お前たちは悪魔だ!
 蛇に魂を売り渡した醜い娼婦だ!
 イヴの遺伝子を持つお前たちは呪われているのだ!
 目の前にいる女に向けて、彼は触れると焼け爛れてしまいそうな毒を吐いた。今朝仕入れてきたばかりの新鮮な女は、四肢をベッドの柵に縛り付けられていて、まるでクリスマスのディナーに出される七面鳥のような姿になっていた。白いブラウスとタイトスカートを穿いた七面鳥か。想像してみると滑稽に思えてしまう。
 充血した眼に涙を溜めて、女は救いを求めている。猿轡で口を封じているから、彼女がなにを言っているかは分からないが、だいたいの見当はつく。誰にも言わないから助けて。お金ならいくらでもあげるから。薄っぺらい知恵を振り絞って思いついた言葉がこれか。情けない。禁断の木の実を食べた結果がこの程度とは。神様も嘆いているだろう。
 彼は磔にした女が横たわるベッドに近づいて、女の上に馬乗りになった。ベッドのスプリングが軋む。賛美歌のように美しい音色だ。限界まで見開かれた目が彼を見上げた。綺麗な絶望の色。二度と日の光を浴びられないと悟ったのだ。彼は白い布地を掴んで乱暴にブラウスを引き裂くと、タイトスカートも剥ぎ取った。下着も強引に脱がせ、露わになった乳房を弄ぶと、猿轡の隙間からマシュマロのような湿った甘い喘ぎ声が漏れた。
 ベルトを解放してズボンを脱いだ彼は、灼熱の分身を女の身体と結合させた。止めてと瞳は懇願しているのに、身体は欲望に忠実だ。その証拠に女の背中は弓なりに反り返り、狂ったリズムで腰を振っている。理性を失い髪を振り乱して腰を振るその姿は、悪魔そのものだった。
 地を這う呪われた生き物め! 彼はキャビネットの上に置いていたサバイバルナイフを手に取ると弧を描くように高く掲げ、降下速度をつけて女の胸に振り下ろした。喘ぎ声が金切り声に変わった。噴き出す鮮血が、部屋に真紅の模様を描いていく。シンプルだった室内はものの数秒で、ピカソが描いた絵画のような部屋に変貌した。女は二度と動かなかった。絵画の一部になってしまったのだ。
 血塗れのナイフを女の身体に這わせた彼は握り手に力を込めると、滑らかな皮膚を切り取った。彼にとって、女の皮膚という物質はペルシャ絨毯よりも価値がある物なのだ。これまでに採取した皮膚の中でも際立って美しかった。
「――君が、皮膚狩り男かい?」
 自慰行為に浸ろうとした刹那、聞き慣れない声に鼓膜を弾かれた彼は驚き、女の死体に跨ったまま振り返った。いつの間にか、一人の男が部屋に侵入していたのだ。若く健康な男に見えるが、その双眸の奥深くに闇の塊が蠢いているのを見た。
「お楽しみのところ悪いね。それにしても凄い部屋だな」
 この男の正体などどうでもいい。早く聖域から追放せねば。彼は女の死体から下り、血の匂いが染みついたサバイバルナイフを握り締めた。向けられた凶器に怯える素振りも見せない男は、とある物を取り出して彼に見せた。金色の光源が彼の網膜を貫いた。
「僕を殺したら面倒なことになるよ」彼はナイフを下ろした。男が笑う。「分かってくれたようだね。僕は君を捕まえにきたんじゃない。君に頼みたいことがあってね。聞いてくれるかい?」
 興味を覚えた彼は頷いた。微笑みを深めた男が一枚の写真と紙を彼に手渡した。写真に焼き付いていたのは、幼さの残る顔立ちをした可愛らしい少女であった。彼の全身を稲妻が走り抜け、おとなしくなりかけていた股間の獣が再び昂り始めた。彼の獣を見た男は笑った。
「その女を殺してほしい。それが僕の頼みたいことさ。最終的に殺してくれるのなら、どんな目に遭わせても構わないよ。引き受けてくれるかな?」
 嬉々とした表情で彼は何度も頷いた。満足した男が右手を差し出す。友好関係を結ぶための握手だ。彼は男と握手を交わし、闇の取引を成立させた。
「取引成立だね。君は彼女を手に入れ、僕は彼を手に入れる。素晴らしい取引だよ。じゃあ、僕はこれで失礼するよ」
 男が部屋から出ていくと同時に、彼の頭の中から男のことは消えていた。写真の少女が記憶の大半を占めていたからだ。興奮が頂点に達する。叫び声を奏でた彼は下着を下ろし、邪悪な液体で写真の中の少女を犯した。それでも欲求は満たされなかった。幻影では満足できないのだ。
 愛らしい声で砂漠のように干からびた喉を潤してくれ!
 瑞々しい肢体で楽しませてくれ!
 待っていてね、琥珀ちゃん。
 すぐに、君を愛してあげるから。


 聖なる季節は終わり、ニューランドは新しい一年の始まりを告げる暁光に包まれていた。サンタ・ルチア駅を抜けて仕事場に向かうサラリィマンやオフィスレディの顔は、清々しさに満ち溢れている。新年を迎えて、心が羽のように浮き立っているのだ。スーツの鎧に鞄の盾。まさに新しい自分探しに旅立つ冒険者だ。
 彼らとは裏腹にティナの心は新年早々憂鬱だった。数分前までは彼らと同じように希望に満ち溢れた冒険者だったのだが、とある光景を目撃してしまい、非常に不愉快な気分に陥ってしまっているのだ。外敵から農作物を守る案山子みたいに突っ立ったティナは、スタンドの傍らで談笑している男女を食い入るように睨んでいた。傍から見れば、楽しく語り合うカップルに嫉妬している可哀想なティーンエイジャーの少女に見えるだろう。
 通り過ぎる通行人もティナと同じように、飲み物を片手に語り合う青年と女性に視線を送っている。まさに釘付け状態だ。二人が神様の惜しみない愛情を注がれて創造された絶世の美男美女だからだ。二人が赤の他人ならば、ティナは素知らぬ顔で素通りしていた。しかしティナは二人を知っている。だからこそ歩くことを放棄して、案山子みたいに立ち尽くしているのだ。
 二人が醸しだす熱い空気が上昇気流となり、ニューランドの上空に昇っていく。寒気と反発して大荒れの天気になればいいのにとティナは思った。そうすれば、二人を引き離すことができるからだ。青年だけを見つめていた美女の青い目が動き、ティナの上で止まった。気まずさが彼女の顔に浮かぶ。それはすぐに消え、笑顔を浮かべた女性が手を振った。どうやらティナに合図を送っているようだ。
 遅れること数秒。青年がティナに気づいた。無愛想な顔をしているが、それでも完璧に整った端正な顔は崩れていない。無視しようかと思ったけれど、さすがにそれはマナー違反だろう。フェイクの笑顔を浮かべ、ティナは彼らのところにいった。
「お久し振りね、アンバーさん。新年おめでとう」
「おめでとうございます、ナタリアさん。アルタイルチーフも、新年おめでとうございます」
 絶世の美青年――シエル・アルタイルはティナを一瞥しただけで、返事も返さなかった。彼の性格はインプットしてあるし、無礼な行動にも慣れた。しかしなぜ、千年に一度の天才であるバレリーナ、ナタリア・ノーマンと一緒にいるのだろうか。彼女から愛を告白されて断ったんじゃなかったのか。ナタリアのことが忘れられなくて、再びラブコールを送ったに違いない。それにしても本当によく目立つ。並んでいるとなおさらだ。ハリウッドスターも世界屈指のセレブも、シエルとナタリアと比較してみれば一般市民に見えてしまうだろう。
「そろそろ稽古の時間だから失礼するわね。アルタイルさんとお話しできて楽しかったわ」
「いえ、こちらこそ。タクシーを呼びましょう」
 長い腕を掲げたシエルが一台のタクシーを捕まえて後部座席のドアを開け、ナタリアを車内にエスコートした。純白のファーコートをまとったナタリアが高貴なお姫様に見えてしまう。なにも起こらずにスムーズに立ち去ってほしいと思っていたが、ナタリアはシエルにハグを要求した。ティナの目の前でハグを交わす二人。なんて幸せそうな表情だ。シエルに恋する乙女は辞めたと思っていたのに。満足したバレリーナは、タクシーとともに立ち去った。ナタリアはもういない。ティナとシエルの二人だけだ。
「新年早々ひどい顔だな。でき損ないの雪だるまみたいになっているぞ」
 甘い成分がいっさい入っていないブラックコーヒーを飲みながら、シエルが毒舌を披露した。それがシエル流の新年おめでとうございますというわけか。失礼にもほどがある。いつもなら華麗に聞き流せるのに、今日はひどく癪に障る。
「……ほっといてください。チーフこそ、鼻の下が伸びてますよ」
「馬鹿なことを言うな。変態じゃあるまいし。なにも飲まないのなら、さっさと行くぞ」
 ティナの機嫌の悪さなどお構いなしに、コーヒーを飲み終えたシエルが歩道を歩いていった。胸が締めつけられるような切ない怒りを感じながら、ティナはシエルのあとを追いかけた。もしもこのときティナが冷静であれば、自分を凝視する邪悪な視線に気づいていただろう。
 ニューランドヤードのロビィに入ると同時に、いかにもエリートふうの警官たちがティナとシエルを押し退けるようにして、慌ただしい足取りでエレベーターホールに歩いていった。天上天下唯我独尊。シエルといい勝負だ。階級を鼻にかけているな。
「あの人たち――見ない顔ですね」
「そうだな。恐らく本部の連中だろう。権力に囚われた俗物だ」
「アルタイル警視」
 誰かがシエルを呼んでいる。彼の吐いた暴言を聞いて、説教をするつもりで呼んだのかもしれない。説教どころか懲戒さえも恐れていないシエルが振り向き、少し遅れてティナも振り向いた。ブラックのスーツを着て、にこやかに微笑んだ青年が佇んでいた。シエルを見上げたティナは驚いた。なんと、漆黒の鷲が笑っているではないか。互いに歩み寄った二人は、固い握手を交わした。
「エクリーじゃないか。久し振りだな」
「そうだね。入庁式以来だから――五、六年ぶりかな? 相変わらず、我が道をゆくでやってそうだな。彼女は誰だい? もしかして、君の恋人とか?」
「いや、それは――違う」一瞬、シエルが言葉に詰まった。「彼女はティナ・アンバー。メシアに配属された警官で、私の部下だ」
「初めまして」ティナの正面に立った青年が右手を差し出した。「僕は、エクリー・エクリプス。シエルの幼馴染みなんだ。よろしく」
「ティナ・アンバーです。よろしくお願いします」
 ティナはエクリーと名乗った青年と握手を交わした。女性みたいに華奢な手だ。外回りをするよりデスクワークが得意そうに見える。ダークグリーンの髪にフォレストグリーンの目。細いフレームの眼鏡が完璧に似合っている。シエルの異名が漆黒の鷲ならば、彼の異名は森の妖精だろうか。刑事に相応しくない、可愛らしい異名だ。
「確か君は……ロムレスの本部に配属されたはずだ。ニューランドヤードに用事でもあるのか?」
「そうだ。さっき、数人の刑事とすれ違っただろう? 彼らは本部から来た刑事で、ある連続レイプ殺人事件を捜査するためにやってきたんだよ」
「連続レイプ殺人事件?」
「スキンハンターと言えば分かるだろう?」
「……スキンハンター。確か、被害者の皮膚を切り取る皮膚狩り男だったな。ここ数年、なりを潜めていたと思っていたが――」
「二週間前、路地裏のゴミ置き場で女性の死体が発見されたんだよ。殺害の手口は、ほぼ奴と同じだった。皮膚狩り男が、再び目を覚ましたんだ――」
「エクリプス警部! 余計な情報をベラベラと喋るんじゃない!」
 壊れたラジオみたいな叫び声がロビィに反響した。怒鳴られた張本人であるエクリーは濃い緑の目を見開いて、ティナたちの背後を凝視していた。ティナとシエルもエクリーの視線を追いかける。目線の先には、顔を紅潮させた男性が仁王立ちしていた。脂肪をたっぷりと備蓄した身体。頭髪は薄く、ホイップクリームを数滴絞った量の髪の毛が乗っている。エクリーは動揺していた。どうやら階級は彼より上のようだ。高級そうな革靴を響かせた男性がティナとシエルの前に立ち、見下したように睨んできた。
「ベリナス管理官! もっ――申しわけありません! しかし、彼らは僕たちと同じ警官です。情報を共有しても構わないのでは?」
「我々と同じ警官、だと?」ベリナス管理官がティナとシエルを舐めるように一瞥した。「確か――君たちは、メシアと呼ばれる殺人課の窓際部署に所属する刑事だったね? 君たちは君たちに相応しい仕事をこなしてくれたまえ。では、失礼するよ。君たちとは違い、我々は忙しいのでね」
 両手を腰の後ろで組んで、背筋を伸ばしたベリナスが歩いていった。威厳に満ち溢れた歩きかたをしているつもりなんだろうが、出っ張った腹を反らして歩く姿は、餌を求めて山から降りてきた狸みたいだった。ごめん。短く謝ったエクリーは、早足で上司のあとを追いかけていった。鬱陶しい小言が待っているのだろう。
 明らかにメシアを侮辱している態度にティナは腹を立てた。礼儀を母親の胎内に置き忘れたまま生まれてきたんじゃないか。怒りを露わにするティナをよそに、シエルはエレベーターホールに歩いていった。相手にするだけ無駄だということか。それでもティナの怒りは収まらない。怒りを引き摺ったティナと、冷静なシエルはメシアのオフィスに着いた。ドアを開けて中へ。フレンとディアナ、意外すぎる人物が二人を待っていた。
「クリス君?」
「エヴァンズ?」
 ティナとシエルの声が重なって美しいハーモニィを奏でた。名前を呼ばれた少年が会釈して、黎明にも負けない笑顔を浮かべた。
「おはようございます。アンバーさん、アルタイルさん」
 輝く金色の巻き毛に明るい水色の瞳。Vネックの黒いセーターの下にベージュのカッターシャツと、トラッドなチェック模様が入ったダークグリーンのチノパンという服装で、初めて会ったときよりもファッションセンスが大幅に向上している。意外なことに、ティナよりも驚いていたのはシエルだった。
「なぜメシアにいるんだ? 確か――花屋で働いていると聞いたが……」
「僕はどうしても皆さんに恩返しがしたくて――無理を言って、メシアで働かせてもらえることになったんです。せっかくアルタイルさんが紹介してくれた仕事を辞めてしまって、本当にごめんなさい! 僕は、皆さんの役に立ちたいんです! お願いします! 追い出さないでください!」
 シエルの正面に立って黒いコートの袖を掴んだクリスチャンが彼を見上げた。縋るような青い目がシエルの慈悲に訴えかける。果たして漆黒の鷲はどのような判断をくだすのだろうか。メシアのメンバーが動向を見守るなか、シエルが口を開いた。
「誰に許可をもらった?」
「えっと……受付にいた、ぽっちゃりした刑事さんです」ヴェラか。シエルが呟いた。
「エヴァンズ。それは、正式な許可じゃない」
「……はい」
「そんな顔をするな。私から上に話しておく。お前さえ構わないのなら、今日からメシアで働くといい」
「あっ――ありがとうございますっ!」
 両腕を広げたクリスチャンが、大胆にもシエルに抱きついた。スキンシップ全般が苦手なシエルは、歯医者に連れていかれる子供みたいに硬直した。ナタリアとハグしたときはあんなに喜んでいたくせに。男なら美少年よりも美女に抱きつかれたほうが嬉しいに決まっているか。ごめんなさい。頬を染めたクリスチャンが離脱した。
「コーヒーが切れているみたいなので、買ってきますね」
「私がいきますよ。クリス君はゆっくりしてください」
「いえ、僕がいきます。アルタイルさん。銘柄はどうしますか?」
 適当でいい。シエルはぶっきらぼうに答えた。分かりましたと頷くと、正式にメシアに配属されたクリスチャンは出ていった。適当でいいと言われるのが一番困るのに、相変わらず素直で純粋な天使だ。彼が買ってきたコーヒーに、シエルはクレームをつける気かもしれない。
「あの子が――クリスチャン・エヴァンズ?」ディアナとフレンが側にきた。「可愛い子ね」
「ほんと、天使みたいだ。ティナに恋する天使ってわけだ」
「えっ!? ちっ――違いますっ! 変なこと言わないでくださいっ!」
 フレンの過激な発言に反応したティナの顔は、耳まで赤く染まった。クリスチャンがティナに想いを寄せていることは、彼女と本人しか知らないはずだ。愛の告白シーンを第三者に目撃されていたのか。誰だ。いったい誰なんだ。思い当たる人物は一人しかいなかった。
「あれ? 違うの? チーフが愚痴をこぼしていたのを聞いたんだけどなぁ」
 フレンのオッドアイがコートを脱いでいるシエルを捉えた。フレンの挑発にシエルは反応しない。反応しまいと努力しているのだ。ゴシップ記者みたいに軽い口を太い針と頑丈な糸で塞いでやりたい。
「あの――」
 クリスチャンがドアから顔を覗かせた。もう買い物を済ませて戻ってきたのか。ショッピングに行ってくると宣言してから数分しか経っていない。空間を跳躍する能力を持つエスパーだったのか。後ろを向いたクリスチャンが何かを囁き、ドアを閉めてオフィスに入ってきた。誰に向けて囁いたのか気になった。純粋な心を持つ者にしか視えない妖精かもしれない。
「どうしたんですか?」
「メシアに依頼をしたいと言っている人がきているんですけど――」
 連れて来いとシエルが指示をだした。クリスチャンがドアを開けて見えない誰かに入っていいよと促すと、ドアの陰から小さな影が出てきた。互いに手をつないだ男の子と女の子だ。ティナは依頼人の指定席である黒いソファへ二人を案内した。
 それにしても子供の依頼人なんて初めてだ。ペットの猫を捜してほしいとか、誘拐された人形を奪還してほしいとか、そういう依頼じゃないといいが。ひどく緊張している様子だ。無理もない。険しい顔つきをして、長い腕と脚を組んだ黒ずくめの青年が目の前に座っているのだから。切れ長の目がティナを見る。どうやらティナに質問をしろと言っているようだ。
「お名前は?」男の子の隣に座ったティナは、優しく問いかけた。
「僕はルカ・ハイランド。こっちは妹のソフィー」
 幼い顔は十歳そこらだろう。ブロンドの髪の兄妹で、妹はウサギの縫いぐるみを抱き締めている。
「困ったことがあってメシアにきたんだよね? お姉ちゃんたちに教えてくれないかな」
「――僕たちのママを捜してほしいんだ」
「お母さんを?」
「うん」
「名前は? いなくなったのはいつだ?」
 沈黙を守っていたシエルが言葉を発した。驚いた兄妹がシエルを見る。ほとんど怯えたような目だ。大丈夫だから。安心させるように、ティナはルカの肩を撫でた。
「名前はシモーヌ。いなくなったのは――三日前。仕事にいったまま帰ってこないんだ」
「父親には言ったのか?」
「パパはいないよ。僕とソフィーが小さい頃に病気で亡くなって、天国にいったってママが言ってたから」
 ソフィーが鼻を啜った。かすかに滲んでいる目から零れた涙滴が、少女のスカートに墜落した。妹のように泣きはしなかったものの、ルカも涙を堪えていた。メシアが主に取り扱う案件は、過去に起きた未解決事件の捜査だ。シエルは現在進行形の事件を取り扱うのだろうか。二人の依頼を受けてあげたいが、ティナたちに決定権はない。すべてはシエル・アルタイルが決めるのだ。さあ、どうするんだ漆黒の鷲よ。いたいけな子供たちを見捨てるのか?
「……分かった。君達の依頼を受けよう」
 シエルは子供たちを見捨てなかった。青ざめていた兄妹の頬に、希望に満ちた薔薇色の灯火が灯る。ここで一つ、疑問点が浮上した。母親が失踪してから三日間のあいだ、兄妹はどうやって生活をしていたのだろうか。ティナがルカに訊いてみると、シモーヌの両親が近くに住んでいて、ルカとソフィーは二人に援助してもらっているらしい。聞き込みも兼ねて、ティナとフレンとクリスチャンの三人で、ルカとソフィーをシモーヌの両親の家まで送っていくことになった。
「そういえば、フレンさんと会うのは久し振りですね。クリスマスはどこへいっていたんですか?」
「両親の家だよ。セレンのことを――報告しにいったんだ」
 マフラーに顔を埋めたフレンが、少しだけ沈んだ声で答えた。セレンとはフレンの双子の妹の名前で、七年前に人身売買をしていた組織に捕えられてしまい、その無垢な命を奪われたのだ。闇に染まった組織はメシアに逮捕され、今は刑務所の中にいる。奴らの罪は重い。脳味噌が腐り果てるまで出られないだろう。
「……ごめんなさい。余計なことを訊きました」
「いいんだ。気にしないで。俺も両親も、今は楽しくやってる。俺たちが笑顔でいないと、セレンが悲しむから」
 ティナとフレンの後ろで、天使が奏でる喇叭のような笑い声が上がった。ティナとフレンは肩越しに振り向いた。クリスチャンとルカとソフィーの三人が、仲良く手をつないで童謡を歌っていた。一瞬でもいい。彼等の悲しみを追い払いたい。クリスチャンの労わりが伝わってくる。
「保父さんみたいだな」
 笑いながらフレンがからかった。ティナはクリスチャンの保父姿を想像して、思わず吹きだしてしまった。笑いの対象となった彼は怒らなかった。
「ベルガモットで暮らしていたときに、年下の子供たちとよく遊んでいましたから」
 クリスチャンの表情が曇る。邪悪な神父に洗脳された住民が住む町でも、彼にとってはかけがえのない故郷なのだ。自ら望んで故郷を捨てたとはいえ、忘れられない思いが残留しているのかもしれない。
「楽しそうだな。俺も混ぜてよ」
 速度を落としたフレンが三人の隣に並び、ソフィーの小さな身体を軽々と肩車した。短く上がった悲鳴は歓声に変わり、ソフィーは鳥の翼のように両腕を広げた。フレンが旋回。ニューランドの空を少女が飛ぶ。
 きっとフレンは、セレンの姿をソフィーに重ねているんだと思う。
 失った七年を、取り戻そうとしているのだ。


 先頭を歩いていたルカが到着の合図を送り、ティナたちはアパートの前で足を止めた。灰色の煉瓦が積み重なってできた建物で、黒い枠で縁取られた馬蹄型の窓が押し込まれている。アパートと表現するより、高級マンションと表現するほうが相応しいだろう。コンクリートのステップを上ってロビィへ。正面に自動ドア。その脇に端末がある。頼もしいオートロック式だ。ルカから訊いた部屋番号をプッシュして、ティナたちは住人が応答するのを待った。
『どなた?』声が聞こえると同時に、ルカがインターフォンに飛びついた。
「僕だよ! ルカだよ!」
『ルカ!? ソフィーもいるの!? すぐにいくから待っていてちょうだい!』
 待つこと数十分。自動ドアが開いて品の良い初老の女性が姿を見せた。ティナたちを認識した鳶色の目が警戒の色に染まる。誘拐犯だと誤解される前に、ティナとフレンはバッジを掲げた。鳶色の瞳が安定した状態に戻った。バッジの効果が浸透したようだ。部屋までどうぞ。女性に案内されて、三人はアパートの一室に向かった。
 七階の部屋へ足を踏み入れる。芸術に没頭している画家が住むアトリエのような部屋だった。室内は綺麗に整頓されていて、高級そうな調度品や絵画が飾られている。嫌味を感じさせない丁度いい数だ。ティナたちを出迎えたのは初老の男性だった。二人はシモーヌの祖父母で、テッドとジーナと名乗った。ソファに着席。今度はティナたちが自己紹介する番だ。
「ニューランドヤード特殊捜査課に所属する、ティナ・アンバーです」
「彼女と同じ部署に所属する、フレン・ロゼラです」
「アシスタントの、クリスチャン・エヴァンズです」
「朝から姿が見えないと心配していたら、ニューランドヤードにいっていたのね?」
 咎めるようなジーナの視線がルカを貫いた。軽く叱咤されたルカが項垂れる。
「そう怒っては可哀想だよ。無事に帰ってきてくれたんだから、いいじゃないか」
 孫を抱き寄せたテッドがブロンドの髪を優しく撫でた。恐らくジーナは本気で怒っていない。二人の孫を心配するあまり、つい厳しい声で叱ってしまったのだろう。
「刑事さんがきたということは――」ルカからティナたちへ視線を移したテッドの皺が増えた。「もしかして、娘のことできたのかね?」
 ティナは質問役に任命された。少しは一人前の刑事だと認められたと思いたい。
「はい。ルカ君の話によると、三日前からシモーヌさんが家に帰ってこないと聞きましたが――」
「ええ、そうなんです。二日前にルカとソフィーが訪ねてきて、シモーヌが帰ってこないと聞いたんです。あの子の職場――病院に電話を掛けてみたんですけど、今日は休むと連絡があったそうで、理由を訊いても休みたいとの一点張りだったそうです。でも、変でしょう? 理由も言わずに休むなんて。それに、電話の一本も掛けてこないなんておかしすぎるわ」
「捜索届は出したんですか?」
「はい。二日前に出しました。君たちが来てくれて、安心したよ。連絡の一つもなかったから、そのまま放置されていたと思っていたからね」
「なにか分かったら、必ずご連絡します。シモーヌさんが住んでいる家の住所を教えてもらってもいいですか?」
「もちろんだよ。ここから数ブロック先にある、こぢんまりとしたアパートだ。住所は――」
 住所をメモして三人はアパートをあとにした。ルカとソフィーを送り届け、聞き込みの任務はクリアしたぞ。次の目的地はシモーヌ親子が住んでいるアパートだ。与えられたヒントを頼りに目的地を探す。車が行きかう道路沿いに例のアパートを見つけた。キャンバスみたいに真っ白な外観。通りに面した小さな窓。転落防止用の黒い柵に、薔薇やマーガレットを冠した鉢が吊り下げられている。まさに小さな花園だ。荒廃した都会に少しでも緑を増やそうと奮闘しているんだろう。
 白いアパートはオートロックではなかった。管理人室のドアを叩いて出てきた男性にバッジを見せ、事情を話してシモーヌの部屋の合鍵をレンタルした。螺旋階段を上って三階へ。彼女の部屋を見つけた。合鍵を差し込んで一回転。軽い音を奏でてドアが開いた。
 開いたドアの向こうには、玄関と一本道の廊下が伸びていた。廊下の左右に浴室とトイレ、寝室と子供部屋があった。廊下の奥には小さなリビングが広がっていた。リビングの左側にL字型の対面キッチンとダイニングテーブルがある。右側にはテレビとソファと机。親子の団欒の場所だ。
 リビングと寝室を順番にチェックしてみたが、荒らされた形跡はなかった。再生した留守番電話にも、身代金を要求する内容の記録は残されていない。つまり金目的の犯行じゃないということだ。シモーヌ家に対する恨みによる犯行か? それとも衝動的な犯行か? 隅から隅まで捜索してみたものの有力な情報は見つからず、地下鉄の時刻表しか手に入らなかった。なんにせよ、シモーヌを見つける手掛かりにはならないだろう。
 サルベージは断念して、ティナたちはシエルの待つメシアに戻ることにした。合い鍵を返却してアパートの外へ出る。通りを引き返していると、突然今までに経験したことのない悪寒がティナの背中を突き抜けた。まるで全身の皮膚を撫で回されているような感じだ。立ち止まったティナは、悪寒を追い払うように自分の身体を抱き締めた。
「アンバーさん? どうしたんですか?」
 異変に気づいたクリスチャンが駆け寄ってきた。少し遅れてフレンもやってくる。黒ずくめの上司だったらティナを置き去りにして帰っていただろう。優しい同僚に感謝した。
「なんでもないです。ただ、ちょっと、誰かに見られているような気がして――数日前からそうなんです。ごめんなさい。きっと、気のせいですね」
「気のせいかどうかは分からないけど、用心したほうがいいと思う。一度、アルタイルチーフに話したほうがいいよ」
 シエルに悩みごとを相談しても無駄に決まっている。ティナを嫌っている冷酷な上司は、彼女の悩みなんて丸めてゴミ箱に捨ててしまうに違いないからだ。届けられた手紙の内容を確かめずに食べてしまった山羊よりひどい。ナタリア・ノーマンと身体を交換できたらどんなに素晴らしいだろうとティナは思った。そうすればシエルは蕩けるような笑顔を浮かべ、ナタリアと入れ替わったティナの悩みごとを真摯に聞いてくれるだろう。自分でも気づかないうちに、ティナは天才バレリーナに嫉妬していた。


 メシアがシモーヌの捜索依頼を引き受けてから数週間が経過した。捜査はひどい手詰まり状態で、光の見えない深海に沈んでいて地上に浮上できないのだ。彼女が立ち寄りそうな場所を片っ端から訪ねてみたり、路上でリーフレットを配ったりしているというのに、シモーヌの消息は依然として掴めないままだった。いったいどうなっているんだ。シモーヌという女性は本当にこの世に存在しているのか。
 紙の資料もパソコンにインストールされたデジタルの資料もないから調べようがない。フレンもディアナも普段からは想像もできないような難しい顔をして、即席の資料と格闘している。そういえばシエルの姿が見当たらないが、彼はどこにいったのだろう。部下たちが頭脳をフル回転させて、シングルマザーの行方を捜査しているというのに。
 極限まで精神を研ぎ澄ませているティナたちを、天井から響いてきた物音が邪魔をした。品のないダンスパーティーみたいな感じだ。洗練された紳士淑女の代わりに、悪戯好きな妖精が踊っているんだろうか。それにしてもうるさいな。集中力を要する作業なんだから静かにしてほしい。確かメシアの上は会議室だったはずだ。ロムレス本部から派遣された、嫌味なエリート集団が占領していると聞いた。そうまでして窓際部署の職務を妨害したいのか。
「少し休憩されてはどうですか?」ティナたちに紅茶を配ったクリスチャンが提案した。「根を詰め過ぎたら身体を壊してしまいますよ」
「そうね。少し、休憩しましょうか」
 ディアナがクリスチャンの提案に賛成の一票を投じた。反対票はなし。ティナもフレンも視力の限界を感じていたからだ。スティックシュガーの封を切って、粉末の砂糖を琥珀の海に注ぐ。スプーンで掻き混ぜて味を調整する。一口飲むと、郷愁を感じさせるレトロな甘みがティナたちの疲労を和らげてくれた。
「チーフ、どこにいったんでしょうね」
 紅茶を飲んでいたフレンの動きが止まった。カップから口を遠ざけた彼がティナを見た。
「携帯を見ていたから、誰かに会いにいったんじゃないかな。やっぱり、気になる?」
「わっ……私は別に――」
「気になっているんですか?」
 クリスチャンも会話に参戦した。ティナに不利な状況だ。お願いだから、悲しそうな目で見ないでほしい。
「チーフはそこらのモデルよりもカッコいいから、女性のファンがかなり多いのよ。私が知るかぎりじゃ――数十回は告白されていたわね」
「チーフを取られないか心配なんだね。でも、心配しなくていいよ。だって、チーフは――」
「フレン。それは言っちゃ駄目よ」
「あ。そっか。ごめんなさい」
 ディアナに注意されたフレンは、言いかけた台詞を紅茶で喉の奥に流し込んだ。台詞の続きが気になったが、訊いてはいけないような気がしたティナは、あえて詮索しないことにした。騒がしかった天井が、水を打ったように静かになった。複数の足音が移動している。エレベーターが止まる音。メシアを通り過ぎていく足音たち。誰かがドアをノックした。ディアナが返事をすると、半開きになったドアから刑事が顔を覗かせた。殺人課に所属しているヴェラだった。
「ヴェラ? どうしたの?」
「お前らは――シモーヌって名前の女性を捜してるんだったな」
「ええ。そうよ」
「さっき、女性の死体を発見したって通報があった」
 ヴェラが放った一言は、一瞬にしてティナたちの背筋を氷河の如く凍りつかせた。起こってほしくなかった結末が、最悪の結末が、色鮮やかなヴィジョンとなって四人の脳裏を駆け巡る。いや、決めつけるのはまだ早い。真実を確かめるには自らの足で近づき、自らの目で確かめてその手で掴み取らないといけないのだ。
 貴重な情報を教えてくれただけではなく、ヴェラはティナたちを現場まで送ってやると申しでた。どういう風の吹き回しだと疑ったが、天文学的な確率の厚意だ。ここは素直に受け取っておこう。ニューランドヤードの外で待っていると、ヴェラが操縦するシルバーのアウディがタイヤを回してやってきた。ティナたちはカボチャの馬車よりも遥かに高級なアウディに乗り込んだ。
「いけすかねぇんだよな、あいつらは」器用にハンドルを回しているヴェラがこぼした。
「あいつら?」
「本部からきたエリートだよ。あからさまに俺たちのことを見下してやがる。合同捜査だとか言ってたくせによ、肝心の捜査情報を教えようともしないんだぜ。反吐がでる」
「合同捜査? どんな事件を捜査しているんですか?」
「数年前に起きた連続レイプ殺人事件だ。なんでも犯人の殺害手口と同じ方法で殺害された死体が、数週間前に見つかったらしいぜ。それもニューランドでな。それで、本部からエリート警官たちが派遣されてきたっていうわけだ」
 数日前に出会ったエクリー・エクリプスが言っていた事件だろう。被害者の皮膚の一部を切り取る皮膚狩り男――通称スキンハンターだ。ホラー映画に出演していてもおかしくない名前だったからよく覚えている。現場に到着した。路地裏の一角に野次馬が群がっていた。黄色いロープが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。規制線の数メートル手前でアウディは止まった。アウディから降りて見張りの警官にバッジを見せ、ティナたちはテープの内側に足を踏み入れた。
 黒いジャンパを羽織った鑑識チームがすでに現場を調べていた。彼らの邪魔をしないように、警官たちもそれぞれの職務をこなしている。テープの内側で鑑識に勝てる者はいないからだ。その中に顔馴染みの刑事を見つけた。黒い髪に藍色の目。黒一色の服で長身を隠した青年。失踪中のシエル・アルタイルだった。刑事の血が彼を現場に導いたのだろうか。
「アルタイルチーフ!」
 ティナの呼びかけに反応したシエルが振り向いた。彼は動かない。ティナたちに来いと言っているようだ。無精者め。シエルの側へ急いだ。彼の青い目は、ブルーシートに包まれて担架に載せられた塊を見ていた。縦に長い。あれは――人間だ。恐らく遺棄されていた死体だろう。
「さがってください! ここから先は立ち入り禁止です!」
「お願いだから通してくれ! 娘かもしれないんだ!」
 馬鹿な野次馬の一人が騒いでると思って振り向くと、警官とテッドが争っていた。傍らにはジーナがいて、テープの向こう側を覗こうと必死に背伸びをしている。このまま放置しておけば、公務執行妨害で逮捕されてしまうかもしれない。そうなる前に会いにいこう。ティナたちは二人に近づいた。話が通じる人間に会えた安心からか、テッドとジーナの表情が安堵に包まれた。見張りの彼に事情を話し、夫婦を特別に入れてもらった。
「シモーヌさんのご両親の、テッド・ハイランドさんとジーナさんですね? 私は特殊捜査課メシアを統率するシエル・アルタイルです。なぜこちらに?」
「女性の死体が発見されたと聞いたので、もしかしたらシモーヌじゃないかって思って――」
「お願いします! 少しだけでいいんです! 顔を見せてください!」
「分かりました」
 シエルが重々しく頷いた。そう簡単に閲覧の許可を出してしまっていいんだろうか。もしもブルーシートに包まれて眠っている死体がシモーヌだったら、夫妻の心臓は即座に鼓動を打つのをやめてしまうだろう。シエルが担架を呼び寄せて、ゆっくりとシートを捲った。幸運が訪れるか。それとも災厄が降り注ぐか。女性の白い顔が現れた。テッドが息を呑み、ジーナが口を覆い隠した。
「シモーヌさんですか?」
「――いや」テッドが首を振った。「シモーヌじゃない。娘は金髪だから、彼女は他人だ」
「ああ……よかったわ」
 安堵の呟きを漏らしたジーナはごめんなさいと表情を曇らせた。不謹慎な発言をしてしまったと思ったのだろう。冷たくなった彼女にも帰りを待ちわびている家族がいるのだから。遺体を確認した二人はティナたちの朗報がくることを信じ、寄り添いながら立ち去った。ひとまず最悪の結末は免れた。しかし安心はできない。彼女が冷たくなる前に、一刻も早くシモーヌ・ハイランドを捜し出さないといけないのだ。
 もう少し現場を捜索したいと望んだが、敵意に満ちた視線を感じたティナたちは、殺人課の刑事であるヴェラと別れて早々に現場から退散することにした。一応メシアも殺人課に区分されるのだが、窓際部署というイメージが定着しているようだ。BMWに乗ってニューランドヤードに帰還。オフィスに戻ると、二人の若者がティナたちを出迎えた。
「お疲れサマンサでっす」
「ご苦労様です」
 赤毛とアッシュブラウンの髪の若者が挨拶をした。検死官のジャック・エイヴォンと、科学捜査官のスペック・リードだ。
「ジャックさんにリードさん? どうしたんですか?」
「どうしたもなにも、オレたち主任にこき使われてるんっスよ。な、リード」
「僕は別に……与えられた仕事をしているだけですから。アルタイル主任。ご要望の物をお持ちしましたよ。ほら、ジャックも出してください」
「学級委員かよ」
 ジャックは一冊のファイルを取り出し、リードは数十枚のDVDRAMを取り出した。ファイルとDVD。どんな接点があるんだろう。ティナたちが不思議に思っていると、ジャックが説明を始めた。
「二週間前に発見された遺体とさっき発見された遺体の身元と、その遺留品リストです。本部の奴らに見つからないように持ち出すのは大変でしたよ」
 資料を受け取って空いているデスクに座ったシエルがファイルに目を落とす。ファイルの中身が気になったティナたちは、シエルの周りに集まって情報を共有した。血塗れの死体が映った凄惨な写真がティナの両目に突き刺さった。クレモナで見てしまった戦慄の光景がティナの脳裏にフラッシュバックする。一瞬、シエルの青い目が資料から離れてティナを見た。ティナを心配している色だ。色が消え、シエルの指がページを捲った。細かい文字で埋め尽くされた遺留品リストのページが現れた。蜂蜜色の目をリストに滑らせていたティナは、とあるものに気がついた。
「ティナ? どうしたの?」
 ティナの表情の変化に気づいたディアナが声をかけた。オフィスにいる全員が、ティナに注目している。
「えっと……大したことじゃないと思うんですけど、ここに書いてある地下鉄の定期券なんですけど――シモーヌさんの部屋にも、同じ路線の時刻表が置いてあったんです」
「アンバーさん。それは大したことですよ」リードがにこやかに微笑んだ。「本部の捜査官が証拠品として押収してきた地下鉄の防犯カメラの映像をダビングさせてもらったんですよ。もちろん無断です。貸してくださいと言っても、彼らは貸してくれませんからね。そのカメラの映像が多すぎて、どれから調べようか困り果てていたんです。アンバーさんのお陰で一つに絞れました」
 フラットテレビとデッキの電源をONにして、投入口にDVDを押し込んだリードがリモコンの再生ボタンを押した。テレビ画面に投影されたのは、地下鉄の駅に設置された防犯カメラの映像で、目まぐるしく動く乗客たちが映っている。リードが早送りのボタンを押して、さらに映像を進めた。
「ここを見てください。最初に殺害された被害者――リナ・ジョーンズが映っています」
 一時停止する画面の一点をリードの指が指し示した。彼の指の先には一人の女性が鮮明に映っていた。ファイルに貼り付いていた写真と画面の女性を見比べたシエルが頷く。同一人物のようだ。画面が暗くなる。リードがチャプターを切り替えて、次の映像を表示させた。同じ駅。二人目の被害者エレナ・フィッシャーマンが映っていた。変わり映えのない映像を睨んでいたクリスチャンが眉根を寄せた。些細な変化に気ぶいたのか。
「あの、リードさん。さっきの映像をもう一度再生してくれますか?」
 最初に映し出された映像が画面に戻ってきた。なにかを確認したクリスチャンが頷く。彼の白い指が、被害者の女性とは異なる人物を指した。
「この男性――さっきも映っていましたよ」
 クリスチャンの指の下にいたのは、頭髪が薄くなりかけたサラリィマンふうの中年男性で、接着剤みたいにリナの背後に密着していた。背後霊みたいでひどく不気味だ。二人目の被害者エレナの背後にも、例の男性が密着していた。リナもエレナも男性の存在には気づいていないようだ。混雑しているせいだろう。シエルの顔色がわずかに変わった。
「リード。シモーヌ・ハイランドが失踪した朝の映像をだしてくれ」
 新しい映像がお披露目された。通勤通学の乗客たちで混雑する駅に、金色の髪を結い上げた女性が登場した。間違いない。生死不明のシモーヌ・ハイランドだ。ティナは身震いした。彼女の背後にもあの男性が張り付いていたのだ。謎の男が連続レイプ殺人事件に関わっていて、シモーヌもそれに巻き込まれたに違いない。
「この男が一連の事件に関わっているようだな。フローライトたちは奴の素性を調べてくれ。エイヴォンとリードは本部の動向をスパイしろ。彼らも気づいているかもしれん。アンバーは私とこい」
「えっ? 私がですか? あの、どこに?」
「ハイランド夫妻の家に決まっているだろう。この映像を見せて、男を知っているかどうか確かめにいくんだ」
「はっ――はいっ!」
 BMWに乗ってハイランド夫妻の家へ。朗報を携えていないティナとシエルを二人は快く出迎えてくれた。家のテレビを拝借してDVDを再生する。映しだされた男を指したシエルが、質問を開始した。
「彼を知っていますか?」テッドとジーナが顔を見合わせた。
「いや――見たことがないな。この男が……どうかしたのかい?」
「詳しいことは分かりませんが、シモーヌさんの失踪となんらかの接点を持っている可能性があります」
「彼が――? 本当なの?」
「恐らくは」
「お願い。娘を見つけてちょうだい。ルカとソフィーのために」
 全力を尽くしますと約束して、ティナとシエルは夫妻と別れて外へ出た。車の停車位置に向かうシエルを追いかけていると、以前にも感じた全身を突き抜けるような悪寒を感じた。まただ。また誰かがティナを見ている。素早く振り返って周囲をくまなく確認してみたが、結局怪しい不審人物は発見できなかった。
「アンバー?」シエルがティナの側にきた。訝しげな表情だ。彼女が奇行に走っていると勘違いしているのか。「どうしたんだ?」
「……視線を感じるんです。凄く不気味で――気持ち悪い視線なんです」
「視線? 気のせいじゃないのか」
「気のせいじゃありません! 数日前から誰かが私を見ているんです!」
「自意識過剰だ。行くぞ」
 あまりにも冷たすぎる言葉に、ティナの中で溜まりに溜まっていた塊が弾けた。
「どうして――ひどいことばかり言うんですか!?」
「ひどいことだと? そんなことを言った覚えはない」
「嘘よ! 私にばっかり言っているじゃないですか! 大馬鹿者とか愚か者とか! ナタリアさんが相手だったら優しい台詞を言うんでしょう!?」
 ナタリアの名前にシエルが反応した。そんな彼を見たティナの怒りはさらに増大した。まさに火に油を注ぎ過ぎた状態だった。
「なぜ彼女の名前がでてくるんだ。それに、お前となんの関係があるんだ?」
「そんなの知りません! でも、こっそり会ってるんですよね!? ナタリアさんと会ってなにをしてるんですか!? 彼女の告白を断ったくせに卑怯じゃないですか! ナタリアさんが好きなんでしょう!? 忘れられないから、何回も会ってるんでしょう!?」
「お前には関係ない。愚痴をブチ撒けたいのなら余所でやれ。迷惑だ。さっさとこい」
 黒い手袋を嵌めた手がティナの腕を掴んだ。説得するのを諦めて力ずくで連行する気だ。痛い。まるで万力のようだ。か弱い少女相手に手加減すらしないのか。シエルの手を振り払ったティナは、数歩後ろに後退した。
「私のことが嫌いなんでしょ!? だったら私をクビにして、ナタリアさんを雇えばいいじゃないですか! 大人だし、美人だし――」
「黙れ!」
 堪忍袋の緒が切れたのか、遂にシエルが叫んだ。瞬く間にティナとシエルは通行人の興味の対象になった。痴話喧嘩? 青春だねぇ。他人事のような台詞を囁きながら、野次馬たちが通り過ぎていく。冷酷なシエルの一挙一動がティナの胸に突き刺さった。蜂蜜色の目に涙が溜まっていき、必死に保っていた理性が空の彼方に飛んでいった。
「大嫌い! チーフなんて大嫌い! 大嫌いっ!」
「アンバー!」
 絡め取ろうと伸びて来た黒い手を振り払ってティナは駆け出した。革靴が石畳を蹴る音も、タイヤが道路と摩擦する音も追いかけてこない。シエルの脚の長さならば、簡単にティナを捕まえることができるはずなのに、それをしないということはシエルにとってティナは、道端に転がる石ころみたいにどうでもいい存在なのだ。
 ニューランドに張り巡らされたカッレをティナは走り回った。両足が疲れを訴え始めた。どこか分からない路地で立ち止まり、ティナは乱れた呼吸を整えた。耳に残るシエルの言葉が胸を抉る。ティナの心の奥に突き刺さった言葉のナイフは、湿った疼痛を生みだし始めた。
 背後に人の気配を感じたが、ティナは振り向かなかった。いや、振り向く気力すらも失せていたのだ。不審者に間違われたら警察手帳とバッジを突きつければいい。誰かの手がティナの肩に着地した。肩に手が触れた瞬間、ティナの背筋を悪寒が走り抜けた。
 この感じは――あいつだ。駄目だ。すぐに離脱しないと。刹那、腕がティナの腰に巻きついて、彼女は引き寄せられた。湿った息が耳元を吹き抜ける。禍々しい欲望に染まった息だ。悲鳴を上げれば、きっとシエルが助けにきてくれる。ティナの考えを意図していたかのように、白いハンカチが彼女の口を塞いでしまった。液体の匂いが鼻に突き刺さり、ティナの意識は徐々に遠ざかっていった。ティナが意識を手放す直前、枯れ果てたような声が耳元で囁いた。
 やっと捕まえたよ。ボクの琥珀ちゃん。
 暗く果てのない闇の底へ、ティナの意識は墜ちていった。


 黴の生えたパンのような湿った空気がティナの肌を刺激した。目を開けるんだ。脳からの電気信号を受け取って、ティナは閉じていた瞼を開けた。蜂蜜色の視界に映ったのは灰色の天井だ。材質はコンクリートだろう。少なくとも安物のプラスティックじゃない。天井の材質なんてどうでもいい。重要なのは、ここがどこなのかだ。ティナは白いベッドの上に寝かされていた。ダッフルコートとキャメルブラウンの鞄は剥ぎ取られている。お気に入りのコートと鞄だったのに。衣類の心配をしている場合じゃない。状況を確認するのが先決だ。
 ティナはベッドから降りて狭い部屋を歩き回った。ベッドは一つ。奥の窓はベニヤ板で塞がれている。調度品は小さなキャビネットだけで、入院患者が押し込められているような病室に似た部屋だった。人間の声に似た音が聞こえている。ティナは耳を澄ませた。
「――誰かいるの? いるのなら返事をして!」
 声は壁の向こう側から聞こえていた。コンクリートを隔てた向こう側に誰かいるのだ。壁際に駆け寄って、ティナは話しかけた。壁が薄いことを祈ろう。
「貴女は誰ですか!? もしかして――シモーヌ・ハイランドさんですか!?」
「えっ――?」壁の向こうの住人が息を呑んだ。「ええ、そうよ。どうして私の名前を?」
「私はニューランドヤードの刑事です! ルカ君の依頼を受けて、貴女を捜していたんです!」
「ルカが私を? あの子たちは無事なの?」
「はい。テッドさんとジーナさんの家にいます」
「よかった――」
「そこを動かないでください! そっちに行きますから!」
 シモーヌが了承した。壁際から後退したティナは、唯一の出入り口であるドアに駆け寄った。ゆっくりとノブを回してみると、驚くことにドアは素直に開いてくれた。誘拐犯が鍵を付け忘れたのか? それとも邪悪な罠か? 勘繰るのはあとにしよう。ティナは慎重に部屋から這い出した。ベニヤ板でシャットダウンされた窓が整列した廊下が伸びている。ティナがいた部屋の右側の部屋へ。鍵のないドアを開け、部屋の隅で縮こまっている金髪の女性を見つけた。
「シモーヌ・ハイランドさん?」顔を上げた女性が頷いた。「ニューランドヤード特殊捜査課の、ティナ・アンバーです」
「貴女が――刑事? ごめんなさい、若い女の子だから少し驚いただけよ。でも、どうやって部屋を抜け出したの? 確か、鍵がかかっていたはずなんだけど……」
 鍵は付いていなかったとティナが告げるとシモーヌは驚き、貴女がくるまで頑丈な鍵で封印されていたと教えてくれた。いったいどういうことだ? 犯人の意図が分からない。難解なパズルはあとで解こう。神様が与えてくれたチャンスを無駄にしてはいけない。シモーヌを連れてティナは部屋から出た。右か左か。東か西か。どちらに進めばいいのか分からない。埃まみれの案内板を見つけた。現在地を確認。ここは一階だ。左にいけば外に出られるぞ。
 二匹の迷える子羊は一直線の廊下を左に走った。空間が開ける。ロビィのような場所が見えてきた。誰もいないカウンタ。テレビもソファもなにもない。ティナたちが踏み締めている床は表面が引き剥がされていて、硬いコンクリートが剥きだしになっている。人間の手で解体された空虚な世界ということか。ここを抜け出さないかぎり、誰も助けにはこないのだ。
「きっと、あれが出入り口ですよ!」
「そうみたいね! 早くいきましょう――」
「どこへいったのかなぁ?」
 ティナとシモーヌを追いかけるように第三者の声が響き渡った。他人に媚びを売るときのような、猫撫で声だ。硬い足音が這い寄ってくる。足音は迷うことなく確実にティナたちに迫っていた。どうする。どうするんだ。二人とも捕まってしまったら、二度と太陽の光を浴びることはできないだろう。ティナは決意した。シモーヌに希望の光を託すのだ。
「シモーヌさんは逃げてください! 私があいつを足止めします!」
「でも! アンバーさんを置いてなんか――」
「こう見えても刑事ですから大丈夫です! ニューランドヤードにいって、特殊捜査課に所属しているシエル・アルタイルという名前の警官に伝えてください! 早くいって!」
「……分かったわ。必ず助けを呼んでくるから!」
 ティナから希望を託されたシモーヌはそれを抱き締めて、脇目も振らずに駆けていった。彼女が無事に脱出するのを見届けて、ティナは身構えた。さあ来るなら来い。銃も武器も持っていないけれど、強い信念は持っているぞ。角から黒い塊が現れ、漆黒の影を引き摺りながら近づいて来る。縮まる距離。やっぱり信念だけじゃ心細い。ティナは運良く近くに転がっていた鉄パイプを見つけ、右手に装備した。ベニヤ板の隙間から洩れ出た陽光が、奴の姿を照らしだす。奴――男の素顔を目撃したティナは絶句した。
「あっ――貴方は――」
「嬉しいなぁ。ボクのことを覚えていてくれたんだねぇ」
 全身を貫いた衝撃が大きく、ティナは右手に装備していた鉄パイプを手放してしまった。ティナの目の前に現れたのは、サンタ・ルチア駅で彼女が慈悲を与えた中年のサラリィマンだった。痴漢行為をしていてシエルに捕獲され、ティナが恩赦を懇願したサラリィマンだったのだ。 
「ずっと君だけを見ていたんだよ。いつか味わえることを夢見ながらね」
 男の口が三日月のように持ち上がった。彼は笑っていた。子供の無邪気さと狂人の邪悪さを兼ね備えた笑顔に、思わずティナは後ずさった。しかし逃がすまいとティナは腕を掴まれて、引き寄せられてしまった。脂肪に包まれた指がティナの背中を這い下りて腰の周りを撫で回す。あのときと同じ、梅雨を思い出させる湿った感触だった。
「怖がらなくてもいいんだよ。さあ、こっちにおいで。楽しいコトをしよう」
「嫌っ! 放して――!」
 地面に落とした鉄パイプを掴んだティナは、高く振り上げたパイプを男の脳天目がけて振り下ろした。多少狙いは外れたものの、弧を描いたパイプは男の側頭部に直撃した。力が足りなかったのか男は一瞬よろめいただけで、地面に倒れなかった。頭から血を流した男が右手を振り上げた。
「悪い子だな!」
「きゃあっ!」
 男の平手打ちが頬に衝撃を与え、その反動でティナは地面に倒れてしまった。目眩がする。脳震盪を起こしたのか。成人男性の力に抗うことができないまま、引き摺られるように連れていかれたティナは、廃墟の一室に押し込まれた。閉じ込められていた部屋より広いが構造は一緒だ。ティナはベッドの上に放り投げられて、両手と両足をベッドの柵に縛られてしまった。グレイのジャケットを脱ぎ捨てた男がティナの上にのしかかる。脂ぎった顔が不気味に笑った。
 ティナの頬を撫でていた男の指が、ワインレッドのリボンタイを丁寧にほどいていった。優しく外されたリボンは、床の上に投げ捨てられた。リボンからボタンへ。標的を変えた手がブラウスのボタンを外していく。汗で滑って思うようにボタンを外せない男が苛立ち、ブラウスを強引に引き裂いた。ブラウスはただの布切れになってしまった。
 男の唇が、舌が、指が、露わになったティナの肌に襲いかかる。
 ティナは誰にも届かない、孤独な悲鳴を奏でることしかできなかった。


 シエルの手を振りほどいたティナ・アンバーは、蟻の巣のように入り組んだカッレの暗闇に消えていった。彼女のあとを追いかけることもできたが、どうせナタリア・ノーマンに対する嫉妬の言葉を延々と聞かされるに違いない。そんなのはゴメンだ。教会で神父の説法を聞いているほうがまだマシだ。子供じゃないんだ。頭を冷やしたら帰ってくるだろう。シエルは一人BMWに乗り、ニューランドヤードに帰還した。オフィスに戻ると、ディアナたちが資料をまとめていた。
「お帰りなさい。あら……ティナは?」
「あんな小娘のことなど知るか。いきなり泣きだしてどこかへいった」
「置き去りにしたんですか?」
 シエルのコーヒーを淹れていたクリスチャンが手を止めて非難の声を上げた。それでも彼はきちんとコーヒーを完成させて、シエルに手渡した。
「それで、男の素性は分かったのか?」
「はい」フレンがまとめた資料を渡す。「彼はマルコ・サイモン。市内の証券会社に勤務するサラリィマンです」
「写真を見せろ」
 写真の男に青い目を落としたシエルは、違和感を感じて目を細めた。頭頂部が禿げかけた四十代後半のサラリィマン。一度も面識がないはずなのに、どこかで見たような気がするのだ。結局何も思い出せないまま、男の顔は記憶の底に沈んでいった。
「チーフ? どうしたの?」
「……いや、なんでもない。被害者たちが失踪した日、サイモンはどこにいた?」
「えっと……」フレンが資料を捲る。「どの日も会社を休んでいますね」
「怪しいな。サイモンの勤務先にいくぞ。事情聴取だ」
 身支度を整えていると騒々しい足音が廊下を駆けてきて、足音を上回る音量でドアが開け放たれた。呼吸の乱れた二人組の若者が立っていた。なにをそんなに慌てているんだ。宇宙人が襲来してきたのか。ジャックとリードはひどく動揺していた。
「たっ――大変っス!」
「騒々しいぞ、馬鹿者が。なにがあったんだ」
「話すより聞いたほうが早いっスよ! リード!」
 リードが小脇に抱えていた端末とスピーカーをデスクの上に置いて、電光石火の如き素早さで両者を接続した。電源ON。砂が流れ落ちるようなノイズが吐き出される。ノイズが収まっていくと、人間同士が会話している声が聞こえてきた。
『マルコ・サイモンの動きは?』
『我々の予想どおり、ティナ・アンバーを拉致した模様です。アンバーを乗せた奴は、車で――ポイントF15に向かいました』
『よし。サイモンに気づかれないように尾行を続けろ。状況を見て突入せよ』
『ベリナス管理官』聞き覚えのある声が響く。エクリーが発言したのだ。『アンバー捜査官をサイモンをおびき出す囮に使うなんて、少々やり過ぎではありませんか? アルタイル警視に情報を伝えて協力を仰いだほうがよかったのでは?』
『窓際部署であるメシアに頭を下げるような行為などできんわ! 役立たずの小娘に、犯人逮捕に貢献できるチャンスをくれてやったんだぞ? 感謝されてもいいぐらいだ!』
『しかし――!』
『ええい! 口答えをするな! 長年追い続けてきたスキンハンターがようやく現れたんだぞ! アンバー捜査官には悪いが――』一ミリも悪いと思っていない口調でベリナスが続ける。『スキンハンターを逮捕するための犠牲になってもらおう』
 これ以上聞いていられない。反吐が出そうな内容だ。シエルの指が端末のスイッチを切った。雨が降り出して雷が落ちる前兆のような、張り詰めた空気がメシア全体に漂い始めた。ティナが皮膚狩り男に拉致された。おぞましくも恐ろしい連続レイプ殺人犯に。おまけに本部の刑事たちは彼女を餌にして、マルコ・サイモンを逮捕しようとしているのだ。
「ジャック、リード。この会話は――どうやって手に入れたの?」
「……主任の指示に従って、会議室の机の下に盗聴器を仕掛けておいたんです。彼らの言っていることは100パーセント事実ですよ。チラリと見ただけですが、ホワイトボードにサイモンの写真が貼ってありましたから」
「チーフ! 俺たちも奴の家にいきましょう! 手掛かりを見つけて早くティナを助けにいかないと!」
 ジャンパを羽織ったフレンがドアに向かい、ディアナとクリスチャンも続く。ティナを救うというヒロイズムが、三人の内側で燃え盛っているのだ。三人とは正反対に、シエルの心は恐ろしいほどに冷めきっていた。一向に動こうとしないシエルを見るに見かねたのか、フレンが側にやってきた。
「なにをしているんですか!? 早くいかないと、ティナが――」
「助けにいく必要はない」
「どうしてですか!?」
「殺人犯に簡単に拉致されるような警官を助けに行く必要はない。本部の奴らに任せればいいだろう。我々にできることはなにもない」
 自分でも驚くような冷酷な台詞が、シエルの口から簡単に発せられた。なぜこんな台詞を言えたのか分からない。ティナと言い争ったときの感情が尾を引いていたのかもしれない。刹那、フレンの周りの空気が一気に変わった。
「……本気で言ってるんですか?」
「ああ」
「ふざけるなよ!」
 フレンの両手がシエルの襟元を掴み、彼の手の甲に血管が浮き出るくらい強く締め上げた。部下の反乱だ。彼のオッドアイは真紅の怒りの炎に焼き尽くされている。殴られてもおかしくない状況なのに、フレンの右手はおとなしい。
「ティナはアンタの部下だろ!? 助けにいくのが当たり前じゃないか! それなのに、どうしてティナを見捨てるようなことを平気で言うんだよ! チーフは――ティナのことが好きなんだろ!? ティナだって、チーフのことが好きなんだよ! だったら助けにいかないと駄目ですよ!」
 シエルはなにも言わなかった。いや、言えなかったのだ。ティナを愛している。フレンの言った言葉は的確にシエルの図星を突いてきたのだから。怒りに身を任せたフレンはシエルの答えを待っている。シエルの返答次第では、彼の右手は乱暴になるだろう。
「チーフ! ティナを見捨てるような真似をしたら、俺はアンタを軽蔑しますよ! ティナは――チーフが助けにきてくれるって信じてるんだ!」
 ティナの顔が、ソプラノの声が、愛らしい笑顔がシエルの脳裏を駆け巡り、必死で抑えつけていた彼女への想いが溢れでた。フレンの拘束から逃れたシエルはオフィスを飛び出して、六階の会議室に突入した。乱入者に驚いたエリート刑事たちが一斉に振り返る。雑魚に用はない。ベリナス管理官を目指してシエルは一直線に突き進んだ。
「アルタイル警視」ベリナスが社交辞令のような笑顔を作った。「許可なく捜査本部に入ってくるとは――些か礼儀知らずではないかね?」
「礼儀知らずなのは、貴方のほうだと思いますが。単刀直入に言いましょう。アンバー刑事を、スキンハンターをおびき出すための囮にしたそうですね?」
「我々しか知らないはずの捜査情報をどうやって入手したのかは、あえて聞かないでおこうじゃないか。そうだ。それがなんだというのかね? 事件解決に貢献できるのだ。ありがたく――」
 ベリナスの台詞はそこで途切れた。渾身の力を込めたシエルの拳が、欲に塗れた彼の丸い顔を殴ったのが原因だからだ。椅子を巻き込んで転げ落ちたベリナスは、痛みに呻きながら起き上がると、鼻血を垂らした顔でシエルを睨みつけた。
「きっ――貴様! 吾輩を誰だと思っているんだ!」
「黙れ! アンバーは俺の部下だ! 貴様たちの道具じゃない! さっさと彼女の居場所を教えろ! さもないと、腐りきった脳味噌を銃でブチ抜くぞ!」
「止めろ! シエル!」
 銃を構えようとしたシエルの腕をエクリーが掴み、そのままシエルを羽交い締めにして会議室から引き摺り出した。エクリーの勇気ある行動が実行されていなければ、ベリナス管理官の頭には綺麗な穴が穿たれていただろう。エクリーに銃をもぎ取られたシエルは壁に押しつけられ、冷静になれと緑色の目に睨まれた。
「馬鹿な真似はよせ! 本部の管理官に逆らうなんて――クビになってもいいのか!?」
「ああ! 構わないさ! アンバーを救いだせるのなら、俺は死んだって構わない!」
「シエル――」
「……好きなんだ。彼女を――失いたくないんだ」
 鬱陶しい小娘と思っていたのに、いつの間にかティナが側にいることが当たり前になっていた。意識を向ければティナはシエルの側に佇んでいて、目が合うとはにかみながら見上げてくるのだ。シエルの心境にも数ミリの変化が現れていた。以前ほどティナの存在を疎ましく思うことが少なくなり、彼女の存在を肌で感じるたびに、心が安らぐような感覚を覚えるようになった。その感覚に戸惑ったシエルは幾度も逡巡し、やがてそれが「愛情」ということに気づいたのだった。もっと早く気づいていれば――。シエルは激しく後悔した。
 シエルを解放したエクリーは数枚の写真をポケットから取り出し、それを見るようにと促した。写真を受け取ったシエルは、一枚一枚に目を走らせる。玄関。リビング。トイレと浴室。なんの変哲もないマンションの一室が写された写真だ。最後の一枚を手に取ったシエルは、青い目を見開いて瞠目した。
 最後の一枚に写っていたのは寝室らしき部屋で、壁一面に無数の写真が貼り付けられていた。まるでモザイク画のようだ。ただの紙切れを見ただけで瞠目するわけがない。シエルを驚かせたのは、壁一面に貼られている写真に焼きついたものだった。
 無数の薄い紙に焼きついていたのは、オレンジ色の髪をした少女――ティナ・アンバーだった。様々な角度や場所で撮られているから、恐らく隠し撮りだろう。ほとんどの写真が濁った白い体液で汚されていた。大体想像はつく。ティナを眺めながら興奮して欲情した獣が射精したのだ。
「……エクリー、この写真は――」
「僕たちがサイモンの部屋を家宅捜索したとき、部屋の壁一面にアンバーさんを隠し撮りした写真が貼り付けられていたんだ。奴の次の狙いは彼女だったんだよ。アンバーさんを囮にすると管理官が言いだしたとき、僕は反対できなかった。一秒でも早くスキンハンターを逮捕して、ニューランドを平和な街に戻したかったんだ。――ごめん」
「君のせいじゃない。あのとき俺が彼女を一人にしたから、アンバーは――!」
「サイモンはヘイルウッド病院跡にいる。早くいくんだ。メシアの人たちには僕が伝えておくよ」
「すまない、エクリー」
 エクリーと別れたシエルは階段を駆け下りて、相棒のBMWが待機する駐車場へ走った。その道中もティナのことが頭から消えないままで、無意識のうちにティナの名前を何度も呟いていた。
 運転席へ飛び込んでシートベルトを締め、アクセルペダルを踏みこんだ。
 唸るマフラ。
 灰色のガスが空気に溶けて、青い地球を熱くする。
 従順に制限速度を守っている余裕はない。
 俺の進路を阻む奴は、片っ端から留置所にブチ込んでやる。
 待っていろ、ティナ。
 必ず、俺が助けてやる。


 刃渡り15センチはありそうなサバイバルナイフが、ティナのブラジャーを引き千切った。現れた素肌が冷気とぶつかって悲鳴を上げる。柔らかな曲線を描く膨らみを目にした男――マルコ・サイモンは嬉しそうに笑みを浮かべるとナイフをキャビネットの上に放置して、ティナの胸を両手で潰し始めた。湿った舌が薔薇色の頂きの周りを這い回る。涙を零しながらティナは喘ぎ声を上げた。ティナが気持ち良く感じていると誤解したのか、胸の周りを這い回る手の動きはさらに濃度を増した。
 片手を残して胸から離脱した手と舌が、下腹部を撫で回しながら少しずつ這い下りていく。合流した両手が、ティナの穿いているハーフパンツのファスナを外し始めた。戦慄がティナを襲う。サイモンはティナの処女を奪おうとしているのだ。ハーフパンツが膝下まで下ろされた。ティナの処女を守るのは薄っぺらいショーツだけだ。それも簡単に奪い去られるだろう。
 ティナの身体を愛撫していたサイモンは一旦その手を止め、自らのズボンのベルトを外し始めた。ベルトが床に墜落する。手はファスナへ。割れるファスナ。白いブリーフが顔を出す。持ち主の昂る興奮に共鳴して、白い布は膨張していた。
「さあ、ボクと君は一つになるんだ。ちょっとばかり痛いけど、すぐに気持ち良くなるよ」
 サイモンの手が内腿を撫でながら、ティナのショーツをずらしていった。太い指がショーツの奥に潜り込み、荒々しく動き回った。嫌らしい音が響き、獣が奥に侵入していく。人間の皮を被った獣に処女を捧げるなんて嫌だ。
「いっ――いやあっ! いやあああああぁっ!」
 ティナはあらん限りの声を振り絞り、虚空に向けて絶叫した。ティナの悲鳴に嗜虐心を刺激されたのか、サイモンの動きはさらに乱暴になった。ティナの心の奥でとても大事ななにかが砕け散り、ティナの意識は空気に溶けてしまった。意識を失ったティナを見下ろしたサイモンが、勝利を確信した笑みを浮かべた。
 サイモンが性行為の最終段階に入ろうとしたまさにそのとき、毛髪の薄くなった彼の後頭部に冷たい体温を宿した堅い物体が吸いついた。それがなにか確認するには振り返るしかない。首を回そうと数センチ動かすと、冷たい声が動くなと命令してきた。声は男のもの。恐らく、堅い物体の持ち主だろう。
「ニューランドヤードだ。彼女から離れろ。下衆野郎」
 黒い髪と暗い怒りに染まった切れ長の青い目。
 銃を構えた青年――シエル・アルタイルが立っていた。


 マルコの母親ヴィヴィアン・サイモンは、大天使ガブリエルのように美しく、リリスのように淫らな女だった。
 最愛の伴侶を事故で失い、若くして未亡人となった彼女は、幼い息子を育てるために汗水垂らして働いた。しかし苦労して獲得した仕事も長くは続かず、ヴィヴィアンは渡り鳥のように職を転々とした。決して嫌気が差したわけではない。若く美しい未亡人である彼女の肉体目当てに群がってくる男たちから逃げるためだったのだ。
 身体的にも精神的にも追い詰められたヴィヴィアンは、ついに破綻のときを迎えた。昼夜問わず家に男を連れ込むようになったのだ。溌剌とした青年。くたびれた中年。枯れ木みたいな老年。ときには女というものを知らない少年さえも連れてきた。もちろん無償で自らの肉体を提供するわけではない。彼女の肉体を堪能した男たちは、分厚い札束を置いて立ち去った。それは、ヴィヴィアンが必死で働いても手に入れられない額の金だった。
 白百合のように清楚だった彼女は次第に闇に染まっていった。ヴィヴィアンの堕落はさらに加速していった。幼いマルコが見ているにも関わらず自慰行為に耽り、男に跨って髪を振り乱しながら腰を振り、嬌声を上げるようになったのだ。純粋なマルコの目に映るその光景は、毒リンゴのように危険で毒々しく、同時に魅力的だった。
 子供から少年に成長したマルコは、母親と同じ道を歩くことを強制された。つまりヴィヴィアンは、息子にも身体を売って金を稼がせようと目論んだのである。マルコは逆らわなかった。彼にとってヴィヴィアンは絶対的な君主であり、崇高の対象だったからだ。
 ヴィヴィアンは自らの肉体を教科書にして、マルコに性行為の手ほどきをした。どこに触れたら女は喜ぶか。分身を挿入するタイミング。絶頂に達する前に引き抜いて女を焦れさせるテクニック。長い娼婦生活で培ってきた経験を、彼女は息子に叩きこんだ。
 マルコの愛撫にヴィヴィアンは喘ぐ。
 マルコの分身を押し込まれてヴィヴィアンは腰を振る。
 汗。
 涎。
 涙。
 同じ液体なのに、成分も粘度も違う液体が混じり合い、ヴィヴィアンの白い肌を濡らしていく。
 ああ! なんて美しいんだ!
 ママはボクだけを愛してくれる!
 ママはボクだけのモノだ!
 永遠に!


 今すぐにでも、この腐った男の脳味噌を撃ち抜きたい。
 苛烈な衝動を抑えながら、シエル・アルタイルはマルコ・サイモンに動くなと命令した。両手を上げて青ざめた顔になったサイモンが頷く。連続殺人犯といえども銃の恐ろしさには勝てないようだ。サイモンが身体の位置を動かした。彼の隙間から、目を開いたまま動かないティナの姿が現れた。
 青い目でティナを認識したシエルに、わずかな隙が生まれた。その一瞬の間隙を突いて、キャビネットの上のサバイバルナイフを掴んだサイモンがシエルに飛びかかった。肥満体形にはそぐわない俊敏な動きにシエルはコンクリートの床に叩きつけられ、殺人犯に組み敷かれてしまった。幸い右手は銃を手放していない。シエルが銃を突きつける前に、シルバーのナイフがシエルの喉に密着した。
「おっと。動かないほうがいいよ。喉が割れちゃうからねぇ」
 サイモンの顔が近づくと同時にシエルのシナプスが活性化して、記憶の中のワンシーンを引っ張り出した。古い記憶に急いで色を塗って鮮明にする。サンタ・ルチア駅。ティナと初めて会った場所だ。思い出した。こいつは、あのときの――。
「お前は、サンタ・ルチアで痴漢行為をしていた――!」
「そう。そうだよ。あのときの下衆野郎だよ。君がボクを見逃してくれたお陰で、ボクはコレクションを増やすことができたんだ。お礼を言わないとね。ありがとう」
「……礼を言われる覚えはない。今度こそ、お前を冷たい牢獄にブチこんでやる」
「ボクのママはね、毎日男とセックスしてたけど、ボクだけを愛してくれたんだ。こんなふうに――」
 シエルの喉にナイフを押し当てたまま、サイモンが手持ち無沙汰になっている片手を動かし、シエルの身体をなぞり始めた。頬、首筋、喉、胸、腹、下腹部。太腿の付け根に移動した手は内側に向かって動いていき、シエルの股間をまさぐり始めた。サイモンの手の動きは滑らかで、それの扱いに手慣れているような感じだった。手の動きは荒々しさを増していった。シエルの反応を楽しんでいるのだ。
 最悪だ。火炙りにされたほうがまだマシだった。一秒でも早くティナを救出するためには、拷問に耐えながらチャンスを待つしかないのだ。シエルは唇を噛み締め、身の毛もよだつような感触に耐え続けた。サイモンは恍惚とした表情を浮かべた。シエルと自分を重ねているのだ。
「刑事さんは綺麗な顔をしてるね。ママを思い出すなぁ。……でも、ママはいなくなったんだ。ボクは待った。何十年も。そして、ようやくママを見つけたんだ。まさか地下鉄の駅で暮らしていたなんて思いもよらなかったよ」
「……リナ・ジョーンズとエレナ・フィッシャーマンか。お前が誘拐して殺害したんだな」
「違う! ママはそんな名前じゃない! 誘拐じゃない! ボクたちが住んでいた家に戻っただけだ! そこでセックスをしたら、彼女が叫んでボクを罵ったんだ! ママはボクを罵らない! ボクが見つけたママは偽物だった! だから殺したんだよ! ボクは悪くない! 悪くない!」
「やはり、貴様は正真正銘の下衆野郎だな。私の部下を誘拐したんだ。タダではすまさないぞ」
「強がっちゃって。それに彼女とセックスできたのも、君が見逃してくれたお陰なんだよ? ねえ、本当は、君もヤってみたいんだろ?」
「……なんだと?」
「可愛くて、甘くて、最高に美味しかったなぁ。君の目の前で、もう一度、琥珀ちゃんとセックスしてあげるよ。彼女はボクのお気に入りだ。絶対に返さない。永遠にボクのものだ」
「サイモン! 貴様――!」
 ナイフで喉を抉られても構わない。この醜い獣を銃で撃ち抜いてやる。愛しい少女を救えるならば、喜んで我が命を捧げよう。覚悟を決めてシエルは身体を動かした。ケーキを切るように、ナイフが喉に食い込んだ。
「ほらぁ! ボクがもっと君のものを硬くしてあげるよ! それを琥珀ちゃんの中に押し込んじゃえ! ヤッちまえ! ヤッちまえ! ヤッちまえ! ヒャハハハハ!」
 涎を撒き散らしながらサイモンは絶叫した。サバイバルナイフを投げ捨てた彼は、自分のズボンの中に手を突っ込んで、醜い自慰行為に浸り始めた。シエルを拘束していた力が緩んだ。シエルは右手を振り上げて、サイモンのこめかみを銃身で殴りつけた。皮膚が裂けて血が飛び散り、シエルを組み敷いていた丸い身体が転げ落ちた。両腕を掴んで一気に捻じり上げる。甲高い悲鳴が苦痛を訴えた。太い手首同士を手錠で繋いで、シエルはサイモンを部屋の隅に蹴り飛ばした。
 理性を失ったサイモンは狂ったように笑い続けていた。奴はどうでもいい。一ミリでも逃げようと動いてみろ。容赦なく脳天に穴を開けてやるからな。ベッドに縛られているティナのところへ急ぐ。シエルはナイフを拾い上げて、彼女の手足を縛っているロープを切り裂いた。
 無残な姿にシエルは絶句した。ブラウスは破られて幼い胸の膨らみが露わになっていた。鬱血の跡が白い肌に刻まれていて、サイモンの貪欲な愛撫が窺い知れる。レースのショーツもメビウスの輪のように捻じれていて、透明な蜜が内腿を伝っていた。内部を掻き回されたせいだ。でも、破瓜の血じゃない。まだ清らかなままだ。なぜ俺は安心しているんだ? 彼女が――清らかなままだから?
「アンバー!」
 悩んでいるときではない。眠り姫を起こさなければ。シエルは華奢な肩を揺さぶって、彼女の名前を呼んだ。見開かれたままの蜂蜜色の目にかすかな光が差した。よかった。胸を撫で下ろしたシエルが彼女に触れようとしたとき、ティナの表情が一変した。
「いやっ……いやっ……いやああああぁっ! こないで! こないで! こないでえっ!」
 弾かれたように身を起こしたティナはベッドの端に蹲り、とまることのない悲鳴を上げ続けた。シエルが近づこうとすると、ティナはさらに身体を丸めて泣き叫んだ。もはやシエルとサイモンとの区別も分からなくなっていたのだ。
「アンバー! 私だ! アルタイルだ!」
「やだやだやだ! こないで! こないでええええぇっ!」
 シエルはベッドに飛び乗り、叫び続けるティナを強く抱き締めた。理性を失ったティナはシエルの腕の中でもがき、彼の腕に爪を立てて必死に逃げだそうとした。皮膚に走る熱い痛みをシエルは甘んじて受け止める。ティナが味わった恐怖と痛みに比べれば、こんな痛みなどなんとも思わない。
「……すまない……ティナ……すまない……」
 心が砕けたティナを抱き締めたシエルは、サイレンの音が聞こえてくるまで贖罪の言葉を呟き続けた。


 瞼は閉じているはずなのに、どうしてこんなに眩しいんだ。不思議に思ったティナは、静かに瞼を開いてみた。白い天井が光に照らされて、その相乗効果で眩しく感じていたのだ。ティナはベッドに寝かされていて、点滴のチューブが左腕に刺さっていた。ここは――どこだろう。些か混乱した思考で考えていると、部屋のドアがスライドして女性が入ってきた。目が合うと、彼女の顔は輝いた。
「ティナ! 目が覚めたのね!?」
「……母さん?」
 ティナを見下ろしていたのは、母親のレナ・アンバーだった。ティナよりも濃いオレンジの髪は嵐に襲われたように乱れていて、茶色の目は充血していた。ティナの記憶は不思議の国のように複雑になっていて、揺らめく陽炎のように曖昧になっていた。
「ここは……どこ? それに、どうして母さんがいるの? 仕事の時間じゃないの?」
「ここはニューランド市立病院よ。事件に巻き込まれて怪我をした貴女は……ここに搬送されたの」
「事件――」
 断片的だった記憶同士が結合して、戦慄の記憶が蘇った。
 連続レイプ殺人事件。スキンハンター。マルコ・サイモン。
 廃墟に拉致されたティナ。
 シモーヌ・ハイランドを逃がしたティナは、サイモンに発見された。
 そして――奴の毒牙に貫かれてしまったのだ。
 身体が震え、蜂蜜色の目に涙が溜まっていく。恐怖に引き裂かれそうになったティナを、レナが包み込んだ。
「大丈夫。大丈夫よ、ティナ。母さんが側にいるわ。貴女の傷が癒されるまで、ずっと側にいるから安心しなさい。仕事なんか辞めて、静かな町に引っ越しましょう。ね?」
「――ママ」
 これが母親の温もりなんだ。私を生んでくれた人の愛なんだ。レナの温もりが、這い上がってきた記憶を再び突き落とした。二度と浮上できない深海へ悪夢が沈んでいく。硬い靴音が響いた。ティナを放したレナが部屋の外に出ていった。面会客がきたのだろうか。誰だろう。見舞いに訪れたメシアのメンバーだろうか。
 ティナが推理していると、レナの怒号が壁を突き破って飛んできた。病人がいるのになにごとだ。ベッドから降りたティナは、部屋を出て廊下へ行った。ティナから数メートル離れた先で、レナと長身の青年が対峙していた。黒いスーツとコート。シエル・アルタイルだ。凪いでいたティナの心が俄かにざわめいた。
「娘は貴方に会いたくないと言っているの。帰ってちょうだい」
「それは承知のうえです。少しの時間だけで構いません。元気な姿を確認させてもらえませんか?」
「元気な姿――ですって?」レナの声が稲妻を帯びた。「ふざけたことを言わないで! 娘は――ティナは貴方のせいであんなに傷ついたのよ! あの子をあんな目に遭わせた張本人が会わせてくれですって!? 図々しいにもほどがあるわ!」
「レイプ犯を立件するにはお嬢さんの証言が必要なんです。数分で構いません。面会を許可してください」
 レナの怒りが頂点に達した。右手を振り上げた彼女は、空を貫く稲妻のような速さで掌を振り下ろし、シエルの頬を打った。渾身の力を込めた一撃に乾いた音が鳴り響く。ティナの安否を気遣う発言を期待していたのに、あくまでも職務を優先したシエルの発言に、レナの怒りが爆発したのだ。彼の頬は、夕焼け空よりも赤く染まっていた。
「ティナの上司のくせに! 部下の一人も守れないなんて最低な男ね! 帰ってちょうだい! 二度とティナに近づかないで!」
「ママ! 止めて!」
 レナの右手が二回目の攻撃態勢に入る。もう暴力行為は見たくない。廊下を駆けて、ティナは母親の腕を掴んだ。レナが理性を取り戻す。それでも茶色の目は激情を保ち続けている。獲物に飛びかかる直前の猛禽類のようだ。ティナとシエルの視線が交差した。凝固した熱く切ない想いがティナの胸を締めつける。先に目を逸らしたのはシエルだった。一礼したシエルは、背中を向けて立ち去った。
 廊下に残留するシエルの想い。
 やがてそれは、酸素の一部になってしまった。
 シエルは二度と、会いにこなかった。


 スキンハンター、ついに逮捕! 通行人たちは新聞の一面に目を奪われ、あるいは街頭テレビに映るニュース速報を食い入るように見上げていた。見たくないものは、どうして存在を主張するんだろう。フラッシュバックしそうな記憶と戦いながら、ティナはニューランドヤードに到着した。いつもは威嚇してくる青い竜も、今日は優しい目をしてティナを見つめている。
 ガラスのドアをくぐってロビィへ。市民の駆け込み寺である警察署は、休日の映画館みたいに混雑していた。足を踏み出すのを躊躇っていると、ティナに気づいた一人の警官がやってきた。さほど距離は離れていないのに、彼は息を切らしていた。受付のカウンタから離脱した、殺人課の刑事ヴェラだ。
「アンバー? そうか、退院したんだな。その……なんだ、元気そうじゃないか」
 言葉を選びながら、ヴェラは困ったように笑った。本当は少しも元気じゃないけれど、一応笑顔を返しておいた。いつもは小悪魔みたいに人をからかうくせに。小悪魔から天使に転職したのか。
「アルタイルに会いにきたんだな? 待ってな、すぐに呼んできてやるからよ。ロビィは人が多くて嫌だろ? 外で待っていたらどうだ?」
「そうします。ありがとうございます」
 少しだけ引き締まった身体を揺らしたヴェラが、エレベーターホールへ突進していった。彼の厚意を受けとったティナは警察署の外に出た。きっと、ティナが好奇の目に晒されないように配慮してくれたんだろう。彼女の身に降りかかった災厄は、署内に浸透しているはずだ。
 冬の空気を吸いながら待っているとドアが開き、暖房の効いた世界から青年が出てきた。ストライプ模様の青いシャツと黒一色のスーツ。青い目がティナを確認する。ダークブラウンの革靴を響かせて、青年が早足で歩いてきた。手を伸ばせば届きそうな距離で彼は停止した。端正な顔は、今にも泣きだしそうだった。
「……アンバー。無事に退院したんだな」
「……はい」
「シモーヌ・ハイランドは無事に保護された。今は病院にいてメンタルケアを受けている。家族とも再会できたようだ」
「――そうですか。よかった」
 会話のボールが飛んでいく。沈黙が先制点。ホームランが奪えない。ノーヒットノーラン。ストライクの連続。重苦しく窒息してしまいそうな沈黙が続く。二人は沈黙の海を泳ぐ深海魚だ。光を恐れて浮上できない哀れな魚。先に勇気をだすのはどっちだ? シエルがスラックスのポケットに両手を収納した。寒いんだな。コートも羽織っていないんだから当然だ。よっぽど急いでいたんだろう。そんなにティナに会いたかったのか。先にティナが勇気を出そう。レナと話し合って決めたことを伝えるのだ。
「……チーフ。お話があります」
「なんだ?」
「私――しばらくのあいだ休職したいんです。いろいろ考えたいんです。許可を……もらえますか?」
「メシアには戻ってくるのか?」
「それは……分かりません」
「辞める可能性もあるということだな?」
「……はい」
「――そうか、分かった。許可は出す。上に申請しておこう。ゆっくりと休むといい」
「……なかったっ」
「アンバー?」
「チーフにはあんな姿を見られたくなかった! 大好きなチーフに……見られたくなかったの! 大嫌いじゃない! 大好きなんです! アルタイルチーフのことが大好きなんです!」
 いつの間にかティナの涙腺は破裂していて、蜂蜜色の双眸からは大量の涙が溢れていた。涙の海に漂う視界に映ったのは呆然と立ち尽くすシエルの姿で、稲妻に撃たれたように硬直していた。シエルの手が伸ばされた。しかしその手はティナに触れることもなく、彼の脇に戻された。ティナの想いは拒絶されたのだ。
「私は――」
「……ごめんなさい。忘れてください。短い間でしたけど、お世話になりました」
 涙を拭いてターン。
 走り出す準備を整える。
 いつでもいいよ。両足は元気だ。
「アンバー! 待ってくれ!」
 シエルの切実な声を振り切って、ティナは地面を蹴った。
 振り返るな。
 振り向くな。
 前を向いて走り続けろ。
 腕を掴まれて引き戻されたら、貴方の胸の中で溶けてしまいそうだから。
 貴方は優雅に大空を飛ぶ漆黒の鷲。
 私は地を駆ける小さなウサギ。
 最初から、伸ばした手の中をすり抜けていく存在だと分かっていた。
 でも、大好きなんです。
 大好きだったんです。
 さよなら、シエル・アルタイル。
 さよなら、ニューランドヤード。
 さよなら、メシア。