せになったジョージが沈没していた。どうやってオードリーに助けを求めたのかは覚えていない。気がつくと、シェリルは大好きな母の腕に抱かれていたのだ。
「うっ……ぐうぅ……」
 突如として響いた呻き声に、シェリルとオードリーの心臓は跳ね上がった。息絶えたと思っていたジョージが起き上がろうともがいていた。墓穴から這いずり出ようとするゾンビのように、血の線を引きながらジョージがドアを目指して這っていく。助けを求めにいこうとしているのだ。悪魔は地獄に送り返さないといけない。
 刹那、オードリーが動いた。棚に押し込まれているフィルムを掴んだ彼女は、円形のケースから引っ張り出した半透明のフィルムをジョージの首に巻きつけて、力のかぎりり彼の首を締め始めたのだ。シェリルが見ている前でジョージの顔は土気色に染まり、白目を剥いた彼は涎と舌を垂らして絶命した。オードリーの浅い息遣いだけが、映写室に響いていた。
「母さん……」
「貴女は逃げなさい。二度とここに戻ってはいけないわ。いいわね!?」
「でも――! ジャックはどうなるの!? あの子を置いていくなんて――!」
 水掛け論を繰り広げていると、足音が走ってきた。足音はドアの前で止んだ。鍵の掛かっていないドアは簡単にこじ開けられ、清掃員のウィレム・ルイジがそこにいた。恐らく争う声を聞き、急いで駆けつけたのだろう。ウィレムの視線が動き、オードリーとシェリル、そして白目を晒して動かないジョージを認識した。目撃されてしまった。きっと、彼は警察に通報するだろう。映写室から出ていったウィレムは数分後、バケツとモップとブルーのビニルシートを抱えて戻ってきた。怯える二人の目の前で彼はビニルシートで死体を包み、血塗れの床をモップで拭き始めた。
「ウィレム――!? 貴方、なにをしているの!?」
「……こいつのしていたことはずっと前から知っていた。なのに俺は見て見ぬ振りを続けてなにもしなかった、しようともしなかった。俺は卑怯者だ。最低のクソ野郎だ。少しでもいい、償いをさせくれ」
 懺悔の涙を流しながら、ウィレムは床に染み込んだ血液を拭き取っていた。そして二人は頑なに逃走を拒むシェリルを口説き伏せ、闇に紛れてアルジェントの町から脱獄させた。その後、オードリーとウィレムは協力して殺人の痕跡を消し、シートで隠したジョージの死体を寂れた廃車置き場に放置した。人目につきにくい場所を選んだ理由はただ一つ。シェリルが逃亡する時間を稼ぐためだ。
 そして二人は誓い合った。
 この秘密を空に舞い散る灰になる日まで、心の奥底にしまっておこうと。


 赤い光を撒き散らしながら数台のパトカーが到着した。ドアを開けて降りてきたのは警察官たちで、オードリーを連行するためにやってきたのだ。ティナたちは、罪を告白したオードリーとウィレムを外までエスコートした。正義の味方が手錠を構えて待っている。シルバーの手錠がオードリーの両手首に噛みついた。彼女がパトカーに飲み込まれる寸前、ジャックが後を追いかけた。
「……母さん。どうして本当のことを言ってくれなかったんだ?」
「……ごめんなさい。幼かった貴方を――傷つけたくなかったの」
「馬鹿野郎! オレたちは家族じゃなかったのかよ! 家族だったら、喜びや悲しみ、怒りと痛みを共有するのが当たり前だろ!?」
「私は家族を殺した人殺しよ。そんな私でも……家族だと思ってくれるの?」
「あったりめーだよ。母さんも姉貴もウィレムさんも、オレの大切な家族だ。……オレ、ずっと待ってるよ。また、一緒に暮らそう。いつか、シェリル姉ちゃんと一緒に――」
「……ジャック」
 距離を縮めた親子はハグを交わして互いの体温を記憶に焼きつけ、最後に一度だけ視線を交差させて別れを告げた。罪人を乗せたパトカーが走り去る。彼女を待ち受けているのは冷たい牢獄だ。人一人の命を奪ったとはいえ、オードリーとシェリルに殺意はなかったと思う。シェリルは生きるために戦いぬき、オードリーは愛する娘を守るために戦ったのだ。たとえそうだとしても、犯した罪は洗い流さないといけない。来世を幸せに生きるために。
「――シェリル・エイヴォンの居場所が分かったわ。名前を変えて、チンクエ・テッレの町で暮らしているそうよ。明日、彼女を逮捕しにいくわ。ホテルを予約しておいたから、ティナはそこでゆっくり休んでちょうだい。明日の朝、迎えにいくから」
 ミランダの運転するアルファ・ロメオに輸送されて、ティナは彼女が予約してくれたホテルで、ジャックは彼が宿泊しているモーテルで降ろされた。モーテルの駐車場にあるバイクが見える。ニューランドからアルジェントまでジャックを運んできたバイクだろう。ミランダはジャックと別れる前に、彼の肩を叩いて励ましていた。
 ティナがホテルに到着したときには、すでに太陽は沈んでいて白銀の月が浮かんでいた。割り与えられた部屋に入り、一日の疲れをシャワーで洗い流したティナは高級感溢れるベッドにダイブした。不意にミランダの言葉が再生され、ティナは二回目の違和感を感じた。
 ミランダの言った台詞の中に、重大な意味が含まれているような気がした。
 スパイチームが互いの連絡を取るときに使用するような、暗号が隠されているような気がするのだ。
 考えれば考えるほど違和感で構築された迷宮は複雑に絡み合い、ティナを出口から遠ざけていく。
 そして眠れないまま、夜は深くなっていった。


 連続して続く爆発音が、ティナを浅い眠りの海から引き揚げた。目を擦りながら起き上がって窓を開けて階下を見下ろすと、一台のバイクがホテルの前でストライキしていた。バイクは動かないし、発進する素振りも見せようとしない。まるでティナが出てくるのを待っているかのようだ。ダッフルコートを羽織ってホテルの外へ。黒とシルバーのボディのバイクに跨ったジャックが、白い息を吐いていた。青い視線は空の彼方に向けられている。広大な宇宙の中に、シェリルを捜そうとしているのだろうか。
「ジャックさん? どうしたんですか?」
「こんな夜中に悪いな。アンタに言ってからいこうと思ってよ」
「行くって……どこに行くんですか?」
「チンクエ・テッレ。姉貴がいる住所が分かったんだ。今から――会いにいくつもりさ」
「分かったって――どうやって?」
「ジャケットのポケットにメモが入ってた。多分……ロットーさんが入れたんだと思う」
 あのときミランダはジャックの肩を叩く振りをして、シェリルがいるであろう場所を書き記した秘密の地図を入れておいたのか。バイクのエンジンが回転を上げる。ジャックが孤独な一人旅に出ようとしているのだ。独りでいかせるわけにはいかない。どんな物語にも、苦楽を共にする旅の仲間が登場するのだから。
「待ってください。私もいきます」
「そう言うと思ってた。じゃあ、行こうぜ」
 満月の形を模倣したヘルメットを受け取って、ティナはバイクの後部座席に跨った。シートベルトの代わりの両腕を、ジャックの身体に巻きつける。二人を乗せたバイクはアルジェントを出発して、かつては楽園があったという東へ進路を定めた。
 リグリア州の海岸線沿い一帯はリグリアン・リディエラと呼ばれている。かつては干からびた漁村が続いていたが、今では世界有数のリゾート地となっているのだ。アルジェントから西がリディエラ・ティ・ポネンテ(西リディエラ)で、東がリディエラ・ディ・レヴァンテ(東リディエラ)だ。
 西リディエラの中心は音楽祭で有名なリゾート地サン・レモで、熱帯の植物で彩られた街には南国ムードが漂っている。その東のインペリア周辺は、花の栽培が盛んな地域だ。なだらかな山の斜線には雲に似たビニルハウスが並んでいて、ハウスの中で鮮やかな色とりどりの花が育てられている。インペリア周辺を「花のリディエラ」と総称するのはこのためだ。さらに東にいくと、別荘地として人気が高いアラッシオ、ロムレス時代に起源を持つアルベンガ、陶器で有名なアルビッソーラが続いている。
 東リディエラの中心はアルジェントの近くに位置するポルトフィーノで、煌めく夏になるとエウローペの大富豪たちがヴァカンスにやってくるのだ。近くのサンタ・マルゲリータ・リグレは、地元の人に人気が高いリゾート地だ。その東には五つの港町が点在するチンクエ・テッレが広がり、軍港のあるラ・スペツィアと、切り立った断崖に建設され、息を呑むような絶景を望める街のポルトヴェーネレが続いている。
 アルジェントを旅立って一時間ほどが過ぎ去っただろうか。月光のスポットライトの下に、これぞ大自然と思えるような断崖が見えてきた。「五つの土地」という意味を持つ港町チンクエ・テッレだ。東リディエラの東部に位置する五つの町を総称してそう呼ばれているのだ。町は断崖の上や峡谷の奥深くに築かれ、周囲には美しい自然が手を伸ばしている。
 町の起源は11世紀頃で、誰でも中世の教会や鐘楼を目に映す事ができた。西端に位置するモンテロッソ・イル・マーレは砂浜の海岸を足下に展開し、宿泊施設も充実している。周囲の段々畑では、瑞々しい葡萄や爽やかなレモンが栽培されていて、この辺りで採れる葡萄はシャッケトラと呼ばれる甘口ワインに加工されているのだ。
 続くヴェルナッツアはチンクエ・テッレでもっとも美しいと絶賛されている町だ。断崖の上には14世紀の教会が背伸びをし、静かに佇む町を見守っていた。コルニーリアからマナローラ、リオマッジョーレまでは、変化に富んだバラエティ豊かな地形が楽しめる。すべての町を慌ただしく回るより、お気に入りの場所を見つけてゆっくりと過ごすのがおすすめらしい。
 ミランダの地図を頼りにモンテロッソ・イル・マーレの町を走り回る。メモに書かれた住所と同じ場所を見つけ、バイクを降りて徒歩で近づく。五階建ての色白でシンプルなアパートメントだ。四角い窓のほとんどは安らかな眠りに就いている。真夜中だから当然か。玄関のドアは素直に開いてくれた。
 ロビィを通り抜けて階段で三階へ。五つ子のドアの中から本物のドアを見つけた。ジャックは迷っていた。催促する気はない。覚悟を決めたジャックがベルを鳴らした。果たして、部屋の住人は出てくるだろうか。ティナとジャックが固唾を呑んで見守るなか、ドアはゆっくりと開いた。
 姿を見せたのは二十代前半の女性だった。前髪をセンターで分けた赤毛のボブカットに、夏の暁のような青い瞳はジャックと同じ色だ。ティナとジャックを認識した空色の目が丸みを帯びる。彼女は驚いているのだ。素早くドアを閉めて室内に逃げることも可能なのに、彼女はドアを閉めようとしなかった。
「……シェリル・エイヴォン、だよな?」
 一瞬時が止まる。蛍光灯だけが瞬いていた。
「――ええ。今は名前を変えて、ジゼル・オスローとして生きているわ。貴方は……ジャックね? 大きくなったのね」
「十年も経ったんだ。成長しないほうがおかしいって」
「そうね」シェリルが笑みを零し、ティナに目を向けた。「そちらのかたは?」
「ティナ・アンバーです。ニューランドヤードに所属しています」
「私を逮捕しにきたのね? 抵抗はしません。もう、逃げ続けるのに疲れていたから」
「貴女を逮捕しにきたわけではありません。今の私は――警察官ではなく、ただの一般市民ですから。だから、ジャックさんとたくさん話してください。十年間も降り積もった思いを――伝えてあげてください」
 十年越しの再会を邪魔したくなかったティナは、数歩後退して廊下の暗がりに身を沈めた。存在を忘れて許された時間を有効に使って欲しいからだ。赤毛の姉弟は互いを見つめ合ったまま、しばらくのあいだ沈黙を守っていた。先に沈黙の誓いを破ったのはジャックだった。
「……母さんから全部聞いた。十年前、親父が死んだ日のことや……姉ちゃんが親父にやられたこと――」
「……そう」
「オレ、馬鹿だよな。なんにも知らなかった。母さんと姉ちゃんが受けた痛みや悲しみに気づけなかった。気づこうともしなかった。姉ちゃんはオレを守ろうとしてくれたのに、それを知らずにオレは、姉ちゃんがオレを見捨てて逃げたんだってずっと思ってた。ほんと、馬鹿だよな。オレは最低の弟だよ。オレが大人だったら、もっと強かったら、姉ちゃんを守れた。ごめんな、姉ちゃん。ごめん――」
「ジャック! 違うわ!」
 室内から外に飛びだしたシェリルが、唇を噛み締めて自分を罵るジャックを抱き締めた。自分より背の高い弟を。十年前はシェリルより小さかった弟を。それが彼女よりも大きく成長した。でも、彼の時間は十年前に凍りついてしまった。それはシェリルも同様だ。とても大切なものを、二人は置いてきてしまったのだ。時間を溶かせるのは今しかない。大切なものを取り戻せるのも今しかない。
「馬鹿だったのは私よ。罪を告白して裁きを受けるべきだった。そうしていれば、母さんとジャックと一緒に笑って暮らせていたのに。未来を捨てて目の前の現在を選んでしまった私が愚かだった、馬鹿だったのよ。ごめんなさい。ごめんなさい――」
 抱き合ったジャックとシェリルは思いの全てを吐きだして、二人を隔てていた壁を粉々に打ち砕いた。今この瞬間、凍結していた姉弟の時間は音を立てて動きだしたのだ。与えられた時間が終わりを迎えようとしている。ゆっくりとジャックとシェリルは距離を置いた。二人が思い描いている未来とは違う方向に、未来は進もうとしていた。
「今からオレが言うことは独り事だ。明日の朝、アルジェント市警の刑事が姉貴を逮捕しにくる。今夜中にチンクエ・テッレを離れて逃げてくれ」
「ジャック、でも私は――」
「正しいことを言っていないのは分かってる。間違ったことだって分かってる。あのとき姉ちゃんはオレを守ってくれた。だから、今度は……オレが姉ちゃんを守る番だ」
 シェリルの空色の視線が、廊下に穿たれた暗闇に潜んでいるティナを捉えた。ティナは無言で頷いて、自分も同じ考えだということを示した。
「……ありがとう。ジャック、アンバーさん」
 もう二度と、永遠に会えなくなるかもしれないシェリルとハグを交わし、ティナとジャックはアパートから離脱した。夜空を見上げると、彼女の部屋の明かりはまだ点いていた。荷物をまとめたシェリルが出ていくと同時にライトは消えるだろう。彼女の存在と共に。シェリルが生き、確かにそこにいた証を記憶に刻みこむように、ジャックは冷たい歩道を踏み締めて長いあいだ上空を見上げていた。
 東から西へ。バイクはきた道を引き返した。ティナとジャックを追いかけるように、太陽が黎明を引き連れて昇って来る。朝焼けのカーテンに包まれた港町にゴールイン。ホテルの前でティナを降ろしたジャックはヘルメットとゴーグルを外し、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「オレはニューランドに帰るよ。ロットーさんとケイヒルさんに、よろしくって言っておいてくれ」
「分かりました」
「……母さんと姉貴を救ってくれて、マジ感謝してる。ティナがいなかったら――オレは、あの事件に背中を向けたままだったと思う。ティナがいてくれたから、オレは――オレたちは救われたんだ。ありがとな」
「そんな……私は、なにもしていませんよ。ただ、これ以上、過去の記憶で苦しむ人を見たくないだけなんです」
「やっぱり、ティナはメシアのメンバーに相応しいな。ニューランドヤードに戻ってこいよ。皆、アンタを待ってるぜ。ティナがいないと、メシアは本当に窓際部署になっちまうよ」
 ティナはなにも言えなかった。イエスとノーの言葉の間で立ち止まっていたからだ。
「人生は選択肢だらけだ。どの答えを選んでもオレは怒らない。でも、オレは信じてるぜ。ティナがメシアに戻ってくるってな。じゃあ、行くよ。ニューランドヤードで待ってるからな」
 スロットルを開いたジャックはバイクを発進させ、肩越しに振り向いて片手を上げると、西の方角に走り去っていった。黒のダウンジャケットに包まれた背中が見えなくなるまでティナは手を振り続けた。空気を描き回し続けて疲れた手を下ろすと同時に、真っ赤なアルファ・ロメオが走ってきた。サングラスをカチューシャ代わりにしたパイロットの女性が降りてくる。ティナを迎えにきたミランダ・ロットーだ。
「おはよう。よく眠れた?」
「はい。お陰さまで」
「残念だけど、シェリル・エイヴォンには逃げられたわ」
「……そうですか」
「アルジェント警察署までご足労願えないかしら。貴女に会いにきた人が待っているのよ」
 ティナに会いたい人間なんて、この世界にいるのだろうか。いるとするならば、ゴシップに食いつくマスメディアくらいしか思い浮かばない。まあいいか。どうせ放浪の身だ。いくあてもないし、もう少しミランダのお世話になろう。助手席に乗ってシートベルトをロック。運転席に座ったミランダはバックミラーの位置を調整すると、慣れた手つきでロメオを発進させた。
 お洒落な店が立ち並ぶショッピングロードを駆け抜ける。朝から酒を飲んでいる海の男たちがいる居酒屋を尻目に、アルファ・ロメオは走り続けた。事件は解決した。面倒な事務処理を終えれば、ティナはアシスタントから解放されるだろう。自由の身になったら港町を観光しよう。でも自由の身なのに、なぜか息苦しい。ジャックの言葉が耳に残っているせいだろうか。
「ティナ。貴女は――あの有名なメシアのメンバーだったのね」
「えっ――?」唐突ともいえるミランダの発言にティナは驚いた。「誰から聞いたんですか?」
「警察という組織を侮っては駄目よ。その気になれば、どんな情報も手に入れられるんだから。貴女の名前は私たちのあいだでは有名人みたいなものよ。あの連続レイプ殺人鬼スキンハンターを逮捕できたのは、貴女の危険を顧みない勇敢な行動のお陰だって聞いたわ」
 危険を顧みない行動だって? なにも知らないくせに、好き勝手に噂しないでほしい。勇敢な行動なんてした覚えはないぞ。ロムレスから侵略してきたエリートたちに利用され、ゴミみたいに捨てられただけだ。ティナの内側から怒りが顔をだそうとしている。駄目だ。まだ外出許可を与えるときじゃない。激しく葛藤するティナを余所に、ミランダは言葉を続ける。
「勇敢な行動なんて嘘なんでしょう? 本当は本部の奴らにいいように利用されて、スキンハンターを誘い出すための餌にされたんでしょう? 身体も心もボロボロにされた貴女の気持ちは――よく分かるわ」
「……同情はしないでください」ティナの声に怒りが滲み出る。爆発寸前か。「つらいだけですから」
「同情なんかじゃないわ。私も……身体と心をボロボロにされたから」
「ミランダさんも――?」
「ええ。私の恋人だった男は――私たちがセックスをしている場面を隠し撮りして、ネットにばら撒いていた。それを知った私は激しく彼に詰め寄って別れようと言ったわ。その直後彼は豹変して、私に暴力を振るった。このままでは殺されると確信した私は、銃で彼を撃ち殺した。この手で愛していた男性を殺したのよ」
「そんな――」
「正当防衛だとすぐに認められたわ。でも、私は一人の人間を殺してしまった。このことを忘れないために私は警察官になった。私と同じ目に遭う人が生まれないように警察官になった。一人でも多くの人を救いたいから、私は警察官という選択肢を選んだのよ。ティナ。貴女だって――そうなんでしょう?」
「私は――」
 返す言葉も見つからないままティナは黙り込んだ。
 脳裏に蘇ったのは、幼いティナを残して天国に旅立った父の顔だった。
 大切な家族を奪われて、独りになってしまった誰かを救おうとした父は犯人に立ち向かい、命を落とした。
 自分の信念を貫きなさいと、父は繰り返し言っていた。
 私は、なんのために警察官になったんだろう。
 父さんのような警察官になりたかったからだ。
 未練を残して彷徨う、儚い魂を救いたかったからだ。
 大切な人を奪われて、悲しみと痛みを抱えながら生きていくしかない人を救いたかったからだ。
 彼らを、死者の魂を、見捨てて逃げることなんてできない。
 私は――メシアの一員だから。
 ティナの蜂蜜色の目の奥に宿った強い光を見たミランダは、なにも言わずに頷いた。言葉は必要ないと判断したのだろう。言葉の手を借りなくても、思いが伝わるときがあるのだ。車はアルジェント警察署に到着した。ドアを開けて地面の上へ。ティナに会いたいという物好きな人間はどこにいるんだろう。ミランダがティナを導く。ティナは足を止めて固まった。見覚えのある漆黒の車。黒いコートをまとった長身の青年が、その傍らに佇んでいた。
「アルタイル……チーフ……」
 漆黒のBMWの側から離脱した青年――シエル・アルタイルはゆっくりとした足取りで歩いてきて、硬直するティナの正面で停止した。真面目にスーツを着こなし、その上に黒いコートを羽織った姿は、まるで夜の闇の一部を切り取って身につけているようだ。切ない想いがティナの胸を締めつける。ここにいる理由を訊きたいのに、声が出てこない。
「どうして――ここにいるんですか?」
「お前を迎えにきた。それだけだ」
「私を……?」
「無理強いはしない。このまま旅立っても構わない。自由に生きるのも、いいだろう」
 シエルは踵を返すとBMWのドアに手を掛けた。黒い髪に映える白い横顔は暗い翳りを帯びていた。ティナを連れ戻せないという現実を突きつけられたせいだ。100パーセントの確率で、ティナが自由に生きる道を選ぶだろうと確信している。ティナの声はいまだに出てこなかった。どうするんだティナ・アンバー。このまま黙ってメシアに戻れるチャンスを逃すのか? 愛しい青年との永遠の別れを受け入れるのか?
「まっ――待ってください!」横顔が正面を向き、藍色の瞳がティナを映した。
「アルタイルチーフ、お願いします! 私を――メシアに戻してください! 我儘を言っているのは分かっています! でも、苦しむ人や、天国に行けずに彷徨っている魂を救いたいんです! 私はもう逃げたくないんです! お願いします!」
 オレンジ色の髪を揺らしたティナは頭を直角に曲げて、シエルの言葉を待った。揶揄でも中傷でも罵りでもいい。メシアに戻してくれるなら、どんな辛辣な台詞も甘んじて受けとめる覚悟だ。なにも言わずに助手席のドアを開けたシエルは、そのまま運転席に乗り込んだ。ドアは開いたままだった。いつでも好きなときに乗ってもいいということだろうか。旅立つ前に別れを告げたい人がいる。ティナが振り向く前に、ミランダが彼女の肩を叩いて振り向かせた。
「ここでお別れね。楽しかったわ」
「ミランダさん――」視界が歪む。別れを告げるたびに泣いていたら、涙腺が壊れてしまうぞ。「いろいろとお世話になりました」
「いつでも遊びにきてちょうだい。貴女なら大歓迎よ」
「……はい」
 ミランダと別れのハグを交わして、ティナはBMWに乗り込んだ。
 四つのタイヤが回転して、車が一気に加速する。
 海の香りが遠ざかっていく。
 でも、寂しくはない。
 海の香りも波の音も、目を閉じればいつでも好きなときに思い出せるのだから。


 ティナとシエルの順調な旅路を邪魔したのは爆発した曇り空だった。初めは小降りだった雨は時間が経つにつれて凶暴になり、容赦なくBMWを叩き始めた。フル稼働するワイパの活躍も空しく、瞬く間にフロントガラスは夥しい雨粒の群れで覆われてしまった。これ以上の走行は危険だと判断したシエルは慎重に進路を変え、運良く見つけたモーテルの駐車場に車を滑りこませた。車から降りてモーテルを目指して走る。たった数メートルの距離を走っただけなのに、ティナとシエルはずぶ濡れになってしまった。
 ティナとシエルが一夜の宿に選んだのは、落ち着いた雰囲気のコンパクトなモーテルだった。イルカの模型や碇のレプリカが飾られていて、まるで港町にいるような気分にさせてくれる。カウンタで空き部屋の問い合わせをすると、残念なことに部屋は一つしか空いておらず、周辺に宿泊できるような施設はここしかないようだ。部屋が一つしかないということは、シエルと相部屋になるということだが、車の中で一夜を過ごすよりましだろう。相部屋で構わないとシエルに告げる。代金を支払ったシエルが鍵を受け取った。チェックアウトは午前十時。エレベーターはない。階段を上って部屋に向かった。
 レンタルした部屋は、ミニキッチン付きのワンルームタイプの部屋だった。調理器具や食器、冷蔵庫に電話など、生活するには欠かせない物が揃っている。ベッドは双子。柔らかな茶色を基調にした内装だった。腕を組んだシエルは壁に背中を預け、雨粒が張り付いている窓を見つめていた。
 シエルがティナを迎えにきてからモーテルに到着するまで、会話はほとんど生まれていない。ほんの少しだけ、必要最低限の言葉を交わしただけだ。あんな別れかたをしたせいだと思うし、シエルに対して引け目を感じていたせいかもしれない。いずれにせよ、ティナはシエルと二人きりになるのが怖かった。
「……ずっと、捜していた」
 沈黙が破られる。シエルが振り向いた。黒い髪から零れた水滴が白い額を伝う。
「あれからずっと、お前を捜していたんだ。元気そうで安心した。私の心配は、杞憂だったようだな」
 シエルがティナを心配している様子はひどく滑稽に見えた。慣れないことをしようとするからだ。普通誰かに心配されれば、その人が持つ優しさを感じ取れるのだが、ティナは細切れのフィルムのようなシエルの優しさに触れたことしかなかった。だからシエルが掛けてくれた言葉を疑い、彼に対して苛立ち、果てには怒りを爆発させてしまったのだった。
「安心!? 元気!? いまさらそんなこと言わないでよ! 本当は、心配してないんでしょ!? 私のことなんかどうでもいいんでしょ!? 私がいなくなって清々してるくせに、あんな目に遭ってざまあみろって思ってるくせに、そんなこと言わないでよ! 復帰したいって聞いて、さぞかし残念ですよね! どうして追いかけてきたの!? 私のことを嫌いなくせに! どうして――!」
「違う! 私は――!」
「違わないわ!」
 今まで抑えていた感情が理性の檻を突き破り、涙という形でティナの内側から溢れ出た。長い脚を踏み出したシエルがティナの両手首を掴み、彼女を真っ直ぐに見つめる。今までにない切ない色を滲ませた深淵の青い双眸。シエルの視線から逃れようと、ティナは必死で抵抗した。
「放して! 放してよっ!」
 次の瞬間、ティナはシエルに引き寄せられ、彼に唇を奪われていた。
 甘くて切ない、激しい愛が込められた、深いキス。
 身体と心を溶かされたティナは、白い海に背中から倒れ込んだ。
 ティナが下でシエルが上。ティナの呼吸はシエルに奪われたままだ。
 永遠のような、一瞬のような、不思議な時間が過ぎる。
 シエルの唇は離脱した。
「……君がいなくなってからは、なにも手につかなかった。会いたくて、会いたくて、気が狂いそうで、だから君を捜し続けていたんだ。ようやく君を見つけたときは――泣きそうになった。もう、どこにもいかないでくれ。ずっと私の側にいてほしい。君がいないと、私は生きていけないんだ」
 ティナの唇を自由にしたシエルは俯いて、胸の奥に封印していた想いを吐き出した。垂れ下がる黒い髪が、彼の複雑な胸中を暗示しているように見えた。肩が震えているのは泣いているせいか。それとも泣く準備を整えているせいだろうか。
「……駄目。私は貴方の側にはいられません」
「なぜだ」
 シエルはティナを組み伏せたまま解放しなかった。まるで磔にされた標本みたいだ。
「決まってるじゃない! 私はレイプされて汚された女なんですよ!? ボロボロにされて、ヘドロみたいに汚されて、メシアから――貴方から逃げだした臆病者なのよ!? こんな女を愛してるなんて、馬鹿なことは言わないで! 私は汚れてるの! 穢れているの! 貴方に愛される資格なんて持ってないの!」
「違う! 人間は生まれた瞬間から、誰かを愛し愛される資格を授けられるんだ。君の身体は汚れていない。穢れてもいない。身体と心が汚れていたとしても、君の純粋な魂がすべて洗い流してくれる。君の魂は綺麗で美しい。私は君の魂に惹かれ、恋をしたんだ」
「……チーフ」
「あのとき言えなかったことを言わせてくれ。私は――君を愛している。好きだ。大好きなんだ」
 不意にティナの頬に雫が落ちてきて、指で触れてみると透明な液体が指先を湿らせていた。ティナを見下ろすシエルは、見る者の心を抉るような表情で泣いていた。バネのように身を起こしてシエルの首にしがみついたティナは、彼の胸に顔を埋めて熱い涙で頬を濡らした。
「私も――ずっとチーフの側にいたい。どこにもいきたくない。私もアルタイルチーフがいないと駄目なの。生きていけないの。好きです。大好きです。愛しています。だからずっと、私の側にいてください」
「チーフと呼ぶ必要はない。シエルでいい。今の私たちは上司と部下じゃない。ただの――男と女だ」
「私のことも……ティナって呼んで」
「……愛している、ティナ」
「私も……愛しています。シエルさん」
 身体を縛る邪魔な物を脱ぎ捨てて、ティナとシエルは激しく愛し合った。
 開いていた距離を縮めるように、
 裂け目を埋めるように、
 冷静と情熱の間で口づけと愛撫を繰り返しながら、何度も何度も愛し合った。
 ティナの両手はシエルの背中の傷に辿り着き、それを優しく愛撫した。
 シエルの唇は、ティナの傷ついた部分を癒すようになぞっていく。
 貴方の髪の匂いも、
 湿った背中も、
 ティナと囁いてくれる声も、
 全部、大好きです。 
 だから、寄り添っていてください。
 青い雨が止むまで。


 距離を縮めて裂け目を埋め、互いへの想いを確認しあったティナとシエルは、モーテルの楽園から出発してニューランドヤードに到着した。駐車場でBMWと別れて自分の足でロビィに向かう。ティナに向けられる好奇心に満ちた視線は、彼女の盾となったシエルが跳ね除けてくれた。エレベーターで五階へ。身体と心が震えている。「特殊捜査課」と刻まれたプレートを目にした途端、ティナの震えはますますひどくなった。震える手でノックをして、ティナはドアを開けた。メシアのメンバーたちは――どんな目で見て、どんな顔をしてティナを迎えてくれるのだろうか。
 メシアのオフィスには懐かしい人たちがいた。フレン、ディアナ、クリスチャンにジャック、リードにヴェラ。オフィスにいる全員がティナを見つめ、驚きの表情を浮かべていた。驚愕は歓喜の色へ変わった。シエルの手が、一歩踏み出せないティナの背中を押した。
「ただいま……戻りました……」
「ティナ!」フレンとディアナ、ジャックが叫ぶ。
「アンバーさん……」クリスチャンは涙目だ。
「お帰りなさい」リードは腹立たしいほど落ち着いている。
「ったくよ。心配かけさせるんじゃねぇよ」ヴェラは皮肉たっぷりだ。
 ティナがごめんなさいを言う前、に駆け寄ってきたた全員に囲まれて、思い切り抱き締められた。
 そして、最後にシエルがティナの肩を叩く。
「お前は――私たちメシアの一員だ。よく戻ってきてくれた」
「……はい」
 メシアの一員。シエルにそう言ってもらえただけで、ティナの胸は喜びでいっぱいになった。
 胸を張って、自信を持って言える。
 私は、メシアの一員なんだと。
 さあ、迷える魂を救いにいこう。
 それが、私の選んだ道だから。