今朝も相変わらずニューランドの地下鉄は人間達で混雑していた。それでも以前よりは随分とおとなしくなったと思う。たとえて言うならば、少し焼き過ぎたけれど焦げ目が丁度いいトーストで、バターが柔らかく溶けていく感じだろうか。しかし大量の人間を詰め込んでよく腹を壊さないものだ。まさに鋼鉄の胃袋。金属でできているから当然か。
 二度と絶対に痴漢に絶対遭わない。鋼の如く強靭な決意をしたティナは地下鉄に戦いを挑んだ。気紛れな神様が味方をしてくれたお陰で、今朝は座席に腰を落ち着けることができた。スリに遭わないようにキャメルブラウンの鞄を抱き締める。中には警察手帳とバッジが入っているのだ。盗まれて悪用されるのは嫌だし、それよりも漆黒の鷲の怒りを買うことが恐ろしかった。配属されてからしばらくして、彼の逆鱗に触れてしまったのだ。今度怒らせれば、内臓どころか心臓を抉り取られるかもしれない。
 ティナを乗せた地下鉄は、なにごともなくサン・ルチア駅に到着した。切符と引き換えに改札を抜けて地上に出る。悪戯好きな真冬の風がティナの頬を撫でていく。そういえば、数十年に一度の大寒波が到来すると天気予報で言っていた。マフラーを締めてダッフルコートの襟を立て、ティナは歩く速度を上げた。道行く人々も、ティナと同じように完全武装で仕事場に向かっている。
 冷たい風が身体中の熱を容赦なく奪っていく。ティナは腕時計を覗いて時間を確認した。始業時間まで少し余裕があるし、燃料を補給していこう。温かそうな湯気が揺らめいている売店を発見した。都会のオアシスにいこうとしたティナは、黒ずくめの青年が買い物をしていることに気づき、数百メートルで足を止めた。
 黒ずくめの青年――シエル・アルタイルは、まだティナの存在に気付いていない。今なら人混みに身を潜めて、素知らぬ顔で通り過ぎることもできる。さすがにそれは駄目だろう。挨拶をして罵倒されるか、スルーしようとしたところを気づかれて罵倒されるか。どちらかを選べと言われたら、迷わず前者を選択する。朝から不機嫌でないことを祈るしかない。意を決したティナは数百メートル進んで、シエルに近付いた。
「おはようございます、アルタイルチーフ」
 切れ長の目が動き、ティナを一瞥した青い目は明後日の方向を向いた。せっかく勇気をだして挨拶したのに、無視するなんてひどいじゃないか。怒るティナをよそに、シエルはコーヒーを堪能している。
「朝から変な顔をするな、見苦しい。挨拶が欲しいのならば、コンビニにいけばいいだろう」
 なんて冷たい言葉なんだ。彼の言うことにも一理あるが、到底納得できない。相手にするだけ時間の無駄だと判断したティナは、悠然とコーヒーを飲むシエルを押し退けて、ミルクティーを購入した。ここにいると、ほかの客の購買意欲を削いでしまうだろう。そう思ったティナは道の片隅に移動した。すると、どういうことかシエルもついてくるではないか。ついてくるなと拒絶することもできず、ティナはシエルと肩を並べるしかなかった。
 凜洌をそのまま体現したような風が、歩道を駆け抜ける。まさに筆舌に尽くしがたい寒さだ。大寒波が到来したら、ニューランド全土は氷河期に突入してしまうんじゃないか。でも大丈夫だと思う。エアコンやストーブ、ホットカーペットに暖房機器という、人類の叡智が生み出した素晴らしい設備が溢れているからそう簡単には絶滅しないだろう。両手に白い息を吹きかけながら、ティナは手袋を嵌めてこなかったことを後悔した。去年の冬の終わりに破裂してしまい、その亡骸はクローゼットの奥深くに押し込んだままなのだ。
「寒いのなら手袋を嵌めればいいだろう。なぜしてこない?」
「私の家は貧乏なんです。私の学費に貯金の大半を使っちゃって、家計が火の車なんですよ。私、母子家庭なんです。父さんは警官で、犯人を逮捕する時に刺されて……そのまま殉職したんです」
「殉職……か。それは気の毒だったな。警官を目指したのは――父親の影響か?」
「はい。父さんの背中が格好よかったから。自分の信念を貫け。それが父の口癖でした。その言葉どおりに、私は自分の信念を貫いたんです」
「――そうか。立派な警察官だったんだな」
「……はい。自慢の父です」
 父親と作り上げた幸せな思い出がスライドショーとなり、ティナの脳裏をスクリーンにして鮮やかに再生された。匂いも、温もりも、息遣いも、そのすべてがリアルだった。寂しさと孤独感が両手を振って存在をアピールしながら涙腺の奥に居座り、涙を巻き込んでシュプレヒコールを上げ始めた。必死で泣くまいと努力していると、黒い手袋を嵌めた手がティナの片手に触れ、わずかなあいだだったが彼女の手を包み込んだ。それはシエルの手だった。黒い手が離れる。もしかして、慰めようとしてくれたのだろうか。初めて知ったシエルの体温だけが、ティナの掌に残った。
 ティナを一瞥したシエルは歩きだした。ニューランドヤードの方向だ。職場までお供しろということか。紙コップをゴミ箱に捨てて、ティナは慌てて後を追いかけた。遠慮の欠片もない歩きかたで、シエルは人混みを突き進んでいく。脚の長さが違うんだから歩幅だって合わないに決まっているじゃないか。だから少しくらい歩く速度を緩めてくれてもいいと思う。
 いつの間にか足を止めていたシエルに、ティナは気づくのが遅れてしまった。背中にぶつかる寸前で急ブレーキを掛ける。ティナを待ってくれていたのかと期待したけれど、どうやら赤信号で止まっていただけのようだ。隣にいっても怒られないだろうか。恐る恐るティナはシエルの隣に移動した。シエルはティナを見下ろしただけで、なにも言わなかった。
「――失礼だと思わないか?」
 唐突にシエルが発言した。言葉の意味が分からない。ティナに対する発言か。
「な……なにがですか?」
「通行人どもだ。私を見たり、挙句の果てには指を指したりする。奴等はモラルを知らないのか? 片っ端から逮捕して、留置所にブチこみたいくらいだ」
 ティナには理由が分かっていた。原因はシエルの外見にある。彼は雑誌のページを飾る男性モデルよりも、遥かに恵まれた容姿の持ち主だからだ。嫌味なくらい完璧に整った端正な顔。184センチの長身に相応しい長い手足。細身に見えるけれど、素肌には適度な筋肉が備わっているだろう。ティナが思い浮かべた空想のシエルが、アピールするように服を脱ぎ始めた。なんて過激な想像をしているんだティナ・アンバー。頭を振って追い払う。学生風の女の子の軍団が、シエルを見つめながら通り過ぎていった。
「……これで、十五人目だ」
 シエルの声が低くなっていった。不機嫌になるまえに彼の気を逸らさなければ。シエルの眉間に皺が刻まれかけたとき、ビルの外壁に嵌め込まれている街頭テレビが優雅なクラシックを歌い始めた。白いチュチュをまとったバレリーナが画面一杯に映し出される。舞台公演の宣伝だろう。音楽に惹かれたのか、シエルはテレビを見上げた。眉間の皺が和らいでいる。クラシックと美しい踊り子のお陰だ。気を逸らさせるチャンスは今しかない。
「綺麗な人ですね。千年に一人の天才って言われてる、ナタリア・ノーマンですよ」
「そうだな。お前とは雲泥の差だ」
 赤から青に変わった信号がティナの反論を遮った。ティナを置き去りにしたシエルは、横断歩道を渡って先へ進んでいった。雲泥の差だなんて失礼にもほどがあるぞ。街頭テレビを見上げたティナは、バレリーナの豊かな胸と自分の貧相な胸を見比べた。やめておこう。比べれば比べるほど自分が惨めになるだけだ。水の都の法と秩序を守るニューランドヤードが見えてきた。青い竜と挨拶を交わして中に入る。ティナを置き去りにしたシエルはロビィの真ん中で待っていた。
「同伴出勤なんて、お熱いじゃないか」
 乾燥したハスキーヴォイスが響き渡った。彼だ。人を小馬鹿にするのが趣味な受付の男――ニコラス・ヴェラだ。受付のカウンタに頬杖をつく代わりにヴェラは柱に背を預けていて、小悪魔のような笑みを浮かべていた。シエルの眉がわずかに動く。ティナが苦労して追い払った不機嫌が戻ってきてしまったのだ。
「……同伴じゃない。たまたま、偶然、遭遇しただけだ」
 たまたまと偶然の二つのフレーズを強調したシエルが反論した。ティナはエイリアンじゃないのに、遭遇だなんてひどすぎやしないか。出身地はニューランド。生まれた惑星は青い地球。正真正銘の地球人だぞ。
「ま、どうでもいいけどよ。アルタイル警視に会いたいと仰っている人がきてますよ」
「けっ――警視!?」
 意外な事実を知ったティナは驚いた。一つの課を統率しているくらいだから、そこそこ偉いと思っていたが、まさか警視だったとは。二十代で警視の座に就いているなんて。優れた遺伝子の持ち主なんだろう。
「どんな人物だ?」
「会えば分かる。さっさといってこいよ」
 若き警視を前にしてもヴェラは己を貫いていた。かなり神経が図太いのだろう。彼と別れたティナとシエルはエレベーターに乗り込み、五階の職場に到着した。ドアの隙間から談笑が聞こえている。シエルがドアを開けた。仕事場にいたのはディアナとフレンの二人の同僚と、初めて見る女性だ。ほんの数十分前に、どこかで見たような顔だ。ティナは首を傾げた。記憶と格闘したのち、ティナは思い出した。街頭テレビの画面で踊っていた、千年に一人の天才バレリーナであるナタリア・ノーマンだった。
「おはよう。彼女はナタリア・ノーマンさん。メシアに再捜査を依頼したいそうよ」
「初めまして。ナタリア・ノーマンです」
 女性が立ち上がり、名前を名乗って頭を下げた。二十代後半。雪のように輝くプラチナブロンドの髪を繊細に編み込んで、スワロフスキーのクリスタルで彩られたバレッタで固定している。吸い込まれそうな青い瞳は、幻想的なヴァイオレットのアイシャドゥで縁取られていた。バレリーナだと一目で分かるしなやかな身体つき。まさに絶世の美女だ。
「特殊捜査課メシアを指揮する、シエル・アルタイルです。彼女はティナ・アンバー。部下の一人です」
 微笑みを浮かべたシエルが右手を差し出した。白皙の頬を赤く染めたナタリアが彼と握手を交わす。ティナには見せる気のない笑顔を、いとも容易く浮かべたシエルに腹が立った。ティナに接するときと明らかに態度が違う。世の中の男たちは絶世の美女に弱いのだ。シエルがナタリアを黒のソファに誘った。ナタリアは蕩けているような表情で彼を見上げていた。
「我々に再捜査を依頼したいそうですね。詳しく話してもらえませんか?」
「はい」ナタリアは息を吸い込んだ。話を整理しているのだ。「十年前、私の友人がカッレで死んでいたところを発見されました。名前はミシェル・オブライエン。私と一緒に、バレリーナになる夢を追いかけていました」
「ミシェル・オブライエン――ありました」データベースを開いたフレンがパソコンの画面を回転させた。「死因は階段から転落したことによる脳挫傷。それと両脚を複雑骨折しています。争った形跡も、乱暴された跡もありませんね。事故死という結果で片付けられています」
「失礼だが、ミシェルが事故死ではないという確証があるんですか?」
「それは――ありません。でも、ミシェルが死んだ日はオーディションの日だったんです。そんな大事な日に、どうして薄暗いカッレにいたのかが腑に落ちなくて。十年間ずっと思っていたわ。そんなとき、テレビで見たの。メシアという特殊捜査班が七年前の事件を解決に導いたって。貴方たちならきっと、ミシェルの死の真相を調べてくれる。そう思ってきたんです」
 ナタリアの青い目の片隅に涙が溜まり始めた。突如として滲みだした涙が、妖精のように幻想的なメイクを溶かしていく。ごめんなさいと謝罪の言葉を呟いた彼女は、バッグを開けて白いハンカチを取り出すと目尻を拭いた。泣くまいと努力しているのが手に取るように分かる。気丈な女性だ。ティナもディアナもフレンも、シエルの判断を待っている。長い腕と脚を組んだシエルが息を吐いた。イエスかノーか。答えは二つしかない。
「分かりました。貴女の依頼を受けましょう」
 シエルは再捜査の依頼を承諾した。曇り空だったナタリアの顔に日差しが現れた。
「あっ――ありがとうございます!」
 ナタリアが身を乗り出して、正面に座っているシエルの両手を握り締めた。距離が近すぎる。キスをしてもおかしくない距離だ。灰色の煙がティナの胸中を覆っていく。風船ガムのように膨らみはじめたティナの頬は、ディアナに突かれて破裂した。白いファーコートを腕に巻きつけたナタリアが、退出しようとソファから立ち上がる。少し急いでいる様子だ。バレエの公演が迫っているからだろう。
「ノーマンさん。外までお送りします」
 シエルが送迎役を申し出ると、ナタリアの日差しはますます明るくなった。シエルがドアを開けて一歩下がり、彼が開放したドアをナタリアが通る。まるで貴族のお嬢様に仕える執事みたいだ。ドアが閉まると同時に、ティナの頬は再び膨らんでいった。見た目は甘いシュークリームに似ているが、中に詰まっているのはカスタードクリームではない。
「ティナ。怒らないの」
 妖精たちの内緒話のような笑い声を出しながら、ディアナが指摘した。
「怒ってなんかいません」
「怒ってるよ。君は分かりやすいタイプだから」
「……だって、おかしいです。冷淡で高慢でいつも無愛想なチーフが急に愛想よくなったんですよ? ノーマンさんが美人だから、態度を変えたに違いありません!」
 ティナは胸の奥で渦巻いている灰色の煙の一部を吐き出した。ヘビィスモーカーが吐き出す煙草の煙よりも有害だ。今のところ被害者が出ていないから、煙草の煙よりはかなり優しいと思う。ディアナとフレンが目配せを交わして、爽やかな笑顔を共有した。
「それは違うわよ。ね? フレン」
「うん。チーフがちょっとだけ変わったのは、ティナの影響だと思うんだ」
「え? 私……ですか?」
「チーフ、言ってたよ。この前かな、君にひどい態度をとってしまったって。だから、少しだけ反省したんじゃないかな。ほら、少しだけ優しくなっただろ?」
 ティナの頭の中を、今朝の記憶が駆け抜けた。彼女の挨拶を無視するシエル。彼女に暴言を連射するシエル。反省の欠片も見当たらない行動の数々を見るかぎり、全然優しくなっていないと思うのだが。反省なら死人でもできると言ったのは誰だ。当の本人が更生できていないじゃないか。
「……優しくなってません」
 革靴の音が廊下に響く。渦中の人物であるシエルが戻ってきたのだ。ドアが開き、ナタリアを送り出したシエルが入ってきた。天才バレリーナを魅了した微笑みはシエルの面から消えていて、いつもの仏頂面に戻っていた。
「口を動かしている暇があるなら手足を動かせ。ミシェル・オブライエンの捜査を始めるぞ。アンバーはロゼラと当時の関係者を捜して聞きこみに行け。フローライトは、私と資料集めだ」
 虫の居所が悪いのか、シエルの声は刺々しく苛立っていた。人間の相手をして疲れたのだろう。彼の逆鱗に触れる前に旅立とうか。ティナはマフラーとダッフルコートとキャメルブラウンの鞄を。フレンはジャンパとメッセンジャーバッグを装備して、ニューランドヤードから旅立った。


 目の前にそびえ立つのは中世の城を模倣した建物だ。ケーキに突き刺さった蝋燭みたいな尖塔たちが、宇宙を目指して連なっている。外壁に嵌め込まれた巨大な円形のステンドグラスは、陽光が差し込めば美しい七色のシンフォニーを奏でるだろう。音楽の女神のレリーフがティナとフレンを出迎えてくれた。ここは国立キアノスバレエアカデミー。バレエ界の頂点を目指す者たちが切磋琢磨している名門校である。
「凄いですね……」
「何人ものスターを輩出してきた名門中の名門校だからね。行こうか」
 音楽の女神が踊る扉を開けて中に入ると、鏡のように磨き抜かれた大理石の床が目の前に広がった。ティナの予想どおり、ステンドグラスを通り抜けた陽光が床を虹の色に染めあげていた。正面に螺旋階段と、その上に赤い絨毯が敷かれている。天井も吹き抜けもとても高い。芸術の分からない凡人が踏んでもいいのだろうか。しかし足を踏み出さないと先には進めない。事務室を発見した。親切な窓口もちゃんとある。
「すみません」フレンが呼びかけると、デスクで仕事をしていた事務員の女性が振り向いた。
「はい。ご用件は?」眼鏡をかけた事務員が微笑む。マニュアル通りの笑顔だ。
「ニューランドヤード特殊捜査課に所属する、フレン・ロゼラと――」
「ティナ・アンバーです」
 ニューランドヤードの刑事だと名乗ったのに、事務員は疑惑の眼差しを隠そうとしなかった。無理もない。二人のティーンエイジャーが警察官だと名乗ったんだ。誰だって悪戯だと思うか、あるいは詐欺師だと疑ってしまうだろう。論より証拠だ。ティナとフレンは金色のバッジと警察手帳を見せた。トリック・オア・トリート。事務員の眼差しが360度変わった。
「ミシェル・オブライエンという女性がここに通っていたはずなんですが――」
「少々お待ちください」
 デスクトップパソコンが起動した。齧りかけの林檎のマークがついた機種だ。膨大な名前の列が画面に表示される。卒業生のリストだろう。
「ミシェル・オブライエンさんですね。はい、確かに在籍していました。当時の担当教師は――アンナ・ノーマンです」
「アンナ・ノーマンさんにお会いすることはできますか?」
「こちらから連絡をしてみます。少々お待ちください」
 固定電話の受話器を取った女性が内線番号をプッシュする。三十秒の会話が終わった。
「お会いできるそうです。四階の3Aクラスにいってください」
 感謝の意を伝えて、ティナとフレンは運命の糸巻きのように渦を巻く螺旋階段を上った。誤って足を滑らせたら、天国の住人になってしまうだろう。黒の真鍮で作られた手摺りを握り締めて、ティナは必死に地上にしがみ付いた。たわわに実る葡萄とその葉が丁寧に刻まれた手摺りのデザインは、バッカスを唸らせてしまうほどの完成度だ。
 4Fと書かれたプレートに導かれて階段を離脱すると、白亜の長い廊下が伸びていた。廊下というより回廊に近い。左側に整列している楔型の窓からは、ニューランドの街並みが一望できた。まるで天界から下界を見下ろしているみたいだ。天才には凡人を見下ろす資格があるということか。事務員が教えてくれたノーマンというファミリィネームに聞き覚えがあった。
「フレンさん」ティナの前を歩くフレンが歩く速度を落とした。「アンナ・ノーマンって、もしかして――」
「多分、俺たちに捜査を依頼したナタリアさんの血縁者だと思うよ。3Aクラス。ここだな」
 3Aと表記されたプレートが視界に入った。掛け声と手拍子とティナたちには馴染みのないクラシックが響いている。金色にコーティングされたドアノブを回して、できるだけ静かにドアを開けた。遮る物がなくなったことに喜んだ音たちが、一斉にボリュームを上げた。
 長方形の室内は全面鏡張りで、木製の手摺りが鏡を追いかけていた。生徒の数は十人弱で全員が女性だ。髪を結い上げて、黒いレオタードとトウシューズを身に着けている。険しい顔で激しい手拍子を叩き、厳しい指示を飛ばしている女性を見つけた。恐らく、彼女がアンナ・ノーマンに違いない。ナタリアが年齢を重ねたら、あんな感じになるのだろう。
「Uno.Due.Tre! Uno.Due.Tre! もっと足を高く上げて!」
 アンナの指示が練習場を飛び交う。生徒たちはバレエの基本動作を懸命に身体に叩きこんでいた。声をかけづらい雰囲気だ。教室の片隅で縮こまっていたほうがいいのだろうか。そんなに謙虚にならなくてもいいだろう。こちらも仕事で来ているのだ。二人は隅から中央へ移動した。アンナが手拍子を止めた。事務員からのモールス信号を受け取っていることを祈ろう。
「アンナ・ノーマンさんですね? ニューランドヤード特殊捜査課のロゼラとアンバーです」
「さっき事務所から電話があったわ。ミシェル・オブライエンについて訊きたいそうね」
 アンナは腕組みのスタンスに入った。娘と同じ青い目が、二人の若いの刑事を見据える。どことなく見下されているように感じるのは気のせいだろうか。
「ミシェルは不慮の事故で亡くなったはずよ。どうして十年も経った今、彼女のことを訊きにきたの?」
「それは――」
「匿名のかたから再捜査を依頼されたんです。彼女の死に疑問を持っているそうなので」
 ナタリアの名前を口にだそうとしたティナをフレンが遮った。
「隠さなくても分かるわ。どうせ、ナタリアの仕業でしょう? 娘はミシェルの親友だったから」
 アンナは苛々した様子で髪を掻き上げると、クラシックを歌い続けているラジオを黙らせた。音楽が鳴りやむ。生徒たちが一斉に動きを止めた。
「今日の練習は終わりにするわ。全員帰ってちょうだい」
 スポーツバッグを抱えた生徒たちが渋々と帰っていく。生徒のなかにはティナとフレンに非難の視線を向ける者もいた。貴重な練習時間を奪われたのだ。一つのことに集中していたときに水を差されたら、誰だってあんな目をする。
「彼女たちを帰してしまっていいんですか?」
「貴女たちが心配することじゃないわ。気分が乗らないの。これじゃ、レッスンにならないから」
 人払いを終えたアンナも生徒たちと同じ目をしていた。アーティストらしい言い訳だ。本当は、ティーンエイジャーの刑事に尋問されているところを見られたくないのだろう。プライドだけなら神々の女王ヘラにも負けないんじゃないか。
「さあ、何が訊きたいのかしら? 先に言っておくけど、事件当日私はここでレッスンをしていたわ」
 早くしてちょうだい。私には時間がないのよ。アンナの無言の催促が聞こえる。二人で役割分担をすることにしよう。先輩のフレンが質問役でティナは書記官だ。ティナはボールペンを叩く。飛び出るペン先。準備はOK。いつでも話していいよ。
「ミシェルはどんな生徒でしたか?」
「ミシェルは――とてもいい子だったわ。素直で優しい子。内気で人見知りの激しい子だったけど、バレエの才能は本物だった」
「彼女を恨んでいた人物に心当たりはありますか?」
「私の知るかぎりでは、あの子を恨んでいた人間はいなかったわね。天賦の才能を持っているにも関わらず、それに驕らずにひたすらレッスンに打ち込んでいたから。誰もがミシェルを愛していたわ。彼女は――殺されたの?」
「それはまだ分かりません。今日はこれで失礼します。なにか思い出したらこちらまでご連絡ください」
 フレンはポケットから取り出した名刺を渡した。名刺を受け取ったアンナはしばらく眺めたあと、ポケットの中にしまいこんだ。まるで興味がなさそうな顔で、これ以上子供の刑事ごっこには付き合っていられないといっているような表情だった。子供だからって馬鹿にしないでほしい。誰だって子供から大人に成長するのだ。
 大した収穫も得られなかったティナとフレンはキアノスバレエアカデミーを出て、天才たちが住む深海から凡人たちが暮らす海域へ浮かび上がった。切磋琢磨という言葉は綺麗ごとにしかすぎない。誰かを踏み台にして蹴落とさないと、スポットライトを浴びられない世界なのだ。
 次の目的地はミシェル・オブライエンの自宅だ。ティナもフレンも自家用車を持っていないから、徒歩で向かうしかない。幸い徒歩でいける距離だ。ミシェルの家に近づくにつれ、周囲に建ち並ぶ家々が質素になっていく。中流家庭よりも下の者たちが多く住む区間だった。
 古びた一件の家の前へ。くすんだ茶色の煉瓦はあちこち虫歯になっていて、郵便ポストは新聞や手紙の束で満腹状態だった。家主は留守なのだろうか。取りにいくのが面倒臭いのか。呼び鈴を鳴らしてみないと分からない。誰にも構ってもらえない、錆かけた門を開ける。フレンがベルを鳴らしてみたけれど応答がない。引っ越したのか。それとも中でミイラになっているのか。
「出てこないね」
「……引っ越したんでしょうか。私、近所の人に訊いてきます」
 ティナがドアから離れると同時に、頑固だったドアが口を開けた。二十代後半の青年が顔を出す。嵐のあとのように乱れた柘榴色の髪と、ラフに崩れたスーツ。ベルを聞いて慌てて出てきたのだろう。
「すみません。ベッドで横になっていたもので……。どなたですか?」
「ニューランドヤード特殊捜査課のロゼラとアンバーです。ここは――ミシェル・オブライエンさんのご自宅ですよね?」
 ティナとフレンはバッジと手帳を彼に見せた。晴天から雷雨へ。瞬く間に青年の表情が険しくなった。
「……警察がなんの用だ」
「ミシェルさんの再捜査を依頼されて、彼女の関係者にお話を伺っているんです。ミシェルさんのご家族にお会いしたいのですが……」
「ミシェルは俺の妹だ。話すことなんてなにもない。帰ってくれ」
「でも――」
「妹が死んだのは十年も前なんだぞ!? 今ごろ再捜査だって!? ふざけるな! 帰れ!」
 ドアが閉ざされようとしている。閉まれば二度と開かない。ティナは咄嗟に自らの手をドアの隙間に突っ込んだ。堅い材質のドアが、ティナの手の甲の骨と衝突する。フレンの手が乱入して、喧嘩を止めないティナの手とドアを引き離してくれた。フレンのオッドアイが青年を睨みつけた。実力行使に出ようとしている。
「公務執行妨害で逮捕しますよ」
「逮捕してみろよ! お前ら警察は、権力を振りかざす野蛮人だからな!」
 逮捕という台詞に青年は怯まない。意地になっているのか。
「やめなさい! オリヴィエ!」
 第三者の声が割って入った。開いたドアの向こうがわに見えている階段から女性が下りてきた。オリヴィエと呼ばれた青年が駆け寄り、心配した目で彼女を見上げる。女性が咳を吐く。階段から転げ落ちないように、素早く段を駆け上がったオリヴィエが彼女を支えた。
「母さん! 寝てなきゃ駄目じゃないか!」
「風邪気味なだけ。平気よ。あのお嬢さんたちは――ニューランドヤードの刑事さんね? 中に入ってください。外は冷えますから」
 ティナとフレンはオリヴィエの様子を窺った。彼はドアを閉めようとしない。家にお邪魔しても構わないということだろう。四人分の体重に悲鳴を上げる廊下を歩いてリビングへ。こぢんまりとした部屋だ。キアノスバレエアカデミーを訪ねた帰りだから、なおさら小さく見えてしまう。年季の入ったソファに着地すると、ソファの中に埋め込まれたスプリングが唸った。
「ミシェルの母のクレアです。こっちは息子のオリヴィエ。ミシェルの兄です」
 オリヴィエとの確執を仲裁してくれた女性が微笑んだ。青白い顔だ。身体を冷やさないように、厚手のストールを肩に巻いている。
「ロゼラとアンバーです。ミシェルさんの件の再捜査が決まりまして、いろいろとお尋ねしたいのですが」
「再捜査……? ミシェルは事故死じゃなかったの?」
「捜査は始まったばかりなので、詳しいことはまだ分かりません。ミシェルさんが亡くなられた日ですけど――お二人はなにをされていましたか?」
 舌打ちが響く。オリヴィエが奏でた音色だ。忌々しい奴ら。早く帰れ。敵意の言葉で作詞されている。
「俺は学校。母さんは家で寝ていた。病弱なんでね。心配だったから十一時半頃に家に電話して、母さんと話した。嘘だと思うのなら学校の事務員に訊けよ。通話記録も調べりゃいい。捜査資料に残ってるんじゃないのか?」
「確かに残っています。これは、矛盾がないかどうか調べるためなんです」
 ティナはペンを走らせて、オリヴィエの言葉を一言一句聞き逃さずにメモしたが、目に見えない敵意と嫌悪はノートに書けなかった。突然身体を二つに折ったクレアが咳きこんだ。さっきよりもひどい。喉の奥を固いブラシで擦ったような掠れた喘ぎ声が漏れる。少しでも呼吸が楽になるように、息子のオリヴィエが背中をさすった。
「もう充分だろう? 帰ってくれ」
「駄目……駄目よ」せいいっぱいクレアが声を振り絞る。「ミシェルが殺されたというのなら、私は真実を知りたいの。お願いします。どうか――あの子を救ってやってください」
「……分かったよ。後は俺が引き受けるから。母さんはおとなしく休んでいてくれ」
 オリヴィエに支えられたクレアが一室に姿を消した。人間の脚を手に入れた人魚姫のように、とても弱々しい足取りだった。数分後、母親を休ませたオリヴィエが出てきた。雷雨はやみ、曇り空に変化している。クレアが懇願したせいだろう。
「……できるだけ協力はする。だから、早く妹の事件を解決してくれ。親父を事故で亡くしてから、母さんは女手一つで俺たちを育ててくれて、学校にも行かせてくれた。ミシェルをキアノスに入学させるのにどれだけ苦労したか。大切な人を二人も亡くしたんだ。母さんは……もう、限界なんだよ。アンタたちには分からないだろう?」
 夫を失ったシングルマザーとその家族。自分と同じ境遇にティナは言葉を詰まらせた。分かる。痛いほど分かる。共感しているとアピールしたほうがいいだろうか。偽善者めと罵られそうだ。気性の激しい彼なら言いかねない。
「分かりますよ」
 静かに穏やかにフレンが口を開いた。オッドアイは悲しみの色に染まっている。
「俺も、双子の妹を亡くしていますから」
 息がとまる。空気がやむ。空間が静寂に包まれた。オリヴィエが息を吐く。濾過された刺々しい感情が、息と共に地面に落ちた。感傷から離脱したフレンが職務に戻る。
「ミシェルさんの部屋を見せてもらえますか?」
「それは――難しいな。キアノスに入学すると同時にアイツは寮に入ったから。部屋は空っぽだよ。荷物も処分した」
「そうですか。なにか思いだしたら、特殊捜査課までご連絡ください。では、これで失礼します」
「ちょっと待ってくれ」
 オリヴィエがリビングのキャビネットに飾られていた写真立てを分解して、中身を取りだした。
「ミシェルの写真だ。何の参考にもならないと思うけど、役立てて欲しい」
「ありがとうございます」
 写真を受け取ったティナは、一枚の紙の中に映る少女を眺めた。トロフィーを抱いて誇らしげに笑う少女は、赤毛と緑色の目をしている。色の白い頬に散りばめられた雀斑が可愛らしい。
「初めてのコンクールで優勝したときの写真さ。神の脚。妹はそう呼ばれてた。頼むよ。母さんを――妹を救ってくれ」
 オリヴィエの切実な願いを託されて、ティナとフレンはオブライエン家をあとにした。ミシェルは両脚を複雑骨折していた。もし彼女の死が他殺だとすれば、犯人が脚を折ったに違いない。神の脚と謳われた才能を奪い去るなんて残酷な犯人だ。エミリーのときと同じように、家族は真実を求めているのだ。
「あの……フレンさん。さっき言っていたことは、本当なんですか?」
「双子の妹のこと? 本当だよ。驚いただろ?」
「いえ。私も……幼いころに父を亡くしていますから」
「そっか。メシアには――つらい過去を抱えた人たちが集まるのかな」
 冬空を仰いだフレンが言葉をこぼした。
 ディアナにも、フレンにも、
 そして――シエルにも、心の奥深くにしまいこんだ灰色の記憶があるのだろうか。


「お帰りなさい。外は寒かったでしょう? ご苦労様」
 極寒の世界から帰ってきた二人を出迎えたのは、温かい紅茶とディアナの微笑みだった。デスクの上には白い箱が置いてあって、中身が散乱している。箱に書かれた名前はミシェル・オブライエン。彼女の事件の捜査資料だろう。紅茶をこぼさないように注意しないと。琥珀色の染みなんてつけたら、怖い上司の怒りの鉄槌が降ってくるぞ。その怖い上司の姿が見えないことにティナは気づいた。
「チーフは出かけているんですか?」
「ちゃんといるわよ」ディアナがガラス張りのオフィスを指し示す。「そうそう。ティナにコーヒーを淹れてほしいって」
「え? 私にですか? ディアナさんが淹れたほうが、美味しくできるような気がしますけど」
「ごめんなさいね。私が淹れるって言ったんだけど、ティナじゃなきゃ嫌なんだって」
「……分かりました」
 上司の命令には逆らえない。ティナはオフィスレディではないし、そもそも警視なんだから自分で淹れてほしいと思う。まあいいか。日頃の仕返しをするチャンスだ。コーヒーメイカーでこれでもかというぐらいの濃いブラックコーヒーをブレンドして、ティナはシエルの立て篭もるオフィスに入った。デスクに頬杖をついているシエルは、嫌味なくらい長い脚を優雅に組んで捜査資料に没頭していた。久方ぶりの再会だというのに、彼は顔を上げようとしない。お帰りの台詞も言ってくれないのか。
「チーフ。コーヒー、淹れましたよ」
 頬杖に飽きたシエルの右手が差しだされる。さっさとよこせという催促だ。澄ました顔にぶちまけたい衝動を堪えて、ティナはコーヒーが揺れるカップを手渡した。資料に目を落としたままのシエルがコーヒーを口にする。覚悟しろ。究極に濃いブラックコーヒーだ。ティナはシエルの端正な顔が強烈な苦みに耐えきれずに顰められるのを待った。しかしいくら待っても、シエルは平然とした顔のままだった。シエルはコーヒーを飲み干した。分量を間違えてしまったのだろうか。
「あの、チーフ。コーヒー……苦くありませんでしたか?」
 わざわざ尋ねるなんて我ながら間抜けだと思った。落とし穴を掘った者が、あそこに落とし穴を掘りましたよと言っているようなものだ。やっとシエルが顔を上げた。
「いや。ちょうどいい味だ。お前にしては上出来だな」
「はぁ……ありがとうございます」
「なにか分かったのか?」
「いえ。特になにも……」
「そうか。ご苦労だった」
 空になったカップを携えたシエルの右手が伸びてきた。持って帰って綺麗に洗えと言っているようだ。これじゃ部下というよりメイドに近い。身軽になったコップを受け取るために、渋々ティナは手を伸ばした。すると突然シエルに手を掴まれたではないか。いったいなんなんだ。シエルが椅子から立ち上がった。資料から離れた青い視線は、彼女の手に注がれていた。
「どうしたんだ?」
「えっ? なにがですか?」
「右手の擦り傷だ。誰かに襲われたのか?」
 シエルに指摘されたティナは、掴まれたままの右手を見下ろして、自らの手の甲に刻まれた赤い傷に気がついた。オブライエン家を訪ねた際、ティナたちを拒絶しようとしたドアと格闘したときに負った傷だ。自分のとった行動で負ってしまった傷だから襲われたわけではないと説明したが、シエルの眉間の皺は消えなかった。愚か者。大馬鹿者。お叱りの言葉を覚悟する。しかしティナの覚悟に反して、漆黒の鷲は静かだった。
「……傷の手当てをしなければいけないな。モルグにいけば薬があるだろう。いくぞ」
「はっ……はい」
 デスクを回り込み、ドアを開けて出て行ったシエルの後に続く。エレベーターで地底世界へ。アクアリウムのような廊下を歩いてモルグに入った。騒がしく激しいロックミュージックは流れていない。まさかジャックは死体になってしまったのか。ティーンエイジャーの検死官は生きていた。音楽雑誌の代わりにカルテを読み耽っている。椅子よりもデスクの上が好きなようで、彼はデスクの上に座っていた。二人の気配を察知したジャックが顔を上げ、満面の笑顔を浮かべた。
「主任にティナじゃないっスか。変わった場所でデートするんですね」
「黙れ」シエルが光の速さで否定した。「アンバーが怪我をしたんだ。手当てしてやってくれ」
「了解っス。ちょっと待っててください」
 ジャックはデスクから下りると、薬品が詰まった瓶が整列しているステンレス製のパイプラックに駆け寄った。ジャックの手が瓶を回していく。瓶に貼られたラベルを確認しているんだろう。
「これはホルマリン。こっちは防腐剤。消毒薬は……あったあった。ティナ。ここに座ってくれよ」
 ティナはジャックが指差した椅子に腰を下ろした。薬品と絆創膏を装備したジャックがやってくる。防腐剤じゃないことを祈ろう。消毒薬を染み込ませたガーゼが傷口を撫でて、皮膚が少しだけ捲れて微かに血が滲んでいる傷口を絆創膏が覆い隠した。まるで興味がないといった表情で応急処置を眺めていたシエルが、突然ティナの髪に触れた。
「ひゃああぁっ!?」
 見事なフェイントにティナは飛び上がった。頭は怪我していないぞ。戸惑いながらシエルを見上げると、彼は何かを摘まんでいた。なにを見つけたんだろう。もしかしてティンカー・ベル? ティナは蜂蜜色の目を細めた。違う。赤くて細い。あれは一本の糸だ。
「あれ? ティナ、ブラウスが汚れてるぜ」
「え?」ジャックの視線を追いかけると、左の二の腕辺りが黒く汚れていた。「やだ! これ、お気にいりのブラウスなのに!」
 ティナが悲鳴を上げた刹那、赤い糸と黒い汚れを交互に見つめていたシエルの顔色が変わった。重大な事実に気づいたように、シエルが片手で口元を覆い隠す。膨大な情報がシナプスを駆け巡る。行うべき行動が、彼の背中を蹴り飛ばした。
「アンバー。お前とロゼラは、どこへいってきた?」
「え? えっと……ミシェルさんが通っていた、キアノスバレエアカデミーと、彼女のご家族の所です」
「エイヴォン。ミシェルのカルテを」
「主任も気づいたんですね。彼女の遺体には、赤い糸と黒い汚れが付着していました。すぐにラボに頼んで、その二つの成分と主任が採取した糸とあの汚れの成分を比較しますよ。と、言うわけで。ティナ、ブラウスを脱いでくれ」
「ばっ……馬鹿言わないでくださいよ! 下着だけになっちゃいます!」
「どんな色の下着なのか気になるなぁ。主任も気になりますよね?」
「子供の下着姿なんて興味ない。事件の手がかりになるんだ。早く脱げ」
 事件の手がかりなんだと言われれば脱ぐしかないだろう。医学書が詰まっている本棚の陰に隠れて、ティナはブラウスを脱いだ。シエルがそばにくる。ティナは慌てて上半身を隠し、脱ぎたてのブラウスを彼に渡した。シエルからジャックへブラウスのバケツリレー。赤い糸と白いブラウスが、証拠品袋に入れられた。
「すぐにラボに届けます。結果がでたら連絡しますよ」
「頼んだぞ。できるだけ迅速に」
「了解っス」
 二つの証拠を抱えたジャックは地上を目指して旅立った。シエルと二人きりになってしまった。おまけにティナは、白いブラウスを奪われて赤いチェック柄のブラ姿だ。間違いが起こらないといいのだが。シエルがティナに近づいた。心臓が飛び跳ねる。漆黒の鷲が空を飛ぶのをやめて、地上を駆ける狼になるというのか。過ちは起こらなかった。彼はティナの脇を通り抜けたかっただけのようだ。
「出かけるぞ。ついてこい」
「こんな格好で外に出ろっていうんですか?」
「馬鹿を言うな。服を取ってきてやる。替えの服ぐらい常備しているんだろう?」
「は……はい。ロッカーの中に入れてあります」
 ティナはウサギのキーホルダーで飾った鍵をシエルに渡した。鍵を受け取ったシエルは足早に出ていった。エレベーターが上昇していく音が聞こえてくる。骸骨の標本や人体模型に囲まれるのは好きじゃないから、一秒でも早く戻って来てほしい。三十分ぐらいだろうか。再びエレベーターの動く音が聞こえて、革靴の音がモルグの前で止まった。紺色のダッフルコートとキャメルブラウンの鞄に、黒の水玉模様のブラウスを両手に抱えたシエルが戻ってきた。
「急いで着ろ」
「あ……ありがとうございます」
 本棚の陰に身を潜めたティナは、シエルが持ってきてくれた衣類を受け取って身に着けた。リボンタイをつけてダッフルコートを羽織り、鞄を斜めがけに装着。いつものスタイルに変身完了だ。モルグからロビィへ移動する。ロビィの中央まで到達したとき、周囲を見回していた若い女性が駆け寄ってきた。依頼人のナタリアだ。蒼白な顔をしている。寒さのせいか。それとも、別の理由か。
「ノーマンさん。どうしたんですか?」
「アルタイルさん……! 私……私――!」
 青い目に涙を溜めたかと思うと、ナタリアはいきなりシエルの胸に縋りついた。黒い背中に腕を回したナタリアは、押し殺した泣き声を奏で始めた。そんなにくっつかないでほしいし、泣き声を上げないでほしい。野次馬の目が集まるじゃないか。ときすでに遅し。好奇に満ちた視線が三人に注がれていた。優しい動作でシエルはナタリアを引き剥がした。もしもナタリアがティナだったら、乱暴に突き飛ばすに違いない。
「落ち着いてください。なにかあったんですか?」
「私、事件の日のことを思い出したんです! 彼女が――ミシェルが――!」
 パニックに陥っているナタリアの言葉は支離滅裂で、まるで意味が分からない。見ているこちらまでパニックになりそうだ。
「申しわけないが我々は急いでいます。貴女にもきていただきたいのですが、構いませんか?」
 蚊の鳴くような声でナタリアが同意する。ナタリアを伴って職員専用の駐車場へ。漆黒のBMWがティナたちを待っていた。ロックを解除したシエルが運転席に乗り込んで、ティナとナタリアは後部座席へ乗り込んだ。沈むアクセルペダル。回るハンドル。三人を乗せた車は、真実が待つ場所へ向けて走り出した。


 車窓を流れる街並みがレーザービームのように通りすぎていく。バックミラーに映るバレリーナの顔は、相変わらず青いままだ。なにを思いだしたのか訊いてみないといけない。シエルに恋をしているナタリアは、ティナに話してくれるだろうか。
「ナタリアさん。事件の日のことを思いだしたって言いましたよね。お願いします。話してくれませんか?」
 充血した青い瞳がティナを映す。頷いたナタリアはシートに視線を落として、グロスで潤っている唇を開いた。
「あの日――ミシェルはキアノスで誰かと激しく言い争っていたの。とても激しい口論だった」
「おかしいですね」前を向いたままのシエルが問いかける。「当時の捜査資料を読み返しましたが、貴女はミシェルが誰かと口論していたと警察に話していなかったようだが……」
 しなやかな両手を握り締めたナタリアは涙を零し始めた。脆い涙腺だ。バレリーナというだけあって、感受性が強いのだろう。千年に一人の天才は重大ななにかを隠している。ティナは直感した。
「……ごめんなさい! 私、怖くて言えなかったの! まさか、あの人が――」
 肝心な部分は車が目的地に到着して停止した音に掻き消されてしまった。タイミングが悪すぎる。運転手のシエルに文句を言いたいぐらいだ。運転席から離脱したシエルが後部座席のドアを開けて、ナタリアを外まで導いた。隣にいるティナは見事に放置された。同じXXの染色体を持っているのに。扱いの違いに腹が立った。
 堅牢な古城がティナたちを押し潰すように見下ろしている。ここは、キアノスバレエアカデミー。今朝、ティナとフレンが足を踏み入れた名門校だ。音楽の女神は顰め面だった。ティナたちが災いを運んできたと思っているのだろう。残念だが顰め面はシエルに通用しない。女神を無視した青年は、堂々と中に入っていった。
 事務所でアンナ・ノーマンの場所を尋ねてみると、警察の二度目の来訪に事務員は顔を顰めはしたものの、丁寧に対応してくれた。この仕事に誇りを持っているのか、それとも突然舞い降りたモデル並みの容姿を持つ美青年に声を掛けられて、舞い上がったのだろうか。
 螺旋階段と廊下をクリアして3Aクラスの教室へ。優雅な旋律のクラシックもダンスの指示も、手拍子も聞こえてこない。三人の靴音だけが静寂の中に木霊する。先頭のシエルがドアを開け、ティナとナタリアがそのあとに続く。鏡に囲まれたアンナがそこにいた。
「アンナ・ノーマンさんですね? 我々は――」
「知っているわ。ニューランドヤードの刑事で、ミシェル・オブライエンを殺害した犯人を逮捕しにきた。そうでしょう?」
 多少の高慢さを残していたものの、アンナの表情は穏やかだった。まるで、ティナとシエルがくることを予期していたかのようだ。
「そのとおりです。アンナさん、貴女をミシェル・オブライエン殺害容疑で逮捕します」
 ナタリアが息を呑んだ。突拍子もない台詞に目を丸くしていたアンナが笑いだした。コメディ映画に笑い転げる観客みたいに、人を馬鹿にしたような笑いかただった。
「私がミシェルを殺した犯人ですって? 笑わせないでちょうだい。私を逮捕したいのなら、証拠とやらを持ってきなさい」
 確かにアンナの言うとおりだ。罪を犯した罪人を逮捕するには、その者が咎人だという証を探し出さなければならないのだ。ティナが知るシエル・アルタイルは、準備も整えずに突入するような愚か者じゃない。シエルのコートのポケットが振動した。シエルがスライド式の携帯を取りだす。失礼と断ると、彼は会話を始めた。会話が終わる。切れ長の青い目に鋭い光が宿っていた。
「貴女が欲しがっている証拠をお見せします。ここでは都合が悪い。踊り場までいきましょう」
 訝しむアンナを連れて、シエルを先頭にティナたちは教室を出た。螺旋階段の踊り場まで移動する。降り注ぐ陽光が、なにかの予兆に見えた。シエルは立ち止まると振り返った。シエルとアンナの視線が衝突した。大空から地上に舞台を移したドッグファイトが始まるのだ。
「赤い絨毯に黒い手摺り。この二つが証拠です」
「何ですって?」アンナの口元が斜めにつり上がる。「全然意味が分からないわ。その二つと私が、どうつながるっていうの?」
「ミシェルの身体には、赤い繊維と黒い汚れが付着していました。それと似た物質を手に入れた私は、その二つと彼女の身体に残っていた二つの成分を分析するように指示したんです。結果がきました。両者は見事に一致しましたよ。ミシェルは、ここで殺害されたんです」
「階段から落ちたときについただけかもしれないじゃない。どうして殺害されたと断言できるのかしら?」
「ミシェルの両脚の骨折は、階段から落ちる前にできたものなんです。脚が折れた状態で階段から転落するのは至難の業だ。誰かが彼女の脚を折り、そして階段から突き落として殺害した。私はこう考えています」
「それが事実だとしたら、ミシェルの脚を粉々にした凶器はどこにあるの?」
「そうですね――」シエルが視線を巡らした。「あれなんか、ちょうどいいんじゃないですか?」
 シエルがある一点を指差した。指の先を追いかけると、ガラスの箱に保護された賞状とトロフィーと、箱の脇に掲げられている優勝旗が置いてあった。逞しい太い竿だ。渾身の力を込めて殴ったら、人間の骨なんか簡単に砕けるだろう。シエルが優勝旗に近づいた。黒い手袋を嵌めたシエルの長い指が、竿の表面をなぞる。
「アンナさん。血液というものは簡単に落ちるものじゃないんですよ。死に物狂いで磨いても、ルミノールを吹きかければすぐに分かってしまうんです。信じられないと仰るのならば、鑑識を呼んで貴女の目の前で検査を行いますよ」
「私が殺したっていう証拠にはならないわ! 別の誰かが殺したかもしれないじゃない! ふざけないで!」
 シエルの推理にアンナは顔を紅潮させて抵抗した。明らかに動揺している。ティナとフレンが訪ねていったときには女王のように堂々としていたのに、相手が大人だとこうも態度を変えるのか。自分が犯人じゃないと確信しているのならば、こんなふうに動揺したりしないと思う。胸を張って私は潔白ですと証言したらいいだけなのだ。
「ママ! もうやめて!」ティナの後ろに控えていたナタリアが飛び出した。「もういいよ! 私、見たの! ママとミシェルが言い争っていたところを――」
「ナタリア……」
「大きな音がして、螺旋階段の上からミシェルが落ちてきたわ。すぐにママが下りてきて、動かないミシェルを運んでいった。怖くなった私はなにも見なかったって自分に言い聞かせて、オーディション会場に向かったわ。恐ろしい真実から目を背けるために、必死で踊ったわ。そして今の私が生まれた。ミシェルが生きていたら、あの子が私の代わりに踊っていたわ! 私がミシェルの未来を奪ったのよ! 私が――!」
 身体を支えていた糸が切れ、ナタリアは床に崩れ落ちた。涙を堪える気力がつき果てたらしく、大粒の涙が墜落していく。駆け寄ったアンナが娘が蹲る床に膝をつき、彼女を抱き締めた。シエルを見上げたアンナの顔からは、あの高慢さが消え去っていた。犯した罪からは逃げられない。そう悟ったのだろう。
「……刑事さん。貴方の言うとおりよ。私が――ミシェル・オブライエンを殺したわ」



<2002 March Day12>



「オーディションに出るなって!? ふざけないで!」
 雀斑の散った頬を紅潮させた赤毛の少女が叫んだ。いつも内気で大人しいくせに、バレエのこととなるとこの少女は燃え盛る炎のように激しくなるのだ。ミシェルが反論するのはアンナの想定内だった。次の作戦へ移ることにしよう。
「もちろん謝礼は弾ませてもらうわ。そうね……三百万でどう?」
「お金を渡せば私が犬みたいに言うことを聞くと思ってるの!? 貴女、人を馬鹿にしてるわ!」
「馬鹿にしたつもりはないわ。貴女の家はあまり恵まれていないのでしょう? はっきり言わせてもらうと、キアノスは貴女みたいな貧しい家の子が来るところじゃないのよ。卒業できただけでも奇跡と思いなさい。三百万も手に入るのよ? 諦める価値はあると思うわ」
「私の夢はお金なんかで左右されるほど、弱いものじゃない。ノーマン先生、このことは理事長に報告させてもらいます。オーディションの時間に遅れるので、失礼します」
 ミシェルの放った正義の一言が、アンナの怒りを爆発させた。報告だって? 冗談じゃない。ミシェルがキアノスの権力を掌握している理事長に密告すれば、確実にアンナの地位は失墜する。無論、娘のナタリアの将来も危ぶまれるだろう。
 どうすれば――どうしたらいいの? 
 その時だった。
 悪魔が囁いた。
 ダレモミテイナイ。
 コロセ。
 コロシテシマエ。
 教室を飛び出したアンナはミシェルを追いかけた。見つけた。螺旋階段の手前だ。ガラスケースの脇に掲げられている優勝旗を掴んで振りかぶり、アンナはミシェルの後頭部を殴った。倒れるミシェル。もう狂気は止まらない。滲み出る憎しみが、怨念が、アンナの理性を奪い去っていた。
「なにが――神の脚よっ! 私はナタリアを一流のエトワールにするって決めたわ! スポットライトに照らされるのは、喝采を浴びるのはあの子だけよ! 貴女は邪魔なの! 邪魔なのよっ! 邪魔なのよ――!」
 アンナは栄光と名誉の象徴である優勝旗をミシェルの両脚に何度も振り下ろし、神の脚を打ち砕いた。凶器がぶつかるたびにミシェルは悲鳴を上げていたが、骨を砕かれる激痛に負けたようで、彼女は気を失った。死んだのだろうか。いや、まだ微かに息がある。生かしておく慈悲は持ち合わせていない。
 アンナはオーディションのために絞ったミシェルの身体を引き摺り、車輪のように回っている階段目がけてミシェルを放り投げた。けたたましい音を奏でながら、神の脚を持った少女が落ちていく。常人からしてみれば、その音は耳障りな不協和音に聞こえただろうが、アンナにはその音が運命の騎兵隊が奏でる喇叭の音色のように素晴らしく、美しい音に聞こえたのだった。なぜだろう。人一人を殺したというのに、不思議と罪悪感は感じなかった。むしろナタリアの未来を守れたことに誇りすら感じていた。
 ごめんなさいね、ミシェル。
 これでナタリアは、誰もが羨む美しい白鳥になれるのよ。
「Arrivederci(さようなら)」


 鳴り響くサイレンが教室の壁を突き抜けて聞こえてきた。シエルが呼び寄せたパトカーが到着したのだ。罪を自白したアンナを乗せたパトカーが走り去る。滅多に見れない光景を見ようと、生徒たちが窓から顔を出していた。ティナ達を押し込んだBMWもパトカーに先導されて、ニューランドヤードに帰還した。
 手錠を嵌められたアンナがパトカーから出てきた。ナタリアとアンナ。同じ色の目を持つ親子の視線が交わった。ノーマン親子は挨拶を交わすことも、ハグを交わすこともなかった。アンナが刑事に連れていかれる。ナタリアがいる世界とは違う世界に隔離されるのだ。母の背中を見送ったナタリアが振り返った。頭を下げて、彼女は健気に微笑んだ。
「……ありがとうございました。これで、ミシェルと彼女のご家族は救われます」
「近いうちに家族が犯罪者だと知られるでしょう。貴女の活動に支障がでるのは確実だ。アンナさんを恨みますか?」
「……いいえ」ナタリアが首を振る。金色の髪が彼女の頬を叩いた。「不思議ですね。私、母を恨んではいないんです。同じ血と遺伝子を持っているからでしょうか。母は私のことを思って罪を犯してしまった。犯した罪は償わなければいけないわ。たとえ死刑の判決が下されたとしても、私は母を待ち続けます」
「……愛する子供を残して光の国に旅立つ親は大馬鹿者だ。大丈夫。アンナさんは必ず帰ってきますよ。では、失礼」
 人から感謝されることが苦手な捻くれた青年は、漆黒のコートを冬の風に揺らして立ち去った。
「――素敵な人ね」溜息と一緒にナタリアが呟いた。「彼と一緒に働いている貴女に嫉妬しちゃうわ」
「え!? 全然素敵じゃないですよ! 俺様だし、意地悪だし、冷淡だし――」
 まさか美貌と才能に恵まれた天才バレリーナに嫉妬されるとは。ティナが全力で否定すると、ナタリアは笑った。なんで笑うんだ。おかしいことは言っていないのに。
「私ね、この前アルタイルさんに告白したの」
「えええっ!?」
 ナタリアの衝撃の告白にティナは絶叫した。いつのまに部下の目を盗んで絶世の美女と密会していたんだ。それにしても、あの漆黒の鷲を呼び出した方法が気になる。美味しい餌で釣ったのか。今は文明の機械が溢れる現代だから携帯電話を使用したに違いない。ということは、電話番号かメールアドレスを交換したということか。動揺するティナに気づいているのかいないのか、ナタリアは言葉を続けた。
「そしたらね、こう言われたの」
『貴女のお気持ちは嬉しいが、受け取ることはできない。目を離すとなにをしでかすか分からない間抜けな部下がいるので、常に側にいて目を光らせておかないといけないんです。貴女に相応しい男性が必ず現れますよ』
 目を離すとなにをしでかすか分からない間抜けな部下とは、間違いなくティナのことだろう。少しは認めてくれてもいいと思うのだが。
「――私、踊れるかなぁ。いろいろありすぎて、心が折れちゃいそう」
 唐突にナタリアが弱音を吐いた。驚いたティナは彼女を見る。爪先を軸にして一回転したナタリアは、妖精のように儚い微笑みを浮かべていた。
「そんなこと言わないでください。世界中の人たちがナタリアさんの踊りに勇気を貰ったり、愛を感じたりしています。私もナタリアさんのバレエが大好きです。踊ってください。ミシェルさんと一緒に」
 儚い微笑みは姿を消して、太陽に愛された輝くような笑顔がナタリアの顔を覆い尽くした。ナタリアがティナをハグする。甘く可憐な花の香りがした。
「……ありがとう、アンバーさん。私は踊り続けるわ。世界中の人たちや、ママとミシェルのために。これ、よかったら受け取って」
 ティナを解放したナタリアが、バッグから二枚のチケットを取りだした。受け取ったティナが確認すると、それはバレリーナのシルエットが印刷されたバレエの公演のチケットで、おまけに神様に選ばれたVIPしか座れない特等席の指定券だった。
「ナタリアさん!? これ――!」
「大丈夫。賄賂じゃないから。アルタイルさんと二人で観にきて。待ってるわ」
 もう一度ティナとハグを交わしたナタリアは、ニューランドの街に消えていった。


「そうか――ナタリアさんの母親がミシェルを……」
 複雑な表情を浮かべたオリヴィエは言葉を途切れさせると、膝の上に乗せた手を握り締めた。アンナが逮捕された翌日、ティナは一人でオブライエン家にきていた。目的はただ一つ。事件解決を知らせるためだ。クレアの姿は見えない。風邪をこじらせて入院しているとオリヴィエが教えてくれた。ティナが彼に返したミシェルの写真は再び額に入れられて、キャビネットを飾っている。写真立ての隣には、真新しいトウシューズが添えられていた。
「あのトウシューズはミシェルさんの履いていた物ですか?」
「ん? いや、違うよ。あの靴は――昨日、ナタリアさんが持ってきてくれたんだ。バレリーナになったときに同じ靴を履こうって約束してたみたいでさ、わざわざ買ってきてくれたんだよ」
 オリヴィエの横顔に浮かんでいた微笑は消え、暗い影が彼の顔を包んだ。
「……彼女は泣いて謝ったんだ。ミシェルが死んだのは私のせいだって。でも、俺はなにも言えなかった。肯定することも、否定することもできなかった。不思議だよな、妹を殺した奴をあんなに憎んでたのにさ。誰が悪いってわけじゃない。ただ――歯車が狂ってしまっただけなんだって思う。前に進もうと思うんだ。きっと、ミシェルもそれを望んでる。いつまでも悲しんでたら、アイツは天国にいけないからな。アンバーさん。ミシェルの魂を救ってくれてありがとうございました」
「いえ、お礼なんていりません。無理はしないで、少しずつ前に進んでください」
 ミシェルを想うオリヴィエの思いが、ティナの心に静かに沁み渡った。オブライエン家をあとにしたティナは職場に戻った。すると、見慣れない紙袋がティナのデスクの上を占拠しているではないか。開けてもいいのかと判断に迷ったが、ティナのデスクの上に置いてあるのだから開ける権利はティナにあると思う。丁寧に開封すると、繊細で可憐なフリルに飾られた純白のブラウスと、アーガイル模様の紺色の手袋が入っていた。
「ティナ? どうしたの?」
「ディアナさん! このブラウスは誰が?」
「それ? ティナが出かけたあとに、チーフが置いていったのを見たよ。さり気なくね」
「チーフが? 本当ですか?」
「チーフはいつもの場所にいるわ」
 新品のブラウスを抱えたまま、ティナは奥のオフィスに飛び込んだ。ブラシでコートの埃を払っていたシエルが振り向いて、不快そうに端正な顔を顰めた。ノックをしてから入るのが礼儀だろう、大馬鹿者。シエルの無言の毒舌も、ブラウスを手にしたティナには届かなかった。
「アルタイルチーフ! このブラウスは――」
「証拠品として押収したお前のブラウスが、ラボのミスで使いものにならなくなってしまってな。仕方がないから、代わりの服を買ってきた。それだけだ。服の一枚で騒ぐな」
「ブラウスのことは分かりましたけど、この手袋は?」
「服を買ったらおまけで貰った。手袋がないと喚いていたから、お前に渡そうと思ったんだ」
「あっ――ありがとうございます!」
 恐らくおまけで貰ったというのは嘘だろう。喜びで頭がいっぱいになったティナは跳躍して、シエルに抱きついてしまった。ティナの頭を理性がノックして彼女に警告する。我に返ったティナは、地雷原を走り抜けるよりも危険で愚かな行動を取ってしまったことに気づき、恐る恐る顔を上げて上司の反応を窺った。シエルは硬直していて、青い視線を宙に彷徨わせていた。ティナは慌てて彼から離れた。
「ごっ――ごめんなさい! つい、嬉しくて――!」
 謝ってはみたがシエルは無言だった。なんでもいい。彼の機嫌を直せるものはないだろうか。ティナはとある贈り物を思い出した。鞄から例の贈り物を取りだして、シエルの目の前に突き出した。
「あの……チーフ。ナタリアさんからバレエのチケットを貰ったんです。誰かと観にいってください」
 ティナからチケットを受け取ったシエルは、公演時間に目を走らせると青い視線をティナに向け、思いもよらない台詞を口にした。
「アンバー。今から観にいかないか?」
「え? 今からですか? でも、仕事が――」
「仕事なんていつでもできる。メシアは殺人課の窓際部署だ。どうせ今日も暇だろう。いくのか? いかないのか? 早く決めろ」
「いっ……いきます!」
 せっかく貰ったチケットを無駄にはしたくないし、断ればシエルの機嫌は更に悪くなるだろう。ディアナとフレンに行き先を告げたシエルは、うるさい上司に訊かれたら、適当にごまかしておけと補足した。指名手配の犯人を見つけたとか、捜査の訊きこみにいったとか、いかにも刑事らしい言い訳を期待しよう。
 ティナとシエルは、バレエの公演が行われるニューランド国立劇場に到着した。馬蹄形をした煌びやかな外観に圧倒されてしまう。入っていく人たちは正装をしている。ティナのような子供が入場してもいいのだろうか。服装はそれなりに整ってるし、チケットも持っているから大丈夫だ。
 シエルが受付にチケットを見せる。お子様はお帰りくださいとは言われなかった。二人は係員に特等席のプラテアへ案内された。一番高い席はプラテアと呼ばれる一階席と、その一段上にあるパルコというボックス席だ。そこから上は天井に近くなるほど安い席になっていて、最上階が天井桟敷ガッレリアとなる。客層は座席によって微妙に異なり、プラテアは着飾った紳士や淑女の社交場で、ガッレリアには音楽学校の学生や常連たちが、普通の服装で陣取っているのだ。
 ティナとシエルは、舞台と目と鼻の先の席に座った。3D映画よりもダイナミックだ。淑女たちがシエルを見つめて互いに囁き、熱い視線を送っている。なかには妖艶な流し目を送っている女性もいた。もちろん、腕と脚を組んだシエルは我関せずだ。少しは微笑みかけてもいいと思う。激しい嫉妬の視線がティナに突き刺さった。どうやら恋人同士だと思われているみたいだ。誤解ですよと教えてあげたいが、信じてくれないだろう。
 世界が暗転して、白いライトが舞台を照らしだした。上がる緞帳と控え目な拍手。純白のチュチュを纏ったプリマドンナ、ナタリア・ノーマンが現れた。ナタリアがお辞儀をする。音楽が流れ出した。ゆっくりと、静かに、ナタリアが踊り始めた。
 アラベスク。ピルエット。ファイイ。王子役とのバ・ド・ドゥ。リフト。ナタリアのしなやかな身体が宙を舞い、美しいバ・ド・シャを描いた。雪のように真っ白なチュチュを纏ったナタリアが跳躍する姿は、まさに大空を舞う白鳥そのものだった。
「アルタイルチーフ」
「なんだ?」
「ナタリアさんとミシェルさんが、一緒に踊ってます。私には、見えます」
 そう、ティナには見えていた。二人のプリマドンナが白鳥の湖を踊っている場面が。ナタリアと踊るために、ミシェルの魂が還ってきたのだ。物語はフィナーレへ。グラン・バ・ド・ドゥが始まる。アントレ。アダージュ。男女のバリアシオン。曲が盛り上がるコーダ。高度なテクニックが物語を彩る。そして、王子に恋をした白鳥の物語は終わった。ナタリアは見事に主役を演じきった。スタンディングオベーションと鳴り止まない拍手喝采。ティナも拍手を送るが、シエルは腕組みを崩さなかった。
「まさに、エトワールだな」
「エトワール?」
「星のことだ。バレエの世界では花形ダンサーのことをいうんだ。私たちにしか見えない二つの星が輝いている。綺麗だと思わないか?」
「……はい。とても綺麗です。眩しいくらい」
 シエルの言葉がティナの胸の奥に沁み込んでいき、鼓動が一回大きく跳ねた。素敵な人ね。ティナはナタリアの言葉を思いだした。ティナとシエルを見つけたナタリアが微笑んだ。ティナも微笑みを返す。約束どおり、二人で観にきたよ。
 輝いていた星の片割れが、満足したように消えていく。
 ミシェルの魂が光の国に旅立ったのだ。
 それでも彼女の思いは星となり、クレアとオリヴィエ、そしてナタリアを見守り続けるだろう。
 いつまでも、ずっと――。