ニューランドの朝を走る地下鉄は、焼きすぎたトーストのように最悪だ。
 以前友人が言っていたことを思い出したティナは、まさしくそのとおりだと思った。
 朝の通勤通学の乗客が乗り込んだ地下鉄は、サイズの合わないスカートのように窮屈で息苦しく、乗客の口から吐き出される呼吸が天井にまとわり付いて、車内に漂っている新鮮な空気を奪っていくのだ。まさに熱帯雨林の如き蒸し暑さだ。これだけでも最悪だというのに、ティナはさらなる窮地に陥っていた。
 地下鉄に乗り込んでから数分も経たないうちに、梅雨の空気を彷彿とさせる湿った感触が、黒いハーフパンツに包まれたティナの臀部を這い回っていた。吐き気を催しそうなほどの不快感から逃れようと身体の位置をずらしてみても、その感触は卵から孵化したばかりの雛鳥のようについてくる。満員電車で遭遇する社会的迷惑行為――いわゆる痴漢にティナ遭っているのだ。迂闊だった。痴漢に遭うわけがないとたかをくくっていた自分が恨めしい。
 暗い窓の外に停車駅が映るが、残念なことにティナが降りる駅ではなかった。電車は律儀に停まる。シルバーのボディの彼は、痴漢に弄ばれる少女を乗せていることを知らないのだ。ドアが開いて数人の乗客が足早に降りて行き、降りて行った乗客の穴を埋めるように乗客が乗り込んで来た。ティナは人波に攫われて、目立たない通路の隅に漂着してしまった。
 車体が恐竜の尻尾のように大きくしなる。地下鉄がカーブを曲がり、車内は左右に揺れた。ティナは壁に押し付けられて、無表情な白い壁とお見合いするような格好になった。ようするに痴漢に背中を向ける格好で、あまりにも不利な陣形だった。嫌らしさを含んだ吐息がティナの耳に湿気を与える。大勢の人間が詰め込まれているのに、誰も気づいてくれないなんて――。
 半ば絶望し、半ば諦めかけた時だった。ティナの視界の端で黒い影が翻り、彼女と痴漢の間に割り込んだ。まるで、空を貫く稲妻のような現れかただった。助けに入ったヒーローの手が、ティナの身体に張り付いていた痴漢の手を払い除け、彼女の背後で自慰行為に浸っていた中年の頭の禿げたサラリィマンの腕を掴んだ。見たまえワトソン君! ホームズが犯人を捕まえたぞ!
 地下鉄は待ち望んでいた終着駅に到着した。犯人を確保したホームズがホームに降りる。もちろんティナも後を追いかけた。被害者の証言は重要な証拠の一つだからだ。駅のベンチが取調室の代わりを申し出る。中年のサラリィマンは、台所を漁っていて捕まったネズミのように縮こまった。
「――さて、何か言いたいことはあるか?」
 パイプを銜えていないホームズが、白煙の代わりに言葉を紡いだ。ティナを救い出したヒーローは、若い青年だった。黒いコートに黒いスーツを見にまとい、焦げ茶色の革の鞄を肩に提げている。恐らく通勤途中なんだろう。シャツとネクタイを除いて全身黒ずくめだ。サラリィマンは舌を抜かれたようになにも答えない。ただ小刻みに震えているだけだった。
「何も言わないということは、犯した罪を認めるということだな。君、駅員を呼んできてくれ」
「まっ――待ってくれ!」サラリィマンが沈黙の誓いを破った。脂汗にコーティングされた頭が光る。
「お願いだ! 見逃してくれ! 私には、妻と三人の子供がいるんだ! 金輪際痴漢なんてしない! だから――」
「見逃してくれ、だと? 婦女子を冒涜するような行為をして、罪を逃れようとでも言うのか? ふざけるな。生憎、私は貴様みたいな下衆野郎を見逃してやるほど甘くはないのでな」
 青年がスーツの胸ポケットから取り出した物を男に突きつけた。途端に男の顔が、蒼白を飛び越えて真っ白に染まった。一体、なにを見せたのだろう。肩越しに振り返った青年は苛立っていた。ティナが駅員を呼んでいないことに、些か不満を感じているようだ。
「何をしているんだ。早く駅員を呼んできてくれ」
「でも――」
「お願いします! 見逃して下さい!」
 ベンチから飛び下りた男が青年の長い脚に縋りついた。黒い聖者の足を洗えば救済されるかもしれないが、それは遥か昔の物語で、現代では通用しないだろう。青年の目は冷たいままだ。駅の事務所までこの下衆野郎を引き摺っていくしかない。彼が決意したのが分かった。サラリィマンの襟首を掴んだ青年の手をティナは掴んだ。
「……なんの真似だ?」
「待ってください! 反省しているようですし、許してあげてもいいんじゃないですか?」
「君は馬鹿なことを言うんだな。下手をすれば、トイレか人気のないところに連れ込まれて、レイプされていたかもしれないんだぞ? 反省なんて死人でもできる。更生した振りをして、同じことを繰り返すのがオチだ」
「でも、私は襲われていません。一度だけチャンスを与えてあげてください。お願いします」
 瞬く間に空気が張り詰めていく。息をするのが怖いくらいで、青年と視線を合わせたまま、ティナは呼吸を止めていた。ティナの肺が限界を迎えようとしたとき、青年が溜息を駅のホームに落とした。犯罪者の襟首を掴んでいた掌が開かれて、哀れなネズミが地面に落ちた。
「……彼女に感謝するんだな」
「あっ――ありがとうございます!」
 罪から解放されたサラリィマンが地面に額を擦りつけ、感謝の言葉を連呼した。汗の量が半端じゃない。きっと、彼のスーツは使いものにはならないだろう。膝を折って、ティナは彼の傍らに屈みこんだ。
「おじさん」ティナは汗まみれの肩に触れた。額に泥を塗りたくった男が顔を上げる。「もう、こんなことしないでくださいね。奥さんと子供たちのために」
「……はい」
 通行人の視線が好奇心から疑惑に変わる前に早くいってほしい。肩を叩いてティナは出発の合図を送った。深く深く頭を下げると、サラリィマンは人混みの中に溶け込んでいった。さあ、ヒーローにお礼を言わないと。助けられたヒロインの役目だから。
「あの――えっ?」
 青年にお礼を言おうと振り向いたティナは、驚いた拍子に間抜けな声を奏でてしまった。痴漢を捕まえた若きヒーローの姿が消えていたからだ。まるで、スパイダーマンやバットマンみたいに。よほど正体を知られるのが嫌なんだろうか。冴えない新聞記者か。それとも大企業の御曹司か。
「うそ! もうこんな時間?」
 華奢なデザインの時計に視線を落としたティナは叫んだ。痴漢騒動でかなりの時間を浪費していたからである。今日から初仕事だというのに、遅刻をすれば確実に第一印象は悪くなる。自分が運命の出会いをしたことに気づかないまま、ティナは駅の構内を駆け抜けていった。


 ラグーナと呼ばれる潟に点在する100以上の島から構成される水上都市ニューランド。その中心であるニューランド本島には150もの運河が張り巡らされ、400を超える橋が街を結んでいる。サン・ルチア駅を出たティナは、ヴァポレット乗り場へ急いだ。ヴァポレットとは大運河とラグーナを運航する水上路線バスのことで、本島内の32の乗り場とほとんどのエリアをカバーしているのだ。基本は10路線だが、臨時路線が加わることもある。
 切符売り場で切符を購入したティナは、切符を刻印機に通した。抜き打ちの検札があり、刻印がないと無賃乗車だとみなされてしまうからだ。大運河に掛かるマク・リール橋の下を船はくぐり抜けた。柱廊の内側に並ぶ商店と運河を行き交うゴンドラが、ニューランドに華やかさと賑わいの彩りを加えている。
 マク・リール橋はサン・ルチア駅から本島まで続く大運河のほぼ中間に位置している。13世紀には木造の端が架けられていたのだが、度重なる焼失と崩壊のため、15世紀後半に現在の大理石の橋に建て替えられたのだ。
 幸い検札に引っ掛かる事もなく、40分の優雅な船旅を終えたヴァポレットは本島に到着した。ヴァポレットを降りてしばらく歩く。大勢の人たちが、まるで見えない糸に導かれるように、ティナと同じ方角を目指している。大きな鞄を提げた者。数個のカメラをペンダントのように首から提げた者。傍から見ても分かる。彼らは観光客だ。
 観光客は街に潤いと災厄をもたらしてくれる。お金を落として商業を活性化させ、ゴミをばら撒いたりするのだ。彼らがこなければ街は潤うこともないし、迷惑を被ることもないだろう。まさに複雑怪奇な生き物だ。観光客の流れに乗って歩き続けると、1000年の年月をかけて創造された世界の大広間が見えてきた。
 ニューランドの中心的広場サン・ソヴィーノ広場。多くの芸術家を魅了し、かの英雄が「世界で最も美しい空間」と褒め称えた広場である。黄金のファサードが煌めくサン・ソヴィーノ寺院。隣に佇んでいる優美なアーチを描く建物が、総督の館だったド・カーレ宮殿で、宮殿の手前にそびえる鐘楼の屋上からニューランドとラグーナを一望できるのだ。広場をコの字型に囲んでいるのが新旧の行政長官府で、現在は二階より上が博物館や絵画展、図書館として使用されている。
 しかしいつ見ても美しい。神のような威圧感を感じるほどだ。足をひき止めようとする広場にさよならを告げる。遅刻しそうだったティナは、歩きから駆け足にギアチェンジした。フル・スロットルでカッレと呼ばれる小路を陸上選手のように走り抜ける。狭かった視界が開けた。目的地に辿り着いたのだ。
 街の景観を損なわないようにデザインされたビルが、ティナが目指していた場所だ。長い身体をくねらせた青い竜がティナを見下ろしている。青い竜の正体は、ニューランドを象徴する紋章だ。意地悪な緊張が這い上がってきて、ティナの胃袋を締めつける。深呼吸を三回したティナは、ビルの中に足を踏み入れた。
 森の奥の湖畔のような静けさは瞬く間に追い出され、これぞ都会といった喧騒と入れ替わった。ロビィを動き回る人々は、女王蟻の為に働く働き蟻のようだ。人相の悪い男たちが、欺瞞に塗れた顔や欲望に忠実な薄ら笑いを張り付けた顔でティナを見つめてくる。男たちを制服を着た屈強な警官が小突く。ここはニューランドヤード。街の治安を守り続ける警察署なのだ。
 十六歳の若さでティナが警察官になったということは、特に珍しいということではない。この世界では一定の年齢に達すると、自らが就きたい職業を専門的に学べる教育機関にいく資格が与えられるのだ。学習期間は四年間。もちろん、学費は馬鹿にならない。両親の援助に支えられたティナは無事に卒業して、念願の警察官の職に就くことができたのだ。
「あの……」
 ティナは受付のカウンタの内側に陣取った警察官らしき男性に声を掛けた。ジャンクフードを片手に携えた男がティナに気付いた。丸々と太った身体は脂肪と栄養を蓄えすぎている。貧困に喘ぐ人たちに分けてあげればいいのに。本当に警官なのか勘繰りたくなる外見だったけれど、制服を着ているし、黄金色のバッジを見つけたから本物だろう。
「何でしょうか?」丁寧な言葉遣いだったが、明らかにティナを馬鹿にしている声だ。
「えっと……特殊捜査課ってどこですか?」
「特殊捜査課?」ソーセージのような指が、器用にパソコンを操作していく。「あぁ――メシアのことだな。で、その特殊捜査課になんの用だ?」
「私、今日からそこで働くことになっているんです」
 チップスを摘まもうとした指の動作が止まり、次いで男がけたたましい笑い声を上げた。全身の笑いのつぼを刺激されたのかと思うほど、失礼極まりない笑いかただった。
「なっ……なにがおかしいんですか?」
「だってよ、アンタみたいな子供が警官ってことになるんだぞ? おかしくておかしくて、笑い死にしそうだ」
「法律では認められていることです! 笑わないでください!」
 懸命かつ必死に抗議してみたものの、受付の男は笑うことをやめようとしなかった。警察官は市民の味方じゃないのか。ティナの怒りが頂点に達しようとしたそのとき、甘い香水の香りがした。洗練された薔薇の香りだ。
「よしなさい、ヴェラ。彼女に失礼よ」
 ガラスを指で弾いたときのような、透明で涼やかな声が響いた。梢を吹き渡る風のような声は、沸騰していたティナの怒りを連れていってくれた。肩越しに振り返ると、うら若き一人の女性がティナの後ろに立っていた。
「よぉ、ディアナ。相変わらず美人だな。どうだ? 俺とデートしないか?」
「お断りするわ。今まで何人の人が目くじらを立てて帰ったのかしら。まったく……貴方は受付に相応しくないみたいね」
「今頃気づいたのかよ。上の野郎にそう言っとけ」
「自分で言いなさい。彼女は私が案内するわ」
「それがいい。嬢ちゃん。漆黒の鷲に内臓をつつかれないように気をつけな」
「えっ? なっ……内臓? つつかれる?」
「気にしないで。行きましょう」
「はっ――はいっ!」
 金色の髪を揺らした女性が歩き出した。礼儀知らずの受付の男を睨んでから、ティナは彼女の後を追いかけた。エレベーターホールは混雑していた。ホールの片隅には階段が佇んでいるというのに、誰も使おうとしない。凶悪な殺人犯を追いかけるために両脚を大切にしたいのだろう。
 人混みを掻き分けて到着したエレベーターに乗り込む。鋼鉄の箱もすし詰め状態だった。さしずめティナ達は、頑丈な箱に詰められたプレゼントの品ということか。送り主の下を目指して、ティナたちを乗せたエレベーターは上昇していった。
 窮屈さと息苦しさに辟易し始めたころ、エレベーターは目的の階に到着した。リボンがほどかれた鋼鉄の箱が開封され、ティナと女性は五階で離脱した。廊下を奥に進むにつれ、多かった人の往来が目に見えて減ってきた。まるで、誰もが奥の部屋を避けているようだ。一つのドアとプレートがティナの視界に映る。板チョコに似たプレートには「特殊捜査課」の文字が明記されていた。
 特殊捜査課――通称メシアとは、五年前に一人の刑事によって新設された、未解決事件を専門に取り扱う部署のことである。しかしその存在はあまり世間一般には認知されておらず、輝かしい功績も聞いたことがない。それゆえにメシアは窓際部署として見下され、冷遇されていると聞く。
「ここが特殊捜査課のオフィスよ。入って」
 女性が開けたドアを通り抜け、ティナは特殊捜査課のオフィスに足を踏み入れた。敬遠されている部署だから室内は荒れ果てていると思っていたが、中は意外と綺麗に整頓されていた。白いデスクが四つ。左右には資料を詰め込んだ本棚とキャビネットが整列し、黒い革張りのソファとテーブルもある。窓は五つ子で、観葉植物が窓の脇に佇んでいた。部屋の奥には大きなガラス窓で隔絶された部屋があった。中が丸見えになる設計だが、今はブラインドが下ろされていてなにも見えない。プライバシィを守るために、部屋の主が壁を作っているのだろう。
「あ。おはようございます」
 デスクに座ってパニーノを頬張っていた若者が立ち上がり、二人に朝の挨拶をした。パニーノとは外国で言うサンドウィッチのことで、生ハムやチーズ、新鮮な野菜などの具材が詰まっているのだ。特殊捜査課のオフィスにいるということは、彼もメシアの一員なのだろう。
「もしかして、チーフが言っていた新人さんですか?」
「ええ、そうよ。チーフは奥にいるのよね?」
「それが――チーフはまだきていないんですよ」
「まだきていないの? いつも時間に正確なのに、珍しいわね」
 そのときだった。テンポの速い靴音が廊下を駆けてきたかと思うと靴音はドアの前で止まり、閉じていたドアが開け放たれた。口を開けたドアの向こうにいたのは、肩で息を切らせた若い男性だった。黒一色の衣服で身を包んだ青年を見た瞬間、ティナの記憶は震えた。間違いない。痴漢から救い出してくれた彼だ。稲妻に撃たれたような衝撃がティナの全身を走り抜けた。
「遅れてすまない」
「チーフが遅刻するなんて珍しいわね。トラブルでもあったの?」
「ああ。地下鉄で痴漢に遭った女の子を助けてやったんだが……あろうことかその小娘は、痴漢を働いた男を見逃してくれと言ったんだ。まったく、呆れてものも言えないな。コーヒーを飲んで苛々を静めようとしていたら、遅くなったというわけだ」
「あっ――貴方は……!」
 ティナが声を上げた瞬間、驚きの色を滲ませた青年がティナの方を向いた。ティナが声を上げるまで、彼女の存在に気付いていなかったようだ。
「君は――」
「サン・ルチア駅のバットマン!」
「……バットマン?」
 本音を吐き出してしまった口を慌てて押さえたがときすでに遅く、ティナが放った言葉は男性の耳に届いてしまったようで、彼は訝しげに眉を顰めていた。駅で出会った彼はバットマンみたいに黒ずくめだったんだ。だから仕方がないじゃないか。それでも、ティナを助けてくれたことには変わりない。
「……名前の由来が気になるところだが、理由はあとで訊こう。三人とも奥へこい」
 男性の後に続いた三人は、オフィスの奥にある部屋に入った。飾り気のないシンプルな部屋で、ブラインドの隙間から差し込む陽光が、黒い影とワルツを踊っていた。艶やかな光沢を放つデスクの後ろには、パノラマを意識した窓が嵌め込まれており、ニューランド市街が一望できる。それにしても、賞状や楯の一つも飾っていないなんて不思議だ。名誉や栄光に興味がないのかもしれない。漆黒のコートをハンガーに掛けた男性が振り向いた。
「私はシエル・アルタイル。特殊捜査課――通称メシアを統率するチーフだ。よろしく頼む」
「ティナ・アンバーです! 本日づけで特殊捜査課に配属になりました! よろしくお願いします!」
 自己紹介をしながら、ティナは上司となる男性に視線を注いだ。年は二十代前半。髪は永遠の喪に服す鴉の羽のように黒く、前髪が長い。切れ長の目も暗い色だろうと睨んでいたが、よく観察すると宇宙のような深い青色だということが分かった。
 青い布地にストライプ模様が入ったシャツに、黒いベストと黒のスラックスという格好で、怜悧に整った顔立ちは凜としている。青年がティナの前に立った。彼は長身だった。180センチは軽く超えていそうで、ティナの頭は彼の肩に届かない。30センチは差があるんじゃないか。まさにガリバーと小人だ。
「メシアのメンバーを紹介する前に、これを渡しておく」
 シエルがデスクの引き出しを開けて、一冊の手帳と黄金色に染まったバッジを取り出した。手帳とバッジを携えた手が動き、ティナの顔の前で止まる。受け取れと言っているのだ。ティナはその二つを受け取った。数秒だけ互いの皮膚と皮膚が触れ合った。
 青い竜が刺繍された黒い手帳と、同じく竜の姿が刻印された金色のバッジ。それがティナが受け取った物だ。どちらにもニューランドヤードとメシアのスペルが刻まれている。特殊捜査課の一員になれた証だ。誇らしげに輝くバッジが、ティナの喜びを表現しているみたいだった。
「では、メシアのメンバーを紹介しよう。フローライト。君から頼む」
「了解」ティナを案内してくれた女性が進み出た。「ディアナ・フローライトよ。よろしくね、ティナ」
 女性――ディアナ・フローライトが微笑んだ。金色の長い髪は真っ直ぐで癖もなく、反抗期の子供みたいにひねくれていない。翡翠色の目に宿っている静けさは、森の奥深くに佇む湖のようだ。細身の黒いスーツとヒールの組み合わせが彼女を知的に見せている。握手を交わした手は、聖者のように清らかで滑らかだった。ディアナが後ろに下がり、次に少年が進み出た。
「俺はフレン・ロゼラ。メシアへようこそ」
 フレンと名乗った男性はとても若かった。恐らくティナと同じティーンエイジャーだろう。栗色の髪は柔らかく波打っている。右目は妖精が住む森のように深い緑色で、左目は人魚が泳ぐ海のような澄んだマリンブルーだ。黒のカーディガンとダークグリーンのベストに、白いシャツとネクタイ。ハイスクールの学生が着ているような服装だ。微笑みと握手を交わす。温かくて大きな手だった。
 交流会が終わると同時に、オフィスの周りが屋根裏で小鬼たちが踊っているように騒がしくなり始めた。開くドアの音と走り出す足音に、戸惑う声が入り混じる。幾つもの音がBGMとなり、喧騒を更に煽っていく。シエルが部屋を出た。職員と会話を交わす彼の声が薄い壁を突き抜ける。数分後、シエルが戻ってきた。
「なにがあったんですか?」
「詳しくは分からない。ロビィで騒ぎが起こっているようだ。確認してくる」
「私たちもいくわ。一人じゃ危険よ」
 部屋を出て廊下を歩き、エレベーターに乗り込んだティナ達は一階のロビィに到着した。ロビィを埋め尽くす警察官たちでできた土星の輪が、ロビィの宇宙に浮かんでいる。これではなにも見えない。群衆を掻き分けて人混みの中心に向かう。中心点にいたのは、血走った目を顔に嵌め込んだ、ごく普通の中年男性だった。
「何回言わせる気だ! 早く殺人課の人間を連れてこい!」
「だから、殺人課の奴らは出払ってるんだよ!」
 男性が叫ぶと、負けじと一人の警官も叫んだ。
「黙れ! お前たちは嘘つきだ! 信じるものか! 早くしろ! でないと――」
 ズボンのポケットに男の手が飛び込んだ。再び現れた男の手が握っていたのは、鈍い光を放つ黒い拳銃だった。ロビィにどよめきの波が立つ。警官に周りを包囲されているというのに勇気ある行動だ。いや、勇気ある行動ではない。あまりにも無謀すぎる行動だ。
「馬鹿な真似はやめろ! ここをどこだと思っているんだ!」
「うるさい! お前たちは何もしてくれなかったじゃないか! 娘は殺されたんだぞ!」
 理性を失っている男性に説得の言葉は届かなかった。彼の耳に届く前に、見えない壁に弾かれてしまうのだ。このまま状況が長引けば、誰かが死んでしまうかもしれない。焦るティナの脇を黒い影がすり抜けた。真っ直ぐに伸ばされた背中が見える。あれは――シエルだ。弾丸の餌食になるつもりか。自分に近付くシエルに気付いた男が、銃口を向けた。
「なっ……なんだお前は! 殺人課の刑事か!?」
「いいえ。私は特殊捜査課に所属する刑事です。貴方の話を詳しく聞かせてもらいたいのですが」
「用があるのは殺人課の奴だ! 関係のない奴は下がっていろ!」
「詳細な事情を聞かないと、誰も動いてくれません。そう思いませんか?」
 男性の顔に理性が戻ってきた。シエルを捉えていた銃がゆっくりと下ろされる。シエルの言葉に納得したようだ。今にも逮捕しようと身構える警官たちの群れから彼を助け出し、ティナたちはオフィスに戻った。紅茶を淹れて、ティナは男性に勧めた。お礼を言った男性が琥珀色の液体を飲む。険しかった表情は幾分和らいでいた。温かい紅茶が彼の心に平穏をもたらしたようだ。
「落ち着かれたようですし、お話を聞かせてもらえませんか?」
「はい」カップをテーブルに着地させた男性が頷く。「私は、フランツ・ブルーネルと言います。先程は取り乱してしまって……ご迷惑をおかけしました」
「お気になさらずに」
 くたびれたジャケットの内ポケットを探ったフランツが一枚の写真を取り出した。茶色のテディベアを抱き締めた亜麻色の髪の女の子が微笑んでいる。フランツとよく似た顔立ちだ。この子が彼の娘だろう。
「可愛い子ですね。お子さんですか?」
 ティナが感想を伝えると、フランツは嬉しさと寂しさが混じった顔で微笑んだ。
「ありがとうございます。娘のエミリーです。この子は――七年前に亡くなりました」
 写真を見つめるフランツの瞳は震えている。娘との思い出が蘇り、彼を苦しめているのだ。
「ご息女は殺されたと仰っていましたが、事故死や病死の可能性もあります。もしかしたら、自殺かもしれません」
 シエルの問いかけは、オブラートで包んでいないあまりにもストレートすぎる言いかただった。写真から目を上げたフランツは真っ青な顔だ。もっと遺族に配慮すべきだと思った。冷淡で高慢。ティナから見たシエルの印象が悪くなっていった。
「そんな! 娘は――エミリーは、まだ七歳だったんですよ!? 自殺なんてするはずがありません!」
「七歳ならば、自分の意思で行動できる年齢だ。自殺の可能性もありえます」
「……溺死でした。自宅からそう遠くない、池に浮いていたんです。でも――」
「自殺ではないと断言することはできませんし、他殺だと言いきることもできません」
 椅子を回転させたシエルがパソコンを起動させて、データベースを開いた。
「報告書によれば……エミリーは、誤って池に転落したことによる事故死だと書かれています。すでに解決している案件を掘り起こすのは、得策だとは思えませんが」
 容赦ないシエルの言葉に、フランツは項垂れて肩を落とした。絶望。諦め。そして、やり場のない怒り。その三つが顔を上げた彼の表面を駆け抜けた。空になったカップをデスクに置いたフランツは、静かに立ち上がった。動作の一つ一つに、彼が抱えた感情が見える。
「……もう結構です。貴方たち警察を頼った私が馬鹿でした。失礼します」
「ブルーネルさん」彼を追うように椅子から腰を上げたシエルが声をかける。「一応、再捜査はしてみます。なにか分かれば連絡しますので、連絡先を教えてもらえませんか?」
 連絡先と住所を伝えたフランツは、一礼すると出て行った。五人から四人に減ったオフィスが静寂を取り戻す。残り香のようなフランツの悲しみが空気中に染み込んでいて、ティナの胸を締め付けた。沈み込む彼女をよそにシエルが溜息をついた。
「エミリー・ブルーネルの再捜査を開始する。まずは――事件の資料集めだな。フローライトは地下の資料室を調べてくれ。ロゼラは殺人課に行って、当時の担当警官から話を聞いてこい」
「殺人課の人たち、きっと嫌がりますよ」
「そうね。私は埃まみれのファイルと箱と格闘だわ」
 苦笑したディアナとフレンは、連れ立ってオフィスを出て行った。指示を与えられなかったティナはその場に直立状態だ。配属されたばかりの新米だから、なにをすればいいのか分からなかった。やることなんて探せばいくらでも出てくる。新米だからは言いわけか。
「行くぞ、アンバー」
「えっ? どこにですか?」
「モルグだ」


 地下という場所は、四六時中薄暗くて憂鬱だ。太陽に慣れきった身体が愚痴を零す。エレベーターで地下に下りたティナとシエルは、ディアナが埃まみれのファイルと箱と格闘している資料室を通り過ぎて、廊下の一番奥にあるドアの前で止まった。薄暗い廊下と青白い蛍光灯に囲まれていると、深海に潜っているような錯覚に陥ってしまいそうだ。
 シエルがドアをノックしたが、まるで反応がない。死体の相手をするのに嫌気が差して、地上に出ているのだろうか。賑やかな音が聞こえる。眉間に皺を寄せたシエルがドアを開け放った途端、鼓膜を破裂させんばかりの音量に上げられた、派手なロックミュージックが流れてきた。
 ティナとシエルは、流れてくる音楽を目印にして奥へ進んでいった。人体模型と骸骨の標本。人間の臓器が詳細に描かれたポスタ。遺体を乗せて解剖する検死台に、鋼鉄製の冷たい遺体安置室。それらが視界を横切っていく。小学校の理科室を遥かに凌駕する不気味さだ。生きている人間を発見した。椅子ではなく灰色のデスクの上に尻を落ち着けて、音楽雑誌を読み耽っている。ティナとシエルに気付いていないようだ。
「エイヴォン!」
 シエルが呼びかけるが反応はまったくなく、激しくかき鳴らされるベースが彼の声を飲み込んだ。痺れを切らしたシエルが早足でステレオに近付いて、電源を切らずにプラグを引き抜いた。ライヴは終了。これでまともに話ができる。雑誌を閉じた若者が、やっと二人の存在を認識した。
「あれ? メシアのアルタイル主任じゃないっスか。どうしたんですか? おまけに可愛い子なんか連れてきちゃって。恋人を自慢しにきたんですか?」
「馬鹿なことを言うんじゃない」眉を顰めたシエルが言った。鳥肌が立ちそうだと言わんばかりだ。「彼女はティナ・アンバー。今日、特殊捜査課に配属された新人警官だ」
「メシアに新人なんて珍しいですね。俺はジャック。ジャック・エイヴォン。陰気なモルグの家主で、検死を担当してるンだ」
 白衣をラフに着崩した若者が快活に笑った。白衣の下にある黒いシャツにプリントされた頭蓋骨も、FUCKと罵りながら笑っている。年齢はフレンと同じ十代後半だろう。頭部を包む髪は磨き抜かれた銅のような赤毛で、静電気に纏わり付かれたように飛び跳ねている。
「で、ご用件は?」
「七年前の事件を再捜査することになった。名前はエミリー・ブルーネル。死因は溺死。カルテがあるはずだ」
「七年前っスね。俺が配属される前だからなぁ。見つかるかな。探してみます」
 机から身軽に飛び下りたジャックは、部屋の隅に佇んでいるキャビネットを漁りはじめた。ジグソーパズルのように引き出しが動いている。ジャックの動きが止まった。どうやら宝物を掘り当てたようだ。カルテを携えた若き検死医が、誇らしげに笑った。
「エミリー・ブルーネル。七歳。主任の言うとおり、死因は溺死になってます。死亡推定時刻は、午後二時半から四時の間。司法解剖した際も、これといった異常は見つかっていませんね」
「――そうか。情報を集めてから、もう一度訪ねる」
 死体に囲まれたモルグを後にして、ティナとシエルはエレベーターで地上に帰還した。メシアのオフィスに戻ると、指示された業務を終えたディアナとフレンが待っていた。白い箱と積み上げられた書類がデスクを占領している。ティナの鼻が落ち着かないのは、空気と手を繋いで踊っている埃のせいだろう。
「ご苦労だった。これが――エミリー・ブルーネルの捜査資料か?」
「ええ。そうよ」ディアナが白い箱の封印を解く。舞い上がった埃は中まで侵食していた。「見つけるのに苦労したんだから。奥の奥にしまわれていたのよ」
「これが、殺人課から借りてきた捜査資料です」
 ティナはフレンが借りてきた書類の一つを手に取って読んでみた。字が汚くて読みにくい。それが数行読んだティナの素直な感想だった。教室の掃除をさぼる中学生みたいにまったくやる気を感じられない。殺人課の刑事にとって事故死というものは、海中を漂うプランクトンのように小さく、スリルも面白味もなにもない退屈すぎる案件なのだろう。だからといって、明らかに手を抜き過ぎている。
「何ですか!? この報告書! 0点の答案よりひどいじゃないですか! なにもまとまっていないし、無茶苦茶です! 明らかに手抜きですよ!」
「うるさい。喚くな」報告書のページを静かに捲っているシエルが、氷の如く冷えきった声で注意した。「当時浮上していた容疑者は――両親と隣人の男か」
「ちっ……ちょっと待ってください! どうしてエミリーちゃんのご家族が容疑者なんですか!?」
 手を上げずに質問したティナを不快に思ったのか、シエルの眼差しは冷たかった。
「当然のことだろう。最初にエミリーの遺体を発見したのは、フランツ・ブルーネルだ。第一発見者を疑え。それが我々警察のセオリーだ。覚えておけ」
 ティナは憤った。なんて冷たい男なんだ。受付の男性――ヴェラが言っていた、漆黒の鷲に内臓をつつかれるな。彼の言葉がようやく理解できた。鷲の如く鋭い藍色の眼光。冷淡な言葉は残酷な嘴。翼がないのは隠しているからだ。今まで何人の内臓を抉ってきたのだろう。
「フローライトとロゼラ。お前たちは、隣人の事件当日のアリバイを洗い直してくれ。私はブルーネル夫妻に会ってくる」
「あの……私は?」
「お前は電話番でもしていろ。家に帰っても構わないぞ」
 ティナ・アンバー。お前は使い道のない役立たずだ。シエルの本音がティナに聞こえた。あまりにも酷過ぎる仕打ちに涙腺が揺らいでしまった。シエルの目の前で涙を見せるのが悔しい。唇を噛み締めて、ティナは涙腺を引き締めた。心優しい月の女神が、些か怒った目でシエルを睨みつけた。
「チーフ。それはないんじゃないの? ティナは私たちと同じ警察官なんだから、それに相応しい仕事を与えるべきよ」
「俺もそう思います。それに、これってパワハラ――いわゆるパワーハラスメントに当てはまるんじゃないですか?」
 ディアナとフレンの反論を食らったシエルは黙り込んだ。反論に対する反論を言うかと思ったけれど、彼の鋼鉄の嘴はおとなしい。ティナを一瞥した青い目は不愉快そうに細められて、そのまま床に落ちた。
「……分かった。今の発言は取り消す。アンバー、お前は私とこい」
「えっ?」
「不服そうだな」
「そんなことないです! お供させていただきます!」
 てっきりディアナかフレンと行動を共にすると思っていたティナは、シエルからの誘いを受けて恐怖に近い感情を覚えてしまった。「漆黒の鷲」と二人きりだなんて。しかし断ればなにを言われるか分からない。二度とくるなと解雇を宣告されそうだ。主人に仕えるメイドみたいに、ここはおとなしく従ったほうがいいだろう。
 ニューランドヤードの駐車場で二組に分かれたティナたちは、別々の車に乗り込んで調査を開始した。車窓の外を流れて行く景色。車内に漂う沈黙。シートに座っているのは二人の若い男女。それなりの会話があってもいいと思うのだけれど、下手に話しかければ鋭い言葉の銃弾が飛んできそうで怖かった。
 言葉を交わさないまま、車は目的地に到着した。シエルは適当な場所に車を停めた。文句を言われたらバッジを見せて黙らせる気だ。まさに職権乱用。警察に対する市民の不信感が高まりそうな行為だ。閑静な住宅街を貫くように、カントリィ調の家が軒を連ねている。併設された公園には、親の目に守られた子供たちが遊んでいた。
 ブルーネルの文字を見つけたティナとシエルは、木で作られたステップを上がってドアの前に立った。ウッドポーチが二人分の体重で軋む。シエルが呼び鈴を鳴らした。数分の間。家の内側で人の気配がする。チェーンが外されて、ドアが開いた。
「貴女たちは、特殊捜査課の……?」
 家主のフランツ・ブルーネルはとても驚いていた。当然の反応だと思う。救いを求めて訪ねて行ったのに、宇宙の彼方まで突き放されたのだから。家の中に入れてもらえずに追い払われるだろうと思っていたが、フランツは二人を快く招き入れてくれた。
 玄関の右手に上階に続く階段が伸びていて、廊下の奥がリビングだ。ソファとテーブル、テレビや調度品が佇んでいる。風に撫でられてレースのカーテンが翻る。窓が開け放たれているのだろう。窓の向こうには小さな庭が広がっていて、綺麗に手入れされた花壇があった。つばの大きな白い帽子を被った女性が、花壇をさらに綺麗にしている。フランツが声を掛けると女性が振り向いた。
「あら……お客様?」
「ニューランドヤードの刑事さんだよ。エミリーの事件を再捜査してくれているんだ」
「あの子の……?」女性の表情が曇る。喜びと悲しさが入り混じった曇り空だ。「自己紹介が遅れてごめんなさい。エミリーの母親のアメリアです」
「特殊捜査課メシアを統率する、シエル・アルタイルです。彼女は――ティナ・アンバー。私と同じ課に所属する刑事です」
 シエルがティナを刑事だと紹介したことに驚いた。人権を無視した紹介をされると思っていたからだ。フランツに勧められて、ティナとシエルは花柄でコーティングされたソファに腰掛けた。ガーデニングを中断したアメリアが、ポットとカップを持って来た。カップの大陸に琥珀色の液体が注がれる。頂きます。ティナは紅茶を一口飲んだ。深みのある味に舌が唸る。
「美味しいですね、この紅茶。毎日飲んでも飽きないですよ」
「ありがとう。娘も大好きだったのよ」
 澄んだ音が響く。シエルがカップをテーブルに置いたのだ。ティナにはその音が、話を始める合図に聞こえた。忘れようとしたつらい記憶を引き出してしまう話を。
「おつらいことを思い出させてしまうかもしれませんが……構いませんか?」
「勿論だよ。再捜査を依頼すると決めたときから、私も妻も覚悟していたからね」
「感謝します」
 シエルがティナに目配せを送った。メモを取れ。それぐらいできるだろうと言っている。少々不愉快に思いながら、ティナは鞄を開けてペンとメモ帳を取り出した。透明のカバーが付いた、デフォルメされた熊が表紙全体にプリントされたメモ帳だ。刑事らしからぬ物だと思ったのだろう、シエルが眉を顰めた。
「ご息女の――エミリーの姿を最後に見たのはいつですか?」
「午後一時ごろです。学校から帰宅したエミリーは、友達の家に遊びにいくと言って家を出たんです。でも、夕方になっても帰ってこなくて。捜索届けを出そうと思った矢先に――エミリーが……変わり果てた姿で見つかったの」
 アメリアが声を詰まらせる。フランツも顔を伏せた。目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた一人娘を亡くした夫妻の痛みがよく分かる。二人の心には大きく深い裂け目ができていて、七年経っても癒されないままなのだ。
「失礼なことだと承知の上で伺いますが、午後二時半から四時までのあいだ、お二人はどこにいて、なにをされていましたか?」
「夫は会社で仕事をしている時間です。私も一時半から五時まで近所の花屋で仕事をしていました。タイムカードの記録を調べてもらえれば、私たちのアリバイが分かります」
 表面上は穏やかな女性を演じているアメリアだが、彼女の心に波風が立ち始めていることにティナは気付いた。自分が疑われていることを知ったら誰もが不快に思うのは当然だ。おまけに娘を殺した殺人犯だと疑われているのだ。形式的な質問だと理解していても、腹が立ってしまうのだろう。
「お二人のタイムカードの記録はあとで調べさせてもらいます。それと、エミリーの部屋を拝見させていただきたいのですが」
「エミリーの部屋をですか?」フランツとアメリアが視線を交わし、小さく頷いた。「ええ。構いませんよ。案内します」
 ソファから立ち上がったフランツに案内されて、ティナとシエルは玄関の右手にあった階段を上った。踊り場を左に曲がって真っ直ぐ進む。ドアに提げられた木製のネームプレートには、アクリル絵の具で描かれたピンクの花に囲まれた「エミリーのお城」という文字が書かれていた。エミリー自身が製作したとフランツが教えてくれた。一瞬、ドアノブを回そうとしたフランツの手が止まる。躊躇いを乗り越えた彼が、ゆっくりとドアを開けた。
 エミリーの部屋は綺麗に維持されていた。白い壁紙に咲き誇る薔薇の花。カーテンはリビングと同じ白いレース模様のタイプだ。白の勉強机は整頓されていて、持ち主の真面目さが窺える。ベッドのシーツも枕カバーも、薔薇の花で溢れている。赤とピンクで統一された部屋は、まさに七歳の女の子らしい部屋だった。
「七年も経つというのに、いまだに娘が帰ってきそうな気がしてね。毎日アメリアが部屋を掃除しているんだ。おかしいだろう?」
「いいえ。おかしくなんかないですよ」
 ティナは壁に掛けられている写真に目を向けた。微笑みを零すフランツとアメリアと、二人の腕を取ったエミリーが太陽のように笑っている。まさに家族の幸せを象徴している光景だ。
「エミリーちゃんを心から愛しているから、彼女の全てが詰まっている場所を大切にしてるんですよね?」
 あえてティナは愛していたという過去形を使わなかった。娘を想うフランツの神聖な場所を汚してしまうと思ったからだ。目頭を押さえたフランツがありがとうと呟く。シエルは空気のように静かだった。ティナは彼の様子をスパイした。ティナと同じくシエルも写真を眺めていて、端正なその横顔は憂いを帯びていた。
 感傷に浸るのもいいが、ティナたちがこの部屋に来た目的を忘れてはいけない。事件の糸口になる物を見つけないといけないのだ。フランツの許可を得て部屋を隅々まで探し回ったが、パズルのピースを見つけることはできなかった。突然フランツが部屋を飛び出して行った。戻って来た彼は、薄い紙を手に持っていた。
「この前、部屋を掃除していて見つけたんです」
「これは――ヴァポレットの乗船券のようですが」紙を受け取ったシエルが正体を見破った。「フランツさん。エミリーは、よくヴァポレットを利用していたんですか?」
「いや。一人で乗ってはいけないと言い聞かせていたからね。それはないだろう」
「予約制の切符みたいだな。乗船時間は――午後三時。これは、貴方が買い与えた物ですか?」
「覚えはありません。私のは定期だし、妻は滅多に乗りませんから」
「アルタイルチーフ」子供でも思いつく提案だけど言ってみよう。ティナは控え目な態度で発言した。「ヴァポレット乗り場の人に訊いてみたらどうですか? 七年前のことだから覚えていないかもしれませんが、なにか手掛かりがあるかもしれません」
「そうだな。ヴァポレット乗り場に行ってみよう。切符に乗り場が書いてある。マク・リール橋の近くだな」
 鷲の嘴のように鋭い辛辣な言葉を覚悟していたが、シエルはティナの提案を受け入れただけでなにも言わなかった。フランツとアメリアは、二人を家の外までエスコートしてくれた。立ち去る前にシエルが頭を下げた。
「必死の思いで訪ねてきてくださった貴方に、無礼な態度をとって申し訳ありませんでした」
「いや、いいんだよ。物騒な物を持っていった私が悪いんだ。アルタイルさんのせいじゃないよ。私たちは真実を知りたいだけなんだ。どんな結果でも受け止める覚悟だ」
 必ず真実を導き出す。そう約束をして、ティナとシエルはブルーネル家を立ち去った。発進した車は住宅街を抜けて、マク・リール橋の袂にある水上バス乗り場に向かった。


「この女の子は見ていないな。家族で来たことは覚えているけど、一人で来たことはないはずだよ」
 エミリーの写真を見たヴァポレットの乗降員は、奇跡的に七年前の記憶を残していた。二回目の奇跡を期待してみたけれど、残念ながら二回目の奇跡は起こらなかった。次々と訪れる客を青年は器用にかつ素早く捌いていく。すでにベテランの域だ。
「でも、アレでしょ? その事件ってさ、事故死ってコトで片付いたんじゃないの?」
「一応そうなんですけど、遺族のかたに依頼されて再捜査してるんです」
「再捜査、か。刑事さんも大変だね。それにしても君って可愛いね。ヴァポレット予約しとくからさ、今度デートしない?」
「えっ? こっ……困ります……」
 ティナは丁寧に断り続けたが、青年はしつこく逢瀬に誘ってきてしまいには手を握られてしまった。困り果てる彼女を見るに見かねたのか、シエルがティナと青年の間に割り込んだ。180センチを超える身長と、冷たく整った端正な顔が青年を威圧する。鷲に狙われた小動物みたいに青年の顔に緊張が走った。
「捜査の続きがあるので失礼する。なにか思い出したらニューランドヤードまできてください」
 シエルに腕を掴まれてたティナは、半ば引き摺られるように車内の助手席に押し込められた。運転席に陣取ったシエルは不機嫌そうだ。無言でシートベルトを締める姿が怖い。完璧な形の唇が動く。さあ、怒られる時間がやってくるぞ。なにを思ったのかシエルは開こうとした口を閉じて、車を始動させる手順を始めた。
「チーフ」アクセルペダルを踏もうとした足が止まる。「その……怒って……ますよね」
「なぜ私が怒るんだ」
「私が彼を追い払えなかったから……。警官なんだから、毅然とした態度を取らないと駄目ですよね。すみませんでした」
「謝罪は必要ないと思うが。くだらないことでいちいち謝るな。鬱陶しい」
「……すみません」謝るなと注意された数秒後に、ティナはまた謝ってしまった。シエルの吐いた溜息が、天井にぶつかって墜落した。
「今度変な男に絡まれたら、バッジを突きつけてやれ。それでも効果がないようなら、銃弾をブチ込んでやるといい」
 市民の安全と秩序を守る警官らしからぬ過激な発言に、ティナは目を丸くして苦笑した。分かりました返事を返すと、不機嫌だったシエルの顔が和らいだような気がした。まるで甘いキャンディを貰った子供みたいだった。
 嫌味を言われたかと思えば優しい言葉を言ってくるし、ティナに無関心かと思えば、しつこく言い寄ってきた野獣を追い払ってくれた。雲のように掴めない青年だと改めてティナは思った。なにがきっかけで不機嫌になり、なにがきっかけで優しさを見せてくれるのだろう。彼とスムーズな人間関係を構築するにはまだまだ時間がかかりそうだ。
 ニューランドヤードに帰還してメシアのオフィスに戻ると、ディアナとフレンがいた。捜査から戻った直後なのだろう、ディアナとフレンはアイスコーヒーとレモンティーを飲んで疲れを癒していた。
「お帰りなさい。なにか飲みます?」カフェのホール係になったフレンが問いかけた。
「そうだな。ブラックのコーヒーを頼む」
「ティナは?」
「じゃあ、レモンティーをお願いします」
「アンバーにレモンティーはまだ早い。オレンジジュースで充分だろう」
 アイスコーヒーを優雅に飲んでいたディアナが吹き出して、フレンは声を立てて笑った。揶揄されたのか、それとも侮辱されたのか、いずれにしても馬鹿にされたことには間違いない。音のない悪態をついているティナに、フレンがカップを手渡した。揺らめいている液体は琥珀色だ。待てよ。もしかしたら、琥珀色をした新発売のオレンジジュースかもしれない。
「心配しなくてもいいよ」カップを凝視するティナに気付いたフレンが苦笑する。「正真正銘のレモンティーだから」
 彼の言葉を信じて飲んでみると、爽やかな酸味と甘みが口の中一杯に広がった。美味しい。紛れもないレモンティーだ。
「なにか収穫はあったのか?」
「一応、ね。ブルーネル家の隣に住む男の名前はドミニク・ゲラウェイ。午後二時半から四時までのあいだは、バーで酔い潰れていたそうよ。バーで酔っていた本人から聞いたわ」
「資料と証言が一致します。彼はほかの客と乱闘騒ぎを起こしていましたし、その様子も押収された防犯カメラのテープに映っていました。年月日と時刻も、偽造された跡はありませんでした」
「両親にもゲラウェイにも完全なアリバイがある。となるとやはり――エミリーは事故死か自殺ということになるな」
「自殺なんてありえないです! フランツさんも言ってたじゃないですか! エミリーちゃんは、そんなことをする子じゃないって!」
「自分の子に限って自殺なんかするはずがない。そう思うのが親の心理というものだ。たとえ小さな子供でも、その道を選んでしまうことがある。私の見解に不服があるというのなら、それを覆す証拠を持ってこい」
 反論する隙間もない完璧なシエルの言葉にティナの反論は瞬殺されてしまった。数枚のファイルを抱えると、シエルはガラス張りのオフィスに姿を消してそれっきり出て来なかった。


 エミリー・ブルーネルの再捜査を始めてから数週間が経った。捜査の進展はなく逆にひどい手詰まり状態で、なにが変化したかといえばティナの両目の下だろうか。漂白剤を使っても取れないであろう、黒い隈が浮かんでいるのだ。極限まで睡眠時間を削って調べているというのに、なにも浮上して来ない。刑事に向いていないのだろうか。自らの資質を疑ってしまう。
「おい。新人さん」
 ハスキーヴォイスがティナを呼んだ。項垂れていた背筋を伸ばして首を曲げると、受付の失礼極まりない男が立っていた。無意識に表情が険しくなる。そんな反応に免疫ができているのか、ヴェラは口元を斜めに吊り上げて笑いの形を作っていた。
「……新人じゃありません。ティナ・アンバーです」
「はいはい。メシアに来客が来てるぜ」
「どなたですか?」
「アメリア・ブルーネル。アンタたちがほじくり返してる七年前の事件の遺族だとよ」
 エミリーの母親が来ているとは驚いた。ディアナとフレンは今日も情報収集に奔走している。シエルは朝からオフィスに閉じ籠ったまま顔も見せない。事件に集中しているんだと思う。邪魔をしたら不機嫌になってしまうかもしれないし、来客の応対もできないのかと罵られるのは嫌だ。伝令にきた太ったヘルメスにありがとうと言って、ティナはロビィに下りた。ティナとアメリアは、同時にお互いを見つけて歩み寄った。
「こんにちは。今日はどうされたんですか?」
「いえ、その、大した用事はないの。ただ……捜査の状況が気になってしまって……。迷惑だったかしら。ごめんなさいね」
「迷惑だなんて……」アメリアの期待を裏切ってしまう現状を言わないといけない。「ごめんなさい。捜査はあまり進展していないんです」
「……そう。貴女が謝る必要なんてないのよ。真剣に捜査してくださっているんだもの。エミリーの写真を持ってきたの。いなくなった日と同じ服装の物よ。参考になればいいのだけれど――」
 アメリアはハンドバッグから一枚の写真を取り出した。受け取ったティナは、写真の端々が擦り切れていることに気付いた。何度も何度も手に取って眺めていたせいだろう。ティナは託された写真に写るエミリーをじっと見つめた。白いワンピースと黒のニットカーディガン。赤いリボンと亜麻色の髪が手を繋いでいる。満面の笑顔に浮かぶ自慢げな顔は、なにを自慢しているのだろうか。ティナは少女の胸元を飾るペンダントに気付いた。翼を広げた鳥を掲げるペンダントは夜に浮かぶ月のような銀色で、鳥の瞳は海の色だった。
「綺麗でしょう?」ティナの視線を追いかけたアメリアが微笑む。「エミリーの誕生日に、夫と私がプレゼントしたのよ。あの子はとても喜んでいたわ」
 アメリアの目元は薄紅色に染まりつつあった。泣き叫びたい衝動を懸命に抑えているのだ。彼女は泣かなかった。そして泣こうともしないまま、アメリアは帰っていった。大切な写真を預けてくれたのは、ティナたちを深く信頼している証拠だ。必ず事件を解決してくれると信じてくれている。アメリアの思いと一緒に、ティナは写真を抱き締めた。
 メシアに戻って自分のデスクに腰掛けたティナは、ボールペンをデスクに叩きつけて鳴らしながら捜査資料を読み返した。ブルーネル夫妻の思いを無駄にしたくないのに、捜査が遅々として進まないのがもどかしい。ティナの蜂蜜色の目が、エミリーの部屋で見つけた切符の上で止まった。エミリーと事件を繋ぐ物。もう一度、あの青年に話を訊きにいこう。この前見せた写真と違う写真を見せれば脳が刺激されて、新しいなにかを思い出してくれるかもしれない。
 ティナはシエルのオフィスに視線を移したが、拒絶するように下ろされたブラインドが邪魔をしていて中は見えなかった。入ってくるな。姿の見えないシエルからのテレパシィが飛んでくる。数時間で戻るつもりだし、そもそもシエルにとってティナはどうでもいい存在なんだから、行ってきますの挨拶なんて必要ないだろう。でも、やっぱり伝言を残しておこう。メモ帳にペンを滑らせ、ページを千切って置いておく。鞄を肩に提げて、ティナはニューランドヤードを後にした。目的地はマク・リール橋のヴァポレット乗り場だ。


 早く受話器を取って呼吸をさせてくれ。数秒前から電話が叫んでいる。乙女のように優雅なクラシックなら喜んで歓迎するが、こんな騒々しい音楽はお断りだ。新人の琥珀娘はどうしたんだ。なぜ電話を黙らせようとしないんだ。電話番もできないのかあの小娘は。資料をデスクの上に置いて、シエルは籠っていたオフィスから出た。
 電話が静かにならない理由が分かった。仕事場には誰もいなかったからだ。ディアナとフレンは外回りに行っている。シエルの頭痛の種であるティナ・アンバーも、忽然と姿を消していた。職務放棄か。それとも宇宙人に誘拐されたのか。彼女が提げていたキャメルブラウンの鞄が見当たらないから、外出したのだろう。上司であるシエルに報告もせずにか。いい度胸じゃないか。ティナを叱るのはいつでも好きなときにできる。まずは女のようにうるさい電話の口を塞ごう。
「特殊捜査課のアルタイルだ」
『あ、オレっス。エイヴォンです』
「どうしたんだ?」
『面白いことが分かったんで。至急、モルグまできてください』
 会話が終わると白い電話は大人しくなった。面白いこととはなんだろう。事件に関連性のあることだといいが。オフィスを出てモルグへ下りる。相変わらず音楽が鳴り響いていた。少しだけ学習したのか、微妙に音量が絞られている。ジャックはエアギターに陶酔していた。残念だが、シエルにロックの魅力は伝わらない。さあ、ステージは終わりだ。シエルは容赦なくステレオの電源をオフにした。
「酷いっスよ、主任〜。せっかく楽しんでいたのに」
「時間が惜しい。用件はなんだ?」
 苛立っていることを示すように腕組みをして、シエルはジャックを睨みつけた。彼の鋭い青の眼光に貫かれれば、大抵の人間は恐れをなす。ジャックにも効果があったようで、引き攣った笑いを浮かべると、彼はデスクの上に置いてあった書類をシエルに渡した。
「これは?」
「エミリーちゃんの肺に溜まっていた水の成分表です。暇だったからよーく見てみたんですけどね。ほんのわずか、彼女が発見された池には存在しない成分を見つけました」
「本当か?」
「はい。んで、科学捜査班の人たちに頼んで同じ成分がある場所を特定してもらったんです。見つかりましたよ。これが、その場所っス」
 ジャックが手渡した調査結果を受け取ったシエルは瞠目して納得した。あとはあれから採取した指紋と、エミリーの部屋から見つかったヴァポレットの切符に残っていた指紋が一致するのを願うだけだ。スラックスのポケットが振動する。内側に入れている携帯電話だ。シエルがモルグを出ていくと同時に、興味の湧かないアーティストの歌声が響き始めた。
 ブラックのボディをスライドして、シエルは画面のナンバを確認した。電話の相手は科学捜査班のスタッフだった。シエルの望んでいた結果が伝えられる。通話を終了。奴の包囲網は完成した。覚悟しろ。冷たい手錠が貴様を待っているぞ。メシアのオフィスに戻って旅立つ準備をしていると、外回りを終えたディアナとフレンが帰ってきた。
「あら。出かけるの?」
「ああ。アンバーはどこへいったんだ?」
「俺たちが出かける前にはいましたよ。いないんですか?」
「見れば分かる。まったく、どれだけ迷惑をかけるつもりなんだ。警官としての自覚が足りないぞ、あの小娘は……」
 沸騰し過ぎた鍋のように、シエルの口からティナに対する愚痴が吹き零れた。上司に感づかれないようにディアナとフレンは笑っている。漆黒のコートを羽織りながら、シエルはティナのデスクを通り過ぎた。視界の端に不器用に千切られたメモ用紙が映った。ページのヘッダーでデフォルメされた熊が蜂蜜を舐めている。ティナが携帯しているメモ帳の一部だろう。
『マク・リール橋のヴァポレット乗り場に行って、あの男の人に会ってきます。ティナ・アンバー』
 メモには今時の女子らしい文字で、数行の言葉が書かれていた。シエルの端正な顔に眉間の皺が現れた。メモを握る手に力が込められる。シエルの内側で怒りの稲妻が落ちようとしているのだ。尋常じゃないほどの彼の激怒ぶりに、ディアナとフレンはティナが愚かな行為に走ってしまったのだと察知した。見事な自制心で怒りを抑えつけ、シエルは振り向いた。
「私はこれからマク・リールのヴァポレット乗り場に向かう。フローライト、ロゼラ。お前たちは殺人課にいって、応援を要請してからきてくれ」
「分かったわ」
「了解」
「チーフ」ディアナがシエルを呼び止めた。振り向いたシエルの面は冷静で、動揺の欠片すら見当たらない。「ティナに危険が迫っているのね?」
「確証はないが、そう思う。私は先に行く。頼んだぞ」
 次から次へと溢れてくるティナに対する罵詈雑言を飲み込みながら、シエルはニューランドヤードの駐車場に走り、愛用の車に乗り込んでシートベルトを締めた。やはりあの琥珀娘――ティナ・アンバーは大馬鹿者だ。シエルは力の限りアクセルペダルを踏みこんだ。スピードメーターが跳ね上がる。地面に見事なタイヤ痕を刻みつけて、シエルの運転する車は天空を切り裂く稲妻の如く駆けていった。


「くしゅんっ!」
 盛大なくしゃみがティナの口から発射された。ティッシュで鼻をかみながら、ティナのことを噂しているであろう人物を推理する。絶対にシエルだ。理由は単純明白。意地悪な背の高い上司は彼女を毛嫌いしているからだ。ヴァポレット乗り場が見えてきた。ティナをしつこくデートに誘ってきた青年の代わりに、中年の男性が乗客の応対をしている。仕事が一段落するのを見計らって、ティナは声をかけた。
「あの、すみません。ここの係員に若い男の人がいたはずなんですけど――ご存知ですか?」
「若い男? あぁ――ヤックのことかい?」
「ヤックさんはお辞めになったんですか?」
「そうだよ」男性の言葉に肩が落ちる。彼の言葉には続きがあった。「今朝、急に辞めるって言ってきたんだ。なんでもほかの町に引っ越すらしいぜ。荷物をまとめるとか言ってたからな。まだ家にいるんじゃないか?」
 親切な男性はヤックの家の場所を教えてくれて、おまけに地図も描いてくれた。肩を落とすのはまだ早い。ティナは手描きの地図を頼りに目的地へ向かった。路地を抜けた先にある、古びたアパートメントが短い旅の終着点だ。建築されてからかなりの年月が経っているのだろう。外壁は所々剥げ落ちていて、非常階段は赤茶色の錆に侵食されていた。
 女性のような悲鳴を上げる階段を上がって二階へ向かう。ヤックが住んでいる部屋を見つけた。電気メーターは動いている。住人がいる証拠だ。ティナはベルを鳴らして、主人が出てくるのを待った。チェーンと繋がったドアが僅かに開き、若い男性が顔を覗かせる。間違いない。あのときの係員だ。
「あれ? 君は……あのときの刑事さん?」
「こんにちは。突然訪ねてしまってすみません。七年前の事件について、もう一度お尋ねしたいんです。お時間は大丈夫ですか?」
「正直言うと、凄い忙しいけどね。君みたいな可愛い子のお願いならなんでも聞いちゃうよ。中に入って」
 チェーンを解除したヤックが、ドアを開いてティナを招き入れた。ティナは室内に入った。室内は足の踏み場もないくらい乱雑していた。衣類は散らばり、家具や備品は乱暴に段ボールに押し込まれている。部屋を観察していると、ティナの靴が硬質的な物を踏んだ。音からしてアクセサリィ系だろう。壊してしまったら大変だ。慌てて足を除けて身を屈めた。漫画本の下に華奢なチェーンが埋もれている。ティナは指を絡めて、本の下敷きになっている物を救助した。
「これは――」
 ティナの目の前で銀色の鳥のチャームが揺れていた。チャーム裏側に刻まれたイニシャルはE・Bだ。頭の中で踊るアルファベットが、とある人物の名前と合わさった。そう、エミリー・ブルーネルである。ティナは鞄のポケットから写真を取り出して、写真とペンダントを交互に見比べた。写真の中でしか生きられない少女の胸元を飾っているペンダントと同じ物だった。これは、フランツとアメリアが最愛の娘に贈ったプレゼントだ。それがなぜ、ここにあるのだろうか。
「人の持ち物を漁るなんて、悪い刑事さんだな」
 冷えきった声が背後に響く。振り向いたティナの背筋に凍えるような悪寒が走り抜けた。頑丈な梱包用の紐を右手に巻き付けたヤックがすぐ後ろに立っていたのだ。彼の目の奥に強烈な殺意を見てしまった。ここでティナを殺す気だ。厄介な目撃者を消すために。
「このペンダントは、七年前に命を落とした女の子が身に着けていた物です。どうして貴方の家にあるんですか?」
「金になるかと思って持って帰ったのさ。殺したあとでな」
「……貴方が殺したの?」
「そうさ。俺が殺した」
 それがどうしたんだ。そんなふうにヤックは殺人を自供した。罪の重さを微塵も感じていない表情と、人殺しが快感だといった表情が混じり合っていた。そして殺人犯の目に狂気が溜まり始める。彼の右手はティナの首を絞めたがっているように見えた。
「どうしてエミリーちゃんを殺したの!? 答えて!」
「ヤリたかっただけさ! 女なら誰でもよかったんだよ! オナニーばっかはウンザリ! 処理できねぇしよ! たまたま見つけたのがそのエミリーっていうガキさ! ヴァポレットの切符を餌にして呼び出して、大人になるってコトを教えてやろうとしたらギャーギャー喚きやがってよ! うるせぇし面倒だし、運河に顔突っ込んで殺してやったんだよ! 動かなくなったから、適当な場所に捨ててやったのさ!」
 狂気を爆発させたヤックが狂い、叫び、哄笑した。人間の内に潜む獣の本性を垣間見たティナは、憐れみと憤りを同時に覚えた。興奮を露わにしたヤックが彼女に掴みかかる。捕まりたくないという執念がヤックの腕力を増大させていた。ほとんど抵抗もできないままティナは床に押し倒され、その上にヤックが馬乗りになった。紐がティナの首に巻きついた。
「アンタも馬鹿だよなぁ。たった一人で殺人犯の家にくるんだからよ。あのデカい男もいないようだし、ゆっくりと殺してやるよ」
 緩んだネジを締めていくように、ティナの首に絡みついた紐に力が注がれていく。喉が圧迫され、酸素の通り道が塞がれた。息ができない。耳鳴りが響き、周囲の音が遠ざかっていく。必死に喘いでも酸素はきてくれなかった。こんな醜い悪魔に殺されるなんて――。
 ティナが死を覚悟したときだった。鈍い音がドアにぶつかった。ヤックの動きが一時停止する。二回。三回。鈍い音が連続して響く。一瞬の間のあと四回目に響いた音がドアを突き破り、ドアを施錠していたチェーンが吹き飛んだ。霞んだティナの目に黒い影が映り、青い目を持つ長身の青年が室内に飛び込んできた。漆黒の鷲と恐れられている、シエル・アルタイルだ。
「ジョー・ヤック! エミリー・ブルーネル殺害容疑で逮捕する!」
「ざっ――ざけんじゃねぇっ! 捕まってたまるかよっ!」
 紐を捨てたヤックが標的をティナからシエルに変更した。シエルのほうが手強いと判断したのだ。切れ味鋭いジャックナイフがヤックのポケットから飛び出した。展開された銀色の刃がシエルに襲いかかる。疾風のように身を翻したシエルが斬撃を避けた。軸足の右足が回転し、シエルの放った回し蹴りがヤックの腹部を陥没させた。床に転がったヤックは、既に消化された胃の中身を撒き散らしていた。
「殺人に殺人未遂。公務執行妨害も追加だ。覚悟しておくんだな」
 サイレンが住宅街に鳴り響く。数十分後、警官の群れが部屋になだれ込んできた。腹部に損傷を負って動けないヤックは、引き摺られるように連れていかれた。凶器から解放されたティナは、新鮮な酸素を思う存分吸い込んだ。ティナの頭上を漂う空気は冷たい。天変地異じゃない。理由は分かっている。
「……チーフ」仁王立ちするシエルの青い目は、絶対零度に凍りついていた。「……無茶をしました。ごめんなさい」
 仁王立ちの構えを解除したシエルが、座り込むティナのすぐ側に屈みこんだ。紺碧の宇宙の眼差しが彼女の首に残った痕を認識する。黒い革の手袋に包まれた指先が殺意に染められた赤黒い痕跡に触れ、その跡をなぞり始めた。
「……痛かっただろう」
「え? だっ……大丈夫です! 全然痛くありませんから!」
 非情な暴言を覚悟していたティナは思わぬ言葉に驚いて、金属同士が擦れ会うようなうわずった声を出してしまった。いわゆる裏声だ。上昇したシエルの指が、フォークにパスタを巻くような動作でティナのオレンジ色の髪を撫でていく。深い青の目は彼女を見ているようで見ておらず、遠い昔に過ぎ去った過去を見つめているように曇っていた。まるで、過去の自分とティナを重ねているようであった。
「チーフ? 大丈夫……ですか? 怪我、したんですか?」
 長い睫毛が縁取る瞼が上下して、シエルが追憶の過去から戻ってきた。オレンジの髪を愛でていた指が離脱して、シエルが立ち上がった。
「問題ない。まったく……単独で殺人犯の住居に乗り込むとは、お前は正真正銘の大馬鹿者だな。私がくるのが数分でも遅れていたら、お前は確実に殺されていたんだぞ」
「……ごめんなさい。反省してます」
 炸裂したシエルの説教が、花火のように空気中に散っていく。以前より声色が柔らかいのは気のせいだろうか。それ以上の説教はなかった。長い腕が差し伸べられる。立てという命令だ。黒い手を握ると、シエルの体格に釣り合った力がティナを引っ張り上げた。二人はアパートを出た。アパートの前に乗り捨てられている黒い車はシエルの車だろう。並列するようにシルバーの車が停車している。運転席と助手席のドアが開き、ディアナとフレンが駆け寄ってきた。
「ティナ!」
 同時に名前を呼ばれ、同時に抱き締められ、同時に馬鹿と怒られた。それくらいメシアのメンバーは、ティナを心配してくれていたのだ。
「私たちがどれだけ心配したことか……でも、無事でよかったわ」
「まさに鉄砲玉だよ」フレンが安堵と呆れが混じった笑顔を浮かべ、横目でシエルを見つめた。「誰かが側にいて、常に目を光らせておかないと危ないですよね」
「……なぜ私を見るんだ。まさか、私がこの子猿の面倒をみるというのか? ふざけるな。死んだほうがまだマシだ。くだらん。帰るぞ」
 女神のように優しかったシエルはどこへやら。不機嫌に顔を歪めたシエルは一人で車に乗り込んで、三人の部下を置き去りにして帰っていった。オモチャを買ってもらえなかった子供のような怒りように、ティナたち三人は笑ってしまった。


 数日後、ティナとシエルは犯人逮捕と事件解決の吉報を伝えるために、車でブルーネル夫妻の自宅に向かっていた。フレンの采配かどうかは知らないが、ティナはシエルとペアを組まされた。運転に集中しているシエルは喋らないし、もちろんティナも喋らない。二人分の沈黙が車内を静かにしている。心底毛嫌いしているティナと組まされたのだ。車の操縦に集中することで、嫌悪感を紛らわせているのだろう。
「ヤックが犯行を自供した。言い逃れをする気はないらしい」
 シエルが口を開いた。刺々しさは含まれていない。青い視線は前方へ。足はアクセルペダル。長い手はハンドルを回している。
「安心しました。これで、フランツさん達に胸を張って報告できますね」
「そうだな」
「あの、チーフ。どうしてヤックが犯人だって分かったんですか?」
 一瞬切れ長の目がティナを見て、すぐに前方に戻された。
「エミリーの部屋で発見した切符に残っていた指紋と、奴に見せた写真に残った指紋を検証した結果、両者が一致した。それと、エミリーの肺に溜まっていた水からわずかに検出された成分が、ヤックの勤務するヴァポレット乗り場の近くにある運河に沈殿している成分と一致したんだ」
 ティナの記憶のフィルムが巻き戻される。あの時シエルはヤックにエミリーの写真を手渡していた。触れれば必ず指紋が残る。いつの間に採取された指紋を科学捜査班のラボに送っていたんだろう。手際と効率のよさに舌を巻いてしまう。培ってきた経験の差を思い知った。
「……奴を逮捕できたのは、アンバー、お前のお陰だ」
「私の……ですか?」
「お前がヤックの部屋で見つけたペンダントが決定的な証拠になった。それがなければ……逮捕は難しかったかもしれん。お前の功績だ。胸を張れ」
「私だけの功績じゃありませんよ。メシアの皆が手に入れたものです。チーフも胸を張ってください」
 返答はなかったけれど、シエルの口元はわずかに微笑んでいたように見えた。車はブルーネル家の前に到着した。先頭を歩いていたシエルが、階段を上がるのを躊躇っているように木製のステップの前で歩みを止めた。シエルが立ち止まったことに気付くのが遅れたティナは、彼の数歩前で足を止めた。
「チーフ? どうしたんですか?」
「私は車で待っている。お前が夫妻に報告してこい」
「どうしてですか? チーフもきてくださいよ」
「……苦手なんだ」
「え?」
「人から感謝されるのは苦手なんだ。だから――」
 ブラックのコートを翻して踵を返そうとしたシエルの腕を、ティナは掴んで拘束した。ティナの体温に驚いたシエルが彼女を見下ろした。彼の青い目にティナの姿が映る。腕を解放しろという指示は出ていない。腕を交差させた二人は、しばらくのあいだ立ち止まっていた。真実を待っている人がいるんだ。お願いだから帰るなんて言わないで。ティナに交渉人の経験はないけれど、彼を説得しなければ。
「駄目です。事件を解決に導いたのはアルタイルチーフです。チーフがフランツさんを説得して彼の話を聞いたからこそ、忘れ去られていた事件が解決したんですよ? 良いことをしたんです。感謝されるのは当然のことです。ブルーネルさんに会いにいきましょう。お二人もチーフを待っています」
 沈黙。静寂。風に舞い上げられた落ち葉が舞う。シエルの吐き出した溜息が風と一体になり、蒼穹の空へ吸い込まれていった。
「……分かった。夫妻に会いにいく。腕を離してくれ」
 抱き合っていた腕同士が距離を置く。ティナはシエルに先頭を譲り、ブルーネル家に向かった。ウッドポーチが奏でるファンファーレを聞きながら、呼び鈴を鳴らした。フランツがドアを開けて出てきた。妻のアメリアも一緒だ。
「アルタイルさんに……アンバーさん? どうしたんですか?」
「ご息女を殺害した犯人が捕まりましたので、報告にきました」
「犯人が――?」フランツの声が詰まった。精一杯振り絞られた声が続きを語る。「じゃあ、やはり、事故死でも自殺でもなかったんだね?」
「はい。私の見解が間違っていました」
 ティナは出てきた夫妻に真実を伝えた。二人の口から嗚咽が漏れ、次いで綺麗な涙が溢れ出た。地面に落とすのがもったいない。鞄を開けて、ティナはペンダントを取り出した。邪悪な殺人犯から奪い返したエミリーの形見だ。
「エミリーちゃんのペンダントです。お返ししますね。この写真も私たちを助けてくれました。ありがとうございました」
 ペンダントを受け取ったアメリアと、写真を受け取ったフランツが娘が生きた証を抱き締める。七年間ものあいだ背負っていた悲しみから解放されたのだ。少しずつだが、二人は一歩ずつ前に進んでいくのだろう。エミリーと共に。
「長い間待たせてしまって、申し訳ありませんでした。我々の落ち度のせいで貴方たちを苦しめてしまったことを、心から謝罪します」
 シエルが深く頭を下げた。ティナも頭を下げる。謝れば全てが許される世界じゃないのは分かっている。それでも、少しでもいいから誠意を伝えたかった。春の日差しのような温かい声が降り注ぐ。夫妻の心にまとわりついていた氷が溶けた瞬間だった。
「頭を上げてくれ。私も妻も心から感謝しているんだ。君たちはエミリーの魂を救ってくれた。充分すぎるほどだよ」
「エミリーのぶんもお礼を言わせてちょうだい。本当に、ありがとう――」
 ブルーネル夫妻がハグを求めて両腕を広げた。彼らにできる最大限のお礼だろう。ティナは抵抗もなく受け入れることができたけれど、シエルは戸惑いを隠せないでいた。獅子のように誇り高いプライドがシエルの背中を無理矢理蹴飛ばすと、彼はロボットのようにぎこちない動きで夫妻とハグを交わした。カメラを持っていたら撮影したいくらい、面白くて珍しい光景だった。夫妻と別れて車に帰還する。ティナは清々しい充実感を感じていた。
「アンバー」運転席に乗り込もうとしたシエルが動きを止めて、ティナを呼んだ。
「はい」
「言い忘れていたことがある。……無事でなによりだ」
 ティナの返答を待たずに、シエルは運転席に姿を消した。危険な目に遭ったのは数日前なのに、遅すぎると思う。何億光年彼方から届いた労わりの台詞にティナは呆れて怒り、最後に喜んだ。無関心さを装っているのは、彼女を気にかけていることを隠したいからなのだ。
 不意に、背後に人の気配を感じてティナは振り向いた。
 写真と同じ服を着たエミリーが立っていた。
 驚かなかった。
 恐怖も感じなかった。
 魂が家に帰ってきただけなのだ。
 エミリーが手を振る。ティナも手を振り返した。
 赤いリボンをなびかせて、エミリーは透明になった。
 感謝と別れの言葉がティナの鼓膜に届く。
 クラクションが泣き喚いた。早く乗れとシエルが急かしているのだ。
 少しくらい感傷に浸ってもいいじゃないか。
 見上げた空は、目が覚めるような青さだった。
 あの白い雲の片隅に、天国があるんだろう。
 そして、エミリーは白い楽園で笑っているんだ。
 きっと、笑っている。