真冬のニューランドに天使が舞い降りてきた。
 正確に言えば、彼は天使ではなく正真正銘の人間だ。その証拠に大空を舞う純白の翼は生えていないし、見る者をひれ伏させる神々しい後光もまとっていない。頭の上で回る金色の輪の代わりに、澄んだ真冬の空気に濾過されて青く染まった空が回っていた。
 天空から地上に落とされて戸惑っているのか、それとも初めて見る都会に驚いているのか、彼は周囲を見回していた。神の御許に帰る方法を探しているかのように。鋼鉄の都会は人とのつながりが希薄だ。助けてあげますよと親切に名乗り出る者は一人もなく、ただひたすら目的地のみを目指して、旅人たちは通り過ぎていった。誰かが助けてくれるだろうと思っているのだ。
「あの……どうしたんですか?」
 見るに見かねたティナは、哀れな迷い子に声をかけた。通行人の背中を見送っていた迷い人が振り返る。通行人が彼を敬遠する理由が分かったような気がする。聖歌隊に所属している者が羽織っているような純白のケープに、ケープとお揃いのベレー帽。金糸で刺繍された十字架がワンポイントとなっている。ブラックオニキスの珠で彩られたシルバーのロザリオが、華奢な首から提げられていた。ファッションセンスをどこかに置き忘れてきたような、そんな恰好だった。
「実は……ニューランドヤードに行く道が分からなくて困り果てているんです。周りの人に道を訊こうとしても、皆、僕を避けているようで――」
 浮世離れした格好をしているのだから当然だろう。怪しい宗教団体の勧誘だと思われているのかもしれない。ティッシュ配りの人だって、もう少しまともな格好をしている。困った人を見かけたら助けなさいと亡き父に教えられたことを実行する絶好の機会だ。情けは人のためにならず。もちろん見返りは望んでいないけれど。それに、ニューランドヤードはティナの職場だ。
「私もこれからニューランドヤードにいくんです。よかったら、一緒にいきませんか?」
「あっ――ありがとうございます! 是非、お願いします」
 神よ、感謝します。十字を切った彼が神に感謝の言葉を捧げる。少し大袈裟すぎやしないか。旅の仲間は年若い男性だった。多分、ティナと同い年か年下だろう。輝く金色の巻き毛に、サファイアもアクアマリンもラピスラズリも敵わない、綺麗な青い目をしていた。寒風を吸い取った白い頬は薔薇色に染まっている。ナルキッソスやアドニスのような美少年だ。神話に登場する愛の神クピードも、こんな姿をしているのだろう。
 旅の道連れという者は、快活でお喋り、親切というのがセオリーだけれど、少年は見た目どおり物静かだった。共通する話題も見つからないし、無理に会話を作らなくてもいいと思うから、あえてこの状況を保っておくことにしよう。
 威風堂々と下界を見下ろす青い竜のエンブレムが見えてきた。目的地のニューランドヤードだ。両翼を広げた竜がティナと少年を威嚇する。ガラスのドアを抜けてロビィへ入ると、受付に陣取るヴェラを見つけた。まだ居座っているのか。純粋な少年は、彼にとって最高の獲物だろう。失礼な受付に引き渡す前に、もう少し細かく訊いてみることにしよう。
「失礼ですけど、どの部署に用があるんですか?」
「特殊捜査課です。未解決事件を捜査してくれると聞いたので」
 ティナが差し伸べた救いの手を掴んだ少年は、彼女が所属する特殊捜査課メシアに用事があった。もしかしたら、ティナは少年を助ける運命で、少年も彼女に助けられる運命だったのかもしれない。
「私、特殊捜査課に所属している刑事なんです」
「えっ? 貴女が……ですか?」
 ティーンエイジャーの刑事なんて信じてくれるだろうか。以前、疑われたことがあったから心配だ。バッジと手帳を彼に見せる。灰色の疑いも見せず、少年はティナを信じてくれた。
「メシアのオフィスまで案内します――」
「邪魔だぞ、アンバー。人の進路を塞ぐな。道路交通法違反で逮捕されたいのか」
 ニューランドに土足で踏み込もうとする大寒波のような、凜とした声が頭上から降ってきた。耳元で優しく囁いてくれれば綺麗な声なのに、頭上から降ってくると隕石のように恐ろしい声に聞こえてしまうのだ。ティナは恐る恐る振り返った。不機嫌そうに眉を顰めた黒ずくめのシエル・アルタイルが、腕組みをして仁王立ちしていた。
「だ……誰ですか?」
 恐怖で顔を引き攣らせた少年が、ロザリオを握り締めて聖なる言葉を呟き始めた。黒ずくめのシエルを人間界に降臨した悪魔だと思いこんでいるのだ。聖水を持っていたならば、迷いなく彼の端正な顔に振りかけるだろう。残念だが、聖水を振り撒いたとしてもこの黒い悪魔は追い払えない。深淵の青い目が僅かに細まった。不機嫌なシエルがさらに不機嫌になった証拠だ。
「……なんだ? このガキは」依頼者をガキ呼ばわりするとは何ごとだ。ティナより八つ年上のくせに、礼儀を知らないのか。
「メシアに再捜査を依頼しにきた人です」
「ならば、さっさとオフィスに連れてこい」
 ティナを押し退けたシエルは長い脚を最大限に発揮して、エレベーターホールに歩いていった。連れてこいということは、ティナに道案内の延長をしろということか。ロザリオを握ったまま離さない少年についてくるように促して、ティナはエレベーターに乗り込んだ。都会では当たり前のエレベーターも、彼にとっては火星の文明みたいに珍しいようで、華奢な首を上下左右に動かしてはしきりに青い目を瞬きさせていた。
 五階の片隅に追いやられたメシアのオフィスへ入る。オフィスにいたのはティナと少年を置き去りにしたシエルだけのようで、ディアナとフレンの姿は見えなかった。シエルは慣れた動作でコーヒーメイカーを操作している。その背中にティナは到着したことを報告した。
「チーフ、お連れしましたよ。ディアナさんとフレンさんはいないんですか?」
「フローライトとロゼラは、別の未解決事件を捜査している。そのガキをさっさと座らせろ」
 ティナは少年を黒の革張りのソファへ案内した。シエルが彼の正面に腰掛けて、ティナはその隣に着地した。腕と脚を組んで、シエルは背もたれにもたれかかった。その姿はインタビューを受ける映画スターみたいだ。もっとも質問攻めに遭うのは少年のほうだが。
「私が特殊捜査課メシアを統率する、シエル・アルタイルだ。彼女はティナ・アンバー。我々に再捜査を依頼したいそうだが、詳しく訊かせてもらいたい」
「はっ……はい。僕は、クリスチャン・エヴァンズと言います。十五年前に亡くなった、姉の捜査を依頼したいんです」
「十五年前ですか……随分と昔ですね。失礼ですが、お姉さんはどのようにして亡くなられたんですか?」
 クリスチャンがケープの裾を握り締めた。水彩絵の具をぼかしたように、青い色が滲んでいく。酷な質問をしてごめんなさい。でも、これが仕事だから。
「……崖から転落して死にました」
「崖から転落、か。それならば、事故死として片付けられたはずだ。なぜ、再捜査を依頼する気になったんだ?」
「これを見つけたんです」
 綺麗に折り畳まれた手紙が取りだされた。黄ばんだ色に染まっているのは、十五年の年月に押し潰されたせいだろう。シエルが手紙を受け取って、世界遺産に触るような手つきで手紙を開いた。
『October.Day30.信じていたのに、彼らに裏切られてしまった。このままでは、私と彼は殺されてしまう。夜の闇に紛れて、彼と私は逃げるつもりだ。神よ。哀れな子羊に、救いの手を差し伸べてください』
 青い目を滑らせながら、シエルが手紙の内容を読みあげた。教科書を朗読する時のような、抑揚のない読みかただ。数秒間の朗読会が終了した。元の形に復元された手紙がクリスチャンに返される。
「見たところによると、この手紙は日記の一部のように見えるが……どこで見つけたんだ?」
「教会の掃除をしていたときに、床の隙間に挟まっていたのを見つけたんです。でも――」
「でも? 何か気になることがあるんですか?」
「はい。僕が調べたかぎりでは、姉の遺品の中に日記帳らしき物は見当たらなかったんです」
 ソファから離脱したシエルが空いているデスクに移動して、パソコンの電源をONにした。暗い画面に明かりが灯った。ティナとクリスチャンもシエルの側に向かう。パソコンの照明がシエルの横顔を明るく照らす。長い睫毛が端正な横顔に花を添えている。どの角度から見ても、シエルの顔は綺麗だ。今はパソコンの画面に集中しなければ。ティナはいつの間にかシエルの横顔に目を奪われていた自分を戒めた。
「お姉さんの名前を教えてくれ」
「ローラ・エヴァンズです」
 データベースが起動する。滑らかなブラインドタッチで、長い指がアルファベットを叩いていった。ピアノの鍵盤を弾いているような動作で、モーツァルトやショパンのメロディが聞こえてきそうだ。いつもならすぐに、事件の資料がフラット画面に表示されるのだが、画面に表示されたのは、「該当する資料は見つかりませんでした」の素っ気ない文面だった。
「見つからないだと? 馬鹿にしているのか? 給料分働け大馬鹿者が。廃品回収にだされたいのか」
 無口で大人しい電気製品にシエルが喧嘩を売った。人間にも機械にも強気の姿勢を崩さない。気のせいだろうか、今日のシエルは普段より機嫌が悪いような気がするのだ。二回目の検索をしてみたものの、結果は空振りと肩透かしの二連敗だった。
「チーフ。誰かがうっかりしてデータを消去してしまったんじゃないですか?」
「その可能性はありえるな」パソコンをシャットダウンしたシエルが溜息を落とす。「お前みたいな奴がほかにもいるということだ。嘆かわしい」
 データベースに資料が残されていないということは、捜査員の努力と汗と涙が染み込んだ紙の資料も期待できないということだ。ティナたちが踏み出した第一歩は、手詰まりという落とし穴に見事に引っ掛かってしまった。
「アンバー。出かける準備をしろ」
「えっ? 出かけるって……どこにですか?」
「情報がなに一つ残されていない以上、現地に赴くしかないだろう」
「僕の依頼を受けてくださるんですね!? ありがとうございます!」
 歓喜で頬を染めたクリスチャンが身を乗り出して、正面に座っているティナの両手を握り締めた。握手にしては些か情熱的すぎるんじゃないか。ティナの隣の空気が急速に冷えていく。横目で窺うと、眉間に皺を寄せたシエルが握り合う二人の手を睨みつけていた。
 ソファから離脱したシエルが奥のオフィスへ向かう。迂回していけばいいのに、彼はわざわざティナの前を横断していった。二人の手が道を譲る。ティナとクリスチャンのつながった手を分離させるために、わざとそうしたに違いない。漆黒のコートを羽織って戻ってきたシエルは、ティナのダッフルコートを乱暴な動作で彼女に放り投げると、一度も振り返らずに出ていった。


 ニューランドヤードを出発したティナたちは北へ向かった。北に近づくにつれ、時間を遡ったビルたちは緑鮮やかな山々に、冷たいコンクリートやアスファルトが田園地帯に入れ代わった。漆黒のBMWの車窓から見える景色がタイムスリップしていく。運転手はシエルで、後部座席に座るのはティナとクリスチャンだ。漆黒の鷲に怯えるよりも天使の話し相手をしていたほうが楽だから、ティナは後部座席を選んだのだった。
 クリスチャンは北にある山岳地帯の片隅に位置する、ベルガモットという町からきたらしい。彼いわくベルガモットは文明から切り離された小さな町で、テレビも車も普及しておらず娯楽施設も一つもないらしい。都会の生活に慣れた者が移住したら、一日どころか数時間で根を上げてしまうだろう。
「車もないって言ってましたよね。どうやってニューランドまできたんですか?」
「馬車に乗せてもらって、駅がある街までいきました。それから電車を乗り継いでニューランドに着いたんです。もうお尻が痛くて痛くて……」
「大変でしたね。依頼のことは、エヴァンズさんのご両親にはお話ししたんですか?」
「……いいえ。話していません」暗い影がクリスチャンの顔を包む。すみません。彼が謝る。そんな必要はないのに。
「過去の事件の再捜査を依頼するということは、思いだしたくない記憶を思いださせてしまうんだ。君はご両親を傷つけないように配慮したんだろう? 賢明な判断だ」
 沈黙を守っていたシエルが口を開いた。クリスチャンが顔を上げて、バックミラーに映るシエルを見つめる。濃度の異なる青い視線がバックミラー越しに交わった。小さな声ではいと答えたクリスチャンが頷く。シエルの言葉が暗い影を追い払ったようだ。
 数時間前まではクリスチャンをガキ呼ばわりしていたのに、優しい台詞をいとも簡単に口にする。やっぱり、シエル・アルタイルという青年はまだ理解できない。ジグソーパズルのように複雑で、鍵を握るピースが一つも見つからないのだ。いつかティナは、ピースを見つける事ができるだろうか。
 舗装された道路はいつしか途切れ、肌荒れに悩む砂利だらけの道に変化していた。傾く車。上り坂だ。軍隊のように規則正しく整列した茶色の柵が延々と続いている。柵に導かれて車は坂を下る。この先です。クリスチャンが運転手に伝えた。
 家らしき建物が見えてきた。都会のように密集しておらず、気紛れにチェスの駒を置いたみたいに家が点在している。兵士のようにシンプルな外観だ。そして、清く貧しくを絵に描いたような景色。ベルガモットは麓と丘に分かれていて、麓に住民が住む集落があり、丘の上には町長の家と人々の心の拠り所であるマジョーレ教会が建っているらしい。
 まずはクリスチャンの家へ。クリスチャンの指示に従って、BMWは一件の家の脇に停車した。もちろん駐車場はない。赤い屋根と白い壁に焦げ茶色の煙突がくっついた家だ。都会からやってきたティナとシエルが珍しいのか、住民らしき人々が遠巻きにこちらを眺めている。水族館の魚たちも、こんな気分を味わっているのだろう。魚達と違うのは地上でも呼吸ができるることか。車を降りて玄関へ。クリスチャンがドアの前に立つと同時に、年季の入ったドアが開いた。白髪交じりの男性が出てきて、クリスチャンを見るなり顔色を変えた。
「クリス!? いったいどこへいっていたんだ! 心配したんだぞ!」
「……ごめんなさい」男性に叱咤されたクリスチャンが項垂れる。男性が二人に気づいた。警戒の色が浮かぶ。
「そちらのかたは?」
「ニューランドヤード特殊捜査課の、ティナ・アンバーさんとシエル・アルタイルさん。姉さんの事件を再捜査してくれるんだ」
「――ローラの?」嬉々と語るクリスチャンとは対照的に、男性の声は重苦しかった。「……そうですか。とりあえず、中へどうぞ」
 ティナとシエルは男性に招かれて、家の中に足を踏み入れた。見たところ階段はない。一階建てのようだ。玄関という空間も見当たらない。ドアを抜けて数歩進めばリビングで、テーブルとソファ、暖炉に本棚のありふれた調度品が置かれている。くたびれたソファに腰掛けていた女性が、編み物を中断して立ち上がった。
「……クリス! 丸一日もどこへ行っていたの!?」
「ごめんなさい。ニューランドにいってきたんだ。二人はニューランドヤードの刑事さんで、姉さんの事件を再捜査してくれるんだ」
「ニューランドヤード特殊捜査課のシエル・アルタイルとティナ・アンバーです」
 シエルが警察手帳を見せる。ティナも金色に輝くバッジを見せた。
「ご子息の依頼を受けて、十五年前に亡くなったローラ・エヴァンズさんの事件を捜査しにきました」
「ジョン・エヴァンズです。彼女は妻のイザベルです」
 四人は軽く会釈を交わした。どうぞ座って下さい。ジョンに勧められて、ティナとシエルはソファに体重を預けた。老人のように腰の曲がったソファはぎっくり腰になることもなく、二人の体重を受け止めてくれた。紅茶とクッキーがテーブルにセッティングされる。誰もが思い浮かべる来客を接待するための小道具だ。
「ローラは事故死だと聞いています。どうして再捜査を?」
「これを見つけたんだ」
 クリスチャンが隣に座るジョンとイザベルに、捜査を依頼したきっかけとなった手紙を広げて見せた。手紙の文面が二人の目を通して脳に刻まれていく。ジョンは青ざめ、イザベルは今にも卒倒しそうだった。夫妻の手が自然とつながった。互いを支え合おうとしている証拠だ。
「お尋ねしてもよろしいですか?」夫妻の承諾を得たシエルが質問を始めた。「彼ら、彼、この二つが誰なのか、心当たりはありますか?」
「いいえ。まったく見当も――」
「あいつよ! あの男がローラを殺したんだわ!」
 手紙を握り潰したイザベルが突如として叫んだ。涙を堪えている目は血走っていて、黒魔術を操る魔女のような形相だった。支え合うことを誓ったジョンが、妻を落ち着かせることに成功した。ごめんなさい。短く呟いたイザベルは、垂れ下がった麦色の髪の中に顔を隠した。ジョンがシエルのほうに向き直る。イザベルの代わりに質問を受けつけるようだ。
「あいつとは誰ですか?」シエルは職務に忠実だ。同情している素振りも見せない。
「ヴィクター・チェスフォードだと思います。十五年前に、マジョーレ教会に赴任して来た神父です。ローラもマジョーレ教会でボランティアをしていました」
「チェスフォード神父はどこにいますか?」
「――ローラが死んだ直後に失踪しました。奴が娘を殺したに違いありません」
 金切り声を上げて髪を振り乱したイザベルとは違い、ジョンは落ち着きはらっていたが、彼の内側から激情が溢れだそうとしているのを感じる。必死で抑えているのは、息子の前で取り乱す姿を見せたくないのだろう。
「お願いします。あの男を捜しだして、捕まえてちょうだい。お願い――」
 冷静さを取り戻し始めたイザベルが、神に縋るような目で訴える。今にもこと切れてしまいそうな、か細い声だった。
「彼――ヴィクター・チェスフォードが殺人犯だと決めつけることはまだできません。決定的な証拠と証言、容疑者本人が必要です。住民たちに話を訊いてみます。また、ご夫妻にお話を伺うことがあるかもしれません。構いませんか?」
「ええ。もちろんです。よろしくお願いします」
「ご協力感謝します。では、失礼。行くぞ、アンバー」
 シエルの後を追いかけてティナも外へ出る。適当な家を見つけて歩き始めたとき、二人を呼び止める声が背中にぶつかった。首を捻って確認すると、金色の巻き毛の少年が二人の歩いた道を走ってくるではないか。ティナはシエルを停止させて、クリスチャンが追いつくのを待った。肩を上下させて呼吸を整えたクリスチャンが顔を上げる。なにか用事があってきたのだろう。
「エヴァンズさん? どうしたんですか?」
「あの、迷惑じゃなければ、僕もお手伝いしたいんです。……いいですか?」
「え? 私は構いませんけど――」
 嬉しい申し出だけれど、黒ずくめの青年はどう思っているのだろうか。ティナはシエルに視線を送った。メシアの法律。服従すべき者。彼がイエスと言わなかったら、クリスチャンを追い返さないといけないのだ。それ心苦しい。数パーセントの確率のイエスを期待しよう。
「……人手が足りなくて困っていたところだ。好きにしろ」
「あっ――ありがとうございます!」
 予想外の答えが返された。まさに奇跡。神の御業だ。頬を薔薇色に紅潮させたクリスチャンが笑った。彼の微笑みはティナに向けられているような気がしたけれど、それは考え過ぎだったようで、クリスチャンは仏頂面のシエルにも笑顔をプレゼントしていたけれど、シエルは笑顔のプレゼントを素直に受け取らなかった。
 クリスチャンのガイドでベルガモットを歩き回る。しかし本当に小さな町だ。町というより村に近い。住民たちの暮らしぶりも服装も質素で、中世を生きる人々のような感じだった。田畑を耕し、家畜を育てて自然と共に生きている彼らを見ていると、都会での暮らしで乾ききった心が潤っていくような気がした。まさに純粋な静寂に包まれた別世界だ。
 ベルガモットの住民たちは、最初は異邦人であるティナとシエルを警戒したものの、二言三言他愛もない会話を交わすうちに警戒心を解いていった。もちろん世間話をしたのはティナである。無愛想なシエルにはできない仕事だからだ。
 ローラは天使のように優しい子だった。ヴィクターは心の狭い男。ローラは皆から愛されていた。神父のくせに、ヴィクターは欲望に忠実な奴だった。飴と鞭の言葉が交互に繰り返される。五人目の事情聴取を始める。エプロンをしたふくよかな女性は、朗らかに話してくれた。選手交代。尋問はシエルの得意分野だ。
「ローラちゃん? 内気だったけど、優しくて良い子だったわ。手作りのクッキーやパイをおすそ分けしてくれたり、牛の世話を手伝ってくれたり、本当に良い子だったわよ」
 ティナの隣にいるクリスチャンの表情が悲しみの色に染まった。視線が合うと、彼は平気ですと微笑んだ。ティナは微笑みを返して、シエルと女性の会話に耳を傾けた。
「ヴィクター・チェスフォードをご存知ですか?」
「……ええ」360度、女性の顔色が変わった。「都会からやってきた悪魔。あの男はローラちゃんにつきまとっていたわ。卑しくて傲慢で最低の男よ。あいつがローラちゃんを殺したんだわ。良い男の刑事さん、早くあいつを捕まえてね。クリス君とご家族、ローラちゃんのために」
「全力を尽くします。ご協力感謝します」
 取り調べを終えたティナたちは民家から離脱した。数十歩歩いた所でシエルが足を止めた。眉間に皺を刻んで、難しい表情を作っている。なにか気に障ることをティナは言ってしまったのか。迷路のように入り組んだ思考から離脱したシエルが振り向いた。
「……おかしいと思わないか?」
「え? おかしいって――」
「住民達はローラのことは褒め、ヴィクターのことを中傷している。それに、刑事だと名乗る前に私たちが刑事だと見抜いた。情報が伝わるのが早い。住民同士の結束が強いのだろう。どうやら、彼らはヴィクターを悪人に仕立てあげようとしているようだな」
「でも、皆さんの言うとおりかもしれませんよ」
「私たちはヴィクター・チェスフォードという男のことをなに一つ知らないんだぞ? チェスフォードが善人か悪人か判断するのはまだ早い。愚か者が。次の家にいくぞ。さっさとこい」
「……はい」
 相変わらずシエルの言うことは筋が通っている。確かにヴィクターが殺人犯だと決めつけるのは早すぎる。もっと情報が必要だ。シエルが歩いていく。後を追いかけるために一歩を踏み出したティナは、コメディ映画の俳優みたいに転んでしまった。幻想の観客たちが拍手をしながら笑っているぞ。
「アンバーさん!」すぐにクリスチャンが駆けつけてきてティナを助け起こしてくれた。「大丈夫ですか!?」
「はっ……はい。大丈夫――」
 両足を大地につけて立ち上がろうとした途端、足首に鈍い痛みが走った。転んだ際に足首を捻ってしまったようだ。ありえない方向には曲がっていないから、骨は折れていないだろう。
「捻挫をしているかもしれませんね。無理はしないでください」
「どうしたんだ」
 遥か前方まで歩みを進めていたシエルが戻ってきた。後をついてこなかったティナに対する苛立ちは見えない。
「転んだだけですから。大丈夫です」
 足が痛いから歩けません。そんな弱音を吐いたりしたら、軟弱者か足手まといかの150kmを超える言葉のボールが飛んできそうだ。身構えて受け止める余裕はない。もし仮に受け止められたとしても、銀河の果てまで弾き飛ばされてしまうだろう。シエルはティナに視線を注いでいる。ティナの付いた嘘は、シエルに通用するだろうか。
「エヴァンズ。この近くにモーテルはあるか? 二、三日、宿泊したいのだが」
「すみません。ベルガモットにはホテルもモーテルもないんです。よかったら、僕の家に泊まってください」
「分かった。アンバー、歩け――」
「アンバーさん。歩けますか? 肩を貸しますよ」
 クリスチャンの台詞がシエルの言葉を押し退けて、シエルは黙り込んだ。彼に道を譲ったようだ。漆黒の鷲と純白の天使。どちらに助けを請うべきか迷ってしまう。片方の救いの手を取れば、選ばれなかった片方の機嫌が悪くなるかもしれない。もっとも機嫌を悪くするのはシエルだけだが。足が二本も生えているんだ。自分で歩こう。
「平気です。一人で歩けますから」
「そうですか。無理はしないで下さいね」
 クリスチャンがティナの隣に並んだ。ティナが足を躓かせたときに素早く支えられる絶妙の位置だ。優しい天使に感謝を捧げたい。黙々と無言でシエルは二人の後ろを歩いている。まるで、魂を奪い取る機会を窺っている死神のようだ。なにを考えているのかまったく分からない、そんな表情だった。少しだけ失望しているように見えたのは、ティナの目の錯覚だったのだろうか。


 エヴァンズ夫妻は二人の宿泊の申し出を快く引き受けてくれて、ローラが使用していた部屋を貸し与えてくれた。しかし部屋の数が足りず、ティナはシエルと相部屋になってしまった。「お前みたいな子供を襲う馬鹿はいないし、土下座されても襲うつもりはない」とシエルの毒舌が炸裂して、ティナの心配ごとは一蹴された。
 ツインベッドの片割れに腰を下ろしたティナは、ローファーを脱いで靴下を剥ぎ取った。思ったとおり左の足首は赤く腫れていたが、そんなにひどくはない。クリスチャンがプレゼントしてくれたシップを貼って一晩休めば、腫れは引いてくれるだろう。さあ、顔を洗って眠りに就こう。慎重にベッドから下りたティナは、部屋を出てバスルームに向かった。
 廊下の一番奥にあるバスルームは、洗面所と脱衣所が一体になっているタイプだ。明かりが点いているけれどシャワーの音は聞こえない。誰かが消し忘れたんだろう。ノックを奏でる必要がないと判断したティナは、ドアを開けた。次の刹那、蜂蜜色の目に映った衝撃過ぎる光景にティナは声を失くしてしまった。地球を一周してきた声が戻ってきた。
「にっ――にゃあああぁっ!?」
 ティナの目の前にいたのは、滑らかな素肌を惜し気もなく晒したシエル・アルタイルだった。シャワーを浴びた直後なのだろう、若木のようにしなやかな裸身には、筋肉のほかに水の粒子がまとわりついている。よかった。ちゃんと腰にバスタオルを巻いている――って、ちっともよくないじゃないか。
 早く目を逸らしたいのにティナの視線は言うことを聞いてくれなくて、シエルの身体に張り付いたままだった。シエルの姿が洗面台の鏡に映っていて、ティナがいる位置からでは見えない背中が映っている。再びティナは声を失った。
 鏡面に映っていたのは、左の肩甲骨の下に刻まれた醜い傷跡だった。あの形状は刃物で傷つけられた跡だ。まるで皮膚の下に埋まっているパーツを強引に抉り取ろうとしたような、思わず目を覆いたくなるほどの傷跡だった。
「……いつまで人の裸を眺めているつもりだ?」
 氷河期の如く凍りついた声がティナの耳を叩いた。青い目がティナを睨みつけている。さっさと出て行け、愚か者が。ティナの受信アンテナがシエルのテレパシィを受け取った。鏡に映る背中に気付いたようで、シエルは僅かに立ち位置を変えていた。もう背中の傷は見えない。視線を制御できるようになったティナは、慌てて眼を逸らした。
「ごっ……ごめんなさい!」
 火照った頬と身体と激しく高鳴る鼓動を冷やしたい。逃げるようにバスルームを飛び出したティナは、日が落ちて濃紺色に染まり始めた世界に旅立った。できるだけ静かにエヴァンズ家を飛び出したつもりだったが、猫の鳴き声のような悲鳴を上げてしまったんだ。今頃は護身用のバットを握り締めて大騒ぎしているだろう。裸身を目撃されたシエルが状況を説明してくれていることを祈ろう。
 静かで誰もこなくて、独りになれる場所に行きたかったティナは、宵闇に浮かび上がった樹を見つけてそこに向かった。風と戯れる木の葉たちと白と灰色の中間の色に染まった逞しい幹。螺旋状に捻れた幹は、上に昇るにつれ幾本もの細かい枝に分離している。白い幹に背中を預けて、ティナは礼儀正しく体育座りをした。
 急ぎ足で歩いていく風は冷たい。ニューランドに居座っている大寒波の一部がベルガモットにまでやってきているのだろう。ダッフルコートの相棒を連れてこればよかった。風邪をひいてしまったら、いつも不機嫌な上司がますます不機嫌になってしまうだろう。
「アンバーさん! どこにいるんですか!?」
 澄み切った声がティナを呼んだ。響く綺麗な声は賛美歌を歌うために与えられた声だ。真っ黒な影がティナの近くを彷徨っている。暗闇の中で巻き毛が輝いていた。メシアに再捜査を依頼したクリスチャンだ。居場所を知らせるために、ティナは樹の陰から這い出した。
 ティナが声の信号を送ると、救難信号を受信したクリスチャンが駆け寄ってきた。手に持っているランプの光源が、クリスチャンの安堵した顔をオレンジ色に照らし出す。人の声とは思えない悲鳴を聞いたかシエルの説明を聞き、急いでティナを追いかけてきたのだろう。
「あの……悲鳴を聞いて、私を追いかけてきたんですか?」
「はい。あんな悲鳴を聞いたのは生まれて初めてですよ。バンシーかと思いましたけど。アルタイルさんが、あれはアンバーさんの叫び声で、外にいったと教えてくれたので、追いかけてきました。……迷惑でしたか?」
「迷惑をかけたのは私のほうですよ! ……ごめんなさい」
 まさかバンシーに間違えられそうになったとは。バンシーとは目を真っ赤に泣き腫らしながら、近いうちに死ぬ人間の衣類を洗っていると伝えられている幽霊で、凄まじい金切り声を上げるのだ。
「これ、着てください。アンバーさんのですよね? ベルガモットの夜は想像以上に冷えるんですよ」
 クリスチャンがティナのダッフルコートを手渡した。ミッドナイトブルーの夜景に見事に溶け込んでいる。袖を通すのに苦労したけれど、小さなランプの太陽が手助けしてくれた。ボタンを締めて、夜の冷気をシャットダウンした。
「ありがとうございます。エヴァンズさんって、優しいんですね。チーフとは雲泥の差ですよ」
「クリスって呼んでください。あの……訊きたいことがあるんです。いいですか?」
 承諾するとクリスチャンは息を止めた。決意の深呼吸をした天使が口を開いた。
「アンバーさんは……アルタイルさんのこと、好きなんですか?」
「えっ――!?」
 ちょっと待って。藪から棒になにを言いだすんだ。クリスチャンが藪から突き出した棒は、ティナの足を見事に躓かせた。場を和ませようと思いついた冗談かと思ったけれど、クリスチャンの空色の瞳は真剣だ。冗談を言うタイプには見えない。変化球なしのストレートの直球勝負か。
「そっ……それは違います! あんな――意地悪で高慢で冷淡で、天上天下唯我独尊を地でいく人を好きになるわけありませんよ! クリス君の誤解です! 私たちは、ただの上司と部下です!」
「そう……ですよね。よかった」
 よかったという台詞が気になった。空の色を焼きつけた瞳が熱情を帯び始める。ドラマでいうと、愛の告白をするロマンティックなシーンだろうか。目の前のナルキッソスは傲慢な少年じゃない。素直に愛を伝えられる純粋な少年だ。
「僕――アンバーさんのことが好きなんです。ニューランドで僕を助けてくれた貴女は、女神のように綺麗で、一目見ただけで好きになりました。返事はいつでも構いませんから。突然ごめんなさい。先に戻りますね」
「クリス君!? 待って――」
 軽く一礼すると、クリスチャンは金色の巻き毛を揺らして走り去った。クールダウンした頬と身体が再び火照っていく。心臓の回転率が上昇し、激しいピストン運動で血液が身体中に送りだされていく。ティナは溶けていくアイスクリームみたいに草の上に座りこんだ。あんな美少年に愛を告白されるなんて――思ってもみなかった。
「違うもん……あんな人、好きになるわけ、ないじゃない……あんな人……」
 否定すればするほどティナの胸は熱くなっていった。草の潰れる乾いた音がした。クリスチャンが戻ってきたのだろうか。ティナは幹の陰から顔をだし、来訪者を捜してみた。光をまとう巻き毛は見えない。見えるのは細長い影で、ときおり思い出したように足を止めて周りを見回している。見えない瞳とティナの目が合った。影の歩く速度が上昇した。灰色の雲の隙間から顔を出した月が、彼を晒し者にした。
「……アルタイルチーフ?」
 ティナを一瞥したシエルは、彼女の反対側に陣取った。ここからはシエルの姿は確認できないけれど、腕を組んで顰め面をしていると思う。二人の言葉は死んでしまったようで、永い沈黙が流れていった。話しかけるのが怖い。シエルのプライドを少しでも修復するには、ティナが謝らなければいけない。
「あの……チーフ」
「見たのか」
「え?」
「私の背中の傷跡だ。見たのかと訊いているんだ」
「……はい。あの傷はどうしたんですか?」
 ティナが質問した直後、シエルは黙り込んだ。深く立ち入りすぎてしまったか。生まれた会話は消えて、沈黙が夜空と手を繋いで踊る。落ちる溜息。二酸化炭素がシエルの足下で渦巻いていた。
「……十四年前、一家惨殺事件の犯人につけられた傷だ」
「惨殺……事件? それって、まさか――」
「殺されたのは私の家族だ。生き残ったのは、私一人だった」
「そんな……ひどい――」
「私だけに救いの手を差し伸べて、父と母を見捨てた。息を止めて欲しいと必死で祈り続けた私を神は生かし続けている。神は残酷だ。そう思わないか?」
 ティナはなにも言えなかった。彼の問いかけに対する正しい答えが見つからなかったからだ。正解のない質問。もしも学校のテストに出題されたとしても、確実に空欄のままで提出するだろう。100点なんて取れるわけがない。
「……愚問だったな。それに、くだらないことを話してしまった。すまない、忘れてくれ」
 ティナが背中を預けている幹の反対側で人の気配が動く。ティナを置いてシエルが離脱しようとしているのだ。いつもそうだ。シエルはいつも独りで未来に進んでしまう。大切なものを過去に置き去りにして、空っぽのままで振り返らずに歩いていってしまうのだ。
「まっ――待って!」
 本能的にティナは樹の陰から躍りでた。シエルは背中を向けている。ダークブラウンの革靴を履いた足が止まった。顔が見たい。だから振り向いて。ティナは星に希った。星が瞬く。祈りは届いた。シエルが振り向いた。視線が交わる。どうしよう。言葉を考えていなかった。
「あの……その……」
「……慰めの台詞は必要ない。同情はされたくないんだ。今まで誰にも話さなかったのに、不思議だな。私は……お前に聞いてほしかったのかもしれない」
「……チーフ」
 切れ長の宇宙に瞬く複雑な色の星たち。綺麗だと思うと同時に、なんて悲しい星なんだと思った。ティナが言葉を見つける寸前、シエルは再び背中を向けて歩き去っていった。伸ばされた背中に、誰に祈っても救われない痛みと悲しみが垣間見えた。シエルが魂の奥の扉を開きかけてくれたのに、ティナは扉の奥の景色を恐れてなにも見ることができなかった。
 頭上に広がる満天の星空。
 何億光年の遥か彼方からやって来た光が瞬いている。
 そう、あれは過去の光だ。
 シエルの魂の奥の星の光は、直視できなかった。
 星の光は簡単に見ることができるのに――。


 翌朝、ティナとシエルは丘の上から麓を見下ろしているマジョーレ教会に向かっていた。もちろんティナに恋するアシスタント、クリスチャン・エヴァンズも一緒だ。愛を告白されたせいで彼の顔をまともに見れないし、かといって先頭を歩くシエルにも話しかけられないから、ティナは若草色の地面を見下ろすしかなかった。
 青空の下に神に捧げられた教会が見えてきた。その外観はバロック様式の美しく繊細な装飾で覆われていた。12世紀後半のロマネスク建築だろう。今日は平日で日曜日ではないからミサはやっていないはず。それでも教会は神聖な場所だ。静かに扉を開けて、三人は中に入った。
 教会の内部はさらに豪華なバロック様式だった。キリストと聖母の生涯を描いたタペストリーが飾られていて、内部を豪華に彩っている。信者が祈りを捧げる木製のベンチが左右を挟み、正面には蝋燭が揺らめく祭壇が安置されていた。高く伸びるパイプオルガン。漣のように揺れる蝋燭の明かりを投影した十字架には、磔になったキリストの似姿が彫られている。冬の空気のように澄み切った静謐な雰囲気に圧倒されてしまう。一ミリの信仰心を持たない者でも頭を垂れて跪き、神に祈りを捧げたくなりそうだ。
 祭壇の前に佇む男性を見つけた。静寂の中に響き渡る三人の足音に気づいた男性が振り向く。神父が身にまとう黒い服に、柔らかそうな純白のストールを肩にかけている。骨張った手だ。マメだらけの農民の手とは違う。鍬の代わりに聖書を携えていて、聖書のページを捲っていた指が止まった。
「救いを求める子羊たちよ。ようこそ、マジョーレ教会へ。……おや? クリスではないですか」
「おはようございます、神父様」
「おはよう。見知らぬかたたちと一緒のようだが……どちら様かね?」
「ニューランドヤード特殊捜査課のシエル・アルタイルとティナ・アンバーです。十五年前に亡くなった、ローラ・エヴァンズさんの事件を再捜査しています」
 手帳とバッジを見せて信用を勝ち取る。物静かな雰囲気を纏う男性が会釈した。
「私はロベルト・マリオッティ。マジョーレ教会を取り仕切る神父です。ローラは事故死だと聞いたが――」
「現在調査中なので詳しいことは分かりません。生前、彼女はここでボランティアをしていたと聞きましたが」
 聖書を閉じたロベルトが、鳶色の視線を宙に向けて彷徨わせる。十五年前のモノクロの記憶に色を塗ろうとしているのだろう。神父が頷く。色を塗ることに成功したようだ。
「ええ、確かにローラはここでボランティアとして働いていましたよ。大人しくて控え目な子でしたが、優しくて皆に愛されていました」
 大人しい子。控え目な子。優しい子。何回も聞いた台詞だ。それしか言えないのか。
「ヴィクター・チェスフォードをご存知ですか?」
「……ヴィクター?」ロベルトの灰色の眉が僅かに動く。ほかの住民たちと同じように、彼もヴィクターを中傷するのだろうか。「ええ。知っています。彼が――どうかしたのですか?」
 珍しい。他の住民たちとは違って、ロベルトはヴィクターに対する罵詈雑言を口にしなかった。聖なる言葉を囁くための口を汚したくないのかもしれない。
「ローラさんのご家族の話によると、ヴィクターが彼女を殺害し、そのまま行方をくらましたそうです。住民たちは、彼を最低の人間だと口を揃えて言っていました。ヴィクターはどんな人物でしたか?」
「最低の人間だなんて! まったくの事実無根です。ヴィクターは好青年でした。快活で真面目そのものです。ローラを殺すなんてできるわけないでしょう。なぜなら二人は交際していたんですから」
 新証言にティナとシエルは驚いた。クリスチャンも同様に驚いている。誰も教えてくれなかったんだ。無理もない。ヴィクターは悪人じゃない。ティナは思い始めた。恋人を殺すなんてそう簡単にできることではないし、永遠の愛の誓いを破ることになるのだから。
「よろしければ、これを」ロベルトのポケットから一枚の写真が取り出された。「ヴィクターとローラの写真です。参考にならないかと思いますが……」
 シエルからティナに写真が渡された。笑顔を浮かべた青年と穏やかに微笑む少女が映っている。ライトブラウンの髪の青年がヴィクターで、金色の髪の少女がローラだろう。ローラは胸に一冊の本を抱き締めていた。背景に写るのは、分厚い本が詰まった本棚だ。クリスチャンが息を呑む。亡き姉の姿を見たせいだろう。
「二人がいる場所はどこですか?」
「教会の書庫です。二人には、よく本の整理を手伝ってもらっていたので」
「支障がなければ見せていただきたいのですが」
 動揺がロベルトの面を走り抜けた。見られては困るものがあるのだろうか。
「その……書庫を大掃除中なので、今は立ち入り禁止にしています。申しわけありません」
 怪しいぞ。なにか臭うな。ティナたちが食いさがろうとした時、扉が開いて数人の住民が入ってきた。見計らったようなタイミングの良さだ。ベンチに座った住民たちは、神聖な祈りを捧げ始めた。一礼すると、ロベルトは彼らのところに歩いていった。これ以上取り調べに応じる気はないようだ。灰色の猜疑心を抱えながら、三人は教会を後にした。
「――この人が僕の姉さんなんですね」
 クリスチャンが感慨深げに呟いた。なんだか引っ掛かる言いかただ。ティナの疑問に答えるように、彼は言葉を続ける。
「姉さんは、僕が生まれる前に亡くなったんです。姉がいることを知ったのは、つい最近なんですよ。そして、時を越えて再会した。……なんだか不思議ですね」
 写真に閉じ込められたローラを見つめながら、クリスチャンは微笑んでいた。雪解け水のような清廉な微笑みが、ティナとクリスチャンを遠ざけていた気まずさを洗い流していく。どうして、貴女は命を落としたの? ヴィクターが貴女を殺したの? この世界に存在しない少女にティナは問いかけた。ローラが抱き締めている一冊の書物に目が向いた。焦げ茶色の皮膚に、薔薇の花で彩られた十字架のマークが刻まれている。ティナの記憶がざわめき始める。どこかで見たマークだ。それもごく最近に。ティナの記憶が目を開けた。
「クリス君! あの手紙を見せてくれませんか?」
「えっ? はっ――はい!」
 クリスチャンから折り畳まれた手紙を受け取ったティナは、破らないように注意しながら紙を開いた。上部に十字架と薔薇のマークが印刷されていた。間違いない。ローラが持っている本と同じ物だ。手紙に黒い影が落ちる。ティナの肩越しにシエルが覗きこんでいた。
「チーフ! これって――」
「恐らく同じ物だろう。エヴァンズ。見覚えはあるか?」
「はい。このマークは……マジョーレ教会のシンボルマークです」
「……やはりあの神父は重大ななにかを知っているようだな。書庫になにかあるのかもしれない」
「でも、書庫は立ち入り禁止ですよ? どうやって入るんですか?」
「案ずるな。いい考えがある」
 悪戯を思いついた子供のように、シエルは口元を斜めに吊り上げた。


 夜の女王に支配されたベルガモットの町。マジョーレ教会の脇で二つの影が蠢いている。一つは大きく、もう一つは小さい。ダークグレイの雲が櫂を漕ぎ、白銀の満月が夜の海に漂う。差し込む月光が、二つの影――ティナとシエルを照らしだした。夜の闇に紛れて書庫に侵入するなんて、なにがいい考えだ。小学生じゃあるまいし。それに、扉は施錠されているに決まってるじゃないか。
「ブツブツうるさいぞ、アンバー」
 シエルの指摘にティナは我に返った。無意識のうちに、心の中で愚痴っていた言葉を表にだしていたのか。シエルは頑丈な南京錠と遊んでいる。
「子供みたいな考えに呆れてたんです! だいたい扉には鍵がかかっているのが普通ですよ? 忍びこめるわけ――」
 頑固だった扉が開き、自信に満ち溢れたシエルの顔がティナのほうを向いた。彼の右手に握られているのは細い針金だ。まさかピッキングしたのか。警察官のくせに泥棒まがいの行為をするなんて。呆れ果てて言葉もでない。ティナを無視したシエルは、喇叭を吹く天使がレリーフされた扉をくぐっていった。ティナは慌てて後を追いかけた。
 回廊の左にあるドアを開けて暗い通路を進んでいく。クリスチャンが教えてくれた道順を忠実に守って、二人は書庫に辿り着いた。当たり前だが鍵で封印されている。シエルが取りだした魔法の鍵が扉をくすぐる。数十秒。封印が解かれた。ドアを開けると、歴史と共に積み重なった埃が二人を出迎えてくれた。
 今回は大量の本の海の中に沈没している一冊をサルベージするのが目的だ。気の遠くなりそうな作業だが、文句を言っている時間はない。朝日が昇る前に本を見つけ、幽霊みたいに消えないといけないのだ。あと一人くらい人員が欲しいところだけれど、これ以上、純粋無垢なクリスチャンを巻き込むわけにはいかない。
 ティナとシエルは、本を抜いては本棚に戻すという単調な作業を延々と続けた。もう限界です。ティナの両腕が限界を訴えだしたとき、ついにお目当ての宝物を発見した。焦げ茶色の分厚い本。ティナは写真を取り出して比較した。どこからどう見ても完璧な双子だ。ティナはシエルを呼んだ。手に持っていた本を投げ捨てると、シエルは彼女の側にやってきた。
「見つけたのか」
「はい」
 ティナとシエルは共同作業で本を開く。懐中電灯を持ったティナが照明係だ。手紙と同じ筆跡。ローラの文字だと思う。ヴィクターが赴任してきたことや彼と親しくなったこと、そして、熱い愛を告白されたことが詳細に書かれている。上下左右に走り抜ける青い目が一枚のページの上で止まった。重要な証拠を見つけたのか。
「チーフ?」
「……読んでみろ」シエルが日記を手渡した。受け取ったティナは、開かれているページに目を滑らせた。
『Octrober. Day.29 マリオッティ神父と住民たちが、ヴィクターを殺そうとしているのを知ってしまった。私と彼が交際していることを知られてしまったのだ。明日、ヴィクターに会いにいこう。この息苦しい町から、二人で逃げだすために』
「まさか――神父と住民全員が二人を殺したんですか?」
「その可能性は高い。ヴィクターを犯人に仕立てあげて、自分たちの犯行を隠蔽しようとしたんだろう」
 住民全員ということは、エヴァンズ夫妻も含まれている可能性がある。クリスチャンには見せられない。二回。立て続けに物音が響いた。教会の主に発見されたのか。稲妻の如き素早さでシエルが拳銃を構えた。懐中電灯の丸い明かりが、ドアから侵入してきた人物を浮かびあがらせた。金色の巻き毛の少年――クリスチャンだ。銃口に捉えられていることに気づいた彼が、慌てて両手を上げた。
「ぼっ――僕です! クリスチャンです!」
「クリス君!? どうしてここに?」
「……お前を追いかけてきたんだろう」シエルが呟いた。皮肉たっぷりに聞こえるのは、気のせいという事にしておこう。
「大変です! 町の皆が貴女たちを――」
「殺そうとしているんだな?」
 クリスチャンの空色の目が見開かれた。どんな状況でも澄んだ色のままだ。クリスチャンは頷いた。嘘を言っているようには見えない。それが事実ならば、一刻も早くベルガモットから離脱しないといけない。仕事を途中で放り出して逃げるのは嫌だが、死んでしまっては再捜査もできない。行くぞ。シエルが指示をだす。出入り口であるドアに向かおうとしたとき、恐れていた事態が起こってしまった。
「――ここにいるのでしょう? 神聖な教会に侵入するとは、悪い子たちですね」
 ドアの向こう側からくぐもった声が聞こえた。穏やかな口調の裏に、異質な響きが込められている。壁を隔てて殺意が伝わってきた。住民全員の禍々しいオーラが沈殿している。ティナたちを墓場に葬るために、彼らは一致団結したのだ。
「早く出てきなさい。すぐに楽にしてあげますよ」
 誰が出ていくものか。素直にドアを開けたら最後、嬲り殺しにされるに違いない。数歩後退したシエルがティナの隣に移動した。四面楚歌の状況を打開する策を思いついたのか。
「私が囮になって奴らを惹きつける。お前はエヴァンズと車のところにいけ」
「そんな! チーフを置いてなんかいけません! 私も残ります!」
「必ず後から追いかける。早くいけ!」
 金色にコーティングされたドアノブが激しく回転する。シエルが椅子と机でドアを封印した。数十人の殺意に破られるのは時間の問題だ。ドアが背筋を大きくしならせる。背骨が折られようとしているのだ。三人全員が殺されるか、それとも一人だけ犠牲にするか。史上最悪の二択問題だ。
 迷っている時間はない。シエルを信じよう。ティナは頷いて、クリスチャンと窓を開けて脱出した。柔らかい草の上に着地する。審査員がいたとするならば、最高点をつけてくれるだろう。丘を駆け下りてエヴァンズ家に走った。夫妻は教会に向かったはずだ。ティナの予想は的中した。家の明かりはライトダウンしていた。
 シエルの愛用車であるBMWに駆け寄ったティナとクリスチャンは愕然とした。四つのタイヤすべてがパンクさせられていたのだ。こうなることを見越して、タイヤに穴を開けておいたのだろう。足は潰されてしまった。なんて狡猾な奴らだ。
 視界の端が眩しい。ティナは肩越しに振り返った。すると、丘の上に灯った明かりがこっちに向かってくるではないか。シエルの作戦が見破られて、住民の半分がティナとクリスチャンを追いかけてきたのだ。シエルは車のところで待っていろと言った。だから約束の地を離れるわけにはいかない。しかしここに留まっていれば、悪魔の集団に捕えられてしまう。どうすれば――どうすればいいの?
「アンバーさん、逃げましょう!」
「でも……! チーフがこっちに向かってるかもしれません!」
「僕とアルタイルさんの立場が逆転していたら、彼も同じことを言ったと思います。大丈夫。アルタイルさんは、僕たちが移動したことに気づいてくれるはずです」
「――そうですね。いきましょう!」
 大丈夫。シエルは切れ者だ。必ずティナたちを見つけてくれる。BMWに別れを告げて、ティナとクリスチャンは町の北西に広がる森に逃げこんだ。木の葉と華奢な枝たちが容赦なく衝突してくる。走って、走って、走り続ける。気がつくと、ティナは独りぼっちになっていた。夜の森に惑わされてしまい、クリスチャンと離れ離れになってしまったのだ。
 木々の隙間から燃え盛る松明の炎が見えた。狂信者たちが迫ってくる。逃げ道は見つかりそうにない。諦めかけたそのとき、暗闇から伸びてきた手がティナの腕を掴んで茂みの中に引っ張りこんだ。長い腕がティナの身体に絡みつき、彼女の動きを封じ込める。頭上の暗闇を見上げると、青色の目がティナを見下ろしていた。
「アッ――アルタイルチーフ!?」
「黙れ。奴らに気づかれたいのか?」
 シエルがさらにティナを引き寄せた。密着する身体と絡み合う脚。ティナの手がシエルの心臓を探り当て、彼の胸に押しつけられた頬がシエルの鼓動を耳に伝えた。ティナの背中と腰に巻きついた腕は、彼女を離すまいと奮闘している。オレンジ色の松明の明かりと怒号が二人の側を通り過ぎ、遠くのほうに消えていった。ひとまず危機は脱したようだ。シエルがティナを解放する。切ない余韻がティナの心に残った。
「無事だったようだな。エヴァンズはどうした?」
「それが……いつの間にかはぐれてしまったみたいなんです。チーフこそ無事でなによりです。どうやって逃げだしたんですか?」
「銃を携帯していたのが幸いだった。弱そうな住民を人質にして、脱出することに成功した」
「チーフ。車はパンクしていました。彼らの仕業だと思います」
「私たちは完全にベルガモットに閉じ込められたようだな。まずはエヴァンズを捜そう。逃げだすのはそれからだ」
「はい!」
「いたぞ! こっちだ!」
 しまった。追跡者に見つかってしまったぞ。ティナの手を取ったシエルが森の奥を目指して走りだす。先へ。ひたすら先へ。律儀に道を歩いている余裕なんてない。ローラとヴィクターも二人と同じように手を取り合い、同じ道を走ったのだろうか。未来を生きるために。
 視界が開けた。その先は崖になっていて、行き止まりになっていた。ティナとシエルは追いつめられてしまったのだ。茂みが蠢き、狂った住民たちを引き連れたロベルト・マリオッティが現れた。善良な神父の皮を脱ぎ捨てて、傲慢な笑みを張り付けている。住民たちの目は憎しみに満ちていた。そのなかにはエヴァンズ夫妻もいた。
「もう逃げられませんよ。探偵ごっこは終わりです。神の御許に送ってさしあげましょう。あの二人のようにね」
「貴方たちが――ローラさんとヴィクター神父を殺したんですか?」
「ええ。そうですよ」呼吸をするように、ロベルトはあっさりと罪を認めた。彼の言葉に同調した住民たちが次々と頷く。
「本当なんですか!? マリオッティ神父!」
 透明な声が響き渡り、息を切らしたクリスチャンがロベルトたちの背後に現れた。嘘だと言ってほしい。彼の表情が懇願している。だがクリスチャンの願いは無残にも打ち砕かれた。
「神の前で嘘はつきません。お嬢さんの言うとおり、私たちがここから二人を飛びおりさせたのです。彼らは自らの意思で崖から身を躍らせた。これは殺人ではありませんよ。すべては神のご意思なのですから――」


<Octrober.Day.30>



 ベルガモットに生を受けた者たちは皆、神に肉体と心と魂を捧げて生きることを誓わなければいけない。成人を迎えるまで男は童貞を貫き、女は処女を守りとおすのだ。外部の血と遺伝子を混ぜてはいけない。神聖なベルガモットの血脈を受け継がせていく。
 それが何百年も昔から守られて来た鉄の掟である。
 その鉄の掟が、二人の若者によって破られようとしていた。
「お願いです! 神父様! どうか――どうか、私たちを見逃してください!」
 目も眩むようなブロンドの髪を持つ少女が、ロベルトに許しを請いている。マジョーレ教会でボランティアとして働いているローラ・エヴァンズだ。ローラの隣にいる青年はヴィクター・チェスフォード。二週間前に都会から赴任してきた若き神父である。悲痛な光をその目に湛え、ローラと同じく彼の許しを待っている。本を閉じて、ロベルトは二人に視線を向けた。彼が閉じたのは聖書ではない。ローラとヴィクターが恋に落ちていることを密告してくれた日記帳だ。
「ローラ。貴女はベルガモットに伝わる掟を破ったのですよ? 神に捧げたはずの肉体を、あろうことか彼に捧げてしまった。見逃してくれとは、随分と虫のいい話ですね」
「……確かに僕たちは掟を破りました。でも、主は貴方たちが罪を犯そうとしていることを望んではいません。お願いします。一度だけ、僕たちに生きるチャンスをください」
 身体を折ったヴィクターが頭を下げ、ローラも同様に頭を下げた。
 ロベルトは身震いした。
 目の前にいる二人の命は自分が握っている。
 未来も、運命さえも。
 今ここに、ロベルト・マリオッティという神が降臨したのだ。
 そして、運命の糸巻きはロベルトの手の中にある。
 それを優しく紡ぐか、それとも暖炉の中に放り投げて灰にするかは、彼の自由なのだ。
「……分かりました。住民たちを説得してみましょう。私が伝えにいくまで安全な場所に隠れていなさい」
「神父様……! ありがとうございます!」
 さらに深く二人は頭を下げた。穏やかに微笑みながら、ロベルトはローラとヴィクターの運命の糸巻きを暖炉の中で踊る炎の中に放りこんだ。


 崖下から吹き上げる激しい風が少女と青年の髪を弄ぶ。身を寄せ合うローラとヴィクターは、ロベルトと彼に洗脳された住民たちの手によって、逃げ場のない崖に追いつめられていた。愚かな住民たちを洗脳するのは赤子の手を捻るように簡単だった。神のお告げだと、神の御言葉だと言えば、彼らはロベルトの手足のように動いてくれた。まさに忠実な子羊。神の奴隷だ。
 しかし人間狩りがこんなに素晴らしいものだとは思ってもみなかった。否、二人は人間ではない。神聖なる掟を破った黒い悪魔だ。さあ、悪魔を地獄に送り返さねば。
「神父様……! 僕たちを騙したんですか!? 貴方は僕たちを助けてくれると仰いました!」
「お黙りなさい」悪魔の囁きを聞いてはいけない。奴の舌は嘘と欺瞞で汚れているぞ。「掟を破った者には死を与えよと、神託がくだったのです」
「嘘よ! 神父様は皆を騙しているのよ! パパ! ママ! 目を覚まして!」
 ジョンとイザベルは動かなかった。愛する娘の側に駆け寄って彼女を抱き締めようともしない。石像のように静かだ。ローラが伸ばした救いを求める手は、無慈悲に振り払われた。
 少しずつ、ロベルトたちは歩みを進めていった。完成間近の料理を味見するように、二人の顔が絶望の色に染まっていくさまを味わいたいからだ。しかしロベルトの舌は、二人の絶望の味を吟味することはできなかった。なぜならば、ローラとヴィクターは穏やかな顔をしていたからだ。現世で生きることを諦めて、来世に向かおうとしている目だった。
「……愛しているよ、ローラ。来世でまた会おう」
「……私も、貴方を愛しているわ」
 見つめ合い、口づけを交わした二人は、宙を跳んで崖下に墜落していった。
 頭蓋は割れ、四肢は打ち砕かれているだろう。
 これで、地獄の底から這い上がってくる心配はない。
 裁きの雷はくだされた。
 さあ、神のために歌おうではないか!
 めでたし、マリア。 
 恩寵満ちたるおかた。
 主は御身とともにましまし。 
 御身は女人の中にて祝せられ、 
 また祝せられたもう。
 御身の胎内の御子、イエスも。
 めでたしマリア。
 祈りたまえ、罪人なる我らのため。 
 今も、そして我らの臨終のときも。


 まるで信者に演説しているかのように、ロベルトは自らの罪を告白した。朗々と響き渡るテノールの歌声に住民たちは心酔しきっている。どうかしている。ベルガモットの人間たちは狂っている。ロベルトという邪神が操る糸に絡め取られているのだ。憐れみに近い憤りがティナの内側から湧きあがった。
「貴方の言うとおり、確かに貴方たちはローラさんとヴィクターさんを殺してはいません。でも、二人を追いつめたのは貴方たちじゃないですか! 二人を助けることができたのにそれをしなかった! これは立派な殺人よ! きっと神様は怒ってるわ!」
「黙れ! 悪魔の舌を持つ女め! 皆さん騙されてはいけません! この二人は人間に化けた悪魔です! さあ! ローラとヴィクターのように、地獄に送り返しましょう! 二度と地上に現れないように!」
 邪悪な声が兵士たちを鼓舞して歓声が木霊した。クリスチャンの制止する声も届かない。鎌や鋤を構えた暴徒たちが津波の如く押し寄せてきた。怖い。殺される。もう駄目だ。怯えるティナを庇うようにシエルが躍りでた。一瞬でもいい。この恐怖から逃れたい。シエルの背中にティナはしがみついた。
 振り上げられた鎌が月明かりを反射して、湾曲した刃が重力に引き寄せられる。シエル目がけて鎌が振り下ろされようとしたそのとき、サイレンの音が漆黒の森に響き渡った。サイレンのメロディが増えていく。催眠術から醒めたみたいに住民たちの動きが静止した。ロベルトたちの背後に影の群れが出現した。全員が銃を構えている。
「ニューランドヤードよ! 全員、武器を捨てなさい!」
「留置所にブチこまれたくなかったらおとなしくしてるんだな!」
 影の群れ――警官たちの先頭に立っていたのは、ディアナとヴェラだった。まさに美女と野獣。観念した住民たちは次々と武器を捨てていった。拳銃には勝てないと即座に判断したのだろう。抵抗を止めないロベルトは、筋骨逞しい警官に捻じ伏せられていた。
「チーフ! ティナ! 大丈夫!?」
「ああ。随分と遅かったな」
「当たり前だろうが。応援を連れてベルガモットにこいだなんていきなり言いやがって。制限速度を20キロもオーバーしてすっ飛んできたんだぜ? 少しぐらい感謝したらどうなんだ」
 シエルはありがとうと言わないだろうと思いつつ、ヴェラが愚痴をこぼした。シエルはヴェラの言葉を華麗に受け流す。やれやれと肩をすくめたヴェラは、住民たちをパトカーに押しこんでいる警官たちを手伝いにいった。
「ロゼラはどうしたんだ?」
「チーフが指示した連続失踪事件の捜査中よ。その途中で……ちょっとトラブルというか、ややこしいことが起こってね、ここにこれない状態なのよ。ティナは? 姿が見えないけど――」
「アンバー? ……ここにいるぞ」
 シエルが身体の位置を斜めに動かした。ディアナが思わず微笑んだ。
「あら。必死でしがみついて。可愛い」 
 魔女狩りの危機から救われたことを知らないティナは、シエルの背中にしがみついたまま震えていた。堅く閉じた瞼を開けるのが怖い。殺意に満ちた顔の集団がまだいそうな気がしたからだ。北風のように凜とした声がティナを呼んだ。目を開けても大丈夫だろうか。ティナは瞼の緞帳を上げた。
「チーフ……ディアナさん……?」
「もう大丈夫よ」
「奴らは根こそぎ捕まえた。安心しろ」
 ディアナがウインクする。彼女の肩越しに、段ボール箱に詰められる家財道具みたいに手際よくパトカーに詰めこまれていく住民たちが見えた。極度に張り詰めていた糸が切れてティナの足下が揺れた。地面が腕を広げて待っている。素早く伸びた手がティナの腕を掴み、彼女を引き戻した。この体温は知っている。シエルの体温だ。二回目の密着。きっと、シエルは顰め面をしているに違いない。ティナが見上げたシエルは、顰め面ではなかった。
「チーフ……ごめんなさい……」
「謝る必要はない。落ち着くまでこのままで構わない」
「……はい」
 洗濯に失敗した衣服みたいに身体を縮め、ティナはシエルの腕の中に身を委ねた。手を動かしてもいいだろうか。恐る恐る控え目にシエルの背中に両手を回してみても、彼は一言も抗議しなかった。ティナの肩に添えられていた手が移動して、長い指が慰めるようにオレンジの髪を梳いていく。180秒。ティナはシエルの体温の海に身を沈めた。恐怖は静かに引いていった。
「……落ち着いたか?」
「……はい」ティナはシエルから離脱した。掌に温もりだけが残っている。「もう大丈夫です。取り乱したりして……すみませんでした」
「気にするな。お前が元気になるのなら……なんだってしてやる」
「……えっ?」
 意味深な発言に反応したティナは、正面に立つ上司を見上げた。端正な顔のキャンバスに塗り重ねられた感情という名前の絵の具は、混ざり合いすぎて複雑な色になっている。ティナの視線から逃げるように、シエルは切れ長の目を逸らした。また、魂の奥の扉を閉ざしてしまったのだ。
「アンバーさん! アルタイルさん! ご無事ですか!?」
 警官の質問の嵐から逃げてきたクリスチャンが走ってきた。ティナたちの心配をするよりも、自分の心配をしたほうがいいと思う。
「大丈夫です。クリス君は?」
「僕も平気です。……まさか、町の皆が姉さんとチェスフォード神父を殺したなんて」
 金色の頭とともに華奢な肩が下がる。当然の反応だ。実の両親が事件に関わっていて、その事件の再捜査を依頼したのが息子の彼だったのだから。神は残酷だ。シエルの言葉が蘇った。
「アルタイルさん。町の皆は……両親はどうなるんですか?」
「殺人罪で起訴するのは難しいな。せいぜい公務執行妨害と器物損壊といったところだ。保釈金を支払って、すぐに出てくるだろう。エヴァンズ、お前はどうするんだ? 神という存在に洗脳された、腐りきった連中と暮らし続けるのか?」
「チーフ! それは言いすぎじゃ――」
「いえ、いいんです、アンバーさん。アルタイルさんの言うとおりです。父も母も町の皆も、一生神からは逃れられないでしょう。僕は――ベルガモットを出ます。二度と戻らない覚悟です」
 空色の双眸に涙を溜めながら、クリスチャンは健気に決意を表明した。なんて強い子なんだ。ガラスのように繊細な心を持っているはずなのに。強すぎて痛々しいぐらいだ。
「……そうか。仕事は私が斡旋してやる。住む家も私が手配する。それで構わないな?」
 クリスチャンの目の奥に溜まっていた涙が一気に溢れだした。一点の濁りもない、純粋な涙だった。
「ありがとうございます! 本当にっ……ありがとうございますっ……!」
「お前はいろいろと私たちを助けてくれた。謝礼が必要だと判断しただけだ。感謝する必要はない。先にいく。早くこい」
 深々と頭を下げ続けるクリスチャンを一瞥したシエルは、サイレンの光の中に消えていった。目尻を拭ったクリスチャンがティナのほうに向き直る。一歩、大人に近づいた表情だった。
「アンバーさん。姉さんとヴィクターさんの魂を救ってくれて、ありがとうございました」
 クリスチャンからティナに手渡された、情熱の愛を綴った手紙――封蝋をしたままの愛の告白に返事を返さないといけない。確かにティナはクリスチャンが好きだ。けれどティナが彼に対してが抱いている「好き」という感情は、異性に抱く「好き」ではなく、親しくなった友人に抱く「好き」に近いものなのだ。だから残念な返事を書いた手紙を封筒に入れ、クリスチャンに送らないといけない。
「あの……クリス君。あの返事のことなんですけど、私――」
「言わなくても結構ですよ。振られるのを前提に告白したんです。僕は、貴女の運命の星ではなかったみたいですね」
「運命の……星?」
「昔、父が言っていました。僕たち人間は、人生という大海原を彷徨っている船乗りだと。アンバーさん。頭上に煌めく運命の星を見つけてください。道に迷ったときは、その星が導いてくれますから」
 太陽の微笑みをティナに向けたクリスチャンは、シエルが待っている場所に走っていった。
 クリスチャンの言葉がティナの胸の奥に沁みこんでいく。
 紺碧の宇宙の色を吸い取った目が蘇る。
 確かにティナは見た。青い宇宙の中に瞬く星を。
 その星は、ティナを導くように蒼穹の輝きを纏っていた。
 ティナは運命の星を見つけたのだ。
 漆黒の鷲という、運命の星を。