2013年。航空自衛隊神志那基地の一角にある第11飛行隊隊舎の一室で、真新しい濃紺の制服の胸元にウイングマークを付けた夕城小鳥(ゆうきことり)は、直立不動の姿勢のまま微動だにせず立っていた。一ミリでも僅かに姿勢を崩せば、目の前にいる堂上清史郎(どうがみせいしろう)一等空佐の怒りを買ってしまいそうな気がするのである。
 第4航空団の団司令である堂上清史郎一等空佐は、極太の筆で描いたような太い眉に挟まれた眉間に皺を刻み、小鳥を睨みつけるように見ている。まるで、形の悪い南瓜を見ているような目つきだった。
「夕城小鳥二等空尉。配属先は、航空自衛隊神志那基地第4航空団所属、第11飛行隊――ブルー・フェアリーでよかったかな?」
「はい!」
 小鳥はさらに背筋を伸ばした。少しでも堂上の眉間の皺を和らげたいからだ。しかし堂上の眉間の亀裂は塞がらなかった。それどころか、ますます彼の皺は増えたのである。軽い舌打ちが小鳥の耳に届いた。小鳥に聞こえるか聞こえないかの絶妙な音量だった。
「夕城荒鷹一等空佐の娘が、父親と同じ部隊に配属を希望するとはな。君の父親がしたように、我が航空自衛隊の信頼を、地に墜とさないように注意してくれたまえ」
 堂上の声には、明らかな敵意が含まれていた。それに、小鳥を睨みつけている視線にも毒がある。敢えて父親を侮辱するような発言を口にしたのは、小鳥を怒らせて一悶着起こし、上官に逆らったとして基地から追い出そうと企んでいるのだろう。堂上の策略の糸に絡め取られたくはなかったが、誇りに思っている父を揶揄されたのだ。聞き流すことはできなかった。
「お言葉ですが――」
「失礼します」
 小鳥の抗議の声を遮ったのは、背後にあるドアの向こうから響いた声であった。まるで、小鳥が声を上げるのを待ち構えていたかのようなタイミングのよさだった。
「石神二等空佐、ただいま到着しました」
「入りたまえ」
 ドアノブがゆっくりと回転してドアが開き、ダークグリーンの飛行服を纏った男性が入室した。彼は小鳥の隣まで歩いて来ると足を止め、敬礼をしてから背筋を伸ばした。
「紹介しよう。彼は石神焚琉(いしがみたける)二等空佐だ。ブルー・フェアリーの一番機パイロットで、飛行隊長を務めている。では石神君。あとはよろしく頼むよ」
「了解であります」
 敬礼をした石神に続き、小鳥も敬礼をして部屋を出た。黙々と廊下を歩いていると、石神が立ち止まって振り向いた。厳しい表情と、岩壁のように逞しい長身に威圧された小鳥は緊張した。しかし次の瞬間、彼の表情は春の日差しに照らされた雪が溶けるように、柔らかく綻んだ。
「堂上相手に、よく怒りを堪えたな。お嬢ちゃんが怒り出した瞬間に、フォローに入ろうと思っていたんだが……どうやら、俺の杞憂だったみたいだな。改めて自己紹介するぜ。ブルー・フェアリー一番機パイロットの、石神焚琉二等空佐だ。よろしくな」
「夕城小鳥であります! よろしくお願いします!」
 差し出された石神の手と小鳥は握手した。握り返してくる握力はさすがに半端ないが、悪くはない痛みだ。年齢は三十代後半だろう。無造作に跳ねた鳶色の髪と同じ色の瞳。ほど良く日に焼けた精悍な顔立ちは、無精髭でコーティングされている。
「夕城一等空佐の娘さんが、ブルーに配属されると聞いた時は驚いたよ。……親父さんのことは、残念だったな」
「……いえ、父も本望だったと思います。空で死ねたんですから」
 小鳥の父親――夕城荒鷹(ゆうきあらたか)は、四年前の航空祭で命を落としている。
 それは、第一区分第8課目のサンライズを行っている時だった。右方向に4Gのブレイクする六番機が、基地郊外の駐車場に墜落してしまい、パイロットである荒鷹が殉職したほか、周辺住民十三名が負傷するという痛ましい事故が起こったのである。編隊長のブレイク・コールが一瞬遅れたのが、事故の原因であった。
 徹底的な事故調査の結果、存在自体が危険だと判断されたブルー・フェアリーは解散に追い込まれ、数年間その存在を忘れられていた。しかし、関係者はもとより、多くの支援者の献身的な努力によって、昨年2012年に飛行訓練の再開の許可が下り、今年2013年にブルー・フェアリーの復活を祝う航空祭が行われることになったのだ。
「嫌なことを思い出させて悪かったな。チームメンバーを紹介しないとな。オペレーション・ルームに待たせてあるんだ。付いて来てくれ」
 小鳥は先導する石神の足跡を追いかけて第11飛行隊隊舎の階段を上がり、二階のオペレーション・ルームに向かった。パイロットたちは飛行前にこの部屋に集合して、ブリーフィングを行うのだ。
 藍色のマットが敷かれた室内には、数台のデスクトップパソコンが並び、部屋の中央には焦げ茶色の机と数脚の椅子が鎮座している。横長のフラットテレビは、眠り姫のようにおとなしい。部屋にいたのは三人の男女で、石神が部屋に入ると同時に談笑を止めた。
「待たせたな。早速だが、期待の新人さんに自己紹介を頼むぜ」
 椅子に座っていた男女は素早く立ち上がり、まずは女性が進み出た。
「初めまして。三番機パイロットの、雪代・ジュラーヴリク・マリアよ。よろしくね」
 年は二十代前半。緩く波打った亜麻色の髪に、透けるような雪肌の美女だ。満月のように大きな瞳は、海の色を思わせるブルーグリーンで、目鼻立ちの彫りは深い。恐らく異国の血を引いているのだろう。
「四番機パイロットの、朱鷺野圭麻(ときのけいま)です。よろしく」
 次に男性が進み出た。物静かな雰囲気の二十歳前後の若者で、サイドを刈り上げた前髪の長い栗色の短髪が、芸術家のように繊細な面立ちの輪郭を包んでいる。
「六番機パイロットの、鷺沼伊月(さぎぬまいつき)だ。君の師匠になるみたいだね。よろしく頼むよ」
 最後に進み出たのは、石神とほぼ同年齢の男性だった。淡い栗色の髪は柔らかく波打ち、優しく細められた双眸は小鳥を映している。教壇で教鞭を振るっていそうな風貌の男性だ。これから小鳥はORパイロットである鷺沼に師事し、基本的な曲技飛行の操縦操作と細かなテクニックを学ぶことになるのだ。
 敬礼と握手を交わし、些か緊張しながらも、小鳥は着任の挨拶をした。マリアも圭麻も鷺沼も、堂上のように嫌味を言うこともなく、笑顔で小鳥を受け入れてくれた。小鳥はとあることに気づいた。ブルー・フェアリーには小鳥を含めて六人のパイロットが所属しているはずだ。しかし出会ったのは四人のみで、小鳥を入れずに計算すると、残る二人に会っていないということになる。小鳥が疑問を言葉に変える前に、石神が口を開いた。
「あとは、二番機と五番機のパイロットがいるんだが、一人は不在でもう一人は――その……機嫌が悪くてな。一応、夕城が来ることは伝えたんだが、会いたくないとの一点張りなんだ。まあ、悪くは思わないでくれ。明日になれば、機嫌も直っていると思うからよ。練成訓練は明日から始める。今日はゆっくり休んでくれ。朱鷺野、夕城を官舎に案内するように。頼んだぞ」
「了解です」
 小鳥と圭麻はオペレーション・ルームを出て一階に降り、エントランスを抜けて隊舎を出た。ブルー・フェアリーのホームベースは航空自衛隊神志那基地の一角にあり、パイロットを始めとする四十名以上のメンバーが、飛行隊隊舎を拠点に活動している。
 その拠点となる飛行隊隊舎には、ブリーフィングルームや救命装備室、整備員待機室に整備統制室と総括班などのほか、ブルー・フェアリーの歴史を展示物で知ることができる、ブルーミュージアムがあるのだ。
 圭麻と一緒に基地の敷地を歩いて行くと、緩やかなアーチを描く建物が見えてきた。建物の上部には、「Home of The Blue Fairy」の文字が大きく書かれている。飛行機を収納している格納庫(ハンガー)だ。ハンガーのシャッターは開放されていて、そこから煌々とした太陽の光が降り注ぎ、ハンガー中央の床面にあるブルー・フェアリーの特大エンブレムを輝かせていた。
 太陽のスポットライトを浴びているのはエンブレムだけではない。白と青の衣装を纏ったT4も、エプロンのステージで眩いライトの下に佇んでいた。T4に目を奪われた小鳥は、いつの間にか足を止めていた。そんな小鳥に圭麻が気づいた。
「官舎に行く前に、ハンガーに寄っていきますか?」
「え? いいんですか?」圭麻が笑い、頷いた。「はい! 是非、見たいです!」


 二人は予定していたコースを外れ、ハンガーに向かった。エプロンを動き回っているのは、整備小隊に所属する航空機整備員――通称APGたちだ。彼らは三人一組になり、六番機を除く五機のT4の毎飛行後点検(EPO)を行っている。
 毎飛行後点検とは、次のフライトに備えた点検のことで、各部の点検や給油などの作業が実施されるのだ。特にブルーに必要なスモークオイルの給油や、アクロ仕様機ならではの点検項目など、部隊で使用されているT4と比べて作業内容は多くなっているのである。
 眩い陽光を弾くT4を眺めていると、働き蟻のように駆け回っている整備員が小鳥たちに気づき、仕事の手を休めて近づいて来た。
「誰かと思ったら圭麻やないの。えらい可愛い子連れて来て――どないしたん?」
 独特な韻を踏んだ口調で話しかけてきたのは、長い黒髪をポニーテールに束ねた、小鳥と同年代の少女であった。ダークグリーンの作業服の腰に、二本のドライバーとフラッシュライトが収められたガンベルトと、エンジン音から耳を保護するイヤーマフと青いポーチを巻いている。
「大した用じゃないよ。彼女に飛行機を見せにきただけ」
「初めて見る顔やな。もしかして……石神隊長が言ってた新人さん?」
「夕城小鳥です! 本日付で、第11飛行隊に配属されました!」
「ウチは鶴丸彩芽(つるまるあやめ)。整備員の一人や。よろしく頼むで」
「馬鹿者! 口を動かしている暇があったら、手を動かさんか!」
 突如として、天駆ける稲妻の如く激しい怒鳴り声が鳴り響いた。声のしたほうを見やると、T4の点検作業を行っている男性整備員が、鬼のような形相でこちらを睨んでいるではないか。しかし彩芽は怯むことなく両手を腰に当て、負けじと彼を睨み返した。
「新人さんに挨拶してただけやないか! 夕城小鳥ちゃんやって。可愛い子やろ?」
 刹那、般若のような表情は瞬く間に崩れ去り、作業を中断した男性が小鳥の前にやって来た。六十代前半の男性で、赤銅色に焼けた肌が若々しい。また怒鳴られるのかと思い、小鳥は思わず身を硬くした。小鳥の予想に反し、放たれた声は優しかった。
「もしや、お嬢ちゃんは――夕城荒鷹の娘さんかね?」
「は……はい。そうですけど」
「そうか――」感慨深げに呟くと、彼は相好を崩した。
「小生は鷲尾正宗(わしおまさむね)。整備班長を務めておる。荒鷹さんが在籍していた頃は、彼の機体の整備を担当しておったんじゃよ。荒鷹さんの娘さんということは、六番機に乗ることになるのかね?」
「はい。まずは鷺沼さんの後ろに乗って、彼から技術を学ぶことになります」
 配属されたばかりの小鳥は、練成訓練中のパイロットであるTR(トレーニング・レディネス)だ。最終検定に合格すると、OR(オペレーション・レディネス)と呼ばれる正パイロットになる。ブルー・フェアリーの練成訓練で、TRはまず現ORの後席に乗って飛び、時には他機の後席に乗って、自分のポジションとブルー・フェアリー全体の役割を理解しなければならないのだ。
 次に後席にORパイロットを乗せて単機で飛び、必要となる操縦技術を身につけながら、展示飛行課目を学び、イメージを掴んでいく。単機飛行の次は、複数機で訓練を行う。最初は自機ともう一機で飛び、少しずつ機数が増やされ、最終的には六機で飛ぶことになるのである。
「あの小僧と組むことになるのか。面白くなりそうじゃな」
「え? あの人と組むん? でも、確か――」
 何かに気づいた鷲尾が、日傘代わりに手を翳して空を仰いだ刹那、上空から爆音が落ちてきた。航空機のエンジン音だ。その音は少し乾いている。恐らく、スロットルを全開にしているのだろう。エンジン音を聞きつけた整備クルーたちも、眩しさに目を細めながら、空を仰いでいた。彼らの中には、別れたばかりの石神とマリアと鷺沼もいた。上空の機影を捉えた石神は、些か驚いた面持ちで口を開いた。
「あれは――まさか、燕か? アイツが飛んでいるのか?」
「燕……?」
「燕流星(つばめりゅうせい)。ブルーの五番機パイロットだ」
 T4は小鳥たちのほうへ機首を向け、滑走路の右手上空から、斜めに突っ込んで来た。
 ロールを打つと見せかけ、背面のままでアプローチ。
 スロットルはアイドルまで絞られ、翼が風を切り裂く音が近づいてくる。
 小鳥たちの目の前を通過する時の高度は、僅か7メートルほどであった。
 T4はエンジンの回転率を上げ、背面のまま真っ直ぐに上昇していった。小鳥たちは目を細めながら口を開け、上昇していくT4を見ているばかりであった。
 T4は左手上空からダイブに入り、低高度でアプローチしてきた。
 滑走路上に進入したT4は、素早く半ロールを打った。
 主翼を垂直に立てて機首を僅かに持ち上げ、横倒しになった姿勢を維持したまま突撃してきた。その光景に恐れをなしたようで、数人の整備クルーが悲鳴を上げた。
 あれは、曲技飛行の一種であるナイフエッジだ。90度のバンク角を維持しながら、水平直線飛行を行う課目で、横向きになった機体が、まるでナイフの刃の上を渡っていくかのように見えることから、この名称が与えられたのである。
 エンジンはフル・スロットルだ。主翼が立っているので、機体の重量を支えているのは胴体の揚力だけになる。キャノピィは小鳥たちのほうを向いていた。
 轟音と共に、青い稲妻が駆け抜ける。
 刹那、キャノピィの中で逆さまになったパイロットと、小鳥の視線が交差した。
 T4はナイフエッジの姿勢を保ったまま、少しずつ高度を上げて右手へ飛び去った。
 右手へ去ったT4は垂直上昇に入り、突然静かになった。パイロットがエンジンを絞ったのだ。
 ストール・ターン。機体が真下を向く。
 エレベータ・ダウン。
 水平で滑らかに進入したT4は、滑空しながら静かに右から接近してきた。
 かなりの低空だ。着陸するのだろうかと小鳥が思ったその時、半ロールで背面飛行になった。
 高度が落ち、キャノピィと地面が接触しそうだった。
 再び半ロール。正立になる。
 ちょうど、小鳥たちの目の前に来る手前で、また半ロールを打った。
 小鳥たちの目の前を超低空背面飛行で通り過ぎ、再び正立に戻す。
 もう一回ロールを打ったT4は、背面のままようやくスロットルを開き、上昇していった。
 左手で垂直上昇に入り、その途中でスロットルを絞ったT4は、インバーテッド・スピンを披露した。
 次いで連続ロールでコーク・スクリューのまま、左からアプローチ。
 高度は10メートルくらいなのに、美しく回り続けている。
 そして小鳥たちの目の前を通過する時は、フォー・ポイント・ロールに切り替わり、90度の角度ずつで一瞬止めながら、ロールを打っていった。T4が通り過ぎていった後、何人かの整備クルーたちが賞賛の拍手を奏でた。
 今度のターンは、インメルマン・ターンだった。左手から静かにアプローチしてくる。
 手前で背面。高度5メートルで目の前を通過し、右手へ飛び去った。
 キャノピィの中のパイロットは、もう小鳥を見ていなかった。
 T4は右手で小さく旋回し、滑走路にアプローチする。機首を左右に振ってサイドスリップを見せながら、静かに着陸した。小鳥たちの前を通り過ぎたところで、ブレーキを掛ける音が鳴った。左手へ数百メートルのタキシングしたのち側道に進入し、隣の滑走路を逆走してから、再び最初の位置へタキシングで戻って来た。T4はそのままハンガーの前まで進み、そこでエンジンを切った。
 透明なキャノピィが開放され、コクピットから離脱したパイロットが、主翼を伝って地面に降りた。地面に降りたパイロットは歩みを進め、微妙な距離で足を止めた。石神と並ぶ長身のパイロットで、藍色のヘルメットを被り、下ろしたバイザーで顔を隠しているが、しなやかな身体つきからして若い男性であることが窺い知れる。
「紹介するぜ。五番機パイロットの燕流星だ。燕、新しく配属された夕城だ。可愛がってやってくれ」
「夕城小鳥です! よろしくお願いします!」
 一礼から敬礼した小鳥は右手を差し出したが、燕流星はバイザー越しに彼女を一瞥しただけで、無言で立ち去った。無礼な態度に小鳥は戸惑った。自分でも気づかないうちに、何か失礼な真似をしてしまったのだろうか。不安に駆られた小鳥の肩を、マリアが優しい力加減で叩いた。
「気にしないで。燕君はいつもあんな感じなのよ」
「――はい」
 行き場を失くした右手を宙に彷徨わせた小鳥は、マリアの慰めの言葉を聞きながら、もう見えることのない流星の背中を捜し続けていた。


 その夜。第11飛行隊の面々は神志那基地からバスに乗り、三十分ほどで行ける神志那市内の一角にある居酒屋「あおい」にいた。全員がダークグリーンの作業服という姿だったが、店にいる客たちは誰一人として不審者を見るような視線は向けてこない。それもそのはず。この居酒屋は航空自衛隊の隊員が頻繁に訪れる場所なのである。その証拠に、店内の壁には自衛隊のワッペンや、隊員たちのサインや手形が書かれた色紙が貼り付けられていた。
 畳が敷かれた奥の座敷に、小鳥たちは座っていた。テーブルの上は、鳥の唐揚げと牡蠣フライに、フライドポテトや焼き餃子などの、豊富な料理で占領されている。もちろんビールやチューハイも待機済みだが、未成年である小鳥は飲むことは許されないので、渋い烏龍茶で我慢だ。進行役兼幹事の石神が、仰々しく咳払いをした。
「では――これより、夕城小鳥の歓迎会を始める! 一同乾杯!」
 五人が掲げたグラスがキスをして、歓喜の声を上げた。箸を装備した小鳥たちは、好きな料理を小皿に取り、頬張った。会話も弾み箸も進む。居酒屋のドアが開き、見事にシンクロした店員の挨拶が響いたかと思うと、少し急いでいる様子の足音が近づいてきた。足音は小鳥たちがいる座敷の前で止まり、若い男性が障子を開けて入って来た。
「遅れてすみません」
 一瞬、雑誌の男性モデルが席を間違えたのかと思ったけれど、作業服を着ていて石神と親しげに挨拶しているところを見ると、どうやらそうではないようだ。甘く整った顔立ちと、柘榴色の髪を持つ二十代後半の青年で、石神と並ぶ長身の持ち主だ。会話を終えた石神が小鳥に視線を向け、それに続くように青年が振り向いた。
「二番機パイロットの鷹瀬真由人(たかせまゆと)だ。よろしく頼む」
「夕城小鳥です! よろしくお願いします!」
 小鳥と握手を交わした鷹瀬真由人は靴を脱いで座敷に上がり、彼女の隣に腰を落ちつけた。これで小鳥は、メンバー全員と顔を合わせたようだ。
「出張ご苦労様だったな。向こうのアグレッサー飛行隊はどうだった?」
「かなりの猛者でしたよ」牡蠣フライを飲み込んだ真由人が笑った。「付いていくのがやっとでしたね」
「謙遜するなって。で、ヒヨコどもを叩きのめしてやったんだろう?」
「もちろんです。それが任務ですから」
「えっ!? 鷹瀬さんは――アグレッサーなんですか!?」
 驚きのあまり小鳥は叫んだ。仮想敵飛行隊――通称「アグレッサー」は、敵の戦闘機の性能や戦術を真似することによって、自軍のパイロットに対してリアリティのある訓練を実施する部隊である。アグレッサーに所属するパイロットは高い技量を誇る教官クラスで、飛行技術のみならず敵味方双方の空戦方法などを熟知しているのだ。航空自衛隊では飛行教導隊がF15を使用して任務に当たっており、各地の飛行隊を回っては、高いレベルの戦法を叩きこんでいるのだ。
「いや――俺はアグレッサーじゃないよ。ブルーに異動する前はファイター・パイロットだったから、たまに応援に呼ばれるんだ」
 ファイター・パイロットということは、真由人はF15イーグルに乗っていたことになる。しかし空の悪魔とも揶揄されているアグレッサー部隊から応援を要請されるとは、かなりの卓越した操縦技術の持ち主なんだろう。
「夕城。驚くのはまだ早いぞ。鷹瀬も凄いが、雪代も凄いんだぞ。雪代はな、ロシアン・ナイツにいたことがあるんだぜ」
 ほろ酔い加減の石神が、どことなく誇らしげに語った。更なる驚きに目を瞬かせた小鳥は、箸を動かすのも忘れ、向かい側に座るマリアを凝視してしまった。小鳥の視線を受けとめたマリアは微笑みを返してくれたが、少し憂いを秘めた微笑であった。座敷を見回した真由人がグラスを置いた。
「ところで……流星は?」石神の渋い顔を見た真由人は苦笑した。「来ていないんですね。まったく――相変わらずだな」
「いや、それがね……今日、燕君が飛んでいたんだよ」
 鷺沼の言葉に真由人が反応した。グラスを口に付けた真由人は、長い睫毛の下にある茶色の双眸を大きく見開いた。
「流星が――? 本当ですか? ……信じられないな」
「ああ、本当だ。……思わず圧倒されちまったよ。あんな飛び方ができるのは、アイツくらいしかいないだろうな」
 一瞬、座敷が静まりかえった。その場にいなかった真由人を除く全員が、燕流星が描いた軌跡を思い出しているのだ。小鳥も、過去の情景を思い出していた。
 そのなかでも、あのナイフエッジは圧巻の一言に尽きた。高度が充分に保たれているならば、比較的簡単にできるだろうし、それだけの性能がT4には備わっている。ただそれを、あの低高度で飛び、しかも左右に全く揺れることなく飛べるのは、限られたパイロットだけだろう。少なくとも自分にはできない。小鳥はそう思った。
「でも、よかったじゃない」失われた活気を呼び戻すように、マリアが明るい声で言った。「燕君が元気になって、やっと飛んでくれる気になったんだもの。明日の訓練が楽しみね」
「話は変わりますけど……隊長、夕城さんのTACネームはどうするんですか?」
 圭麻の質問に、石神はしまったという顔で、自らの頭を叩いた。愛嬌のある仕草がメンバーの笑いを誘う。マリアと圭麻のお陰で、座敷に活気が戻ってきた。
「TACネーム……ですか?」
「部隊内でのニックネームみたいなモンだ。俺がアルバトロス。鷹瀬がブラックホーク。雪代がスワンで朱鷺野がワンダーフォーゲル。鷺沼さんがホワイトオウルだ。そうだなぁ……夕城は何がいいかな」
 TACネームとはタクティカル・ネームの略称で、パイロットが持つ非公式の愛称のことだ。主に航空機同士の交信時に使用するもので、AWACSや管制塔との交信では使用しない。TACネームは自己申告することもできるが、飛行隊長や先輩から命名されることが多く、本人の希望が通ることは極めて稀である。箸を置いて食事を中断した石神たちは、真剣な面持ちで考え始めた。
「ねえ、ハミングバードはどうかしら」
 マリアが口にしたハミングバードとは蜂鳥の英語名で、合衆国南西部からアルゼンチン北部にかけてのアメリカに生息する鳥のことである。蜂に似た羽音を奏でるため、蜂鳥と名付けられたのだ。毎秒約五十五回、最高で約八十回の高速で羽ばたき、空中で静止するホバリング飛翔を行うのだ。マリアの提案に全員が頷いた。一生懸命羽ばたく姿が、小鳥と重なったのだろう。
 全員一致で、小鳥のTACネームはハミングバードに決まった。ハミングバードの呼び名を与えられ、ブルー・フェアリーの一員になれた喜びが湧き上がる。小鳥は席を立つと座敷を出て、店の奥にあるトイレに向かった。


 用を済ませて手を洗い、石神たちが待つ座敷に戻ろうとトイレから出た時、ちょうど男子トイレに入ろうとしていた数人の男性客と危うくぶつかりそうになった。肩が触れ合っただけで因縁をつけられて暴力を振るわれ、最悪の場合命を奪われるご時世だ。小鳥はすぐに謝った。
 相手が何も言わなかったということは、不快に思っていないということだろう。その場から離脱しようとした小鳥は、突然腕を掴まれた。肩越しに振り向くと、薄ら笑いを張り付けた男の一人が、小鳥の腕を掴んでいた。
「あの、離してくれませんか?」
 可能なかぎり穏便にこの状況を収めたかったので、小鳥は穏やかな口調で言った。しかし男は小鳥の腕を放そうとはせず、強い力で彼女を引き寄せた。よく観察すると男たちの顔は赤く、吐き出される息は酒臭い。どうやら酒に酔っているようだ。おまけに彼らは、小鳥と同じ暗緑色の作業服を着ていた。つまり、小鳥たちと同じ航空自衛隊の一員ということである。
「随分と、可愛らしい自衛隊員さんだなぁ。ちょっと俺たちに付き合ってくれよ」
 小鳥を拘束している男は空いている片手を滑らせ、彼女の腰の周りを撫で回してきた。梅雨の空気を思い起こさせる湿った感触に鳥肌が立った。結託した男たちは、小鳥を男性トイレに押し込めようと動き始めた。圧倒的に男が多い軍隊で、欲求不満に陥っている彼らの目的はただ一つ。絶海の孤島で小鳥を性欲の捌け口にするつもりだ。
「なっ――何するんですか!? やめてください!」
「うるせぇ! 静かにしてろ! すぐに気持ち良くしてやるからよ!」
 ここは座敷から遠く離れた場所にある、人気の少ないトイレだ。ましてや店内は活気溢れる声が飛び交っているので、小鳥がいくら声を張り上げても、石神たちには届かないだろう。
 国の空を守るべき航空自衛隊員が、あろうことか酒に溺れ、酔った勢いで女性を襲おうと目論むとは。これが最低の行為であることを教えてやるべきだ。
「貴方たちは、それでも自衛隊員なんですか!? 私たちは、国の空を守る仕事に就いているんですよ!? 馬鹿なことをやる前に、目を覚ましてください!」
「ガキが生意気な! テメェはおとなしくヤられてればいいんだよ!」
 怒りを露わにした男が右手を振り上げた。小鳥は両目を瞑り、頬に痛みが弾けるのを覚悟した。しかしいくら待っても熱い痛みは降ってこず、不思議に思った小鳥は、恐る恐る両目を開けた。すると男たちの背後に別の客が立っていて、小鳥の頬を弾くために振り上げられている手を掴んでいたのだ。突然の闖入者に、男たちは驚いている。
「……彼女の言うとおりだ。女が欲しいのなら、さっさと航空自衛隊を辞めて、余所へ行くんだな。自衛隊の面汚しめ。吐き気がする」
「んだとぉ!?」
「おい! 待てよ! こいつ、航空幕僚長の――!」
 顔を上気させた男を仲間の一人が制止した。途端に朱が差していた男の顔は蒼白になった。覚えてろよと時代劇の悪役が言う台詞を吐き捨てた男たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。そして、邪悪な狼を追い払った狩人が一言呟いた。
「――空を冒涜しやがって」
「あの――」小鳥が声をかけると、彼は振り向いた。「助けてくださって、ありがとうございました」
 小鳥を救い出したヒーローは、二十代前半の若い青年だった。藍色にも見える黒い髪は逆立っており、切れ長の双眸は涼やかだ。その顔は非常に整った造形ではあるのだが、目鼻立ちが猛禽類のように鋭く、やや吊り上がった切れ長の目が、憮然とした印象を小鳥に与えた。反骨的人格を想起させる面立ちとでも言うべきだろうか。
 青いラインが走る黒いジャケットの下に白いシャツを身に付け、ブラックのダメージジーンズが長い脚を包んでいる。恐らく一般客だろう。青年は無言で小鳥を見下ろしていたが、しばらくして口を開いた。
「……TACネームを貰っただけで逆上せ上がってんじゃねぇぞ。オレは、お前を認めたわけじゃないからな」
 脅迫めいた台詞を口にした青年は、丹念に研がれたナイフのような鋭い視線で小鳥を睨みつけると、彼女の脇をすり抜けて廊下を歩いていった。見ず知らずの青年に脅された小鳥は、呆けたように廊下の暗がりを見つめていた。


***


 頑丈な救命装備を身に付け、メタリックブルーのヘルメットを小脇に抱えた夕城小鳥は、緊張した面持ちでエプロンに立っていた。メタリックブルーに染まったヘルメットは、オリジナルペイントが施されたFHG2改である。彼女の左右に直立しているのは第11飛行隊ブルー・フェアリーの隊員たちだ。そして彼らの後ろには、五機のT4が控えている。
 穏やかに晴れ渡る空の色は青いが、底のほうに白い雲の波が広がっている。この雲の量だと、第一区分や第二区分の練成訓練は難しいかもしれない。飛行隊長である石神焚琉二等空佐は、真剣な面持ちで空と睨み合っている。ウェザー・ブリーフィングの結果と照らし合わせながら、どの区分の訓練を行うか考えているのだ。
 ブルー・フェアリーが実施する曲技飛行や訓練の内容は、気象状態や空域などの条件によって細かく定められ、第一区分から第四区分までの四段階に分けられている。通常天候に問題がない場合は第一区分の課目が実施されるが、雲の状況により課目の上限高度が抑えられてしまう場合には、シーリングの高さに応じて段階的に区分が下げられていくのだ。
「――雲が多いな。よし、今日は第三区分の練成訓練を行うぞ」
 いよいよ本格的な訓練が始まるとあって、小鳥は不安と緊張で胸が詰まりそうだった。ブルーのメンバーに選抜されたパイロットは、全員が初期の操縦課程でT4の操縦資格をすでに取得しているため、すぐにアクロ課目をはじめとする練成訓練を開始することができるのだ。
 戦闘航空団でF15やF4EJ改、F2などの戦闘機を自在に操り活躍してきた、百戦錬磨のパイロットたちに大きな衝撃を与えるというほど、過酷で高度な厳しい訓練に小鳥は耐えられるだろうか。
 第11飛行隊ブルー・フェアリーは、航空自衛隊で唯一広報活動を主任務とする飛行隊で、全国の航空祭で展示飛行を行っている。ブルーの各機が果たす役割についてはそれぞれに特徴があり、高度な専門性を有している。少し長くなるが、その特徴を紹介しよう。
 全てのメンバーを統率して編隊の先頭を飛行するのが、編隊長を務める一番機(フライトリーダー)で、フォーメーションを組む際の基準となる存在だ。正確で滑らかな操縦操作が要求されるほか、展示飛行を実施するショー会場周辺の地形や天候といった、様々な状況を判断しながら各課目を的確に実施していく責任を負わなければいけない。まさにフライトの中核を担ったポジションである。
 一番機に対して、左翼側に位置するのが二番機(レフトウィング)だ。二番機は隊形変換などで移動する際の速度基準となる役割を担っている。例えば、ワイドなデルタ隊形から通常のデルタ隊形に移行する際に、二番機が緩やかに一番機に近づくとしよう。すると、三番機以降の機体は、それに合わせて隊形を縮めていくことになるのだ。課目の見栄えを左右するポジション。それが二番機だ。
 右翼に位置する三番機(ライトウィング)は、一番機を挟んで反対側に位置する二番機の動きや位置に合わせて機動し、隊形の対称性を確保する役割を担っている。このラインが揃っていないと隊形が崩れてしまうため、一瞬たりとも気の抜けないポジションなのだ。
 後尾に位置する四番機(スロット)は、後方から隊形をチェックする役割を担っている。隊形のバランスが悪ければ僚機にアドバイスするほか、隊形変換の際に、変換完了のコールを無線で編隊長に送るのだ。また、編隊から離脱して単独でフライトする課目もあり、一部でソロ機的な役割も与えられている。
 デルタ隊形で四番機の左側に位置する五番機は、第一単独機(リード・ソロ)として単機によるソロ課目のほか、六番機と共にデュアル・ソロ課目を実施する。また第二編隊長としての役割も与えられており、フォーメーション課目を担当する一番機と一定の間隔で課目を開始するようにタイミングを調整するほか、一番機にトラブルが生じた場合には、残りの機体を統率して飛行することがあるのだ。
 五番機とは対称的に、四番機の右側に位置する六番機は、第二単独機(オポジング・ソロ)としてデュアル・ソロ課目と五番機とは異なる、オリジナルのソロ課目を実施する。また五機で実施する課目では、一番機が率いる編隊と合流してフォーメーション課目も担当するため、ある意味もっとも多忙なポジションである。
 そして、ブルー・フェアリーで使用されているT4アクロ仕様機――正式名称戦技研究仕様機は、航空自衛隊のパイロット教育で使用されている、T4と基本構造や性能などの面で大きく変わるところはない。
 T4はT33Aの後継機として開発された純国産の中等練習機で、国産のF3−IHI−30ターボファンエンジンを二基装備している双発機である。優等生のように素直な操縦特性と、良好な運動性能を有するほか、リングレーザージャイロ方式の姿勢方位基準装置や機上酸素発生装置など、開発当時としては最新の装備を搭載しているのだ。
 合計十一機が製造されたアクロ仕様機は、T4をベースにしてブルー・フェアリーのアクロを実施する上で、発煙装置の追加やラダー作動角の拡大に、キャノピィの強化などの追加や改修を施した、特別仕様の機体なのだ。ちなみに機体のデザインは、一般公募で採用されたデザインである。
「今日は洋上アクロ訓練を行うぞ。訓練時間は四十分。天候が悪化したら、即座に訓練は中止だ」
 ブルー・フェアリーが実施している訓練には、神志那基地上空で行う飛行場訓練(フィールドアクロ)と、基地の東方に位置する天ツ上(あまつかみ)半島東岸沖の空域で行う、洋上アクロ訓練の二種類がある。
 洋上での訓練は目標となる参照物が少なく、飛行高度と対地感覚も把握しづらい。飛行場訓練のほうが高い訓練効果が得られるものの、訓練中は基地周辺の管制圏を四十分近くにわたってブロックすることや、騒音など周囲に及ぼす影響を考慮して、飛行場訓練は週に最大三回程度に制限されているのだ。
「燕は来ていないのか?」メンバーを見回した石神が渋面を浮かべた。「また、機嫌が悪いのか。まったく――困った奴だ」
 現在時刻は午前七時五十分。ファースト・フライトの離陸予定時刻は八時三十分だ。ブライトリング製のパイロットウオッチを覗き込んだ石神が、諦めたような顔で溜息を吐いた。
「……アイツが来るわけないか。搭乗開始!」
 外部点検を終えた小鳥たちは、それぞれの機体に乗り込んだ。赤い座席に身を沈め、ハーネスで全身を固定する。整備員と連携を取りながらエンジンを始動させ、プリタクシー・チェックと呼ばれる機体の点検を開始した。機器の設定OK。エルロン、フラップ、ラダーも異常なしだ。
 T4のコクピットには様々な装置が追加されている。HUDの左側には低高度警報システムの警告灯、右側にはスモーク作動灯とラダー・モード表示灯があり、その下にはスモークオイル計が追加されているのだ。計器盤中央にはスモークオイル・ポンプの作動スイッチ、そして左コンソールには低高度警報システムの設定パネルが配置されている。
 低高度を高速で飛行する機会が多いアクロ機は、バードストライクによるキャノピィの破壊を防ぐために、通常機のストレッチ・アクリル製から、アクリルとポリカーボネイトの四層構造に強化されている。また、衝突時のキャノピィの変形によるHUDガラスの飛散を防ぐため、HUDガラスは樹脂製のタイプに変更されているのだ。
 そしてブルー・フェアリーのT4の機体後方には、スモークを発生させるための発煙装置が装備されている。これはパイロットが操縦桿のトリガを右手人差し指で弾くことによって電動ポンプが作動し、右側エンジンの排気口のすぐ後方に配置された発煙油が噴射される仕組みになっている。
 高温のエンジン排気中に噴射された発煙油は、高熱により一瞬で気化するが、すぐに大気中で冷却されて凍結し、微細な油滴が白いスモークとなって現れるのだ。
「夕城君。そう緊張しなくてもいいからね。操縦は僕に任せて、君はT4のアクロがどんなものなのか感じ取るだけでいいよ」
 操縦席に身を沈めた鷺沼が振り返り、見る者を安心させてくれるような笑顔を浮かべた。
「りっ――了解です!」
 石神のコールを合図にキャノピィを閉める。タキシングの準備が整った。タクシー・ライトを点灯。エンジン・ランナップ開始。F3−IHI−30ターボファンエンジンが、独特の金属音で歌い出した。一番機から順番にテイク・オフ。上空で合流した五機はデルタ隊形を組み、天ツ上半島沖に針路を定めた。


 ブルー・フェアリーの展示飛行には、通常実施される曲技飛行をはじめ、編隊連携機動飛行と航過飛行の三種類がある。曲技飛行とは編隊およびソロでのループやロール、背面飛行といった機体の姿勢や速度・高度が大きく変化するダイナミックな課目で構成された展示飛行のことだ。展示飛行は当日の気象条件によって、第一区分から第四区分までの四種類に分類されたプログラムに沿って実施されるのである。
 空の上から見下ろす大海原の景色は、新鮮そのものだった。群青色の海面が陽光を弾き、宇宙で生まれる星のように煌めいている。しかし地上とは違い、海上では目標物を捉えにくく、現在位置を簡単にロストしやすいのだ。
『こちらアルバトロス。目的の空域に到着。これより第三区分訓練を開始する。リード・ソロ課目は省くぞ。オーヴァ』
 五番機が不在にも関わらず、練成訓練は円滑に進んでいった。
 鷺沼が担当するオポジング・ソロ課目も、一度も失敗することもなく華麗に決まった。
 次はいよいよ編隊課目だ。
 五番機という片翼を失った青い妖精たちは、美しく飛べるだろうか。
 高度500フィート。速度は350ノット。
 デルタ隊形で右方向から進入。
 エレベータ・アップ。
 外側にロールを打つ。
 鷺沼が編隊に集合する少し前に、今度は真由人とマリアがロールを打った。
 集合完了。
 デルタからスワン隊形へ。
 シンメトリックにロールを実施する二機の立体的なスモークの軌跡が、次々と重なり合っていく躍動的な課目が見所のダブル・ロールバックなのだが、五番機が欠けているため、中途半端になってしまった。これが本番なら、間違いなくブーイングが飛んでくるだろう。
 再び右に旋回。
 スワンからデルタへ。
 一斉にエルロン・ロール。
 フランス語で良いマナーという意味のボントン・ロールだが、これではあまりにも行儀が悪い。
 ボントン・ロールを終え、次の課目を実施しようと体勢を変えたその時、遥か上空からエンジン音が落ちてきた。小鳥が首を捻ってキャノピィ越しに見上げると、新たなT4が上空で旋回していた。小鳥の目が、青く塗られた垂直尾翼にマーキングされた、白い5のナンバーを捉えた。
「あれは……五番機? ということは、まさか――」
 小鳥の呟きは、当然上空を旋回しているT4に届くこともなく、冷たい空気の中に溶けて消えた。
 刹那、爆音が響き渡り、編隊のすぐ目の前を、五番機が垂直に下降していった。
 五番機は驚異的な速度で、真っ逆さまに地上を目指して墜ちていく。
 まるで、太陽に蝋の翼を焼かれたイカロスのようだ。
(このままじゃ、海面に激突しちゃう――!)
 小鳥の脳裏に、群青の海面に激突して沈没していく五番機のヴィジョンが浮かんだ。
 その刹那、無線越しに飛んできた声が、ヘルメットに覆われている小鳥の耳朶を打った。
『――お前に、本物のアクロバティックを見せてやる』
 引き起こしをしながら左旋回した機体は、右にハーフ・ロールを打ち、背面になった。
 背面姿勢で、大海原を右手方向に駆け抜ける。
 左ロールで復帰。
 エレベータ・アップ。
 右ロール。背面に。
 2分の1ループ。
 反対方向の右手から再び上空へ。
 三回連続の左ロール。
 右にターン。
 そのまま直進。
 速度は430ノットに跳ね上がっている。
 アップ。
 ピッチは90度だ。
 四回転と4分の1の右ロール。
 T4は9000フィート近くまで上昇していた。
 頂点に到達した時点の速度は、失速寸前の120ノットだった。
 その曲技飛行――インバーテッド&コンティニュアス・ロールとバーティカル・クライム・ロールは、思わず見惚れてしまうほど美しかったのだが、こっちのほうがお前よりも上手く飛べるんだぞと自慢しているように見えた。あの軌跡の描きかたは頭では分かっているが、それを実行するのは難しいだろう。自らの腕を誇示した五番機は編隊に加わることもなく、海面を滑るように訓練空域から離脱していった。
『まったく――久し振りに現れたと思ったら、好き放題しやがって。後で説教しないとな』溜息でコーティングされた石神の声が聞こえた。『気を取り直して、訓練を続けるぞ』
 第三区分の最終課目を終え、約四十分のファースト・フライトを終えた小鳥たちは、神志那基地に帰還した。キャノピィを開け、コクピットから主翼を伝って地面に降り、小鳥はヘルメットを引き剥がした。エプロンを見回してみたが、先に戻っていると思っていた五番機は見当たらない。すると再びT4のエンジン音が響き渡り、例の五番機が飛んで来た。
 上空を彷徨っていた五番機が、着陸態勢に入った。五番機はしんしんと舞い降りる粉雪のように、静かに且つ滑らかに着陸した。石神たちが着陸した時よりも、遥かに安定した動きだ。小鳥が覚えているかぎり、こんな完璧な着陸は見たことがない。二つの曲技飛行。T4の操縦技術。その全てが優れていると見せつけられているようだった。
 T4のキャノピィが開き、パイロットが姿を見せた。間違いない。昨日、圧倒的な技術を小鳥たちに見せつけたパイロットだ。やはり、彼が五番機のパイロットだったのか。足早に近づいた石神が、先刻の行動を諌めるべく口を開いた。
「訓練に参加する気になってくれたのは嬉しいが、連絡の一つでも寄越すのが普通だろう? お前は俺の部隊にいるんだ。勝手な真似は許さんぞ」
 石神に注意を受けたパイロットは、針と糸で唇を縫われたように黙っていたが、しばらくして頷いた。石神が安心したように笑みを零し、パイロットの肩を叩いた。
 小鳥の双眸と、バイザーの奥にある双眸が、ほんの一瞬だけ絡まったような気がした。
 しかし、それは気のせいだったようで、初めて対面した時と同じく燕流星は、小鳥の存在を気にも留めないまま立ち去った。


 小鳥が第11飛行隊に配属されてから、早くも一ヶ月が経った。スーパーマンのように現れた、五番機パイロットの燕流星はあれから姿を見せず、大事な練成訓練に参加することはなかった。燕流星という謎の人物は、なぜ練成訓練に参加しないのだろうか。
「小鳥ちゃん。難しい顔して……いったいどないしたん?」
 悶々と悩み続けている小鳥に話しかけた者がいた。整備クルーの彩芽である。物思いに耽っていたせいで、小鳥は自分がどこにいるのか忘れていた。声を掛けられてから、小鳥はようやくここがどこなのかを思い出した。ここはハンガー前のエプロン。この日のファースト・フライトを終えた小鳥は、隊舎に戻ることもせず、流星が姿を見せない理由を考え続けていたのだ。
「いえ、ちょっと考えごとを……」
「考えごと? もしかして――好きな人でもできたん?」
「えっ!?」小鳥の顔は、一瞬にして真っ赤に染まった。「ちっ……違います!」
「隠しても無駄やで。真っ赤な顔が動かぬ証拠やないか。で、誰なん? 石神隊長や鷺沼さんは年上すぎやし、圭麻は頼りないからなぁ。マリアさんやったら禁断の恋になるし。となると、やっぱり鷹瀬さんしかおらへんな。イケメンやし、優しいし、頼りになるし。小鳥ちゃんとお似合いやと思うで」
「違いますってば!」
 小鳥は全力で否定したが、彩芽の勘違いを正すことはできなかった。女の子という生物は、甘いお菓子よりも刺激的なスパイスが効いた恋愛話が大好物なのだ。
「ウチが当ててみせるわ。小鳥ちゃん、燕さんのことで悩んでるんやろ?」
 彩芽に悩みを的確に言い当てられた小鳥は驚いた。タロットカードや水晶玉もないのに、どうして彩芽は分かったのだろうか。もしかしたら彩芽は、宇宙の全てを知ることができるという、アカシックレコードと繋がっているのかもしれない。
「鷹瀬さんがな、小鳥ちゃんのこと凄く心配してたんやで。鷹瀬さんが心配する気持ちも分かるわ。燕さんってな、ブルーに来てからほとんど飛んでないんやって。それに聞いた話によると、なんか問題起こして、前におった部隊を辞めたらしいで」
「問題……ですか? 暴力沙汰でも起こしたとか?」
「ウチも詳しいことは知らんねん。鷹瀬さんは燕さんと友達やって言うてたから、鷹瀬さんに訊いてみたらええんとちゃう?」
 怒りにも似た視線を感じて目を動かすと、こちらを睨む鷲尾と目が合った。もちろん小鳥を威嚇しているのではない。鷲尾の鋭い視線に射抜かれた彩芽は、彼の怒りの稲妻が落ちる前に、そそくさとEPOの続きに戻った。もう少し彩芽から情報を訊き出したかったのに残念だ。
 人の気配を感じた小鳥は振り向いた。救命装備を身に付けたパイロットが、エプロンを目指して歩いて来るのが見えた。メンバーの誰かかもしれない。小鳥は背筋を伸ばし、パイロットの到着を待った。小鳥に気づいたパイロットは足を止め、そのまま動かなくなった。それは小鳥も同じだった。パイロットの顔を見た瞬間、小鳥も動けなくなっていたのだ。
 宇宙の藍色を纏う黒い髪に、涼やかな切れ長の双眸。そして、目を見張るほどの端正な顔立ち。忘れるはずがない。居酒屋「あおい」で小鳥を脅迫した青年だった。青年が脇に抱えるメタリックブルーのヘルメットには、ブルー・フェアリーのロゴと、逆さに描かれた5のナンバーが刻まれていた。
 難易度の高い背面飛行が多いリード・ソロを担当する五番機パイロットは、ヘルメットの数字を敢えて逆さに描き、その技量を誇っている。藍色のヘルメットは、青年が第11飛行隊の隊員である証拠だ。逆さになった5のナンバーのヘルメットを所持しているということは、該当する人物はたった一人しか思いつかなかった。
「あっ……貴方が――燕流星さんだったんですか?」
「……だったらなんだ。邪魔だ。どけ」
 突き飛ばすように小鳥を押し退けた燕流星は、五番機に近づくと周囲を回り、一人で外部点検を始めた。外部点検を終えた流星が、乗降用の梯子(ラダー)に長い足を引っ掛ける。流星の不審な行動に気づいた鷲尾が進み出た。
「まさか、今から飛び立つ気か? EPOはまだ済んでいないんじゃぞ?」
「構いません」
 整備員たちが戸惑うなか、流星はさらに梯子を一段上がった。同じメンバーとして見過ごすわけにはいかない。小鳥は急いで駆け寄り、彼の飛行服を掴んだ。その効果はあったようで、動きを止めた流星が振り返った。
「……何の真似だ?」
「EPOも済んでいないのに飛ぶなんて、いったい何を考えているんですか!? それに、離陸許可は出ていません! 勝手に飛ぶなんて、明らかに違反です!」
 梯子の上から小鳥を見下ろす流星の双眸は、真冬の冷気で凍てついた湖面のようだった。その目に姿形を映された小鳥は、背筋が凍りつくような感覚を覚えた。流星が梯子からコクピットにへと滑り込んだ。エレベータとラダー、そしてエルロンが動く。流星が動作確認をしているのだ。タクシー・ライトが点灯した。燃料とスモークオイルを給油していた整備員たちが、慌てて飛び降りる。
 次の瞬間、小鳥は機体に立て掛けられたままの梯子を駆け上がり、五番機の後席に飛び込んでいた。その一連の動作はとても素早く、鷲尾も彩芽も小鳥を捕まえることはできなかった。
 小鳥は自らの両脚の間から顔を出している操縦桿を掴んだ。T4は前席と後席に操縦桿が設置されていて、強制的に操縦系統を奪うことができるのだ。前席の流星が振り向いた。驚きと戸惑いと苛立ちの成分が滲んでいる。
「テメェ! 何やってやがる! さっさと降りろ!」
「嫌です! 絶対に飛ばせませんから!」 
 座席越しに二人は睨み合い、誰にも見えない赤い火花が飛び散った。息の詰まるような睨み合いが永遠に続くかと思われたが、舌打ちを奏でた流星が視線を逸らしたことにより、睨み合いは終了した。
 身体を固定しているハーネスを外した流星はコクピットから這い出すと、梯子を伝って地上に降りた。どうやら離陸を断念する気になったようだ。小鳥も後席から這い出し、梯子の手を借りて地面に降りる。地上で小鳥を待っていた流星の顔は、怒りを露わにしていた。
「――ふざけた真似しやがって」
 流星は明らかに苛立っていた。小鳥に暴力を振るおうとしないのが、不思議に思えるくらいだ。
「ふざけてるのは貴方じゃないですか! 早く飛びたい気持ちは分かります! けれど、セカンド・フライトの時間まで待つべきです!」
「セカンド・フライトまで待って、お前らと一緒に飛べって言いたいのか?」 
「そうです」
 やっと分かってくれたかと安心した小鳥は胸を撫で下ろした。しかし、小鳥が胸を撫で下ろしたのも束の間、次に放たれた流星の言葉は、彼女にとってあまりにも衝撃的であった。
「一緒に飛べだって? ……ふざけるんじゃねぇよ。お前らと仲良く手を繋いで飛ぶなんて、吐き気がするぜ」
「私たちは同じチームじゃないですか! どうしてそんなことを言うんですか!?」
 小鳥を冷たく一瞥した流星が脇をすり抜ける。小鳥は去りゆく流星の背中に向けて声を飛ばした。小鳥の発した声は流星の脚に絡みつき、彼の歩みを止めさせた。流星は立ち止まったものの、振り返ろうとはしなかった。
「……オレはな、独りで空を飛んで――独りで死にたいんだよ」
 流星は去り際に一度だけ肩越しに振り向くと、漆黒のブーツを鳴らして立ち去った。
 視線が交差した刹那、小鳥は流星の目の奥に現れた影を確かに見た。
 それはまるで、死神が纏う衣のように暗い色を帯びていた。
 結局、この日のセカンド・フライトとサード・フライトに、流星が参加することはなかった。


 セカンド・フライトとサード・フライトを終えた小鳥は、独りオペレーション・ルームに残り、目の前のテレビを凝視していた。テレビの画面に映し出されているのは、六番機のコクピットの映像だ。前方の景色と、ガラス板に映ったHUDの表示が重なっている。フライト中に操縦士である鷺沼が見る光景だ。テレビのスピーカーからは、無線交信の音声が流れている。隊形変換のタイミング。スモークのコール。高度。速度。旋回の傾き角度。機体に掛かるG。小鳥はそれらの全てをチェックしているのだ。
 Gとは重力を基準とした飛行荷重の単位で、旋回や宙返りで機体と身体に襲いかかる荷重の大きさを示している。戦闘機パイロットは、常にGと戦いを繰り広げている。
 空中戦では、重力の九倍ものGに耐えながら相手を追い詰め、相手を振りきるための急激な旋回や宙返りを行う。頭から爪先に向かって九倍ものGが掛かり、首、背骨、腰などを圧迫するのだ。
 脳から血液が下流するのを防ぐために、パイロットはGスーツという血圧計の帯のような気嚢を腰から足まで巻きつける。Gが掛かると空気が送り込まれて気嚢が膨張し、下半身を締めつけるのだ。Gの重圧と締めつけられた下半身の痛みに耐えながら、パイロットは大空を翔けているのである。
 時間が経つのも忘れ、小鳥は食い入るように映像を観続けていた。テレビに全神経を集中させていた小鳥は、ドアが開いたことに気づかなかった。
「あまり根を詰め過ぎると、身体を壊すよ」
 背後から響いた声が背中を叩き、小鳥の視線をテレビの画面から引き剥がした。映像を一時停止にして振り返ると、両手に飲み物を携えた真由人と鷺沼が立っていた。オペレーション・ルームに閉じ籠ったままの小鳥を心配して、わざわざ訪ねて来てくれたのだろうか。小鳥に飲み物を渡した真由人は彼女の隣に座り、鷺沼は壁に背中を預けてもたれかかった。
「君が見ているのは――」鷺沼が動き出した画面に目を向けた。「もしかして、僕の操縦風景かい? 勉強熱心だね。感心するよ」
 鷺沼に同意するように、真由人が頷いた。苦いコーヒーを飲んだにもかかわらず、真由人は優しい顔をしている。
「夕城の操縦技術も、だいぶ上達してきていると俺は思うよ。この調子でいけば、もうすぐ飛行場訓練に移れるはずだ」
 石神を補佐している鷺沼の話によると、週四回までに制限されている飛行場訓練は、小鳥の練成訓練を中心に計画されているらしい。小鳥が飛行場訓練を終え、曲技飛行操縦者としてORの資格を取得すれば、ブルーの活動する機会は更に増えるだろう。
 訓練は本人の技量以上に、気紛れな天候に左右されることが多く、思い通りに進まないこともある。どれだけ練成訓練を消化できるか、これからがまさに大切な時期といえるのだろう。小鳥が感じている不安要素は他にもあった。
「私……思うんです。燕さんが訓練に参加してくれないのは、私の飛行技術が低いからなんかじゃないかって。だから、少しでも、一日でも早く、上手くなりたいんです」
「それは……違うと思う」
 琥珀色の水面に視線を落としていた小鳥は顔を上げ、言葉を発した真由人に戸惑いの視線を送った。
「アイツが――流星が、頑なに誰かと飛ぶことを拒んでいるのは、理由があるんだ」
 真由人の言葉を聞いた小鳥は、彩芽が言っていたことを思い出した。
「燕さんは問題を起こして、前にいた部隊を辞めたと聞きました。それと関係があるんですか?」
 小鳥を捉えている真由人の双眸が、僅かに見開かれた。彼が驚いている証拠だ。
「それは――」真由人は言葉を濁した。濁った言葉が濾過されるのを待つ。数秒後、彼が口を開いた。
「すまないが、詳しいことは言えないんだ」
 焦げ茶色の液体で口の中を満たした真由人は黙りこんだ。ブルー・フェアリーは協調性を重きとする部隊だ。小鳥は他人の過去に土足で踏み込む無粋な真似をする気はなかった。仕事があるという真由人と鷺沼は、隣の飛行班の居室に戻って行った。大事な仕事を中断してまで、真由人と鷺沼は小鳥の様子を見に来てくれたのだ。
 小鳥は二人の背中に向けて一礼し、再びテレビの画面に向き直った。


 一週間の始まりの日である月曜日。小鳥は後席に鷺沼を乗せ、離陸の前に行うエンジンスタートが始まる瞬間を待っていた。左手に待機している車両は、機体に電気を供給する電源車だ。六番機の正面に、整備機付長と二名の整備員がやって来た。これからエンジンスタートの手信号が開始されるのだ。
 エンジンは右エンジン、左エンジンの順にスタートさせる。エンジンの回転数(RPM)が上昇していくのを、10〜50%まで指の本数で示し、60%になったらアイドル到達のサインを出し、電源車から繋いである外部電源(APU)を外すのである。
 次は操縦系統の点検だ。指を一本出したら「プリタクシー・チェック」の一番目という意味で、機体後部にある、二枚のスピードブレーキの開閉を行うのだ。二本指を出したら「プリタクシー・チェック」の二番目で、エルロンの左右のロール、水平尾翼のアップとダウン、左右のラダーの動作確認を行う。
 三本指はトリム・チェック。エルロンの右と左、ニュートラル、水平尾翼のアップとダウンとニュートラル、ラダーの右と左とニュートラルの順になる。
 四本指は、ラダーに組み込まれているヨー・ダンバーの点検だ。整備員が機体を揺らし、正しく機能していることを確認したら完了だ。五本指は、高揚力装置(フラップ)のチェック。フラップをテイク・オフ位置にセットし、整備員がチェックする。
 パイロットがタクシー・ライトを点灯させたら「チョーク・アウト」に入る。主脚車輪の車輪止め(チョーク)を外し、お互いに敬礼を交わしてタクシー・アウトするのである。
「ブルー・フェアリー、エンジンスタート」
 小鳥は些か緊張しながら声を放ち、インターコムで繋がった整備機付長に合図を送った。彼らはインターコムの通話と手信号を織り交ぜながら、手順通りに点検項目を確認していくのだ。
 小鳥は白い手袋を嵌めた指を一本ずつ立て、右エンジンの出力が正常に上がっていくことを確認していった。油圧が上昇。百年の眠りに就いていた計器が目覚めていく。アイドルの回転数に到達し、右エンジンの始動は完了した。まったく同じ手順で、左エンジンも始動した。
 次は操舵翼の確認だ。小鳥は両脚の間から出ている操縦桿を掴み、前後左右に動かす。コンピュータと警報装置の確認も完了。フラップ・ダウン。発進準備が整った。着陸灯が点き、キャノピィが閉ざされた。主脚車輪のチョークを解放した整備員が、機体を送り出す位置に立った。
 小鳥はスロットルを少しだけ開き、踏んだブレーキを緩め、白と青の機体を前方に動かす。誘導路を通過して滑走路に着いた。管制塔から風向きと離陸許可が伝えられる。小鳥は離陸許可を復唱し、最後のエンジンチェックを開始した。
「ブルー・フェアリー、エンジンランナップ」
 小鳥はブレーキを強く踏み込み、機体を地面に固定した。左のエンジンの回転率を順番に上げ、正常に動作していることを確認してアイドルに戻す。次に操縦桿のトリガーを握る。戦闘機では機関砲の発射トリガーとなっている部分だ。ジェット噴流に押し出されたスモークが、機体後部から上昇していった。加点率を上げていた右エンジンをアイドルに戻し、エンジンランナップは終了した。
『完璧なエンジンスタートだよ』鷺沼が小鳥を褒めた。『ロールオン・テイクオフで離陸して、天ツ上半島沖へ行こう』
「了解です」
 リリース・ブレーキ。六番機が滑走路を走り始めた。小鳥は170ノットで機首を引き起こし、30度のピッチで360度の右ロールを打つ。低速ならではの太いスモークが、空に七色の虹のようなアーチを描いた。初めてにしては上出来だと鷺沼が伝えてきた。
 小鳥が操る六番機は、天ツ上半島沖の訓練空域に到着した。たった一機で飛んでいるせいか、紺碧の大海原は見ている以上に広大に感じてしまう。海は宇宙の深淵のような深い青色に染まっていた。海面で踊る波が、何かの暗号に見える。誰かが宇宙に信号を送るつもりで、波を起こしているのかもしれない。
『まずは、基本的な機動を実施して、その次に第一区分の課目を実施しよう』
「了解です。エルロン・ロール、実施します。ナウ」
 基本的な機動は四種類ある。一つ目はエルロン・ロールだ。操縦桿を左右のどちらかに倒し、補助翼(エルロン)を使用することで、機体の前後の軸を中心に機体を横転させる機動である。ロールを打ち、背面状態の飛行に移ることを、ハーフ・ロールという。
 二つ目は、水平に円運動を行う機動――旋回(ターン)だ。操縦桿を旋回したい方向に倒して機体を傾け、更に手前に引くことで旋回を始めることができる。ちなみに「○○度ターン」の数字は、旋回開始時と終了時の機首方位の変化量を示しているのだ。
 三つ目は宙返り(ループ)だ。操縦桿を手前に引くことによって上昇から背面姿勢になり、降下して水平姿勢になる。綺麗な円を描くには、機動中の速度とGの調整が必要不可欠だ。
 四つ目の機動はバレル・ロール。樽の内側に沿うように、螺旋状の経路をとりながら飛行する機動だ。正面から見ると円を描くような形になり、ロール開始時と終了時の針路は同じになる。
 バレル・ロールを終えた小鳥は、鷺沼の指示どおり、第一区分の曲技課目を開始した。両脚の間から生えている操縦桿を握る手に、自然と力が入る。
 単機課目。二機課目。編隊課目。石神たちの幻影と共に、小鳥が操るT4は、白い軌跡を大空に描いていく。そして、五番機のいないコーク・スクリューを終えた小鳥は、神志那基地に帰還した。誘導路からエプロンに向かい、エンジンカットする。コクピットから降りた小鳥は、外したヘルメットを脇に抱え、同じく後席から降り立った鷺沼と向かい合った。
「見事な操縦だったよ。これが最終検定のフライトだったら、文句なしの合格だ。でも――君には、迷いと不安ががあるように僕は見える」
「私に……迷いと不安、ですか――?」
「確かに、夕城君の操縦はよくできていたけれど、心ここに在らずという感じだったからね。君が描く軌跡には、僅かにだけれど、迷いと不安が出ていたよ」
 鷺沼の指摘に、小鳥は驚きに己が目を見張った。彼の見解が正しく、間違っていなかったからだ。確かに鷺沼の言うとおり、小鳥は迷いと不安を抱えながら、六番機の操縦桿を操っていた。平常心を保ちながら飛んだつもりだったのだが、自分でも気づかぬうちに、胸に抱える迷いと不安が表に出ていたというわけか。
「夕城君が、燕君のことで思い悩んでいるのは僕も知っているよ。でも、今は訓練に集中すべきだと僕は思う。あれは彼の問題だ。君は自分がやるべきことをやりなさい」
 優しくも、厳しい言葉が小鳥の耳を打つ。
 ただひたすら練成訓練をこなし、最終検定フライトを得て、オペレーション・レディネス――ORパイロットの座を掴むこと。それが、小鳥が成すべきことであり、神から与えられた使命だ。
 己が成すべきことは分かっている。
 与えられた使命も分かっている。
 でも、頭から離れないのだ。
 燕流星の声が、姿が、一挙一動が、あの暗い目が、
 小鳥の瞼の裏に強く焼き付き、消えてくれないのだ。


 先月までの晴天とは打って変わり、空は灰色の雲の絨毯で覆われていた。気象班によると、今日は雲に覆われる時間帯が長く続くらしく、シーリングも一万フィートに届かないらしい。石神が安全を考慮した結果、この日の区分訓練は諦め、航過飛行訓練を実施することになったのだ。
 この訓練に参加するのは、小鳥と圭麻、そして――燕流星だけで、石神とマリアと真由人はいない。訓練直前に一番機から三番機に不具合が生じ、サイレンサーという小屋に格納して、エンジンチェックをしなければならなくなったのだ。
 ようやく単機飛行を終え、複数機での訓練に進むことができたというのに、よりによって流星と組むことになるとは。これ以上に恐ろしいことがあるとするならば、人類が滅亡することぐらいだろう。おまけに鷺沼も、外せない用事で数日の間不在なのだ。
 さしずめ小鳥は、血に飢えたライオンの檻の中に放り込まれた、いたいけなウサギといったところか。しかし文句は言っていられない。小鳥たちもそれぞれの機体に搭乗し、高度300フィートの上空に舞い上がった。
 上空は排気ガスのような雲の群れに占領されていた。二機を率いるのは五番機だ。つまり、この編隊のリーダーは流星ということになる。権力を手中に収めた独裁者のように、好き放題できるというわけだ。
『両機、聞こえるか?』
 無線が作動して、インカムから不機嫌な流星の声が流れた。
『まずはアブレストでローパスだ。その次は、デルタに移行して、80度の水平旋回を行う。最後はトレール隊形に移行してローパスを行う。分かったか?』
『ワンダーフォーゲル、了解です』
「ハッ――ハミングバード、了解です!」
 小鳥を乗せた六番機の隣に、先頭から後方に移動してきた五番機が並んだ。小鳥が右に首を動かせば、そこには流星がいるのだ。
 横一列のアブレスト隊形を組んだ三機は高度を落とし、神志那基地上空を低高度で駆け抜けた。
 エレベータを引いて上昇。
 五番機が隊形を離れ、先頭を占位する。
『四番機はオレの斜め右後方、六番機は斜め左後方に付け。水平旋回80度!』
『了解』
「了解です!」
 指揮官であるリーダーの指示には従わないといけない。小鳥は即座に返答した。ここで獅子奮迅の活躍を見せれば、流星は小鳥を認めてくれるかもしれない。自然と気合が入る。
 五番機の主翼が左にバンクする。
 水平旋回に入る合図。
 機体の傾きは20度だ。
 流星の動きに従って、小鳥は左のペダルを踏み込んだ。
 操縦桿を左へ。エルロンが動く。
 バンク。
 機体は左へ。
 水平線は右に遠ざかっていく。
 六番機が左旋回を始めると同時に、四番機も左旋回に入った。
 重要なのはただ一つ。空中で四番機とすれ違うことだ。
 デルタを描いた三機の編隊が、左右どちらかの方向に旋回する。この時、中央のリーダーは基点となっているためその位置は変わらないが、外側の機体は緩やかな旋回になると同時に航続距離が長くなり、反対に内側はその逆となる。
 その結果、80度の旋回をこなして水平直線飛行に戻った際に外側は遅れてしまい、内側はリーダーに並んでしまうくらい先行してしまう。これを防ぐために、旋回時には外と内の機体が空中で入れ替わる。かいつまんで言うと、五番機の左後方にいる六番機は、旋回が終わると同時に四番機と位置が入れ替わり、五番機の右後方に移動するというわけだ。
 これで三機全てが、同じ角度と同じ飛行距離の旋回を成功させ、旋回が終了した時には誰もが拍手喝采を送りたくなるような、それは見事な美しい三機編隊が保たれているはずだったのだが――。
「えっ!? 危ない!」
 信じられない光景を目にした小鳥は、慌てて操縦桿を左へ倒した。危うく四番機と接触しそうになったからだ。刹那、圭麻も右に回避行動を取る。両者の衝突の危機は回避されたが、代償として美しく保たれていた編隊が、見事に空中分解した。この光景を神様が眺めていたら、間違いなく溜息をついていただろう。
 六番機の高度はみるみる下がっていく。
 まるで、神聖な青空から追放されるようだ。
 エレベータ・アップ。
 小鳥は急いで上昇して、五番機と編隊を組み直そうと試みた。
 しかし五番機は純白の翼を大きく振ると、小鳥を避けるように降下していった。
 五番機に続くように小鳥も着陸態勢に入る。コクピットから滑走路に滑り降りた小鳥を待っていたのは、バイザーを開放した先にある、流星の冷たい視線だった。
「あんな簡単な水平旋回もまともにできないなんて、信じられねぇな。お前、航空学校で何を勉強してきたんだよ。プラモデルの飛行機の遊びかたか? ガキのお遊戯やってんじゃねぇんだぞ」
「……ごめんなさい」
 なぜ、小鳥は旋回に遅れてしまったのか。五番機が左旋回を始めると同時に、方向舵と操縦桿を操作したはずだ。自分の手足が操縦桿とラダーを左に操作したのは覚えている。遅れはなかった。いや、あるはずがない。
「なぜ遅れたのか、なぜ衝突しそうになったのか。そんな簡単なことが分からない奴と、飛行訓練はできない。今日の訓練は止めだ。頭を冷やして、脳味噌が干からびるまで考えな」
 氷河のように凍りついた声で言い放つと、踵を返した流星は歩み去った。整備員たちが遠巻きに眺めているなか、呆然自失の小鳥だけが広大な滑走路に取り残された。苦悶する小鳥の肩を細い手が叩く。小鳥が振り向くと、そこには地上に降り立った圭麻が立っていた。


「――どうぞ」
「……ありがとうございます」
 圭麻が淹れた、郷愁を誘うレモンティーのレトロな香りが小鳥を包みこむ。訓練を終えた小鳥は、官舎二階にある談話スペースにいた。まずは一口だけレモンティーを飲んだ。甘味と酸味のシーソーゲーム。レモンティーを全て飲み終える頃には、小鳥の気分は落ち着いていた。
「少し、落ち着きましたか?」
「――はい。あの……危ない目に遭わせてしまって、申し訳ありませんでした」
「謝らないでください。僕は危ない目に遭った覚えはありませんから」
「えっ? だって、今にも衝突しそうだったじゃないですか!」
「僕は衝突するはずはないと確信していました。実を言うと、訓練が始まった時から、夕城さんの動きを見ていたんです。だから、あんなふうに近づいてくるのは分かっていました」
「そうなんですか――?」
 階段の踊り場に、お洒落な紙袋を提げた整備クルーの彩芽が現れた。
「彩芽じゃないか。どうしたんだよ」
「小鳥ちゃんを励ましにきたんや。アンタやったら逆効果とちゃうんか? 小鳥ちゃん、甘いお菓子持ってきたで。これ食べて元気出しや」
 彩芽は携えていた紙袋をテーブルの上に置き、中身を取り出した。彩芽が持参してきたお菓子は、可愛らしい形をしたマカロンだった。レモンティーとの相性は抜群だ。小鳥はマカロンを一口齧り、旋回に遅れてしまった理由を必死に考えた。
「あの時は……操縦桿を倒してラダーペダルを踏んで、そう、燕さんに遅れないようにしたんです。遅れない……ように?」
 小鳥の頭脳に直感の花が咲いた。
「スロットルを上げるのを忘れていたんだわ!」小鳥を見守っていた圭麻が笑った。正解だという証拠だ。
 航空機が旋回する時は、空気の抵抗が大きくなる影響で、必ずと言っていいほど速度が落ちてしまう。速度にもよるが、旋回時にはスロットルを上げてエンジンの回転速度を上昇させ、機体の速度が落ちないように注意しないといけない。
 空気抵抗が増して速度が落ちると、必然的に高度も下がってしまう。それを防ぐために、水平旋回では旋回時に速度を上昇させないといけないのだ。そうか。あの時小鳥は、10パーセントほどスロットルを上げればよかったのだ。
「航空学校で、嫌になるほど叩き込まれたんですけど――」
 両膝を抱えた小鳥は、膝の上に顎を乗せて溜息を吐いた。
「誰でも初めは緊張して、覚えていたことを忘れてしまうものです。慣れてくれば、身体が自然に動くようになりますよ。そんなに落ち込まないでください」
「やっぱり、T4はT7と違って凄く敏感に動くんですね。久し振りに乗ったから驚きました」
 T7とは、1970年代から三十年近く、航空自衛隊の初等訓練機として活躍した、富士T3の後継機である。外観はT3と似ており、部品も共通化されているが、エンジンをターボプロップからレシプロに換装した結果、空力の見直しによって運動性能が格段に向上したのだ。
「そうですね。T7のような練習機は、訓練中の学生が乗る機体ですから、安定性を重視して設計されているんですよ。直線に飛行する旅客機には向いてるんですけど、戦闘機には向いていないんです。安定しているということは、旋回や急降下の激しい機動は難しいということになります」
「そうそう。安定を犠牲にして、曲がったりするんや」
「だからといって、安定性が低すぎると、直線に飛ぶことは難しくなります。真っ直ぐに安定した動きで飛べて、安定を崩してバンクや上昇が可能な機体が一番いい航空機なんですよ。あれこれ性能を実現するのは難しいですけど」
「ジェット機は、レシプロ機とは異なるスペックを持ってるからな。ましてや旅客機とは大違いや。操縦桿を倒せばすぐにバンクするし、横滑りの体勢に入ってまう。スロットルの開閉にも敏感なんや。おまけに風の影響も受けやすいし、下手をすれば直線飛行も難しいんやで」
 圭麻と彩芽のガイダンスを聞き終えた小鳥は、深海に棲む鮟鱇のように口を開けていた。その解説はとても分かりやすく、まるでテンポのいい夫婦漫才を聞いているようだった。小鳥は二人の知識の深さに圧倒されていたのだ。小鳥の様子を心配した彩芽が覗き込んできた。
「いきなり変な顔になって……どないしたん?」
「いえ、その、お二人の博識ぶりに驚いちゃって――。朱鷺野さんも鶴丸さんも、航空機のことを詳しく知っているんですね。凄いです」
 自分がブルー・フェアリーにいるのは何かの間違い――神様の悪戯ではないのか。そう思い始めた小鳥は肩を落とすと、質量の重い溜息をついた。小鳥の目の前に桃色のマカロンが突き出され、その陰から彩芽が顔を出した。
「いつまでもクヨクヨしてたらあかんよ。午後は暇なんやろ? ええところに連れていったる。一発で元気になるで」


 その日の午後、小鳥は圭麻と彩芽に連れられて電車に乗り、神志那基地からとある場所へと向かっていた。車内は家族連れやカップルが多かった。もちろん、彼らは小鳥たちが航空自衛隊員だとは露とも知らない。きっと、仲の良い友達同士だと思われているのだろう。
 ホームに滑り込んだ電車を降りて改札を抜け、春の日差しと風を感じながら市街を歩いた。旅のツアーガイドは、フェミニンな白いブラウスとキュロットを着た彩芽だ。その後に小鳥と圭麻が続く。しばらく歩いていくと、緩やかな坂の上に建設された近代的な建物が見えてきた。
 坂を上って行くと、逞しい体躯をした銀色のプレートが小鳥たちを出迎えた。その表面には、「神志那航空博物館」という文字が刻まれている。受付で入場チケットを購入して、小鳥たちは博物館に足を踏み入れた。圧巻ともいえる光景が小鳥を待っていた。
 陽光で彩られたフロアに佇んでいたのは、F104スターファイターとFw190フォッケウルフ、スーパーマリン・スピットファイアや零戦などの、各国が誇った名だたる戦闘機であった。その中には、かつてブルー・フェアリーで使用されていた機体である三菱T2と、ノースアメリカンF86セイバーの姿もあった。
 もちろんそれらはレプリカだったが、本物にも劣らない高貴な輝きを放っている。まさにここはミリタリーマニア垂涎の場所――いや、聖域と言えるだろう。彩芽が言ったとおり、憂鬱という海の底に沈んでいた小鳥の心は、すぐに浮かび上がった。
 小鳥たちはフロアを一周しながら戦闘機の雄姿を満喫し、資料や映像で飛行士と戦闘機の歴史を学べる二階に向かった。少しだけ照明を絞ったフロアには、空で生きることを選び、空に生涯を捧げた飛行士たちの資料が、所狭しと並べられていた。
「凄いやろ? ウチも圭麻も何回も来てるんやけど、いつ来ても飽きひんし楽しいねん」
「ここは――僕と彩芽の原点ともいえる場所なんですよ。僕たちはこの場所で飛行機と出合い、その素晴らしさを知ったんです」


 圭麻と彩芽は家が隣同士の幼馴染みで、幼い頃から互いに家族ぐるみの付き合いをしていた。圭麻も彩芽も、最初は航空機という乗り物には一片の興味も抱いておらず、空を飛ぶただの巨大な金属の塊としか思っていなかった。しかし、観光目的で神志那航空博物館を訪れたその瞬間、二人は一瞬で飛行機の虜になってしまったのであった。
 それから二人は、連日のように博物館に通うようになった。飛行機を眺めては資料を読み漁って造詣を深め、時には大人顔負けの難解な質問をして、学芸員を困らせたりもした。いつしか圭麻と彩芽は、航空機の整備士になりたいと願うようになっていた。
 成長した圭麻と彩芽は、航空自衛隊という道を選んだ。エンジニアとして民間の航空会社に就職する道もあったが、様々な機種の航空機を間近で感じ、触れ合いたかった。だから、この道を歩む決意をしたのである。両親の了承を得た二人は、身体と精神を鍛えて知性を磨き、航空学校を卒業したのち、航空自衛隊に入隊することができたのだった。
「航空学校に願書出す前にな、圭麻が馬鹿なこと言い出したんや」
「馬鹿なこと?」
「パイロットになりたい。いきなりそう言ったんや。アホちゃうかって思ったで。だって、ちっちゃい頃から整備士になりたいって言ってたんやで? わけ分からんかったわ」
 彩芽が視線を動かし、圭麻を一睨みした。しかし圭麻は、蛇に睨まれた蛙にはならなかった。
「僕がパイロットになりたいって思ったのは、ブルーの展示飛行を見たからなんです。そして僕は思ったんです。あのT4に乗って、大空と一つになって飛んでみたいと。そのきっかけとなったのが、夕城さんのお父さん――荒鷹さんなんですよ。彼が駆る六番機の軌跡が一番綺麗で、あんなふうに飛びたいと思った。だから、僕はブルーの一員になるために、パイロットになろうと決意したんです」
 圭麻は小鳥に向き直ると、どことなく照れたように笑った。まさか荒鷹に憧れ、幼い頃から夢であった整備士の道を蹴ってまでパイロットの道を選んだとは。圭麻の告白を聞いた小鳥は驚いた。
「やっぱり――父さんは凄い人だったんですね」
 他人に夢を与えることなんて、そう簡単にできることではない。生前ブルー・フェアリーの六番機パイロットを務めていた荒鷹は、厳しくも優しいチームの大黒柱だったと聞いた。また操縦技術も優れていて、ブルーの展示飛行をさらに美しくしていたという。
 そんな偉大な父親の遺伝子を受け継いでいるはずなのに、どうしてこんなにも――天と地ほどの差があるのだろうか。小鳥は我が身の不甲斐なさを思い知らされたような気がした。
「僕は、夕城さんも凄いと思っていますよ」
「私が……ですか?」
「ウチもそう思うわ。小鳥ちゃんは、T4の扱いが上手いからな。天性みたいなもんやと思うで」
「天性って――天才ってことですか? そんなわけないですよ! 誤解です!」
「いろんな機器や装置が付いていても、航空機というものは操縦桿とフットペダル、スロットルレバーを操りながら飛ぶ物なんです。夕城さんは頭で考えるよりも先に、身体で感じて飛んでいるように僕は思うんですよ。僕は、いろいろなことを考えながら飛んでいます。まずは頭で考えて操作してしまうんです。けど、夕城さんはそれが本能で分かるんですね。僕には真似できない。見ていて羨ましいくらいですよ」
 小鳥を見る圭麻の眼差しは、太陽を見上げる向日葵のように、憧れと尊敬の念に満ちていた。
 飛行機の操り方を頭で理解するよりも、身体全体で感じて会得し、機体の性能を限界まで引き出す。
 それが自身も知らなかった、小鳥の秘められた才能なのかもしれない。
 荒鷹の遺伝子を、少しだけ受け継いだ証だと思ってもいいのだろうか。
 展示品のノースアメリカンF86セイバーが、一瞬だけ煌めいた。
 空の神様が、頑張れと微笑んでくれたのだ。


 翌日の午前十時五十五分。神志那基地を離陸した小鳥たちは上空でジョインナップし、飛行場訓練を実施していた。編隊の中に五番機は入っていない。今日の神様は機嫌が良いようで、抜けるような青空には少量の雲しか浮かんでいなかった。きっと、箒を持った天使たちが、意地悪な雲を追い払ってくれたんだろう。
『こちらアルバトロス。視程8km以上。雲底高度(シーリング)1万フィート。第一区分課目を実施する。ブラックホーク、スワン、ワンダーフォーゲルはフィンガー・チップに移行だ。オーヴァ』
 展示飛行の最初を飾るダイヤモンド・テイクオフ&ダーティ・ターンを、石神たちは鮮やかに決めた。 小鳥もロールオン・テイクオフで彼らの航跡を追いかける。
 ブルー・フェアリーの演技は、基本的に四機の編隊と二機のソロによって組み立てられており、編隊からソロ、再び編隊からソロの順に演技を行うようになっている。演技の後半には六機全機が参加する課目も用意されているのだ。
 練成訓練は終盤に突入した。ここまでハネムーンのように順調だ。目立ったトラブルも起きていない。小鳥たちはデルタ隊形に移行して機首を上げ、バレル・ロールに入った。六機全てが揃って参加する最初の課目、デルタ・ロールである。
 コクピットの中で小鳥は苦戦を強いられていた。密集した隊形を維持するには、操縦桿を強く握らなければならず、彼女の握力はすでに限界を超えていたからだ。基本操縦課程では、赤子を抱くように柔らかく持つように心掛けていた。アクロとはこんなにも力がいるものなのか。操縦に対する概念が一気に変わったような気がする。
 ループの頂点で背面姿勢になり、ロールを継続して500フィートでレベルオフして課目を終了しようとしたその時、小鳥の全身を刺すような視線が貫いた。まるで殺意ともとれるそれは、尋常じゃない程の威圧感で小鳥を押し潰そうとしていた。
 いったい、黒い視線はどこからきているのか。小鳥は視線を前後左右に動かした。すると、編隊を追いかけるように飛んでいる飛行機を見つけた。青と白に塗り分けられた機体。あれは五番機だ。
 増速した五番機が、小鳥の真後ろに占位した。その動きはまるで、獲物を捉えた猛禽類のようであった。威圧感がさらに増し、小鳥の背筋を恐怖が駆け抜ける。
 流星はブルーのメンバーじゃない。小鳥を撃墜しようとしている敵機だ。
 五番機はさらに速度を上げ、小鳥の真後ろから真横に位置を移動した。操縦席に座っている流星が、真っ直ぐに小鳥を見つめている。目が合った瞬間、小鳥は確信した。流星が小鳥を威嚇しているのだ。六番機と並走していた五番機は、加速をしたのち飛び去った。
 その刹那、機体全体が巨大地震に襲われたかのように激しく振動した。頑丈なハーネスで全身を固定しているというのに、今にも異次元の彼方まで吹き飛ばされそうだ。身体を打ちつけながらも小鳥は必死に操縦桿を操り、体勢を立て直そうと努力した。その甲斐あって、機体は何とか安定した。
『ハミングバード! どうしたんだ!?』
「分かりません! いきなり揺れて――」
『訓練は中止だ! 基地に帰還するぞ!』
 再びデルタ隊形を組んだ小鳥たちは飛行場訓練を中止して、爆音を響かせながら神志那基地の滑走路に着陸した。小鳥はコクピットから這い出し、生きて帰れたことを神に感謝した。
「夕城! 大丈夫か!?」駆け寄って来た石神が、安堵の顔で小鳥を見下ろした。
「はい。身体を打ちつけただけです。あの……隊形を崩してしまって、すみませんでした」
「お前のせいじゃない。原因は……あいつだ」
 石神の視線の先には、五番機から降り立った直後の流星がいた。バイザーを上げ、ヘルメットを脱いだ流星が、その視線を受けとめる。石神は流星の正面に立つと、怒りを抑えているような顔で彼を見やった。
「……夕城にジェット後流を浴びせるなんて、いったいどういうつもりだ?」
 あの激しい振動の原因が分かった。小鳥はジェット後流に捕まってしまったのだ。五番機の機体線上に入ってしまい、機体が噴出するエンジンの流れに飲まれてしまったのである。機体が一時的にアン・コントロールに陥ったのも納得がいく。流星は無言だ。腕組みをした石神の表情が、更に重くなった。
「俺から見るにお前の取った行動は、明らかに夕城を墜とそうとしたように思えたぞ」
「そのとおりですよ。オレは彼女を仲間だとは思っていません。仲間じゃないなら敵だ。敵は撃墜しないといけない。オレがイーグルに乗っていたなら、躊躇わずにあの女を撃ち墜としていたでしょうね」
 次の瞬間、石神の右手は拳となり、流星の顔を殴っていた。よろめいた流星は、両足を踏ん張ったお陰で倒れずに済んだが、唇から血を流していた。走って来たマリアと真由人が間に割って入り、石神と流星を引き離すことに成功した。
「撃墜だって!? ふざけたことぬかすんじゃねぇよ! ここは第11飛行隊だ! お前がいた第305飛行隊じゃないんだよ! お前はイーグル・ドライバーじゃない! ブルー・ライダーなんだぞ!」
 怒り狂う獅子の如く石神が吼えた。彼の手を振りほどいた流星は乱れた襟を整えると、何事もなかったかのように、自分を睨み続ける石神に背中を向けて歩き出した。
 流星と小鳥がすれ違う。言葉はなかったが、小鳥が見上げた流星の双眸は、あの時と同じく極北に浮かぶ氷河のように冷たい色をしていた。