とある街の病院を舞台にした医療ドラマも、若きレジデント達の成長を題材にしたドラマも、現実の医療現場と比べればフリルのついたドレスで着飾った女の子みたいに可愛らしい。廊下を走る医師と看護師の表情は魔物と戦う勇者のように真剣で、ストレッチャーのタイヤの音は隻眼の神を乗せて駆ける六本足の馬のように勇ましい。意識不明。心肺停止。反応なし。それらの言葉がティナ達を絶望の底に突き落とす。そして、医師達は手術室に入って行った。赤いランプが点灯する。時間無制限のラウンドワンが始まるのだ。
 まるで、こだけ時間から切り離されたように、手術室の前の廊下の時間は止まっていた。赤いランプが消えて、凍りついた時間が動き出した。シエルを乗せて医療機器を引き摺ったストレッチャーが運び出され、目を真っ赤に泣き腫らしたティナと、マネキンのように立ち尽くすディアナとフレンの目の前を通り過ぎて行った。
 弾丸は摘出して損傷した神経と血管も修復に成功したが、意識が回復するかどうかは五分五分だ。ティナ達の正面で足を止めた医師はマスクを外して手術結果を淡々と語ると、一礼して仲間の後を追いかけて行った。医師達の後を追いかけたとしても、素人であるティナ達が手伝える事は何もない。肩を落として家に帰り、十字を切って神に祈りを捧げる事しか出来ないのだ。
 手術から数週間の間、シエルは集中治療室に閉じ込められていた。容体が安定して一般病棟に引っ越ししたものの、以前として昏睡状態が続いていた。意識が戻らない状態が長く継続すれば脳死と判断されるかもしれないと、担当医師は重い口調でティナ達に告げた。脳死と判断されればシエルの身体のパーツは取り出され、世界各地のドナーに寄付されてしまうのだ。そんなのは嫌だ。ティナ達の願いも空しく、シエルの意識は戻らないままだった。
 それからティナは暇を見つけては何度も何度も病院に足を運び、シエルが眠る病室を訪問した。綺麗な花束を持ち、時には色鮮やかなフルーツが詰まった籠を抱え、時にはシエルの好みそうな本を携えて白いベッドの側に腰掛けては、時間の許す限り彼の眼覚めを待ち続けた。真っ白な手を握り、氷の頬を撫でて黒い髪を掻き上げ、スケートリンクのような額に口づけを落とす。本当は唇を重ねたかったけれど、酸素マスクが邪魔をしていたから駄目だった。口づけを出来ない悲しさが言葉となって、ティナの唇から溢れ出た。
「どうして一人で行こうとするの? 卑怯よ。無責任よ。ずっと側に居てくれるって、二人で生きて行こうって、約束したじゃない。全部、嘘だったの? お願い、目を開けてよ。私達を――メシアを置いて行かないで……」
 強く抱き合って甘いキスを交わし、溶けるまで身体を重ねたい。シエルへの熱い想いが堰を切ったように溢れ出す。シエルに覆い被さってティナは泣いた。赤く腫れている両目が更に赤く腫れる。両目を破裂させてはいけないと、慌てた涙腺が涙を押し出して行く。まさに涙の安売り状態だ。
「……一人で行くなんて、ずるいよ。私も一緒に行く。ねえ、どうやったら、貴方の居る場所に行けるの?」
 白い首に顔を埋めてティナは呟いた。
 頬のすぐ側で脈打っている血管。
 右手の下で動いている心臓。
 手と手を絡ませれば温もりを感じるのに、どうして起きてくれないの? 
 少し休もうよ。充血した両目が有給休暇を申請した。それがいい。きっと、これは夢だ。目を閉じてまた目を開ければティナは現実の世界に戻っていて、生きているシエルに出会えるだろう。シエルの胸を枕にしたティナは、そのうち巡回に来る看護師に怒られるだろうなと思いながら、ゆっくりと瞼を下ろした。



 閉じていた目を開けてみると、そこは現実の世界ではなく真っ黒に塗り潰された世界で、赤、青、黄、緑の全ての色が失われていた。歩いてみても、走ってみても、黒い空間が永遠に続いているだけで、まるでルームランナーの上を走っているみたいだ。まさか、永遠にこのままなのか。恐怖と不安、焦りがティナの耳元で囁き始める。闇から抜け出したい。ティナは必死に走り続けた。すると突然、前方に白い物体が浮かび上がったではないか。衝突する寸前でティナは足を止め、正体をつき止めようと謎の物体を眺め回した。
 暗闇の海から突如として浮かび上がって来た物体は、真珠のような色をした白亜の扉だった。父と子と聖霊の似姿が全体に彫られていて、そのレリーフはとても繊細で美しく、作者に畏敬の念を抱きそうだ。しかし、ティナの目の前にあるのは扉だけで、守るべき建物の姿は見当たらないのだ。裏側を覗いては見たが、白い背中があるだけだった。まるでドラマを撮影していたスタッフ達が、セットの扉だけを置いて撤収したような感じだった。
「この扉、一体、何なんだろう……」
「それは、魂の扉だよ」
 ティナが呟いた独り事に、律儀に返事を返す者が現れた。暗闇を根城にする悪魔か。拳銃を装備していない事を後悔しつつ、ティナは素早く振り返った。靴音が響く。闇の彼方から姿を現したのは、一人の若い男性だった。カーキ色のトレンチコートの下にブラックのスーツを装備した男性だ。彼が歩く度にライトブラウンの髪は揺れ、蜂蜜色の目はティナを映している。彼の存在を認識した瞬間、ティナの全身は稲妻に貫かれたように硬直した。
「嘘……そんな……パパ……?」
 ティナの目の前に居たのは、十二年前に命を落とした最愛の父クロード・アンバーだった。記憶に残っている姿のまま、写真に焼き付いている姿のままで、まるで時間に侵食されていない。ティナが呆然と呟くと、男性は肯定するように微笑んだ。どうやら本人のようだ。しかし十二年前に天に召されたクロードが、どうしてティナと同じ世界に現れたのだろうか。笑う事も出来ず涙も流せずにいると、クロードの大きな手が頭を撫でた。彼を見上げて、ティナはぎこちなく笑ってみる。クロードは、ティナの質問を待っているようだった。
「本当に……パパなの?」
「ああ。そうだよ。大きくなったな、ティナ。レナは元気にしてるのか?」
「……うん。元気にしてるよ。ねえ、どうして、ここに居るの? だってパパは――」
「そう、俺は十二年前に死んだ。今の俺は魂だけの存在なんだ。そしてここは、現世と天国を繋ぐ入口みたいな場所なんだよ。ティナ、お前は、彼を――シエル君を連れ戻す為に境界線まで来たのか?」
「そうよ」自らの強い意志を示すように、ティナは頷く。「あの扉をくぐったら、シエルさんが居る所まで行けるの?」
「そうだ。ただし、扉を開ければすぐに会えるという訳じゃない。シエル君の魂は、境目の奥深くに居るんだ。そこに向かうには、何回も魂の扉をくぐって、深く、深く、潜って行かないといけないんだよ。いいかい、ティナ。必ずしも、シエル君を連れ戻せるとは限らない。彼が来世での幸福を望めば、その意思を尊重しないといけないんだ。彼は現世で生きる事を拒むかもしれない。お前にその覚悟はあるのか?」
 覚悟はあるのかと問いかけられて、ティナは言葉に詰まってしまった。
 シエルと再会出来れば、簡単に連れ戻せると思っていたから。
 でも、もし、シエルが現世を捨てて来世で生きる道を選択してしまったら?
 デパートのオモチャ売り場でストライキする子供を引っ張って行くように、力ずくでシエルを現世に連れ帰る事が出来るのか?
 嫌だ。
 そんな残酷な真似は出来ない。
 誰も、シエルの選択した答えを否定する事は出来ないのだ。
 口出し出来るのは神様だけだから。
 もう一度、シエルと会って、さよならを言いたい。
 もう一度、彼の身体に触れたい。
 抱き合って、温もりの中で髪を撫でてもらい、頬に触れてもらいたい。
 迷子になっているのならば、天国の門に導いてあげよう。
 それが、メシアの使命だから。
「……それでもいい。私は行く。シエルさんに、会いたいから」
「流石、俺の娘だよ」扉の前に立ったクロードが振り返る。微笑みは消えていて、真剣な表情だ。「境界の世界は危険だ。下手をすれば、二度と戻れないかもしれない。俺も一緒に行こう」
 クロードが一緒に来てくれるなんて。彼ほど心強く頼もしい存在はない。ウエディングケーキに入刀する新郎新婦のように、二人は共同作業で扉を押し開けた。扉の隙間から逃げ出した光源が、ティナの視界を白く染め上げる。光が存在しなかった世界に太陽が生まれた瞬間だった。ようやく眩しさに慣れて来たティナは、視界を開いてみて、目の前に広がっていた光景に驚いた。
 地平線の彼方まで晴れ渡った蒼穹の空。一件の白い家の前で、とある親子が手を繋いで踊っていた。彼等がステップを踏む度に白と薄桃色の花弁が風に舞い、空に吸い込まれて行く。見覚えのある家族だ。そうだ。彼等はブルーネル一家だ。亜麻色の髪の女の子はフランツとアメリアの愛娘のエミリーで、七歳という若さでこの世を去ったのだ。初めてティナが扱った未解決事件の被害者で、シエル達の協力もあって事件を解決出来たのだ。エミリーが魂だけの存在なら、あそこで踊っているフランツとアメリアも魂だけの存在なのだろうか。
「ここは、魂の部屋と呼ばれる場所だ。再生を待つ魂達の憩いの場みたいなものだよ」
「パパ。フランツさんとアメリアさんは、どうしてここに居るの? まさか、二人は――」
「心配しなくてもいい。二人は生きているよ。フランツさんとアメリアさんの夢が、エミリーちゃんの部屋と繋がっているだけなんだ」
「そう……なんだ」
 手と手を繋ぎ合わせて輪になって踊っているブルーネル親子は、溢れんばかりの笑顔を浮かべていた。幸福の匂いが風に乗って流れて来る。小さな手がティナの手を引いた。見下ろしてみると、ティナの傍らにエミリーが佇んでいた。ティナの手を掴んだままエミリーが踊り出す。フランツとアメリアの手拍子をメロディにして二人は踊った。クロードがティナの肩を叩く。親子と別れて、二人は更に先へと進んだ。
 境界の世界の奥深くへティナとクロードは歩み続ける。次の部屋はニューランド国立劇場だった。ステージで白鳥の湖を踊っているのは、純白のチュチュを纏った二人のエトワール、ナタリア・ノーマンとミシェル・オブライエンだ。
 特等席のプラテアに座ったクレアとオリヴィエが、美しい星に見惚れている。ナタリアの左手の薬指には、オリヴィエとお揃いの指輪が輝いていた。オリヴィエが予約してくれていた席に座って、ティナは二羽の白鳥の軌跡を堪能した。
 三番目の部屋へ。国立劇場は溶けるように崩れて行き、牧歌的な風景が広がった。爽やかに晴れた空と朝の光が降り注ぐ草原で、牧場で日光浴をする牛達が若草色の牧草を食んでいるのどかな風景だ。草の上にシートを広げてピクニックを楽しんでいる若者達が居た。ローラ・エヴァンズと神の教えを人々に説く青年、ヴィクター・チェスフォード。そして、ローラの弟クリスチャンだ。生身の彼にとって、この世界は夢のようなモノだ。いずれ記憶が薄れてしまうと解っていても、クリスチャンは姉との思い出をたくさん作ろうとしているのだろう。目が合うと、彼等は笑ってくれた。
 爽やかな若草色は濃度を増して深い緑色に変わり、妖精が住んでいそうな深淵の森が広がった。扉を探して森の奥へ進んで行くと、三日月に恋をした湖クレセントレイクと遭遇した。湖畔に足を浸した少年と少女が、透明な水を掛け合って遊んでいる。生と死に引き裂かれてしまった双子の兄妹、フレンとセレンだった。兄は大人に成長して、妹は子供のままだ。しかし兄妹にとっては、それはほんの些細な事なのだ。扉を開ける前にティナが手を振ると、フレンとセレンは手を振り返してくれた。
 妖精の森は開拓されて、子供達の歓声が溢れる遊園地に変わった。軽快なリズムと連動して動いているメリーゴーランドが回っている。白馬に跨ったサラとイリスが、誰かに向けて手を振っていた。白馬がピストン運動を繰り返す度に、イリスの赤紫色の髪が揺れていた。合図を送っている相手はすぐに見つかった。柵の外側に立っているディアナとレオンが、微笑みながら手を振り返していた。ありがとう。ティナに気付いたイリスが感謝の言葉をプレゼントしてくれた。
「ねえ、パパ」六つ目の扉をくぐる直前、ティナはクロードに問いかけた。「彼等には……私の姿が見えているの? それって、変じゃない? だって、私は生きている人間だもの。フランツさん達みたいに、夢で繋がっている訳じゃないし……」
「元々、彼等には見えているんだよ。ただ、それを見ようと意識していないだけなんだ。彼等はお前に感謝してありがとうと伝えたいから、お前を見てくれているんだ」
「……ありがとうって言いたいのは私の方だよ。皆、幸せそうで本当に良かった……来世でも、幸せになれるよね?」
「ああ。幸せになる為に、彼等は再生するんだよ。さあ、これが最後の扉だ」
 最後の魂の扉は、今まで通って来た扉よりも少しだけ黒ずんでいた。父と子と聖霊の静謐な面も、深い悲しみに染まっているように見える。
「ここからはお前一人で行きなさい。大丈夫。お前はパパの娘だ。きっと、シエル君を見つけ出す事が出来るよ」
「……うん。行って来ます」
 クロードの力強い視線を背中に感じながら、ティナは扉に触れた。春風のように温かった表面は、北風のように凍りついていた。指先に突き刺さる冷気を追い払って力を込める。根負けした扉がついに開いた。一歩踏み出したティナの背後で扉が閉まった。今度こそ、ティナは独りになってしまったのだ。
 舞い散る花弁も、優雅なクラシックも、森の匂いも、子供の歓声も、魂達の幸せを象徴していた全てが消え去っていた。ティナの目の前に広がるのは、静寂の帳に包まれた墓地だ。十字架の冠を被った灰色の墓石が整列していて、その一つの墓石の前に黒い喪服を纏った少年が佇んでいた。
 彼は、ティナを「見よう」としてくれるだろうか。若草色の芝生を横断して少年の後ろへ近付く。伏せていた顔を上げ、肩越しに振り向いた子供の青い目が、迷う事なくティナを捉えた。十歳前後の男の子だ。顔立ちは幼いが、シエルの面影が残っている。怯えさせないように微笑みながら、ティナは彼の隣で足を止めた。
「こんにちは。私はティナ。貴方は?」
「僕はシエルです」少年は素直に名乗った。「お姉さんも、誰かを亡くしたんですか?」
「小さい頃に、お父さんを亡くしたわ」
「そうですか――」
 シエルは膝を折ると墓石の前に屈みこみ、白百合の花束を墓前に捧げた。視界を塞いでいた彼が屈みこんだ事で、ティナは石に刻まれた名前を読む事に成功した。
『1998.2.9.ルーベンス・アルタイルとシスティーナ、ここに眠る』
 艶やかな石の表面にはそう彫られていた。十字を切ったシエルが青い目を伏せて祈りを捧げる。彼に倣って、ティナも死者に祈りを捧げた。シエルの白い横顔は大理石の彫像のように無表情だった。一滴の涙も流そうとしないのだ。悲しみに押し潰されて、感情が麻痺してしまったのだろうか。
「ティナさんは――お父さんに会いたいと思った事はありますか?」
 祈りを終えたシエルがティナに問いかけた。唐突ともいえる質問に不意を突かれたティナは黙り込み、その質問に相応しいであろう回答を必死で考えた。勿論会いたいとティナが答えを導き出す前に、シエルが口を開いた。
「僕は、父と母に会いたい。でも、何処にも居ないんだ。それでも会いたい。二人に会いたい。怖くて、痛くて、でも、二人は何処にも居ない。二度と、永遠に会えない。独りは嫌だ。それなのに僕を置いて、置き去りにして、光の国に旅立ってしまうなんて、酷いよ――」
 草の中に膝を沈めて満月のように背中を丸めたシエルは、初めて嗚咽を漏らした。
 彼の泣き声はティナの心に響き、涙腺を刺激した。
 同じだ。
 幼かった頃の自分と同じじゃないか。
 大好きだった父を突然失って、もう二度と会えないんだと知ってしまった夜。
 涙腺が崩壊したティナを優しく抱き締めてくれたのは、母親のレナだった。
 レナが居てくれたからこそ、ティナは深い悲しみの海から浮上する事が出来たのだ。
 でも、両親を失ってしまったシエルを包み込んでくれるような優しい人は居ない。
 悲しみと絶望を抱えたままでは、現世で生きる事も出来ない。
 幸せな来世を約束されないかもしれない。
 今、ここで彼を救えるのは、ティナしか居ないのだ。
 例え現世で生きるにしても、来世で生きるにしても、今度はティナがシエルの道標となり、彼の尊い魂を導かなければいけない。そう思った。
 今までプレゼントされた温もりを返そう。ティナは泣きじゃくるシエルを腕の中に閉じ込めた。
「怖いんだね。寂しいんだね。その気持ち、よく解るよ。私も怖かったし、寂しくて心細くて、君みたいにいつも泣いていたよ。ずっと、独りぼっちのまま生きて行くんだと思ってたけど、それは違ったの。ママに友達、そして、メシアの皆が私を救ってくれた。人間は、独りでは生きて行けない生き物なの。どんなに辛い人生でも、君を愛してくれる人達と必ず出会えるから。だから――もう、泣かないって約束してくれる?」
 いつの間にかティナも泣いていて、朝露のように透明な涙を流していた。
 綺羅星のような涙は暗闇に散り、見えない星座を描いて行く。
 ティナよりも先に泣き止んだのは、腕の中に閉じ込めているシエルだった。優しい抱擁から離脱したシエルはティナを見上げ、真摯な眼差しで彼女を見つめた。
「貴女は――大切な人を捜しに来たんですね?」
「うん――」ティナは鼻を啜って、年長者の威厳を保とうと努力した。「そうよ。君とよく似た、背の高い男の人を捜しているの」
「僕と似ている?」
「そうだよ。意地悪で冷たくて、いつも偉そうにしてて、全然笑わない嫌味な人。でもね――本当は、凄く優しくて、私、その人の事、好きになっちゃったの。でも、彼は手の届かない所に行こうとしているの。もう一度会って、抱き締めてもらって、さよならを言いたいの。だから、ここまで来たの。でも、駄目ね。全然見つからなくて、心が折れちゃいそうだよ……」
 記憶の底に仕舞われていたシエルとの思い出が蘇り、ティナは更に激しく泣いてしまった。
 扉の鍵を失くしてしまったから、思い出は次から次へと溢れて来る。
 殺人犯の家に単独で向かったティナを助けてくれたシエル。
 ティナと一緒にバレエの公演を鑑賞するシエル。
 ティナに自らの過去を語るシエル。
 最もティナの心を抉った思い出は、シエルにプロポーズされたシーンだった。
 身体を真っ二つに折り曲げて泣き続けるティナをシエルが抱き締める。立場が逆転してしまった。
「僕、もう、泣かないから――」
 シエルの声が途絶える。次の瞬間、シエルを取り巻いていた時間が速度を上げた。まるで自らの意思で時計の針を進めるように、彼の時間が進んで行く。手足と身長が伸び、肉体が筋肉を纏う。可愛らしかった顔は怜悧に整った大人の顔に羽化した。小さな胸の中で泣いていたティナは、気が付くと引き締まった胸の中で泣いていた。たった数秒で、十歳の子供だったシエルは二十五歳のシエル・アルタイルに変身したのだ。
「君も、泣かないでくれ」
「シエルさん――!」
 やっと、愛しい青年と巡り会えた。悲しみは歓喜に変わり、ティナの両目から流れていた塩水は、甘い砂糖水へと化学反応を起こした。二人は固く抱き合い、再会を喜び合う。ずっと抱き合っていたかった。でも、訊かなければいけない事がある。その為に、ティナは境界線を跨いでやって来たのだ。彼の背中に絡ませていた腕を解いて、ティナは大人に成長したシエルを見上げた。
「シエルさん。私は――貴方を迎えに来たんです。私達の世界に連れ戻す為に。でも、無理強いはしません。シエルさんには、再生して、来世で幸せに生きる権利がありますから」
 ティナを見下ろすシエルは無言だ。現世と来世を天秤に乗せて、シーソーのように揺らしているのだろう。ティナは服を握り締めて、小刻みに震える身体を制御しようと努力した。覚悟を決めた筈だったのに。脆弱な決意を叱りたい気分だ。シエルの青い目が動き、彼の両親が眠る墓石の上で止まった。そして青い視線が戻り、ティナを正面から見つめた。
「……両親が居る光の国と離れるのは心苦しいが、私は――君と約束した。馬鹿な事は考えない。そして、二人で生きようと。私は、まだ、生きていたい。メシアの皆と――ティナと生きて行きたいんだ。私達の世界に帰ろう」
「……はい。帰りましょう。皆が居る世界に」
 突然吹いた強い風が、ティナとシエルの視線を墓地の片隅に植樹された大樹に導いた。その下に一組の男女が佇んでいた。初対面ではない。ティナもシエルも、現実の世界で二人と出会っていた。ティナは一度だけだったが、シエルと彼等は長い間、幸せに包まれながら暮らしていた。そして、黒い災厄が三人の絆を引き裂いたのだ。シエルと男女は同時に足を踏み出し、距離を縮めて立ち止まった。
「父さん……? 母さん……?」
「大きくなったな、シエル」
「あら。十五年も経ったんですから、当たり前ですわ。でも、素敵な殿方になりましたね」
 驚き、動揺するのも無理はない。何故ならば、シエルの目の前で微笑む男女は灰色の墓石の下で眠りに就いた死者だからだ。二人の名前はルーベンス・アルタイルとシスティーナ。正真正銘のシエルの両親だ。廃墟となったシエルの家で、ティナが見た写真と同じだった姿だった。二人は天国の階段を降りて来て、最愛の息子に会いに来たのだろうか。それとも最初から二人はここに居て、ティナの存在を「見てくれた」のだろうか。
「色々と話したい事はあると思うが、もうすぐ私と彼女は再生される。再生の道を歩む前に、お前に会いに来たのだよ。独りで寂しくしているだろうと心配していたが――」ルーベンスの視線がティナを捉えた。「どうやら、杞憂だったようだな」
「そうですわね」柔らかく微笑んだシスティーナもティナを見つめる。二人の視線に囚われたティナは落ち着かない。「私達の心配は、無駄だったようですわね」
「ふざけるなよ!」
 シエルの叫びが静寂の墓地を駆け抜けた。両手を握り締めたシエルは目に涙を溜めた状態で、十五年前に天に召された両親を睨みつけていた。微笑み、握手をして再会のハグを交わす事もなく、怒りを燃料にした青い炎を燃え上がらせている。
「杞憂!? 心配は無駄だった!? 俺を置き去りにして逝ったくせに、勝手に決めるなよ! 独りで寂しかった! 辛かったし、苦しかった! 何度も何度も死んでやろうとした! それなのに――どうして、俺が元気にしてるって言えるんだよ! 馬鹿だ! 大馬鹿野郎だ! 大馬鹿野郎だっ――」
 シエルは天を仰ぎ、青い瞳から大粒の涙を流した。抑えきれなかった涙が堪えた嗚咽を道連れにして落ちて行く。十五年分の蓄積した思いが爆発してしまったのだ。誰もそれらを受け止める事が出来ないまま、時間だけが過ぎて行った。ティナがどう行動を起こせばいいか迷うなか、アルタイル夫妻はシエルとの距離を更に縮め、システィーナが彼の頬に触れて涙で湿った息子の顔を上げさせた。
「シエル……ごめんなさい。私達の所為で貴方が苦しんでいたなんて――本当に、ごめんなさい」
「私からも、謝らせてくれ。……すまん」
「違う。違うよ。父さんと母さんは何も悪くない。今までは寂しくて、孤独で、苦しかった。けど、今は俺を支えてくれる人達が居る。俺を愛してくれる人が居る。だから、安心して来世を生きて欲しい。生きてくれ。俺は、もう、大丈夫だから――」
 涙を律したシエルをルーベンスとシスティーナが包み込んだ。苦労して涙腺のバルブを閉めたというのに、シエルの両目からは再び涙が溢れていた。輪になった三人は互いを抱き締め合い、深く、暗い、時間の裂け目を埋めて行った。素晴らしい時間というモノは引き止める暇もなく、必要としている者の気持ち等お構いなしにいつも早足で歩き去って行くのだ。どんなに高価な賄賂を用意しても、時間を引き止める事は出来ないだろう。別れの時がシエルの背中を押した。
「……さあ、私達は行くとしよう。例え生まれ変わっても、私とシスティーナは、いつでもお前の側に居るよ」
「ティナさん」鈴の音のような声がティナを呼んだ。ティナは背筋を伸ばして、システィーナと視線を合わせた。「この子を――シエルを宜しくね。シエル。生まれ変わっても、貴方を愛しているわ」
「……俺も、愛しているよ。父さん、母さん」
 視界が白く染め上げられて、ティナとシエルは頭上を仰いだ。青空の片隅に分厚く垂れこめていた雲の波が晴れ、幾筋もの光芒が墓地に向かって降り注いでいた。黄金色を纏った光の柱がルーベンスとシスティーナを包み込んで行く。二つの魂を天国に導く道筋だ。光に包まれた夫妻の身体が、ゆっくりとした速度で透明になって行った。
 天から伸びた光芒が巻き取られて行く。それと同時に二人の身体は燐光となって砕け散り、ワルツを踊っているように回りながら、空の彼方に吸い込まれて行った。ティナとシエルは互いの固く手を握り締めて、彼等の軌跡を追いかけた。最後の涙の一筋がシエルの頬を伝って落ちる。今、この瞬間、アルタイル家族の魂が救われたのだ。
「ティナ」
 優しく柔らかい、静謐な声がティナを呼んだ。魂の扉の前で別れたクロードが、カーキ色のコートを揺らしながらそこに居た。距離を縮めて、ティナとクロードは沈黙を保ったまま見つめ合う。恩師と再会したシエルが会釈をする。会釈の代わりにクロードは笑顔を返した。ティナには解っていた。言葉よりも先に、本能が感じ取っていた。クロードも、光溢れる来世に旅立とうとしているのだと。
「どうやら、無事にシエル君を見つける事が出来たようだね」
「うん。パパのお陰よ」
「お久し振りです、アンバーさん」
「うん、久し振りだね。変な再会の仕方だけど、元気そうで何よりだよ」
「……申し訳ありませんでした」
 一歩踏み出したシエルが長身を折り曲げて、唐突に頭を下げた。何故、謝るんだ。ティナよりも濃いクロードの蜂蜜色の双眸は、そう問いかけていた。
「彼女から聞きました。貴方が命を落としてしまった責任は俺にあります。謝って許される事だとは思っていません。許して欲しいとも思っていません。でも、一言だけでいいんです。謝らせて下さい。誠に、申し訳ありませんでした」
「……君を許すつもりはないよ」
「パパ!? 何を言ってるの!?」
「俺は、君から許しを請われるような事をした覚えはないよ。苦しみ、悲しんでいる人達を救うのが警察官の使命だ。俺は、自分に与えられた使命を全うしただけだと思っている。確かに、レナとティナと会えなくなってしまったのは悲しいが、こうして再会して言葉を交わす事が出来たし、君と会う事も出来た。いいかい? 魂の絆は永遠だ。離れ離れになっても、生と死の世界に引き裂かれてしまっても、絆が繋がっている限り、いつでも存在を感じる事が出来るんだよ。だから、俺達はいつでも一緒だ。さあ、顔を上げてくれ。別れの時くらい、笑っていようじゃないか」
 クロードがシエルの背中を叩く。彼の慈悲に触れたシエルは背筋を伸ばして、精一杯の微笑みを浮かべた。シエルから視線を外したクロードは身体の軸を動かして、ティナの方を向いた。涙を流すシーンはまだまだ先なのに、ティナの涙腺は痙攣を始めている。脚本家の書いた台本を守って欲しいものだ。
「名残惜しいけど……そろそろ行かないと」
「……うん」
「身体に気をつけるんだぞ。それと、レナに宜しくな」
「……うん」
 もう二度と会えないと解っているのに、別れを告げる為の言葉が出て来ない。天国に続く光の道が再び降り注ぐとカーキ色のコートを翻したクロードは光の柱に進路を定め、迷いのない足取りで歩いて行った。案山子みたいに立ち尽くすティナの背中を押したのはシエルだった。見上げた彼は一言も発しなかったが、ティナにはシエルの言いたい事が解った。
 あの時言えなかった事を、
 伝えられなかった事を、
 今、ここで、言わないといけない。
 もう、後悔はしたくないから。
「待って!」
 全身の筋肉をフル稼働したティナは草地を疾走して、クロードの背中目がけて跳躍した。180度回転したクロードがティナを受け止める。泣いてもいいかい? 涙腺が許可を申請する。泣いてもいいよ。ティナは許可を出す。必死で抑えつけていた涙が一気に溢れ出した。
「ずっと――ずっと、パパに謝りたかったの! 大嫌いって言って、ごめんなさい! 大嫌いじゃない! 大好き! パパが好き、大好き! 私、パパの子供に生まれて来てよかった! パパとママの娘に生まれて来てよかった! パパの事、忘れないから!」
「ティナ――」
 声を詰まらせたクロードがティナを強く抱き締めた。
 最後に抱き締めてもらった時よりも、父の身体は小さくなっていた。
 彼が縮んだ訳じゃない。ティナが大きくなったのだ。
 だから、今なら温もりと優しさを返す事が出来る。
 生まれ変わっても、少しだけでいいからティナの体温を覚えていて欲しい。
 そう願いながらティナはクロードの背中に腕を回して、抱擁を返した。
 抱き合っていた身体を離して、ティナとクロードは距離を開けた。クロードの身体が背景に滲むように透けて行く。まるで、春の日差しに溶ける雪のように。
『シエル君』クロードの声は蜘蛛の糸のように細くなっていた。『娘を――ティナを頼むよ』
「はい。必ず、幸せにしてみせます」
 敬礼をしたシエルは、凜とした声で誓った。最後の力を振り絞るような動きで半透明になったクロードは向きを変え、ティナを見つめた。薄くなった蜂蜜色の双眸は娘への愛情に満ち溢れている。
『ティナ。俺も、お前を愛しているよ。また、来世で会おう』
「……うん」
 半透明だったクロードの身体は完全に透明になってアルタイル夫妻と同じように砕け散り、淡い緑糸の燐光と化して蒼穹の高みに還って行った。クロードの魂が昇って行くと同時に、無数の燐光が地面から湧き上がって来た。その光景は珊瑚の産卵によく似ていて、重力の鎖に縛られる事もなく次々と上昇して行った。
 エミリー。ミシェル。ローラとヴィクター。セレンと子供達。イリス。ルーベンスとシスティーナ。そして、クロード。儚くも美しく、それでいて清らかな魂達が、天国の門を目指して青空を昇って行く。魂の欠片達は、宇宙で渦巻く銀河のように美しかった。天国の門をくぐった彼等は父と子と聖霊に祝福され、新しい人生を歩むのだ。
 天に還って行く光の集団から一つの光がティナの側に舞い下りて螺旋を描き、美しい軌跡でティナの周りを回った。さよならを言っているんだ。手を出して掌を開いてみた。掌の上に光が着陸する。仲間の所に行って。ティナはそっと光を放った。光が舞い上がる。そして、青い空と白い雲の隙間に吸い込まれて行った。
 ティナとシエルは寄り添い合い、魂という星が瞬く群青のプラネタリウムを見上げた。
 空に還って行くクロードに見えるように、ティナは敬礼をした。
 さよならは要らない。
 いつか、きっと、会える。
 私達は、魂の絆で繋がっているのだから。




 温かい。
 顔も、身体も、手と足も、そして魂も、春風のような温もりに包まれていた。
 あまりの心地良さに、ティナの唇が幸福の形を作り出す。
 誰かがティナの手に触れていて、ティナを胸に抱いていて、ティナを優しく包んでくれている。
 誰かがティナの頬に触れた。
 優しい手が、オレンジの髪を滑って行く。
 耳元で囁く声。ティナは何度も頷いた。
 うん。もう、心細くないよ。
 もう、泣かないから。
 だから、私は大丈夫。
 さあ、泡沫のまどろみから目覚めよう。
 瞼を開けると、真っ白なシーツの海が視界に入った。夢を見ている時の、独特の奇妙な浮遊感はない。現世と来世の狭間から、現実の世界に戻って来たのだ。掌で頬を擦ると、指に涙が付いて来た。夢を見ながら、泣いていたのか。もう泣かないと誓ったのに。まあ、いいか。ヒトは涙なしでは生きて行けない生き物だから。
 機械に繋がれて、ベッドに縛られているシエルはまだ目を閉じていた。ティナが先に戻って来てしまったのだ。シエルはこちら側の世界に戻って来ると信じている。カーテンが揺れる。陽光が瞬く。白い瞼が動いて、青い瞳が顔を出した。上昇した白い手が、酸素マスクを剥ぎ取った。死の淵を彷徨っていた青年が、目を覚ました瞬間だった。
「……また、会えたな、ティナ」
「……馬鹿。どれだけ待たせるんですか」
 ティナはベッドに体重を預けて、奇跡の生還を果たしたシエルに飛び付いた。さあ、来い。挑むように両腕を広げたシエルがティナを受け止める。ティナが上でシエルが下。雨のモーテルの時とポジションが逆になってしまった。シエルは胸に穴が開いた怪我人だ。体重をかけ過ぎて押し潰さないように注意しながら、ティナは彼の腕の中に身を委ねた。ティナの背中に回されていたシエルの両手が離脱して、彼女の頬を挟みこんだ。
「ティナ」
「はい」
「俺を見つけてくれて……ありがとう」
 シエルがティナを引き寄せる。
 目を閉じて、ティナは青い口づけを受け止めた。
 違うの。
 貴方が私を見つけてくれた。
 ありがとう。
 星が瞬いて、
 涙と共に、
 静かに消えた。



 美しき水の都ニューランドを、風を纏った一台のBMWが駆けて行く。
 とある住宅街に到着したBMWは四つのタイヤを華麗に回転させて、一軒の家の前で停止した。
 ドアを開けて降りて来たのは四人の若い男女だ。オレンジの髪の少女。黒ずくめの青年。金髪の麗しい女性。栗色の髪を波打たせた少年。少女と青年の左手の薬指には、同じ外見をしたシルバーのリングが嵌められていた。
 サングラスを装備した長身の青年が、先陣を切るように歩んで行く。どうやら彼がリーダーのようだ。外したサングラスをコートのポケットに押し込んだ青年が、青い目で目的地の家を見据えた。そう、ここに、彼等の救いを求める子羊が居るのだ。
 青い竜が刻まれた黄金色のバッジを掲げて、胸を張って名乗ろうじゃないか。
 私達は、ニューランドヤード特殊捜査課に所属する刑事だと。
 人類と時間に忘れ去られた未解決事件を捜査して、
 錆ついた真実の扉を開き、
 彷徨える魂を天国の門に導く。
 それが、彼等――メシアに与えられた使命なのだから。