2009年。淡い桃色の桜が世界を彩る四月。神志那(かみしな)航空祭が開催されている、航空自衛隊神志那基地は、老若男女が入り乱れた大勢の人々で埋め尽くされていた。そして誰もが空を仰ぎ、まるで天使の姿を捜しているかのように目を細めながら、その視線を彷徨わせている。
数秒後、滑走路の左前方から、間隔を開いたデルタ隊形を組んだ六機の航空機が、純白のスモークを曳きながら進入してきた。白と青に塗り分けられた、T4と呼ばれる航空自衛隊の機体である。
観客の注目を浴びた六機のT4は、滑走路正面にさしかかると一斉にスモークをオフにし、同時に360度の右ロールを打つと、滑走路の右手後方に抜けていった。各機の息の合った連携動作と、六機同時のロール機動に圧倒された観客たちは、拍手と喝采の雨を降らせている。
『見事綺麗に決まりました。六機全機による一斉横転、ボントン・ロールでした』
TRパイロットによるナレーションが響き渡るなか、小鳥は人混みの中で右往左往していた。母親と連れ立って航空祭を観に来たまではよかったものの、いつの間にか小鳥は、母親の佐緒里と逸れてしまったのである。
見知らぬ砂浜に打ち上げられた魚のような孤独感に耐えながら、人混みの中を泳いで佐緒里を捜していると、小鳥は一人の観客の背中に衝突してしまった。よろめいた観客が持っていた荷物の一つが、小鳥の足下に舞い降りた。
荷物を拾い、持ち主に渡す責任を果たさなければいけないと思った小鳥は急ぎ身を屈め、地面に落ちた荷物を拾い上げた。落とし物を拾い上げた瞬間、小鳥は驚いた。それは、つばの先端に白いラインが走り、「Blue Fairy」のロゴが刺繍された紺色のメッシュキャップで、現在上空を飛んでいるパイロットだけが身に付けることを許される物だったのだ。頭上から伸びてきた手が小鳥の手から帽子を奪い取り、次いで苛立ちに塗れた声が降ってきた。
「――さっさと返せよ。クソガキ」
「ごっ……ごめんなさい!」
小鳥がぶつかったのは、サングラスを掛けた背の高い若い男性で、ダークグリーンの作業服を着ていた。コスプレ好きのミリタリーマニアかと思ったが、見上げた彼の左胸には翼を広げた鷲と、太陽と月と星を模したウイングマークが煌めいていた。
誇り高い黄金色の輝きは、安価な模倣品では作れない。小鳥は直感した。彼は本物の航空自衛隊のパイロットだ。青年は無言で小鳥を一瞥して空を見上げた。どうやらこれ以上怒る気はないらしい。
『ただいま会場上空を通過した編隊は隊形変換を行い、再び会場右手方向から進入して参ります。会場上空をご覧ください。六機のT4が進入して参りました。四番機を中心に五方向に規則正しく位置した各航空機は、この後一斉に左旋回を開始し、それぞれが円を描き始めます。我が国の花、『さくら』の始まりです』
会場右手方向から一番機を先頭に四番機を中心とした、ワイドな正五角形の隊形を組んだ六機のT4が進入して来た。高度は2000から5000フィート。リーダーのコールを合図に、六機は一斉に旋回を始めた。速度250ノット。3.5Gの360度左水平旋回だ。六機の旋回が終わると、蒼穹のカンヴァスには、我が国を代表する桜の花が美しく描かれていた。
大空に描かれた一つ一つの円の直径は約500メートルで、桜の花の大きさは約1500メートルになるだろう。航空自衛隊創設五十周年を記念して2004年シーズンから実施されている課目の一つで、主に第三、四区分や編隊連携機動飛行で実施される課目である。一際大きい拍手喝采は、しばらくの間鳴り止まなかった。
「――あの人は、綺麗な飛び方をするな」
「あの人?」
「六番機のパイロットだ。風に乗り、自由に空を舞う。まるで、鳥みたいだ。オレには――到底真似できない」
空の眩しさに負けたのか、それとも自由に舞う機体に嫉妬したのか、青年は視線を地上に落とした。
「どうしてそう思うの? お兄ちゃんも……パイロットなんでしょ?」
「……オレの翼は折れちまったからさ。今は、飛ぶのが怖い」
小鳥が問いかけると、青年は唇の端に自嘲めいた笑みを浮かべて答えた。
「心の中に翼があれば、誰だって空を飛べるよ」
不思議だった。出会って間もない見ず知らずの青年を励ますために、小鳥は自分だけのものだと決めていた言葉を口にしていたのだ。それは父親が常日頃から口癖にしているもので、小鳥にとっては神の御言葉よりも神聖で尊いものだった。小鳥は青年の様子を窺った。漆黒のサングラスが両眼を隠しているせいで、彼の表情の動きは読めない。
「お前、まさか――」
「小鳥!」
肩越しに後ろを見やると、血相を変えた女性が、人混みを掻き分けながら突き進んでくるのが見えた。小鳥が必死になり、その行方を捜していた母親の佐緒里だ。佐緒里が青年に気づき、微笑んで会釈した。青年は会釈を交わすと踵を返し、逃げるように人混みの中に消えていった。
「もう! 心配をかけさせないでちょうだい!」
「……ごめんなさい」
「さくら、凄く綺麗だったわ。……まるで、小鳥の門出を祝福しているみたいね」
次の課目に備えて、五番機と六番機が編隊を抜け出した。その六番機を目で追いかけながら、佐緒里はどことなく寂しげに呟いた。小鳥も佐緒里の視線を辿る。背面姿勢になったソロの二機が、会場正面から進入して来るところだった。
背面のまま二機は旋回を開始し、激突するかしないかの間隔で交差した。
すれ違った二機はそれぞれ滑走路上で急上昇に移り、横転しながら地上約1500メートルまで駆け上がっていく。そして間髪入れずに急降下に転じ、再び会場正面に戻って来た。
高度100メートル。背面飛行で二機は交差した。
六番機が通り過ぎる刹那、パイロットが小鳥に向けて手を振っているような気がした。
そう、六番機を操るパイロットは、小鳥の父親なのである。
「お母さん。父さんが――手を振っていたよ。一緒に空を飛ぼう、あの空で待ってるって」
「……馬鹿な人。どうして地上で言えないのかしら。親子揃って空に続く道を選ぶなんて、血は争えないということなのね」
佐緒里の顔は、愛娘の門出を祝うには些か憂いを帯びていた。まるで小鳥が、手の届かない場所に行ってしまうのではないかと不安に駆られているかのようだ。彼女が不安に思うのも無理はない。来週小鳥は航空学校に入学し、佐緒里の下から巣立つのだ。
佐緒里は鞄を開けると小さな袋を取り出し、それを小鳥に手渡した。小鳥が受け取ったのは、桜色の布地に安全祈願と刺繍された、手作りのお守りだった。
「これ――お守り?」
「そうよ。私と父さんの思いが注入されたお守り」
小鳥の額に、聖母のような優しい口づけが落とされた。
「これは、貴女がもっと空と仲良くなれますようにっていうおまじない。いつでも帰って来なさい。私はずっと待ってるわ」
「……うん。私も、父さんも、ちゃんと地上に戻ってくるから。だから心配しないで」
空を仰ぐ佐緒里を見上げ、小鳥は約束した。
言葉は返ってこなかったが、数秒後、繋がった手が握り返された。約束が交わされた合図だ。
小鳥が交わした誓いは風に乗り、六機のT4が描くスモークの航跡を追いかけるように、青空の高みへと昇っていった。
小鳥は忘れない。
永遠の彼方まで続く青空を。
青い世界を飛翔する、白と青の機体を。
私も彼らのように、自由に空を飛んでみたい。
風に乗り、自由に空を舞う、空気の妖精のように。
空を見上げ、彼らの名前を呼ぶたびに、小鳥の胸には果てしない憧れが湧き上がる。
ブルー・フェアリー。
それが、小鳥を空へと導いてくれる、魔法の言葉だ。