一羽の鳥が、青い色に染まった透明な翼を揺らしながら鳴いている。
しかし実際には澄んだ音色を奏でているだけで、僕が鳴いていると思いこんでいるだけだ。青い鳥の正体は透明なガラスでできたウインドチャイムで、顔も覚えていない両親が僕たちに残してくれた宝物だ。僕と彼女に危険が迫っていることを伝えるために、鳥は必死で鳴いていた。
僕と彼女を連れ去るために奴らがやってくる。廊下を歩いてくる足音がその証拠だ。僕は二段ベッドに駆け寄って、下段で眠っている彼女の肩を掴んで揺さぶった。しかし彼女は起きない。眠りの妖精に振りかけられた魔法の砂が、彼女の視神経の奥深くに潜り込んでいるのだろうか。それでも僕は諦めずに彼女の眠りを覚まそうと努力を続けた。
小さな溜息が聞こえ、白いシーツにくるまっていた身体が動く。彼女が目を覚ましてくれる予兆だと思いたい。予兆が現実に変わる。瞼が開いて大きな瞳が僕を映した。僕と同じ、青と緑のオッドアイ。同じ色に塗ろうとした神様が間違えてしまったのだ。
「……どうしたの?」目を擦りながら彼女が訊いた。
「あいつらがくるんだ」僕の言葉が彼女の周りに沈殿している眠りを追い払った。「すぐに逃げよう。ここにいたら、皆みたいに殺されてしまうよ」
彼女は黙り込んだ。お願いだから、ここに残るなんて言わないでほしい。彫像のように辛抱強く、僕は彼女の答えを待った。ベッドから離脱した彼女が僕の前に立つ。プロポーズを受け入れた恋人みたいに彼女は頷いた。
「分かったわ。一緒にいく」
僕たちがいる部屋は、ドアも窓も頑丈な鍵で封印されていて、外の世界に出ることは滅多に許されなかった。けれど僕は奴らの目を盗み、何度も頑丈な鍵と一騎打ちを繰り広げた。負けて悔しい思いをして経験を積んだ僕は、やっとの思いで鍵を解除できるようになった。つまりレベルアップしたわけだ。
見た目は華奢なくせに意外と逞しい細い針金を取り出した。鍵穴に侵入させて刺激すると、敏感な部分を刺激された鍵は、笑い転げて空中分解した。チェーンが外れて鍵が落ちる。僕は漆黒の枠に縁取られた窓を開けた。部屋に入ってくる真冬の風は冷たい。太陽が活動を停止しているせいだ。
ピッツァみたいに薄っぺらいコートを羽織って、僕は彼女と窓から飛び下りた。打撲と骨折と転落死の心配はない。なぜかって? 僕たちはネバーランドからやってきた妖精で、背中に羽があるからだ。それは冗談に決まっている。確かに二階の高さから飛び下りたのだから、ある程度の衝撃はあるだろう。でも僕たちが閉じ込められている建物はそんなに高くはないし、降り積もった雪が衝撃を和らげてくれると思ったから、僕たちは迷いなく飛び下りることができたのだ。
施設を脱出した僕たちは、真夜中の黒い森に逃げこんだ。コンパスと地図はない。だから方向感覚は皆無に等しい。僕はレンジャーでもボーイスカウトでもないから、生き抜くための知恵と技術は持っていない。ひたすら走った。ただひたすら真っ直ぐに。黒い木のシルエットが、僕たちを捕まえにきた大人たちの手に見えた。
吐き出された息が瞬く間に白く凍りついていく。まさに極寒の世界だ。肺腑まで凍りついているんじゃないかと錯覚してしまいそうだ。冷気が皮膚を突き刺した。針で刺されたような痛みだ。僕たちは青いテディベアの縫いぐるみにされてしまうのか。音が聞こえる。僕と彼女の足音とは違う第三の足音。それも複数だ。奴らに見つかってしまったのだ。
僕たちの痕跡を嗅ぎつけた奴らは、嫌な速度で距離を縮めてきた。懐中電灯のライトが頭上を掠めた。なにもしないから出てきなさい。嘘で塗り固められた甘い言葉が僕たちの足に絡みつく。騙されるな。あいつらはピエロのように嘘つきで、簡単に人を騙すんだ。
僕と彼女は少しずつ確実に追い詰められていった。逃げ道があることを信じながら、僕は藪を掻き分けて奥へと突き進んだ。でも今日の神様は意地悪だった。いや、神様はいつも意地悪だ。目の前に広がっていたのは、広大な湖だった。静まり返っていて、まるで時間が止まっているみたいだ。僕たちの後ろには悪魔が待ち構えている。逃げ場はない。真冬の湖を泳いで横断するなんて無理だ。もう――逃げられない。
僕の袖を彼女が引っ張った。同じ色の視線が絡み合う。逃げ道を断たれたというのに、彼女は絶望していなかった。彼女が送るテレパシィが僕に伝わった。僕は驚かなかった。なぜならば、僕も彼女と同じことを考えていたからだ。
つまり、彼女は僕と一緒に死んでくれる。
一緒に天国に飛んでくれる。
一緒に生まれ変わってくれる。
奴らの穢れた手に絡め取られる前に、純粋無垢なままでいよう。
真冬の湖が、僕達の時間を止めてくれる。
今までずっとそうしてきたように、僕は彼女と手をつないだ。
純度の高い透明な湖に、僕たちは小さな身体を沈めた。
一つが二つになって、僕たちは生まれた。
今度は、一つの命として来世に生まれよう。
約束だよ。
ベルガモットからニューランドヤードに帰還し、メシアのオフィスに戻ったティナたちを待っていたのは、複雑な色に染まった頭蓋骨だった。古びた本のページみたいな色で、相当の年月が経っているだろう。それにしても、頭蓋骨に出迎えられるなんて初体験だったけれど、現世に生きている人間――ジャック・エイヴォンも出迎えてくれた。彼は頭蓋骨を小脇に抱えていた。ホラー映画のワンシーンみたいな場面なのに、なぜかコミカルに見えてしまった。
「お疲れサマンサです。首を長〜くして待ってたんですよ」
「あの、その頭蓋骨……本物ですか?」
「もちろん! 正真正銘、人間の頭蓋骨っスよ。リアルだろ?」
頭蓋骨を見下ろしたジャックは屈託のない笑顔を浮かべた。彼からお墨付きを貰った頭蓋骨も笑っているように見える。ティナは引き攣った笑顔を返した。ジャックの頭の中を走っている神経を疑ってしまう。死体の相手ばかりしているせいで、協調性というネジが一本足りないんじゃないか。人とのコミュニケーションを学ぶべきだとティナは思った。
「それは事件の証拠か? ロゼラはどうした?」
本物の頭蓋骨を目の前にしても冷静沈着なシエルが、二つの質問をジャックに提示した。そういえばフレンの姿が見えない。連続失踪事件の捜査中だろうか。コメディからシリアスへとジャックの表情が変わった。いつにもなく真剣だ。
「これは連続失踪事件の捜査中に見つかった物です。今はまだ分かりませんが、多分、事件の証拠だと思います。フレンは……殺人課で事情聴取を受けています」
「殺人課だと? なぜロゼラが事情聴取を受けているんだ。わけが分からん。ロゼラを連れ戻してくる」
「わっ……私もいきます!」
シエルに一瞥されただけで、ティナの同行の申し出は拒否されなかった。メシアの隣にある殺人課へ急ぐ。ティナとシエルが室内に入ると同時に、殺人課に所属する刑事たちの視線が一斉に集まった。磁石同士が惹かれ合うような強烈な視線で、好意より敵意のほうが多いような気がする。顔馴染みを発見した。スーツをラフに着崩したヴェラだ。受付のカウンタの代わりに、自分専用のデスクに座っている。殺人課の刑事だったのか。
「アルタイル警視と新人さんじゃないか。殺人課に乗り込んでくるなんてどういうつもりだ? ベルガモットの連中なら、一匹残らず留置所にブチ込んだぜ」
「それはどうでもいい。ロゼラがここにいると聞いた。なぜ彼を取り調べているんだ?」
「それはだな――」
ヴェラの返事を待たずにシエルは取調室に突進していった。刑事たちの怒号と静止する声を完全にシャットダウンしている。ノックをせずにシエルはドアを開け放った。群青色の深海のような取調室だ。白い机に三つ子の椅子。マジックミラーになった鏡が壁に嵌め込まれている。二人の中年刑事と、青白い顔のフレンがいた。尋問の最中だったのだろう、言葉の切れ端が空気に溶けていった。フレンの正面に座っていた刑事が立ち上がった。刑事歴何十年の大ベテランのような雰囲気をまとっている。
「誰かと思えば……窓際部署のアルタイル警視さんじゃありませんか。事情聴取の最中なんでね。早急にお引き取りしていただきたいのですが」
「ロゼラは私の部下だ。私の許可もなしに取り調べをしているとはどういう了見だ?」
「窓際部署にお話しすることはありませんね。お引き取りを」
窓際窓際ってうるさいぞ。明らかにメシアを馬鹿にしている態度だ。ティナの内側で沸々と怒りが煮えたぎる。ティナとは真逆に、シエルは憎らしいほど落ち着いていた。ニューランドを覆い尽くす大寒波のようだ。一触即発の雰囲気が漂い始める。真っ赤な血が流れないことを祈ろう。
「アルタイルチーフ」囚われの姫君であるフレンが立ち上がった。「俺は大丈夫です。聴取が終わったら、メシアに戻りますから」
「その必要はない。メシアに戻るぞ。来い」
「えっ? でも――」
「おい! 勝手なことを言うな!」
戸惑うフレンの声と、机を叩いて立ち上がった刑事の怒りの声が重なった。
「今すぐにメシアに戻れ。これは命令だ」
凜としたシエルの声が取調室に反響した。刑事たちの苦情と反論は、いとも容易く弾かれてしまった。机を回り込んだフレンがティナの隣にやってきた。上司の命令には逆らえないと判断したのだ。二人の刑事は顔を真っ赤にして憤っている。怒るのも無理もない。せっかく捕まえた獲物を横取りされたのだから。完熟し過ぎたトマトが破裂しそうな感じで、スイッチが入ったら嵐の如く暴れだしそうだ。暴力を受ける前に離脱しよう。
「――アルタイル警視。このことは、上に報告させてもらいますよ」
覚悟しておけよ若造。必ずクビに追いこんでやるからな。鼻息荒い刑事の無言の脅迫が聞こえた。ドアノブに手をかけたシエルが肩越しに振り返る。黒い脅しに屈していない表情だ。ティナならば間違いなく震え上がり、泣きながら許しを請うてしまうだろう。シエルの心臓は鋼鉄でできているのかもしれない。
「どうぞご自由に。失礼する」
自らに向けられた脅迫を、シエルは華麗に受け流した。殺人課に囚われていた人質を奪還してメシアに戻ると、ディアナとジャックと頭蓋骨が待っていた。まだ持っていたなんて驚きだ。まさかペンスタンドにするつもりか。漆黒のコートを脱いだシエルがソファに座り、鋭い視線をフレンに向けた。座れという合図だ。フレンがソファに腰を下ろす。さっきよりは色が薄くなったものの、以前として蒼白な顔のままだった。
「私が言いたいことは分かっているな?」
「……はい」
「なぜ殺人課に呼ばれて事情聴取を受けていたんだ? 詳しく話せ」
弱々しく頷いたフレンが詳細を語り始めた。ティナとシエルがベルガモットに発つ数日前、ディアナとフレンはシエルから連続失踪事件の捜査を指示された。十歳前後の子供が行方不明になっているという事件で、七年前から未解決事件として放置されている案件だった。時間を遡って調べていくうちに、ある共通点を見つけることに成功した。
失踪した子供たちは、全員同じ場所に住んでいたのだ。事件の鍵を握る重大ななにかがあるに違いない。ディアナとフレンが調査に乗りだそうとした矢先、不思議の国のように入り組んだトラブルが舞いこんできたのだった。灰色の翼を広げて飛んできた災厄は、フレンの肩に降り立った。
トラブルの種を撒いたのはジャックだった。もちろん故意に撒き散らしたのではないということは百も承知だ。子供たちが住んでいた湖水地方で発見された頭蓋骨を分析していたジャックは、骨にわずかに残っていたDNAを発見して、面白半分でニューランドヤードに所属する警官たちのDNAデータベースと照らし合わせていた。するとフレンの遺伝子情報と一致してしまったのである。
完全には一致しなかったものの、ほとんど100%に近い適合率だった。真相を知りたかったジャックは、すぐにディアナとフレンに会いにいった。二人に事のあらましを伝えて真相を訊き出そうとしたときだ。ジャックが撒いたトラブルの種から芽吹いた新芽を刈り取るように、殺人課の刑事がやってきて、半ば強引にフレンを誘拐していったのだ。シエルの救難信号を受信したディアナは、ヴェラと応援を率いてベルガモットに向かい、ジャックはティナたちの帰還を待っていたというわけだ。
「頭蓋骨から採取されたDNAと、ロゼラのDNAが一致した? 信じがたい話だな」
「……すみません。俺にもよく分からないんです。父も母も生きているし――」
「アルタイル主任」隅っこで大人しくしていたジャックが手を上げた。「いいアイデアが浮かんだんですけど。聞いてもらえます?」
シエルが頷き、発言許可をジャックに与えた。デスクの置物と化した頭蓋骨を撫でながら、ジャックが口を開いた。
「複顔してみれば、なにか分かると思うんっスよ。科学捜査班に頼んでみたらどうですか?」
「そうか――その方法があったな」
ソファから離脱したシエルが受話器を取って、科学捜査班のラボにつながる内線番号をプッシュした。
「特殊捜査課のアルタイルだ。捜査中に発見された頭蓋骨の複顔を依頼したいのだが。……分かった、これからラボに持っていく。無理を言ってすまないな。感謝する」
電話と離れ離れになっていた受話器が元の位置に戻されて、通話を終えたシエルが振り向いた。眉間に皺はない。依頼は承諾されたようだ。シエルが出発の合図を出す。頭蓋骨のお土産を携えて、ティナたちは四階にある科学捜査班のラボに向かった。
初めて訪れた科学捜査班のラボは全面ガラス張りの世界で、ここが警察署ではなく水族館だと錯覚しそうになった。水槽の中を泳いでいるのは、白衣を着た二本足の魚たちだ。ラボを占拠している無数の機械は、思春期の子供よりも扱いが難しいだろう。スタッフの一人がティナたちを待っていた。上司から案内しろと命令されたのだろう。
「特殊捜査課のアルタイル主任ですね? 複顔を担当しますスペック・リードです」
ティーンエイジャーのスタッフが挨拶をした。前髪の長いショートカットはマットなアッシュブラウンだ。色が白いのは、ラボに籠っているせいだろう。頭蓋骨を受け取ったリードが観察を始める。わずか数分で、彼は頭蓋骨の正体を見破った。
「これは女性ですね。年齢はローティーン……恐らく十歳前後でしょう。では、彼女の顔を描いてみます」
リードは空いているデスクに腰掛けると、ブックスタンドからスケッチブックを引き抜いて左手に鉛筆を装備した。ナンバが書かれた白いボタンが、頭蓋骨の隅々にマーキングされていく。準備完了だ。さあ、複顔の時間が始まるぞ。
リードの左手が、肌荒れの画用紙の上を踊っていく。黒い芯がステップを踏んでその軌跡が線となり、瞬く間に似顔絵を完成させた。ロング、セミロング、ショート、ボブ。いろいろなパターンの髪型も添えられている。瞳の大きい、愛らしい顔立ちをした女の子だ。フレンがスケッチブックを受け取った。平面の中の少女を見つめていた彼の表情が凍りつき、死人のように青ざめた。
「フレンさん? その子に見覚えがあるんですか?」
「この子は――セレン・ロゼラ。俺の双子の妹だよ。でも、嘘だろ? セレンは……病気で死んだはずなのに――」
ティナたちを詰め込んだ漆黒のBMWはニューランドを離れて北に向かっていた。BMWのパイロットはシエルで、副操縦席に座っているのはフレンだ。ティナとディアナはファーストクラス。今回の目的地は、美しい湖が点在する湖水地方と呼ばれる場所だ。湖水地方の主な湖は北西のクレセントレイクに東のコモ湖、西のガルダ湖だ。北に山々を望み、湖畔には色鮮やかな花々が咲き誇るこれらの湖は、誰もが訪れるリゾート地だ。
「あの……フレンさん。セレンさんは、病気で亡くなったって言ってましたよね。じゃあ、どうして妹さんの骨が見つかったんですか?」
バックミラーに映るフレンが動く。閉じるオッドアイ。息を吐いた彼が話し始める。
「……セレンが病気で死んだことは義理の両親から聞いたことで、自分の目と耳で確かめたわけじゃないんだよ。ごめん。なにがなんだか分からないんだ……」
「義理の両親?」ディアナが会話に参加した。「実のご両親じゃないの? 初耳だわ」
「俺とセレンは幼い頃に両親を事故で亡くして、孤児院で育ったんだ。俺たち兄妹を引き取ってくれたのが、ロゼラ夫妻だったんだ」
「その孤児院はどこにあるんだ?」
「北西のクレモナです。名前は……サングイニ孤児院だったと思います」
カーナビの音声に従って、車はさらに北上していく。灰色の空の隙間を縫って街が見えて来る。空に溶け込みそうな色だ。ヴァイオリンの故郷として愛されている街クレモナだ。ヴァイオリンの製作技術は、18世紀にストラディヴァリによって頂点を迎え、街にはいまもヴァイオリン工房が点在し、職人たちが切磋琢磨しているのだ。
車はクレモナに到着した。白い石畳の道を車は走り抜ける。クレモナのシンボルであるトラッツォとドゥオモが車窓の外を流れていく。トラッツォは13世紀後半に建設された鐘楼で、487段の階段を上りきると素晴らしい眺望が見られるのだ。ドゥオモは12世紀から14世紀に建設された、ロマネスク・ロンバルディア様式の聖堂だ。アンテラーミ派の浮き彫りが施された柱廊式ポーチや、クレモナ派のフレスコ画が堂内を飾っている。名だたる観光名所だが、ティナたちは観光目的できたわけではないのだ。
コムーネ広場を北へ進むと、賑やかな街は遠ざかって寂しさを湛えた郊外が近づいてきた。深い緑色に染まった森に囲まれた建物が見えた。黒の鉄柵に守られた灰色の建物だ。ネームプレートの名前は剥げかけていて、かろうじて文字を認識できた。サングイニ孤児院。間違いない。ここが目的地だ。
ティナたちは車から降りて、自らの足で孤児院に近づいた。シエルが呼び鈴を鳴らす。中世の教会のような外観なのに、最新鋭の設備がついているのか。焦げ茶色の馬蹄型の扉がゆっくりと開き、人生を神に捧げたシスターが出てきた。鉄柵の数歩手前で彼女は立ち止った。
「ようこそ、サングイニ孤児院へ。失礼ですけど……どちら様ですか?」
「我々は、ニューランドヤード特殊捜査課に所属する刑事です。彼に見覚えはありませんか?」
フレンが前に進み出た。フレンとシスターの視線が絡み合う。警戒心で強張っていた彼女の表情が、雪が溶けるように崩れていった。鳶色の双眸が震えている。動揺しているのか。それとも涙を堪えているのか。
「ええ、知っています。貴方は……フレンね? こんなに大きくなって――」
「お久し振りです、シスター。いろいろと尋ねたいことがあるんです。構いませんか?」
頑なに閉ざされていた門が開く。許可が下りたのだ。敷地内はとても静かだった。中庭で遊んでいる子供はいない。ここは絶海の孤島で、シスターしかいないのだろうか。孤児院の中に入る。薄日が差し込む廊下を飾るのは、窓の形を切り取った七色のスペクトルだ。歩く廊下もドアの隙間から見える部屋も、とても質素なデザインだった。ここの神様は過度な装飾を嫌うようだ。
「随分と静かですね。子供たちはいないんですか?」
「午後の礼拝の時間ですので、子供たちは礼拝堂にいますよ。すぐに騒がしくなりますわ」
ティナが発した質問に、シスターは微笑みながら答えた。警戒心は完全に消え去っている。フレンのお陰だ。こちらへどうぞ。シスターが一つのドアを開けて中に入った。ほかの部屋よりも少しだけ立派だから、来客を迎える応接室だろう。暖炉とマントルピース。キャビネットにソファが四つ。テーブルを包むのは純白のテーブルクロスだ。テーブルを囲むソファにティナたちは座った。シスターの正面にフレン。右側にディアナ。左側にティナが座り、彼女の隣にシエルが腰を下ろした。
「自己紹介が遅れましたね。私はシスター・ベルと申します」
「特殊捜査課メシアのチーフ、シエル・アルタイルです。彼女たちはティナ・アンバーとディアナ・フローライト。彼がフレン・ロゼラです」
「メシアの皆様は、どのような用件でここにきたのですか?」
「我々は連続失踪事件を捜査していまして、その過程で失踪した子供たち全員がクレモナの出身だと分かったんです。発見された頭蓋骨を複顔した結果、とある人物が浮上してきたんです」
シエルがフレンに目配せした。合図を受け取ったフレンはポケットから折り畳まれた白い紙を引っ張り出し、紙をベルに手渡した。丁寧に紙を伸ばしたベルは、再び顔を強張らせた。そんな。まさか。五十年の時間が刻まれた手が口元を覆う。
「見覚えがあるんですね?」
「彼女は――セレンだわ。フレンの双子の妹です。ここで育ったもの。忘れるはずがありません。頭蓋骨を複顔したと仰っていましたよね? どういうことですか? あの子は病気で亡くなったとロゼラ夫妻から聞きましたが……」
「詳細はまだ分かりません。もう少し情報を集めてみますので、なにか分かったらまたお訪ねします」
応接間を出ると子供たちが廊下を駆け回っていた。神聖な午後の礼拝が終わったのだろう。絶海の孤島だと思っていた孤児院は、小さな天使たちで溢れかえっていた。教会の外まで見送ってくれたシスター・ベルと別れて車の所へ。置き去りにされたBMWは、真冬の冷気で冷たくなっていた。誰も一言も喋らない。それぞれが思案の海に沈んでいるのだ。
人生を全うした者は身体を清められて棺の中に身を横たえる。そして、牧師の聖なる言葉を子守唄に天国に旅立つのだ。短い生涯を終えたセレンも大地の底で眠っているはずだ。それならばなぜ、頭蓋骨が地上に放り投げられていたのだろうか。結論は一つ。彼女は病死じゃない。何者かの悪意が、幼い少女を毒牙にかけたのだ。
フレンに伝えたほうがいいだろうか。ティナを制止するように、しなやかな手が彼女の腕を掴んだ。黒い布地に覆われた手だ。振り返ると、シエルがティナを見ていた。シエルもティナと同じ結論に辿り着いたのだ。
「チーフ……」
「今はなにも話すな。確かな証拠もないんだ。分かったな?」
「……はい」
ティナが同意すると同時に、彼女の腕を拘束していた手が離脱して、シエルは運転席に戻った。ティナたちが乗り込むのを待っている。フレンの様子が気になったティナは、後部座席のドアを開けて視線を動かした。
北風が栗色の髪を弄ぶなか、フレンはサングイニ孤児院を眺めていた。
その横顔には、憂いの雪が降り積もっていた。
真実という名のパズルを完成させるには、世界中に散らばった証拠のピースが必要だ。ティナたちは二手に分かれて情報を集めることにした。ティナとシエル、ディアナとフレンといういつもの組み合わせだ。たまには違う組み合わせもいいんじゃないかと思ったが、ティナが意見を言うよりも早くシエルが彼女と組むと言い張ったので、いつもと同じペアになったというわけだ。どうやらシエルはティナを自分の目の届く範囲に置いて監視したいらしい。
ディアナたちと別れたティナとシエルは、クレモナ市街を歩き回った。BMWは駐車場で留守番だ。脚力を酷使したお陰で、ティナのメモ帳は細かい文字で埋まっていった。七年という長い歳月が経過しているにも関わらず、街の人々は事件のことを詳細に覚えていた。子供の連続失踪。それが印象に残っていたからだろう。純粋無垢な子供たちが相次いで姿を消したのだ。忘れようにも忘れられないと思う。
突然、雷が落ちる前兆に似た音が鳴り響いた。豪雨が降るのかと思い、ティナは空を仰いだ。予想に反して空は晴れている。二回目の雷鳴。地上に近い場所だ。その音の発生源はティナのお腹で、音の正体はお腹の虫が鳴る音だったのだ。先を歩いていたシエルが歩みを止めて肩越しに振り返る。靴音を響かせたシエルがティナの側へやってきた。馬鹿にしたような視線を覚悟したが、彼の視線はごく普通だった。
「ご……ごめんなさい」
「……そういえば、昼食を食べていなかったな。適当な店で食べよう。それでいいな?」
「はっ? はっ……はいっ!」
適当な店を見つけたシエルは、迷うことなく店内に入っていった。慌ててティナも追いかける。店員に案内されて、店の奥の席へ。観光名所が多い街だ。見晴らしのいい窓際がよかったけれど、聞かれては困る会話をする可能性もある。席に着地。太陽の光が嫌いなのか、シエルは影の中に陣取った。黒い服を着ているせいで影に溶け込みそうだ。
メニューを吟味したティナは注文をした。しばらく待つと、美味しそうな香りをまとったランチが運ばれてきた。ハーフサイズのカルツォーネと、白インゲン豆のトマト煮。乾燥した喉を潤してくれるのは、甘い甘いロイヤルミルクティーだ。豊穣の女神に感謝を述べて、フォークでカルツォーネに切り込みを入れる。熱に負けて溶けたなったチーズと、海の恵みの魚介類が転がり出した。早速チーズと具材の味を堪能しよう。美味しい。舌が蕩けそうだ。白インゲン豆のトマト煮もいい感じだ。弾けるようなインゲン豆の食感と、トマトの酸味と甘みが見事なハーモニィを奏でている。一気に詰めん込んだら胃袋が驚くぞ。ミルクティーを飲んで休憩しよう。
ティナの向かい側に座っているシエルは静かだった。ティナのメモ帳とニューランドヤードから連れてきた資料に目を落としている。真剣な表情だ。漆黒の鷲と畏怖されている青年が、蜂蜜を舐めている黄色の熊が描かれたメモ帳を手にしている姿は、どことなく滑稽に見えてしまう。ティナはシエルの正面に料理が設置されていないことに気づいた。置いてあるのは白い陶磁器のカップだけだ。そういえばブラックのコーヒーを注文していた。焦げ茶色の液体だけでは、胃袋は満たされないだろう。
「あの、チーフ。なにか食べたほうがいいんじゃないですか?」
メモ帳と資料の上に落ちていた青い目が上昇して、ティナの上で止まった。余計なお世話だ大馬鹿者。ティナは毒舌が炸裂するのを覚悟した。思案したシエルが片手を上げて店員を呼ぶ。なにか注文したらしい。料理が到着する。彼の毒舌は炸裂しなかった。肩透かしを食らった気分だ。
「……なんだ? その間抜け面は。私が食事をするのがそんなに珍しいのか?」
「いえっ! そんなことないです!」
シエルの機嫌を損ねてしまったら、このあとが大変だ。ティナは慌てて否定した。資料を片手に持ったシエルは、白身魚のマリネを食べ始めた。食事のときくらい仕事から遠ざかってもいいんじゃないか。結婚したら、家庭よりも仕事を優先するんだろう。フォークで切り分ける動作も、ナプキンで口元を拭う動作も、優雅で洗練されている。もしかしたら、上流階級の出身なのかもしれない。
「集めた情報をまとめるぞ。まずは失踪した子供たちのことだ」
「はい」記憶のフォルダを開いて、ティナは集めた情報を引っ張り出した。「行方不明になった子供たちはクレモナの出身で、全員がサングイニ孤児院で暮らしていました。つまり消えた子供たちは、皆孤児だったということですね」
「その通りだ。それともう一つ、気になる情報があったな」
「はい。シスター・ベルのことですね。彼女がある店を訪れるようになってから、子供たちが行方不明になっています。その店の名前はキエッリ。ヴァイオリンを専門に扱う楽器店です。地図によると……このお店からそう遠くないみたいです」
レジで代金を支払って外へ出る前に、ティナは代金の半分を払うと申し出たのだが、経費で落とすから気にするなとシエルに言われて引き下がった。栄養も補給したし、休憩もしたから脚は元気だ。ヴァイオリンのイラストが描かれた看板とキエッリの文字が見えてきた。見知った後ろ姿が店の前に佇んでいる。金髪の女性と栗色の髪の少年だ。
「ディアナさんにフレンさん?」ティナの声に反応した二人が振り向いた。
「アルタイルチーフにティナじゃない。貴女たちもこの店に聞きこみにきたの?」
「そうだ。お前たちもか?」
「はい。街の人が言ってました。シスター・ベルが定期的にキエッリに通うようになってから、なんだか羽振りが良くなったみたいなんです。崩れていた孤児院の壁が綺麗になっていたり、子供たちの服が新調されていたらしいんですよ」
「ますます怪しいな。いくぞ。店主に話を訊かねば」
シエルを先頭に据えたティナたちは、店のドアを開けて中に入った。来店を告げるベルが鳴り響く。柔らかなオレンジの照明で彩られた店内は、ヴァイオリンで埋め尽くされていた。どれも同じに見えるけれど、人類が一人ずつ個性を持つように、彼らは異なる音色を奏でるのだろう。ショーケースを整理していた男性がやってきた。名札にマスタの文字が刻まれている。どうやら、キエッリの店主のようだ。
「いらっしゃいませ。初心者のかたからプロのかたまで、どのような人でも扱える楽器を取り揃えていますよ」
「お勧めのヴァイオリンはありますか?」警察手帳を見せる前にシエルが質問する。警戒させないためだ。
「ええ。ございますよ。こちらが当店のお勧めです」
恭しい手つきでヴァイオリンがケースから取り出された。艶やかな焦げ茶色のボディは美しい曲線を描き、真っ直ぐに背筋を伸ばした弦が張られている。職人の音楽に対する情熱と思いが感じ取れた。
「よろしければ弾いてみてはいかかでしょうか?」
マスタの提案に応じたのはフレンだった。ヴァイオリンを受け取ったフレンは、左肩にヴァイオリンを乗せて顎で固定した。弓を右手に携えたフレンが、流麗に弓を弦の上に滑らせた。情緒溢れるメロディが奏でられていく。世界中で愛されている楽曲ブルーバード。幸福の青い鳥を捜す兄妹の物語をモチーフにした曲だ。
その場にいる誰もが素晴らしい旋律に耳を傾けた。作者が曲に込めた思いの全てを、フレンは見事に音色にしていた。心の琴線が震えている。終わらないでほしいという願いを尻目に、フレンの演奏は終幕した。拍手をするのが躊躇われる。美しい余韻を壊しそうな気がしたからだ。
「なんと素晴らしい……! 貴方はプロのかたですか?」
「まったくの素人ですよ。俺の職業は公務員なんです」
ヴァイオリンを返却したフレンが警察手帳を開いて見せた。紅潮していたマスタの顔が一気に青ざめる。ティナたちも同様に手帳を見せると、マスタはさらに青ざめてしまった。フレンと交代したシエルが進み出た。
「安心してください。お話を伺いに来ただけですのですぐに失礼します。我々が訊きたいのは、サングイニ孤児院のシスター・ベルのことです。七年ほど前から、こちらに通っていると耳に挟んだのですが……事実ですか?」
「は……はい。確かに、シスターとは七年前から親しくさせてもらっています。あの、それがなにか?」
「シスターはどんな目的でここを訪れたんですか? 定期的に訪れているとも聞いています」
「数人の子供たちに音楽を教えたいから、格安のヴァイオリンが欲しいと頼まれたので……売買しただけです。定期的に来店されているのは、当店のヴァイオリンを気にいってくださったようで、たびたびまとめ買いをしてくださるようになったんです」
「キエッリから孤児院まではかなりの距離があります。重い楽器を持って帰るのは一苦労しそうですね」
「依頼されれば宅配しています。お客様のご負担を、なるべく減らすように心掛けていますので」
「宅配を担当しているのは貴方ですか?」
「裏の工房で働いているスタッフが、バンで宅配しています」
「差し支えがなければですが……七年前の宅配記録をお借りしたい。構いませんか?」
これ以上怪しまれるのが嫌なのか、それともティナたちに早く出て行って欲しいのか、マスタはすぐに宅配記録の写しを持ってきた。工房で働くスタッフに事情聴取をしてもいいという付録も添えられてあった。ティナたちはキエッリを出た。マスタの安堵した表情が目に浮かぶ。シエルは宅配記録を調べながら歩いている。前を見ていないくせに、彼はありとあらゆる障害物を避け続けていた。なんという視野の広さ。ステルス戦闘機も発見できるんじゃないか。
「……つながったぞ」宅配記録から目を上げたシエルが呟いた。
「つながったって……なにがですか?」
「自分の目で確かめろ」
シエルは携えていた宅配記録をティナに押し付けた。説明するのが面倒臭いだけじゃないのか。少々不愉快に思いながら、ティナは記録に目を滑らせた。ディアナとフレンも彼女の肩越しに確認している。誰が先に気づくか競争だ。栄光の一番はティナだった。とある共通点を見つけたぞ。
「見つけたようだな」
「はい。シスターが注文したヴァイオリンの数と、行方不明になった子供の数が一致していますし、届け先の子供の名前とも一致しています」
「正解だ、アンバー。シスター・ベルとキエッリのマスタは、失踪事件の共犯だという可能性が高い」
「そんな――!」動揺を滲ませた柔らかい声が響く。顔を強張らせたフレンが二人を見ていた。「シスター・ベルは優しくていい人です! 彼女が失踪事件に加担しているなんて、俺には信じられませんよ!」
「これを見ても、彼女を信じられるのか?」
黒の手袋を嵌めた指が宅配記録の一点を指差した。フレンのオッドアイがシエルの指先に吸い込まれる。彼の顔が更に強張った。衝撃という金槌が、フレンの頭蓋骨を殴りつけたのだ。
指の先に書かれている文字。
それは――フレンとセレンの名前だった。
黄昏が降りると同時に今日の捜査は終了した。ティナたちはホテルに宿泊して身体を休めることにした。シエルがフレンの心身を配慮したのだ。腹が立つことが多いけれど、部下思いの上司なのだ。ベルガモットのときと違ってホテルは立派だし、部屋の数は星の数ほどあるから、ティナはシエルと相部屋になることはなかった。ティナは麗しい月の女神と相部屋だ。
シャワーを浴びて一日の疲れを洗い流す。浴室から部屋に戻って携帯電話を確認すると、メールの着信を知らせるランプが点灯していた。きっと母親からだと思う。ベッドに座って携帯を開く。ティナの推理は見事に的中した。母親の名前――レナの名前がディスプレイに表示されていた。早速受信ボックスを開いた。
『ティナ、元気にしてる? 連絡ありがとう。仕事とはいえ、最近外泊が多いんじゃないの? 同僚と上司の人は若い男性だと言っていたわね。貴女は年頃の可愛い女の子なんだから、彼らに襲われないように注意しなさい。男は狼なんだから、気をつけなさいよ? なにかあったら連絡してちょうだい。身体に気をつけてね。――レナ』
テロリストみたいに過激な文面にティナは驚いた。相変わらず心配性な母親だ。ティナが知るかぎりフレンはそんなことをする人ではないし、シエルからは「子供を襲う馬鹿はいない」と宣言されたのだ。襲われる確率は無いに等しい。でも、レナが娘を心配する気持ちは分かる。女手一つで育ててくれたのだから。さて、返事を返さないと。隣のベットで眠っているディアナの安らかな眠りの邪魔はしたくない。足音を忍ばせて、ティナは部屋を抜け出した。
外観は立派なくせに、電波の状態が物凄く悪い。携帯を翳しながら徘徊するが、電波の体調は回復しない。外なら電波が入るだろうと推測したティナは、ロビィを抜けてホテルの外に出た。澄み切ったミッドナイトブルーの夜空と真冬の星座がデートしている。電波が回復した。メール作成画面を起動しようとしたとき、寒空の下に佇むフレンを見つけた。黒のカーディガンを羽織っているだけで、分厚いジャケットは着ていない。声をかけようとしたティナよりも早く、フレンが彼女の存在に気づいた。
「やあ、ティナ」
「今晩は。昼間は驚きましたよ。プロのヴァイオリニストかと思っちゃいました」
「孤児院にいた頃から、シスターに教えてもらっていたからね。俺さ、実は――音楽家になりたいって思ってたんだ。セレンも音楽家になりたいって言ってたんだ。大きくなったら一緒に演奏しようって、いつも話してたんだよ。あのさ、ティナは……知っていたんだよね?」
「え?」
「セレンが病死じゃないってこと」
「……それは」星座を映したオッドアイがティナを見た。隠さなくていいんだよ。優しく促される。「……はい。気づいていました。多分、アルタイルチーフもディアナさんも知っていると思います。あの、黙っていて……ごめんなさい」
「いいんだ、謝らないで。俺を傷つけたくないから黙っていてくれたんだろ? ありがとう。実を言うと、俺も薄々気づいていたんだ。多分、セレンは殺されたんだって。それなのに、七年前の俺の記憶は曖昧で、ボンヤリしているんだ。でも、もう少しで何か思い出せそうなんだ。もう少しなのに――」
フレンの吐いた白い息が、宵闇の夜空に昇っていく。
ここではない、追憶の過去へ。
二日目の朝が世界を黄金色に染めていく。ティナたちは再びサングイニ孤児院を来訪していた。以前と違うのは、シスター・ベルが失踪事件に加担している可能性を秘めた証拠を携えていることだろう。扉を開けてティナたちを出迎えたのは、小さな天使たちだった。どうやらシスターは所用で出かけているらしい。愛らしい子供たちにせがまれたティナたちは、シスターが帰ってくるまでのあいだ彼らと遊ぶことにした。
ディアナは花壇でガーデニング。快活なフレンは中庭でヒーローごっこ。逃げ遅れたシエルは女の子に確保され、地面に敷かれたビニルシートの上でおままごとを強制させられている。お姉ちゃんも遊ぼうよ。シエルを捕まえた少女に呼ばれて、ティナもおままごとに参加することになった。
「お姉ちゃんとお兄ちゃんはママとパパ。あたしとこの子が姉妹で、あたしがお姉ちゃんだよ」
ママとパパということは、ティナとシエルは教会で婚姻の誓いを交わした夫婦だということだ。ほんの一瞬だったけれど、ティナはシエルの表情が強張ったのを目撃してしまった。嫌がっているのだろうか。結婚指輪も嵌めていないし、挙式だって挙げていないじゃないか。架空の設定なんだから少しくらい我慢したらどうなんだ。
「シスター・ベルがどこにいったか知っているか? 君の名前は――」
「マリーよ。この子はリル」
仕事熱心なシエルは幼い子供相手に取り調べを行う気だ。青いネズミの縫いぐるみの頭を撫でたマリーがシエルを見上げる。可愛い名前だな。シエルが微笑みをプレゼントすると、マリーの頬は夕焼けのように赤く染まった。さすがは絶世の美青年。幼女から老女まで秒殺できるというわけか。
「えっと……どこだったかなぁ。なんとかオリンを見にいくって言ってたよ」
「それって、ヴァイオリン?」
「うん! ヴァイオリンを見にいったの。ロンとユーリとキャシーにプレゼントするんだって。でも――」
「でも? どうしたの?」
「ロンたちがどこにもいないの。お部屋にも、礼拝堂にもいないの。皆でかくれんぼしてるのかなぁ」
マリーの言葉に、ティナとシエルの背筋は瞬く間に凍りついた。おままごとから離脱したシエルが、子供たちと遊んでいたディアナとフレンを呼び寄せた。その際マリーは不満そうに口を尖らせていたが、シエルの手が彼女の頭を優しく撫でると、一瞬にしてマリーは子犬のようにおとなしくなった。シエルの虜になった者がまた一人増えたようだ。近いうちにファンクラブが結成されるかもしれない。
「チーフ? いったいどうしたの?」
「三人の孤児院の子供が行方不明になっている。恐らく、失踪事件に巻き込まれたんだろう」
「――シスター・ベルが関わっていると思います」
ティナもシエルもディアナも思わぬ言葉に驚き、フレンに視線を向けた。真っ先に否定すると思っていたのに、フレンは恩師でもある彼女の関与を認めたのだ。寒風に晒されながら逡巡した結果か。行きましょう。フレンが決意と覚悟の意思を示した。
「キエッリに急行する。応援を要請している時間はない。私たちだけで突入するぞ」
ティナたちを乗せたBMWが急発進して、クレモナ市街に突撃する。トラッツォとドゥオモには興味が湧かない。目指すは楽器店のみだ。ブレーキ。停車する車。店内を確認するとマスタはいなかった。神隠しに遭ったのか。そういえば、裏に工房があると言っていた。キエッリの裏側へ回り込む。プレハブみたいな建物を発見。灰色の煙が煙突からはみ出ている。人がいる証拠だ。ドアをこじ開ける前に、ティナたちは聞き耳を立てた。言い争う声が壁の内側から飛んできた。男と女だ。
『子供を返せだって!? 今さらなにを言いやがるんだ!』
『お願いします! お金はお返ししますから! ロンたちを返してください!』
『返す気はないぜ。ガキどもの臓器は高く売れるんでね。俺たちと一緒に七年間も甘い汁を吸ってきたくせに、今さら善人面かよ。警察の奴がきてるんだ。アンタには死んでもらうとするか。俺たちの罪を背負ってな』
「ニューランドヤードだ! おとなしくしろ!」
ドアを蹴破ったシエルの咆哮が響き渡った。ナイフや鉄製の棒を握り締めた男たちが、シスター・ベルを包囲していた。シエルが銃口を向ける。一ミリでも動けば容赦なく撃ち殺すぞ。鋭い眼光が物語っている。男の群れが両手を上げ、マスタも同様に手を上げた。手放された凶器達が地面に落ち、やかましいメロディを奏でていく。恐ろしい牙から解放されたベルが崩れ落ち、駆け寄ったフレンが彼女を支えた。
「子供たちはどこだ?」
「はて……子供たちとは誰ですか?」
マスタに近づいたシエルが子供たちの所在を問いかけた。シエルを見上げた誘拐犯は、愛想の良さそうな笑顔で応対した。親切丁寧なキエッリの店主にシフトしようとしているのだ。親切丁寧な皮の下に隠された暗黒の顔は知られているぞ。髪の毛が薄くなったマスタの額に、鈍く光る銃口が吸いついた。
「もう一度だけ訊く。誘拐した子供たちはどこにいる?」
動く撃鉄。シエルの指が引き金と戯れる。そして絶対零度に凍りついた切れ長の双眸。炎の剣を携えたミカエルのように美しく、恐ろしい姿だ。マスタが痙攣を始めた。今にも失禁しそうだ。あの奥にいる。震える指が工房の奥を指し示した。指の先には、製作途中のヴァイオリンが詰め込まれた戸棚が佇んでいた。
犯人たちを手錠で拘束して戸棚に接近すると、何度も何度も棚を動かした痕跡が床に残っていた。シエルとフレンが戸棚を動かす。戸棚の背中に隠れていたのは、無数の鍵で縛られた頑丈な青銅色の扉だった。下がっていろ。シエルがティナたちに警告した。銃を構えた彼は南京錠に向けて発砲した。銃声が四回。漆黒のエースに撃墜された鍵が地面に墜落していく。重苦しい音を立てて、封印されていた扉が開いた。扉の向こうに広がる暗闇を貫くように、下り階段が伸びていた。
先頭をいくシエルに続き、ティナたちは階段を下りていった。老人のようにくたびれた薄い明かりが前方に浮かび上がった。手術室に似た部屋だ。執刀医を待つ患者の代わりに、三人の子供がベッドに横たわっている。恐らく、孤児院から連れ出されたロンとユーリとキャシーだろう。ティナは子供の一人に近づいて、手首の血管に指を添えた。指の下で鼓動が踊っていた。弱々しい音だが、規則正しく動いている。
「生きているのか?」
「はい! 皆、眠らされているだけです」
「チーフ。奥にドアがあるわ。まだ部屋があるみたいね」
ディアナが掲げた懐中電灯の明かりが部屋の奥を照らしだす。小さなスポットライトに照らされたのは、青銅色のドアだ。うるさい鍵はくっついていない。シエルがドアを開けると、暗闇の奥に二つ目の下り階段が広がっていた。薬品のような匂いが漂ってきて、鼻の奥を刺激する。
「私が様子を見てくる。お前たちはここで待機していろ」
右手に銃を装備したシエルが地下に下りていった。黒い背中が暗闇に溶けていく。一人で大丈夫だろうか。悪霊や悪魔に襲われませんように。数十分後、革靴の音が上ってきた。ライトの下に現れたシエルの端正な顔には、眉間の皺が刻まれていた。いったいなにを見たのだろう。
「ロゼラは私と一緒にきてくれ。アンバーとフローライトは子供たちを連れて戻るんだ。それと、クレモナの警察に連絡して応援を要請してくれ」
「了解」
「分かったわ」
「待ってください! 私もいきます!」
階段に足を乗せたシエルが振り向いた。驚きと呆れ、心配の色が混ざっている。
「私の指示に従うんだ。フローライトと一緒に戻れ」
「嫌です!」シエルの皺が深くなる。「私も警官です。少しでも、皆さんの役にたちたいんです!」
沈黙。蜂蜜色と群青色の視線が交差する。溜息。吐いたのはシエルだ。
「……分かった。同行を許可する。ただし、私の側を離れるな。フローライト。子供と応援要請を頼んだぞ」
「分かったわ。ティナ、気をつけるのよ」
「はい!」
シエルとフレンに前後を守られながら、ティナは階段を下りていった。光源はないに等しい。懐中電灯の明かりだけが頼りだ。階段が途切れる。最深部に到着したのだ。薬品のような匂いが濃度を増して、鼻腔の奥深くに突き刺さる。ライトに怯えた暗闇が左右に逃げていった。広がる景色がティナの視界に飛び込んだ。ニューランドヤードの地下に眠る資料室と似た構造の部屋で、左右に並ぶのは埃が蓄積したパイプラックだ。詰め込まれているのは資料じゃない。ジャムの瓶より大きい器だ。その瓶の中身は、甘いジャムではなかった。
目を見開いてティナは戦慄した。液体に浮かんでいるのは臓物だった。肺。内臓。肝臓。腎臓。大腸に小腸。そして心臓も。人間のパーツが液体の中に浮かんでいたのだ。瓶に詰められた臓器が一直線に並んだ光景は、まさに地獄絵図だった。ティナの胃袋が痙攣した。酸味のある液体が上がってくる。吐きそうだ。シエルの手がティナの腕を掴んで引き寄せた。ティナは彼の胸に優しく押しつけられ、青い布地が視界を遮った。これ以上、ティナに悪夢のような光景を見せないようにしているのだ。
「だからくるなと言ったんだ」
「……すみません。私――」
「謝る必要はない。もう少し、おとなしくしていろ」
「……はい」
ティナの頬の下の筋肉が波打った。シエルが息を吐いたのだ。シエルの呼吸のリズムを感じ取ると、不思議とティナの胃袋を揺さぶっていた吐き気が収まっていった。背中に添えられた手が勇気をくれる。もっと凄惨な現場があるかもしれないんだ。それに私は警官だ。メシアのメンバーだ。だから、死者の声に耳を傾けないといけない。離脱したティナはシエルを見上げた。今までに見たことがない感情が、青い海の中で揺れているような気がした。憐憫のような、愛情のような――そんな色だ。その色はすぐに塗り潰された。
「無理はするな。上に戻るか?」
「いえ、平気です。これは――行方不明になった子供たちものですよね?」
「ああ。瓶のラベルに名前が書いてある。資料に載っている名前と照合すれば、すぐに分かるだろう」
単独で部屋の奥を捜索していたフレンが戻ってきた。瓶の一つを手に持っている。まさか――。恐ろしく、嫌な結論がティナとシエルの脳裏に浮かぶ。瓶を抱き締めたフレンの顔色は真っ白だ。全身を駆け巡る血管を引き剥がされたみたいだった。
「フレンさん……まさか、それは――」
ライトが瓶の中身を照らしだす。
濁った液体の海に浮かんでいるのは、青と緑の瞳孔の眼球だった。
フレンと同じ遺伝子を持つ者のパーツ。
「……セレンの目だよ。ここに――閉じ込められていたんだ」
この世界に一人しかいなかった双子の妹、セレンの一部だったのだ。
小鳥たちが軽やかに歌う。木々でできた天蓋を見上げれば、そこには蒼穹の青空が笑っている。幻のような記憶の糸を辿って、フレンは孤児院の周囲に広がる森を散策していた。もちろんティナたちも一緒だ。大切な仲間だから、一緒に記憶の糸を手繰り寄せてほしいとフレンが頼んだからだ。
シスター・ベルとキエッリのマスタとその仲間たちは、クレモナ警察署で取り調べを受けている。失踪事件の首謀者はマスタで、孤児院の運営費に困っていたベルをうまくく誘いこんだらしい。ベルがどの子供を誘拐するのかを伝え、ヴァイオリンを宅配する振りをしたマスタの仲間が彼らを誘拐したというわけだ。失踪した子供たちは二度と戻ってこない。細かく解体されて、灼熱の業火で灰にされたからだ。
深淵に染まった緑の森を歩き続ける。森の妖精エルフと遭遇しそうだ。次第にフレンの記憶が鮮明になってきた。白い閃光が瞬く。フラッシュバックだ。浮かぶヴィジョン。小さな男の子と女の子が森を走っている。空は黒い。夜か。蘇る記憶に驚いた頭が頭痛を訴える。我慢してくれ。大事な記憶なんだ。
「フレンさん? 大丈夫ですか?」
「平気だよ。ありがとう。切れ切れだけど――記憶が戻ってきたみたいなんだ」
幻影の男の子と女の子が先を走っていく。フレンも後を追いかけた。森が途切れ、無色透明に染まった湖が現れた。夜空に浮かぶ三日月に憧れて、その姿を模倣した湖。地元の人々からクレセントレイクと呼ばれている場所だ。空気中に散っていた記憶が戻る。そして、フレンはすべてを思い出した。
「……思い出した。七年前のあの日――俺とセレンは孤児院から逃げだしたんだ。あいつらが俺とセレンを連れ去ろうとしていることを知ってしまったから。森に逃げ込んで、必死に走り続けた。でも、逃げきれなかったんだ。セレンと離れ離れになりたくなかった。だから、俺は――彼女と一緒にクレセントレイクに身を沈めたんだ。でも、俺だけが生き残ったんだ。馬鹿だよな、俺。一緒に死のうって言って、自分だけが助かるなんて――馬鹿みたいじゃん」
悲しみに押し潰されたフレンは草の上に崩れ落ちた。
残酷すぎる真実がフレンを責める。
半身を失った痛みが、こんなにも苦しいなんて。
七年間も忘れていたのか。
なぜ、
なんで、
どうして――。
許されるならば、今すぐにセレンのところにいきたい。
飛んでいきたい。
「馬鹿だなんて言わないでください。フレンさんが生きていなかったら、行方不明になった子供たちは永遠に見つからなかったんですよ? 下手をすれば、もっと犠牲者が増えていたかもしれません。セレンさんだって――」
「ティナの言うとおりだわ。どんなにつらいことでも、それには必ず意味が込められているの。子供たちとセレンの遺志が貴方を救った。彼らを見つけるために。私はそう思っているわ」
「ティナ……ディアナさん……」
「ロゼラ。お前は彷徨っていた彼らの魂を救った救世主だ。メシアの一員に相応しい行動をしたんだ。自分を責めるんじゃない。セレンの分まで生きるんだ。きっと、彼女もそう願っている」
「アルタイルチーフ……」
泣いちゃ駄目だと必死に言い聞かせていたのに、ティナたちの優しい台詞が涙腺を蹴飛ばして、溜まっていた涙を押し出した。涙を引き摺ったフレンは、シエルにしがみついて泣き叫んでしまった。
どうしてシエルにしがみついたかって?
だって、男性の俺が女性にしがみつくのは、あまりにもまずいじゃないか。
きっと、シエルは戸惑っていたと思うんだ。
戸惑う上司の顔を見たかったけれど、残念ながらそれはできなかった。
なぜなら俺は、情けない顔で泣いていたから。
シスター・ベルに一目会いたい。フレンの我儘を神様は叶えてくれた。少しの時間だったけれど、彼女と面会することを許されたからだ。どうせなら狭い取調室じゃなくて広い外がいい。二つ目の我儘も神様は叶えてくれた。懐の広い神様に感謝を。監視役の警察官に付き添われたシスター・ベルが、警察署から出てきた。近くもなく遠くもない微妙な距離で、彼女は立ち止まった。
「……フレン。私を許してとは言いません。でも、一言でいいの。謝らせてちょうだい。……ごめんなさい」
「……貴女を恨んでいるのかいないのかは、正直言って俺にもよく分からないんです。犯した罪を償って、俺やセレンみたいな子供を救ってあげてください。俺が言えるのは……それだけです」
「……ええ。約束するわ」
「シスター・ベル」立ち去ろうとしたベルの背中にシエルが呼びかけた。「クレセントレイクからロゼラ引き揚げたのは、貴女ですか?」
「……本当ですか? シスター」
「……セレンを助けることはできなかったけれど、貴方だけは死なせたくなかった。奴らに奪われる前に、ロゼラ夫妻に貴方を託したのよ。私は――せめてもの償いをしたかったんです。結局は罪を重ねてしまいましたが。フレン、これを受け取ってくれる?」
二人は距離を縮めた。ベルが握り締めていた両手の中に隠していた物を取り出した。幸福を呼び寄せる青い鳥をモチーフにしたウインドチャイムだった。フレンは息を呑んだ。顔も知らない両親がくれた、大切な宝物だったからだ。
「これは――もう、捨てられたんだと思ってた」
「捨てるわけありませんよ。貴方とセレンの宝物なんですから」
フレンは色の異なる目で、シスター・ベルを静かに見つめた。シスターの顔に浮かんだのは清廉な微笑みだ。時間がきた。警官がベルを連れていく。一礼したベルは、鳥籠の中に戻っていった。長い時間を旅しないと彼女には会えないだろう。それでもフレンは待ち続ける。きっと――。
「それで、お前はどうするんだ? メシアに残るのか? 妹の死に疑問を持っていたからメシアにきたんだろう? 疑問は解けたんだ。好きな道を歩くときがきたようだな」
メシアを――警察官を辞職して、幼い頃から夢見ていた音楽家に転身するのだろうか。辞めないでほしいと思うけれど、フレンの人生だ。ティナ達が口出しできることではない。フレンが笑った。夏空みたいに眩しくて、爽やかな笑顔だった。
「馬鹿言わないでください。辞めるわけないじゃないですか。俺はメシアが大好きです。メシアの皆が大好きです。死ぬまで居続けますよ」
ティナが笑い、ディアナも微笑む。シエルもほんのわずか微笑んでいた。
青い鳥のウインドチャイムが風の到来を告げる。
ガラスのように澄んだ音色が鼓膜に響く。
ありがとう、お兄ちゃん。大好きよ。
音色に混じって届いたソプラノの声に、フレンは返事を返す。
俺も大好きだよ、セレン。
いつかきっと、本物の青い鳥を捜しにいこう。
約束するよ。