聖なる夜の帳に包まれたニューランドでは、人々が処女から生まれた神の子の誕生日を祝福していた。常に緊張感で張りつめているニューランドヤードもクリスマスムード一色だった。ニューランドではクリスマスの事をナターレといい、パネットーネという甘いパンケーキを食べながら乾杯するのだ。どこの国でも行われている恒例行事だが、ニューランドに赤い服を着た白髭の老人――サンタクロースは橇に乗って舞い降りない。新教徒たちが異国の聖者であるサンタクロースをニューランドでも流行らせようとしたのだが、彼らの目論見は失敗に終わったからである。
 ニューランドヤードのロビィを彩るのは、雪だるまやサンタの装飾品たちだ。天井から吊り下げられた天使たちが金色の喇叭を吹いている。カウンタの前には巨大なクリスマスツリーが捧げられていた。ニューランドの家庭では、ツリーよりもプレゼピオと呼ばれるキリスト生誕を描いた模型が飾られることが多い。もちろんロビィの壁にはプレゼピオが堂々と飾られている。いろんな形式が混ざっていてもいいと思う。神様を祝福する気持ちは同じなのだから。
 サンタが配るプレゼントの代わりに、警官たちがお菓子を配っていた。スポンジの上に乗せたアーモンドをカラメルで固めて焼いたお菓子、クロカンテだ。お菓子目当てで訪れる人も多いせいか、長蛇の列ができあがっていた。知ってるか? クリスマスにニューランドヤードに行けば、甘いクロカンテが貰えるんだぞ。きっと、そんな類いの噂が街中に浸透しているに違いない。
 珍しいことに今日は早く帰っても構わないとティナはシエルから言われた。コーヒーを淹れろ。掃除をしろ。コピーを取ってこい。いつもは次から次へと雑用を押しつけてくるくせに、どういう風の吹き回しだ。明日はアクア・アルタが発生して、ニューランドが沈没するんじゃないかと思ってしまう。アクア・アルタとはニューランドをたびたび襲う高潮のことで、地盤沈下や気象現象などの要因によって引き起こされる。この高潮を防ぐために「プロジェクト・モーセ」という防潮計画が進行中だが、未だに具体的な解決策は導きだされていないのだ。
 ロビィに出たティナは、突然コートの裾を掴まれて引っ張られた。悪戯好きの妖精かと思って目線を下に転ずると、砂色の髪の女の子がティナのダッフルコートの袖を掴んで引いているではないか。なんだか物欲しそうな顔だ。おねだりしているのか。優しい取り調べをしようか。ティナは彼女と同じ目線の高さに屈みこんだ。
「どうしたの? 迷子になっちゃったの?」
「違うもん!」迷子という言葉に反応した少女が、頬を膨らませて抗議した。「わたしにもお菓子ちょうだい!」
「クロカンテ? えっと――」
 周囲を見回してみると、お菓子を配っていた警官たちはサンタクロースの代役を終え、それぞれの職務に戻り始めていた。つまりクロカンテは品切れというわけだ。女の子は期待に満ちた瞳でティナに視線を送っている。お菓子を貰えると確信しているみたいだけれど、残念な結果を伝えないといけない。
「ごめんね。お菓子、なくなっちゃったみたいなの」
「えっ――?」
 緑色の瞳が丸く見開かれた。希望を打ち砕かれた者の顔だ。絶望の色が滲みだす。女の子が泣こうとしている前兆だ。勘弁してほしい。ティナが泣かせたと周囲の人間に誤解されてしまうじゃないか。涙の量は充分。喉も涸れていない。涙腺はいつでも千切れます。少女が泣く準備を整えていく。誰でもいいから助けてほしい。ティナの祈りは天に届いた。
「ティナ? どうしたの?」
 透明な声が雨のように降り注いだ。振り返ると、ダークグレイのコートを羽織ったディアナが立っていた。エレベーターホールからやってきて、肩にバッグを提げていることから推理すると、ディアナも仕事を終えて帰宅するようだ。まさに救いの女神。ティナより年上の彼女なら、子供の扱いに慣れているかもしれない。ティナは事情を話すとディアナはティナの肩を叩き、子供の顔が見える位置に移動した。
「あら――サラじゃないの」
「ディアナお姉ちゃん?」
「え? お知り合い――ですか?」
「ええ、そうよ。パパはどうしたの? もしかして、一人できたの?」
 親しい雰囲気だ。まさかサラと呼ばれた少女はディアナの子供だろうか。でも、実の母親をお姉ちゃんと呼ぶ子供なんていないだろう。ティナはロビィを駆け回る慌ただしい足音に気づいた。クロカンテを略奪しに来た強盗か。ポルターガイストのように騒がしい靴音は、ティナたちのすぐ側で止まった。
「サラ! 捜したんだぞ!」
「パパ!」
 ティナを跳ね飛ばしたサラが、彼女を発見した男性に飛びつき、抱き合った二人はメリーゴーランドのように回り始めた。そんな二人の様子をディアナは微笑ましく眺めている。太陽を見上げるときに目を細めるような感じだ。遊戯を終えた男性が二人に気づいた。些か恥ずかしそうな顔だ。
「すみません。サラがご迷惑をかけたみたいで」男性の表情が驚きに変わる。彼は真っ直ぐにディアナを見ていた。「……君は、ディアナか?」
「久し振りね。レオンさん」
「ああ。本当に久し振りだな。とはいっても、何回か会ってるじゃないか」
「そうね。ごめんなさい」
 ティナを置き去りにしたディアナは、突如として現れた男性と微笑みを交わしていた。金平糖のような、柔らかくて甘い雰囲気だ。もしかして夫婦だろうか。いや、それは違うと思う。夫婦になる一歩手前みたいな感じだから恋人同士か。ティナは一人で戸惑っていた。
「紹介するわね。彼はレオン・アヴァロン。私の友人のお兄さん。レオンさん。彼女はティナ・アンバー。私と同じ特殊捜査課に所属する刑事よ」
「レオン・アヴァロンだ。よろしく」
「ティナ・アンバーです」
 ティナは快活に笑うレオンと握手を交わした。大きな手だ。シエルのような繊細さはないものの、活力に満ち溢れた温かい手だった。年齢は三十代前半といったところだろう。髪はダークグレイで、瞳はシエルやジャックと同じ青だ。シンプルなダークスーツを嫌味なくらい着こなしている。甘く整った顔には、痛々しい火傷の痕が残っていた。
「サラちゃんは、アヴァロンさんのお子さんですか?」
「レオンで結構だよ、お嬢さん。サラは――死んだ妹の娘なんだ」
 甘い雰囲気が瞬く間に溶けていった。悪いことを、尋ねてはいけないことを訊いてしまったのだ。この場にシエルがいれば、間違いなく愚か者と罵られているだろう。
「……すみません。余計なことを訊きました」
「いいんだ。気にしないでくれ。いつまでも過去を引き摺っていては、前に進めないからな」
 白い歯を見せたレオンが爽やかに笑い、重い空気を軽くした。ヒーローみたいな爽やかさだ。レオンが紡いだ言葉は、ディアナに向けられているような気がした。ディアナの表情に変化は現れない。ティナの思い違いか。
「ところで、ニューランドヤードに用があってきたの?」
「君に会いにきたんだよ。サラがどうしても君に会いたいと駄々をこねてね。仕事が終わったんだったら、これからディナーにでもいかないか? もちろん君がよければだが」
「構わないわよ。ティナも一緒にいかない?」
 唐突に話を振られてティナは驚いてしまった。嬉しい誘いだけれど、親密そうな二人の邪魔はしたくない。お邪魔虫は家の隅っこで縮こまっているべきだ。
「私は結構ですから。三人でゆっくり食事してきてください」
 ティナはディアナの誘いを丁寧に断った。去り際にティナの側にきたディアナは、気を遣わなくていいのよと小声で囁いて、レオンたちと出ていった。さすがは刑事。なんでもお見通しというわけか。さあ、温かい我が家に帰ろうか。レナが首を長くして待っているぞ。ガラスのドアを開けようとしたティナは、オフィスにマフラーを置き去りにして来たことに気がついた。マフラーなしでは大寒波に負けてしまう。ビデオのフィルムを巻き戻すように、ティナはきた道を戻った。
 ダークグリーンのボディに赤いチェック柄のマフラーは、ティナのデスクの上で拗ねたように丸まっていた。置き去りにされた悔しさと悲しさを体現しているのだ。ティナがマフラーを手に取ると同時に、奥のオフィスのドアが開いて、シエルが姿を見せた。ティナを認識した青い目がわずかに拡大した。空になったカップを右手に持っているから、コーヒーを補充するために出てきたのだろう。
「アンバー? 帰ったんじゃなかったのか?」
「チーフこそ。家に帰ってなかった――」
 シエルの端正な顔が強張った。ティナは慌てて言葉を飲み込んだ。しまった。失言だ。シエルの家族は十四年前に殺害されているんだった。だからシエルには、帰る家も――温かく出迎えてくれる家族もいないのだ。馬鹿で愚かな自分を小突きたい。聖夜をすごす人々は、皆が幸せなんだと思い込んでいた。沈黙が流れる。シエルを傷つけてしまった。彼が近づく気配を感じたが、怖くて顔を上げられなかった。
「……ごめんなさい。私、すごく馬鹿ですね」
「……馬鹿ではない。鬱陶しいから、いちいち謝るなといったはずだ」
「――でも」
 ティナは俯いた。顔を上げろと命令される。命令に従うと、聖夜の夜空に広がる紺碧の宇宙が広がっていた。揺れ動く虹彩の星と、感情の絵の具を混色しすぎて複雑になった色が見える。あのときクレモナで見た色だ。ティナの頬が薔薇色に染まる。胸の奥が燃えているように熱かった。
「お前の沈んだ顔は見たくない。いつものように……笑っていてほしいんだ」
 カップをデスクに置いたシエルは、身軽になった手を伸ばした。彼の指先がティナの頬に触れようとした刹那、その手は思い留まったかのように引っこめられた。ティナの正面から離脱したシエルは、仮眠をしていたコーヒーメイカーを叩き起こして、宵闇のように濃いコーヒーを作りはじめた。
 夢の中を漂っているような、曖昧でぼんやりとした意識でシエルの背中を見つめていると、小さな身体がティナの腰に体当たりしてきた。一瞬、背筋がありえない角度に曲がる。バランスを立て直して目線を下げると、ほんの数十分前に知り合った女の子がティナの服を掴んでいた。
「サラちゃん? どうしたの?」
「ティナお姉ちゃんも、一緒にご飯を食べにいこうよ!」
 短い台詞を伝えるためにわざわざ戻って来たのか。優しい天使だ。悲しいことに、デートの誘いは受けられない。
「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、お姉ちゃんはね、サラちゃんたちの邪魔をしたくないの」
「やだ! 一緒にきてくれるまで離さないから!」
 風船のように頬を膨らませたサラがティナのブラウスを握り締めた。ブラウスの表面を皺の波が駆け抜けていく。持てるかぎりの握力と、全身全霊の力が込められているのだ。こんな小さな身体のどこに、強大な力が秘められているのだろうか。ティナは困り果てた。無理矢理振りほどくわけにもいかないし、シエルに助けを求めても無駄に決まっているからだ。
「サラ!」
 耳に心地良い、張りのある低音の声が響き渡る。ロビィで出会ったレオン・アヴァロンが、サラが閉め忘れたドアから入ってきた。眉間の中央に眉根を寄せた彼は怒った表情を作っている。サラはレオンに無断でティナを追いかけてきたというわけか。ティナを盾にしたサラが後ろに回り込む。言葉の銃弾を回避しようと企んでいるのだ。
「突然いなくなったと思ったら――こんなところにいたのか。アンバーさんに迷惑をかけてはいけないぞ。さあ、いこう」
「やだ! いかないもん!」
 左右に首を振ったサラは小さな身体をますます縮こませ、ティナの背中に隠れてしまった。レオンの怒りが一段階進行する。実力行使にでる気だ。できるだけ穏便にことを済ませたい。どうすれば、小さな天使の機嫌を直すことができるのか。メシアのオフィスが甘いお菓子の家だったなら、すぐにサラはご機嫌になるだろう。状況を傍観していたシエルが近づいてきた。気配を察知したサラが顔を覗かせた。
「君は――サラ、だったな?」
「う……うん……」シエルに見下ろされたサラが震える。内臓を突かれると思っているのかもしれない。
「アンバーには、彼女の帰りを心待ちにしている大切な家族がいるんだ。彼女がいつまで経っても帰ってこないと、家で待っている大切な人は悲しみに沈んでしまう。サラ、君だって、大切な人が帰ってこないのは嫌だろう?」
「……いや」
「そう思うなら、アンバーを家に帰してやってほしい。ニューランドヤードにくれば、いつでも彼女に会える」
 ティナのブラウスを頑固に掴んで離さなかった小さな手が離脱した。シエルの説得がサラの心を動かしたのだ。ごめんなさい。ティナとレオンを見上げた少女が素直に謝罪する。叱り飛ばす気はないし、最初から許すつもりだったから、温かい微笑みと優しい手でサラを慰めた。シエルに視線を向けたレオンが一礼した。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして、申しわけありませんでした。えっと、お名前は――」
「特殊捜査課を統率するシエル・アルタイルです。敬語は結構ですよ、レオン・アヴァロンさん」
「え?」青い目が丸くなった。レオンが驚いている証拠だ。「どうして……俺の名前を?」
「貴方はニューランドヤードのヒーローですから。知らない人間はいないかと」
「ヒーローだなんて……大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃないもん! パパは怖い箱からたくさんの人を助けたヒーローよ!」 
 両手を広げたサラが誇らしげに胸を張り、まるで自分のことのように自慢する。しかし当のレオンは火傷の残る顔を暗く曇らせ、青色の目を伏せて小さく呟いた。
「いいや、俺はヒーローなんかじゃないよ。いちばん助けたかった人を、守りたかった人を死なせてしまったんだからな――」
 レオンの声は自らの犯した過ちを悔いるような陰鬱な声だった。暗くなり始めた空気を追い払うように、レオンは快活に微笑んだ。
「あの……ヒーローって? 失礼ですけど、そんなに凄い人なんですか?」
「知らない人間がいたな。アヴァロンさんは爆弾処理班に所属していた警官で、数え切れないほどの爆弾を解体してきたプロフェッショナルだ。確か――警視総監賞も貰っていましたよね?」
 レオンが頷いた。ヒーローだと賞賛されたというのに、彼は謙虚な姿勢を崩さなかった。しかし他人に敬語を使うシエルなんて珍しい。聞き込みのときにも敬語を使っているが、それはあくまで仕事だからだ。しかし今はプライベートで敬語を使っている。絶滅危惧種並みに珍しい。会話を終えたシエルがティナにアイコンタクトを送る。二人を送っていけ。青い目がそう言っていた。
 ロビィまでお送りしますと二人に告げたティナは高級ホテルのドアボーイに変身して、丁寧にドアを開けた。ふと、目の前の廊下に小さな箱が置かれていることに気づいた。サンタクロースが子供たちに配るような、綺麗にラッピングされた箱だ。誰かの忘れ物か。宛て名と住所が書かれたラベルが貼られているかもしれない。床から持ち上げようとティナは箱に近づいた。ラベルを発見。流麗な筆記体で、不気味な文言が書かれていた。
『Idioti che hanno gli occhi che hanno finito decomporsi. Io ti insegno quello che e' chiamato la vera arte(腐りきった目を持つ間抜けどもよ。お前たちに真の芸術というものを教えてやる)』
 箱の内側から時計の秒針が時間を刻む音に似た音が聞こえていた。危険だ。早く離脱しろ。ティナの全身の細胞が、冷たい指先で撫でられたように悲鳴を上げて必死に警告しているのだが、身体が脳の電気信号を無視していた。つまり動けないのだ。一刻も早く離脱しないといけないのに、どうして動いてくれないんだ。
「アンバー!」
 異変を察知したシエルが駆け寄り、ティナの腕を掴んで室内に引き戻した。刹那、白い閃光が空間を走り、廊下に置き去りにされていた箱が爆発した。衝撃。爆風。粉々になった物体が宙を舞う。何が起こったのか把握できないまま、ティナの精神は、現実とファンタジィの狭間を漂っていた。
 必死に懸命にティナを呼ぶ声が、現実から聞こえている。意識を取り戻した途端、ティナの全身に鈍い痛みが走った。身体を起こそうにも、なにかがティナの上に覆い被さっていて動けなかったのだ。痺れが残る瞼を開ける。開いた視界の先に驚きの光景が広がった。
 ティナの上に覆い被さっていたのはシエルだった。ベッドで抱き合う恋人のように、二人は床に倒れていたのだ。シエルの背中の上に瓦礫が陣取っていた。ドアや壁の破片が彼を押し潰そうと牙を剥いている。一滴の液体がティナの頬に落ちた。指で拭ってみると、緋色の液体が指先に付着した。これは血液だ。頭上を仰ぐ。見えるのは怜悧に整った青年の顔だ。シエルはわずかに顔を顰めていて、額から血が滴っている。シエルは、額に裂傷を負っていたのだ。
「チッ――チーフ!? やだ! 血が出て――!」
「……うるさい。犬みたいに喚くな」
「アンバーさん! アルタイルさん!」
 駆け寄ってきたレオンが瓦礫を払い除けた。背中を圧迫していた瓦礫がなくなった途端、シエルの身体が振り子のように揺れ動いた。貧血か。それとも脳震盪か。いちばん近くにいたティナがシエルを支え、レオンの補助で彼をソファの上に運ぶ。血は止まらない。一秒でも早く止血しなければ。
 救急セットがあることを祈りながら、ティナはキャビネットの引き出しを隅から隅まで捜索した。赤い十字架がマーキングされた白い箱を見つけた。シエルの隣に座って箱の蓋を開け、医療道具をソファの上に並べる。罵倒されるのを覚悟して、ティナは彼の黒髪を掻き上げた。怪我人はおとなしい。位置は左。眉の上に裂傷あり。長さは五センチ弱といったところか。傷は長いが深くはない。縫合の必要はなさそうだ。
「消毒しますね。沁みますけど……我慢してください」
「子供じゃないんだ。泣き叫ぶわけないだろう」
 消毒液を染み込ませたガーゼでシエルの額の傷口を拭う。眉間の皺が浮かんだ。やっぱり沁みるんじゃないか。清潔なガーゼで傷口を覆い、肌に優しい低刺激性のテープで固定した。応急処置は終了だ。箱の留め金を閉める。いつものように、ティナにありがとうの言葉は送られなかった。
「チーフ。私を……助けてくれたんですよね? ありがとうございます」
「……気にするな。それより、今の爆発はなんだ?」
「――爆弾による爆発だと思う」レオンが静かに言葉を紡いだ。「時限式爆弾。それに、極めて殺傷能力の高いパイプ爆弾だ。飛び散っている釘がその証拠だよ」
 パイプ爆弾とは数多く存在する爆弾の一種で、金属やプラスチック製のパイプの中に火薬を詰め、両端を固く密封して信管や時限発火装置で爆発させる爆弾のことだ。材料のパイプには、水道工事などに用いられる両端にネジの切られたパイプが用いられることが多いとされ、パイプを密閉することで内部の圧力を上げ、爆発の威力を上げるのだ。
 また、容器として使用されているパイプ自体が爆発によって破片となり、周囲に被害を与える。同様に破片効果を目的として、釘や細かな金属片を内部に詰め込むこともある。多くの場合パイプ爆弾は非合法に自家製造されるが、作成中に部品同士がぶつかり合って発生する微弱な火花が火薬に引火し、暴発してしまうことが多々あるという。
 オフィス中に散乱した瓦礫の一部には鋭く光る釘が突き刺さっていて、分厚い破片に深く食い込んでいる釘もあった。破裂した爆弾はかなりの威力だったに違いない。もしもあの釘が、瓦礫ではなくシエルの背中に突き刺さっていたら――。想像しただけで身震いしてしまう。静まりかえったオフィスに電話のベルが鳴り響いた。立ち上がったシエルが受話器を取った。怪我人なんだからおとなしくしてほしい。
「ニューランドヤード特殊捜査課メシアだ」
『火薬と釘の味は堪能したかい? 救世主諸君』


 忽然と唐突。マジシャンに指名された観客のようにサラが姿を消した。三人で豪華なディナーというプレゼントが気に入らなかったのだろうか。驚きと呆れと苦笑いの三重奏を奏でたレオンは、すぐに連れ戻してくるから待っていてくれとディアナに言い残し、ニューランドヤードに戻っていった。あまりの過保護ぶりに苦笑してしまう。無理もない。今は亡き最愛の妹が残した天使なのだから。
「よう、ディアナ。誰を待ってるんだ?」
 ハスキーヴォイスが真冬の空気に木霊した。風邪をひいたときのような声だ。ディアナがニューランドヤードの方向を見やると、スラックスのポケットに手を突っ込んだヴェラが歩いてくるところだった。ポケットが手袋の代わりというわけか。
「誰だっていいじゃない。貴方には関係ないと思うけど」
「冷たくするなよ。愛情の裏返しじゃないのか?」
「うるさいわよ」
「拗ねるなって。さっきロビィであいつを見たぜ。誰だったかな――思い出した。レオンだ。レオン・アヴァロン。懐かしいな。何年振りだ?」
「――五年振り」苦い記憶が蘇りそうで、思わず刺々しい口調になってしまった。まったく。ヴェラという男はどうしてこんなに無神経なんだ。
「……あれから、もう五年も経ったんだな」
 小さく呟いたヴェラの口調は、清らかな教会のような静けさを湛えていた。まるで、天国に旅立った死者を悼むような口調だった。そうだった。彼も五年前の事件に関わっていたんだ。ディアナと同じ悲しみを背負ったまま、いまだにそれを消去できずにいるのだ。ディアナは冷たい態度をとってしまった自分を戒めた。
「……ごめんなさい。貴方も苦しんでいるのよね」
「気にすんなよ。いちばんつらいのは……あんたとレオンだからな」
 笑ったヴェラがディアナの肩を叩く。泣き喚く子供の頭を、できるだけ優しく叩くような感じだった。ディアナに別れの台詞を送ったヴェラが立ち去る。家族、友人、恋人と年に一度のクリスマスを楽しむのだろう。大きな背中が夜の街に溶けこんでいった直後、ニューランドヤードが爆発した。
 正確に言えば、爆発したのはニューランドヤードの五階部分だった。漆黒の夜空に舞い散るガラスの破片。真紅の業火がスポットライトに照らされたスターのように、玻璃の欠片を輝かせる。落ちる瓦礫。表面を舐めるようにと燃えていた炎はやがて消え去った。俄かにディアナの周囲が騒がしくなる。警察官の本能に従った職員たちが戻ってきたのだ。そのなかには立ち去ったばかりのヴェラもいた。
 なにが起こったんだ。事故か事件かそれともテロか。蛙の大合唱が始まる。コーラスに紛れてディアナのポケットが振動した。誰かが電話をかけてきたのだ。携帯を開く。ディスプレイに表示されていたナンバは見たことがなかった。正体を知るには電話に出ないといけない。通話ボタンをプッシュして金色の髪を耳の上に掻き上げたディアナは、携帯を耳に当てた。
「……もしもし?」
『よお。五年振りだな、月の女神様。聖夜の花火は綺麗だったかい?』
「失礼だけど、どちら様? 相手を間違えているんじゃないかしら」
『オイオイ。つれないことを言うんじゃねぇよ。オレを忘れたとは言わせないぜ。アンタのダチを吹っ飛ばした男だよ』
「――まさか」五年前の記憶が現実に這い出てこようとしている。「アンタは――ピグマリオン?」
 ディアナが名前を思い出すと同時に、電話口の相手が嬉しそうな笑い声を奏でた。どうやら正解のようだ。不審な会話を聞いていたヴェラが側にきた。彼の存在を横目で確認して通話を続ける。
「アイツは逮捕されて、終身刑を食らって刑務所にブチ込まれたはずよ。冗談はやめてちょうだい」
『冗談じゃないさ。なぜなら刑務所で臭い飯を食っているのは偽者で、オレの身代わりに捕まった奴だからさ』
「なんですって? それは事実なの? じゃあ、アンタは――」
『善良な一般市民として、毎日を楽しく過ごしています。オレがアンタに電話したのは、一緒にゲームで遊んでほしいからさ』
「ゲーム?」
『オレはニューランドヤードの五階の廊下と特殊捜査課メシアのオフィスに、最高に強烈な爆弾を仕掛けた。タイムリミットは午前十二時。日付が変わった途端に爆弾は爆発する。オフィスには二人の男と二人の女がいるから、間違いなくそいつらはミンチになっちまうだろうな。ルールはいたってシンプルだ。爆弾が爆発する前にアンタがオレを見つける。それだけさ。オレは爆弾の停止スイッチを握ってアンタを待っているぜ』
「待ちなさい! 待って――!」
 ディアナの制止も空しく、通話は一方的に強制終了した。ディアナと犯人を結ぶ糸は簡単に切られてしまったのだ。履歴に刻まれたナンバにかけ直してみたが、電源が切られていますのアナウンスが虚しく聞こえるだけだった。冷静に思考を研ぎ澄まし、犯人との会話を再生する。奴の話が正しいとすると、メシアのオフィスにいるのは恐らく――。
「大丈夫か? 電話をかけてきた野郎は、まさか――奴か?」
「……ええ。アイツよ。イリスを殺したピグマリオンに間違いないわ。アイツはメシアに爆弾を仕掛けたって言っていた。四人の男女が人質よ。そのうちの二人は、ティナとアルタイルチーフだわ。ねえ、サラとレオンさんを見なかった?」
「サラは見ていないが、レオンなら見たぜ。エレベーターで上に上がっていった。サラを捜してたんじゃないか? ……って、オイ、まさか――!」
 ディアナは自分の顔面の血の気が一気に引いて行くのが分かった。ティナとシエルのほかに、二人の男女が爆弾が潜んでいるオフィスに閉じ込められている。レオンはサラを捜しにいったまま戻ってこない。とっくに帰還してもいい時間なのに。なんてことだ。世界が沈没するよりも、人類が絶滅するよりも、最悪な事態が起こってしまったのだ。
「最悪だわ。残りの二人は――レオンさんとサラよ」
「マジかよ――!」
「一刻も早くピグマリオンを捕まえないといけないわ。爆弾の停止スイッチはアイツが持っているの。タイムリミットは午前十二時。あと……五時間しかないわ。急がないと――」
 ヴェラが踵を返して走り去った。爆弾犯の復讐に怯えたのだろうか。タイヤが地面と摩擦を起こす音が鳴り響き、次いでブレーキ音が聞こえた。四つのリングが重なったエンブレムをボディに飾った、シルバーのアウディがディアナの目の前に停車した。運転席のウインドウが動き、ヴェラの顔が現れる。いつの間に車を調達してきたんだ。電光石火の如き早業だ。早く乗りな。ヴェラの目がディアナを促す。ディアナが助手席に飛び込むと同時に、アウディは聖夜で賑わうニューランドに突入していった。


 ヴェラの支配するアウディが、ニューランド市街を突き進んでいく。些か乱暴な操縦技術だが、緊急事態だからそんな文句は言ってられない。最初の目的地は偽者の爆弾魔が収監されているアルベロ刑務所だ。一人も脱獄できないように、海に囲まれたラグーナの一つであるムラーノ島に建設されているのだ。
 ニューランド本島とムラーノ島を結ぶ唯一の橋は厳重に警備されていた。何重にも張り巡らされた詰所を抜けて刑務所の敷地へ入る。近付く者を容赦なく串刺しにする有刺鉄線は、一見簡単に乗り越えられそうに見えるが、人間を即死させるには充分な電流が常に流れているのだ。刑務所の所長に詳細を話して、爆弾魔が閉じ込められている隔離棟に向かう許可を貰った。
 アルベロ刑務所の隔離棟に収監されているのは、残虐な罪を犯した咎人たちだ。無垢な少女たちをレイプした者。数十人の罪なき人間の命を奪った者。地獄に堕ちるに値する罪を背負った者たちを待っているのは灰色の死だ。輪廻転生することも許されず、未来永劫彼らは地獄の業火で焼かれ続けるのだ。
 ディアナとヴェラは、四方を鉄格子に囲まれた部屋に案内された。毒々しいオレンジ色の囚人服を着た一人の男がパイプ椅子に座っている。脇に控えているのは屈強な監主だ。男の目の中は泥のように濁っていて、手錠で拘束された腕には夥しい注射の跡が刻まれていた。薬物中毒の爆弾魔というわけか。同情はしない。さあ、事情聴取の時間だ。ディアナとヴェラは視線の定まらない男の正面に座った。
「久し振りね、ブレンダン・ピグマリオン。私と彼を覚えているかしら?」
 ディアナの質問に、男――ピグマリオンは頑なに沈黙を守っていた。無精髭に埋め尽くされた口が動いているが、なにを呟いているのかは不明だ。口を割らせるには、少々手荒な方法でいくしかない。ヴェラに合図を送る。頷きが返ってきた。次いで鈍い音が響き渡り、机が振動した。渾身の力を込めたヴェラが机を叩いたのだ。俯き加減で呪文を呟いていたピグマリオンが、ウサギのように身を震わせた。
「刺激的な出会いかたをしただろうが! 忘れたとは言わせないぜ!」
「オレ、オレは、ピグマリオン。芸術は爆発だ。芸術を分からない者には死を」
「ふざけないで! 私と彼の名前を言いなさい!」
「芸術は爆発だ。芸術を分からない者には死を」
 音楽をリピート再生するときのように、ピグマリオンは延々と同じ台詞を呟き続けていた。ディアナが有無を言わせない口調で問いつめても、ヴェラがドラム代わりに机を叩いても、爆弾魔は台本を暗記する役者のように同じ言葉を紡いでいた。膠着状態が続く。先に根を上げたのはディアナとヴェラだった。悔しいけれど、我慢強さと忍耐力は彼のほうが上のようだ。
「――駄目だ。この野郎、壊れたラジオみたいに同じことしか言わねぇぞ。まるで誰かに吹き込まれたみたいだな」
 何気ないヴェラの一言がディアナの細胞を刺激して、とある一つの可能性を浮かび上がらせた。
「もしかして――彼は本物のピグマリオンに、特定の台詞だけを言い続けるようにマインドコントロールされたんじゃないかしら」
「マジかよ。そんな器用なことができるのか?」
「重度の薬物中毒者を捜し出して、じっくりと洗脳したのかもしれないわね。私の考えが正しいのなら、彼の注射の跡も説明がつくわ」
「確かにありうるな。そもそも俺たちは本物のツラを拝んだことがないからな。ということは、やっぱりコイツはピグマリオンの身代わりってわけか。無駄な時間を食っちまったな」
 アルベロ刑務所から離脱した二人は、シルバーのアウディを飛ばしてニューランド本島に戻った。ディアナは腕時計に目を落とした。午後九時過ぎ。残り時間は三時間しか残されていない。ヴェラの言うとおり、貴重な時間を無駄にしてしまった。あと三時間でティナたちは無惨な姿になってしまうのだ。焦燥に駆られてはいけない。冷静な思考を保たなければ。捜査の原点に回帰しよう。犯人の痕跡を辿るんだ。
 ディアナは己の記憶に強く焼きついた、五年前の連続爆弾事件を思い出した。殺害されたのは七人。そのうちの三人は爆弾処理班に所属する警官で、あとの四人はいずれも莫大な財産を持つ資産家だった。惨たらしい事件現場には、薬物を打つときに使用する注射器と、恐らく覚醒剤が入っていたとされる小さなビニル袋が落ちていた。被害者が金庫に貯め込んでいた多額の現金と、貴金属や宝石類も忽然と姿を消していたことから、薬物中毒者の金目当ての犯行という結論に至ったのだ。
 当時事件の捜査員の一人であったディアナは、腑に落ちない点を多々感じていた。大麻、コカイン、マリファナを購入するための資金が欲しいのならば、爆弾が爆発するのを待たずに殺せばいいだけのことだし、そのほうが手っ取り早い。なぜ爆弾という手間と時間のかかる殺害方法を選んだのか。それに幻覚や幻聴に悩まされ続けながら精巧な爆弾を製作することができるのか。
 上司に進言しようとディアナが決意したとき、ニューランド全土を恐怖の渦に突き落としたブレンダン・ピグマリオンが自ら出頭して来た。くたびれたジャンパに穴だらけのジーンズを身にまとった彼は、夢遊病者のように頼りない足取りだった。
 当然のようにピグマリオンは即座に取調室に連行された。雷雨のような尋問。刑事たちの激しい詰問。芸術は爆発だ。芸術を分からない者には死を。爆弾魔は同じフレーズを延々と繰り返すだけだった。腕には注射の跡が刻まれていて、尿検査の結果ピグマリオンは重度の薬物中毒者だということが判明した。刑事さん、私はやっていません。そう抗議することもなく、ブレンダン・ピグマリオンは終身刑という重い罰を与えられたのだ。
「これからどうするんだ? あまり時間は残されていないぞ」
「もう一度、五年前の資料を調べてみないといけないわ。ニューランドヤードに戻ってちょうだい」
 ディアナとヴェラは爆破事件に巻き込まれたニューランドヤードに帰還した。黄色いテープの規制線が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。線の外側には、避難してきた警官たちが戸惑いの色を隠せずに立ち尽くしている。資料はニューランドヤードの地下だ。埋もれた宝物を取りにいくには警察署に入るしかない。
 ディアナとヴェラは「KEEP OUT」の文字がプリントされた黄色いテープに近づいた。数人の警官が猛禽類のように目を光らせ、近づく者を威嚇している。たとえ同じ警察官であっても特別扱いはしないぞ。俺たちは与えられた任務を遂行するんだ。融通の利かない頑固なオーラが漂っている。バッジを見せても拳銃を額に突きつけても、彼等を退かせることは不可能だろう。妙案も浮かばない。まさに完全な手詰まり状態だ。
 頭を抱えて悩んでいると、誰かの指がディアナの肩を叩いた。苛立ちを隠せないままディアナは振り返った。後ろにいたのはモルグの検死官ジャック・エイヴォンと、科学捜査班に所属するスペック・リードだった。ジャックは白い箱を抱えていた。もしかして――。ディアナとヴェラの胸に、淡い期待が湧き上がった。
「事情はだいたい分かってます。ティナとアルタイル主任が人質にとられてるんっスよね?」
「ええ。犯人はブレンダン・ピグマリオン。五年前にも爆破事件を起こしているわ」
「逃げる途中で持ってきました。五年前の爆破事件の資料です」
 敷地の片隅に移動した四人は、地面に座りこんで作戦会議を開いた。資料が箱から吐き出される。凄惨な現場の写真。被害者達のパーソナルデータ。証拠の鑑定結果。膨大な資料を手当たりしだい読み漁る。被害者の履歴に目を滑らせていたディアナは、とある共通点を発見した。
「――見つけたわ」ヴェラ、ジャックがディアナに視線を向けた。リードはパソコンと格闘中だ。「四人の被害者は、若き芸術家達の登竜門ニューランド芸術コンクールの審査員をやっていたみたいね」
「皆さん。これを見てください」
 リードの指がキーボードの鍵盤を凄い速度で叩いていった。超一流のピアニストも嫉妬してしまうだろう。フラットの画面に映し出された映像を三人は食い入るように見た。一枚の新聞記事がディスプレイに表示された。『ニューランド芸術コンクール開催中に、男が審査員に殴りかかった』と書いてある。2007年。つまり、爆弾事件が発生した年度だ。新聞の片隅を飾る暴行事件が発生したのは、事件が起こる数ヶ月前だった。
「男の名前は――ブレンダン・ピグマリオン。審査員の一人に作品を酷評された怒りから、殴りかかったようです」
 リードが読み上げた名前は、ニューランドを震撼させた爆弾魔と同じ名前だった。偶然じゃない。これは運命だ。正義の女神が罪から逃げ続けている男を逮捕しろ命令しているのだ。新しいタブを開いて情報を検索していたリードが、新たな証拠を発見した。
「動画投稿サイトに暴行事件の映像が投稿されています。見てください」
 ニューランドヤードの片隅にミニシアターができあがり、パソコンのスクリーンに少々刺激的な映画が上映された。悲鳴と怒号が、巣を荒らされた蜂のように宙を飛び交っている。画面が落ち着かないのは携帯で撮影したせいだろう。不規則に揺れ動く画面が、審査員らしき男性に殴りかかる男をレンズに捉えた。メッシュキャップに緑色のジャンパ。警備員に引き剥がされた男は獣のように狂っていた。
「このジャンパ――どこかで見たような気がするぞ」
 顎に手を添えたヴェラが気になる台詞をこぼした。
「思い出した。宅配業者の奴が着てるジャンパだ。名前は――ベル・テンポだ」
「宅配業者を装って、メシアに爆弾を仕掛けたってわけっスね」
「私とヴェラはベル・テンポに行ってみるわ。ジャックとリードは資料を読み直して、署内の防犯カメラの映像を調べてちょうだい。誰も入れない状態だけどうまくやって」
 ディアナが二人の若者に指示を出したとき、二回目の爆発が夜空に軌跡を描いた。最初の爆発よりも明らかに規模が大きい。五階の壁が吹き飛び、ガラスの破片や瓦礫の内容物が次々と吐き出される。爆風に引き千切られた「彼女」の姿がディアナの記憶から這い出してきた。「彼女」の残像がティナたちと重なる。理性の檻の中に閉じ込めた、焦燥と不安が脱獄しそうだ。ビルの中に飛び込んでティナたちの無事を確かめたい。もう一人の自分が叫んでいる。ディアナの意思とは裏腹に、彼女の両足は動き出していた。
「ディアナ! 馬鹿な真似はよせ!」
 ヴェラがディアナの腕を掴んだ。予想以上に強い力だ。ディアナを死なせたくないという強い思いが、彼の握力を倍増させているのだ。
「放して! もう――耐えられないの! これ以上、大切な人たちを失いたくないのよ!」
「俺だってそうだよ! でもよ、お前が飛び込んでいったら奴の思うつぼなんだよ! アルタイルとレオンがいるんだ! あの二人なら――必ずアンバーとサラを守ってくれる!」
 ヴェラの声と眼差しは、いつにもなく真剣だった。震える涙腺を引き締め、不安と焦燥を檻の中に閉じ込めたディアナは、毅然と前を見据えた。
 もう――あの時のように、逃げたりはしない。
 今度こそ、「彼女」の無念を晴らすんだ。
「いきましょう。あの豚野郎を逮捕するわよ」


 廊下に置き去りにされていた贈り物が爆発して爆風と衝撃に食い荒らされたメシアに、贈り物の主から挑戦状が送られた。挑戦状の主はブレンダン・ピグマリオン。五年前にニューランドを襲った連続爆破事件の犯人だと彼は名乗った。犯人は五年前に逮捕されていたが、ピグマリオンの話によると逮捕されたのは哀れな薬物中毒者で、彼が洗脳してスケープゴートに仕立てあげたらしい。
 ディアナに楽しいゲームを提案した。本物のピグマリオンは嬉しそうに自慢していた。ディアナはそれを受け入れたらしい。内容はこうだ。ニューランドヤードの五階の廊下に二つ。メシアのオフィスに一つ。合計三つの爆弾が仕掛けられていて、そのうちの一つはすでに爆発済みだという。恐らく廊下に置き去りにされていた箱のことで、シエルの額を切り裂いた奴だろう。残りは二つ。爆弾の停止スイッチはピグマリオンが大事に持っている。タイムリミットは午前十二時。日付が変更する前にディアナがピグマリオンを見つければ彼女の勝利。ディアナがピグマリオンを見つけるのに失敗したら、仕掛けられた爆弾が爆発して、ティナたちはミンチになってしまうというわけだ。
『メシアのチーフさんよ。そこにレオン・アヴァロンはいるのかい?』
「レオン・アヴァロン? どうだったかな――」
 シエルがサラを抱き締めるレオンに視線を向けた。代わろう。サラを放したレオンが進みでて、シエルから受話器を受け取った。
「……久し振りだな、ピグマリオン」
『だな。五年振りじゃないか? 相変わらず、妹の遺影の前でめそめそ泣いてるのかよ』
「イリスの前で涙を流すときは、お前を刑務所にブチ込むときだ。覚悟しておけ。必ずディアナがお前を捕まえにいくからな」
『せいぜい強がってな。あと数時間で、アンタらはオレの芸術の偉大さを知るんだからな』
 メシアと爆弾魔をつないでいた唯一の糸が切れ、レオンは静かに受話器を置いた。一つ一つの動作は静かで落ち着いていたものの、彼の横顔には隠そうとも隠しきれない激情が渦巻いていた。
 オフィスから逃げ出そうと思えば、いつでも好きなときに逃げられるかもしれなかったが、人間の動きを感知して起動するセンサー式爆弾かもしれないとレオンは忠告した。どのタイプの爆弾が仕掛けられているのかを知っているのはピグマリオンだけで、無知なティナたちはまったくと言っていいほどなにも知らないのだ。レオンの忠告に従い、翼の腱を切られた鳥のようにおとなしくしていたほうが身のためだろう。
 傲慢な爆弾魔の挑戦状を受け取ってから、二時間弱が経ったころだろうか。二回目の爆発がティナたちに貪欲な牙を剥いたのだ。幸い廊下に仕掛けられた二つ目の爆弾で、オフィスに立て篭もっていた四人に怪我はなかったが、一回目の爆発が可愛いと思えるほど盛大な爆発だった。過激になっている。犯行がエスカレートしている。二個の爆弾の規模の変化から予測すると、三個目の爆弾はメシアごとニューランドヤードを沈める威力を持っている可能性が高い。
 休める時に休んでおいたほうがいい。シエルの判断がくだった。黒いソファは爆発の余波で吹き飛んでいて、哀れな姿で床に転がっていた。邪魔な瓦礫を払い除け、ティナたちは冷えきった床に座りこんだ。ティナの傍らに傷を負ったシエルが座り、向かい側にレオンとサラが腰を下ろす。小さな女の子は蓄積した疲労に押し潰されて青ざめていた。
「サラちゃん、大丈夫?」
「……うん、平気。ディアナお姉ちゃんが頑張ってるんだもん。サラも頑張るんだ」
 サラが浮かべたのは、妖精のように儚い微笑みだった。サラは必死に折れそうな心を奮い立たせている。痛々しい姿にティナの心は痛んだ。こんな小さな子供を巻き込むなんて、ピグマリオンという奴は卑劣で最低な男だ。一発でもいいから殴ってやりたい。
「サラ」向かい側に座っているシエルがサラに話しかけた。「君に私の友達を紹介しよう」
「……アルタイルさんのお友達?」
「そうだ。ただし彼は恥ずかしがり屋だから、すぐに隠れたりするんだ。会ってみたいか?」
「うん。会ってみたい」
 シエルの右手がベストの胸ポケットに隠れ、次に現れたときには一枚のコインを指に挟んでいた。手首が回転して掌が閉じられる。開かれた右手には、握られているはずのコインが忽然と消えていた。
「あれ? コインさんはどこにいったの?」
「当ててみるといい」
 即席のマジックショーが開催された。漆黒のマジシャンに指名されたサラが、首を捻りながらコインの行方を推理する。
「ズボンのポケット!」
「残念」
 シエルがポケットを裏地ごとひっくり返す。中は空っぽだった。
「じゃあ、服の袖の中!」
「外れだ」
 青い袖を捲るシエル。白い腕しか見えない。
「全然分からない! どこにあるの?」
「正解はここだ」
 腰を上げたシエルがサラに近づいて、彼女が着ているコートのポケットを指し示した。乱暴な動作でサラはポケットを裏返した。煌めく円盤状の物体がサラの指に絡め取られて姿を見せた。サラの瞳が綺羅星の如く輝きを帯びる。青ざめていた頬に、薔薇色の赤みが差した。
「どうして? どうして、わたしのポケットに入っていたの?」
「君と友達になりたいからだと言っている。私はもう大人だ。彼を楽しませることはできないから、君が代わりに遊んでやってくれないか?」
「うん! よろしくね、コインさん」
 金色のコインを握り締めたサラが微笑んだ。もう一つ君にプレゼントがある。一言つけ加えたシエルは立ち上がると、爆発の影響を受けていないキャビネットに近づき、引き出しを開けて赤いリボンで彩られた小さな袋を取り出した。見覚えがある袋だ。ロビィで警官達が配っていたクロカンテの詰まった袋じゃないか。
「メリー・クリスマス。サラ」
 祝福の言葉を添えて、シエルがサラにプレゼントを手渡した。サラの顔が歪んでいく。歪みの先に待っているのは泣き顔だった。涙を堪えて鼻を啜ったサラが、ありがとうと伝えて精一杯の笑顔を作った。ティナの角度から見えるシエルの顔は、ほんのわずか微笑んでいた。子供が嫌いだと思っていたのに。彼は人を欺く天才だ。
「アルタイルさん」思案の海に沈んでいたレオンが陸の上に戻ってきた。「危険な提案があるんだが……聞いてもらえないか?」
「聞きましょう。言ってください」
「――ディアナの同僚の君たちの前でこんなことは言いたくないんだが、もしも彼女がピグマリオンを逮捕できなかった場合に備えて、行動を起こしておいたほうがいいと思うんだ」
「その行動が危険な提案になるんですね?」
「ああ。メシアに仕掛けられた爆弾を探しだして――解除するんだ」
「危険です! いつ爆発するか分からないんですよ!? ディアナさんを信じて待ちましょうよ!」
 煮えたぎる溶岩の中に裸でダイブするに近い提案にティナは叫んだ。
「それは承知のうえだ。ディアナが有能だということも知っている。だが、この状態が続けばサラの心の傷が増えていってしまう。俺はサラを守りたい。君たちも守りたい。五年前にできなかったことをしたいんだ」
「レオンさん――」
「そんな顔をしないでくれ。こう見えても、俺は爆弾処理班に所属していた警官なんだ。大丈夫だ。俺が一人でやる。アンバーさん、アルタイルさん。サラを頼むよ」
 サラをティナに託したレオンが立ち上がり、瓦礫やガラスの名残が散乱したオフィスの探索を開始した。発見しても大富豪になれない、爆弾という名の宝物を引き揚げる為である。シエルがレオンの捜索隊に参加した。しかし凶器は見つからない。残された時間が無慈悲に過ぎていく。
 少しでも役に立ちたい。周囲に視線を走らせていたティナは、広がる景色に違和感を感じた。小鬼の群れに引っ掻き回されたように物や瓦礫が散乱したオフィス。二回の爆発が発生したにも関わらず、それだけが綺麗な姿で佇んでいた。動いちゃ駄目よ。サラに指示を出して、ティナはそれに接近した。
 メシアの片隅の目立たない場所に、指名手配犯はさり気なく座っていた。オフィス全体を把握できる絶妙な位置取りだった。ホールケーキが入っていそうな大きさの小包で、差出人も宛て名も書かれていないラベルには、あの流麗な文字が書かれていた。間違いない。ティナは最後の爆弾を見つけたのだ。
「アンバー! なにをしているんだ! サラと隠れていろと言ったはずだ!」
 シエルとレオンが側にきた。シエルに腕を掴まれて、ティナは彼の背後に押し込められた。切れ長の目がティナを睨みながら見下ろす。掴まれた腕が痛い。まるでシエルの不安を表しているかのようだ。
「……ごめんなさい。私も手伝いたかったんです」
「ありがとう、お嬢さん。君の活躍で爆弾を見つけることができたよ」
 爽やかなレオンの笑顔が、ティナとシエルとの間に流れた不穏な空気を中和してくれた。二人を下がらせたレオンが小包に近づいて屈みこみ、慎重に包みを開封した。裸に剥かれた箱の中には、複雑に交差したパーツで構成された極めて精巧な爆弾が入っていた。ボディに埋め込まれたデジタルのタイマーが時間を刻んでいる。
「解除できそうですか?」
「……確率はフィフティ・フィフティといったところだ。なにせ、五年のブランクがあるからね。さあ、君たちはできるだけ離れた場所に避難してくれ。今からこいつを骨抜きにするからな」
 ティナはサラを連れて、爆弾から離れた場所の反対側の隅に移動した。多分ここで縮こまっていても、最後の爆弾が破裂すればオフィスにいる全員は命を落としてしまうだろう。数パーセントの奇跡なんか信じない。信じるのはディアナとレオンのみだ。避難しろと命令されたのに、シエルはその場に留まると爆弾の側に膝を突いた。
「アルタイルさん? 爆弾の解除は俺に任せて君も避難するんだ」
「それはできませんよ。ヒーローには相棒が必要でしょう? バットマンとロビンのように」
「……なるほど」レオンが笑みを零す。緊張がほぐれたようだ。「とするとバットマンは君で、俺がロビンかな?」
「バットマンはヒーローですよ。貴方がバットマンでしょう。どうして私が?」
「黒ずくめだからだよ」
 不意を突かれたようにシエルが瞬きをした。知恵の輪を解いたときのような達成感に満ち溢れた表情がシエルの面を覆う。メシアに配属されたティナが言った、「サン・ルチア駅のバットマン」という言葉の意味がようやく分かったのだろう。
 鈍い色に輝くシルバーのボディの爆弾にレオンは青い目を走らせた。爆弾の構造を確かめているのだ。ハーフサイズにカットされたパイプが繋がっていて、赤、白、黄色の三色のワイヤが血管のように絡み合っている。確認を終えたレオンが溜息を落とした。福音の溜息か。それとも災厄の溜息か。
「どうしました?」
「……こいつは五年前の爆弾とベースは同じだが、改良されているようなんだ。ピグマリオンも知恵をつけたというわけだ。フィフティ・フィフティが、7:3になりそうだよ。でも、俺は諦めないさ。さあ、始めよう」
「はい」
 手に汗握る解体作業が開始された。こんなことを考えたくはないけれど、もしも解除に失敗したら弄ばれた爆弾は怒り狂って爆発してしまうだろう。そのときはティナ自らの身体を盾にしてサラを守りたい。空気が張り詰めていく。静電気を帯びたように帯電している。大の大人が小さな爆弾に四苦八苦している光景は、緊迫した状況でなければ笑ってしまいそうだった。
「そのワイヤに触れないように、こっちのワイヤを切断してくれ」
「はい」
 シエルの握った鋏が、髪の毛のように細いワイヤを切断した。成功だ。爆発はなし。
「次はパイプを外そう。まずはパイプにつながっているワイヤを切ってくれ。一本ずつだ」
 癇癪を起こしてしまいそうな細かい作業が続いた。シエルは黙々とワイヤを切り離している。忍耐強い青年だ。パイプに絡まっていたワイヤがすべて引き剥がされた。レオンがパイプを引き抜いた。あの中に殺傷能力を高める釘が入っているのだろう。
「アヴァロンさん。スイッチがありますが――解除スイッチだと思いますか?」
 シエルが指差した先をレオンが覗き込んだ。切断されたワイヤの群れの奥深くに、丸いスイッチが嵌め込まれていた。自らの存在を強調するような鮮やかな赤色で、まるで僕を押してくださいと訴えているみたいだった。
「――いや」レオンが首を振る。額から流れた汗がシャツの上に染みを作った。「こいつはフェイクだ。誘惑に負けて押した途端、大爆発が起こるだろう。こっちが本物だ」
 レオンが指差した先には、赤と青のワイヤが整列していた。片方を切れば天使が微笑んで、片方を切れば死神と手をつなぐことになるのだ。デッド・オア・アライブ。生か死か。シンプルすぎる二択問題だ。思案の海へレオンが二回目のダイブをした。三人の命を守るために、に必死で正解を導き出そうとしているのだ。シエルのポケットが振動した。携帯電話が唸っている。携帯をスライドさせたシエルが通話を始めた。
「アルタイルだ」
『――私よ、ディアナよ。ブレンダン・ピグマリオンを見つけたわ』


「ブレンダン・ピグマリオン? ああ、あのクソ野郎か。真面目に働かないから、数日前にクビにしたよ。そしたらキレやがって、ウチのライトバンを盗んでいきやがったんだ」
 ベル・テンポ――直訳すると良い天気という意味の宅配店のオーナーは、店の名前には相応しくない苦々しい顔つきで、溜まりに溜まっていた愚痴を吐き出した。オーナーやスタッフが着ているジャンパは、ネットに投稿された動画に映っていた、本物のピグマリオンが着ていた服と同じ物だ。疑惑は確信へ変わった。七人の尊い命を奪っておきながら、奴は堂々と暮らしていたのだ。
「奴がいきそうな場所に心当たりは――」オーナーの表情は険しい。関わりたくないと言っている。「なさそうですね」
 ディアナの携帯が鳴り響いた。質問をヴェラに任せて、ディアナは携帯を耳に当てた。
「フローライトよ」
『リードです。防犯カメラの画像を解析した結果、メシアが襲われる数時間前にベル・テンポのジャンパを着た男が荷物を置いて出ていく様子が映っていました。ちょうど、フローライトさんたちが留守にしていた時間帯のようですね。爆弾を置いた奴はライトバンで逃走したようです』
「ほかになにか分かった?」
『もちのろんっスよ! 最高に素敵な情報が手に入りましたよ!』
『ジャック! 割り込まないでください! ……失礼しました。ピグマリオンが乗っていたライトバンには、盗難を防ぐためのGPS機能が備えつけられているんですよ。衛星交通システムにハッキングして――あ、怒らないでくださいね。奴の足跡を追跡しました。ピグマリオンはここにいます。現在奴は移動はしていません。地図をメールで送ります』
「ありがとう。助かったわ」
 電話を切って数秒後、リードからメールが送信されてきた。メールを開くと、赤いバツ印がマーキングされた地図の画像が添付されていた。尋問を終えたヴェラと一緒にディアナは画面を覗き込んだ。
「ここは――建設中のビルじゃないか?」ヴェラの指が液晶画面を叩く。「ニューランドヤードから西に数ブロック離れたところにあるぜ。望遠鏡を使えば、簡単に監視ができる距離だったはずだ」
「奴はそこからニューランドヤードを監視していたというわけね。急ぎましょう」
 ライトバンを取り返してくれよ。オーナーの切実な願いを聞きいれ、アウディに乗り込んだディアナとヴェラは、脇目も振らずに爆弾魔が巣食う根城に突撃した。建設途中のビルディングに到着した。あちこち継ぎはぎだらけで、思春期の少女のように繊細で脆い外観だ。ベル・テンポとマーキングされたライトバンを発見した。銃を構えて運転席を覗き込んだが、操縦士の姿はなかった。ビルのどこかに潜んでいるに違いない。
 銃を構えたまま慎重かつ迅速にビルを駆け上がる。階段が姿を消した。ビルの最上階に到達したのだ。窓も壁もない、鉄骨だけが剥き出しになっている空間だ。遮るもののない部屋を、十二月の冷気に染めあげられた風が通り過ぎていく。東の方角に男が座っていた。両脚を宙に投げだして、双眼鏡で遥か彼方を観察している。幽霊のように足音を消したディアナとヴェラは男の背後に接近した。緑色のジャンパにメッシュキャップ。ディアナの全身の細胞が一斉に騒ぎ始めた。
「ニューランドヤードよ。ブレンダン・ピグマリオンね?」
 振り返ろうと男が動く。動くな。言葉で伝える代わりに後頭部に銃を突きつけて、ディアナは男の動きを制限した。青白い横顔が不気味に微笑んだ。かくれんぼで子供を見つけた鬼みたいな笑顔だった。
「月の女神様と、オレを捕まえられなかった無能な刑事さんじゃないか。よくオレの居所が分かったな」
「ゲームオーバーだ。お前の負けだ。さっさとメシアに仕掛けた爆弾の解除スイッチを渡すんだ」
「ゲームオーバー、だって?」ピグマリオンの口元が三日月のように吊り上がった。「違うね。勝ったのはオレで、負けたのはアンタたちさ。解除スイッチなんてないのさ」
「――なんですって?」
「女神様のダチみたいにアイツらもグチャグチャに吹っ飛ぶのさ。ワクワクするなぁ。あと数十分でオレの偉大な芸術が、世界中の人間の目に触れるんだからよ」
「ふざけないで!」
 ピグマリオンの襟首を掴んだディアナは、そのまま彼を地面に引き倒した。メッシュキャップの仮面が剥がれ落ち、爆弾魔の顔を晒し者にした。薬物中毒者のように病んだ顔だ。いや、中毒者よりもひどい。上半身を起こしたピグマリオンにディアナは銃口を向けた。忘れようとしても忘れられない、五年前の憎しみと痛みが蘇った。


「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫よ。その台詞、今日で何回目? レオン兄さんが一緒だもの。大丈夫に決まってるじゃない」
 夕焼けを思わせる赤紫色の髪をヘルメットの中に押しこんだイリス・アヴァロンが快活に笑った。これからイリスは、彼女が所属している爆弾処理班のメンバーとともに爆弾魔が仕掛けた爆弾を解体しにいくのだ。爆弾を見つけた通報者の話によると、怪しい不審物はニューランド市立美術館のロビィに置き去りにされているらしい。
「心配だから何度も訊いているんじゃない。貴女にもしものことがあったら、サラちゃんは――」
「サラは強い子よ。私の血を受け継いでいるんだから。それに私は死なないわ。絶対にね。あの子を残して死ぬわけないじゃない。でも、もしものことが起こったとしても、ディアナがいるから平気よ。私が死んだら、サラを守ってちょうだい」
「馬鹿。縁起でもないことを言わないでよ」
 野次馬の群れを掻き分けて、ディアナとイリスは彫刻や絵画が展示されているロビィへ入った。芸術品を鑑賞していた人々はすでに避難済みだ。四人を殺害した犯人は芳醇な血の味を覚え、今度は数百人を吹き飛ばそうというのか。そんな残虐なことはさせない。阻止するのが警察官としての使命であり責務だ。
 磨き抜かれたロビィの床に鎮座している箱を見つけた。避難していないのは、美術館に捧げられた彫刻や絵画だけだ。ディアナたち刑事の役目はここまでだ。あとは爆弾処理班に任せるしかない。
 イリスの兄であるレオン・アヴァロンが率いる爆弾処理班が颯爽と現れて、ディアナの脇を歩いていった。アヴァロン兄妹がディアナの肩を叩く。不安が消えてくれたらいいのにと思ったが、ディアナの胸には暗い雲が垂れこめていた。
 円陣を組んだ処理チームが作業を開始した。無駄のない動きだ。的確なレオンの指示がチームを勝利に導いていく。さすがはレオン・アヴァロン。数々の爆弾を解体してきた腕前は伊達じゃない。勝利の女神はレオンたちに微笑もうとしている。でも、神様は気紛れだということを忘れていた。
 次の瞬間、ディアナの視界は真っ白な閃光に覆われていた。凄まじい音。嵐のような熱風。灼熱の炎が踊っている。空気が熱い。皮膚が溶けてしまいそうだ。閃光に覆われていた視界がクリアになる。目の前に凄惨な光景が広がった。
 なにが起こったの? 
 どうして彼らは倒れているの?
 抉れた大理石の床に倒れて動かない人間たちは、数秒前まで爆弾と格闘していた爆弾処理班のメンバーだった。四肢を引き千切られ、腹部が焼け爛れたイリスがその中にいた。白濁した瞳は虚空を仰ぎ、生命の光を失っている。ディアナの胃が震えた。苦い液体が喉を駆け上がってくる。屈みこんで胃の内容物を吐いたディアナの脇を、警官達が駆け抜けていった。
「生存者がいるぞ! 早く救急車を呼んでくれ! おい! しっかりしろ!」
「イリス……イリスは……? 妹は……無事なのか……?」
 瀕死のレオンが息も絶え絶えに、必死で声を絞り出して問いかけた。彼の右半身は無惨に焼け焦げていた。頑丈な防護服は役に立たなかったのだ。問いかけた答えを知る前に、レオンは意識を失った。彼にとっては幸運だったかもしれない。なぜならば、惨たらしい姿のイリスを見ずに済んだのだから。赤いサイレンの色がロビィをイルミネーションする。まるで真紅の星空に染まったプラネタリウムだ。レオンを乗せた救急車は、騒然とした現場から走り去った。
 去って行く救急車を目で追いかけていたディアナは目撃した。
 ざわめく野次馬の中に奴がいたのだ。
 アイツは笑っていた。
 死者の魂を捕まえた死神のように。


 過去から離脱したディアナは、銃口の先にいる男を見据えた。
 親友の命を奪った男。
 兄から妹を奪った男。
 そして、サラから母親を奪った男。
 引き金を引けば、過去を清算できるる。
 でも、そうすれば未来を失ってしまう。
 イリス、私はどうしたらいいの――?
 レオンの顔が蘇る。
 サラの顔が蘇る。
 そして、イリスの笑う顔。
 私って、馬鹿ね。
 引き金を引く前に成すべきことがあるじゃない。
「――爆弾を解除する方法を教えなさい」
「あ? なんだよ。オレを撃たないのか? ダチの仇が取れるチャンスじゃねぇかよ」
「黙りなさい。アンタだって、芸術とやらを拝む前に死にたくないでしょう?」
「……チッ。痛いところを突いてきやがるな。分かったよ。まずはメシアの奴に電話してみな。どうやら爆弾を解除しようとしてるみたいだからな」
 ピグマリオンに銃を吸いつけたままディアナは携帯を取り出し、シエルのナンバをプッシュした。コールが四回。相手が通話ボタンを押した。
『アルタイルだ』
「私よ、ディアナよ。ブレンダン・ピグマリオンを見つけたわ」
『本当か? 奴は爆弾の解除スイッチを持っているのか?』
「……いいえ。アイツは最初から爆弾を爆発させるつもりだったのよ。チーフ。爆弾を解除しようとしているって本当なの?」
『ああ。アヴァロンさんと作業を続けているが――今は手詰まり状態だ』
「手詰まり?」あの爆弾処理のプロフェッショナルであるレオンの手が止まっているというのか。「どういうこと?」
『赤と青の二本のワイヤがある。片方を切れば爆発して、片方を切れば私たちは助かる。どちらを切断すればいいのか思案中なんだ』
「――ピグマリオンに吐かせるわ。アルタイルチーフ。私を信じて待っていてくれる?」
『私はいつでも君を信じている。奴が吐いたらまた連絡してくれ。健闘を祈る』
 携帯を切ったディアナは、再びピグマリオンの方を向いた。額に食い込む銃口に怯えることもなく、罪から逃げ続けている爆弾魔はピエロのように笑っている。
「赤と青。どっちのワイヤを切ればいいか言いなさい」
「月の女神様よぉ。本当は引き金を引きたくてウズウズしてんだろ? 早くやれよ。あの世にいるダチが泣いて懇願してるぜ」
 引き金が数ミリ動いた。無意識なのか、それともディアナが自ら望んで動かしたのか。
「撃て。撃っちまえよ。オレを殺せば楽になれるんだぜ」
 不思議とディアナは興奮することもなく、思考を冷静状態に保ち続けていた。ピグマリオンの誘惑は鼓膜を通り抜け、虚しく宙に霧散していく。そう簡単に弾丸の味を堪能させてなるものか。ディアナは銃を下ろし、冴え渡る月の如く冷たく澄んだ緑色の目で奴を見下ろした。
「私は己の過去に囚われて、大切な人たちを見殺しにする馬鹿な人間じゃない。人を殺すために警察官になったわけじゃない。無念を抱いて死んでいった人たちの魂を救うためにメシアの一員になったのよ。早く答えを言いなさい。アンタの腐った芸術を粉々にブチ壊してやるわ」
「ざけんじゃねえよっ! どいつもこいつもオレの芸術をコケにしやがって! 色のセンスがない。造形が最悪だ。規則に反する作品だ。グダグダうるせぇからアイツらに芸術を味あわせてやったんだよ! 無から生み出されるのが芸術だ! ならよ、形あるモノが無に還るのも芸術だと思わないか!?」
 絶叫が響き渡った。ついにピグマリオンの獣の本性が目を覚ましたのだ。血走った目をぎらつかせ、ピグマリオンはディアナを睨みつけていた。
「――どうしてイリスを殺したの?」
「そんなの知らねぇよ。オレはあのクソみたいな美術館をブチ壊したかっただけさ。あの女も幸せじゃないのか? オレの作品の一部になったんだからな。正解は青だ。青を切りな。ほら、さっさと教えてやれよ」
 銃口の奥で待機している銃弾は、ピグマリオンの頭蓋に食い込みたいと懇願している。ごめんなさい。君のお願いは聞けないわ。奴の腐った体液で神聖な銃を汚したくない。引き金から指を離脱させる。安全装置をかけて銃をホルスターにしまいこみ、ディアナはシエルに二回目の電話をかけた。電話に応対したシエルの声には、わずかな疲れの色が滲んでいた。心身ともに限界に近づいているんだろう。
『奴は吐いたのか?』
「ええ。青を切れば助かると言っているわ。でも――」
『でも? 腑に落ちない点があるのか?』
「そういうわけじゃないの。うまく言えないけど、アイツの言うことを信じてもいいのかどうか分からないのよ」
『アヴァロンさんが君と話したいそうだ。代わってもいいか?』
「ええ」
『ディアナ? ピグマリオンを追い詰めたそうだな。よくやった』
「皆は無事? サラは?」
『アンバーさんたちもサラも元気だ。もちろん俺もね』
 張りのある低音の声がマイクの向こうに響いた。春風のように温かいその声は、ディアナの心を落ち着かせてくれた。
「ピグマリオンは青を切れと言っているの。奴を信じてもいいと思う?」
『――ディアナ。君はどう思っているんだ? 君の考えを聞かせてほしい』
「私は――」
『本能を信じるんだ。魂の声に耳を傾けろ。俺は君を信じているよ』
 レオンの言葉が全身を駆け巡る。
 精神を研ぎ澄ますと、今まで聞こえなかった、聞こうともしなかった魂の声が聞こえた。
 ティナとシエル、ヴェラにレオン、ジャックとリード、サラもイリスも私を信じてくれている。
 だから、信じよう。
 自分自身を。
「青はフェイクよ。赤を切って」
『了解』
 数秒。押し潰されそうな沈黙が続いた。鼓膜を揺るがすような爆発の音は聞こえない。沈黙は続いている。お願い。誰でもいいから電話に出てちょうだい。生きている証を聞かせてよ。
『……爆弾は止まったよ。解除成功だ』
「――よかった。本当に……よかった……」
『ありがとう、ディアナ。ニューランドヤードで待っているよ。君に話したいことがあるんだ』
「……すぐにいくわ」
 会話は静かに終了した。ニューランドヤードに舞い降りた災厄は追い払われたのだ。
「……どうして赤が正解だって分かったんだ?」
 ディアナの足下にいるピグマリオンが苦々しい言葉を吐き捨てた。理由は一つ。冥土の土産に教えてあげようか。ピグマリオンは太陽の光さえも届かない冷たい監獄に、埃だらけの骸に成り果てるまで閉じ込められるのだから。
「それは――アンタが蛇の舌を持つ、嘘つき野郎だからよ」


 過酷な任務を見事に遂行したディアナとヴェラは、威風堂々とニューランドヤードに帰還した。七人を殺害した本物の爆弾魔を引き渡し、ディアナはティナたちの無事な姿を捜した。慌ただしく走り回る警官たちの中に四人を見つけた。そのとき感じた安堵感は、言葉では言い表せなかった。
「ディアナお姉ちゃん!」
「サラ!」
 ディアナを発見したサラが走ってきた。跳躍。地面に落ちる影。飛んできた小さな身体を、ディアナは愛情を込めて受け止めた。可哀想に。お気に入りのコートが汚れているじゃないか。洋服なんてクリーニングに出せば元通りになる。でも、心はそう簡単に癒されない。たとえ悠久の時間がかかっても、世界が様変わりしてしまっても、私が貴女を癒してあげるから。
「ディアナ」
 声が流れてきたほうを辿ると、ジャケットを脱ぎ捨ててシャツとネクタイ姿になったレオンが立っていた。一張羅のスーツは老人のようにくたびれていた。爆弾と格闘した証拠だ。ティナとシエルもそこにいる。二本の足があるし、足下に影が浮かんでいる。生きている証拠だ。
「君はイリスの魂を救ってくれた。言葉では感謝しきれないよ」
「……そんなことない。私だけの力じゃないわ。ティナとチーフにヴェラ、ジャックとリード、レオンさんが――イリスの魂を救ったのよ」
 ディアナは頬を伝って流れていく液体の存在に気づいた。これは涙と名付けられた液体だ。人間が抱える怒りや悲しみ、喜びを共有してくれるのだ。そういえば、最後に泣いたのはいつだっただろうか。思い出せないくらい、ディアナが流した涙は年を取っていた。
 レオンがディアナを引き寄せて、優しく抱き締めた。広い胸は世界を覆い尽くす大海のようだ。白いヨットに乗って冒険してみたいと思った。レオンの両腕がディアナの背中に回される。右腕に残る火傷の跡が視界を横切った。イリスを失ったときに負ったものだ。
「――ずっと考えていたんだ。三人で未来を生きていけたら、どんなに素晴らしいだろうって。ディアナ。サラの母親になってくれないか? 俺は……君が好きなんだ」
 イリスと親友になって彼女から兄のレオンを紹介されたときから、ディアナは陽炎のような不確かで淡い想いを抱いていた。キャンディのように甘酸っぱく、サイダーのように泡を立てて弾けるそれは、誰もが一度は経験する「恋」だった。
 親友の兄だから。
 そんなよく分からない言い訳を続けて、ボーダーラインを越えることを躊躇っていた。
 彼がラインの向こうから手を伸ばしてくれている。
 手を握ってもいいの? 教えてよ、イリス。
 イリスが現世に戻っていた。彼女は綺麗な笑顔を浮かべていた。娘に受け継がれた遺伝子だ。
 手を取りなさいよとイリスが笑う。
 ディアナをラインの向こう側に導いて、イリスは静かに消えた。
「……私も、三人で未来を生きたい」
「……ありがとう、ディアナ」
 口づけの流星群が落ちてくる。
 ロマンティックな流れ星。
 瞳を閉じて、ディアナは星を受けとめた。


「散々なクリスマスでしたね」
 幸せに包まれたディアナたちの背中を見送ったティナは静かに呟いた。恋人と過ごすクリスマスか。羨ましいし憧れてしまう。いつかティナの前にも素敵な恋人が現れるだろうか。恋人が現れるのが先か、それとも人類が絶滅するのが先か。いったいどちらだろう。
「なぜディナーの誘いを断ったんだ?」
「チーフこそ。どうして断ったんですか?」
「質問に質問で返すんじゃない。私は彼らの邪魔をしたくなかっただけだ」
「私もです」
 ティナとシエルは顔を見合わせた。呼吸をするように自然と笑顔が浮かんで驚いた。まさかシエルと笑い合う瞬間が訪れるとは。神様も真っ青な顔をしているに違いない。シエルは落ち着かない様子だ。さっさとティナを追い払いたいのかもしれない。
「早く家に帰ったらどうだ? 家族が心配しているぞ」
「チーフはどうするんですか? その……独りは寂しいですよ。もしよかったら、私の家にきませんか?」
「孤独なクリスマスを十四回経験しているんだ。お前に心配されるほど落ちぶれてはいない。だが――」
「だが?」
「……たまには大勢で過ごすクリスマスも悪くはないな。お前の招待を受けてやる。ありがたく思え」
「はい。ありがたく思います」
 恩着せがましい傲慢な台詞も、聖夜の魔法のお陰で可愛く聞こえてしまう。
 緑と赤のマフラーを巻いて黒いコートをまとい、ティナとシエルは白い雪が降り始めたニューランドを歩く。
 お互いのあいだに芽生え始めた想いを、雪のように積もらせながら。